①-3

――……? ……あぁ。いけない。


夢と現の境界で、彼は月明りを見ていた。


思考が形となり始め、覚醒が近づくにつれて彼は視野に、厩舎側の窓から差す月明かりを認識する。


いつの間にか眠ってしまった。そう理解し、彼は素早く上半身を起こす。


ほぼ同時に、自身に掛けられていた薄い毛布の存在に驚く。


彼の視線は自然とテーブルに置かれた湯気が立ち上る茶に移り、自分が随分と迂闊な事をした事実に気が遠のく。


人の気配を感じ取れないほど深く寝入ってしまうとは。思わず苦虫を噛み潰したような顔をしてしまった。


愛馬の方を見れば、彼女はただアイヒシュテットを見つめている。


自分が気が付かなかったとしても、何者かが近づけば彼女が嘶くはずなのだが――ラナードが帰ってきたからなのか。


アイヒシュテットはあたりを見回す。しかしどこにも彼の姿は無い。


また、どこかへ行ってしまったのか、自分が寝ていたから。


だとしたら一体どこへ。次はいつ戻ってくるのか。


――……起こさなかった理由は、なんだ?


まさか寝ているのを起こすのはかわいそうなんて言う理由ではないだろう。自分は彼の身内でも何でもない。非礼を働いた相手にそんな気遣いをする理由もないはずだ。


アイヒシュテットの思考は巡る。


そもそも何の準備にこんなにも時間をかけているのだろう。


そう。彼は準備があると言い、自分を待たせたのだ。


――異教徒の洗礼でも始めるのか。それとも世道組織以外の何か別の都合か……いや、それはないだろうが。


アイヒシュテットは部屋を見渡す。


部屋の隅には戸棚があり、ガラス越しに保存食や衣料品など日用品が整頓された状態でぎっしり収められているのが見えるが不審なものはなさそうだ。


入ってきた扉にも鍵はついていなかった。窓も簡易的なものでむしろ悪天候時に木枠が外れはしないかと心配になるボロさだ。監禁出来る様な部屋ではない。何より彼らの力で自分達を捕えられるとは思えない。


――何を馬鹿な。こんな最果ての地に、敵国の間者などいるはずもないのに。


祖国が戦争状態であるせいか、アイヒシュテットは些細な事が気になってしまう。小心さが出ている、と、彼は内心で自虐的にそう言ちる。だいたい罠があったとして、一体彼らに何が出来るだろう。


――それどころか異教徒の洗礼って……それはあり得なさすぎるな。


ましてや宗教がらみのはかりごとなど、取り越し苦労もいいところだ。そもそも彼らの言う世道――我々が呼ぶ世教――は、アイヒシュテットに言わせれば宗教ではない。


彼らには信仰らしきものはあれど、信仰すべき神がいない。確定した教祖、創始者もおらず、明確な経典や聖典もない。


伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤に、領内の有力者層による政治体制に利用される過程で徐々に成立したというその起源を知れば――アイヒシュテットでなくても――大抵の聖職者はそれを宗教とは認めないだろう。そんなナニカに改宗云々などあるものか。


――とはいえ、いつまで待たせてくれるのやら。


アイヒシュテットは愛馬をちらりと見る。彼女はアイヒシュテットを見守るかのような穏やかな表情をしていた。


麒麟という種族の危機感知能力を信用している彼は、気を緩めソファーに座り直す。


「アイヒシュテットさん」


その矢先である。


急に背後から声をかけられたのは。


「玄奘と申します。この度宮司から案内を任されました。お支度が済みましたらお声がけください」


慌てて振り向いたそこにいたのは子供であった。


少年か少女かわかりにくい綺麗な顔立ちをした子供。彼、もしくは彼女は努めて事務的な口調で言った。


「こ、これは失礼を。ぼんやりしていて申し訳ない」


アイヒシュテットは我が目を疑った。


いつの間に。いや、初めからいたのだろう。まるで気配を感じなかった。


――くそ。やられたなこれは……。


だからか。今にして思えば愛馬のあの目は、悪戯を楽しんでいたソレのものであった。全く気が付かなかったのが悔しく、彼が愛馬を睨むと彼女はスッと視線をそらした。


「貴方の事は聞いています。私がご案内しますので出発の準備をお願いします」


そんなやり取りを無視して事務的な言葉を発する存在、玄奘に対し、アイヒシュテットはバツが悪そうな表情を浮かべる。


――女の子、ではないな、名前からすると。


その判断には、正道の女人は巫女装束という衣装を着るという情報も含まれていた。彼の着ている衣装は正道男性神職のソレに装いが似ていたのである。


――確か、この地域の神官、宮掌くじょうが着ていた……。


少々綺羅びやかにアレンジされているようだが、装いからして、そこそこの役職であるのだろう。


歳は十歳位に見えるがその落ち着きぶりにはアイヒシュテットも舌を巻くほど。中々堂に入った立ち振る舞いであり、案内役と言っても決して下級職というわけではないとわかる。


相手を見た目で子供と侮ってしまった浅慮と、それに比べた己の体たらくの落差に、彼は小さくない自己嫌悪を感じずにはいられなかった。







「こちらから参ります」


玄奘、と名乗ったその少年は、麒麟を迂回するように厩舎の奥へ行くと、壁を押してそう言った。


するとスッと壁の一部が奥へと動いて、音も無く右へとスライドする。隠し戸だ。


「先導致しますので付いて来てください」


大人一人が余裕を持って通れるくらいの入り口を入っていく玄奘。アイヒシュテットは愛馬の手綱持って先に中に入り、愛馬が頭をぶつけないよう戸をくぐらせる。


洞窟の中を思わせるその道は、どの様な仕組みなのか薄明かりに満ちていた。


道の先までは薄暗さのせいで測れないが、歩くには支障をきたさない程度の明るさがずっと続いている。


人工的に作られた道は土木構造物に違いないが、わりと乱雑な仕事で出来ている。あえて言うなら、山を通る為の隧道に近い。少なくとも儀式場へと続く道という雰囲気は無い。


アイヒシュテットは麒麟の手綱を引きながら辺りを観察するも、あまり注視しては挙動不審ととられる事を危惧し、努めて無関心を装う。


――困ったな。こういう時はどうすればいいんだろう。無言で歩くのも感じが悪いだろうか。


けれどそのせいか。黙って歩くことが不自然に思えるという疑心暗鬼に囚われた彼は、何か気を紛らわせる話題を投げるべきだろうという思いに駆られ始める。


逡巡し、思い付いたのは、ラナードの事を聞いてみるという一投。


暫く無言で歩いていたアイヒシュテットだったが、ふと、それとなく、ラナードの事を訪ねてみた。


事務的な態度で断られるかもしれない。だがそれならそれでよい。無言のまま歩く気まずさはこちらのせいではなくなるし、無愛想を押し付けられるならそれは逆に好都合だ。


と思っていた彼だが、その予想は外れ、以外にも玄奘は話に乗ってきた。


曰く。ラナードは別の仕事にかかっている為ここには来られない。ラナードは世道の宮司――アイヒシュテットの国で言う司教――という立場である、等々。思いの他情報を漏らし始める玄奘。


なるほどただの歴史学者ではないだろうと薄々は思っていたが、それであれば急な用件が入る事もあるだろう。と、納得を交えつつ、しかし驚いたのはそれよりも、この少年がこの社の責任者だったという話だ。


――教区の責任者って、意味でいいのかな……子供が、か。


聖職者に歳は関係ないとはいえこの年齢で司祭級というのは、アイヒシュテットの常識ではなかなか信じ難い事だ。だが、この話題を掘り下げるのは多分宜しくない。不用意な発言によって無駄なトラブルが起こる事を彼は恐れた。真実を引き出そうという行為そのものが、子供を理由にしているとバレない訳がないと気付いたのだ。


「双魚の社は普段、人の立ち入りを制限しています。侵入者を阻む仕掛けが施されているので、それを解除する必要があるのです」


道を歩き続けた先には広場があった。


洞窟が外へと通じたのだとアイヒシュテットは思ったが、しかしそこに星空はなかった。


上を見れば天球の天井。どうやらそこは、建築物の中であるらしい。


は白い半球の建物。放牧民が使うテントのようで土製の建築物のようでもある。窓は無く、壁にいくつかの凸凹と、木製の扉だけがある。


壁の素材は見た事もないナニカ――鉄と煉瓦の特性を持っているようなナニカであった。


それだけではない。


地面に散らばっている幾つもの箱。


四角、長四角、台形、円柱といった、何に使うのかよくわからない様々な大きさ、形の箱型のガラクタが散乱している。お世辞にも片付いているとはいえない有り様だ。


「ここでお待ち下さい」


入り口でアイヒシュテット達を留め、玄奘は小走りでフロアを移動した。


彼は散らばっていた箱を拾っては、建築物の奥にある扉の前に置く。そんな事を何往復もして扉前に木箱を集めた。


やがて必要な分を集め終わったのか、今度はそれを階段状に積み上げると、バランスを崩さぬようそっとその上に登り始める。


何が始まったのかわからない。何をしているのかもわからない。


彼は積み上げた木箱の最上段に立つと、不意に上へと手を伸ばす。


扉の上には、赤い棒のようなものがせり出していた。


木の枝なのか、それとも角材なのか。赤い棒は玄奘の背丈ではぎりぎり届くか届かないかの場所にあった。


もう一つ箱を足せば届きそうだが、手頃な大きさかつ頑丈そうな箱はもう無さそうだ。それを見て、これは取れないだろうな、とアイヒシュテットは思った。


アイヒシュテットは背伸びをしバランスを崩しかけていた玄奘を見兼ねて、彼の横まで行くと「これを取るんですか?」と、跳躍ジャンプして代わりに棒を取って彼に渡した。


「っ…………扉の解錠をしますから、離れていてください」


小さく息を呑んだ後。焦ったような、ないし怒ったような小声で、玄奘はアイヒシュテットを遠ざけた。


――余計な事をしてしまったか。


己の失点を感じたアイヒシュテットだったが、今更どうしようもない。「わかりました」と短く答え、彼は素直に玄奘から離れた。


玄奘は積み上げた木箱を降り、今度は扉から九十度左手側の壁へと木箱を運び始めた。


何もないただの壁。一見そう見えたが、玄奘の箱を置いた場所の壁の上部には、幾つものくぼみが施された板状の土板がやや斜めにせり出すように括り付けられていた。


先ほどと同じように彼は箱を積み上げそれに上り、今度は棒でそのくぼみを、何らかの決まり事に沿って叩いたりなぞったりをし始めた。


アイヒシュテットはぐらつく箱の足場を見ながら、箱の位置を変えるとか組み直すとかしたほうが良いように思ったが、先程の事から黙っていた。


彼が赤い棒を大きく横へスライドさせた時、木箱がズレていつ崩れてもおかしくない状態になったが、それでもアイヒシュテットは、やはり黙っていた。


一連の動作の中で彼が大きく背伸びをし一番上のくぼみに棒を触れさせた時。その動作が引き金となって、積み上げた木箱がアイヒシュテットの見立て通り、崩れた。


バランスを失った玄奘の体が、箱の階段を踏み外して宙へ投げ出される。


だがそれでも、アイヒシュテットは黙っていようと思った。


これは落下するな。と思っていたので、彼が木箱を踏み外し地面に落ちる寸前に抱き止める事は容易ではあった。だが彼は刹那の時間の中で何度も迷った。


助けるのは余計なことだ。先ほどの彼の態度を見ればそれは迷惑な行為なのだとわかる。しかし今度のは、先ほどとは事情が少々異なるのではないのか。見過ごせば怪我をさせるかもしれないのだ。黙認は、加害に等しいのではないか。


そんな良心の呵責が膨れ上がって、彼は思わず動いてしまった。


「大丈夫ですか」


玄奘を地面スレスレで抱き留めた。


思ったより柔らかい感触だった。子供は以外にぷにぷにしているのだなと思いつつも、アイヒシュテットは彼を優しく地面に立たせた。


だが玄奘は、やはりというべきか、アイヒシュテットに礼を言うでも非難をするでもなくただ顔を伏せて黙り、そうかと思えばそそくさと扉へ駆けた。


アイヒシュテットにはそれが不満そうな顔に見えたので、結局失敗だったと理解した。子供扱いした事を怒っているのかもしれない。男子たるもの、子供でもプライドがあるのだ。今助けられた恥は、地面に落下し出来ただろう傷よりも、大きく彼の自尊心を傷つけてしまったかもしれない。


アイヒシュテットは玄奘に対し申し訳なく思い、また己の迂闊さを反省した。


玄奘が扉を引くと、そこは建物の中というよりは――天井に岩肌が露出した――洞窟のような場所だった。


「大樹祭の時期にのみ、ほこらは開かれます」


何事もなかったかのように平静として玄奘は告げる。


「祠、ですか。大樹祭の――ですよね? この場所をそう言うのですか?」


「この場所の事ではありません。祠は……実際ご覧頂いた方が早いでしょう。祠を抜けた先の祭壇にりょうたまは祀られています。祠にご案内します、付いて来てください」


一人先を行く玄奘をアイヒシュテットは急いで追いかけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る