1-08『地下の戦い』
短いバイク移動を終え、僕たちは地下に潜った。
もちろん、普通に地下鉄の駅から下りていったわけではない。どうもこの街には地下道への隠し通路が設置されているらしく――僕らはそれを通って、電車の通らない秘密の道に向かったわけだ。
どこから電力が供給されているのか、仄かな灯りが道なりに並んでいた。下は線路になっている。
……勘弁してください。
こんなものが、街の地下に本当にあるとは僕も思っていなかった。しかもそのまま敵に利用されている辺り、いろいろと杜撰すぎる気がする。
いや、それは違うか。
考え込んでいたところで、
「確認している敵は三人だったな。
「津凪と同じく《王国》で育ったか、元からアンダーグラウンドの呪術師だったのか……あるいは単に偽名って可能性がいちばん高そうですか」
僕は頷いて答えた。まあ、もうひとつ、僕が単に覚え間違ったという可能性がないとも言い切れないが、これでも一応は呪術師だ。名乗られた名前を忘れたりする奴が、プロの呪術師は名乗れまい。
「それで、連中がこの先にいるんですね?」
「ああ」
軽く頷く出水さん。こんな状況でも彼女は自然体だ。
「まあ、この通路は結社の呪術師用に最適化された結界が張られている。それを破らない限り向こうは出られないからな――そもそも、この場所を知っていること自体がきな臭いが。ここは本来、結社でも上の立場の人間にしか知らされていないところだ。お前たちも口外はするなよ」
「するわけないじゃないですか……」
というかできるわけがない。結社を敵に回そうという気はないのだ。
いや、無断で津凪を追っている――言い換えれば《王国》の情報を隠蔽している――時点で今さらだが。
「……いいんですか、出水さんこそ。こんなことを僕たちに教えてしまって」
というか、津凪を助けようという僕に協力してしまって。
これが露見すれば、結社の側である出水さんの立場が危うくなる。そうでなくとも大問題だ。
――逆坂津凪は結社の呪術兵器なのだから。
道具だと。彼女を指して、
要するに津凪は一種の
歴史を強引に加速させる所業と言い換えてもいい。
あらゆる時間の流れを無視して、逆坂津凪は世界に存在していなかった新しい文化をあとづけで創り出す。本来なら存在していなかった
それはたとえるなら、石器で争い合う人間たちの戦場に、重火器をもたらすようなもの。世界観そのものを増築する行為。
いくら人道を謳う結社だろうと、見過ごせる案件ではないだろう。その性能が露見した時点で、津凪は必ず最優先の破壊対象に指定される。
逆坂津凪が、人間だと認められることはない。
「私のことはいい。少なくとも、お前が気にすることじゃないな、永代」
僕の問いに、やはり出水さんはニヒルな笑みでもって答えた。
もちろん僕は、それを単なる彼女の格好つけだとは思っていない。彼女は善人だが、決してそれだけではないのだから。僕とは違って。
それ相応の対処くらい、初めから計算に入れてあるという意味だろう。
ならば確かに、少なくとも僕が気にすることではない。
「それより、お前はいいのか? お前はそれでもまだ、逆坂津凪を救うつもりなのか」
むしろ僕のほうが出水さんに問われてしまう。
津凪の正体を解明したのは出水さんだ。その事実は本人でさえ、知らなかったのではないかと僕は思う。
その重大な事実を、出水さんはいちばん初めに僕へと伝えてくれた。ほかの誰にも知らせる前に。
「わかっているはずだ。救うという言葉の意味が、決してその場凌ぎであってはならないことくらい。いや、お前はそのつもりなのかもしれない――少なくとも、彼女の全てに責任を取る覚悟はあるんだろう? それを可能とするだけの能力が、ああ、確かにお前にはあるのかもな?」
「……、……」
「でもね、永代。これだけは覚えておくといい。それだけなら――そこまでならまだ、お前が背負う責任なんてないんだよ。お前が諦めるというのなら、私が結社の一員として、責任を持って逆坂津凪を破壊する。そのことに、お前が塞ぐべき
僕はちらり、と横目に真代を見る。かつての僕が選んだ選択――その結果である少女を。
ある意味で真代は、津凪とよく似た立場にあった。
真代が、まだ鴻上真代ではなかった頃。ありふれた悲劇の犠牲となって死の淵にいた彼女を《鴻上真代》に変えたのが僕だ。《求められたら応えなければならない》――ただ、そんな強迫観念だけを理由にして。
その責任を捨て去ることなど、僕は死んだって許されない。それはどこまで行っても僕の事情でしかないからだ。
僕の視線を受けても、真代は何も言わなかった。ただ僕の瞳をまっすぐに見つめ返すだけ。
彼女には、きっと僕を罵倒する権利がある。にもかかわらず何も言わない。
終わるはずだった真代の運命を、強引に延長したのは僕だ。ならばその責任を取って、僕はあらゆる全てを真代のためにこそ費やさなければならない。それは、僕が選択したことだ。
――ならば、僕が選ばなければ。
僕が津凪を見捨てる選択をすれば、そこで全ては解決する。僕が取るべき責任なんてない。
出水さんが言っているのは、つまりそういうことだ。
負わなくてもいい責任を負うなと――あるいは、すでに負っているはずの責任を見過ごすなと。出水さんは僕に教えている。それもまた、彼女がやるべきことではないはずなのに。
もっとも。
そんな温情に対してさえ、僕は決まりきった答えを返すほかなかった。
「……いいえ、出水さん。これは、僕がやるべきことです」
僕は言い切った。そこに一切の迷いはない。
「ほかの誰にだって譲る気はない。僕は津凪を助けるし、津凪を助けるのは僕です。それ以外なんて認めて堪るか」
「……お前がいいならそれでいいさ。私から言うことはひとつもない」
出水さんはあっさりそう頷く。結局のところ、答えなんて決まりきっていた。
「すみませんね、出水さん。いつも迷惑ばかりかけて」
「気にするな。私だって、お前に助けられているさ。ああ……お前みたいな馬鹿野郎がひとりいることで、救われる人間だっているんだよ」
微笑む出水さんに、僕は肩を竦めるしかない。
……ああ、やっぱりこの人は格好いい。
願うなら僕は、こんな大人になりたいと――そう考えるほどに。
「――おにーさん、出水さん」
と、そこで黙っていた真代が口を開く。
彼女の視線は正面を向いていた。
「お客さんです」
その言葉と同時、薄暗い線路の向こうから、ふたりの人間が姿を現す。
「――最悪だ。もうばれた、やっぱり僕たちじゃ特級を相手になんてできないよ」
「まあまあ。そう言わないのだな、夜羽。あたしたちならできるって、そう言われたじゃないのだな」
「夜羽って呼ぶなよぅ……」
佐藤夜羽。そして時原仕種。
呪術集団《
「――ほう? 出迎えがあるとは気が利いている」
その姿を確認した瞬間、出水さんが獰猛な笑みを浮かべた。
彼女は僕らを横目で見据えると、軽く肩を揺らしてこう告げる。
「というわけだ。――先に行け、永代、真代。ここは私が引き受ける」
「いいんですか……?」
その言葉に、僕は思わず目を見開いた。
格好いい言葉ではある。だが、そんなことを出水さんが言い出すとは。
「いいも悪いもない、それが合理的な判断だろう。なぜ奴らがたった三人で乗り込んできたと思っている?」
「――逆坂津凪さえ機能すれば、それで充分だと判断したから」
「その通り。津凪が使われる前に彼女を救え。人間は道具ではないと教えてこい」
――真っ当に考えるなら。
ここで残るべきなのは僕だろう。いくら呪いで戦力を制限されているとはいえ、特級呪術師ふたりと僕とでは戦力的な格差が大きすぎる。
それでも彼女は、自ら足止めを買って出てくれた。
「……ほら、やっぱ舐められてるよ、最悪。あの女は、ひとりでボクらを止められるつもりなんだ」
「なら教えてやるのだな。特級呪術師程度が、夜羽に敵うはずがないって」
僕らの会話を聞いて、仕種と夜羽はそんな会話を交わしている。
特級呪術師を前にしてなお、ふたりには勝算があるという。そんな余裕を、出水さんはむしろ歓迎していた。
「――は」
彼女は胸の谷間から(いや本当に)煙草を取り出し、燐寸でそれに火をつけると言った。
「舐めているのはどっちだ、クソガキども。口の利き方を教えてやるから、――そこに直れ」
告げた瞬間、びしり、とまるで全身を縄で縛られたみたいに、ふたりが直立の体勢で硬直する。
表情筋さえ支配されたのか、ふたりは驚くことさえできずに言葉通りその場に直った。
真代の影踏みさえ超える、移動どころか行動の自由全てを、出水さんはたったひと言で奪ったのだ。呪術の力を制限されてなお、特別指定級としての実力を彼女は見せる。
「行け! ――永代、必ず津凪を救ってこい!!」
「――当然!」
命令ではなく。僕はその願いを聞き入れる。
頼まれたのなら果たさなければ。それを嘘にはできないから。
僕と真代は駆け出す。硬直するふたりの間を通り抜け――津凪を助けに行くために。
※
「――本当に舐めたガキどもだ」
永代と真代の義兄妹が去った場所で、煙草をくゆらせる井峯出水は呟いた。
どこか歪んだ表情で、まるで煙草が酷い味を放っているかのような表情に彼女は変わっている。
静かに煙草を唇から離すと、井峯出水は呟いた。
「行かせてよかったのか? 動けるんだろう、本当は?」
「よかったも何もないのだな?」
声に、返答があった。本当に縛られているのなら、聞こえてくるはずのない言葉が。
時原仕種は、普通に動きながら出水に答える。相変わらず、見た目だけは可愛らしい着ぐるみ姿で。
「少しでもあたしたちが動いたら、その瞬間に呪い殺すつもりだったのだな」
「は――そういうお前たちは、初めからふたりを行かせるつもりだったようだが?」
「――最悪」
と、答えたのは佐藤夜羽のほうだ。こちらもやはり動けるらしい。
「やっぱり全部見抜かれてるじゃないか。もうやだ。この街に来てから何ひとついいことがない……死にたい……」
出水は無視して仕種に問う。
「――ふん。ということはつまり、お前たちが命じられたのは私の足止めか」
「足止めというか、まあ。殺せるなら普通に殺すのだな。あなたはどうやら厄介そうなのだな」
仕種も無視して答えていた。
夜羽が落ち込み、いじけたように視線を落とすが、ふたり揃って見ていない。
「というか、どうして気づいたのだな? 一瞬だけだけど、止められたのは本当だったのだな」
「どうしても何もあるか。昨日、お前たちは真代に動きを止められたんだろう? 同じ術式に対抗策さえ講じてこない馬鹿なら、私が出る必要もないと思っただけだ」
「そこまで知ってて動きを封じる呪術を使ったってことは、つまりあなた、もう気づいているのだな?」
「確信したのは今だがな。やはりそうか」
酷く面倒そうに、出水は煙草を持っていないほうの手で頭を掻く。
それから、仕種を睨みつけてこう言った。
「――逆坂津凪は、もう機能しているらしい」
「そういうことなのだな」
隠すことでもないと、仕種はあっさり頷いて肯定する。
彼女とて王国の戦闘呪術師だ。同職である以上、井峯出水の――特別指定級呪術師の強さは知っている。
なにせ味方側にもひとり、それと同じ強さを持つ人間がいるのだから。知らぬはずがない。
「というか、逆坂津凪の術式を読み解いたのだな?」
「当たり前だろう。でなければこんな話をしているはずがない」
「……あり得ないことを当たり前みたいに言うのだな。やっぱり――殺すしかない」
結社に能力を封じられた特級ならば、夜羽とふたりがかりで倒せない相手ではない。仕種はそう判断している。とはいえ、戦うならば死力を尽くすことになるだろう。勝算は、五分五分より少し高い程度か。
だが。時原仕種という呪術師の価値は、そんな戦場に無策で放り込まれるほど低くはない。それは佐藤夜羽も同様だ。逆坂津凪には及ばずとも、このふたりもまた《王国》にとって欠かすには惜しい戦力である。
必殺の策を持たずして、特級の前に立ち塞がったりはしない。
「――でも、不思議ではあるのだな」
それでも仕種は、ただ襲いかかるのではなく、まず言葉を作っていた。
考えてのことではない。本来なら、問答無用で殺してしまうのが最善であることはわかっている。
ただ、どうしても疑念が拭えなかった。気になることがひとつある。
それが、致命的なものであるような勘が拭えなかったのだ。だから訊ねる。
「なぜあなたは、そこまでわかっていて、あのふたりを先に行かせたのだな?」
「当たり前だと思うがね。そんなに不思議か?」
「わかってたのなら、こっちの思惑に乗る必要はないのだな。ほかに手段がなかったのだな? それともあのふたりを庇ったのだな?」
「ま、確かにほかには手段がないさ。こちらとしても、逆坂津凪の能力がこの段階で覚醒しているなど完全に予想外だ。少し焦ったくらいだね、正直。だからこうした」
「……やっぱり、あたしたちを舐めてるのだな?」
夜羽のように怒るでも悲しむでもなく、単純な疑問として仕種は問う。
それくらいしか、この場で出水が王国側の思惑に乗る理由が思い浮かばなかったのだ。
出水は、その問いに小さく笑う。持ち前の皮肉な笑みを、まるで見せつけるように浮かべて彼女は言った。
「初めから言ってるだろう。舐めているのはお前たちのほうだ」
「……あなた、津凪の術式を解析したのだな? ならわかってるはずなのだな。――今のわたしたちは、ほかの呪術師では絶対に抵抗できない、新しい呪術を身に着けていると」
それが、仕種と夜羽が持つ絶対の自信の根拠。
存在しない、新しい呪術を生み出す。
その能力を覚醒させた津凪の力を受けて、今のふたりにはこれまでのあらゆる歴史に一度として存在してこなかった新種の呪術が扱える。まったく別の法則に基づいた神秘を今のふたりは扱える。
白兵で戦う歴史小説の世界の登場人物のひとりが、いきなりミサイルを撃ち出したらどうなるだろう。元の世界観にしか属していない人間が、抗うことなどできるわけがない。根本的に
――これは、つまりそういう戦いだ。
だが。
それでも出水の笑みは消えない。
「違うよ、まったく違う。お前たちは何もわかっていない。お前たちが舐めていると言ったのは、私のことじゃないんだよ」
「……何を、言っているのだな……?」
「わからんか? ――お前たちは、鴻上永代を舐めていると言ったんだ!」
そう言い放った瞬間。
井峯出水は、手に持っていた煙草を指先で弾き、宙に踊らせた。
――地下の戦い、その第一戦が開始される。
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