④-3
視界が暗くなり、光が感じられなくなる。
黒い渦の中を自分は漂っている。
意識だけが切り取られ流されているのか。
こんな事は初めてだ。
しかしどうしてか、既視感がある。
ここはさっき見た、渦の中なのではないだろうか。
――さっき?
さっきとはいつの事か。アイヒシュテットは考える。
広がっている闇に果てはない。目を開けても目を閉じてもそこには闇がある。
アイヒシュテットは自分が死んだのだと思った。
だとすると、確かにこれは初めての体験であるはずだ。
宗教の中には輪廻という考えを持つものがあるが、まさかこれがそれなのか。
いや違うだろう。アイヒシュテットは思い直す。そんな訳はないと。
目は開いている。見えないだけでまばたきは出来ている。闇ばかりで何も見えないが、恐らく手も足もある。自分はきっと、人間の
根拠はない。己の感覚が正しいと証明する手段もない。死者に自我があるものなのかもわからない。だが、恐らく自分は死んではいない。
そうやって暫くの間、アイヒシュテットが辺りの様子を
「やぁ。ようこそ
視界の端ギリギリに、玄奘が着ていた物に似ている衣装――輪無唐草の
どうやっているのかわからないが、彼の第一声はどこで喋っているのか距離感の掴めないものだった。頭の中に直接響いてきた気もするし、単に耳元で囁かれただけな気もする。
しかし視界に捉えている彼は、随分と遠くにいる様に見える。
「君が動けなくなったのはこの蜂のせいだよ。こいつには意思が設定されていない。風や雨と同じ環境オブジェクトだ。だから
男が右腕を上げたのと同時に、星かと思っていた光の一つがアイヒシュテットに近づいた。
そうだ。あれは蜂だ。アイヒシュテットは目を見開く。
ホタルに似た淡い光を放つ虫。あの時この蜂が飛び込んできた。そして体中に走った不可思議な感覚のせいで手足が動かなくなり、胸を突かれたのだ。
「思い出したね。そう。君は胸を突かれて死んだ。――三度」
三度? アイヒシュテットは怪訝に思う。だが構わず男は続けた。
「一度目は胸を突かれて、二度目は胸を打たれて、三度目は胸をえぐられて、だ」
何の話をしているのだ――彼は最初そう思った。だが同時に、それは事実であるという直感もあった。
そうだ。その男の言う事はその通りだ。だがどうしてそうなったのだったか。アイヒシュテットはそれらの記憶を思い出せない自分に不気味さと不安を覚えた。
「一度目ははっとしただろう。まさか討たれるとは思いもしなかったろうからね。でもそれ以上に、それを受け入れた自分にこそ実は一番胸を突かれたんじゃないかな、君は」
「二度目は感動しただろう。感じた事もない威圧感。強大すぎる存在感。為す術なく葬り去られた圧倒的な戦力差は初めての経験だったと思う」
「三度目は哀切きわまりない気持ちになったろう。この件については、うん。まぁみなまで言わないでおこう。君はベストを尽くした。それだけだ」
淡々と語る言葉は輪唱となってアイヒシュテットの頭に直接響いた。まるで彼の返答など求めない自分語りの様な一方的な口調で。
彼は更に言葉を続けた。
「偶然なのか因果なのか。シナリオの種を作ったのは我々だが、仏の顔もって言うしね、謝って許してもらおうとも思っていない。だが、君には自分が何者かを知る権利がある。僕はそう考えた。君がこの世界にいる限りは、我々運営側にも君を助けなければならない義務があるからね。ベストエフォートを約束しよう」
自分の感想を述べ、自分から反省し、自分だけで完結する。置いてきぼりにされたアイヒシュテットは、男が何の話をしているのかまるでわからない。
だが男は構わず話を続ける。
「さて、今の君の状態だけど、一つの人格に二つの記憶が混在する状況にあるというのが我々の見解だ。このテストに参加した本来の君の記憶と、この世界を盛り上げる為のギミックとして作成されたストーリーキャストバックボーンの共生。いわばシステムの二律背反――デュアルペネトレイトだ。一つのオブジェクトに外部入力と内部出力によって異なるユニークデータが同時に組み込まれ、正規の存在として世界に認識される障害。アイヒシュテットというテスターに起こった障害は、上っ面はそれで間違いない。本来であればアレはダンプごと、物語上の役割を終え舞台から退場、つまりこの世界の死を受け入れた時点で消去されるはずだった」
アイヒシュテットの眼前に、スクリーンが現れる。
そこに映し出されたのは、グロックドルムの王城の中枢にある謁見の間だ。
玉座の左右に控えるのは王直属近衛兵団幹部と王の側近達。玉座に座っているのは――間違いない。グロックドルムの開戦を決断し、翼竜に乗って自ら陣頭指揮を執る勇ましき青年、即位したばかりの新王だ。
「しかし不明な介入により何らかの改ざんがなされ、彼の筐体は消滅しなかった。そして何者かが、その筐体にユニークデータであるテスターのパーソナリティデータをひも付け、inviteesとしてコンバートした。システムからはプレイヤーとみなされエラーの検知にかからず、管理者の定期検索からはデータ上NPCと見なさ見落とされる。君の特異性は異常性を検知されないまま、今日まで隠匿されてきた」
スクリーンに謁見の間に入ってきた一団、グロックドルム特務局ベルディグリのメンバーが映し出される。その中には、聖騎士に与えられる純白のマントに身を包んだ人間の姿があった。
その映像に、アイヒシュテットは動揺した。
――馬鹿げている。こんなもの……。
結論から言えば、アイヒシュテットはこの光景を知らない。
映像の視点の問題でその顔を確認する事は出来ないが、近くに控えているベルディグリメンバーの中には、いかり肩で特徴的な後ろ姿を持つ班長らしきシルエットもあった。
この光景だけを見れば、マントを帯びたソレは自分であるはずだ。
これはいつの事なのか。
確かに思い出せない。
自分の記憶が確かならばソレは自分ではない。
しかしこの光景が事実ならば自分は、ソレではない。
――どういう事だ、私は一体……。
誰なのか。アイヒシュテットはその疑問を飲み込む。
自分は記憶の改竄をされているからこの光景を覚えていない。男はその証拠としてコレを見せたのか。しかしだとするなら――アイヒシュテットは直ぐにその考えを否定する。
――私は確かにこの国で
自分は錯覚させられている。この映像だけを見せられて状況を考えようとすれば、自ずと思い描きやすい結果を推察する。自分の思考は誘導されているのだと彼は思った。アイヒシュテットは少なくとも、この映像が男の言葉を真実とする証拠には成り得ないと判断した。これが幻術の類でないと言い切る方にこそ無理がある。そもそもこの異常な状況の中で正常な判断を行なえというのは無理がある、そう、むしろ――。
「君は始まるべくして始まる始まりのこの場所に、本来納まるべき始まりの
男はスクリーンの前まで歩くとアイヒシュテットの方を向いた。
スクリーンの映像は切り替わり、武器を構え大空を滑空する二匹の翼竜騎士の姿を写した。その光景は、恐らくアインツェルカンプ。しかも騎手は――信じがたい事だが――新王とその妹君、リーズ王女による決闘に見えた。
「これらは全て予定されていたシナリオだ。信じるも信じないも君の勝手だけど、このワイプをスクリーンとして認識している君自身が真実を示す確たる証拠だ。どうだろうか。君はきっと言葉では言い表せない絶望みたいなものを感じてくれたと思う。だがすまない。君の冒険はここで終了だ。私の解説はサービスだから、まずはこのまま死んで欲しい。うん。君はあの死霊には絶対に勝てなかったんだ。すまない」
映像が消える。二人の戦いを最後まで見る事は出来なかったが、恐らくは新王が勝つだろうと戦いの内容からアイヒシュテットは思った。もし新王が討ち取られる様な事があれば、指揮系統は崩壊し戦線も維持出来ず、敗戦が確定するだろう。
しかし何故か。リーズ王女は精鋭のみで組織された虎の子の[第一空戦兵団ブリュンヒルデ]を率いる新王の右腕だ。決して裏切るような方ではないし、何より二人は実の兄妹。裏切る要素もメリットも皆無のはずだが。
アイヒシュテットは男の話をそっちのけで映像の真偽について考えていた。彼としては元々何を話しているかわからない上一方的すぎる内容の理解に務めるより、映像で見せられた事件の分析をする方が建設的に思えたのだ。
それでも、次の男の一言で、彼は男に意識を引き戻される。
「殺伐とした世の中でそういう気持ちを忘れないで欲しい、そう思って君をここに手繰り寄せた。さて、もうここに君がいる意味は無いし、我々も君を戻す準備が出来た。――じゃあ、リセットしようか」
殺すという事か。
アイヒシュテットは、初めて見せた男のにこやかな表情に警戒した。
今度こそ本当に殺す――彼の口にしたリセットという言葉に、アイヒシュテットはそれが、殺害を示す比喩と察し、覚悟をした。無念に顔を歪ませ、アイヒシュテットは道半ばで倒れる己の不甲斐なさに悔しさを感じ、存在するかわからない拳を強く握った。
その時だ――異変に気がついたのは。
――――? ……動く?
体が、動く。
アイヒシュテットは足をバタバタと大きく激しく動かしてみた。
間違いない。僅かながら、視点が動く。
それをきっかけに、異変は徐々に拡大した。
暗闇が晴れ、辺りが徐々に明るくなっていく。
闇に浮かんでいた柱時計も丸く輝く小さな灯りも消えて、明るさを取り戻していく世界は少しずつ、辺りに宮殿の風景を映し始めた。
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