⑤-1 ゲートホルダー
そこはグロックドルムの宮殿ではない。
もっと広く、もっと高く、もっと格式高い空気に満ちた、見た事もない至高の宮殿。
最初に目に飛び込んできたのは、等間隔に配置された細かく美しい細工が施された大きな柱。宮殿の壁には法術がかけられているのか柔らかい明かりが灯っていて、空間全体を満たす上品な明るさに一役買っている。
大理石で作られた床にはキメの細かい美しい金の刺繍をあしらった真紅の絨毯が敷かれており、琥珀色をした何の素材で出来ているかわからない高い天井からは、宝石を散りばめ緻密な細工を施したシャンデリアが吊るされていた。
――ここは天国……いや
だとすると、ここがうわさに聞く審判の門へと続く大聖堂、もしくは死者の集うヴァルハラ宮殿か。アイヒシュテットがそんな事を考えていると、急に体に重力が戻り彼の体は情けなく床に投げ出され転がった。大した衝撃ではなかったが、床にぶつかったその感触はアイヒシュテットに肉体が戻った事を十分に実感させた。
「貴様、我が主を戒めた罪、万死に値すると知れ」
床に崩れた自分の視界の前に、二本の足――白銀の具足――が降りてきた。
女性の低い、それでいて静かで凄みのある声は、アイヒシュテットの頭上から聞こえてきた。
「やれやれ、竜王の末裔の言った通りになりましたね」
「偽りの予言者めに我が君の御身体を預けねばならぬとは」
「お、お兄ちゃん、お、落ち着い、て」
「我が主よ。ここはあたしらにお任せを」
「グフフ、執行者カ。相手にとって不足は無い」
アイヒシュテットの斜め後ろから文字通り老若男女の声がした。
体に力が入らず視界を移動させる事は出来なかったが、先程からアイヒシュテットと共にいた世道の男の顔だけは見る事が出来た。
彼は顔に薄ら笑みを浮かべ「これはひどいな」と呟いて、両手を開いて降参のポーズをとる。
「それはなんだ。負けを認め恭順するというのカ」
一番歳をとっていそうな男の声が響いた。
「恭順? そんなの認められるわけないんだけど?」
「馬鹿馬鹿しい。我が君に対して働いた蛮行、死すら生ぬるい」
ハキハキとした若い女性の声に続いて聞こえたのは、高圧的な少年の声。
「驚いたが合点がいった。実に興味深い。そして滑稽だ。成る程あのデータ量、それで――まさに灯台下暗しだ」
男は上げた右腕を右耳に当てて「イリス。閉じ込められた。誰でもいい至急迎えをよこしてくれ。座標を送る」と楽しげに呟いた。
「さて
アイヒシュテットの後ろ側から、紳士的で知性を感じさせる優しげな男性の声が世道の男に交渉を持ちかけた。だが彼はまっすぐにアイヒシュテットだけを見下ろして、しかしアイヒシュテットではない何かと楽しげな口調で話を始める。
「イリス。チームに伝達。被験者AN007の解体に失敗。本件を凍結し新たに被験者AN007に内包するデータを検証解析するチームメンバーの選抜を指示。発見したクテシフォン宮殿と、それを中心とした中東地域デザイン開発委託企業に関係する者の中から、筑波のプラットフォームを利用した事のある者をピックアップ。アクセスログを解析したら合わせてファイルUGPSTにも照会をかけて結果を報告してくれ」
「聞いているのか貴様ぁ!」
「お兄ちゃん、待って、お、落ち着いて。ご主人様の前だから」
――何だ、何が起こっているんだ。彼らはどこから、一体何者だ?
アイヒシュテットは混乱する。新たに現れた者達の言葉を聞くに、彼らの主人なる人物がこの場にいる様だが、今置かれている状況では何も確認する事が出来ない。肉体が戻ったのはいいが、身体の自由は全くきかず、声を発する事すら出来なかった。
「緑眼の聖騎士とはよく言ったものだ。
パチン! と、男は唐突に指を鳴らした。
まるで耳元で鳴らされたかの様に大きく強く響いた音は、その瞬間アイヒシュテットから世界の色を奪った。
モノトーンの世界の中で、アイヒシュテットは周りから先ほどまで伝わってきていた様々な感覚が遮断された事を悟る。五感は著しい制限を受け、頭の半分を麻痺させられた様なその感覚にアイヒシュテットは息を詰まらせた。
「最初に説明しておこう。これは彼らに立場の違いを判らせる為の余興だ。君をどうこうしようとは考えていない。ただの時間制御だから安心してほしい」
――時間制御?……時を止めたとでも言いたいのか。
しかしモノトーンの世界の中でも世道の男は普通に振舞っているし、自分もそれを観測している。言葉通りではない何かをしてはいるのだろうが、アイヒシュテットにはそれを考えるだけの余裕はなかった。
「さて君の処遇だが、こうなってしまっては解き放たざるを得ない。私もそこに散らばる素子達に無駄なデバッグをさせられたくはないからね。だけれど君のおかげで――正確には君じゃなく、君に悪戯を仕掛けた者のせいだが、我々は今迷子だ。帰るには迎えを待たなければならない。それまでお互い暇を持て余すだろう?」
そう言うと、男はアイヒシュテットに向かってくるくると指を回した。トンボの目を回させる要領で滑稽に動く指先をアイヒシュテットは直視させられた。
すると、頭の痺れが少しだけ和らいだ気がした。
「余興として私がこれから幾つか質問をするから、YESであれば視線を縦に、NOであれば視線を横に動かそうか。判らなければ中央で視線を固定だ。勿論それなりの謝礼はしよう。バックアップという形でだがね。どうかな」
断りたい気持ちはあれど、それは愚策だ。この状態で意地を貫く程アイヒシュテットは気概に富んではいなかった。彼はすぐに視線を縦に動かす。
「よろしい。ではひとつ目の質問だ。――君はどこまで自分の事を思い出せる? 嶋川祥二郎という名前に心当たりはあるかい?」
アイヒシュテットは視線を横に動かした。
「ふむ。ではふたつ目の質問だ。君は君に語りかけてきた内なる声について覚えているだろうか。あぁ、今席を外している君の相席者じゃなく、君をモニタリングしていた彼らの創造主の事なんだけど、どうかな?」
アイヒシュテットは視線を横に動かした。
「そうか。じゃあ、今君を取り巻くソレらについても心当たりはないのかな?」
周りを見渡す男の視線を見て、ソレというのがアイヒシュテットの周りに突如現れた謎の集団についてだと彼は察した。一瞬おいて、彼は視線を縦に動かした。
「成る程実に興味深い。やはり知覚しているわけだ。嘘を言ってないだけに事は深刻だね。埋め込まれている種が孵化する瞬間を思うと同情を禁じ得ないよ」
アイヒシュテットは正直に答えたつもりだ。それはこの男の反応に得体のしれない恐ろしさを感じたせいだが、答えている内に何故か彼の胸の内には妙な不安がこみ上げていた。果たして自分は本当に正しい答えを返しているのだろうか、という自分に対しての疑心暗鬼のようななにか。
「しかし今の君の証言は、
嘘をついていないのに嘘を付いて答えている気がする気持ちの悪さ。そしてそれを見極めんとしているだろう男の視線。アイヒシュテットの思考は、その奇妙な焦燥感により阻害されていた。
「じゃあ次が最後だ。なぁに、身構える事はない。この問いは単なる世間話だ気を楽にして答えてくれ」
男は勿体つけて一拍置いてから、最後の質問をした。
「――時に君は、異世界の存在を信じるかい?」
その質問が何を意図しているのか判らず、アイヒシュテットは視線を動かす事が出来なかった。
はいかいいえかで答える事が出来る質問の形ではあった。しかし、異世界という言葉が何を指すかでどちらともいえるしどちらともいえない。それが彼の脳裏に浮かんだ答えだったからだ。
「今のこの時代においても用意出来ない程の気の遠くなる様な膨大な演算能力と、領域のきっかけたる重力を駆使すれば、人は時を遡れるという仮説がある。……とは言っても、それはアニメに出てくる机の引き出しの中のタイムマシンの話じゃない。そう……あえて形容するならそれは――予知だな」
答えないアイヒシュテットに、男は情報を追加してくる。しかし今のアイヒシュテットにそれを情報として認識し処理するには心の許容量が不足している。
「このシステムを使えば、人は高密度の予測情報を獲得する事で擬似的な未来を体験出来る。未来起点から言えば、人は過去をやり直せる。デュアルペネトレーターである君は、私からすれば異世界人そのものだ。いや、この世界そのものが異世界との境界にあると言っても過言ではない。つまり」
視線を動かせないアイヒシュテットの瞳を男は真っ直ぐに見た。幸いしたのは否が応にも見つめ合う光景をアイヒシュテットが第三者視点で認識出来なかった事だ。叶っていたなら彼は嫌悪を感じ視線を維持してはいられなかっただろう。
だが男は構わずそのままの状態で、真顔で彼の顔に自分の顔を近づけた。
「君にとってのつい昨日の出来事は、私達にとっては多分――」
そして小声で囁いた。
「――明日の出来事と言う訳だ」
アイヒシュテットの瞳をその鋭い目で覗き込みながらそう言うと、男は直ぐに身を翻した。そして斜め上を見上げて右手を天に翳す。
「来たか、早いな」
その言葉をきっかけに、モノトーン一色だった世界が一斉に色を取り戻した。
「叔父さん! なんでクテシフォン大宮殿が、どこにあったんですか! それにあの解析依頼は、って、えー!? 何でアイヒシュテット君!? 叔父さん何やってるんですか!」
聞こえてきたのは玄奘の声。
男は一瞬あっけにとられた顔をし、そしてすぐに眉間に皺を寄せ、再びアイヒシュテットを、今度は注意深く見た。
世道の男の顔からは既に笑みは消えていた。
「お前を
「えぇ!? あ、はい! わかりました! ありがとうございます!」
返答した玄奘のその声は、驚きと恐縮と感謝が入り混じったなんとも間抜けな物だ。二人の関係性はわからないが、もしかするとあの男は自分を陥れる敵ではなかったのかもと、そのやり取りでアイヒシュテットの混乱は増した。
「――あぁ、それと」
男は宙を見つめつつ右手で見た事のある動作――何もない空間をなぞったりつまんだり開いたり――をして、ふと、何かを思い出したかの様に虚空を凝視し、指を止める。
「ここはアトリエだ。叔父さんとは呼ばないように。ちゃんと役職名で呼び――いや、
男が言い終わるのと同時に、重い鉄扉が軋みながらゆっくりと開く――初めて男がアイヒシュテットの前に現れた時と同じ――音がした。
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