②-2
――――?
音がした。
馬にくくりつけているランタンを一つはずし、アイヒシュテットは遠くが見えるよう、それを真上に掲げた。
見える範囲に異常はない。前も後ろも見慣れた風景だ。
――……気のせいか?
ランタンを戻そうと腕を下した時。
どこかから、ゆっくりとしたテンボの、高く澄んだ声が聞こえてきた。
――……歌?
声には旋律が伴っていた。
アイヒシュテットはランタンを鞍に付け直し、反対側の鞍に付けられていた槍を取り外した。
知らない言葉と聞き慣れない旋律が何処かから流れてくる。
歌詞が何を意味するのかは分からないが、それはとても悲しげな旋律であった。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細通じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
――何処だ……何処で歌っている。
アイヒシュテットは歌声に耳を澄ませた。
声の方向を探ろうとするが、木霊のように反響する音は、アイヒシュテットにその方向と距離を上手く掴ませない。
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも通りゃんせ 通りゃんせ
歌はそこで終わった。
アイヒシュテットは槍を構えたまま歌の主を探した。
注意深く、慎重に辺りの気配を探る。
物音は無い。風の微妙な動きを探ろうと、彼は更に意識を集中する。
何かいる――気配はないが、わかる。それは騎士の戦場における
十秒。
二十秒。
「見えますか」
――っ!!
囁かれて、アイヒシュテットは慌てて振り返る。
そこには見た事も無い鮮やかな朱の衣装を身にまとった――女性が立っていた。
例えようも無い、不吉を掻き立てさせる威圧感、ないし気圧が波打つような不快感。
それだけでも戦慄を覚えるのには十分な要因であったが、何より彼の心胆を寒からしめたのは、透き通るような白い肌をした彼女の、人離れした美貌が醸す気高さだった。
「貴方もまた、入り口を無理矢理こじ開けて入ってきたのですね」
あの歌は彼女が歌っていたに違いない。その声はとても穏やかで静かだったが、芯の強さを伴っていた。
シルエットとは裏腹な強烈な存在感。
彼女の冷たい瞳に見入られたアイヒシュテットは、体中の血の気が急速に引いていくような感覚に襲われた。
「私を、退治しに来たのですね」
彼女は淡々と言った。
「待ってください。私は貴方の敵じゃない。私は黒龍石、貴方達の言う
アイヒシュテットは頭をかき回されるような異様なプレッシャーに耐えながら答えた。
女は暫く黙っていたが、アイヒシュテットを値踏みする様にじっと見た後
「あれは私が持ってこそ意味があるものです。ですが――――そうでしょうね。やはり彼は貴方を――」と小さく笑った。
その一瞬の、信じられない程の優しい笑みにアイヒシュテットが息を詰まらせた時、「あれは、――――」蚊が鳴くようなか細い声が耳元で聞こえた。
アイヒシュテットにしてみれば、それは全く信じられない不可解な出来事だった。
馬の向きを変えることで正面に捉えていた彼女が、今、彼の馬に腰掛け、彼の背中にもたれかかっていた。
まばたき一回にも満たない僅かな時間に起きた出来事は、もはや気の緩みがどうという事では説明がつかない。自分は既に、彼女の術中にはまってしまっているのだと、この時アイヒシュテットは悟った。
「わかったらお行きなさい。そしてもう一度――」
彼女はゆっくりと、しなやかにアイヒシュテットの背中から胸に手を回し、言葉を止めて首を横に振った。それを合図に、突如全身を激しい、斧の刃先で細かく何百回も殴り打たれ切り刻まれるような感覚がアイヒシュテットを飲み込んだ。
後胸部を鋭く貫通する衝撃。目の前が真っ白になり、視覚と聴覚が奪われた。
「――――っ!!」
思わず何かを叫んだが、頭の中心で何かがはじけた瞬間、アイヒシュテットはそれを忘れた。
垣間見えたのは懐かしい友人か、それとも昔飼っていた愛しいペットか。全身を駆ける衝撃は思い出そうとするアイヒシュテットから意識を引き離し、彼を闇へと突き落とした。
◆◆◆
それらを思い出したのは目が覚めて少したってからだ。
葉が揺れて擦れる音がして――木漏れ日の明かりでアイヒシュテットは目を覚ました。
夢か現実か判らない境目から、少しずつ頭が働くようになるまで小半時。
辺りを見回し、自分が木の枝に引っかかった状態で宙吊りになっているのだと気が付いたのは、それからさらに暫く経ってからであった。
――陽の光……。
地面を探そうと足を何度か動かしてみる。何かにぶつかる気配はない。大地を求めてさらに足を伸ばし体を反らせる。
枝のしなりで体全体が上下に揺れた。
体を伸縮させ背中の枝を掴みよじ登る。枝はさらに大きく揺れたが、しなるだけで折れる気配は無い。
揺れに合わせてカサカサと葉と葉が擦れ合う。アイヒシュテットはそのまま枝を伝い幹へ移動し、引っかかっていた道具袋を外して落下させた。そして注意しつつ下へ降りて道具袋を回収し、その伸縮するベルトを腰に付け直した。
体のいたるところが重く、だるい。
辺りに人の気配が無い事を確認した彼は、徐にその場に座り寝転ぶ。
樹の根元は日陰になっていて、そのせいか地面はひんやりとしていた。
足や臀部に、布地越しにじんわりと地面の冷たさが染み込んでくる。
――ここは、どこだ……。
時折通る風が心地よい。木漏れ日のせいで火照っていた顔と左腕から徐々に熱が引いていくのを感じた。
枝葉の隙から見える太陽。光の加減から高い位置にあるのがわかる。時刻は正午頃だろうか。
――一体何が――
ここはあの場所とは別世界、いや、あの場所が別世界だったと言うべきか。空気の違いから戻ってこられた事を理解し一先ずは安堵したものの。
――……ウッ!?
ここがどこなのか、その疑問を確かめるべく手がかりを求め立ち上がろうとした時、アイヒシュテットの全身を激しい痛みが駆け抜けた。
体から力が抜け、立ち上がりかけた体が重力に引かれてそのまま前のめりに転倒する。
ダメージには心当たりがある。アイヒシュテットは先程の事を思い出し、すぐに鎧を確かめる様に触った。
――そんな……貫通痕が、無い?
奇妙な話だ。あの時確かに自分は胸を貫かれた。だというのに。
倒れた体を半身に起こし彼は鎧の前後をくまなく触る。が、穴などどこにも空いてはいない。
―― 私は……あの女性に――
夢を見ていたのか。そんなはずはない。彼は冷静に記憶を辿る。
そして攻撃を受ける直前に囁かれた、彼女の言葉を思い出した。
――あれは、混沌の神ゾルヴァへの贄。
確かにそう言っていた。
贄と。
言葉通りなら、黒龍石とは何らかの力を引き出すための触媒とも捉えられる。
ならば混沌の神とは、何を表す比喩なのか。
まさか邪悪なる神を降臨させるなどという大法螺ではあるまい。神は神だ。この現世に現れるというならその時点でそれはもはや神ではない。精々なんらかの巨獣を使役するためのカギと解釈するのが妥当だろうと彼は考える。例えば――
――やはり、リヴァイアサンなのか?
それならば現実味があるし対策も練られる。もし邪なる力の類だというなら麒麟で探知も可能なはず――そこまで考え彼は気が付く。
――! プレヴォーは!
ハッとして彼は周りを見渡したが、相棒の影はない。
彼は歯を食いしばり土に爪を立て、力の限り自由の利きにくくなっている上体を起こす。
見渡せる範囲に
聖騎士の腕輪に埋め込まれている核石を確かめれば、僅かに青緑色に光ったのが見て取れた。
――……大丈夫だ。殺されたわけではない。
彼は安堵の息をついた。石の反応は現在麒麟がこの世界に顕現中である事を示すものだ。無事かどうかはわからないが、光はまだこの世から麒麟が消滅していない事実を裏付けていた。
その事実に彼は勇気を得る。自分がどの様にしてここに来たのか、何故生きているのかは判らなかったが、自分が生きている
アイヒシュテットは一番近い木の幹まで這うと、体を捻りそれを背もたれにした。
そして剣の鞘の横に括りつけている竜笛袋の紐を解くと、そこから笛を引っ張りだす。
――此方側に帰ってきているのならば――。
彼は徐ろに横笛を吹いた。
〔
竜笛が、その音色を風に乗せ空へと響かせる。
瑞獣の中でも聖獣に区分される麒麟は楽曲に独自の好みを持っている。彼らが好む旋律のまとめを、彼の国では聖楽と呼んだ。
聖楽はそのどれもが躍動的な旋律で構成されており、生者の気を奮い立たせ勇気を与え情熱を掻き立てる。アイヒシュテットの奏でる音色には、瑞獣を誘い満たすだけの演量――人の感覚に例えるならその食欲を満足させるに十分な食料――が含まれていた。
曲のうねりで風が木の葉を舞い上げる。大地の生命力が聖粒輝となって辺りに満ち始める。アイヒシュテットはその変化に誘われて、隠れていた小動物達が集まってくる気配を感じた。
一曲が終わり、彼は右腕に填めた聖騎士の腕輪に左手を添えた。この世の生物ならざる瑞獣との繋がりを示す秘宝は、その求めに応じ名状し難い独特な感覚を主に伝える。
――星は――――出ないか。これでは聖粒輝の相互支援も不可能だな。
万物の力の根源である聖粒輝は確かに日ノ本にも存在する。彼らの間では〔MP〕と呼ばれる聖粒輝だが、何故かあの場所にはソレが存在しなかった。
麒麟は足から絶えず大地の聖粒輝を吸収し、その為飲食を必要としない存在だが、だからこそあの世界では長く生きられない。再召喚出来ないにしてもせめて力を送れればと考えた彼だが、結果は繋がりを断たれてしまっている状態を再確認するだけに終わった。
――やはり……あの閉じた空間の中か……。
腕輪から左手を離して、彼は目を閉じた。急がねば、早く救い出さねばと急く気持ちを抑えつつ、彼は頭の中で状況を整理する。
まずは態勢の立て直しだ。どの方向に向かえば人里へ出るのか。四方はどこも同じ様な景観だ。耳を澄ましても風と葉の擦れる音しかない。木漏れ日からでは日の影を頼りに位置を予測するのも難しい。
――ひたすら進むしか無いか。
これ以上の観察は意味が無い。意を決した彼は、笛をしまい木を頼りに立ち上がる。
そして歩く。
後二歩。三歩。
少し進もうとしただけで強い痛みが胸に走った。反射的に体中の力が抜け、彼はまた前のめりに突っ伏した。
――なんと情けない。
アイヒシュテットはもう一度立ち上がる為、一度深呼吸をし、両腕に力を込めた。
自分の見立てより体のダメージは深刻らしいと彼は知る。喉の渇きはないが、指先の爪を押すと脱水症の傾向が見られた。
再び立ち上がろうと彼がもぞもぞしているうちに、雫が彼の頬に落ちてきた。
――?
パラパラと、上で葉に雨粒が当たる音がして、二滴、三滴と、雫がアイヒシュテットの顔に落ちる。
運がいいのか悪いのか。確かに水は飲んでおきたいタイミングだが、ここで雨に降られては地が泥濘んで移動どころではなくなってしまう。
歩く事もままならないアイヒシュテットは途方に暮れそうになった。
こんな所で時間を浪費している場合ではない。だがそう
――考えろ。どうすればいい。何か打てる手は無いのか。
「…………」
無い。そんなものは無いのだ。
アイヒシュテットはもういい、とばかりに――半ば投げやりに――息をつくと、進む事をやめ体を捻り仰向けに寝転がる。
自分は冷静ではない。現状を正確に把握出来ていない。無駄で無意味な思考を走らせようとしているのがその証拠だ。
彼は思考を放棄した。
ここで眠ると死んでしまうのだろうか。だとしたら自分は既に、あの一撃で死んでいたのだ。後は野となれ山となれ。アイヒシュテットの背中にじんわりと泥水の冷たさが伝わり、冷えが体の芯に染み込んでくる。
「ねえキミ。こんなところで何してんの?」
仰向けに寝て、目を閉じて、雨水を得ようと口を開けるという間の抜けた格好を暫らくしていると、急に雨の雫が当たらなくなった。代わりに、雨が葉ではない何かに当たる音が聞こえた。
眼を開けると、そこには黒髪の少女が、自分の顔を覗き込んでいる姿があった。
――傘?
「HPレッドゲージで動けないのはわかるんだけど……雨が飲めるか実験?」
透き通った声。白と赤を基調とした民族衣装を着た気品に溢れるその女性を見て、アイヒシュテットは地獄に仏を見た思いがした。
「あ……っぁ……」
そして声にならない息の様なものを吐いて、彼はその場で気を失ってしまった。
重くなる目蓋にうっかり閉じる事を許してしまったのは、彼女から滲み出ていた懐かしさのせいなのだと、消え入る意識の中アイヒシュテットは誰にともなく言い訳をした。
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