二度と会えない

とよかわ

二度と会えない



 ナオミはいつも髪もひげも伸ばし放題で、イエス・キリストを彷彿とさせた。

 旅先の見知らぬ公園を散策中に、足が疲れたと文句を言い始めたつつじを、彼はうれしそうに背中にしょって歩いた。

「遠い、遠い」とつつじははしゃいだ。

「何が?」

「地面!」

 ナオミと同じ目の高さで見る世界はじつに遠くまでよく見渡せた。つつじにはそれが驚異だった。

「人間ってね、同じ世界を見てるようでもね、全然見えてるものが違うんだよ」疲れて足取りのおぼつかなくなったところにベンチを見つけて、渡りに船とばかりに二人は倒れ込んだ。ナオミは腰をさすりながら、「昔、世界が灰色に見えてた」

「ウソっ。白黒ってこと?」

「きみと出会うまでは」

 得意げに眉をあげて笑いかけてくるのを見て、つつじは閉口した。彼はよくこんなふうにしてつつじをからかって反応を見た。女殺しの流し目を使いながらナオミは煙草に火をつける、彼は人生の何がそれほどつらいのか、一日に二箱キャメルを吸う。

「きみはおれがいままで出会った中で、最高の女だ」

 彼のほかの本当の恋人たちも、こんな歯の浮くような科白で口説かれたのだろうか。

 日が沈みゆき、通りを行く人々の顔が判別しにくくなっていく。ナオミの顔だちもまたしだいに闇に溶け込むようになっていく。

「宿に帰るか?」

 つつじはうなづいた。

 部屋から繋がった個室の露天風呂で、ナオミはひさびさにひげを剃った。隣で体を洗っていたつつじはその量に思わず排水溝を気にした。

「詰まらない?」

「詰まらないよ」

 ひげをすっかり剃り落とした直後のナオミの顔はやや童顔で年よりも若く見え、別人のようになり、つつじはいつも少し不思議な照れを感じた。

 岩造りの湯船の中でナオミは彼女が髪と体を洗い終えるのを待ち受けていた。ナオミに相対する濡れた裸体はすでに二次性徴のただなかにあり、胸はかたく熟れ、尻は丸みを帯び、恥毛が肌に貼りついて性器の切れ込みのはじまりを隠している。つつじの裸を見るとき、ナオミは決まって、嬉しそうでも悲しそうでもなく見すえたあと、向かって右下に視線を外す。そのあときまり悪げにもういちど彼女を見る。ナオミの下まつげは、つつじから見て完璧だった。

 一緒に湯に身を浸したあと、急に二人の間の空気が張り詰めた。ナオミはいつものような、気さくな「おいで」を言わない。持ち込んだ日本酒をおいしくもなさそうに飲んでいる。つつじはナオミの濃くない腋毛が水面に揺れるのを眺めていた。

 温泉から上がっても二人は気まずかった。ぴったりとくっつけられた布団の上でごろごろしてテレビを見ながら、ナオミはそわそわと酒を飲んでばかりだった。

「寝ようよ」とつつじは言った。

「……うん」

「電気、だいだいにして」

 薄明かりの中でナオミはつつじに背を向け、胎児のように体を丸めていた。つつじは彼を呼んでみたが、寝息に見せかけたとおぼしきものを立てるばかりだった。

「狸寝入り」

 指摘してようやく、しぶしぶといった感じで、彼女のほうを向く。しかし、恐れたように指の一本も近づけてこない。つつじは布団のなかでごそごそと浴衣を脱ぎ、ショーツだけになって、ナオミの首に抱きつき、唇に唇を押しつけた。彼は口を開けてつつじの舌を受け入れた。酒と煙草の味しかしなかったが、つつじはこれが嫌いでなかった。大人の世界の味だから。つつじの舌がナオミの上口蓋のでこぼこを撫でたとき彼は鼻声を洩らしたが、これはもともとナオミに教えてもらったやり方だった。

「つつじ、覚えていてほしいことがあるんだ」ナオミの指がつつじの頭を撫でた。

「うん」

「いつも、おれはきみのことをとても愛していて、一番に考えていたっていうこと、死ぬまで忘れないでいてくれる?」

「いいけど、どういう意味?」

 彼は目を伏せた。「いい子のままで寝てくれないか?」

「なんで? このために、こういう場所に泊まったんでしょ?」

「ごめん。やっぱり、決心がつかない」

 驚きやあきれよりも、怒りのほうが強かった。

「おれだっていまこの場で愛を交わせたらどんなにいいかって思うよ。でもおれたちは対等じゃない。どんなにそうじゃないふりをしてもだよ。つつじは無力だし、それに、こんな言い方をしたら気持ちはよくないだろうが、無知だ」

 彼の言うとおり、つつじは不愉快だった。

「きみの無邪気さを体よく利用して、性的に搾取してたって、あとから振り返ってつつじがそう感じるんじゃないかって思うと怖ろしいんだ。げんにそのとおりなんじゃないかとも思う」

「わたしにはもう分別がある」つつじは猛然と反論した。「自分の判断に責任も取れる。子どもじゃない」

「おれはきみのこれからの人生を破壊できる。そこが肝心なんだよ。……せめて、もう少し年が上だったらね」

「何歳だったらいいの? 大人になるまで待てって? 待てないかもよ。明日には気が変わってるかも」つつじはもういちどナオミの唇を吸った。「わたしが欲しいのは、いま。いま、深く繋がりたい」

 つつじはこのとき、純粋にナオミへの愛と欲情でセックスを渇望しているものとばかり思っていた。が、あとから考えて、好奇心や自己承認欲求、そして早く大人になりたい気持ちも多分に含まれていた。早熟なつつじはまるで自分の精神が不相応に幼い肉体に牢獄のように閉じ込められていると常に感じていた。処女喪失が彼女の自尊心を満たし、大人の世界への足がかりになってくれると漠然と信じていた。

 ナオミは苦行者みたいに眉をひそめて、ただ悲しそうにつつじを見ていた。彼は彫刻家だった。いちどだけアトリエをのぞきにいったとき、ナオミは自分の彫刻作品の前に腰かけ、じっとそれに見入っていた。彼は自分の影と対話しているかのような、ぞっとするほど冷たい瞳をしていた。つつじはあのような透徹した瞳でナオミに見つめられてみたいと望んでいたが、かなわなかった。

「わかった、もういい」

 つつじはだんまりに耐えきれず、自棄になって話を打ち切った。彼女は何より、求められることを求めていた。彼女と同世代の少女が少なからず心ひそかに願望に抱いているように、白馬の王子様に愛されながら優しく強姦されたかった。こんなふうに男を掻き口説いて説き伏せて抱いてもらうのでは、最初から話が逆なのだ。

 つつじは二本の指をナオミの口に突っ込んで湿らせると、ショーツの内側に差し入れ、その様子を見せつけるように体の内側をいじりはじめた。ナオミはあおむけになり、天井を見つめていたが、やがてまぶたを閉じた。つつじは指を動かしながらも、彼の腕をひいて、腕まくらをしてもらう。ナオミはされるがままだった。

 ぴくんぴくんと体を震わせて絶頂に達するのも、ひとりでするときよりも、大げさな身ぶりにする。

 彼女はナオミの性器に触れたかった。前にいちどだけ、ナオミの、鬼のように怒って膨らんだペニスに触ったことがある。人間の肉でできているとは思えないくらいに硬くて怖ろしかった。だから自分からは勇気が出なかった。

「お父さん」つつじは少しだけ息を切らしながら、横顔に呼びかけた。「昂奮してる?」

 彼はつつじの頭を撫でた。「裁判所で証言する」



 彼と話したときの第一声はよく覚えている。

「もしもし? もしもし、つつじさんですか? はじめまして、セックスオーケーの宮石です」

 失恋したばかりでなんでもいいから男の肌が恋しくて、風俗ででも働こうかと女友達の工藤さんに愚痴をこぼしたら、紹介してくれたのがこの男の子だった。彼女がいるけどそれでもいいならという断りつきで。

 つつじは、二十歳になっていた。

 セックスオーケーの宮石とは、面倒をいっさい抜きに、繁華街そばのラブホテルで待ち合わせた。ところが、メールで伝えられた部屋番号のドアをノックしても長いこと反応がない。

 扉が開いて、濡れみずくの青年が出てきた。腰にタオルを巻いている。

「すいません。フロ入ってました」

「ほんと? ごめんね」

 醜男ではないが、つつじの好みではない。つつじは、どちらかというと「薄い」感じの顔が好きなので。でも、体つきは若者らしい感じで、それは気に入った。彼女は招き入れられて、まあまあ広い部屋のベッドに腰を下ろした。

「いま、服着ます」

「いいよ。だって、どうせ、ほら」

「まあ、それもそうですね。なんか、すみません。ふだんはちゃんとしてますんで。ちゃんと服着てますんで。なんか、デリヘルみたいになっちゃいましたけど」

 つつじは笑った。「いいじゃん。かえって興奮する」

「そうかもしれないです」

「呼んだことあるの?」

「ないですね。なんかこええですよ。つつじさん、いつも駅前の●●通り、通って帰りますよね?」

「……なんで知ってるの?」彼女は慄然と目をむいた。

「オレその通りのコーヒー屋で働いてるからですよ。前からよく見るんです。工藤さんに写メ見せてもらったとき、すぐわかりました」

「そんなん、人なんて毎日大量に通るじゃん。よく見てるね」

「つつじさんが目立つからですよ。冬でもきれいな蛍光きみどりのコート、着てましたよね?」

 彼女は猛烈に照れくさくなった。確かにそのネオンカラーのコートはお気に入りで、人違いではなさそうだった。

「オレだけじゃないですよ。すれ違う人とか、みんなけっこうジロジロ見てますよ、つつじさんのこと。気づいてないんですか?」

「……なんかさあ、言っていい?」

「何ですか?!」

「緊張してきた」

「えっ!」

「ずるいよ……、私のほうは初対面なのに、前から知ってるとかさ……よく見かけてたとか……」

「いやあ……。すみません……。オレも緊張してきました」

 宮石はぱんと膝を叩いた。「酒飲みましょう。よし、酒。つまみも買っておいたんです」

 そういうわけで、二人は缶ビールで乾杯し、ぐいぐいと流し込んだ。

おつまみのさきいかも開けた。

「つつじさん」

「はい」

「目立ってるのは、つつじさんがかわいいからでもあると思いますよ」

「ホントに?」

「はい」

 宮石の大きな二重の瞳がきらきら光っている。彼は首をかしげ、つつじと唇を重ねた。濡れた髪の先の水滴が、つつじの胸元に落ちた。



「まさか、まーさーか。そんなんじゃないよ」

 朝早くから、ナオミは電話を相手に声を張り上げている。おおかた、たくさんいる恋人のうちのひとりだろう。つつじはいらいらと布団をかぶり、もういちど眠りに入ろうとするが、うまくいかない。

「そんな不純なもんじゃない。そもそも娘を連れてる。……わかってくれ、これは、おれの人生にとって大事な旅なんだ」

 座布団の上にあぐらをかいた父は、コーヒーをがぶ飲みしている。彼はアルコールと同じくらいにコーヒーが好きで、一日じゅうコーヒーか、ブランデーか、もしくはコーヒーにブランデーを入れて飲んでいた。

 つつじは眠るのをあきらめ、チェックアウトにそなえて、お気に入りの赤いキャリーバッグに荷物をまとめるのを始めた。そのうちに彼女はなんとなく定期入れから一葉の写真を取り出し、壁にもたれて座りながらそれを見つめはじめた。

「つまりさ……これは神聖な旅なんだ。巡礼とでも言うべきだろうか」

 写真の人物はナオミだった。ただし、いまよりだいぶ若い。つつじの母と結婚する前か直後くらいだろう。旅行先とおぼしき場所だ。強い日差しにまぶしげに眉を寄せつつも、凛としたまなざしを崩さないのだから、立派なものだ。貴重で大事な一枚だから、絶対になくさないようにと何度も念を押されたうえで貸してもらった。おれは若い頃はこんなに美男子だったんだぞと鼻の穴を膨らませていたが、たしかにうぬぼれるほどのことはあると娘の自分でも感じる。そのときつつじは、『いまのお父さんのほうがカッコイイよ』といったようなことを言い、父を喜ばせた。それはお世辞に見せかけた本心だった。写真をじっと眺めていると、それはいまの父と同一人物というより、よく似た別の人物であるような気がする。写真の中の人物にいちどでいいから会ってみたいと思ったが、それは永久にかなわないのだった。死んでしまったのと同じで。そして同じように、いま目の前で動きしゃべっているこの父とも二度と会えなくなるのがもう決まっていると思うと奇妙な気持ちだった。幼いつつじには世の中の物事の何もかもずっと変わらないような気がした。それが誤謬であると知識の上では知っていても。

 電話が終わり、二人はもういちど朝風呂にした。お互いに髪の毛を洗いっこして仲直りにしてから、旅館をチェックアウトし、駅に向かった。

 ナオミが自分をどんな目で見ているかはじめてわかったのは、何歳のときだったろう。つつじは五歳でナオミと二人きりで暮らしはじめた。八歳で初潮が来て父を困らせたが、彼の寝室に忍び込んだのは、たぶんそれよりずっとあとになってからだ。ほんの軽い気持ちでベッドの下をのぞいてみたら、近親相姦もの、というより父娘相姦ものの小説や漫画やDVDが出てきたので、まずだいいちに、いまどきこんな安易な場所に中学生でも隠さない、と呆れた。次に、同時進行も辞さない、父のようないまどき珍しいくらいの伊達男(という言葉も死語だろう)でもこのように射精産業の商品に頼ることもあるのかと驚いた。よく中を見てみたかったが、少し怖くて、あらためずにそれらを元に戻した。その日はつつじは父のベッドに寝転がって、枕のにおいを嗅ぎ、そこに落ちていた父の髪の毛を見つめ、ベッドサイドチェストから見つけたコンドームをおそるおそる手にとった。箱の中に小さな使用説明書の紙切れが入っていて、それを読むと、体の底がカッと瞬間的に熱くなった。アトリエから戻ってきた父の物音が聞こえ、あわててつつじはすべてをもとどおりにして部屋を出た。

 翌日彼女はもういちど寝室に来てみて、ゆっくりと本棚を見渡した。すると昨日は気づかなかったことがあった。『精神分析』『人格障害』『児童虐待』『性的虐待』『トラウマ』などのキーワードが背表紙に躍る一角があった。一冊を手にとってみてぱらぱらとめくってみると、角を折ることによって付箋の代わりにしているページがいくつもあり、それらはつつじの予想通り、父による娘の性的虐待について言及のある部分なのだった。あるいは親に性的虐待を受けた女性のその後の人生についてだ。ナオミがけしてこれらの本を気楽に楽しんで読んでいるのではないことは直感でわかった。まず小説や漫画といっしょにベッドの下に隠されているものではなかったし、ナオミは女はいつも泣かせているが、人の、とくに女性の不幸や悲惨を酒のアテにするタイプの人間じゃないことは、娘である自分がいちばんよく知っている。おそらく、その逆なのだ、と思ったとき、つつじは心臓が痛いほど鼓動が速くなっているのを感じた。父は自分をいましめるためにこの手の本の助けを借りているのだ。彼女は父の苦悩を感じとった。そしてその反面、なぜだか自分のひそやかな思いもが正当化されるようで、ある意味ではほっと一息ついていた。ナオミは思春期にさしかかろうとする女の子と二人きりで暮らすには、女に胸騒ぎをさせすぎるタイプの男だ。鼻すじの通った顔にくっきりとした二重、自信ありげにいつもシャツの前をあけて見せびらかしてる筋肉質の胸板。父に男を感じてしまう瞬間をずっと抑圧しつづけていてつつじは息苦しかった。家に遊びに来てナオミの顔を知っている級友の中にはファンを自称する子も多く、冗談まじりに『抱かれてみたい』とすら言う人間までいた、つつじは心の中で言った、抱かれてみたい男と一緒に暮らすのはどういう気分だか知っている? つつじはその日、コンドームの使用説明書を盗み、寝る前にベッドの上で繰り返し文字列に目を走らせた。

 次の日の朝、つつじは起床時間になってもベッドに入って天井を見ていた。何も考えたくなかったし、何もしたくなかった。ふつか酔いで後ろ頭をさすり、酒臭い父が入ってきて、彼女を見下ろした。

「風邪か? どこか痛いのか?」

 つつじは答えなかった。

「学校、行きたくない?」

 つつじは答えなかった。

「先生に電話しとくよ。……学校なんて、行かなくていいんだ。勉強したってしなくたって、つつじくらい顔がきれいだったら、大人になっても生活費ゼロだよ」

 ナオミは皮肉めかして笑った。「現におれだってそんなようなもんだ。顔がすべてだ。結局、外見がよければ人生の勝者になれんだよ」

 父の言葉にはまったく賛同できなかったが、彼女は黙っていた。翌日から、つつじはいままでどおり、ちゃんと通学を再開した。

 プラットホームで電車を待っている間、突然に後ろから声をかけられた。

「つつじ」

 振り向いた瞬間、ぱしゃっと写真を撮られる。お気に入りのヴィンテージのカメラを下ろして、ナオミが機嫌よく笑う。

 幼い頃は写真を撮られるのがあまり好きではない理由がわからなかった。気づいたのはずっと大人になってからだ。美しければ美しいほど、写真には死の影がまとわりついている。



 つつじと宮石は、交互に焼酎を口に含んで口移しで飲ませては、キャッキャと延々とはしゃいでいた。

「かわいいですね」

 宮石は何回も繰り返しそう言ってくれた。つつじが大げさなくらいに喜ぶことを学習したからだ。

「気づいたの、最近なの」

「何が?」

「自分がかわいいの」

「遅っ」

 二人は笑いながらベッドに倒れ込んで、舌を絡め合った。二人とも、いい感じに酔いが回ってきた。

「最初に付き合った男がね、あんまりそういうこと言ってくれないヤツだったの」

「ひどいですね」

「家族なんかはさ、そりゃ言ってくれるけど。父親には溺愛されてたし。鏡を見ても、悪くないってのはわかるけど、主観だし、それほど自信なかった。確信をもてたのは、二三年前」

「そうですか」

「男何人変えるまで半信半疑だった。最初の男に、もう別れ際のときだけど、『なんでカワイイとか言ってくれないの?』って聞いたとき、なんて答えたと思う?」

「なんて答えたんですか?」

「付け上がらせたくないからって。半端に自信持たれて、浮気でもされたら困るからって。とんでもなくない?」

「とんでもないのはわかりましたけど」宮石は笑った。「早くヤリてえ」

 宮石はこのように、なかなかの好男子だった。歯並びも完璧だったし、手先も器用だった。最近わかったのだが、つつじは愛のないセックスがわからない。好きな男としかセックスしたくない。ただ、人よりも異様にすぐに男を好きになれるのだった。忘れるのも早いが。

「宮石くん、好き」

 奥を突かれ、足を彼の背中に絡めながらそうささやいたとき、宮石はちょっと照れ笑いを洩らした。男は久しぶりということもあって、彼の体はなかなかよかった。バリッと刈りたてのえりあしを指でなぞった感触など、最高だった。要するに、つつじはどちらかというと、セックスそのものより男という生き物が好きなのだった。これも最近気づいたことだが。

「宮石くんの彼女ってどんな人?」

 うとうとと眠りに落ちかけながらも、つつじは彼の胸に顔を寄せた。

「うーんとね、すごい嫉妬深いです。ケータイとか見てくるんですよ」

「えっ。こんなところいて大丈夫なの」

「はい、そこは、大丈夫なようにしてます。迷惑かけないっすよ」

「そうか……」

「すごくいいところもある子なんですよ。なんとかそのいいところをオレが伸ばしてあげたいなと思ってたんですけど、正直限界かなみたいなのがあります」

「そうか……。なんか……うまく運ぶといいね」

「そうですね。すいません、そういうわけなんで、そろそろ帰らないと」時間は、日付が変わったあたりだった。「宿泊でとってますから、つつじさんはゆっくりしてってもいいですけど」

「じゃあ、寝て帰ろうかな」

 ところが、帰り支度をする宮石のしぐさを見ていると、急にさびしさが胸に突き上げてきて、彼女は言った。「本当に帰っちゃうの?」

「え?」彼はびっくりしていた。「あ、はい。すいません、あわただしくて」

「もっと、ゆっくりしていけないの?」

「いやあ、ほんとすいません」宮石は申し訳なさそうな顔をつくって、「また今度、連絡しますよ」

「ありがとう」つつじは言った。「急にごめんね。なんかわたし、たまに変なこと言い出すの。忘れて」

「大丈夫ですよ」

 宮石はなんの曇りもなく、さわやかに笑った。「またね」

 もちろんつつじは知っている。また会おうと言ってきた男で、本当にまた会ってくれる男は少ない。

 はじめて一夜限りの関係というものを持ったとき、いちばんショックだったのは、自分がその男に執着を持ってしまったことだった。話が違う、と思った。つつじがよく知っている、漫画や小説、映画などに出てくる大人の女たちは、さっそうと軽やかに男と寝た。彼女たちはみなセックスはセックスと割りきり、自立し、男と自分の性を完全に乗りこなしていた。彼女たちの性の主人は彼女たち自身だった。それと同じようにいかなかったのがみじめだった。考えれば考えるほど、自分を被害者のように思ってしまうことが。

 ただ、何度もいろいろな男と寝ることで、そのうちやすやすと割り切れるようにもなった。慣れが大事なのだとつつじは思った。それと同時に、セックスまでした相手なのだからそれなりに固執してもおかしい話ではないということにも気づいた。



 電車の中でそろってうなぎの蒲焼の弁当を食べていた父娘だったが、つつじは半分食べて箸が進まなくなった。

「もういらないの?」

「なんか、もう入んない……」

「本当? ダイエットしてないよね?」

「してないけど、おなかがはってる」

「おれが食べてやるよ」

 ナオミは昼から日本酒を飲んで、ほろ酔いでご機嫌だった。「次な、桜で有名な道があるんだよ、川沿いに」

「桜? もう散ってるよ」

「そんなのわかんないだろ。間に合うかもしれない。ギリギリ残ってるよ」

「散ってるよ」

「わかんないだろ」

 停車駅を告げるアナウンスが流れた。

 桜並木そのものは見事だったが、残念ながら春の強い風にあおられて、いままさに花弁は散りおえようとしているところだった。父は負けずにはらはらと桜吹雪の舞うただなかのつつじをベストアングルで写真に収めようと躍起になった。

「桜よりつつじのほうがきれいだ」

 ナオミはいつも聞いているこっちのほうが恥ずかしいことをさらりと言うが、子ども心にも、あまりそういう男はいないんじゃないかと漠然と予想する。外国暮らしが長かったと自称しているが、そのせいだろうか? 結婚前はパリで売春婦のヒモをやっていたと言っていたが、しかし、そういった武勇伝がどこまで本当かはわからない。

「……お父さん」

「ん?」

「わたし、本当にお父さんの子?」

「……って、思うだろ?」

 並んで歩いていたナオミは、なぜだかうれしそうに彼女を振り返った。「正真正銘、おれの子だね」

「本当に? お母さん、浮気してたかもしれないじゃん」

「なんでそんなひどいこと言うの? 他人がいいのかよ」

「だったら、抱いてくれてたのかなあって思って」

「どうだろうな。いずれにせよ年齢は問題だ」

「だから、何歳だったらいいの?」

「ちょっと待って、お父さん疲れた。一服入れさせて」

 ナオミは木製の橋の欄干に背をついて座りこみ、煙草に火をつけた。彼はどこでもすぐにこうやって腰を下ろす。白いシャツとジーンズ。ちょっと外人みたいに見えなくもない。つつじは真似をして隣にしゃがんだ。

「つつじが生まれた日のこと、すごいよく覚えてるよ。難産でさあ」

「知ってる」

「あ、話したっけ? じゃあ、お母さん、その前に流産してたってことは?」

「知らない」

「あっ、本当。ちなみにおれの子じゃないんだけどね。じゃあ中絶もしてたってのは?」

「知らない」

「マジ? あそう。やばいな、まずいこと教えたかな。言っとくけどそれもおれじゃないからね。彼女なかなか人生経験値高いでしょ? まあいいや、なんだっけそれで、そういうもろもろが手伝って、おれすごい心配だったの。生まれてくる前。わかる?」

「うん」

「検診で、女の子ってわかったとき、うれしくて気が狂うかと思ったのよ。だっておれとお母さんの子なんてさー、もう、絶対かわいいに決まってんじゃん。だから余計もう……無事に生まれてくれ、生まれてくれと……」

「ふふっ。うん」

「生まれてくるの、病院で待ってるあいだ、あー、五体満足じゃなくてもいい、生まれてきてくれさえばいいってすら思った。カタワでも病気でもいい、全然いいって。手塚治虫のどろろのさ、最初に出てくるヤツみたいなのでいいからって」

「どろろ、読んでないよ」

「そしたら、生きて生まれてきてくれて……お父さん、すごい感動して泣いちゃった。すごい泣いたよ」

「うん。それは前にも聞いた。っていうか、お父さん、泣いてる?」

「泣くだろ、普通、思い出したら」

 つつじは笑いが止まらなかった。笑いながら、父の目尻の涙を指で拭いてあげた。

「おれ、バカみたいにかわいがるんだろうな、バカになるんだろうなって思ったけど、まさかここまでとは予想してなかった」

 吐き出した煙が苦笑いにあおられて揺れる。

「まるで、人生から大きなプレゼントを贈ってもらった気分だ。いままで自分のやってきたことは間違ってなかったって、おれのすべてをまるごと肯定されたように思う。きみがおれの家に来てくれたことで」

「娘じゃなかったら、好きじゃなかった?」つつじはおそるおそる聞いた。「よその家の子だったら」

「よその子だったら……? あんまり考えたくないね。だったらいま、誘拐犯としてここにいるってことだろ?」

 二人は笑った。

「感謝してるよ。生まれてきてくれて」

 ところが、その夜つつじは怒り心頭に達した。ざっと水分をぬぐっただけの髪を振り乱して、タオルを一枚巻いただけのつつじはビジネスホテルのバスルームから飛び出してきた。父はバスローブを着て、ベッドで携帯電話をいじっていた。

「お父さん。わたしのシャンプー使ったでしょ」

 彼はあからさまにうろたえた。

「なんで勝手に使うの? 高かったから、大切にちょっとずつ使ってたのに、見てわかるくらいにいっぱい減ってる!」

 トラベル用の小さなボトルに詰め替えたものを、先にバスルームに置いていたのだ。

「そう……悪かったな。いいじゃないか、なくなったら買ってあげるよ」

「イヤだ。わたしのものだから、ちゃんとわたしが自分のお金で買う! あとさ、そういう問題じゃないの。お父さんがわたしの私物に触るのがイヤなの」

 ナオミは愕然と携帯電話を取り落とした。

「え? 何、なんだよその言い草。いまさあ、いま、人をバイキンみたいに言った? いまにお前、お父さんのパンツと一緒に洗濯したくないとか言い出すんじゃないだろうな?」

「そんな話はしてない。あと、お前って呼ばないでっていつも言ってるよね?」

「お父さんだって、お父さんだって……、つつじみたいに超いい匂いする頭になりたかっただけなんだよっ!」

 自分の髪の毛を鼻の前に持ってきて嗅ぎだすナオミの姿に心底から情けなさを感じ、つつじは振り上げた拳を下ろした。そして、じっとりとした軽蔑の目で父をひたすらに睨んだ。

「なんだよ、ごめんよ、本当に悪かったって思ってるって。ヘッ、つつじさんがそんなに怒るの、おれが勝手に『りぼん』のふろく、組み立てちゃったとき以来だな」

「……思い出して、また腹立ってきた。あれは、我慢の限界だったんだよ。わたしが宿題とか夕飯の準備してるあいだに、お父さんが先に読んじゃうじゃん。何回もやめてって言ったよね? 何回も、何回も言ったよね?!」

「だって、続きが気になるんだもん!!」

「だもんって何?! かわいこぶれば世の中、なんでも許されると思わないでよ!!」

 父の携帯電話が鳴った。液晶を見て、彼は咳払いをしてから、電話に出た。

「もしもし? 悪かったね、けさは熱くなって。本当に悪かった」

 さっきまでひっくり返った裏声で子ども相手にケンカしてたのに、バカみたいだ。またイライラしてきた。部屋にひとつきりのセミダブルのベッドに横たわって文庫本を読み始めたつつじだが、もちろん集中できない。家にいるときはこんなときはいつも電話が始まる前に無関心をよそおって席を外したりしたし、自宅に帰ってきた父が女性連れの気配と見るや自室に引っ込むことができた。しかし夜も更けてそのあたりをひとりでぶらぶらするわけにもいかないし、お風呂ももう入ってしまった。父の猫撫で声はいやがおうにも耳に入る。

「一緒に過ごせなくてすまないと思ってるよ。こんど、埋め合わせするから……」

 いままでずっと押し殺してきた嫉妬が、心臓を突き破って溢れ出てくるような思いだった。

 電話を終えて、煙草を潰し消した父が、横目でつつじの様子をうかがう。それを跳ね返すように睨み返してやる。抱き寄せようとしたのか、肩に触れてくる、「さわんないで。汚い」

 父は反射的に手を引っ込める。少し遅れて、ひどく傷ついた表情がそのおもてにたちあらわれる。

「その女のマンコに突っ込んだ指で、わたしにさわるの?」

 父は、これでやっとずっと娘を傷つけてきたことに気づくだろうか?「その女のマンコにキスした唇で、わたしにキスするの?! お父さん、汚い。不潔だよ」

「……つつじ、ごめん。でもお願いだ、わかってほしい」

 ナオミは眉を寄せた。そして声を低くし、やさしくさとすように、神妙に語りかけた。

「いい女を飽きるほど抱いていないと、いいアートは産み出せないんだよ」

「バカじゃないの?!」

 いくら子どもでもこの男の言っていることがおかしいことくらいはわかる。父は世の中をなめている。そして、こんな父の作り出す(つつじから見て地獄の具現としか思えないような)彫刻作品群がどうも一定の評価を得ているらしいのだから、こいつになめられっぱなしの世の中のほうにも問題があると思った。

「おい、どこ行くんだよ」

「家出する」

「おお、久しぶりですね、つつじさんの家出宣言。家出ったって、もう家の外だろ。どこに行くんだ?」

 つつじはホテルに備え付けのクローゼットを開け、吊るしておいたブルゾンとワンピースを出した。

「知らない。お父さんのいないところならどこでもいい」

 ナオミは彼女に静かに歩み寄り、片膝をついて目線を下げた。

「知ってるだろ? きみだけは特別な女の子だって」

「それ、みんなに言ってるんでしょ?」

「それは違う。おれたちには同じ血が流れてる。血の絆で結ばれてる。女はいくらでもいるが、実の娘はつつじひとりだけだ」

 彼は乞いすがるように言った。「だから、おれをひとりにしないでくれ。おれにはきみしかいないんだ。世界でたったひとりの血のわけた娘だ」

 つつじは女王になったように大の男を傅かせていることに優越感を覚える反面、自分の癇癪と父の姿に胸が痛まないでもなかったし、けっきょく自分は自分の運命を受け入れて生きていくしかないことくらいはいままでの人生でじゅうぶんすぎるほどわかっていた。つまり、子どもは生まれてくる親をけして選ぶことができない。

 部屋の電灯をすべて消して、二人は背中を向かい合わせてベッドに横たわっていた。気まずい沈黙を破り、口火を切ったのはつつじだった。「お父さん」

 肩ごしに振り向くと、父もまた彼女のほうを見やる。「さっき、ひどいこと言ってごめんなさい。お父さん、汚くないよ。さわっていいよ」

「……本当?」

「髪の匂いも嗅いでいいよ」

「本当?!」

 さっそくナオミはまるで犬のようにつつじの後頭部に鼻をうずめ、冷えた肩に指をめりこませた。けして嫌悪感があるわけではないが、彼に触れられるとき、その指先から父のいままでの人生での女性たちとの性的経験と歴史が流れ込んでくるようで、妬いてしまうような、あるいは性器の奥が鋭く燃えるような、変な気持ちにさせられるのだった。

「あー、すげえ」

「ちょっ、ちょっとくすぐったい」彼女はぞくぞくと背筋を震わせた。

「すげえいい匂い。これ……これはヤバいな」

「え? ヤバいって何が?」

「いや……つまり……」

 父が照れたように口ごもったことで、微妙な空気が流れた。つつじは昨晩あんなに激しく、哀願にも似て大胆に迫ったくせに、急に緊張を感じていた。

「つつじ……お父さんさ……」

 ナオミが真剣に語りかけようとしたそのとき、ふと、彼はシーツの中を覗く。「どうした? おなか、痛いのか?」

 娘が無意識に軽くおなかをさすっていたのを、彼は気づいたのだった。

「なんでもない」

「そんなことないだろ。ほら、おれが撫でてやるよ」

「……ちょっと、便秘してるんだよね」

「えっ!」

「旅行とか行くとき、いつもそうじゃん。環境変わると、なんかダメになる」

「便秘か……、よし! つつじ! 浣腸してやる。薬局閉まっちゃったかな。明日朝一番!」

 いきなり大声を出されたのと、息を吹き返したように元気になったのとで、つつじは面食らった。「何言ってんの? そんなのやだよ。アイスいっぱい食べて治すから平気だよ」

「いや、ダメだ。答えがわかった。浣腸だ。浣腸すればいいんだ。だって、娘にいくら浣腸しても、合法だろ?! セックスなんかしてる場合じゃないよ、これは!」

「だから、本気で何言ってんの?!」

 ナオミの体を振りほどこうともがいだ拍子に、下着に包まれた熱く硬いものを腰のあたりに感じて飛び上がった。

「……なんですごい勃起してんの?」

「いやあ」

「お父さん、やっぱり離れて寝て」

「言っておくけど、お父さん、つつじのアナルくらい見たことあるからね。おれがおむつ取り替えてたんだから」

「離れて寝て」



 二十五歳になったつつじは髪の毛をボブにして、銀色に染めていた。彼女が所属する劇団の、今度の公演の役柄に合わせてのものだ。ウィッグは蒸れて、手間がかかるから嫌だったのだ。

 つつじはその夜、最近仲良くなった俊介君に連れられて、彼の友人の新居をたずねようとしていた。友人氏は鈴原という名前で、かねてから付き合っていた彼女と同棲をはじめるために引越しをしたのだった。引越し祝いに軽く集まろうというわけだ。

 鈴原は、前に一回、彼氏の飲み会に呼ばれて行ったら、そこにいたような気がする。猫背と、垂れた眉毛が印象的だった。

 家に上がると、全部で四五人ぐらいが床に座って歓談するなか、鈴原はアコースティックギターをつまびきながら彼らの話に耳を傾けているところだった。

「おつかれっす」

「おじゃまします」

「こんばんは」

「鈴原さん、つつじちゃん来てくれましたよ」

 彼らはもうどうやら酒が入っているようで、気分がよさそうで、声もでかい。「ほら、ここで、鈴原さんからつつじちゃんへ何か一曲」

「野見山さんに?」

 鈴原は笑いながらも、即興でポロリポロリと簡単なコードを弾き始めた。照れているのか、顔は伏せたまま。「じゃあ、野見山さんに」

 彼はしずかに歌いはじめた。「……セックスばかり、してちゃ、ダメですよ」

 一同は笑った。ちゃぶ台のそばに陣取りながら、つつじも笑った。なんで知っているのだろう。

「きみが走る、きみが踊る……」

 鈴原の歌声はため息に近くはかなく、十代の少年のようだった。本人は三十に近いのだが。

 彼は上目遣いでつつじを見すえた。

「……きみが走る……八月の雨……」

 鈴原宅はしんとした。それは彼がこの夜これから、リクエストに答えて歌を歌うたびにそうなった。

「赤いー……赤いー……、赤いー」

 聖子ちゃんの『赤いスイートピー』のサビの、『赤い』の『い』の音が出なくて、鈴原は何回か歌いなおした。この通り、けして歌がうまいわけじゃない。でも、少なくともつつじは、いままでいちども聞いたことのない歌声だと思った。

 例によって彼らは酒を飲んで騒いで、明け方にはみんなで雑魚寝になった。ここへつつじを連れてきてくれた俊介君は、彼女に気があるので、ピッタリとガードするように隣に寝たが、触りもしてこない。同じ劇団の男だが、顔が好みでないので、特につつじのほうからも積極的にセックスには誘わない。年をとってから、男にはうるさくなってしまった。

 それよりも、つつじはずっと、うわのそらといえるほど、鈴原の歌のことを考えていた。彼がアドリブで歌詞を考えて適当に歌を歌えるのは、仲間うちで有名らしい。

 空気そのもの、あるいは空気のおぼえている記憶そのもののような鈴原の声色を思うと、不思議なことだが、自分が八月の雨を……八月に降る雨ではなく、あの八月の雨のことを知っているような気がする。つつじが八月の雨のなかで踊る姿を、鈴原の目をとおして見つめられたことを、ありありと思い出すことができるような気が。

 喉がやけつくような郷愁を感じる。これがわたしが探していたものなのかもしれない、とつつじは思った。起こりえなかったことを思い出すすべだけが、自分には必要だったのかもしれない。

 午前四時の暗闇の中で、奥の部屋のダブルベッドがもぞりと動く。鈴原だ。彼はつつじの目の前で、冷蔵庫をあけ、すぐに閉め、コップに水道水を汲んで飲んだ。

「わたしにもちょうだい」

 ねぼけた目の鈴原が振り返る。立つと、意外と背が低い。そして、目が横に長い。

 つつじは起き上がって、コップをそのままもらって水を飲んだ。

「お茶ないから、コンビニ、行ってくる」

「……わたしも行く」

「一緒に行く?」

「うん」




 翌日彼らはまた少し電車に乗って、荷物をホテルにあずけ、古寺などを巡って歩いた。ナオミは熱心に写真を撮るなどしていたが、興味のないつつじはうわのそらだった。つつじが思いきってナオミの手をとったことで、彼らはひさしぶりに手をつないで歩くこととなった。それが通行人にどう見られるかばかりが気になった。恋人どうしにしてはつつじは幼すぎるし、父娘にしてはもう手をつなぐ年齢じゃない。今夜にも思いを遂げるかもしれない近親相姦の父娘だと勘づかれたりはしないだろうか? ナオミの手のひらが汗ばんでいく、あるいは自分も。汗と汗とがまざりあう。青い空に黒くまっすぐなナオミの髪の毛が風に揺れ、白いシャツが帆のように膨らむ。目を細めて煙草の煙を吸い込むしぐさ。

 父の手が頭を撫でるとき、銀製のごつい指輪の質感が髪のうえを通り過ぎる感じが好きだった。

「バニラアイスみたいな肌だ」

 買ってもらったカップアイスを歩きながら食べている彼女を、父はまぶしそうに見つめた。あまつさえ、毛の生えた手の甲をつつじの頬や肩などにすべらせて感触を楽しむ。人前で愛撫を受けているようだ。「なめらかで、きめが細かい。いまにも溶けてしまいそうだ」

 こんな感じで、コンビニを見つけるたびにアイスを買い食いしまくったおかげで、お通じの問題は解消した。気分爽快というよりほかない。

 二人はホテルのエレベーターに乗り込む。ほかに客はいない。

 ナオミはあした旅の終着地点にたどりつくと思わせぶりなことを言った。帰りは飛行機だから、旅先で過ごす夜はきょうで最後だ。つつじは期待していたし、また、ナオミの緊張と高ぶりも、本人は隠しているつもりのようだが、肌で感じていた。彼女はそっとナオミの肩に、というより二の腕のあたりに頭をあずけた。

「きみの考えてることをあててやろうか」とナオミ。

「うん」

「頭の中がエッチなことでいっぱいで、そんな自分に嫌悪感を感じている」

「ふっ。よくわかるね」

「安心しな。大人になっても同じだから。おれなんてさあ、三十越えたら逆にもっと性欲強くなった」彼は煙草をくわえた。「しかも、きょうで禁欲四日めだ。こんなに抜いてないの、精通以来ねえよ」

「オナニーすれば? 知らんぷりしててあげるから」

「ないない。娘と同室だよ。性的虐待だ、そんなのは」

 冗談だと思って彼女は笑ったが、ナオミはけっこう真剣だったかもしれない。

 彼はいつも何よりも、つつじとの間の出来事が彼女の心の傷にならないかばかりを心配していた。それが彼の社会的立場をおびやかしたり、あるいは後ろに手がまわったりといったことは二の次である印象を受けた。それが余計に娘への愛情を感じさせて、つつじはせつなかった。

 つつじは風呂からあがり、ストライプのキャミソールに同柄のショーツという出で立ちだった。ベッドの上で、枕を抱くようにして横になってテレビを見ていたが、父はとうに落ち着きをなくし、ベッドのまわりをうろうろしたり、カーテンをあけて夜景を見たり、腕立て伏せをしたり、いちどに一本だけしか吸えないのがもどかしいとでもいうかのようにせかせかと煙草を吸った。

 バスローブの前が割れて、下着が見えているのも気にしていない。父はいかにもカルバン・クラインのボクサーを穿いていそうな男だが、意外と、本当に穿いている。つつじは知っている、彼はサービス精神旺盛な人間だから、いつも無意識のうちに他人の期待に応えている。そこがもてる秘訣なのだろう。あるいは、もてるからそうなのか。

「テレビドラマでもポップミュージックでも、毎日毎日、男女がほれたはれた、くっついたはなれたなど、世の中に垂れ流されている」とナオミはベッドに腰を下ろした。「一夫一婦制の名のもとに、男女間の独占欲は正当化されて、浮気や不倫は断罪される」

 彼は芝居めかしてて、風を切るように勢いよくつつじを振り返った。「なら、どうして父親の独占欲だけが踏みにじられなければいけない? おかしいじゃないか。なんで父親だけが、かわいい娘が知らん男にうまうまと寝取られるのを黙って見物していなきゃいかんのだ!! 世界で一番つつじをよく知っているのは、このおれなのに!!」

 ナオミは虫のようにバタバタとつつじに這い寄った。その目は苦悩に血走っていて、それを見たとき、早く体と心を重ね、彼の痛みを分かちあいたいとつつじは強く思った。

「つつじ……、どう思われてるのかわからないけど、おれは芸術でできうるかぎりの最高の仕事をするよういつも心がけてるし、父親業でもそうだったんだ。この子にとって最高の父親ってどんなだろうって、いつも考えてきたんだよ」

 つつじは黙ってうなづいた。そんなことはとっくに知っていた。見ていればちゃんとわかった。

「考えてみたんだ、女の子にとって初体験の相手として最高なのはどんな男か? おれのかわいいかわいいつつじの、一回きりの処女喪失の相手として、どんなヤツなら許せる? そうだなぁまず、痛くしないように経験豊富なのはもちろんとして、紳士で優しいのも必須だし、顔だっていいほうがいいに決まってる、いつまでも思い出に残るんだから、さあ、娘よ、お父さんの言いたいことがわかるか?」

 つつじは半笑いで答えた。「ふさわしいのは、自分」

「そうだ! つまりそれって、おれのことだ!! おれ以上にいない!! つつじ、お父さんは最高の父親として、つつじに最高の初体験をプレゼントするっ!! それが父親の仕事じゃないか!!」

「うれしい」抱きつこうとした彼女を、父親は押し返し、冷静にシーツの上に戻した。

「……十六歳の誕生日に」

「え?」

「十六歳の誕生日にだよ」

「え?」

「だから、誕生日プレゼントだよ」

 つつじはまじまじとナオミを眺めた。「……なんで十六歳?」

 それはいまの彼女にとって想像もつかないくらいに遥か未来に思われた。

「おれが童貞を捨てたのが十六だからだ」

「それ、いまどう関係あるの?」

「怒るなよ。高級ホテルの最上階を予約してやる。いっちばんいい部屋の、天蓋つきのベッドなんてどう?」

 みるみるうちに真っ赤になってナオミを睨みだすつつじのご機嫌をとるように。

「なっ、いいだろ、ベッドに薔薇の花びらを敷き詰めて、薔薇の香りの中で愛を確かめ合おう。タキシードで迎えに行くよ」

「……イヤだよ、そんなバカ丸出しみたいなの」

「バカ丸出しとは何だよ。当然のことだよ。神聖な儀式なんだから」

「だいたい、わたしが十六歳まで待ちきれなかったら、お父さん、どうするつもりなの?」

「待ちきれなかったらどうなるんだ?」

「彼氏をつくって、家に呼ぶかもね」

「来られたら、おれはつつじとのセックスをそいつに見せつけるだけだ」

 つつじは吹きだした。「……自分はいろんな女と好きに付き合ってるのに、矛盾してる」

「してないよ。彼氏を作るなとは言ってない。黙って見せつけるだけだ」

 ソファテーブルの上のナオミの携帯電話が鳴った。ナオミはいちおうつつじを気にするそぶりを見せた。

「取りなよ」

 彼はそうした。父が立ったまま話をしているあいだに、つつじはふてくされてシーツにもぐりこむ。

「もしもし……どうした? 落ち着けよ、そんなに怒って……」

 父の表情が固まる。

 大きな沈黙。

「冗談はやめろよ」ナオミは笑った。「電話で別れ話?」

 つつじは顔をあげ、注意深く彼を見守った。

「そこに誰かいるのか? ……おい、待て。もしもし? もしもし? 誰だ、お前は?」

 どうも、雲行きが怪しくなってきた。

「お前、ゆり子の何だ? おれの女に何した? いまそこはどこなんだ?」

 茶番と言うしかない。彼女は天を仰いだ。世話が焼けることにほとほとうんざりしながら、真っ赤な顔の父の腕をひいて制止してあげる。「やめなよ、お父さん。そういうの、すごくみっともないよ」

「このクソ野郎、よく聞け! おれの女に触ってみろ、楽に死ねると思うなよ! 首洗って楽しみに待ってろ!!」

 携帯電話をベッドに放り投げる父を見て、つつじは嘆息した。今までも居間や寝室で父とその恋人が痴話げんかを始める声がつつじの部屋まで聞こえてきたり、深夜に元恋人が押しかけてきて玄関先でギャアギャア喚いたりといったことはあった。親切心から忠告してあげたのは初めてだったが、無駄だったようだ。

 ナオミはバスローブを脱ぎ捨て、クローゼットからシャツやズボンを取り出した。

「どこ行くの?」

「帰る。今からあの野郎を殺しに行く」

 つつじはめまいを感じた。「今から? 電車で?」

「知らん、飛行機か新幹線か、とにかくどうとでもする」ナオミは憤懣やるかたないといった表情で彼女を振り返った。「女を寝取られといて黙っていられん」

「わたしはどうなるの?! 置いていくの?!」

「それは……」

 ナオミは言葉に詰まった。つつじのまっすぐなまなざしに貫かれて、やっと冷静さを取り戻してきたのか、首をふりふり、服をクローゼットに戻した。

 彼は黙ってベッドに腰を下ろし、頭をかかえた。つつじもその隣に座る。

「どうしてそこまで熱くなるのか、よくわからない。ひとりにふられたくらいで」と彼女は言った。「かわいいカノジョ、他にもいろいろいるんでしょ?」

「たいして意味はない」

「どうして?」

「みんな去っていくから」

 ナオミはつつじの裸の太ももにすがりつき、頬を寄せた。無精ひげがつつじの肌をちくちくと刺したが、もうひとつ感じるものがあった。父の熱い涙だった。

「みんな、おれを置いていってしまう」

 彼女はためらいがちに父の頭を撫でた。彼は目を閉じ、小さく何度かしゃくりあげた。つつじはナオミの気の済むまで膝枕をしていてあげたいと思ったが、やがて彼が寝息を立てはじめたので慌てた。

 ねぼけまなこのナオミをうながしてきちんとシーツの中に寝かせると、彼はどこにも行かせないとばかりに、こんどはつつじの発育の順調なおっぱいに強くしがみついてきて離れないのだった。子どものようだと思いながらベッドサイドランプを消した。でも悪い気分ではなかった。

 つつじは母が家を出ていったばかりのころを思い出した。母の記憶はだいぶ薄れているが、なんでもファッションモデルをやっていたらしく、髪を金に染め、背が高く、宇宙人のように頭が小さかった。妻にあっさりと捨てられた父はずいぶん荒れて、酒びたりの自暴自棄の生活を送った。小学校にあがったばかりのつつじの膝に泣きすがるときすらあった、ちょうど今夜と同じように。そのとき、この人は自分が支えていかなければいけないのだと強く思った。そして、だからこそかえって自分は母に置いていかれたショックを感じる暇がなかった。そういう意味では奇妙にも父の幼児性がうまく作用したと言えるかもしれない。ナオミが父ではなかった人生なんて、自分には想像がつかない。



「初日、いつからだっけ?」

 坂の階段を下りながら、鈴原がたずねてきた。つつじの劇団の公演のことだ。

「来週」

「そっか。悪いけど、オレ行けそうにないな」

「そうなんだ」

「野見山さん、ヌードになるんでしょ?」彼はニヤッとした。「見たら、あやさんが妬くと思うから。だから、ごめんね」

「ぜんぜん。しょうがないよ。ふふっ。あやさん、かわいいね」

「気が強いんだよなー。そこがいいんだけどね」

 鈴原の同居人は、夜中すぎに家に帰ってきたが、きれいだがいかにも気の強そうな女性だった。

「やっぱり、緊張するの? 脱ぐのって」

「脱ぐのは、まったく」

「本当? 初めてじゃないの?」

「初めてだけど。わたし、そういうの平気なの。誰にでも、何にでも見せれる。道ばたで、いまここで脱げって言われても、脱げる」

「アハハハハ。いいね。あっ、そこの段差気をつけて」

 つつじは、段差を気をつけて下りた。

「ありがと。いいねって何が」

「オレの女の子の好み、第一位は、気の強い人。第二位は、こっちが返事に困るようなことを言ってくる人」

「フッハッハッハッハ。第二位、わたしじゃん」

「まあそのとおりだよね」

「……あのさ。なんでわたしがセックスばかりしてるって知ってたの?」

「みんな知ってんじゃん」

「……まあ、そうか」彼女は苦笑いした。「でも、みんなが思ってるほどビッチじゃないよ」

「いいよいいよ。野見山さんはそのままで。男どもが憧れる素敵で可憐なビッチでいてくださいよ」

「いやだから、本当にそんなに意外とセックス、してないんだよ。ちょっとはしてるけど」

「野見山さん、最近ファンも増えてるんでしょ? 期待を裏切っちゃダメだよ」

「劇団の?」彼女は後ろ頭を掻いた。「本当言うと、よくわかんない。誰でもいいんじゃないの、って思うときある」

「ああ……それは野見山さん自身が、自分に自信がないからだよね?」

「そういわれればそうかもしれない。……ちょっと待って。ミュールのストラップ、すごい食い込むの」

 つつじは他人の家の花壇の囲いに腰をすえて、膝を立てて靴の具合を直しはじめた。

「本当は、いつも不安で逃げ出したくなる」

「舞台?」

「うん。こんなことやってて、何になるんだろうって思う。伝えたいことはどこにも伝わらないし、どこにも行けないって気がして……返事に困ってる?」

 鈴原はにっこりした。「うん。だから心配いらない。第二位だから。できた?」

「おわった」

 差し出された手を、つつじは素直に握って、立ち上がらせてもらった。

 鈴原は手を離さなかった。つつじもそうだった。だから、二人はそのまま歩き出した。

「……月がきれい」

「ほんとだ」

 彼女はろくに見もせず言った。意外にもすごく胸がどきどきして、どうしてもうつむきがちになってしまっていたから。

「野見山さんもきれい」

「アハハハ。本当?」

「うん」

「ありがとう」

「彼女がいなかったら、ほっといてない」

 まるで映画か何かのセリフのようだが、まっすぐに前を向いてぼそりと言ったものだから、社交辞令にも思えない。

 つつじがちらりと鈴原をうかがう。同時に鈴原の濡れた黒目が彼女を見る。その瞬間、霧のようにやわらかなあの八月の雨の音をつつじは聴いた気がした。

 コンビニからの復路は、彼らは不必要にべたつかず、ごく普通に帰ってきた。それで命拾いをした。アパートの部屋の前で、あやさん、つまり鈴原の同居人が、ドアに背をつけて、二人を待っていたのだった。鈴原はぱくぱくと口を開けたり閉じたりしてうろたえていた。つつじは吹き出しそうになったが、懸命にこらえた。つつじはさっさと中に入り、俊介君の背中に抱きついて、朝まで寝ようとした。二人はドアの外で少し何か話をしていたようだが、やがて入ってきて、やはりもういちど眠った。もう少しだけ若ければ、奪おうと奮闘したかもしれないし、それが可能だったかもしれない。でも、つつじはもう知っている。自分は世界の、すべての物語の主役になることはできない。ただそれだけに胸を裂かれて、眠れない夜が続いたのも昔の話だ。だが、いまでも少し、あきらめの悪さを抱えていることは事実だった。



 つつじが今回の旅に誘われたのは、ナオミのベッドの上でだった。

 その夜彼女は抗しがたい不可解な力に誘われてナオミの寝室をノックした。つつじが寝るときはたいてい父のお古のTシャツとショーツという恰好だったが、きょうもそうだった。部屋を暗くして映画を見ていた父は不審げにつつじを見た。

「どうした? ……寝れない?」

 つつじはうなづいた。

「おいで」

 ナオミは布団をめくった。彼もまた、ふだん寝るときと同じで、身につけているのは下着だけだった。

「ちょうど、おれもきみに話があった」

 つつじはどきりとした。

 毎晩のように、父の寝室から盗んできたコンドームの説明書の文章と図解を見ながら、布団の中で足と足の間をいじるのをやめられなかった。そしてその指が父のものだと空想すると、甘く、痛いほどの快感が体を駆け抜けるのだった。未知の感覚はつつじを魅了してやまなかった。父に犯される想像が頭から離れなかった。夜中に物音が聞こえると、父が自分に夜這いをかけに来たのかもしれないと思って、体が熱くなった。その一方で、自分はなんていやらしい子なんだろうと自己嫌悪に陥った。

 罪悪感があるせいでそう感じるのかもしれないが、ナオミは最近様子が変わった気がする。たとえば夜つつじが自室にいるときに、何かとつまらない用件でドアの外から声をかけてみたり、お風呂に入っているときに、湯加減はどうか聞いてみたり。朝食や夕食の席でも、以前にくらべて、どことなく口数が多くなった。父は、狼狽しているときや隠し事があるときに多弁になるタイプなのだ。自分がオナニーしていることを知られたら、それもナオミとセックスしているところを思い浮かべながらということを知られたらと考えるだけで死んでしまいたくなった。

 つつじは死刑宣告を待つような気持ちでしずしずとナオミのベッドに身をすべり入れた。

「あのさ……つつじ……勘違いだったら悪いんだが、その、そこにある、おれの私物……」彼は顎をしゃくった。「こないだ見たら、なんか減っているような気がしたんだ。何個か、持っていった?」

 彼女は知らず知らずのうちに止めていた息を吐き出した。「コンドームのこと?」

「そう」

「持っていってない」

「そうか」ナオミは唇をなめ、視線を外し、小刻みに何度かうなづいた。映画の画面が変わるたびに、照らされるナオミの相貌も印象を変えた。父は、彼自身が彫刻作品のように美しかった。

「心配だっただけなんだ、さすがに早すぎると思って。……でも、必要になったときはちゃんと使えよ。できれば、お父さんみたいないい男と付き合うんだぞ」

 ナオミはいつものようにいたずらめかして笑ってみせたが、つつじの心臓はまだ高鳴っていた。自慰のことを咎められるのではなかった安心感で、いまさらのように彼女は震えた。

「つつじ?」

 彼女は涙を流していた。ナオミはひどく驚いた。

「ごめん。お父さん、怖かったか?」

「ううん……」

「悪かったよ。変なこと疑ったりして。ごめんな。いい子だよ、つつじ」

 父の大きな手がつつじの頭を撫でる。彼女のそれと比べてまるで岩のようだ。つつじはこんなときでも、父の手で触られることに快感をおぼえている自分を見つける。

「お父さん」

「ん?」

「わたし、お父さんみたいな男の人と付き合うの、イヤだ」

 ナオミの傷ついたような顔に言葉を重ねる、「お父さんがいい。……お父さんが好き。わたし、ぜんぜんいい子じゃないよ。お父さんを独り占めしたいの」

 後から考えても、このときほど勇気を振り絞ったことは、人生のうちでそうそうなかったと思う。なまなかの決断ではなかった。父がむげに拒絶することはないだろうと信じていたからこそできたのかもしれない。

 首すじあたりに手をかけて引き寄せる。唇よりも、小鼻と小鼻が先にキスしてしまったが、それ以外は何も間違ったことはなかったと思う。ちらりとまぶたを開けてみると、至近距離で目が合ってしまって、気まずさからそっと唇を離した。

「……久しぶりだな。つつじとチューするの」

「うそ」

「本当だよ。ちっちゃい頃はよくおやすみのキスしてくれた。覚えてないの?」ナオミは笑った。「またお父さんが好きだなんて言ってくれるとは思わなかったな。嬉しいよ。もうこんなに大きくなっちゃったし、最近よそよそしいし、ジャイアントスイングかけてあげるって言っても喜んでくれなくなったしさ。でも、お父さんと結婚はできないから、それはわかってほしいところだけど」

 父は、急に多弁になっていた。

「違うよ。そんなんじゃない」彼女は語気を強めた。「わかってるんでしょ? わたし、お父さんが付き合ってる女の人としてること、わたしもしたいの。お父さんとしたいの」

「……ああ」

 ナオミの表情は、はっきりと凍りついた。彼はひきつった笑顔で何か口にしようとしたが、しばらく言葉にならなかった。

「……わかる、わかるよ。そういうことに興味が出てくる年頃だもんな。当然だな、つつじもなんだかこの頃、女っぽくなってきて……さっきのキスも、色っぽくて、おれちょっとドキッとしたぐらいだし……」

「お父さん、なんでわたしを見ないの?」

「いや……」

 彼は激しく目を泳がせ、けしてつつじを見ることがなかった。「ちょっと照れてるだけだよ。意味はない」

「どうして我慢するの?」

「我慢って何を?」

「わたし知ってる」

「……何を?」

「ベッドの下」

 大きく見開かれた目がつつじを射抜いた。彼女は父の額を手の甲でぬぐってあげた。彼は汗だくだった。

「全部、見たよ」

「違う、違うんだ! ……あれはおれのじゃない、その、勝手に友達が……いや、いい、なんでもない……」父は絶望のうちにぐったりと目を閉じた。「なんでベッドの下なんか見るんだ? きみがそんなに悪い子だなんて……」

「あれと同じこと、お父さんがしてくれたら、もう死んでもいい」つつじは急にまた涙がこみあげてくるのを感じた。我知らず口走ったその言葉から、自分がどんなに父が愛しくて愛しくてたまらないかを知らされた気がした。彼女はナオミの発達した胸板に抱きついた。もっともっと近くに行きたかった、Tシャツごしのノーブラの胸を押しつけ、裸と裸の足も絡めても、まだ足りないくらいに。

「……突然こんなこと、言い出してごめんね。わたし、いやらしい子? 嫌いになった?」

「まさか……」ナオミは彼女の頭にキスする。「いやらしい子なんかじゃない。いやらしいのはおれだよ」

 最初は遠慮がちに求められたキスは、しだいに嵐のように激しくなった。侵入してきた舌が上口蓋を巧みに這い回り、つつじの体から力が抜けた。ナオミの両手が彼女の育ち盛りの乳房を痛いほど揉みしだいた。

 ナオミは傷つき痛みに苦しんでいる人間のように息を荒くしていた。

「また、新しいパンツ買ったんだな」彼はつつじのレースのついた下着に指をかけ、顔を近づけて目をこらした、「大人がはいてるのと変わらないじゃないか。なんでこんな色っぽいパンツ丸出しで、いつもおれの目の前をウロウロするんだ? 目のやり場に困るのに」

「……だってそんなの」昔からじゃん、と言おうとするのを父は遮る、

「もう昔と違う。こんなにお尻も大きくなって。きみが毎日どんどん美しく、女になっていくのを、おれは指をくわえて見ているしかない……そうしてるうちにつつじが知らない男のものになるなんて、耐えられない」

 ナオミはやにわにつつじに覆いかぶさって正面から向き直った。真剣そのものといった顔で彼女の手をとる、「つつじ、好きだ」

「……わたしも好き」

「死ぬほど愛してる」

「わたしも」

「世界で一番」

「世界で一番」

「つつじを抱きたい」

「お父さんに抱かれたい」

「めっちゃくちゃにしたい!」

「……めちゃくちゃにされたい」

「つつじのオナニーを見たい!!」

「えっ?!」

「孕ませたいっ!!」

 あっけにとられるつつじの顔を見て、ナオミは我にかえった。二人は同じくらいぽかんとしていた。「……おれ、いま、なんて言った?」

 二人はお互いに言葉を探し、非常にぎこちない、よそよそしい空気が流れた。ナオミは枕を立てて背中をあずけると、疲れた様子で煙草に火をつけた。その一瞬だけ、すっかり老け込んだような父の顔がはっきりと浮かび上がった。「おれはおれからきみを守らないといけない」

「でも、わたしは……」

「おれは女好きかもしれないが、分別のないけだものでも、悪い父親でもない、と思いたい。父親には娘を守る義務があるんだ」

 義務? そんなものが何だというのだろう。まるで、普通の父親みたいなことを言う。昔からぜんぜん普通の父娘じゃないのに。自分は児童虐待の本の中に住んでいる「被害少女」でも「患者」じゃない。ナオミにだったら何をされてもいいと、もう心は決まっているのだ。

「……抱いてくれないの? こんなに愛してるのに……」

 彼はつつじの手をとって自分の下着の前に持っていった。その硬さや熱さ、大きさ、それにずっしりとした量感はすべてが予想をはるかに上回った。彼女は息をのんだ。

「これがきみを傷つけるんだ。わかるな?」

 確かに、つつじは正直に言って、まったくの未知の感触に恐怖を覚えていた。これが体の中に入ってくるなんて、とてもではないが想像がつかなかった。

「おれたちはいま、お互いに執着を抱いている状態だ。対応策を考えて、結論を出さなければいけない」ナオミはため息と一緒に煙を吐き出した。「それがどのような結論であれだ。感情や欲望にただ流されるのが一番いけない。自分の人生は自分で選択しないと」

「……うん」

「つつじももう一度、よく考えてみろ」

「そうする」

 彼女は父のペニスの上に置かれた手をゆっくりと引っ込めた。あれだけ恐ろしかったのに、なんとなく名残り惜しいような、もっと触ったり見たりしたいような気もした。

 サイドテーブルの灰皿に煙草の灰を落としながら父が言った。「旅行を計画してるんだ。一緒に来るか?」

「二人で?」

「もちろん」

「行く」

 絶妙のタイミングで映画が終わり、DVDが再生を終了した。暗闇が部屋を満たした。

「もう寝なさい」

 ナオミは闇の中で手探りで何かの錠剤を口に含み、氷の溶けたウイスキーで飲み下した。背中を向けて彼はさっさと寝息を立て始めたのでずるいと思った。この一枚のシーツのうえで彼らはいまだに男と女の存在である余韻が尾を引いていた、ナオミがつつじを衝動的に犯しかけたことによって。つつじは火照った頬を父の大好きな肩甲骨に寄せた。二人で寝るのは久々だったが、それゆえに緊張した。しがみついて、父の顔を思い出してみる。ベッドの下の本と同じことをしてと言われたときの、驚愕した父の表情を。だが、その瞬間、ゆっくりと喉仏が上下に動いたのも確かにつつじは目撃して、満足と同時に下腹部が疼いた。つつじの下着はすっかり湿っていた。

 とても寝つけないために、ベッドを下りて寝室を出ていこうとすると、寝言か、もしくは寝言に見せかけたひとりごとめいて、背を見せたナオミがぽつりとつぶやく。

「つつじのオナニー、見たい……」

 彼女は笑いをこらえて自室に戻った。



 結論から言うと、つつじに十六歳の誕生日は来なかった。

 彼女は待てなかったか、もしくは待たなかった。インターネットで知り合った、倍の年齢の男と雨の中で待ち合わせた。つつじは中学生だった。愛し合っていると思っていた。だけど、あとになって思えば、ままごとに過ぎなかった。彼女は自分を老成した子どもだと思って、自分の判断力に重きを置いていたが、それが失敗だったのだと思う。世の中の映画や小説にはよく、とても老成した子どもが出てきて、大人はそういう登場人物が好きだし、子どももたやすく、時には激しく自己を投影する。だが、そういうのはフィクションだ。たとえばポルノと同じような。つつじは自分を、かつて思い込んでいたのとは逆で、ほんとうは人よりずっと物事がよくわかっていなかった子どもだったのだとあとになってから気づいた。

 発育途上のつつじの体の外性器は勃起したペニスを満足に受け入れることができなかった。彼女は大いに自責の念にとらわれて打ちのめされると同時に、やはり父を選ばなくてよかったとも思った。痛みに身をよじり、目に涙をにじませる娘の姿に、ナオミはどれほど心を痛めただろう。

 初体験といえるようなものにはならなかったが、そのかわりもう処女でもなくなった。ラブホテルを出てすぐにつつじはあたりの風景を見回してみたが、特に何も変わらなかった。世界は何も変わらなかった。父すら何ひとつ勘づいた様子はなく、何も変わらなかった。落胆よりも、やはり安堵が大きかった。自分の予想は間違っていなかった。その女が処女かどうか、あるいは男性経験が多いかどうかを世間はことさらに重大視しすぎているとつつじはつねづね感じていた。それほど大騒ぎする問題でもないし、初体験なんかで女は豹変しない。

 きっと、つつじが十六歳の誕生日プレゼントを受け取ることを回避した理由もそのあたりにあったのだと思う。処女喪失が神聖な儀式なんていう父の口吻には反発を覚えたし、彼がそう信じているかぎり、思想の対立によって漠然と自分はいつか父を不幸にすると思われた。

 十六歳の誕生日をどのように過ごしたか覚えていない。演劇部に入っていたから、部活で遅く帰ってきたかもしれないし、冷蔵庫の残り物で適当に何か晩ごはんを作っていたかもしれない。夜にアトリエにこもって作品を制作することが多く、昼夜逆転しがちのナオミと顔を合わせたかどうかもあやしい。こんなに記憶があやふやということは、つつじはよっぽど、かつての約束を意識していなかったのだろう。だが父はどうだったろう。あいかわらず彼らは人並みよりずっと仲のよく、スキンシップの濃厚な父娘だったが、いつからか娘の、父への狂おしい固執が、水のなかでほどけるように薄らいで消えていったことを気づかぬわけがなかった。そして彼はそれにいちども言及しなかった。

 つつじの選択はけっきょくさまざまな意味で正しかったのだろう。ナオミは自らの行為の重荷に耐えられなかったに違いない。この後の一生を自分の罪の奴隷として生きたろう。だけど。

 ナオミからの留守番電話に気づいたのは、千秋楽を終えてすぐだった。楽屋で、汗をぬぐいながら、まったくなにげなく携帯電話をひらいたのだ。

「……久しぶり」

 長い沈黙。

「実は、きのうまで京都に帰ってたんだ。母さんが……きみのおばあちゃんが死んで。葬式が終わって、いま、家に帰ってきたよ」

 京都は、ナオミの実家がある場所だ。

「こっちに来ないか? 久々に。それじゃ」

 一瞬だけ、彼の声は震えた。気がついたら、つつじは仲間に手短に事情を話して、電車に飛び乗っていた。舞台用の濃い化粧や、昔のSFに出てくる未来人のような銀色のタイトなミニワンピースもそのままと気づいて、自分で笑えた。

 つつじの生家は、住宅街からは少し離れた、自然の森に近い場所にある。ついたころにはもう真夜中だった。開け放たれた出窓からピアノの演奏が聞こえる。突出してうまいわけでもへたなわけでもない。鍵を使って勝手に入る。

 黒いガウンを着てグランドピアノを演奏していたナオミの手が止まり、くるりと椅子を回転させて、彼女を向いて立ち上がる。つつじは苦笑いした。いったいどちらが役者なのかわからない。昔から徹底的に芝居がかっている男だった。そこが好きでも嫌いでもない。ただ、こんな父を持っているというだけのことだ。

 壮年を迎えたナオミは髪やひげに白髪が混じってはいるが、あいかわらずの美丈夫ぶりだ。かつてと違って髪を短くしているのもまたよく似合っている。下がった目尻が作る笑いじわも好ましい。お腹はちょっとでっぱった。でも、いまだにモテていることは想像にかたくない。

「火星から駆けつけてきてくれたの?」

 歩み寄るつつじを抱きしめかけて、ナオミはひろげた手を戻した。変わらない、煙草とブランデーの香り。「失敬。ついこないだまでずっとヨーロッパだったんだ。癖が抜けなくて、みんなにキスしそうになる」

 これだよ、こういう、演出じみた言動。これがナオミという男だ。彼はニヤッと笑ってみせるが、その白目は真っ赤に充血している。

「乾杯しようよ」

 つつじの誘いをことわるわけがなかった。

 二人はバルコニーに出て、ロックグラスどうしを軽く打ち鳴らした。「事後報告なんて、お父さんらしいね」

「おばあちゃんのこと?」

「そう」

「だって、きみ、公演期間だったろ? 穴を開けるわけにもいかないし、開けないにしても万一、動揺したら困るよ」

「そんな……たいしたことはやってないよ、サークル活動みたいなもので……でもそんなこと、よく知ってるね」

「つつじのことならなんでも知ってるよ」ナオミはいたずらめかして微笑んだ。「ウソだよ。期間なんか、劇団の公式サイトに載ってるだろ。まあ、どのみちつつじは葬式なんか出たくなかったろ? おばあちゃんから嫌われてたもんな」

「まあ、そのとおりだね」

「でもわかってくれよ。何度も言ってるけど、おばあちゃんが嫌いだったのはきみじゃなくて、きみの母さんだったから、坊主憎けりゃ袈裟までって話だからさ」

 ナオミは星空に向かって煙草の煙を吐いた。「再婚しろってうるさかった」

「知ってる」

「最後に会ったときも言われた。あと、最後までおれの仕事のこと、よくわかってなかったみたいでさ。『お前はいつ就職するんだ?』って、ずっと言ってたよ。最後まで」

 二人は顔を見合わせてゲタゲタ笑った。

「でもなんとなく、根底ではおれの生き方を認めてくれてるんじゃないかって信じてた。でもこんなことになったら、全部、都合のいい思い込みだったのかもしれないなんて、弱気になっちゃうね。本当は、死ぬ瞬間までおれのこと、心配だったのかもしれないって思うとさ。訊きたくても、もう……」

 彼は笑顔のままうなだれて、ふと言葉に詰まった。昔みたいに好きなだけ父を泣かせてやるべきだろうか。手を握ってあげようか? 肩を抱く? 思案していると、ふと彼は顔をあげた。

「もうすぐつつじに抜かれそうなんだよな。人数」

「えっ?」彼女は大きく聞き返した。「何の?」

「何って、フェイスブックのファンページに決まってるだろ」

 つつじは吹き出してしまった。

「いろんなとこ、よく見てるね」

「見てないの? つつじさんのファンページ。こないだ、野見山つつじって本名ですかって聞いてるバカがいたから、おれが答えといてやったよ」

「クッハッハッハッハ」

「こんなふうにな、『本名です。つつじというのは彼女のお母さんの希望でつけられました。お母さんの好きな花だったそうです。でも、お父さんは反対だったそうです。あんまり好きな花じゃなかったし、娘は花なんかより美しく育つと確信していたからです』」

 ナオミとつつじの視線が、ただ一瞬だけ、交錯した。

 ほとんど本能的に、つつじは彼の瞳の中に愛の残り火を探していた。そしてナオミも同じことをした。親子だからわかる。わかったことはもうひとつある。彼らは完全でないにしろ、かつてなく、ただの親子に近づいていた。

 それがいいことなのか悪いことなのかなど、誰にも決められない。

「……『お父さんはいまでは、いい名前だと思っています。けれど、あのときの自分の確信が間違ってなかったとも痛感しています。以上です。おれと娘を捨てていった女のことなんかふだんは話したくありませんが、今回は特別です』」

「アハハハハハハハ」

 彼らはその晩楽しく杯を交わし、ナオミが酔いつぶれて、つつじに肩を借りて寝室に運んでもらうまで飲んだ。

「つつじ」ベッドに放り込まれた父はもうろくに目の焦点も合っていない。前に比べて、酒に弱くなったかもしれない。

「変わんないね、きみは」

 おやすみを言って娘はドアを閉めて自室に向かったが、ふと、いまの自分たちなら、ごく自然に、ただ親子の絆のかたちをなぞるようにしてセックスができるのではないかと思った。なんの背徳感も後ろ暗さも抜きで。ナオミが求めてくれば、自分はきっとそれに応え、体を重ねることで、彼が母を亡くした喪失感をいくらかでも埋めてあげることができるだろう。つつじは彼のベッドに戻って、少女の頃のように忍び込んでみようかとちらりと考えた。しかし、やめた。もしこの場で彼らのうちどちらかがセックスを必要とするならば、それはきっと、つつじのほうではない。彼女はもう少女ではない。

 つつじの部屋は、時間が止まったようにそのままにされている。彼女は電気をつけないまま、裸になってベッドの上に横たわる。永遠に来なかったあの十六歳の誕生日、永遠に彼女を迎えに来なかった父のことが、突然に胸にしみて、少し涙が出た。タキシードを身にまとって少し緊張ぎみの面持ちのナオミはこの世界にあらわれなかったし、永遠に喪われてしまった。どうしようもなく取り返しのつかなくなってしまったもの、手が届かなくなってしまったものたち。いいや、本当は、それらのかけらは、世界のどこかにばらばらにちらばって、つつじに見つけてもらうのを待っているのだろうか? 彼女は父の彫刻を見たとき、彼はずっと、どうにかして永遠の一部を切り取ろうと魂を削っていたように感じたことがある。

 ベッドのヘッドボードに取り付けられた小さな引き出しを開けてみる。そこには二つのものがあった。コンドームの使用説明書。もうひとつは、海を背景にした一葉の写真。若くて美しく、髪の長いナオミと、かわいらしいつつじが、頬を寄せ合って写っている。



 海が見えてきた。

 ホテルを出た二人は、レンタカーを借りて、日本海ぞいの道路に向かった。ナオミは車の運転がそれほど好きではなく、乗せてもらうことは多くなかったが、つつじは助手席が大好きだった。ナオミの運転に身をまかせて座って、ぼんやりと風景を眺めていると、だんだん車そのものがナオミの一部になって、心地よく包まれているような気持ちになるからだ。天気は曇り空だった。

「このへんだったかな。あ。あれかな」

 彼は海ぞいの駐車余地に車を停める。よく、男の、車をバックさせるしぐさがセクシーと言われるが、つつじは個人的に、ギッと音を立ててサイドブレーキを引く瞬間のほうが色っぽいと思う。

 海水浴場ではないが、砂浜はあって、これから夏が到来したら泳ぎに来る人もいるのだろう。ナオミは岩場のほうに向かって歩き出した。かと思うと、ついて歩いていたつつじのほうを振り返って足を止める。カメラを構える。「そのまま」

 つつじは仕方なく、自然っぽく演じて歩く。「いいぞ。かわいい、かわいい。世界一だ」

 彼は器用に、写真を撮るのと歩くのと、しゃべるのを同時にした。ナオミはいつも器用だった。「昔な、こういう彫刻を考えたんだ。まず、きみを部屋のなかに閉じ込める」

「うん」

「食べるもの、見せるもの、読むもの、すべてを完璧に管理して成長させる。そうすれば、鋳型に填めたみたいに、おれの思ったままの女の子っていう作品ができるんじゃないかなって」

「すごく素敵な発想だね」

 これは、あながち皮肉でもない。男の夢は、同時に、女の夢でもあるのだと思う。男に求められることが女の幸せだと、生まれたときから決まっているから。

 ナオミはふとカメラを下ろして、つつじの目をじっと見つめた。

「いいや。おれは間違ってた。きみはいつでも、はるかにおれの予想を上回って育ってきた。いつも思いもよらなくて……何もかもが思いがけない……」彼は少しさびしげに目を細める、「閉じ込めてなんておけない。自分の想像力がいかに乏しいか、つつじのおかげで思い知ることができた」

「ふうん。わたし、そんなにたいしたもの?」

 彼は笑った。「そうだよ。……前は、めまぐるしく成長して、変わっていっちゃうつつじの速度が怖いときもあった。とどめておけないのがもどかしくて。でも、これからもずっと、新鮮なきみをおれに見せてくれよ、って、いまは思う」

 ナオミは入り江のあたりを指さした。「あそこだよ」

 二人は足元に気をつけながら近づいていった。波に削られてできた岩肌には、ナオミの頭ほどの大きさの穴があいていて、よく見るとそこには、おもちゃのように小さく、潮に色あせた鳥居が据えつけられている。

「……なにこれ。怖い」

「しっ」

 ナオミは神妙な顔つきで、小さな鳥居の前に置かれた小石を手にとり、わずかに横の位置に置きなおした。「これでよし」

「これでよしって?」

「これで全部うまくいくんだ」ナオミはさも当然のように言った。

「だから、なんで?」

「つつじは知らないだろうけど、去年の夏にな、みんなでこのへんで遊んだんだよ、バーベキューしたりさ。で、さっきのあれをおれが見つけたとき、びっくりして怖くて、思わず、置いてあった石をさわって、動かしちゃったんだ」

 ナオミはすでに、元来た道をたどっている。「それからだよ。仕事でどうにもなんかスランプなんだ。そこでおれは思った。これが原因なんじゃないかなって」

 つつじは唖然としながら、小走りで父の背を追う。

「……それだけ?」

「それだけとは何だ。畏れ多いだろ、聞こえてたらどうすんだよ」

「何かに憑かれてるとか思ってたの?」

「だって、これしかないと思ったんだもん」

「だもんって……」

「とにかくこれでひと安心だ。制作も捗るだろ。さあ、バリバリ働くぞー」

 つつじは嘆息も出なかった。

 父には元来こういうところがあった。つまり、妄執に近い思い込みをしばしば抱きがちな気質が。しかし、一般的に、それが異性に向くとき、恋とか愛とか呼ばれるのかもしれない。

 そしてこういった気質の芽を自分のなかに感じるのもまた正直なところだった。おそらくこうしたものに自分を乗っ取られないように、手綱を取られないようにつねに用心するのが、これからの自分の人生で肝要になるのだろう、とつつじは漠然と思った。

「なんだよ。なにか言いたそうな顔しやがって」

「別に」つつじは穏やかな波濤に目を向けた。「ただ、しみじみ思ってたの。子どもは親を選べないんだなあって」

「おー、いい言葉を知ってるじゃないか。もうひとつ教えてやろうか」ナオミは首をかしげ、眉を上げてつつじを見た。「惚れる相手は選べない」

 父娘は手をつなぎ、彼らの車へ戻っていった。



(了)

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二度と会えない とよかわ @toyokawa

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