アマオト少女

逢瀬悠迂

第1話

「あんちゃん……」

 少しくすんだ黄色い長靴、皺の付いた真っ赤なレインコートに水玉模様の傘を差して、小さな女の子が僕の前に現れた。

 つい、と視線を彼女の方に向けると目が合った。幼い顔が僕をじっ、と……見ていた。


 しとしととコンクリートタイルに落ちる雨音と蒸し暑い空気に身を隠すようにして、僕は女の子に背を向けて青色の点滅する横断歩道を掛け足で通り抜けた。振り返れば、赤色に変わった信号機の下で彼女は重たく垂れ下がった雨雲を見上げている……。

 

 あんちゃん、というのは僕のあだなだ。だった、という方が正しいか。

 だから本当なら、名を呼ばれたのだから、それに応えるのが常識というものだろう。

 けれど、僕はその声に応えてはいけない。

 彼女の目を見て、彼女の心に僕という存在を認識させてはいけない。

 それが僕とカミサマの交わした約束。

 カミサマが彼女の命をこの世に繋ぎ止めるために、僕が背負った禁忌。

 それを知ってか知らずか、彼女は雨が降る日にこの交差点で、記憶から消えて幻想になった僕の姿をずっと、追い続けている。


 *

 

 昭和通り三丁目交差点の横断歩道東側には、青カビで朽ちたビンとそれに刺さった紫陽花、枯れて茶色になった花の飾りものが供えてある。

 

 もう、まるまる二年だ。

 二年前、今日と同じ雨の降る夏、この交差点で交通事故が起きた。

 僕は東側に居て、彼女を待っていた。横断歩道は結構長くて、信号機の青色は点滅していたけれど猫のような耳のフードが付いたレインコートを着た彼女は、笑いながら走って僕の方へと向かってきていた。

 僕と彼女の日常だった。

 彼女は小学2年生になったばかりで、学校が終わるとランドセルを背負ったままここ、昭和通りに来ては僕と遊ぶのだ。

 親の姿は、見たことが無い。きっと忙しいのだろう、相手をしてもらえない彼女は日没まで遊んでは名残惜しそうに家に帰って行くのだ。


『朱里、もうそろそろ時間だよ。日が暮れる』

「もうちょっと、もうちょっとだからね!」

 紫陽花の葉と花を一生懸命、小さな指で繰り合わせて作っているのは僕の首に掛ける首飾りだ。

「できたっ!」

 夕焼けに照った朱里の笑顔は太陽に負けず劣らず、明るい。

 やたらとごわごわした紫陽花の首飾りを僕の首に掛けながら、なおもにっこりと笑う。

「あんちゃん、似合ってるよ」

『君が付けた方が似合うと思うけどな……男に首飾りなんて』

「どうしたの? あんちゃん、気にいらない?」

 ちょっと泣きそうな顔。

『そ、そんな顔をしないでくれ。分かったよ分かった、大事にするさ』

「わぁい良かった、気にいってくれて」

『まったく……』

 僕も年を取ったもんだ。小学生の顔色一つでこうも狼狽させられるんだから。

 嘆息一つ吐いた僕の背中に、とすんと朱里の体が触れる。

「……じゃああんちゃん、またね!」

『気を付けて帰るんだぞ。走ると転ぶぞー』

 ぱたぱたとタイルを叩く足音が、いつか転びそうで危なっかしい。

 やれやれと首を振って、首飾りをちらと見た。

 手先の器用な朱里らしく、良い出来だ。

 咲いたばかりの花弁を折られてしまった紫陽花には申し訳ないが、彼らは来年もまた花を咲かせることができるだろうから、これ限りで勘弁してもらおう。

 葉を撫でると、蝸牛が乾いた殻をこちらに向けて尻で挨拶をしてきた。明日は雨が降りそうだ。


 予想通りの大雨だった。

 集中豪雨はコンクリートで整備された街中を水で染めて、車道に溜まった池を次々と自動車が跳ね飛ばしていく。

 夕方前になって雨はやや緩くなったが、それでも雨宿りせずに外に出るのは憚れる。

 三丁目交差点東側にある今は閉店したケーキ店の軒下で雨宿りしていると、横断歩道の向こう側に黄色いレインコートと水玉模様の傘が現れた。朱里だ。

 僕の姿を見つけると、彼女も笑みを浮かべて走って来る。もう信号は変わりかけているのに危ないなぁもう、と思いながらも僕も朱里の姿を歓迎していた。

 横から来る自動車用の信号機は赤だ。だから多少、信号に間に合わなくても大丈夫。そう思っていた。視界の左端から右折しようとしてきている大型トラックには、僕も、朱里も気づかなかった。

 チカ、チカと点灯する青信号とトラックのウィンカーが混じり合った瞬間に初めて、危ない――と思って。その時にはもう手遅れだった。

 スピードを出したまま強引に突っ込んできたトラックは朱里の姿を見つけて慌ててブレーキを掛けたらしい、タイヤのゴムとアスファルトの摩擦する嫌な音が耳にこびりつく。濡れた道にハンドルを取られてバランスを失ったトラックの荷台部分が豪快に横転して、固まる朱里に迫った。

 傘と長靴がくるりくるり宙を舞って、幼い体は僕の目の前で荷台に吹き飛ばされた。


 

 溢れ出る濁りの無い、赤い赤い血が車道を染めていく。横たわった朱里はぴくりとも動かない。

 雨が強くなる中で集まって来る人々、遠くから鳴っている救急車のサイレン、倒れたままのトラックで混雑しはじめる交差点……。

 それらに囲まれながら僕は、彼女の横に居た。

 この世に存在する因果律なんてものは意外と曖昧だ。

 極めて健康そうな日常の人間がコロっと死ぬこともあれば、不健康を貫いて大往生する人も居る。

 そして、そんな運命を使役さえする存在が居ることも、僕は知っていた。

 定義付けるとするなら、それはカミサマ、という奴らなんだろう。奇跡的に、僕は生まれながらそんなカミサマの一部と、意思疎通することができるイキモノだった。

『なぁ、生途神(イクトカミ)』

『呼んだ? 杏』

 目の前に現れたのは、ただの白い光の塊。本当は別の形をしているらしいが、僕はこの姿しか見たことがない。生物の、生きる道を操るカミサマ。

『朱里を……助けてほしい』

『仲良さそうだったもんねぇ君と。いいけど、お代は高く付くよ?』

 イクトカミを象った塊はゆらりと揺れて笑っているようだった。カミサマにも色々いるが、こいつはかなりフランクで、要求さえクリアすれば割と柔軟に対応してくれるお人よしではあった。

 もちろんカミサマの力にはそれだけの支払い(ペイ)が要る。イクトカミの力は強い分、お代はいつも高い。

 お代は、お金だったり寿命だったり……様々だ。

『寿命は……どうだ?』

『無理無理。この子の本当の人生、真っ当に生きれば80年だし。他の人間ならまだしも、君じゃ死んでも割に合わないよ』

『そりゃそうか。他に何がある?』

 カミサマはいつも合理的なことしか言わない。だから例え歯牙にかけてもらえなくても、こちらが悪い。

『そうだねえ、君との契約はこれで3回目だから君からはなかなか取れないかな。彼女から取っちゃってもいい?』

『物にもよる』

『記憶。君との記憶。3年くらいだっけ? 君と過ごしてた記憶を買わせてもらうよ。凄く純粋で希少だからね』

『……そう、か』

『あぁ、彼女の記憶を取り戻そうと思っても無駄だよ? 多分、君に禁忌が降りかかるだけだと思うし。まぁ、新しい君と、新しい彼女が一から関係を作るなら僕は何も言わないけどね』

『いちいち因果な奴だ』

『そういう関係でしょ。僕と君達って。じゃ、契約は完了だね』

 言うだけ言って、イクトカミは消えた。


 契約は履行された。病院に担ぎ込まれた朱里は奇跡の生還を果たし、再び学校に通えるようになった。

 僕のことを忘れた彼女は日常に戻り、これ以上関わることはない……そう思っていた。

 

 事故から1カ月ほど経った、小雨の降る金曜日。

 僕は偶然、交差点を訪れていた。ある場所に行くのに近道だったからだ。

 そこで僕はあの特徴的なレインコートを目にする。

 バレないようにこっそりと近づくとそれは間違いなく朱里だった。もうシャッターの開くことのないケーキ店の前で傘を閉じ、虚空を見つめている……。

 彼女が意図も無くここに来るのはありえなかった。だって、朱里の通う小学校と家の間の通学路からはあまりにもかけ離れているから。

 結局、商店街の時計の針が5時を差すまでそこに立ち続け、溜め息一つはきだして立ち去る朱里を僕はただ電柱の影から見守ることしかできなかった……。

 その翌日、交差点に姿を現さないことに僕はホッとしたが、さらにその翌日にまたレインコートを見つけ、僕は項垂れた。

 積極的に避ける選択肢もあったが、朱里がこの場所に来ていることをおそらく彼女の親は知らないに違いない。そして、まだ小さい朱里が一人で何時間も、寒い中立っている。心配にならないわけがない。

 イクトカミと契約したにも関わらず、僕は毎日のように交差点に通うことになっていった。

 しかし、朱里が交差点に現れる日はまちまちだった。土日は学校が無いからか、姿を見たことはない。

 平日も1週間まるまる来ないことは割とあって、かと思えば毎日のように来ることもある。

 季節が夏から秋に移り変わって、朱里の姿を見る頻度は減っていった。

 それで思い当たったのが、彼女は常に傘とレインコートと長靴を身につけている。つまり雨が降っているか、降りそうな日にしかやってこない。そしてそれは当たっていた。

 

 ある冬の日だ。

 雪が歩道を白く染めあげ、朱里の頭も雪化粧をするようなやや荒れた天気の日。

 いつもより朱里に近づいていた僕は、彼女の声をふと耳にした。

「あんちゃん……あんちゃん……」

 僕はビクリとして近くの傘立てに足を当てて転がしてしまった。

 ガシャンという大きな音に、朱里の目がこちらを向く。じっと、目が合ってしまった……が。

 興味を無くしたように朱里は視線を別のところへとやった。

 僕はうなだれる。

 ああ、やっぱりそうなのか、と。

 イクトカミと契約して朱里は僕のことを忘れたけれど、交差点で遊んでいたという日常は彼女にとってまだ続いていた。特にそれが、事故の起きた雨の日というイレギュラーを伴って。

 まるで壊れたレコードが同じ曲を繰り返し再生するように、何度も、何日も。

 

 *

 

 そうして、2年の歳月が過ぎて、この彼女にとって3回目の夏が始まろうとしていた。

 僕は何度も朱里が諦めてくれるよう願ったが、もう朱里は小学4年生になってしまった。

 背も伸び、少しずつ大人に近づいている彼女にとってはレインコートが少しずつ小さくなっているようだ。

 あれから僕は朱里の居るケーキ店の隣、同じくシャッターを降ろしたカメラ屋の下で朱里が帰るまでそこに居るようにしていた。

 

 そんな中彼女が今日、初めて僕の顔を見てはっきり「あんちゃん」と、そう言ったのだ。

 知らん顔をしよう……そう思ってそっぽを向くと、彼女の手が僕の頭に触れた。

「違う……よね。でもあなた、いつもここに居るね」

 そうだ、分かる筈がない。朱里に残った断片的な記憶の溝が、僕の影に見出しているだけだ。

 知らんぷりをしながら、それでも内心ドキドキしていた。

 もし彼女が彼女自身の力で思い出すことができれば、この終わらない日常が終わると、そう思うから。

「雨が好きなの?」

『……』

「私もなんでか知らないけど、雨が好きなの。これだけいっぱい雨粒があれば、無くしちゃった落し物も映してくれるかも……。って、思うんだあ」

 久しぶりに見た朱里の笑顔。それがとても眩しく、またそれに応えられない自分がもどかしくてたまらない。

 君は過去を追ってもこんなに明るいのに、僕は下を向いて歩いているせいかまったく進んでいない。

 気づけば背を向けていた。後ろから聞こえる、「あっ……」という朱里の声が僕をさらに責め立てた。

 だって、しかたないじゃないか。

 僕の声は絶対に彼女には届かないのだから。

 いつしか僕というレコードも壊れていたのかもしれない。

 壊れる前の音色が忘れられなくて、奇跡を信じて、割れてしまったレコードを再生機に掛けてその前で座っているような老人。そんなことをしてもむだなのに。違うのは、朱里は無機物ではなく人間だということだけれど、壊れてしまったものが感情を持つことがどれほど哀しいことか。


 翌日も彼女はそこにいた。

 はっきりと僕を捉えて「あ、また会ったね。こんにちは」と笑みを投げてくれた。

 ときおりタイルに腰を降ろして休みながら、ただじーっと、行き交う人々や青信号に変わった横断歩道の向こう側を見ている朱里を横目に、僕はしとしと降る雨粒を目で追っている。と、「わははー」という声が通り過ぎ、びちゃ、と顔と足に水が降りかかった。何事か、と首を振って目を凝らすと、長靴からレインコートまで全身黄色の小さな女の子が母親と思われる女性から笑って逃げていた。蹴飛ばされた水たまりの水は生ぬるくて、気持ち悪い。

「ありゃー、ずぶ濡れになっちゃったね。タオル、あるよ。拭いてあげるね」

『いいさ、別に……』

「ごしごし」

『……』

 むすっとした僕の顔はおかまいなしに、彼女は花の香りがするタオルで頭を包んで拭いてくれた。これがなかなかどうして、気持ちが良い。

「綺麗になったねー」

『別に嬉しくなんて、ないぞ……』

「そっかぁ、喜んでくれてるなら嬉しいな」

『違うと言っているだろう……』

 また頭を撫でられる。他の人間にはおよそ排他的な態度を取ってきた僕でも、何故か朱里の手は暖かく感じられていた。今の僕が願うのは彼女がこの場所から離れていくことなのだが、相反する気持ちも確かにあった。


 紫陽花の葉に乗った雫が垂れ、花弁も明日には開くだろう。

 彼女は知っているだろうか、紫陽花の花が散るところを。

 時によって白から青紫に美しく色付きを変えていくイルミネーションのような彼らは、その命を絶たれる時、他の花のようにひらひらと余韻を残しながらも一瞬で命を終えることはない。枯れて茶色になっても、その花弁の塊を付け続ける。すなわち、自分が変わってしまっても最後まで残ろうとする。

 僕はそんな紫陽花が好きではなかった。

 花の色が綺麗だ綺麗だと、梅雨の象徴だと言って、人間は6月の紫陽花を風流のようにする。でも9月の紫陽花は見向きもされない。どうせなら散ってしまってもいいのに、と思っていたのだ。

 けれど現実に、変わってしまった朱里という花びらに僕はしがみついている。きっと僕は茎で、彼女は花だ。来年になれば紫陽花はまた咲く。でも人の一生に次なんてない。もちろん、僕も。だから花は次の花にならなければいけない。茎は、次の茎にならなければいけない。

 そういう風に割り切ることができたら、僕は幸せになれただろうか。

 


 今年の梅雨は長かった。

 降り続く雨をめいっぱい享受するように紫陽花はあざやかに葉を広げ、車道脇を彩っている。蒸し暑い熱気は嫌いだったが、毎日のように朱里は交差点にやってきては、僕に「今日もいるんだね」と笑みを投げてくれる。

 僕は何も言わないで、シャッターの前に腰を降ろして雨を見つめる彼女をずっと見ていた。

 不思議なのは、僕以外の誰も……人間は、彼女を気にも留めないところだった。イクトカミのせいなのか、最初から朱里を『いないもの』として通り過ぎているような、そんな感じさえする。

 もし朱里に何かあった時にどうなってしまうか……僕は、次第に骨組みも布もボロボロになってきている彼女の傘を見て、そう思わざるをえなかった。 

「はい、できたよ。あなたにあげる」

 朱里はいつしか作っていた、紫陽花の葉で作った首飾りを僕の頭に乗せていた。

 この交差点以外の所に行けば他にもっと首飾りに適した花もいっぱいあるのだろうけど、何故か彼女が作るのは紫陽花のものだけだ。

 他にも、紫陽花の花をまるごと取ってきて、「見て見て、花束! お嫁さんみたいじゃない? えへへ」などということもやっていた。

 確かに、この数年で随分と可愛らしく成長した朱里は、普通に生活を送ってさえいれば所謂「モテる」のだろう。おそらくはそう遠くない未来、結婚してお嫁さんに……なんてこともあるだろう。そのためにはいつまでもここに居てはいけないが。


 日が沈みかけた帰り際、いつものように名残惜しそうにしていた朱里が唐突に切りだした。

「ねぇ、そういえばあなたの名前なんて言えばいいのかなぁ。やっぱり名前が無いって、ちょっとあれだよね」

『……』

 僕は黙っていた。正直逃げ出してしまいたかった。いきなりすぎて体が動かなかった。

 僕が彼女に望むことは、彼女が僕のことを忘れてしまうこと。もしくは、こんな中途半端な年月を重ねるよりも無くした記憶を思い出してくれた方がまだ良かった。 

 朱里が啓示的に僕に新しいあだなを付けるということは、イクトカミの言っていた『まったくの他人』からスタートした僕が決定的に作り出されてしまうということだ。それだけは嫌だった。散って新しい花を付ける紫陽花……それだけには、なりたくなかった。

「そうだね、なんだか黒っぽいから、クロちゃんかな~」

 僕の頭に手を触れながら、朱里はそう『名付け』た。

『あぁ……』

 その瞬間、僕の中の枯れかけた杏色の花を付けた紫陽花が散るのが分かった。

 もう僕は朱里の前で、杏として生きる可能性が無くなってしまったのだ。

「じゃあね、クロちゃん」と手を振る朱里の背中を見ながら、僕はただ、佇むしかなかった。


 僕(クロ)と朱里の特異な日常は恐ろしく平坦に進んでいく。

 今年は雨が長く、降らない日がとても少ない。

 朱里の口からも徐々に、「あんちゃん」という単語が消えて行っているように感じていた。いや、言葉には出すのだけれど、僕に向けてではなく、虚空に紡ぎだす幻想の「あんちゃん」に向けてだ。

 確かにこれがこのまま続いて行けば、便宜上にはあの悪夢の日以前の状態に戻るのかもしれない。

 しかしそれはとても不健全で――朱里から「クロちゃん」と呼ばれる度に、心の中の紫陽花が、黒いタールで塗りかためられていって、次第に身動きが取れなくなるような気持ち悪さを感じていた。

 無理に壊れたレコードをツギハギの修理をして使い続けているような感覚。開いた亀裂が不協和音を生みだして、壊れる前兆を必死に伝えているのを無視していればどうなるか……。なんとなく、僕らの先に待っているものは優しくないだろうな、と思っていた。

 

 長く続いた梅雨が明けた。

 熱気と乾いた空気は否応なく体から力を奪っていく。一方で、雨がずっと降らず朱里が交差点に来ることも無かった。

 いつまでも雨が降らなければいい。

 ……とさえ思っていた。

 夜の雨粒で生き生きと葉を伸ばす紫陽花が、憎たらしく見えた。

 

 そして、僕らにとっては最悪の季節がやってくる。

 猛烈な風と、横殴りの雨。

 傘が意味を為さず、レインコートを着ているとはいえ服の中までびしょ濡れになるような天気はすこぶる困りものだ。

 それでも朱里はやっぱり交差点に来ていたし、僕も身体を濡らしながら横に居た。

 あまりにも天気が荒れすぎて、外には誰も居ない。

 吹きすさぶ暴風に髪を揺らして、呟く「あんちゃん」の声に僕は今日も口を開けない。

 軒先にずっといるだけなら、傘は痛まない。

 しかし交差点に来るまでの間に朱里の傘は暴風に晒され続けて、目に見えて壊れ始めた。

 可愛い水玉模様の布が破れ、金属部分が露出して、その骨組みも折れて、夏が終わる前に……朱里の手から傘が消えた。

「えへへ……傘、壊れちゃった。クロちゃん」

 彼女にとって大切なものの一つだったんだろう、笑顔が痛々しかった。

 もし僕に力があれば、彼女に新しい傘を買ってあげられるのに、とさえ思った。

 だが、長靴とレインコートだけになった彼女はフードを被ってなおも待ち続けることをやめない。

 そんなもの、探しても見つからないのに……。

 朱里が諦めない限り、終わらないのに。


 

 夏が終わった。紫陽花が緩やかな風を受けながら徐々に茶色に変わっていく中、久しぶりに朱里が現れた。

「あ……クロちゃん、こんにちは。……えっと、元気?」

『おいおい。顔が赤いじゃないか』

「そっか、元気なんだ。よかった~……、今年はちょっと雨、長かったから心配してたよ。ご飯とか食べてるのかな?」

 天気雨で陽が出ているのを考えても明らかに朱里の顔全体に赤みが広がっていて、語気も弱く息は少し荒い。あれだけ毎日のように何時間も雨にうたれていたんだから、体調も悪くなって当たり前だった。

『朱里、今日は帰った方がいい。お願いだから僕の言う事を聞いてくれ』

 朱里が軒先に移動しようとする前に、僕は立ちはだかった。

「どうしたのクロちゃん……? もしかして怒ってる?」

『そうじゃない、いいからもう帰るんだ』

「もうー、クロちゃん。今日は何か変だよ? ちょっとそこ通るね」

 僕の横をひょいと交わして、朱里はいつもの定位置に背中を預けて一息ついた。

「あんちゃん、まだかなぁ……」

 

 朱里の容体が日に日に悪化していっているのは誰の目にも明らかだったが、僕にはどうすることもできなかった。

 常にこひゅー、こひゅーと言った擦れるような浅い息をするようになり、涼しい日でも額にびっしょりと汗を滲ませて。

 いつからか、僕に声を掛けることも無くなった。

 ただ朱里が見ているのは、交差点の向こう側。

 それが、何日も、続いた。


 ある日だ。

 朱里が突然、涙を流した。両目からこぼれおちた、雨露よりも透き通った雫が頬を伝っていくのを僕は見ていた。

「ねえあんちゃん……どこにいるの……?」

 ここにいる。

「いつになったら、来てくれるの?」

 絶対に来ることは無いさ。

「もう、待てないよ……」

 待たなくていいんだ。君はもうあるべき日常に帰った方がいいんだ……。

 朱里が数歩、軒先から歩道へと前に出た。項垂れていた僕は、それが何を表わしているのか気付けなかった。

「あんちゃん……?」

 オートバイの通った音で、朱里の足音はかき消されていた。

 顔をあげた時にはもう、朱里は横断歩道の途中に居た。

「あんちゃん、そこに居るの……? 待って、今行くから……!」

 朱里の見ている方向には誰も居ない。

 幻覚を見ているのか――、その足取りはふらふらとしていて危なっかしい。

 信号機の青色がチカチカと点滅していた。

 彼女の重い足取りでは、赤色に変わる前に向こう岸へは辿りつけない。

『朱里!』

 僕は走り出した。

 けれどその途中で気づいてしまう。僕にはどうしようもできないという絶望に。

 ――だってさ。

 だって、

 僕は、

 彼女の膝下よりも小さな身体しか持たない、

 ただの野良猫――なんだから。

 こんな短い4本の足で何ができるというのか。

 影にすら追い縋ることができない、にゃあにゃあとしか鳴くことができない。

 僕がもし人間の大人だったら彼女の体を抱えてでも連れ返すことができたかもしれなかった。

 僕がもし人間の声を持っていれば、彼女は振り向いてくれたかもしれなかった。

 信号機が赤色に変わった。霧雨は視界を奪う。ぼんやりと、右側から一台自動車が猛スピードで走ってきていた。運転手は携帯電話を片手に、前を見ていなかった。


 いやだ。

 そんなの、いやだ。

 僕はもう一度駆けだした。もう、この壊れた世界を終わりにしたかった。だったら、彼女の代わりに僕の命を捧げよう。

 横断歩道を飛び出して、濡れたアスファルトの上に僕は立ち塞がった。

 途端、声が聞こえた。

「クロ、ちゃん……じゃない……。あんちゃん……?」

 彼女が僕を見ていた。ただ『呼ばれた』だけじゃない、僕を見て、はっきりと僕を『杏』だと認識した。

 その瞬間、僕を縛りつけていたようなナニカが千切れるのを感じた。

 見知らぬはずのその単語が、頭の中を駆け巡る。

『……成狂々神(ナリククノカミ)、来い!』

 ずっと記憶の淵に居た、そのカミサマの名前を呼んだ。

『待ってたぜ、杏。契約通り、お前に還す』

 イクトカミとは違う、薄い青色の毛糸のようなカミサマ。

 そこから飛び出た光が僕の体の中に入る。心臓の鼓動が一瞬激しく波打つ。

 短い手足が伸びていく。毛に包まれた肌が徐々に人間のそれに。

 髭が退化し体がミシミシと悲鳴をあげながら大きく膨れ上がっていく。

 力が満ちていくようだった。地面スレスレだった視界が大きく開けて、すぐ目の前にまで車が迫っていることが分かった。

 僕は反射的に近くに居た朱里を抱えあげ、受け身を取った。横に避けるような時間が用意されているほどこの世は甘くない。ブレーキを全く踏んでいなかった車にぶつかられた衝撃で、全身の骨がコナゴナに砕け散った感覚がした。

 さらに僕は真上に弾き飛ばされて宙を舞う。

 時間がとてもゆっくり流れていた。胸の中に抱いた朱里は、驚いた顔のまま固まっていた。絶対に離さないように強くだきしめて、僕は背中から道路に叩きつけられた。


 *


 暗い――。

 とても暗い、闇の底に僕は居た。

 鈍痛がする。

 意識が明滅しながら聞こえてくるのは優しく振りかかる雨の音だけだった。



「あんちゃん……っ!」

 幼い朱里が駆けてくる。母に買ってもらった水玉模様の傘を差して、ランドセルに雨粒が降りかかるのも気にせずにこちらへ向かってくる。

「どーんっ」

「ははは、痛いよ朱里」

 僕のお腹に『着地』した朱里は、僕の困った顔を見てえへへと笑う。

 僕の通う大学は交差点の南側、朱里の通う小学校は交差点の北側にあった。

 だから朱里の学校が終わるまで、いつも僕はここで待って、一緒に帰るのが日常だった。

「あっ! ケーキ屋さん~」

「この間開店したらしいよ」

「ふーん。けーき……」

 指を咥えて店の中をじいっと見る朱里に、僕は思わず笑みがこぼれ落ちた。

「朱里、朱里」

「なぁに、あんちゃん」

 朱里に白い箱を差し出す。

「開けてみて」

「……? わあ! きれーい!」

 箱の中には、宝石箱のように色とりどりの果物が散りばめられたフルーツケーキがホールで入っていた。

 朱里が来る前に、買っておいたものだった。

「おいしそう!」

「帰ったら母さんと一緒に食べよう。ちゃんと宿題やった後にね」

「はやくたべたい!」

 

 僕と朱里は年の離れた兄妹だった。

 父はおらず、母は一人で仕事をしていたからよく遊んだ。元々内向的だった僕は友達も少なかったから、妹の朱里はとにかく大切にしていた……と記憶している。

 

 だがあの雨の日、滑って横転したトラックが僕達兄妹を巻き込んだ。

 長らく僕は、あの日即死したのは朱里だけだったと記憶していたが、それはイクトカミによって部分的に記憶を上書きされていたからだ。

 ――本当は、即死したのは僕だった。

 朱里を助けるためにトラックとの間に入って、そのまま押し潰された。

 朱里も頭を強く打って意識不明の重体だったけれど、その時はたしかに息はあった。

 僕は死んでいたけれど、カミサマと長い因果を持っていたからか、魂だけが外に飛び出して、事故の様子を見知りすることができていた。

 そこで、僕の残った魂の力を使って朱里の体を再生しようとした。

 そういう風に、イクトカミに頼んだのだ。

 魂の残り香を使った僕は人間としての記憶を失った。残ったほんの少しの魂は、変わりの入れ物として、この交差点を縄張りにしていた野良猫に成り変わった。人間としての記憶が無くなっていたから、この数年の僕は生まれた時から猫だと、記憶が認識していた。

 ただ、野良猫になるとき僕はベつのカミサマと契約していた。ナリククノカミは、その者の外見、姿形を変えてしまう神様。その神様に僕の人間だったころの魂の残り香を預けて、ほんの少しの時間だけ人間に戻れるようにしていた。

 ……もし朱里になにかあった時、一度だけ手助けができるようにと。

 僕は人間として死に、猫になり、また人に為った。

 でももうそれも、終わりのようだ。

 意識が薄れてきた。

 最後に朱里が助かったかどうかだけ、見たかった。できればサヨナラを言いたかった――。


 *


「んちゃん、あんちゃん!」

 朱里の声が心地良い。

 目を開けるとそこは交差点でなく、ただただ白い空間がずっと続いているだけの場所だった。

「あんちゃん……」

 横たわっていた僕の隣で、朱里が目を涙で赤く腫らしていた。

「朱里。無事、だったのか……? 怪我は」

「うん。あんちゃんが守ってくれたから」

「良かった……」

 朱里を抱きしめる。澄んだ柑橘のような匂いに包まれたような気がした。

「あんちゃん、恥ずかしいよ……」

「もし朱里に何かあったらと思うと、心配で心配で僕はいてもたってもいられないんだよ……」

 しばらくそうしていて、一つ気付いた。 

「ところでここは、どこなんだ?」

「ボクの世界だよ」

 ふっ、と浮き出てきた白い球体。イクトカミだった。

「お前、なんで……」

「君との契約が満了したから。ナリククに力を渡して、その最後の魂も車に轢かれて。君の残り香はもう現実世界では維持できなくなってしまった。だからここはカミサマの世界。本来、死んだ人間以外には絶対に立ち入ることのできない世界だよ。もったいぶらずに言えば、君は正式に死んだと、そういうことだね」

「そうか……ん?」

 イクトカミの球体を、朱里は興味深そうに見つめていた。元々見えないはずだが、そういう世界なら、見ることもできるのかもしれない。問題はそこじゃなく、

「なんでじゃあ、朱里までこの世界に来てるんだ。朱里は、助かったはず、だろう?」

「……そうだね。君が庇って、彼女は車に轢かれなかった。あの世界ではね」

 歯切れ悪そうに、イクトカミは言った。

「どういうことだよ」

 イクトカミは答えない。

 代わりに口を開いたのは朱里だった。

「私も、もう死んじゃってるんだよ……あんちゃん」

 もう無い筈の心臓がドクリと跳ねた。

 乾いた笑い声を出すしかなかった。

「はは、冗談はよしてくれよ……朱里」

「冗談じゃないさ。君も彼女も……君が猫になり変わったあの日に、現実世界では死んだんだ。そう彼女に伝えた」

「何言って……現に朱里は生きてた! 今ここに居る! 僕とお前の契約で……そういうことだったろう!?」

「息はたしかにあった。でももう彼女の脳は機能を停止してたんだ。あのまま命を彼女に与えても、植物状態を保ったまま数年後に死ぬ運命だった……。それでは君との契約に応えることができない。だから、僕は造った。君と彼女の意思が存続する限り動くことができる、仮初めの交差点を……」

 嘘だ。

 そんなものはない。

「違う、違う、違う……」

「違わないさ。実際に、君の記憶に、交差点以外で過ごした時間はあったかい?」

 イクトカミの同情するような口調が僕の中に怒りをはらんだ。

 でも言われた通りに反芻すると、彼への反論の余地が無いことに気づく。

 アジサイの首飾り。

 壊れた傘。

 全部覚えている。が……それ以外の日常が、無かった。

 まるで日付の空いた日記帳。切り貼り合わされたように、僕の記憶は朱里しか居なかった。

「そんな……」

「君には申し訳ないとは思うけど、これが現実……うぶっ」

「こらっ、ダメだよ、イクトカミさん。あんちゃんいじめちゃ」

「朱里……?」

 見やると、珍しく朱里がすごい剣幕をしていた。

「死んでるからどうしたの? 私は嬉しかったよ。猫になっちゃっても、あんちゃんがずーっと隣に居てくれたんだって。私、ばかだから、あんちゃんの言うこと聞かないし、あんちゃんが何言ってるのかよくわからなかったけど、暖かいなぁって思ってた。あんちゃんは……私と一緒で、楽しく……無かった?」

「――本当は、朱里が日常に戻って欲しいと思ってた……。僕の命はどうせそう長くないって、分かってたから……。僕から離れて、朱里が幸せになってくれるならって……」

 ぎゅう、と後ろから抱きしめられた。

「私は、あんちゃんと一緒に居るのが一番幸せなの」

「しゅ、り」

 知らずと涙が零れ落ちていた。

 僕はずっと、朱里を影から支えようと、そういう存在になっていようと思っていたけれど……僕よりもずっと体の小さい朱里の方に、支えられていたのだと理解する。

「あのね、このいじわるカミサマが言ってたんだけど、あんちゃんは新しいカミサマになれる存在なんだって。私にもオマケしてくれるって。そしたら、この先もずっと、一緒に居られると思うけど……あんちゃんは、いや?」

 ふと顔をあげると、朱里は微笑んでいた。

 僕と朱里が、カミサマに。

 そうなれば、朱里とまた一緒に……。

「そんなことは……ない」

 僕は泣きながら朱里に撫でられていた。

 これではどちらが年上か分かったものじゃない。

 しかもそれを見たイクノカミは、呆れたような溜め息をもらしていた。

「まったく、人騒がせな人間達だな君達は。いや、神騒がせか。とにかくそうと決まったらさっさとここから出てくれ。『新しい神々』たち」

「行こうよ、あんちゃん。ね」

「……そう、だね。朱里」

 多分、この終わり方を僕は受け入れたわけではなかった。

 けれど一つ思う。

 結局のところ、紫陽花の色が変わろうと紫陽花は紫陽花で。

 僕にとって大切なのは朱里が朱里でいること。ただそれさえあれば良い……と。




 かくして、僕達の壊れた世界は終わって。

 アマオトノカミ――雨降る日に幸せを与える、新しいカミサマが生まれた。


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アマオト少女 逢瀬悠迂 @littelsia

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