⑥-3

祥二郎は三歳になると同時に捨てられた。


母方の祖母の元に祥二郎を置き去りにした母親は今も行方不明のままで、彼は母親の顔をまったく覚えていない。


祥二郎を育ててくれた祖母は、異人の血が流れているからという理由で彼を忌避していた。とりわけ、彼の緑の瞳を見たがらなかった。


祥二郎が施設送りにならなかったのは人目を気にする祖母の都合であり、義務教育が終わったら出ていけとは祥二郎にかける数少ない言葉の中でも口癖だった。


都心の高校に合格し、奨学金を貰いながら、彼は学生寮で一人暮らしを始めた。


仕送りはなかった。だが休みの日に日雇いのバイトをし日銭を稼ぐ事で生活は賄えた。年齢を偽り、夜にもバイトをする事で余裕も作った。



祥二郎の目の色に代表される曖昧さは、彼に衝突を避けどこにでも馴染めるという才を与えた。遠くからの第一印象で敬遠されることはあったが、接することで不仲はすぐに解消できた。対人関係は円滑に進められた。


だがそれは摩擦を起こさないというだけの、仲良くなるとは程遠い関係を築いただけで、特に高校で出会った友達にはどうしても馴染めないというのが彼の本心であった。


誰もが皆、皆常識に縛られていて、それが一様につまらなく、或いは耐え難かった。


バイトも無く勉強も気が乗らない時には、興味本位でクラブにも出かけた。


さして面白いわけではなかったが、新しい世界にはそこそこの刺激があったからだ。


回数を重ねる毎にいつしかそこでの知り合いも増えて、よくクラブに通う様になった。


彼は、そこで初めてCを見かけた。


友人同士の繋がりで最初はお互い会釈する程度だったが、祥二郎はCの事が気になっていた。


何日か目に、祥二郎は勇気を出して声をかける。初めて挨拶を交わせたその日、祥二郎はCをバイクに乗せ、夜明けの海を見に行った。


突然の誘いだったのに彼女は一つ返事でOKしたから、舞い上がった彼は少し遠くまでバイクを走らせてしまった。


祥二郎は初めて恋というものを知った。


世にいう一目惚れであったが、祥二郎の中では一目惚れという言葉では片付けられない、大叙事詩的な何かだった。


若しくは、何となく、ただただ、気になったというべきか。それもとても強くに。

次の週も、その次の週も、二人は会ってデートをした。


だがある日――Cが来なかった日――彼女とよく一緒にいた女達が、Cはやめておいた方がいいとさらりと言ってきた。


祥二郎にはその真意がわからず、その時はその言葉を聞き流した。


何週目かからは、毎日Cと会う様になった。


彼女は十五歳という年齢の割りに外見は幼く、中身は逆に大人びていた。


それは過分な祥二郎の贔屓目かもしれない。中身は[子供が演じる大人]という評価こそもしかすると正しいのかもしれない。ただ時折、秋の空の様にコロコロ気分が変わった後の彼女は、ぎょっとする程冷めた大人の雰囲気を漏らす事があって、祥二郎にはその印象が色濃く残っていた。


いつだったか。


彼女は不意に、[空を飛ぶ様に、低い空を泳いでいる夢]を見ると話した事があった。


Cはその夢で、自分が透明人間になって誰の目にも映らなくなった事が怖かったと言った。


その後、続けて「明日――」と言いかけ、彼女は口をつぐんだ。


そしてイタズラっぽい笑みを浮かべて、祥二郎を下から覗き込んで言った。


“ボクがこの世からいなくなってもさ、誰もそんな事知らないまま楽しい事は巡っていくわけだよ――――”


祥二郎はその時、Cが、自分がいなくなっても誰も気づかないという事を言いたかったのかと思いゾッとした。Cが急にいなくなってしまうなど考えた事も無かったからだ。


だから祥二郎は考えるより先に言葉を漏らした。


‘Cがいなくなったら絶対俺が見つける。それで楽しい事も引っ張ってくる。そんな俺を見ててよ逆に’


“いなくなったらの話してんのになんでボクがキミを見てなきゃならんのかね”


会話として成立していない言葉のやり取りは、シホの苦笑と辛口のツッコミで流れて消えた。彼女が何故そんな話をしたのか。その日の祥二郎にはその意味を掴む事が出来なかった。


そのやり取りを反芻することになるのはずっと先の未来だ。


透明人間とは、冒険心が大人という分別に縛られた状態を指しているのではないか。


誰の眼にも映らなくなるという比喩は、それが世間で言う、何をしても誰の眼も引かない当たり前になる事を、指していたのではないか。


Cはもしかすると、自分がつまらない日常を繰り返すだけの存在になる事に、恐れを抱いたのではないか。


今日の様な明日はいつか来なくなる。それはどんな人間にだって言える事で。遅い早いの差はあれど、いつの日か大きな区切りはやって来る。楽しかった事も嬉しかった事も、全てが思い出になってしまう日は、必ずやって来る。


空を飛ぶ様な自由も。がむしゃらに大きな海を、飛ぶ様に泳ぎ回る様な充実感も。冒険心を満たしてくれた全ての輝きは、やがて色を失い無色となる。


それは誰の目にも明らかで、だからこそ、その想いは誰の目にも映らなくなる。


彼女はその事をあの日に――もしかすると自分と出会う前から――吐き出してしまいたかったのかもしれない。だとしたら、伝えるべき言葉は――。


後日の祥二郎は、その時の己の浅慮を悔いる。





ある日のデートの帰り道、祥二郎は橋の上で、彼女にリボンをプレゼントした。


それはCが好きな歌手のトレードマークであるリボンとそっくりに祥二郎が自作したものだ。


Cがその歌手にハマりすぎてかなりのグッズを集めたという話を聞いた時、Cに何かプレゼントを渡したいと考えていた祥二郎は[コレだ!]と思った。


正直に言うと、その歌手のトレードマークであれば外す可能性は低いだろうという安直な思いつきが[コレだ!]の正体であった事は、言い逃れの余地もない事実である。が、重要と考えたのはそこではない。


“あのリボンはね、幸せを祈るリボンなんだよ。音楽は人を幸せにしなきゃ嘘でしょ? ――”


Cは言っていた。それは幸せを祈るリボンなのだと。


祥二郎にとってはそれこそが大事だった。これこそ最初のプレゼントとしてふさわしいと彼は確信した。


祥二郎は前々から、初めての[記念となるかも知れないプレゼント]には、友人の言っていた[生まれながらの幸運の証であるという赤い糸]を使いたいと思っていた。


だからこの情報が揃った事は祥二郎にとって僥倖であったし、何事も曖昧さの残る祥二郎にしてみればその覚悟を決めさせる天啓、ないし必然と呼べる偶然であった。


祥二郎は兎に角、Cといると幸せな気持ちになる自分の想いを形として伝えたかった。ただそれだけだったのだ。――それだけだったのだが、その想いが純粋過ぎたが故に、結果それは、ただそれだけのものにしか成り得なかった。


それを渡した瞬間――彼女がそれを受け取った瞬間――祥二郎は例えようの無い不安に襲われた。それを手にとったCの表情は微妙なものだった。


怒っているわけではないだろうが、憮然としたというか――はっきりとは分からないが、少なくとも喜びの笑顔からは程遠い様に祥二郎には思えた。


そしてかなり間を置いてからCは言った。


一言、「微妙すぎ」と。


その間は、もしかすると祥二郎を傷つけないよう、言葉を選んでいた時間だったのかもしれない。


自分は髪が短いからつけても似合わないとか、そもそもリボンの趣味がパッとしない――自分の好きな歌手がつけていた物だという事実を棚上げして――だとか、換金しても大した値段にならなさそうだとか――。


突っ込みどころの多々あるシホの言動は、いつもだったら祥二郎は振り――ツッコミ待ちのボケ――として処理した(ツッコミを入れた)だろう。


だがその日は、雰囲気が違っていた。


何がどうという具体的な説明はできない。祥二郎なりにそれを無理やり説明するなら、その時のCはリボンを握りしめたまま、どこかに消えてしまいそうな表情をしていた。


だからどこにも行かないようにと、祥二郎は思わず、考える前に橋の上で優しく彼女を引き寄せた。


そして苦し紛れに、平静を装い、頭に浮かんだ閃きに必死の思いで手を伸ばした。


‘じゃあ、センスのいいCだったら俺に何をくれるのさ――――’


何て芸の無い一言か。


自分のあまりのセンスの無さに呆れ、自分を殴り飛ばし地団駄を踏みたくなる衝動に駆られたが、全身全霊で己の苦悶を押さえ込みつつ――それでも出してしまった言葉は戻せないと諦めつつ――祥二郎はCの反応を待った。


そうしたら、Cは急に祥二郎の目を両手で隠すと、少し間を開けてから、そのまま背伸びをしてキスをした。その行動に祥二郎は驚いたが、それは嬉しさからではない。


目を隠される直前、Cはいつもよりも嬉しそうに、けれど目にいっぱい涙を溜めて――微笑んだ様に祥二郎には見えたからだ。



次の日、Cは本当にいなくなってしまった。





それでも祥二郎は、学校に普通に通った。


あの日以来、Cは一度もクラブには現れなかった。


仲間に聞いてもCの所在はわからなかった。


授業の内容も入ってこない。元々授業など聞いていないのだが、その日は日本語を聞いていたのかすら怪しい程だった。


昼休みに、誰かが持ち込んだラジオから台風の情報が流れていたのは覚えている。


Cと会えなくなってから祥二郎は空腹を覚える事が少なくなった。


元々少食ではあったのだが、昼食を取るのが――というよりは何もかもが――億劫に感じるようになり、昼休みになると決まって屋上に出て、遠くを眺めて過ごすようになった。


屋上へのドアは古い物で、ドアノブのカバーをこじ開けネジをドライバーで外せば、鍵ごと取れるタイプの物だった。


祥二郎はいつものようにノブごと外し扉を開けた。


その日は、外へ出ると雨が降っていた。


祥二郎はCと、歩道橋の階段の下に丁度雨を遮るスペースを発見し、二人で体を寄せ合い雨宿りした記憶を思い出しながら、雨に打たれる事も構わず柵まで歩いた。


空を見上げながら、目に入ろうとする雨粒を目を細める事で避けながら、祥二郎はまた考える。


――リボンが良くなかったのかな。


それは祥二郎が繰り返し考えてきた事だ。


仲間にも話してはいないが、話したらきっとこう言って笑われただろう。――初回の投球が変化球すぎる、と。


それは祥二郎も考えた事だし、言われなくても自分でもそう思わない事はなかった。ただ祥二郎としては、これ以上の物は無いと思ったのだ。


――でもCは、当り障りの無い定番物だと怒るしなぁ。


Cは言っていた。祥二郎にはセンスが無いと。


“ブランド物は即換金してきたかな。他の人に代用できるプレゼントとかなら、ボクじゃなくてもいいわけでしょ? ――――”


仲良くなってから、Cの口の悪さは日に日にエスカレートしていった。時には開けっ広げ過ぎて眉を顰めたくなる様な言動もあった。それでも、祥二郎にはそれが嬉しかった。


“独創性は大事だけど、斜め上すぎるのは要努力だよ。マシって程度では人間である意味が無いだろうジョージ君――――”


祥二郎はCに罵倒されるのが好きだった。彼女の愚痴を聞くのが楽しみだった。彼女の悪口には悪意がない。しかし合理的かつ真っ直ぐ過ぎるから、それらはきっと周囲に漏らせば反感を買う。疎まれ避けられる理由となる。


人は真実を遠ざける。よく見えるからといって目の悪い人に無理やり眼鏡を掛けさせる様な真似をしては争いになるのだ。


曖昧な自分を自覚する祥二郎には、ブレないCが特別に思えた。自分にとって、恐らくは二度と巡り会う事は出来ないだろう特別な、得難い異性に思えた。


思い出すと心が乾く。


息苦しくなって、大きく深呼吸を一つする。それは深い溜息となって祥二郎の体から外へと漏れた。


乾きでささくれる心を雨が癒やしてくれる。などと言えば、誰かが中二病だと笑ってくれるかもしれない。そんな事を期待するくらい、祥二郎は思考停止し自暴自棄となっていた。


祥二郎には、どうすればいいのかがわからなかった。何がわからないのかをはっきりさせる事が億劫すぎて、脳に考える力が入らなかった。


だから鉄の柵にもたれかかり、ずぶ濡れになりながら、ぼんやりと校庭を見ていた。

そして感電した。


ピカっと目の前が光って、柵側から強い衝撃を受け弾かれたかと思うと、全身に引き裂く様な痛みが走って――そこから先は覚えていない。



気が付くと真っ白な部屋だった。


朦朧とする意識の中、祥二郎は、あの髪の長い、切れ長の意志の強そうな目をした女性と話をした。


白衣を着た女性は、確かこう言った。


「君が被験者第一号だ」


女性は祥二郎の薄く開いた目を無理やり指でこじ開け、ペンライトの光を細かく当てたり外したりした。


「嶋川くーん! 嶋川 Eichstaett 祥二郎君! あれ? 祥二郎Eichstaett君だっけ? まぁどっちでもいいか。私の声、聞こえてる?」


祥二郎の体は動かない。声を出す事も出来ない。かろうじて、視線を動かす事は出来た。


「お、わかるみたいだね。その反応、君の大好きな梓穂ちゃんと一緒だよ」


女性は周りの機械を見渡し、脳波が云々、ヴァイタルが云々――などと独り事をブツブツいったかと思うと、急に祥二郎に顔を近づけて笑った。


「これから治療するけど、ちょっと手伝ってほしい事があるんだー嶋川君。どうせ治療費なんて払えないでしょ。施術に本人了承したって事にしておくから、詳しい事はヴァーチャル世界で話そう。グッドラック!」


そう言うと、女性は手で祥二郎の目を閉じた。



そして彼は、[空を飛ぶ様に、低い空を泳いでいる夢]を見た。



再び目を覚ました時、祥二郎は雲の中にいた。

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