⑧-2
『《――
現れたのは、輪無唐草の
黒い球体を虚ろな目で眺めていた詩織は、信じられないと言わんばかりの形相でその場ににわかに現れた彼、世道最高位職の礼装を纏ったその者――鳩摩羅什――を直視した。
彼の号令で地に芽吹き急成長した薔薇の蔓は詩織の足に這いより、そこからその体を支柱にしてぐるぐると巻き上がり、なお伸び続ける。だが彼女はそれに構わず、詰まりかけた言葉をその男に向かって必死で絞りだす。
「そん、な!? どうして!?」
『《――マークしたオブジェクトの強制解体をルート権限において執行。構成情報を寸断し回路を個別消去。システムへの情報連結の解除を申請。被検体十河詩織のユニークシグナル及び関連するパーソナルドキュメントをリジェクト――》』
詩織の様子とは対照的に、男は淡々と命令を指定し執行する。詩織の足から巻き付いた薔薇の蔓が彼女の体に絡みつき、青く美しい花を咲かせた。
蔓はまるで生きているかの様に詩織の体を這いずったが、首まで達するとその動きを止める。絡み方はその肉体に軽く触れる程度で縛る程の力はなかったが、蔓についた棘はその皮膚に遠慮無く食い込んでおり、その肌は血を滲ませていた。
「フロアサーバー外郭の構成情報をクラックした。君の用いたサーバーも直に我々が制圧する。先生にはその為の囮になっていただいた」
男は事務的な口調をもって事実のみを告げる。何の色もない無機質なその瞳が、そこで初めて詩織の瞳を直視した。
「何て事……先生は
「我々の手には人類の存亡と進化改革がかかっている。我々の覚悟を見誤ったな」
呼吸の乱れを抑えこむかの様に、詩織は蔓が絡まったままの両手で口を押さえた。
「なんで……馬鹿げてる。倉敷総一朗を失えばこの国は――。そんな価値なんてないのに! こんなものに――」
「お前が彼――ここではアイヒシュテットといったか。彼を使って
「聞いてトワ、私達は騙されているの。私は見せられたの。人がどう変わっていくのか。システムの治世する未来では人々は夢を見ない。優しさも愛しみも、ぬくもりだってわからない子がたくさん産み落とされて、その子らは皆、植物の種の様に銀河に向かってばら撒かれるの! このシステムは決して人を幸せにはしない! だからここで食い止めなきゃ、取り返しがつかなくなるの!」
自分の切なる意志を伝えようと、詩織は必死の形相でその男――世道現最高位職、大宮司鳩摩羅什――に訴えた。
「それが――お前の理屈か」
だが男は、まるで関与しない――それどころか詩織の言こそ看過できない問題だと言い出しかねない――威圧にも取れる一言をもって彼女の問いに答えた。
「……トワ?」
予想もしなかったその反応に詩織の表情はみるみる曇り、凍りついた。
「善も悪もない。その価値基準すら時代によって反転する。そこにある有り様をどう判断するかは、次代の人間の問題だ。現在の我々の最重要任務は人が滅びぬよう人類を存続させ、その為の仕組みを補完する事のみだ」
「トワ……どうして……」
彼のにべもない態度に、詩織は全てが理解できないと、その理由を考える事から逃げ出したい衝動に駆られた。言葉が通じないどころか、悪意を持って揚げ足を取ろうとする敵対的弁論者を前にしたかの様な緊張が彼女の背中のあたりを寒くする。
「人の幸せを図る事に意味はない。慣れればそれが幸せとなるのもまた人だ」
「何言ってるの、それとこれとは、――意味分かんないよ」
「言葉は意味を成さない」
「そうじゃない! それってなんなの……自分だけが知ってる風な事を言って、煙に巻いて逃げないで!」
湧き上がる気持ちが、言われた言葉の意味を理解出来ずに翻弄され暴走する。取り繕う事すら忘れた彼女は、記憶の時を遡り――
「お前の理解が足りないだけだ。私は逃げも隠れもしていない」
「逃げてるよ! それっぽい事言って結局逃げるんだあの時みたいに! 正面から取り組まないで、いつも回り道ばかり探して! 自分がやる必要はないみたいな事言って! そう言って音楽からも逃げたでしょ!」
――飛び出した言葉に、自らの言動に驚く。
自分でも何を言っているかわからない。だが気が付くと、湧き上がる衝動が、詩織の中に押しとどめていた理性の力を押し退けていて、沈殿していた
それは一片ではあったが、彼女が自分の脳への過負荷を――生命の危機を――把握するには十分な事象であった。
だが例え自分がどうなろうとも、この問題は何としても伝えなければならない。この計画は中止しなければならない。――悲しみと一緒に吹き上がっていく様々な負の衝動を詩織は懸命に抑えこみ、耐えた。
「私以外に適正者がいるなら私が行う必要はない。音楽とて何が違う。懸命に取り組んだ時期があったからといって、それが何だというのだ」
それを見ていた鳩摩羅什は、しかし詩織の様子の変化も言動の乖離も指摘する事無く、声のトーンを落とし、毅然と反論する。
「でも、
言葉にすると嗚咽が漏れそうになる。高ぶる感情を必死に抑えて、彼女は出来るだけ短い言葉を選んだ。
「君には私以上の才能があった。故に私がそれを続ける必要はなかった。君はそれを証明し私はそれを納得した。それだけの事だ」
「証明って何!? 賞状? トロフィー? そんなもの……そこじゃない! 一緒にって!……
その時、アイヒシュテットを抱きかかえた玄奘が、二人の間――宙から現れ、着地した。
アイヒシュテットは完全に気を失っていたが、玄奘は二人を見つけると、急いで
一瞬、玄奘と鳩摩羅什の視線が重なったが、言葉はかわされなかった。
転送が始まり、二人は淡い光に包まれて、空気に溶ける様にその場から消えた。
光を見送り、転送の完了を確認して、鳩摩羅什は無機質な声で詩織に告げる。
「お前の仕掛けた
「そんな事できるわけない。太平洋にばら撒かれた藻を手網でさらうと言っている様なものだわ。それにもしそんな事が出来ても、そんな事をすれば人は滅ぶ」
「人は滅ばない」
覆いかぶせる様にきっぱりと彼は言った。
「滅ぶのはこの世全ての悪だ。悪とは肯定できない人の意思。人は自らが善いと思う事のみを行う善となる。故に我々を理由に人が滅ぶ事はない」
一つの疑問も感じていないと言わんばかりの、自説を盲信する彼の姿に詩織は言葉をつまらせた。その断言に絶望を感じ、詩織は自分の説得がすべて無駄に終わるだろう事を悟った。
――理解に至るまで何度でも対話を重ねられるのが人間の真骨頂というものだね――
自分に巻き付く紫に変わりつつある薔薇に視線を落とし、彼女は師の言葉を反芻する。
彼女は、そしてなお、彼との対話に食い下がる。
「そう。そうね、人は滅ばない。夢を見ないただの種子になるだけ」
「進化の形が変わるんだ。芸術が時代を経て新たな形、新たな手法を獲得する様に。人間も変化を迎える」
「退化を華美しているだけ! 大事なものを失ってから気がついても遅いの!」
「失うものなど何もない。旧来の良きものに加えて人類は新しい選択肢を獲得する」
「新しい選択肢? 奇抜すぎる逸脱を? 王道でも定番でも、人は出発したらいつかは帰ってくるべき生き物なの。またかとか、飽きたとか言いながら、失敗や成功を繰り返して、やがて故郷となる位置づけのものに帰る。人はそこに帰ってまた新しい出発をするって。帰る事が出来るからまた飛び立てるって、私の言葉じゃないよ。
彼女はすがる。社会人としての二人ではなく、身内であった日の二人の時間に。この世界で最も大事な家族であり、最も大好きだった兄に、叫びながら、彼女は願った。
「帰る場所があろうが無かろうが人は前に進む。進まなければならない。何故顧みる必要がある。それは無知だったからだ。人は産まれ落ちたその時から否が応でも旅立たねばならない。我々の作るシステムは無知による苦難を排除する。人が光を得て夜の闇を払った様に、我々のブレイクスルーを以って人は新たなる高みへと旅立つ」
「旅立つんじゃない、打ち捨てられるんだよ! このシステムの未来では! 物理的にも精神的にも、そんなもの無くなってしまう! 人の心には帰るところが必要だもの。知恵とか知識とかじゃなくて!
刹那、詩織は、はっと言葉をつぐむ。熱せられていた感情のうねりが冷水を浴びた如くサーっと引いていき、代わりに別の何かがさざめきだした。
帰る場所があったとして、帰って人は何をする。
次への旅立ちの準備、それは具体的に何を指す。
補充か。休息か。若しくはその他の何か、或いはそれらすべて――。
詩織の脳裏に、一つの仮説が不意に浮かんだ。
トワは――帰らなかったのではなく――帰れなかったのではないのか、と。
そう閃いた時、過去の記憶が詩織の脳裏に溢れ出した。
堰を切った様に、記憶の濁流がおびただしい涙にその形を変えて詩織の涙腺に殺到した。
そしてそれは瞬く間にまぶたを押しのけ、止めどなく外へ流れた。
「表現を繕っても結果的には同じ事だ」
鳩摩羅什は言った。詩織の様子を見ても微動だにせず、短く、淡々と、感情が乗らないよう心を殺しているのではないかと思わせるほど徹底した無機質な声で。
――あぁ。そうか、わたし――
詩織は納得した。
その表情からは険が取れ、安心した子供が見せる甘えの様な、好意的で、柔らかで、優しげな微笑みが浮かび、やがてそれは少しずつ悲しみに歪んだ。
彼が帰ってこなかったのは、帰る場所を必要としなかったのではなく、帰れる場所を欲していたからこそ、ずっとそれを探し続けていただけなのではないか。音楽を捨てたわけでも、
「帰るところがなくなるつらさを、
詩織の筐体の瞳から溢れる涙は止まらなかった。
意識に直結している筐体は、感情により体に現れる変化を忠実に再現する仕様上、理性の都合だけでそれを偽る事が出来ない。涙を堪えせき止める事が出来ない詩織は、泣き続けながら、それでもまっすぐ彼を見つめた。
「――帰れない者など溢れているだろう。お前は何を言っている」
その彼女の瞳を真っ直ぐに見返して、鳩摩羅什は淡々と、熱のない言葉を返す。
その言葉で詩織は理解した。大切なものをしっかりと認識しつづけるという行為には、彼の場合、きっとそれが必要だったのだと。
少しずつ空間は解体され、空から一条の光が差し込む。剥がれ落ちた背景テクスチャが光の粒子となって降り注ぎ、二人のいる空間を満たしていく。
「あぁ、メレディス――」
自分の口から発音されたその言葉に、詩織は絶句した。
崩壊し始めた背景の中に佇む彼。それを見た事によって心に浮かんだ既視感は彼女のものではなく、にもかかわらずソレが言動に現れたからだ。
そしてそれがただの錯覚ではなく、彼女が全く想像し得なかった情報の奔流によってもたらされたものだと理解したのは、ストーリーキャストの名を自分の口が発した直後だった。
慈しみの様な、喜びの様な、信じられない驚きに満ちたその声は、確かにストーリーキャストの名前を告げた。詩織の中にいる詩織とは別の人格、この地を見守ってきた
詩織は自分もまた、システムの障害が生み出した記憶事故の被災者、アイヒシュテットと同じ[
そしてもしかすると――詩織は鳩摩羅什を見る。
「あの方はその為だけに生きている。
――あぁ、トワ……――
鳩摩羅什がゆっくりと歩いてくる。
激しく感情を発露させ息を詰まらす彼女に、彼は手を差し出し、優しくその涙を指で拭う。詩織と、詩織の中に重なる彼女は、この時漸く、自分が本当に欲しかったものを認める事ができた気がした。
「どうして、私を置いていったの、どうして連れて行ってくれなかったの」
彼は何も答えない。光の粒子が背景のテクスチャを引き剥がし、世界が白の希薄な空間へと変容していく。
「さよなら。トワ。最後に逢えて……思い出す事ができてよかった――ごめんね」
詩織の手がトワへ延びる。彼に触れ、微笑んだ彼女は、そのまま光の塵となってぼろぼろと風化し、消失した。
「――。」
消失する瞬間、詩織には彼――
鳩摩羅什は虚ろな目で、消滅した詩織のいた場所に視線を落としていたが、やがて彼はそのままの姿勢でその空間から掻き消えた。
まるで何もなかったかの様に静まり返ったその場所には、光を失った静かな闇だけが残った。
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