⑧-1
「
ラナードは空に浮かぶ黒い球体を見上げていた。
苛烈な改竄侵食合戦の末その空間に残ったのは、闇の中をまばらに輝く点。月の大地を思わせる銀の砂漠。そして、彼方に存在する黒く染まった地球を模倣した球体。
筐体へフィードバックされるはずの環境信号は変質し、世界を彩るはずのテクスチャも表現を放棄している。全ての情報が希薄化していく中で黒い球体だけが、異質な生命体の様に蠢きながら、ゆっくりと成長していた。
「だが、そうとすればお前の体は、今頃ひどい有様だろうね」
「チーフ。形勢逆転です。貴方には人質になってもらいます。チームが要求を受け入れなければ、その精神はシステムの闇を
「こんな事をしても計画が頓挫する事はありえないね」
「いいえ。計画はこれで白紙です。人類の勝利です」
「人類の勝利――それは、随分と大きく出たものだね」
「システムは医療や人々の幸福にだけ活かされればそれでいいんです。融和的思慮の統制なんて人間の自由意志への弾圧です」
「人間では全ての人間に叡智を授ける事はできないね。真の平和とは叡智の終着点にあるのだね。我々のシステムには、そこに辿り着ける可能性があるのだね」
「そして人々を導くマザーツリーを作るのですか」
「なりえるね。その可能性を確実なものにする事こそが我々の役目だね」
「先生の妄想は呪われた夢です。私は見ました。貴方達が秘匿するシステムの根幹を。神霊樹という
「不確かな感情でものを図るべきではないね。人にとってそれが悪魔となぜ言い切れるのかね。幸せを追求する事は悪魔の御業なのかね?」
「そんなものがどうして幸せなんですか!」
筐体が感覚器に伝える情報は、今や五感全てがひとつに束ねられた奇妙な信号へと変質している。すなわち二人は、直感とも呼ばれる六感という擬似感覚に支配されたまま対峙している。
当然互いに、互いの姿を視覚で認識することはできない。けれども詩織の刺々しい怒りは、ラナードの擬似感覚にその映像を想起させた。それほどの不快な信号を、彼は感受した。
「詩織。お前はものを知らないだけだね。そもそもこんなところに儂を連れ出し保険をかけても全く意味が無いね。それどころか、お前は自分自身が無知であると公言している様なものだね」
「そうです。私は先生の様な天才じゃない。いえ、私だけじゃない、多くの人間には先生の思惑なんて理解できない」
「理解に至るまで何度でも対話を重ねられるのが人間の真骨頂というものだね」
「その対話で理解できた事は、私は先生を容認する事が出来ないという事です。いずれにせよ私の勝ちです。茶化さないでください。これ以上の話は、必要ありませんよね」
詩織が動く。新しく生成されていくコードが、世界に信号を伝播した。
闇が反転し、元の空間が再構成されていく。
『《――
詩織の一言で、二人の姿がその場に現れた。
姿勢の良い綺麗な立ち姿の詩織と対象的に、ラナードはうつ伏せに倒れた格好で地面から伸びた光の蔓に縛られていた。
『《――拘束中のGM筐体の強制解体をアドミニストレーター権限において執行。構成情報をサルベージ後
ラナードの筐体が発光し、そこから色とりどりの淡く輝く粉塵が立ち昇って行く。
剥離していく筐体情報は徐々にその数を増し、ラナードの存在はそれらに比例して密度を低下させ、希薄化していった。
「これから始まる開示がもたらすのは不幸の連鎖なのだがね。本当に、アレも哀れだね。だが許そう。……お前にはかわいそうな事をしたがね」
顔を伏せたまま、ラナードは詩織にとって理解できない呟きを残す。
悪あがきにしては突飛なセリフだ。詩織は目を細めて訝しげにラナードを睨む。
「……何を」
疑問を口にしようとして、詩織は言葉を止める。質問が成立する前にラナードがこの場から消えるのは明らかだった。
ラナードの体はやがて全てが光の渦となって――詩織に小さな疑問だけを残し――空に溶ける様に消滅した。
◆
崩壊する世界の中で、アイヒシュテットは彼女の夢を見た。
彼女は不治の病に侵されていた。
ALSという難病だとわかったのは、彼女が高校の受験を終えた頃だ。
進行が徐々に目立ってきた為、彼女は人並みに動ける内に高校を中退して自宅療養に切り替えた。
このまま死んでなるものか、楽しい事をいっぱいしないと。
高校になど行っていられないと、まるで遊ぶという義務を遂行するかの様に、彼女は夜な夜な家を出歩いた。
◆
愛嬌の良い彼女はすぐに仲間を作れたし、どんな場所でも打ち解ける事が出来た。容姿が淡麗だった事も有り、異性は勿論同性からの人気も高かった。
ただ、彼女は異性と付き合う事はしなかった。
自分の病が
◆
物をつかむのが億劫に感じる様になった頃、そろそろ幕引きだろうと彼女は思った。
身の回りの物は最低限使う物以外すべて片付けた。
残っているのは、彼女にとって最も必要で大切な『家族』だけだ。これを片付けるには時間がかかる。
自分は十分に楽しめた。そろそろ遊びを切り上げる必要がある。
だから最後は、今一番気になる面白い異性との思い出で幕を引こう。彼女はそう考えていた。
◆
彼はジョージと呼ばれていた。
両眼が緑色。半分だけの異邦人。だが外人らしさはない。考え方は同世代と比べると変わっていて容姿もハーフそのものだが、内面は曖昧な日本人の典型だ。
世間知らずなのか子供なのか根が正直者なのかは知らないが、そういう方向では要領の悪い中性的で彫刻の様な顔をした艶のある低い声の人だ。
◆
そのくせ、ジョージは時折突拍子もない事をする。例えば出会ったばかりの頃、挨拶してきたので挨拶を返しただけなのに、覚えていてくれて嬉しいと本気で喜んだり、その勘違いの末、初対面だというのにデートに誘ってきたりした。
あまりの空気の読めなさに最初は笑顔を凍りつかせた彼女だったが、その屈託のない笑顔に悪戯心が刺激され――魔が差して――着いて行った行動を考えると、もしかすると彼女は、その時から彼の事を気に入っていたのかもしれない。
ちなみにその日は変なちょっかいを出される事もなく、彼女は彼にちゃんと家の近くまで送ってもらえた。
彼は紳士だ。ただ、電話番号も本名も聞かないまま、爽やかに去って行ったのには少しばかり――彼は一体何だったのだろうという――疑問は残った。
◆
会える保証などないのに、彼は毎日彼女と出会ったクラブに通いつめていた。それを彼女が知ったのは随分後になってからだ。変な人の話題で盛り上がった時に、偶然彼の話が出たからで、彼女はそれまで全くその存在を忘れていた。
緑目のハーフは純情すぎるという話題で皆が笑っていた。そう言えば、ちょっとからかうとすぐに照れて――本人は気がついていない様だが――すぐに顔が赤くなった事を彼女は思い出した。
小さな悪戯心がまた刺激されて、彼女はまた、ちょっとだけジョージに会ってみたくなった。
◆
彼女からジョージには簡単に会えた。それは彼が、彼女に会う目的で足繁くクラブに通いつめていたからだ。彼女は気が向いた時だけ、ふと思い出した時だけ、彼と初めて会ったそのクラブに顔を出せば良いだけだった。そして悪戯心が満たされたら、短時間でもすぐに別れた。彼が彼女を拘束する事はいつだって無かった。
◆
そうやって何度か、会って別れてを繰り返している内に一緒にいる時間が増えていき、それが普通になった頃にはもう、夏が来ようとしていた。
◆
花火が綺麗に見える穴場があると連れて行かれた先が人混みだったり。
神社のお祭を見つけては誘い出そうとしたり、しかも何故かその誘い方がいつも恐る恐るだったり。
一緒に買い物に出かける予定を立てると必要以上に下見をしていたり。
もらったチケットで映画を見に行こうと誘ったはいいが、はしゃぎすぎてチケットを無くし現場で買い直してみたり。
◆
彼はいい意味でも悪い意味でも――悪いと言っても不快に感じた事は一度も無かったが――サプライズばかりで、そのせいで彼をいじるネタに彼女は不自由しなかった。
彼はとても純粋で、それ故に努力家なのだと一緒にいてみて彼女はわかった。
そしてセンスが残念で、ツメが甘い。おっちょこちょいな人なのだ。
そのおっちょこちょいな所を思い出せば切りが無いくらい、そのくらい、いつの間にか彼との記憶が、彼女の大部分を占めていた。
◆
だが、月日が進む度、体調は思わしくなくなっていく。いつしか彼女は、命を諦める為に遊び歩いていた自分が、命を諦めきれなくなりつつあるのを感じ始めていた。
◆
そしてその日。
彼女はさようならを言おうと思っていた。
いつもの様にデートをし、いつもの様に送ってくれるというジョージに、その日彼女は、バイクでではなく徒歩で帰りたいと告げる。
◆
歩きながら、彼女は彼と色々な話をした。一歩一歩を踏み締める様に、確かめる様に、彼の顔を時折見ては――前を見て歩く。
緩やかな勾配の坂道の上り下りを繰り返し、大きな滝の麓に架かる橋まで駆けたりもした。
久しぶりに履いた運動靴の靴底に小石が入り込んで、彼女は橋の中央で靴を脱ぎ小石を出した。
家まではまだかなり距離がある――実際にはもう帰路の半分を超えていたのだが――。彼女はまだまだ沢山話しが出来ると思っていた。――そんな時に彼は、ジョージは彼女にサプライズを披露した。
赤いリボン。
ジョージは手先も不器用なのだ。彼の持っているリボンが自作だという事は、彼女にはすぐに分かってしまった。そして気にも止めなかった彼の手についている小さな傷の正体も。
それは、彼女が好きだと言ったミュージシャンがつけていたリボンだ。ジョージはあの時の話を覚えていて、それに似せて作ったのだろう。
‘あのリボンはね、幸せを祈るリボンなんだよ。音楽は人を幸せにしなきゃ嘘でしょ? ――――’
唐突に、彼女はジョージとの会話を思い出す。
赤いリボンは古くからヨーロッパに伝わる風習で、本当は病気や事故で人生を全うできなかった人々への追悼に用いる物だ。そしてそれは偶然にも、彼女に自分の未来を予感させた。
考えもなくただ適当についた嘘が、意味を伴って彼女の元へ返ってきた瞬間でもあった。
“幸せか。赤い糸みたいだ――――”
いつかジョージは言っていた。赤い糸とはそういう意味のものではない。では縁結びは幸せではないのかと問われればそれも違うが、彼女にはその話の妙を説明する気が沸かなかった。
だから彼女はそれを訂正しなかった。それどころか逆に、降って湧いた様な彼女の小さな悪戯心が、彼女に悪ふざけをけしかけた。
‘そうだね。赤い糸は産まれた時に決まっているものだけど、リボンなら後から結べるかもしれないねー知らないけど――――’
彼女はリボンを受け取る。
不器用ではあったが、丁寧に作られているのがひと目で分かる。まるで心をこめて作ったと言わんばかりだ。
ふと、心をこめてという単語に彼女は気をとめる。
ジョージは何を思い、もしくは願ったのかと。
縁結びという意味では無い。あの時の会話のやり取りからそれはわかる。勘違いしているジョージが考えていた意味は、おそらく単に――。
◆
それで彼女は思い直す。自分の言葉は嘘ではないと。
幸せを願うという広義においては、それを間違いとする事など出来ないはずだ。そして自分が生き続けるのならば、その意味は風習を超えて彼の意図の範疇に収まる。
「微妙すぎ」
とっさに口をついた単語。
それは単なる口癖。
しかし言葉を返さないとと追い詰められた彼女が、やっと吐き出す事の出来た一言。
否。
そんな言い訳があるだろうか。そんな話が通るだろうか。
もしこのまま正面から向き合わずそれらをまた素通りするというのなら、今後訪れる全ての出来事が、考えが、言葉が、気持ちが、何もかもが、全てが嘘になる。
そう思えた時、彼女は自分が――直視しないようにしていた――大きな気持に流されている事実を自覚した。
今この場で、意味の分からない言い訳の様な理屈を並べているのは、逃避だ。漠然とした恐怖から逃げているだけだ。理由があるから出来ないと自分を騙してやり過ごす事はいつだって出来るけれど、見送った事実はいつまでだって、手を伸ばしたい気持ちが訪れる度にきっと自分を縛り付ける。
‘ボク髪短いからあんまに合わないと思う。まぁ、気が向いたらつけてあげるよ。気が向いたらね――――’
今まで隠れてきた理屈の壁を無理やり押しのけて、やっと口から押し出せた言葉。
彼女の意は赤い紐に引っ張られ、彼女は彼と向き合う。
けれどうまく気持ちを言葉に乗せられない。いきなりは強くなれない。気持ちとは裏腹にいつもの軽口が、どうしても口から溢れてしまう。
今まで恋愛を拒否し続けてきた建前が、膨らみ過ぎた気持ちに振り回されて、今、空っぽな言葉を並べている。
その「嘘」という自覚は、どうしようもなく、彼女を追い詰めた。
――あぁ。片付け、急ぎすぎたなぁ。髪、切らなきゃ良かったかも。
リボンを握りしめ、彼女はそれら全てを認める。
◆
長い治療で彼とは会えなくなる。これが最後のデートとなる。そう思っていたはずなのに、彼のセンスの無いリボンを握りしめた時、彼女は心が温かい何かに満たされる感覚を憶えた。
もう何も怖くないと思える勇気。すべてを受け入れられると思える開放感。沢山の様々な気持ちが湧き上がり、それらは幸福感となって彼女を飲み込んだ。
一杯になった心が、涙の波となって外へ出ようとする。
彼女は目の前に立つ彼に悪態をついて、それを溢さないよう
――まだ先長いのに、ここで渡すとか、本当におっちょこちょいなんだよキミは。
彼女は両手で彼の目を隠し、腕で目を拭ってから、背伸びをしてキスをした。
言葉で無理なら行動で――キスを自分からしたいと思ったのは初めてだ――そう思いながら、彼女は涙の波が収まるまで、長い長いキスをした。
それは彼女にとって――或いは彼にとっても――最も長いキスとなった。
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