0-03『プロローグA→D/呪術都市に関するイロハ→そして彼女は』
――その
この国において、六路木市は最も呪術師の人口が多いことで有名だ。
最大の理由はもちろん、《
あるいは省略して《結社》とも呼ばれるかの組織は、およそあらゆる呪術関連企業の中でも、最大の規模と実績を誇る。ゆえに持ち得る権力たるや並大抵ではなく、場合によっては一個の国家を前に対等な立場を主張できた。
呪術という名の
その成立は不明。現在においては、もっぱら呪術が世界に周知されるより遥か以前にその歴史を遡るという説が有力だった。
おそらく間違いはあるまい。多くの人間が呪術を初めて知った中で、結社だけがずっと昔から呪術の力を振るっていたのだろう。そうでもなければ、ここまでの権勢を維持できるはずもなかった。
まるで陰謀論に登場する秘密結社のように、結社は世界を裏側から牛耳っていたと言われる。
やがてひとつの企業として表舞台に姿を現した結社は、けれど別に世界とか社会とか、そんなものを都合よく操ろうとはしなかった。ただ、呪術師の地位と人権を守っただけ。それだけだ。それ以上、政治や外交といったものに口を挟もうとはしなかった。
それもまた、結社が敵を作らず規模を保った理由なのだろう。
さて、問題はつまりその点だ。
結社は呪術師を自治する。現実問題として、それは呪術に疎い国家には不可能な行いだった。
彼らはただ呪術師を守るだけじゃない。同時に裁くことも行った。
国家権力という機構は、呪術師の集団を武力で鎮圧することなら可能だろう。たとえ結社でも世界を敵には回せない。銃で撃たれれば呪術師は死ぬ。極論、千人の呪術師が集まったところで、重火器での掃討は不可能じゃない。
だが個人で犯罪に手を染めた呪術師を、たとえば警察機構が檻に捕らえておくことなどは、現実的に難しい。それが可能なのは同じ呪術師だけ。その絶対数が少ない以上、国家は呪術師を皆殺しにすることはできても、個別に捕らえておくことはできない。
あるいは結社の狙いとは、世界が人道を無視して呪術師の排斥に走らないようにすることだったのかもしれない。社会にそんな傾向を作らせないことだったのかもしれない。
――ということで。
この六路木という街は、外で排斥された呪術師にとって天国だった。
天国であると、思われていた。
彼女が六路木まで逃げてきたのも、おおむねのところその辺りが理由だ。
彼女は狙われていた。何に? ――自分と同じ呪術師にだ。
ある非合法の呪術組織が、彼女の身柄を捕らえようとしていたのだ。その追っ手から逃れるために、駆け込んだ場所が六路木だった。
六路木の中にさえ逃げ込んでしまえば、きっと《
そう考えていた。
決して間違いではなかった。
少なくとも六路木に住んでいる限り、外部の呪術組織が容易に手を出すことはできない。たとえ結社が積極的に保護してはくれずとも、そのお膝元にいるというだけで意味がある。
ただ、彼女はあまり知らなかった。六路木という街のことを。似たような勘違いをする人間は意外と多い。
彼女のように、外から逃げ込んでくるはぐれの呪術師は、意外にもそれこそ腐るほどいる。だがこの場合の《逃げる》が彼女のような理由であることは少ない。もっぱら罪を犯したため、警察から逃げるという場合がほとんどだったのだ。亜流の呪術を学んで、力を持ったことに気をよくした馬鹿が下らない犯罪に手を染める――なんて事例は枚挙に暇がない。
そうして軍や警察に追われ、「六路木に逃げれば結社が守ってくれる」などという勘違いからやって来ては、この街の戦闘呪術師に捕らえられて警察に引き渡される。
言ってしまえば日常茶飯事、よくあることだ。この街にはもちろん呪術師以外の人間も多かったが、そんな彼らでさえ「またか」と思う程度には、その手の事件が起きている。
戦闘呪術師の仕事のひとつが、こういったはぐれの呪術師を捕らえることであった。
そんなわけで。彼女はこっそりと六路木市内に侵入した。
あらゆる意味で、こっそり侵入する意味などないことを知らなかったから。
街に入ったその瞬間、呪術結界が作動したことに彼女は気がつく。
さて困った。少なくとも結社側は、招かれざる客として彼女の存在を認識しただろう。慌てて呪術で対抗したものの、それはむしろ悪手だった。完璧に侵入者の行いである。
なまじ高い実力を持っていた彼女は、逃げ隠れるという行為に成功してしまった。結社を頼って逃げてきたつもりが、なぜか結社から逃げ惑うことになってしまった。本末転倒にもほどがある。
彼女は人目を憚り、とにかく人の少ないところを歩いた。
怖かったのだ、と自己分析する。なんだかんだ言ったところで、彼女は結社に拒まれることを最も恐れていた。もし見つかって、街から出て行けと言われたら、今度こそ逃げ場を失ってしまう。そうなれば終わりだ。
間違いなく捕まってしまう。
それだけは絶対に嫌だ。捕まるくらいなら死んだほうがいいと、彼女は本気で考えていた。
だから潜んだ。人のいないほうへと歩いた。
ここに来て二度目の予想外は、その途中で妙な呪いに引っかかったことである。
どうも、無作為に呪いを撒き散らす怪物がいたらしい。そいつが振り撒く呪いにかかってしまった。
想像していなかったのだ。そんなものが当たり前に街を歩いているなんてこと、想像しろというほうが無理だと思った。
どんな街だ、ここは。まるで魔窟じゃないか、と。それもまた、彼女を隠れさせた要因だった。
言うまでもないことであるが、それは件のストーカー――鴻上たちが対応した怪物化した呪術師である。
彼が能動的に呪いを振り撒いていたわけではなく、引きこもって隠れていたお陰で街の一般人にはほとんど被害がなかった。彼女がおそらく、この事件で唯一の被呪害者だ。
不意討ちだったこともある。長い距離をずっと逃げてきたこともあった。その間ずっと野宿だったし、食事だって満足には取れていない。あまりにも
普段なら抵抗できたはずの呪詛にかかったのは、その辺りが理由だ。
結局、ここでも彼女は自力で対処を行った。ほとんど最後の力を振り絞って、かけられた呪いを解いたのだ。
――そして倒れた。当たり前のように。
倒れたというか、行き倒れたというか。呪術は何も対価なく奇跡を起こす異能ではなく、そこには当然なんらかの
多くの場合、それは体力や気力の減少といった形で発露される。
彼女の場合――カロリーだった。
空腹で倒れたのだ。お腹が空いて一歩も動けない。もうなんでもいいからエネルギーを取りたい――そういう状況に陥ってしまう。ここで飢えて死ぬのだと、彼女は半ば本気で覚悟した。
そして、彼女は――。
※
「――ん、ぅ……?」
黒髪黒眼の美少女が目を覚ましたとき、僕はちょうどあくびを噛み殺していた。
幸い、その間抜けな表情は彼女に見られなかったらしい。目を擦りながら起きた彼女が、首を傾げながらこちらに視線を向けた。
「……えと。君は――」
し――と僕は人差し指を口元にやる。騒いでも怒られない時間には、まだ少しばかり早かった。
意外にも冷静らしい少女は、しばらくぽかんと僕を見つめてから、頷いて口を閉じる。だから僕も首肯して、
「僕のことは覚えてます?」
「……ああ。アイスをくれた人だったよね? そうか、あのあと倒れてしまったんだな……」
「ええ」
「言った気がするけど、ご馳走様。たいへん美味しかったよ」
屈託なく少女は微笑んだ。ちょっと力のない感じはしたが、さっきまでよりは元気そうだ。
少女はきょろきょろと辺りを見回し、それから自分の身体を確認する。僕は黙ってそれを待った。
やがて、問題がないことを確認したらしく、少女は改めてこちらに向き直る。
「――ここは、君の家ってことかな?」
「そうなりますね」
と僕。ここは居間で、彼女はソファの上に寝かせてある。僕は食卓の椅子の向きを、そちらのほうに変えて座っていた。
視線を横へとスライドし、僕は奥の襖を見た。その状態で告げる。
「隣の部屋で
「……妹さんが。そうか、ぼくはいろいろと迷惑をかけてしまったみたいだ」
微妙に固いというか、男性っぽい口調の少女だった。僕も基本的に敬語で話すため他人のことは言えないが、それにしても変わっている。
そして、この街で変わっている人間とは、どうせのところ呪術師だと相場は決まっていた。
あえてその方面には触れず、襖から視線を戻すと僕は言った。
「とりあえず、名前を訊いても? ちなみに僕は鴻上永代といいます。よろしくどうぞ」
「こうがみ――えーた」
「い抜きですね、それだと。永代です、永遠の永に世代の代で、永代」
「すまない、永代だね。覚えたよ」
少女はなぜか、少しだけ嬉しそうに、おかしそうに微笑んだ。
その意味はよくわからなかったが、訊ねるより先に彼女は身体を起こし、ソファに座り直して答える。
「ぼくは津凪。――
「……かさかさ?」
「失礼な。肌はつるつるだよ、ぼくは」
怒ったわけではないのだろう。苦笑するように彼女は言った。
ほら、と腕まくりをして見せたのは、かなりいらない行為だったが。まあ突っ込むまい。
「逆さまの坂道、と書いて逆坂。できれば下の名前で津凪と呼んでほしい」
「……では津凪さんと」
「ぼくからもひとついいかな?」
彼女――津凪はちょっと困ったように眉根を寄せる。
「なんでしょう?」
訊ねた僕に、津凪は言った。
「それだ」
「はい?」
「その敬語――できればやめてほしい。見たところ同い年くらいだろう? ぼくは、あまり敬語で話されるのが得意じゃないんだ」
「……はあ。まあ、ならなるべく敬語はやめるとします」
癖のようなものなので、敬語を抜いて話そうとするほうが僕は苦手だったりするのだが。
とはいえ、お願いされてしまっては仕方がない。努力するとしよう。
頷いたぼくに、そこで彼女ははっとしたような表情を見せた。
「――っと、すまない。そんなことより先に、まずはお礼を言うのが先だったね」
「…………っ!」
――まずい。と僕は一瞬で悟る。悟りはしたが、そのときにはすでに遅かった。
気を抜いていた。というよりは混乱していたのだろう。僕にとっても、行き倒れた女の子を助けるなんて経験はあまりあることじゃない。
事情がありそうだ、という勘から、倒れた彼女を病院ではなく家に連れてきたのだが、そんなことをすれば不審がれられると思って、すっかり油断していたらしい。
止める間もなく、津凪は僕にこう言った。
「――助けてくれてありがとう。お陰で命拾いを――」
もはや聞いていなかった。そんな余裕が失われている。
――心臓が痛い。跳ねるように騒ぐ。爆発する寸前みたいに熱い。異様に収縮して軋むように痛んだ。
「……、ずぁ」
駄目だ。久々すぎて耐えられない。
僕は咄嗟に胸を押さえて蹲る。動悸が激しい。身体が熱を発している。気持ち悪さに吐き気がした。
そんな肉体の反応を、自分では制御することができなかった。
座っていた椅子の背もたれに身体を預け、荒くなっていく呼吸を必死で抑える。
心臓が、痛い。痛くて痛くて、堪らない――。
「ど、どうした!? 永代、お、おい、大丈夫かっ!?」
さすがに隠しきれる反応ではなかった。驚いたように津凪が駆け寄ってくる。
僕はそれを片手で制し、大丈夫だと視線で告げる。が、どうやら伝わらなかったようだ。
「胸が苦しいのか? ああ、えと、……こういうときどうしたら……!?」
津凪は盛大に狼狽えて、それでもなんとかしようと思ったらしい。僕の背中に手をやると、ゆっくり落ち着けるように撫でてくれた。その優しい感触が、次第にぼくの発作を抑え始めている。
抵抗もできず、僕はそれを受け入れた。どっちが助けられたのかわからないな、なんて自嘲しつつ、必死に呼吸を深くする。背中を這う温かな掌が、なんだかとても気持ちよかった。
「……ごめ、わ――悪かっ、た。もう……大丈夫だ。ちょっと、なんかこう、持病の発作が……起きただけだ」
なんとか言い切った。実際、だいぶ落ち着けている。
視線で平気だと訴えて、手を放すよう津凪に促す。彼女は心配そうにしながらも、一歩後ろに引いてくれた。
「……すまん、落ち着いた……ありがとう」
「そ、そうか……ならよかった。病気だったのか?」
「……アレルギーなんだ」
僕は言う。ほかに表現のしようがない。
あながち嘘でもない比喩だ。
「僕は……なんていうか、感謝過敏症って感じで」
「――なんだって?」
「感謝過敏症。ありがとうとか、とにかくそういう風に、誰かからお礼を言われることが物凄く苦手なんだよ。それをされると発作が出るんだ――こんな感じに」
「……、……」
「なんか悪かった」
引いたのか、信じていないのか。津凪はすぐには答えなかった。
どちらもあり得るだろう。だがこれは厳然かつ純然たる事実で、とにかく僕は感謝を告げられるのが苦手なのだ。だから親しい知り合いには、何があっても僕に感謝の言葉を言わないよう頼んでいるのだが、こうしてときおり不意打ちを食らう。
「……すまなかったね、永代。どうやらお礼をするどころか、ぼくが困らせてしまったらしい」
「気にするな……そんなことを想定しろなんていうほうが無理だ。油断してた僕が悪い」
言いながらソファを指し示す。感謝されるのは最高に苦手だったが、謝られるのもかなり苦手だ。
ソファに戻っても、津凪は心配そうな目を僕に向けている。あの状態を見ると、普通なら心配するどころかドン引きするのだが、津凪はそうではなかったらしい。
ゆっくり呼吸を落ち着け、それから話題を変えるようにして僕は訊ねた。
「――で。ええと、津凪は六路木市の外から?」
「あ、……ああ。そういうことになる」
「なるほど。許可証がなくて、それでこっそり侵入したって感じかな。たまにいるよ」
そう言った瞬間、わずかに津凪の肩が跳ねたのを僕は見逃さなかった。
どうやら確信を突いたかな、と表情を変えずに内心で思う。
「ひとつだけ聞いておきたいんだけど、津凪。――君はなぜこの街に来たんだ?」
「え、ええと――」
「正直に答えてほしい。何を言われても僕は信じる。それが悪いことじゃないなら、この街は君を拒否したりしない――僕だって、別にこの街の生まれじゃないからね」
「……わかった」
少しの間があってから、津凪は意を決したように頷く。
その反応を見る辺り、言いづらい事情を秘めているらしかった。
「逃げて、きたんだ。ある呪術組織に追われていて……そこに捕まると自由がなくなる。だけど、この街なら逃げられると思って」
「わかった。そういうことなら保護できる」
僕は頷いて言った。津凪は目を見開いて、
「……信じて、くれるのか?」
「最初にそう言ったよ。そういう事情なら結社が力になってくれる。今日は遅いから、なんならもう早いから、僕のことを信用できるならこのまま泊まっていくといい。明日、結社にまで君を連れていく」
「永代――ありが」
「それ以上はやめて」
「――え、あ、っと……ごめん、そうだった。それじゃ、お言葉に甘えさせてくれ」
儚げに津凪は微笑んだ。
その表情を見て、いい奴の僕としては見捨てる選択肢などない。
誰だってゲス野郎のストーカーを助けるよりは、儚げな黒髪美少女(ぼくっ娘オプションつき)を助けるほうがやる気になると思う。
「ん。毛布ならそこに出してあるから、かけて眠るといいよ」
「……なんか、悪いな。約束だからお礼は言わないけど、でも初対面なのにこんなによくしてくれて」
「――外に出てくる。先に寝てて。女の子だし、寝顔は見ないよう気をつける」
「外に? ……こんな時間に?」
「煙草を吸ってくるだけだよ」
「……見たところ高校生くらいに見えるぞ、永代は」
眉を潜めて津凪は言う。
おいおい、あのときお腹が空いて動けないと言ったときの津凪はどこに行った。僕は笑う。
「嘘をついて格好よく去っていくっていうシーンだから今のは。空気を呼んで微笑むところだよ、君は」
「……なんだ、それ」
小さく苦笑する津凪だった。
「わかっただろう? 僕はいい奴なんだ、見ず知らずの君に宿を提供するくらいにはね。そんないい奴が格好つけるところに行きあったら、そういうところまで含んで対応するべきだよ」
「いい奴は、そんなことを言わないと思うけど」
「言わせたのは君だ。ニヒルに外の空気を吸ってくるから、津凪は早く寝るといい」
「……いい奴かはともかく。どうやら君は、かなり面白い奴みたいだな、永代」
そりゃどうも、と僕は言い、冗談だよ、と津凪は笑った。
「いい奴だと思うよ、永代は」
気を遣ってのフォローではないはずだ、と猪突盲信を決め込んで僕は立ち上がる。そして宣言した通り外に向かった。
こうまで恩着せがましく言っておけば、彼女が必要以上に気に病むことは――必要のない感謝を僕に向けることは、きっとないだろう。
それでいい。僕が彼女を助けるのは善行じゃない。そうせずには気が済まないというエゴだ。偽悪を気取るわけではなく、偽善と嗤うわけでもなく、本当に単なる事実として。僕はそれ以外の行動を選べない。
――きっとまた、
赤らみ始めている空を見上げながら、僕は明日のコトをつらつらと考えた。予定を考えるのはやはり苦手で、結局は何も思い浮かばないのだが。
……ていうかこれ、明日は学校サボりだな。
※
ともあれ。
そして彼女は彼と出会い、彼は彼女と出会いを果たした。
――ある春の、満月の夜のことだった。
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