1-07『日常、そしてその裏側』
――四時限目の前になって、僕はようやく登校した。
さすがに重役出勤が過ぎたせいだろう、ざわざわと教室中がうるさくなる。それを見越して、僕は四時限目が始まる直前に登校していた。何かを言われる前に担当の教諭がやって来たため、特に突っ込まれることはなかった。
四限担当の数学教諭に変な目では見られたが、それくらいだ。
ちなみに、僕は自分が戦闘呪術師であることをクラスメイトたちには伝えていない。
意識的に隠しているわけではないが、訊かれない限りは黙っている。もちろん学校には知らせてあるし、だから調べればわかる程度のことでしかないのだが、これが意外に気づかれないものだ。
真代に言われている通り、サボらず学校に通っていることが大きいのかもしれなかった。
漫然と、僕は数学の授業を受ける。
窓際の席だ。それも最後尾。席順はくじ引きにより完全ランダムで決まるため、運のいい生徒と悪い生徒で格差がかなり大きい。幸い僕はいい席を引いていたし、割と近い席に仲のいい友人たちが集まっていた。
席替えの当日に、やったな、と友人同士で笑い合ったことを覚えている。
そんな思い出が尊い。下らないことで一喜一憂できる生活が、どれほど恵まれたものなのかを知っている。
きっと、
彼女はずっと、王国というひとつの世界の中で生きていたのだから。
――そのことに、少なくとも僕は同情してはならない。
そんな感情が何かを生むことはない。それくらいはわかっている。
ただ、それでも彼女は手を伸ばしたのだ。
この場所から逃れたい、誰かに助けてほしい――。
自ら選んで、六路木までやって来た。そして、僕はその手を取った。
ならば。
「――っと」
昼休みの到来を知らせるチャイムが響き、授業の終わりを生徒たちに知らせる。
結局、ほとんど聞いていなかった。呪術師の仕事があるから、ということを一応の言い訳にはしているが、最近は割とまずいレベルで成績の下落が目立っていた。特に数学はかなり悲惨――なのだが、まあいい。今は措こう。
できればずっと忘れておきたい。
参考書の類を整え、机の引き出し部分に押し込む。
ちらり、と視線を教室前方の壁掛け時計にやったが、授業が終わったばかりのタイミングで時間を確認する意味はない。
何をやっているんだ僕は、という自嘲から肩を竦めながら、ポケットを確認した。
携帯と小銭入れ。さて、今日は学食で済ませようかと思ったところで、
「おはよ、
右隣の席から、そんな声をかけられる。
僕はそちらに向き直ると、笑顔を作って彼女に答えた。
「業界では、どの時間でもその日初めてなら『おはよう』って挨拶するらしいですよ。てなわけでおはよう、鶴羽さん」
「どこの業界なのさ、それ?」
「いや、それは僕もよく知りませんけれど」
「あははっ!」
何ひとつ面白みなどなかっただろう僕の言葉に、けれど彼女は朗らかな笑みを見せてくれた。
――
一年生のとき、最初の席替えで隣同士になったことがきっかけで話すようになった仲だ。あまり前に出る性格ではないため、クラスの中でそう目立つほうではないのだが――などということは他人を言えた義理でもないが――話してみればノリがよく、今では気兼ねない雑談を交わせる数少ない異性の友人だった。
目立たない、とは単に中心に立つことが少ないというだけで、彼女自体は友人が多いほうのタイプだ。基本が陽性の性格で、誰にでも分け隔てなく笑顔を向けられることから、男女問わずして付き合いは多彩らしい。
染めたらしい茶髪(その辺の校則は緩い)はストレートで、活動的な印象から結構モテるほうの人種だと僕は思っている。なんなら僕も付き合いたいくらいだ、割とマジで。
「――んで、実際のトコどーしたん? 昨日もお休みだったし、なんかあるなら相談乗るよー?」
こういう言葉をあっさりと言える辺りが、僕とは比べ物にならない善性を彼女に感じさせる。
僕に対してだけではない。きっと彼女は誰にだって、同じことを言えるだろう。それも自分の意思で。
とはいえ、さすがに彼女には相談できないが。
「ちょっと家庭のごたごたがあったんですよ。そろそろ片もつきそうなんで、お気持ちだけ」
「んー……そっかあ。そういうことなら無理には訊けないけどさ」
僕の言葉に、鶴羽は少し唇を尖らせる。
その反応に首を傾げると、彼女は頬を掻きながら言った。
「や、ほら、鴻上って誰に対しても敬語じゃん? だから距離感じちゃうなーって、ちょっと思って」
「――あ、それ俺もわかるわ」
そこで会話に、今度は前の席の奴が入り込んできた。
彼は人好きのする笑みで笑いながら、肩を竦めつつ僕に言う。イケメンだなあ、と僕は思った。
「実際さ、鴻上が普段何してんのかってまったくわかんねーよな」
彼は名前を
クラスの中心人物的な奴なのだが、なにせ性格がいいため誰かに嫌われることのないタイプ。このくらいの歳にもなると、鶴羽と並んで珍しい奴だろう。
脱色された髪を適当に整えた感じの外見だが、それだけで様になっている辺り元々の顔がいいのだろう。ただ運動はあまり得意ではないらしく、どちらかと言えば頭のほうがいい。
……なんだろう。
彼らが僕の友人というより、彼らの友人が僕と言ったほうが正しい気がする。友人の多い彼らを持ってこないと、ほかに誰かに紹介できる相手が僕にいないというか。
考えててなんか悲しくなってきたので、僕は思考そのものをやめた。代わりに言う。
「特に変わったことをしてるつもりもないんですけどね……」
「いや、俺だって家庭の事情があるっつーことは知ってんだけどさ?」
「ちょっ、こら、直智!」
ぺしん! と割と強めに鶴羽が桐畑の頭を叩く。
このふたりは、名前で呼び合うくらいには仲がよかった。どうも付き合ってるわけではないらしいが。
鶴羽はこちらを向くと、申し訳なさそうに両手を合わせて言った。
「ごめんね、鴻上! 言いたくないことまで訊き出そうとしたつもりはないんだ!」
「いや、別にそんな重たい事情を抱えてるわけじゃないんで」
なんだか逆に申し訳なくなってくる。
家庭の事情云々、と言っているのは単にそう言っておけば追及されずに済むからだ。
「なんなら別に言ってもいいんですけどね。聞きたいなら」
「ていうか今度さ、俺、一回くらい永代ん
叩かれたことを懲りずに桐畑は言う。いやまあ別に構わないのだが。
少し考える。家に呼ぶこと自体には問題がない。誰でもいいというわけじゃないが、このふたりならいいだろう。
なにせ真代の件がある。義理の妹であり、髪が真っ白であり――とまあ、口さがない者たちの噂を集めるには充分すぎる要素が揃っていた。本人は露ほども気にしないだろうが、そういう問題ではない。
「まあ、家に来るくらいなら別に。予定さえ合えば」
「マジで? 言ってみるもんだな! いや、なら俺マジで行くぞ? 友達百人自宅押しかけ計画を立ててるからさ」
「えっと、ほんとにいいの、鴻上?」
気遣ってくれる鶴羽と、これもまあひとつの気遣いなのか、笑顔で妙なことを言う桐畑。
そんなふたりに僕も笑顔を返して、答える。
「ふたりなら。生憎と広い家じゃないし、そうお構いもできませんけど」
「そんじゃ次は、その敬語をやめてもらうところだな!」
「敬語ってほどの敬語でもないと思いますけどね……慣れの問題なんで、この辺は」
「慣れかー。なんだろ、野生の生き物を懐かせてる気分。お菓子やろうか?」
「直智、失礼なこと言わない」
スティック状の栄養食品(……お菓子?)を渡してくる桐畑と、それに突っ込む鶴羽。
そんな様子は、眺めているだけでなんだか楽しくなる。嫌な気分ではなかった。
「貰うよ。――あと実は僕、頭の中だとふたりのこと苗字で呼び捨ててるんで、あんま敬語でもないですよ」
「なん……だと」
「本当は口が悪いもんで。慣れたら幻滅するかも」
硬直した桐畑から普通に食べ物を受け取って、即座に開封して口に運んだ。
うん、昼食代が浮いたな。そんなことを思いながら告げる。
「……あと僕、実のところ義理の妹とふたり暮らしなんで。その辺りは秘密にしておいてくださいな、っと」
さすがにそんな事情は珍しく、ふたりとも目を見開いて驚いてくれた。
僕はそれをスルーし、ポケットから電話を取り出す。着信があったからだ。
「――もしもし」
それだけを言って、あとは電話口からの声を聞くに徹する。
電話の向こうにいるのは
出水さんからの連絡を聞いて、僕は電話を切る。それから鞄を引っ掴んで立ち上がると、ぽかんとこちらを見ているふたりに告げた。
「じゃ、僕ちょっと早退するから」
「え――え? 来たばっかりじゃん!?」
「事情があってね。悪いけど、先生には上手いこと言っておいてくれないかな」
丁寧語を抜いて言った。それが功を奏したのか、ニヤリと笑いながら桐畑が片手を挙げる。
「おう! なんかよく知らんが、こっちのことは任せておけ」
「ありがと。――それじゃあね」
言うなり僕は駆け出す。先生に見つかったら怒られるが、そんなことは気にしていられない。
目指すのは結社の本部ビル。そこで、出水さんが僕を待っている手筈だった。
――連絡は、津凪の居場所がわかったことを伝えるものだった。
※
「――来たか」
本部ビルの前まで行くと、そこには出水さんが待っていた。
黒のライダースーツ。相変わらず格好いいそれに身を包んだ彼女は、僕を見るなりニヒルに笑う。
「乗れ。送っていってやろう」
「……わかりました」
思うことはあったが、その全てを後回しに。
というか、それより先に訊きたいことがひとつあった。
「で、なぜここに真代が?」
「いちゃいけませんかー?」
ビルの前に止めてあった一台のバイク。それに繋げられたサイドカーの中に、見慣れた
僕は真代ではなく、あえて出水さんに視線を向けていた。彼女はバイクに跨ると、僕にヘルメットを手渡しながら言う。
「手は多いほうがいいだろう? 結社から応援は出せないからな」
「……」
「特級呪術師がふたり。これほどの戦力、そうは望めないぞ?」
それはまあ、その通りではあろう。呪術の力を、呪術によって封印されている出水さんだが、それでも生半な呪術師よりは遥かに戦力として期待できる。
それは真代も同様だ。身体の弱さを考慮に入れてもなお、鴻上真代は戦力として大きい。
あとはぼくが、それを受け入れるか否かの問題でしかなかった。それはわかる。
「――わかってるよ」
迷う僕に、出水さんが笑った。
「真代は前線に出さない。それでも真代の場合は、《連れてくるだけで意味がある》からな。呼ぶだけは呼んでおいたのさ。もちろん、彼女の安全はこの私が保証する。不満か?」
「――いえ、ありがとうございます。僕も、真代は必要だと思ってました」
「いや、え? ちょっと、話が違うじゃないですか、出水さん」
などと真代が言う辺り、やはり彼女は戦うつもりでこの場に来たのだろうが。
その辺り、出水さんは厳格だった。これでも結社の一員だ、彼女は。
「いくら有資格者だろうと、特級だろうと――真代は戦闘呪術師としては登録されてないからな。戦いの場になんて連れていけるわけがないだろう」
「た、
「許されると思っているほうが意味不明だ。それより乗れ、永代。そう遠くないが、飛ばすぞ」
「……これ道交法的に」
「そんなものはどうとでもなる」
仮にも結社の人間とは思えないことを言い放つ、剛毅な出水さんだった。
僕も今さら、そんな横紙破りは意識していられない。バイクの後ろに跨って、両手を出水さんの腰に回した。
「それで、どこに?」
訊ねる僕に、出水さんはやはりニヤリと笑いながら答えた。
「――地下だよ」
「地下?」
「お約束で申し訳ないがね。――この街の地下鉄には、地図に書かれていない道がある」
「……その都市伝説マジだったんですか……」
思わず頬が引き攣るのを自覚する僕。確かにそれはお約束だ。
呪術師の街には、誰も知らない地下道がどうやら張り巡らされているらしい。地盤とか大丈夫なのだろうか。
いやまあ、どうせ呪術で補強されているのだろうが。
「都市伝説として誰もが知っているからこそ、本当だとは思われないのさ。ああ、政府も公認だから安心しろ」
「逆に不安になってきますよ、それ」
「警察に見つかると厄介だ。真代、結界を張れるか?」
「そのくらいなら余裕ですー」
ぽん、と真代が柏手を打つ。それだけで、呪術による結界が僕らの周りに張り出された。
これを纏っている間、僕らは呪術師以外の人間に存在を認知されることがない。移動するモノに結界を張る、などということをあっさりとやってのけるのは、もちろん真代が特級だから。普通はそうそうできないのだ。
「しっかり捕まっていろ。誰にも見られない状態でバイクを乗り回すなど、危険なんてものじゃないからな」
「捕まってるくらいでどうにかなるもんですか、それ……?」
「なるわけないだろ。ただの気安めだ――行くぞ!」
あっさりと言い切って、出水さんがエンジンをふかした。
裏道を通るよう、僕らは風を切って街を疾走する。それは誰にも気づかれない。
確かにもう、危ないなどというレベルではなかった。正直めっちゃ怖い。とはいえ、それも今さらだ。
そんなことよりも、僕は出水さんに訊ねなければならない。
「……結社の手は借りられない、ということでしたね」
「ああ。――
「津凪は――」
「ひと言でいえば、王国にとっての最終兵器だな。あやゆる呪術を過去に変えるほど強力な、決戦兵器と言っていい。こんなものを結社が見つけてみろ――殺されるぞ、津凪は」
――兵器。その言葉に僕は目を細める。
エンジンの駆動音に負けないよう、大きな声で続ける出水さん。彼女は言う。
「――彼女は呪術を進化させる。次の段階へと強制的に押し進める」
「意味が……よく」
「呪術は技術だ。体系化されていて、学べば誰でも使えるようになる。もちろん才能に左右されることもあるが、それでも呪術体系の大本は決まっているわけだ。――彼女はね、この世でただひとり、新しい呪術を創り出せる呪術師なんだよ」
その言葉に、知らず僕は息を呑んでいた。
出水さんはずっと、彼女の正体を探ってくれていた。情報網や何やらを使ったわけじゃない。王国の情報を、結社にいる出水さんが掴めるはずもない。
あの日、出水さんの下に津凪を連れていった日。
出水さんは津凪の肉体を解析し、そこにかけられている呪術を探った。
王国が取り戻しに来るほどの呪いをかけられた津凪だ。そこには何重もの
それを、彼女はこの短時間で解析し、それがどんな呪いを振り撒くのか調べ上げた。
この街の呪術師の中でも、それはおそらく出水さんにしか不可能な行いだろう。
それこそが特別指定級呪術師――
その彼女が言うのだ。これはもう、間違いのない事実なのだろう。
「《丑の刻参り》とかね。そういう風に、《こうすれば誰かを呪える》という信仰を下にした技術を呪詛と呼ぶ。そういう信仰の体系がなければ、呪いなんて使えないわけだ。だが、彼女はその信仰を、背景を、歴史を一から自分で創り出せる。本人すら気づいていないようだったがね――それはもはや、世界を一から作っているようなものだ」
「なら、津凪は……」
「その通り。彼女は誰も知らない呪術を一から創り出す。それを王国の人間が学んでみろ――それは
――彼女はね。
あらゆる呪術師を必殺の暗殺者に変えてしまう生きた兵器なのさ――。
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