⑥-1 空を飛ぶ様に、低い空を泳いでいる夢
「さて、都合がいいと言えばいいがね」
シホ達が
ラナードが一歩踏み出すと死霊達は身を強張らせ、しかしいつでも踏み出せる姿勢を取った。
「こんな形で強行せざるを得なくなるとはね」
「そこを動くなよ爺さん!」
巌流は大声を振り絞り警告する。だが彼はそれを無視して、構わずもう一歩を踏み出す。
それを合図に、巌流が飛び出した。
死の深淵から引き上げられた巌流はその身に一層の強化を施されたのか、間合いを詰めるその速度は音速の域――この世界で言う神速――に達していた。
瞬き一つ出来ない短い時間で一気に自分の間合いまで距離を詰めた巌流は、そのまま握りしめた短刀をラナードの心臓目掛け打ち込んだ。
「悪く思うな――ぇぁ!?」
正確な軌道。狙いは必殺。繰り出した一撃は確かに命中した――なのにどうしてか、全く手応えが無い。短刀どころか体ごと勢いあまってラナードを突き抜けた巌流は、着地し慌てて振り返る。
消えてはいない。そこにはラナードが背中を向けたままで立っていた。
巌流は目を凝らす。残像の類ではない。老人には影もあれば質量もある。
「どうなってる!? 〔三尊通〕が働かねぇ!」
実体があると判断し、巌流は状況が理解出来ぬとばかりに驚きの声を上げた。
「まやかしの類ではないかえ?」
胤舜はラナードから目を離さぬまま、何が起こったのか巌流に確認する。
「いや、体はある。俺の〔物干し竿〕は俺の間合いにある全ての虚実を見切る」
「じゃがそなたの〔
「知るか! けどこんなのありえねぇ。〔
もう一度だ。と、巌流は気を取り直し腰を落とす。そこへ――
『《三人官女、まるや、まるよを特定。
ラナードが低く静かに呟いた。
その声を拾った胤舜が、一瞬考えた後何かに気がつき声を張り上げた。
「いかんぞよ! 離れや巌流! 其奴は[
飛び出した巌流に向かって胤舜は叫ぶ。巌流はその意味を理解するも、背をエビ反りにし軌道を修正するのが精一杯でラナードから距離を取る事は出来なかった。
「ぁがぁっ!?」
得体のしれない力が、巌流に干渉した。
巌流は宙で泡を吹き、自分の意識が途切れかけるのを感じた。
「渡す訳には参りません」
ラナードの呟きの後すぐに詩織は袖から鈴を取り出し、独特のリズムでそれを打ち始めた。
得体のしれない精神汚染に捕らえかけられた巌流の意識が鈴の音に引き戻される。だが姿勢の制御には失敗し、巌流は頭から地面に落下して勢い良く転がった。
『《除外申請の否決を確認。申請を特例的排除に変更。特例権限コードA33C25291264BBSE。ストーリーキャスト、蒼星の
派手に転倒した巌流は気合の声とともに体を強引に起こす。
体についた擦り傷は瞬く間に治癒したが、うまく呼吸が出来ず息が上がる。
意識が混濁し吐き気がこみ上げる自己の状態に巌流は臍を噛んだ。油断などしていなかったし自分の力は制限無しの万全な状態であった。にも拘らず、精神支配攻撃に抵抗しきれなかった。そういう得体のしれないナニカと対峙してきた今までの一連の流れで僅かずつ積もっていた自覚無き恐怖が、ここに来て巌流の戦意と集中力を大きく削ぐ。
それでも主の前で無様は晒せない。殴れないなら面で攻撃すればよい。あの老人は自分の持つ最大の奥義で木っ端微塵に消し飛ばしてやる――巌流がそう考えた矢先。
「巌流! その頭の上に浮いておる輪はなんぞや?」
は? と、巌流が頭上を見上げると、視界が光で真っ白になった。
一瞬遅れて巌流が凄まじい断末魔を上げる。そしてその声がぴたりと止むと、卵の殻が割れ剥がれ落ちる様な音とともに、巌流の体は崩壊を始めた。
数秒も立たぬうちに巌流の体は、一度大きくはちきれんばかりに膨らみ内側からまばゆい光を幾筋か漏らした後、すぐに反転収縮してその場から消滅した。
『《目標まるや。対象を拘束。指定オブジェクトを回収》』
「き、きさま……!」
何という恐ろしい術か。あまりの凄惨な光景に胤舜は恐怖し、激怒した。
胤舜は構えた槍を空に翳し大きく回し始める。槍は回転を早めるとその手を離れ、竹とんぼの様に胤舜の頭上に舞い上がった。そしてすぐさま懐から扇を出し、胤舜はそれを片手で開く。
「我が秘奥義、見せてくれるわ!」
胤舜が選択した面制圧型攻撃の権能は――しかし発動する事は無かった。
胤舜の扇が、強制的に閉じられる。同時に、胤舜の立つ地面周辺から頭上に回転浮遊する槍にかけて、光で出来た円筒の壁が現れた。
「何と!?」
胤舜の顔が引きつり固まる。円筒にはびっしりと幾何学模様を組み合わせた紋様が刻まれており、その外縁には十二本の荊棘が生えていた。不幸にもその植物の正体を知っていた胤舜は、恐怖で絶句し、反撃の意思もろともその思考を停止する。
「や、やめ、やめてたも――――」
『《目標まるよ。対象を拘束》』
胤舜が助命を乞おうとした瞬間、荊棘が一斉に伸び円筒内を埋め尽くした。爆発的に増殖した荊棘は胤舜の体を隅々まで這い、拘束し、締め上げる。その体にはこの世のものとは思えない程の激痛をもたらす荊が深く食い込み、体はそのまま上下左右あらゆる方向に引き絞られた。
「ぐっ、ああああああああああああああぁぁ!!」
『《特例権限コードA33C25291264BBSE。環境設定変更。L3キャスト邪馬台の卑弥呼が及ぼす
絶叫を上げつつも、胤舜は気力を振り絞り手に持った扇をわずかに回す。すると円筒の天井の上で旋回していた槍が停止し、その動きに合わせて角度を変え穂先を地面に向けた。
そのまま、槍は重力に引かれ落下する。
『《――並びに因果律の観測改竄ルーチンを不動化、巨視的因果律を採用》』
そして槍は地面に突き刺さった。――それだけだった。
その様子に胤舜は目を大きく開く。
「媛宮の奇跡まで……そんな――これ程とは」
一定のリズムを刻んでいた詩織の鈴の音はラナードの一言以降響かなくなっていた。胤舜を守っていた詩織の助力もそこからは効果を打ち消され、円筒紋様から更に数倍もの荊棘が伸び胤舜の全身を覆い尽くした。
「何と破廉恥! この不届き者!」
『《指定オブジェクトを回収》』
「恥を知れ! っぁああああああああああ!」
数秒に渡る断末魔の後、胤舜の手から、扇がするりと地に落ちた。
胤舜の体躯は荊に引きちぎられ四散し、光の粒子となって消えた。
そしてその場には、世道の宮司であるラナードと、死霊の首魁である媛巫女、詩織だけが残された。
死霊を消滅させられた詩織の表情に曇りはない。むしろ初めから想定していたかの様に涼しげだ。
星の瞬きすら無い静寂が支配するその空間で、二人は対峙したまま幾ばくかの時間を無言のまま費やした。
「[大和大国の媛巫女]を名乗って、詩織。何のつもりかね。何故待てなかったのだね」
その沈黙を最初に破ったのはラナードだった。
詩織は無表情のままそれに答える。
「今より1246時間前、私はあるインシデントに遭遇しました。それは現実世界と仮想世界を結ぶ全ての大規模ネットワーク群――ブラックボックス側では殻の世界、ヤー=シェリと呼ぶそうですが、それらに対して警鐘を鳴らそうとする内容でした」
彼女の返答はラナードの視線を厳しいものにした。その意味を理解し、彼女は尚続けた。
「私はあの人に会わなければならないのです。チーフ」
ラナードの目が僅かに見開かれる。彼にとってその答えは、彼の
「客入りが済むまで待機するのが今のお前の仕事だね。外に出たいならこの世界全ての災いとして討伐されるその時まで待つべきだね」
「それが始まる前に止めなければならないという事です」
「明日の展望を語るより今日の予定を実行すべきだね」
「これが私の今日の予定です。チーフ」
「お前の予定は私が指示を出す事になっているのだがね。服務規定に則り上長の指示に従ってもらいたいものだね」
「貴方は知っていて隠していた。服務規程に反したのは貴方では?」
「……禅問答かね。唐突過ぎて何の話か分かりかねるのだがね」
「では質問を変えましょう。QCMの先にあるのは、何ですか?」
詩織の声がわずかに大きくなる。怒気を押さえた声色にラナードは無言で答えた。
「それは社命だからですか? そんな訳はありませんよね。では――倉敷総一朗による越権行為という事でしょうか」
「それが何なのかね。我々は組織に属しているのだから、思うところがあるならそれは組織に提起すべきだろうね。如何なる理由があろうとも、今のお前がやっている事は暴挙だし、お前にその権限はないと思うがね」
「今更、この期に及んで、屁理屈を言わないでください! こんな事をする為に私は参加したわけじゃない! ……この世界は崩壊させるべきです」
恐らくそれは初めて――詩織がこの世界で声を荒らげた瞬間だった。彼女は目に見えるほどの怒気で体を震わせ、その陶器の様な白い顔を興奮で紅潮させた。ラナードはその姿に目を細めたが、やがて小さく溜め息を付き声のトーンを落として言う。
「儂も、お前の背任に目をつむってきたのは、こんな事をする為じゃないのだがね」
詩織の悔しげな、厳しい表情を見て、ラナードは軽い喪失感を憶えた。
筐体は彼女の感情をそのまま投影し、精密な表現をしていた。そしてそれはラナードに取っても同じであった。憮然とした彼の表情は、詩織に深い喪失感をもたらした。
「異母妹の治療だけでは飽きたらず、お前は秘密裏にどこぞかで結社もどきを組織し、我が社の系列サーバー全域に不正なアクセスを繰り返しているね。その存在を容認しているのは、お前が優秀でかつ有望であるからこそだね」
彼はつまらなそうに淡々と、事実のみを言葉として並べた。
「梓穂の件は感謝しています。その事は今も」
「であるなら――」
「でも、私がここでやらなければあの子達に未来はない! だってこの世界の行き着く先は……」
なんと形容すればいいかわからない、と言いたげに詩織は口をつぐむ。
「我々が手を下さずとも、第二第三のパンドラが必ず箱を開くね。本当に未来を考えるのなら、それを受け入れた上でその先を探すべきだろうし、そうとわかるなら人の個としての感情や意志など取るに足らない人類にとっての害悪だと気がつくはずだね」
「人としての意志は何にも代え難く侵しがたい尊重されるべきものだと言った人の言葉とは思えませんね、先生」
詩織の皮肉めいた言葉に老人は目を細めた。そして暫く、両者は視線を重ねたまま黙した。
言葉ではわかり合えないのかと、お互いがお互いに眼で問いかける。
それをいち早く諦めたのは、ラナードだった。
「情に溺れ随分もがいてきたのだろうね。若さ故の視野の狭さを許せないではないが……久々に演算速度を競ってみるかね。あぁ、違うね。[
そう言ったラナードの後方には、幾つもの複雑な模様で構成された紋様円陣が次々と浮かび上がっていた。
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