第3話

 第六章 祖は、誰の人形たるや?




 <In the dream phase 3>


 僕は――ひとりぼっちだった。

「よくやったぞ……Pf値の改良に成功したことがこれで実感できる。能力の上乗せがさらに可能で、こうなれば適正次第で能力の昇華もできるかもしれない! ……次は塩化ベンゼンジルコニウムとの配合比も考えてみるか……ぶつぶつ」

 僕には父が居た。

 父は、研究所の所長だ。

 お母さんは、知らない。

 いつも僕は、父にベッドに寝かされて、眠たくもないのに薬で眠らされて、

 その間に、僕の頭は父にぐちゃぐちゃと混ぜられているみたいだった。

 ある時は起きた途端に、どこのどんな場所からでも視界に映るものははっきり見えるくらい目が良くなったり、起きたら勝手にベッドを壊したりしていたこともあった。

 父はそれを、「能力の安定化が進んでいない、ある一定の能力に固定するためにはどうすればいいんだか……」とまた、ぶつぶつ言っていた。

 ある日、それが叶った。

 僕がベッドから降りて少し歩くと、びゅうびゅうと、部屋の中なのに気の狂った妖精がダンスを踊っているみたいに、風が吹き荒れた。

 父は、少しびびりながらでも、満足そうに割れたメガネを拾い上げて、小躍りしていた。

 その頃に、僕はきっとフラウ、と名付けられたんだと思う。

 次に起きても、その次の日も。

 僕の周りには風の妖精がついていた。

 風の楼、を意のままに操れる。

 だから――風楼(フラウ)。

 それから父はもっと、もっともっと、狂っていったんだと思う。

 僕みたいに、子供をたくさんどこからか連れて来て、

 みんなみんな、頭の中をぐるりぐるりと混ぜていた。

 父に一度だけ聞いたことがある。

 ナノマシン、というやつと、他にも色々と入れている。僕にも、同じものを入れているんだよ、と。

 その他の子供たちも、次に起きるたびに、僕と同じような、狂った妖精を連れるようになった。

 最初に起きた黒い髪の、黒い肌の子。この子は、触るとびりびり痺れる、そんな妖精を持っていた。

 次の子は、見たものをなんでも一瞬で、全部覚えてしまう子だった。そんな妖精を連れていたんだと思う。

 他にも、自由に飛べる子だとか、嘘ばかりしゃべる子も居た。

 父は、もっともっともーっと、狂っていった。

 そのうち、怖い子が増えた。

 あんまり怖いから、思い出したくない。

 子供たちはやがて、父の言いつけで、研究室の外に出ることが多くなった。

 半分くらい、帰ってこなかった。

 帰ってきた子も、血だらけだったり、すごい怪我だったり。

 僕も、いつか行くんだろうな、と思っていた。

 その予想は、1カ月で当たった。

 父が何をしようとしているのか、分からなかったけど。

 最初は、「この金持ち、ムカつくからちょっと家ぶっこわしてこい」だった気がする。

 怒られるのが怖いので、僕は目には見えない風楼の妖精と一緒に、そいつの家に行った。ちょっと妖精を踊らせるだけで、家まるごと吹き飛んでしまった。ちょっとやりすぎたかと思ったけれど、父は大満足だった。

 父から狂ったお仕事を言いつけられるたびに、風楼の妖精は、色んなことを覚えていく。

 色んなところから風を集めて、渦にして、物を壊す。

 そこらへんでふよふよ流れている風を、一瞬で僕の物にして、えい、って前に突き出すだけで、大人だってイチコロだった。

 風に乗って飛べた。

 デンシャよりも速く走れた。

 僕は父の狂いに、従い続けた。

 僕は一人だった。

 初めて人間を殺した日から一年くらいかな。

 父は偉くなって、僕なんかには構ってくれなくなった。部下の人から伝言を聞いて、父に逆らう人の治める街に、僕は行くことになった。

 そいつだけを殺せば良かったから、仕事は簡単だ。窓際に立っているそいつを、外から暴風の妖精が吹き飛ばして、そいつは五階から落ちて死んだ。ものの5分で終わった。

 やることが無くなった僕は、街を歩く。

 だけどこの街は裕福だ。『一人』なやつなんて居なかった。僕と同じくらいの子供は、みんな遊んでいるし、とにかく幸せそうな……そんな人間しか見なくて、僕は胸くそが悪くなっていたんだと思う。

 ところが、一人だけ――違う子を見つけた。

 その子は、周りとは全く見た目も存在も異なっていて、目立っていた。すぐに目に止まった。

 真っ白な肌。

 輝く銀の髪。

 僕よりも年はもっと低いはず。きっと、学校に入るか入らないか、それくらいだと思う。

 そんなうっとりしてしまうくらいに綺麗な彼女はしかし、この街の人からは……それは物凄く忌まわしきものだと、思われていたらしい。

 彼女が歩く道に、誰も近寄らない。誰も彼女に話かけるものなど居ない。

 投げかけられるのは言葉じゃなく、石だ。子供も大人も。

 彼女は学校に通っていた。

 靴を片方無くして、顔に傷を作って、家に帰っていった。

 さすがに家では一人じゃないだろうと、こっそり家を覗いてみた。

「もうやめて……お父さん……!」

「軽々しくお父さんなんて呼ぶなッ! 血も繋がっていないくせに!」

 ひょろひょろで眼鏡をかけた、神経質そうな男が、彼女の服を掴んで殴り、蹴倒し、倒れた彼女の上に圧し掛かって、言葉で罵倒していた。

「お前が……ッ! お前なんかが居るからいつまでも俺は会社で上の地位に就けない! 今日は俺よりも5つも下の奴がついに部長になりやがった! この俺がまだ係長なのにだ! 社長はお前の事を知っている。そのせいでロクな仕事も貰えないんだよ!」

「ごめんなさい……ごめんなさい……!」

 父親と思われるその男は、彼女がぼろぼろと泣いて助けを請うとしてもなお、殴るのをやめなかった。

 やがて殴り疲れたのか、男は部屋から去って行く。倒れたまま涙を流し動かない彼女に、化粧の濃い女が、何かの乗った皿を持って近寄る。さっきの光景は、見て見ぬふりをしていたようだ。

「コラさっさと起きな! あんたみたいな疫病神を養ってやってるだけでも感謝するんだね。まったく姉さんもとんでもない娘を産んでくれたもんだよ! これで養育費を相続してなきゃ、あんたなんかすぐ捨ててたよ。あの人はいつまでたっても偉くならないし、わたしゃ街で日蔭者さ。いいかい、これを食べたらすぐ自分の部屋にお行き!」

「……ありがとう、ございます」

 彼女に与えられた皿には、小さなパンが1きれと、さいころくらいの大きさのチーズ。スプーンに一口分のミルクが添えられていた。

 部屋に椅子と机はあるけれど、彼女はそれを使わなかった。地面に、犬や猫みたいに四つん這いになって、食事を進める。後ろには女が眼を光らせていて、机を使おうものなら許しはしない、と……憎いものを見つめる目で彼女を睨んでいた。

 例え彼女が小さくても、あの量ならすぐに食べ終わる。皿をどこかへ持って行って、部屋から出て行った。

 ずっと窓から見ていた僕は、心の奥深くに何か変なものが芽生えたのを感じた。彼女のことが気になって仕方が無かった。

 どうせ仕事はすぐに済んだんだ。ちょっとくらい遅くなっても、父は怒らない。

 いやもう……僕がどこかへ行ったって、どうでもいいのかもしれない。

 彼女は二階に行ったようだった。屋根部分の割れた窓から、光る銀色が見えたから。

 僕は一計を案じることにした。

 小さな石に、メモを書いた紙を括りつけて。

 投げた石は、妖精に運んで貰う。うまく窓の中に入った。

 それから少し時間が経って。

 ひょこ、っと彼女が顔を出した。

 けれどなぜだろう。

 僕は途端に恥ずかしくなって、隠れてしまった。

 彼女の見つめる視界には、誰も居ない。

 顔が引っ込んだ。

 僕はもう一度だけ、メモを託した石を風の妖精に任せて。

 その街を離れた。

『僕も一人ぼっちなんだ』

『明日も来てみるよ』


 僕はその日から、彼女に会うことを目的にしたように、狂った仕事のあと、街に通った。

 彼女は相変わらず、一人だったけれど。

 ただ一回だけ、彼女がメモを見る顔が見えて――その時少し笑っていたのが、僕の何かを変えた、そんな気がしたんだ。

 毎日、街に行く。

 虐げられる彼女を救うことができたら、どれだけ良いことか。

 そう思った。

 けど、

 僕は――子供だ。

 殴られているのを止めたところで、そのあとどうすればいいのかを知らない。

 ただ、少しずつ笑顔が戻り始めると共に彼女の肌には傷がどんどんどんどん、増えていって……そのうち彼女は学校に行かなくなった。

 メモは受け取ってくれるけれど、一日中怒号と泣き声が聞こえる。


 ついに僕は、父に生まれて初めてのお願いごとをした。

『あの街を壊すって前に言ってたこと、僕に任せてくれませんか』

 父は、あの街がとても嫌いらしかった。

 だから仕事もとても多かった。

 けど、街一個はあまりにも多すぎて……父はずっと手をこまねいていた。

 それで、僕は父に言ったんだ。

『全部、壊させてください』と――


 父は両手を挙げて喜んでくれた。

 僕の力を限界まで引き上げた。いじられるのは好きじゃないけど、彼女を救えるためなら、なんだってよかった。


 そして、起こる。

 あの夢の出来ごとが。


 僕は街を飲み込んだ。

 僕の妖精が、街を包んだ。

 彼女の父と母が出掛けて居る時に、

 彼女の居る家だけを残すように、

 風を。

 竜巻を。

 楼のように織り組んで。

 風に消えて襲った。刺した。討った。


 風が収まった時には、僕と彼女しか居ない。

 衝動的だったから、僕は彼女を街から解放するだけのつもりだった。彼女を押しこめる街という名の檻を壊して。

 だけど彼女は僕についてきた。

 子供だった僕にはどうしようもなかったけれど……彼女を守るためにいっそう、父に言われる狂った仕事を全部、完璧にこなした。

 彼女はきっとそれを知っていたんだと思う。いつだって血まみれだったし、血の臭い、銃の火薬の臭いが分からないわけがない。

 僕が傷ついた時には怒っていた。普段はおっとりとしている彼女だけど、意外と意地っ張りで気が強い所もあった。

 壊した街には小さな街が隣り合っていて、貧しい人らが集落を作っていた。彼らは彼女を痛みつけたりはしなかったし、彼女をそこに住まわせることにした。仕事が終わったら、僕はそこに帰ることにしていたんだ。

 壊した街には新しく住み始める金持ちの人がまた街を作ったけれど、逆にその人達が捨てていく余った食べ物なんかは、この小さな街の人々にとってすごく助かっていた。


 僕は、一人じゃなくなった。二人を知った。


 幸せはいつまでも続くわけじゃないことも知ることになった。


 家に帰ると、彼女の姿が無い。

 近所の住人に聞いた。怖そうな人間が、何人か来ていた、と。


 探したけれど、見つからない。

 僕は途方に暮れながら、父の元に戻った。

 そこで目を疑った。

 なんで彼女が、父の隣に居る?

 父は言った。

「やぁ……フラウ。随分と好き勝手なことをしていたようだなぁ。もっとも、私は彼女に大変満足したから、特別にお前を許してやろうと思うが」

「え、えっと……彼女は」

「あぁ。お話するかい? 大切な大切な彼女だものな。さぁさ、早く話してあげなさい」

 彼女は変わらず白い肌で、輝く銀色の髪を身に纏っていた。ただ一つ、澱んだ瞳を除いて。

「シュカ?」

「…………はい」

「どうしてここに居るの?」

「マスターにお呼ばれしたので」

「……そういうことらしいよ、フラウ?」

 父が、シュカの肩に手を置く。

 明らかに、彼女は彼女じゃなくなっていた。

「分かりやすいように説明してあげよう。簡単に言って、フラウ。お前と同じにしてあげたんだよ」

「…………は」

 それは、彼女が僕と同じように、

 頭を混ぜられて、

 狂ってしまった、ということ、だ。

 父に詰め寄った。

 彼女を元に戻す方法は?

 フラウがもっと私の為に働けば彼女は元に戻るかも知れないよ?

 働いた。

 彼女を取り戻すために。

 奪った。

 殺した。

 狂った。

 彼女はいつまでたっても、父のものだった。

 

 僕はついに父に反抗した。生まれて初めてのことだ。

 それに立ちふさがったのは、彼女だった。

 彼女は僕よりも強かった。

 いや、それ以上に。

 僕は彼女を傷つけることなんて、できやしなかったんだ。


 敗北。

 僕はまた、一人になってしまうのか。

 ううん、もう何もない。全てを失った。

 ならもう終わりでいいじゃないか。


 海に飛び込んだ。


 ***


 目を覚ますと、視界の端がほんのり濡れていた。

 頭の下にはもう堅い土の感触は無い。それなりに厚みのある布切れが敷いてあり、お世辞にも良い材質とは言えないベッド、すなわち俺は何度も寝泊まりした場所に、仰向けに寝転んでいた。

「目を覚ましましたか?」

 静かに落ち着き払った声がした。

 体を起こすと、暗闇から赤い光がこちらを見ていた……セトナさんだ。

「…………」

「全部、思い出しましたね?」

 なんで――とは思わなかった。この人はそういう能力のリトルプレイヤーだ、夢が覗かれても不思議ではないし、というか今はそんなこと、どうだってよかった。

 ただの夢じゃない。

 はっきりと、自分がリトルプレイヤーであると、そう決定づけられた夢で。

 そして、俺が昏倒する前に攫われた少女……シュカが、俺の長年忘れていた夢の中の女の子。

 失った全てを想い出す鍵――そのもの、だった。

「ええ。俺が誰なのか、シュカがどういう存在なのかも」

 今まで見てきたループする夢は、核心だけをぼかした、1つだけピースの欠けたパズルだったのだ。その最後のピースが大きすぎて、俺は自分にとって大事なことが、今の今まで見えていなかった。分かっていなかった。

 知るのが遅すぎた結果、俺は一番大切なものを目の前で連れ去られたのだ。

「……くそっ」

 自分は一体、何をしていたのか。

 全ての記憶を捨てて海に飛び入り、『無』になった。騎士学校に入った。

 騎士団を目指した。リトルプレイヤーを敵とする教育を受けた。

 それが、やるべきこととはまったく、真逆のことだったんだ。

 助けを求めていた彼女を救いに行く、父や、この世の不条理から救い出すことが、俺の使命のようなものだったのに、すっかり忘れた俺は、しかもシュカを見つけてもなお、思い出すことは無かった。

 どれだけ彼女がこの数年の間、傷ついた? 傷つけられた?

 そして現在もなお、虐げられようとしている。

「助けに行くつもり、なんですよね?」

「もちろんですよ」

 セトナさんの問いに、俺は即答した。

 シュカを攫ったのは大将だ。今思い出しても悔しさが滲む。俺の命を人質に、シュカは大将について行くことを選ばせられた。

 何故大将が加担しているのか――リトルプレイヤー討伐が目標なら、ここにはシュカだけじゃない。セトナさん、ミャーちゃんも居る。シュカだけを連れて行くことの説明になってない。

 なら、父の『機関』と大将が、裏で繋がっている可能性の方が、まだあった。

 ということは……追うべきは騎士団ではなく機関の方だ。そこにシュカが居る。

「あとは場所か――」

 昔居たことがあるとはいえ、場所は変わっているかもしれないし、そもそも元の位置も記憶があやふやだった。

 黙ったまま俺をじっと見つめていたセトナさんは、ふっと目線を下に落とすと、なにやらごそごそと懐を探って、一枚の紙を取り出した。

「こんなものが倒れているフラウさんの近くに落ちていましたよ」

「……?」

 紙を受け取る。四つ折りを開くと、それは少し茶色がかった地図だった。そのある部分に、赤い点が加えられている。

「私が、倒れているフラウさんに気付いた時には既にシュカは居ませんでした。その間、私がこの付近に張っている『結界』に入り込んだ気配はシュカと、フラウさん。それに男が一人と――フランさん。フラウさんを除いた三人のうち誰か一人が落としたものと思われますが」

「? ちょっと待ってください。そういや……フランは? 確か俺と一緒に寝ていたはず」

「『結界』によればフランさんはシュカ、男の人と一緒に気配を消しています。つまりは、共に捕虜にされたか、あるいは……最初からシュカを連れて行く為に男と連携していたか、のどちらか」

「まさか! だってあいつは俺と長い間同室で……俺を裏切るなんてことは」

「それすらも、最初から仕組まれていたのではありませんか?」

「そんな、そんなことはあり得ないっ!」

 感情のまま、セトナさんに掴みかかろうとしていた。

 それを軽く受け流し、あくまでも淡々と……セトナさんは俺を諭した。

「ともかく今はそんなことどうでもいいんです。フランさんが敵にしろ味方にしろ……シュカと一緒に居るのでしょう。そう、ここに」

 地図の指さされた所には、大きな施設を示す記号と赤い目印が書いてあった。周りは樹海になっていて、その近くには騎士団の本部が描かれている。すなわち、騎士団領。

 この街から目印の場所まではかなり遠い。歩いて行けば一日は絶対に掛かる。他の移動手段を使おうにも、山岳地帯が邪魔をしている。山越えをするしかないから、飛んでいけなければ大きく時間をロスしてしまうだろう。すぐにでも行きたい俺にとって、背中のちょうど手の届かない場所にあるような、そんな歯がゆさを感じた。

「仕方ないけど、走って行くしか」

 部屋の脇にあるバッグを引っ掴み、ドアへ向かおうとする。ところがセトナさんに手を掴まれ、それを遮られた。

「待ちなさい。とりあえず、一度座って」

「でも、時間が」

 セトナさんの瞳がすうっと細められて、鋭い視線に変わった。

「……自惚れるのもいい加減にしてください。貴方は今、シュカを救いに行くあたかもヒーローのような感覚に陥っているのかもしれませんが……力の無いヒーローショーなど興ざめも良い所、小説や物語の中で保証されているような、100%の勝利なんて現実ではありえないんですよ?」

「俺はリトルプレイヤーとしての記憶を思い出しました。この能力があれば、大将だって倒せる」

 夢の中でも、幼少期の俺は短い時間で街を潰すほどの力を持ってしていた。それを使えれば、大将だって倒せるんじゃないか。

 そんな俺の希望的観測を、セトナさんはため息一つで打ち崩す。

「まだ頭が寝ているんじゃありませんか? 確かに、フラウさんの持つ能力は強大です。でも、正しく能力を理解していなければ、意味が無いんですよ。シュカも私も、一朝一夕で身に着けたわけではありません」

「でもっ、昔の俺はちゃんと扱えて」

「では今ここで使ってみてください」

 有無を言わせない怒気を静かにはらんでいて、仕方なく狭い部屋に向かい合うことになった。

 あんまり建て付けの良くない小屋だから壊れないか心配に思いながら、記憶の底から浮かび上がる、かつて使っていた『風楼』を呼び起こす。

 風の動きが、か細く伸びた白い線となって目に見える。これを妖精と形容するのはいくら子供とはいえあんまりだ……と思いつつ、その白い線に命令を下す。もっと速く、もっと疾く進め!

 ――ところが、昔ならこれで暴風を巻き起こしていたのに、風達は動こうとしない。部屋の中は隙間風しか吹かない……何度『風楼』が命じても、変化は無かった。

「やっぱり、思った通りになりましたね」

 思いきり失望を込めた言葉が突き刺さった。ヤケになって何度も繰り返したが、数分後に無駄だと、思い知らされた。

「あの、セトナさん……」

 弱々しくも問いかけると、セトナさんは腕を組んでそっぽを向くと、

「言ったでしょう。一朝一夕で身につくものでは無いんです。昔の栄光を一部分だけ切り取ってさも何十年も輝いていたかのように言うのは愚かな大人のすることです。ただ、私もシュカを放ってはおけないですしね、フラウさんの力がそれなりに戻るお手伝いはしてあげますが、どうしますか?」

 ドきつい視線を窓に向けながら言われた冷たい言葉。しかしその直後、

「――べ、別にフラウさんの為ってわけではないんですからね? 勘違いしないで下さい。私が今までシュカを一人占めできていたのに、フラウさんが現れてからシュカは私の家に来てくれなくなって……全部フラウさんのせいなんですから」

 照れ隠しのようにそう拗ねたセトナさんは不謹慎ながら可愛く思えた。

 大切なものを奪還するための『風楼』を再び使えるように、俺はセトナさんに笑顔で応えた。



 時間は無い。シュカが今この時、どんな目に合っているのかも分からない。

 だけど今のままでは、能力の使えない、鋼の棒きれと鋼の弾丸を出すおもちゃを振り回すことしかできない俺じゃ、大将を倒すことはできない。

 つまりは、短時間で能力を使えるようになる必要があった。

 セトナさんの後ろを追って外に出ると、月がてっぺんに登ってから少し傾いたところだった。あれからどれだけ経ったのは正確には分からないけれど、少なくとも数時間は経過している。

 なるだけ急ごうと、あくせく準備をしていると逆にセトナさんに怒られた。

 強力な能力は不安定と隣り合わせで、誰しもが簡単に使えるようになるわけじゃない、元々扱っていたとはいえ、焦ればもっと時間がかかる、と言われた。

 ただその代わり、なにも歩いて行く以外にももっと速く行ける方法があるらしい。その方法の準備ができるまでの間は集中して教えを受けることになった。


 まずは、能力を使う前の基礎知識。

 リトルプレイヤーは全て、脳に組み込まれたナノマシンを原動力に、自らの脳細胞を媒介にしてその能力を発現させる。

 セトナさん曰く、ある程度脳内でそのイメージを組み込まないと力の射出がうまくいかないらしい。

 脳は肉体を動かす際の指令塔になる。だから、そこから出される命令として、普段『腕を前に伸ばす』『立ち上がるために足の筋肉を収縮させる』などがあるものと一緒に、たとえばセトナさんなら、『外界と自分の周りを区別する結界の網を放出する』というものを体に命令することで能力を使うんだそうだ。

 照らし合わせてみると、夢の中で俺はしきりに『妖精』と言う単語を用いていた。

 それは多分、実際にそういう類のものを見たんじゃなくて、自分が思った通りに動いてくれる都合の良い能力に、そういう虚像を見ていたんだと思う。風を顕わす白い糸が、子供心にそう見えたのかもしれない。

 ただ、便利なものにはデメリットが伴う。

 特にセトナさんが念を押したのが、能力の『対価』についてだった。

 脳から発生された電気信号は、シナプスが接続されることによって駆け巡って身体中に伝達されていく。

 そこで普通の人間なら、一定以上の命令を出さないように、常に『ブレーキ』になる命令を出し続けている。自分の身体が必要以上の力を発揮して、壊れてしまわないように。

 しかしリトルプレイヤーの能力は、その命令を無視して上書きする。つまり、自分の身体を壊しながら能力を使うことになる。

 筋肉が痩せれば、食べればいい。

 骨が折れたら、安静にしておけば大半は治る。

 ところが、脳はそうはいかない。一度壊れたら、治らないこともある。

 通常の何倍もの負荷のある命令をシナプスに伝達させ、脳を破壊していく。

 それが、『対価』の姿。

 それだけを聞くと物凄く怖い話だ。が、要は使いすぎなければ大丈夫ということで、ある程度年齢が若ければ脳の修復は早い……一部の損傷だけなら修復は可能で、度を過ぎて一度に壊しすぎるのだけが、絶対に気をつけなければいけないことだった。

 言われたことを全部覚えて、俺が能力を出せるようになるまで、たぶん二時間ほど掛かったと思う。


「少しだけではありますが自分のものにできたようですね」

「……なんとか」

 何回も能力の放出をセトナさんに手伝って貰い、頭の端が軽く軋む感覚を覚えながら汗を拭う頃、地平線の向こうでオレンジ色が見えていた。

 もう、夜明けだ。

「正直言ってまだまだ力不足と言わざるを得ませんが、まぁタイミングがタイミングですしこんなものでしょう。あの子もそろそろ帰ってくる頃あいだと思うんですが……」

 地から這いあがって来る陽の方を見つめつつ、セトナさんは眩しそうに目を細めながら呟いた。

「例の、移動手段についてですか?」

「ええ。走って行くより百倍は速いので……うまく手なずければ、ですが」

 それはどんな機械なんだろう……そういう物を作ることのできるリトルプレイヤーが居るのか、なんて想像を膨らませていると、そのセトナさんが見ている方角から、陽をバックに小さな黒い影がぽつんと現れた。

「ん……?」

 段々とその影は大きくなり、こちらへ真っすぐ向かってきた。羽ばたく両翼が、離れていてもシルエットとしてよく分かる。

「鳥、か?」

 体部分よりも相当翼が大きい。鳥だとすれば大鷲か、怪鳥の類か――

 バサーッ!

 あっという間に接近したそれは、まだその一帯だけが夜のように真っ黒な羽根をはためかせ散らしながら着地し、そして喋った。

「朝早くから呼びだすなんてセトナは鬼狐でち。いくらカラスが明星の主と言えど、この扱いはあんまりでち……ふー」

 変にクセのある語尾を使いながら、少ししゃがれた、およそ老婆と言われれば納得するくらいの声でそう漏らした黒翼の物体は、ぶるぶる身体を震わせて、大きな――俺の身長はゆうに超えている黒翼を小さく収めた。おかげで、その本体が露わになる。

 声からは理解しがたい、翼の半分くらいしか背丈の無い幼い黒髪の女の子が、翼から姿を現した。

「緊急事態だから仕方なかったのです。貴方だってシュカが危険な目に遭うのは黙って見ていられないでしょう? それと、悪口についてはあとで説教しますから」

「にょ!? それは勘弁するでち! 必殺・とりあえずそこらへんの通行人を壁にする、でち!」

「うお!?」

 セトナさんに、ツンと睨まれた黒髪幼女はそんなことをのたまったかと思えば、目で追えないくらいのスピードで俺の背中に周りこみ、勝手にセトナさんの視線の盾にして隠れた。にもかかわらず、そいつは顔を半分だけ出して、

「む……? そういえば、お前誰でち。通行人かと思いきや、なんとなしに女狐と親しそうな間柄のよーな感じがしないでもないでちが。今は盾として使うてやるが、正体によってはずばばーんと爆発させてやろうではぁあ痛っ!」イラッときたので額にチョップ。

「人の背中を勝手に借りといて生意気な子供だな。生憎俺にはフラウって名がある。セトナさん、この子は……」

「さっき言っていた、移動手段のことですよ。私達の仲間の一人、シアと言います」

「ふん! シア様と呼ぶでち、暴力男。わたちは映えある八咫烏のリトルプレイヤー、太陽の神の力を使えばお前なんて一瞬で骨の髄まで溶かせるでち!」

 びしっ、と指先を俺に向けて偉そうに宣言してきた。

「――とまぁ、見た目通りに面倒くさい性格ですが、性能だけはばっちりですので。安心してください」

「こりゃー! スルーするなでち!? わたちは何かの道具でちか! あらかじめ言っておくでちけど、わたちはちょっと来てみただけで、この後寝る予定でち!」

「あんまりうるさいと、こうしますよ?」

 にっこりとほほ笑みながら、セトナさんが懐から丸い、陽に反射して七色に光る鏡板を取り出してシアに翳す。途端、

「きらきらまぶしーのは嫌いでちぃいい!」

 悲鳴を上げて出していた顔を引っ込め、再び俺の後ろに隠れてしまった。なんだこいつ……。

「ほらほら~、言うことを聞かないと~」

 鏡板を持ったまま、じりじりと背中のシアに近づいていくセトナさん。

「く、くるなでち! ちょっと暴力男、ちゃんと盾に……」

「無駄ですよ~? ほ~らほら」

「わ、わぁあああ! 分かった、分かったでち、分かったからその物騒なキラキラをどっかにやるでち、セトナぁ……」

「はい~」

 ぽーん、と鏡板が放り捨てられる。シアは、「うぅう~……」と唸りながら、俺の背後からすごすごと出てきた。

「詳細を話すでち……。 だいたい分かるでちけど……」

「ここに居るフラウさんを乗せて、フラウさんの持っている地図の場所へ飛んでください。そこにシュカが捕らえられている可能性が高いんです。お願いできますね?」

「別に飛ぶのは問題ないでちけど……」

「あのー……飛ぶ、って? やっぱりそういうことなんですか?」

 まじまじと、シアの背中に今は折りたたまれている黒い翼を見てしまう。人が鳥のように飛ぶなんてなかなか信じられないが、リトルプレイヤーの常識で考えると、彼女はそういう能力なのだ。そして俺はシアに連れていってもらう、と……。

「ええ、シアの体が大きくないのは見れば分かりますが――」「遠まわしにチビって言うのはやめるでち」セトナさんは無視した。

「シアの翼には大人三人くらいなら余裕で乗せられるんです。たまに物資が必要な時は、こうして彼女に飛んできてもらっているんですよ。私達は人目についてはいけない存在ですからね」

「でも俺、結構重いですよ」無駄に筋肉はつけていない。

「八咫烏の力を舐めるなでち。仮にも神の加護を受けた身、人間一人背負ったくらいで音をあげるなんてひ弱な奴だけでち」

「らしいので、遠慮はしなくて大丈夫ですよ。こっそり羽根とかちぎっても」

「それとこれとは別問題でち!?」

「というのは冗談で、こうしている間に時間が過ぎていくのはまずいですから、そろそろ二人ともお願いします」

 半分くらいあなたのせいだと思います。


「はぁー……でも男を乗せるのはあんまり乗り気にならないでち」

 まさに発着所といったような、視界の開けた、すぐ下を見下ろすと絶壁が広がっている場所に二人立って、出発直前というところでシアがぽつりと漏らした。ちなみにセトナさんは居ない。ミャーちゃんを連れて行くわけにもいかない上、騎士団の目が届くこのスラムに一人置いてはいけないからである。

「それはどうしてだ?」

「……わたちは仮にも花の乙女でち! お、男を乗せたことなんてこれまで一度もないんでち! それにお前はさっき知ったばかりでち、そんな奴に背中を許すなんていいい一生ついていくと決めたくらいの男じゃないと……だからその、身体を許してしまったみたいで恥ずかしいじゃないでちか……」

 頬を染め、軽く俯くシア。しゃがれ声ながら本気で恥ずかしがっている様子を見ると、なんだか張りつめていた緊張が少し解れて、微笑ましい気分になった。

「はは、確かにそうだな、ごめん。こんなのが初めてで申し訳ないけど許してくれよ。緊急なんだ、その代わり、俺もこうして飛ぶのなんて初めてだから、それじゃだめか?」

「ぬぅ……ま、まぁそれなら仕方ないでち、世の中ギブアンドテイクでち」

「ありがとう、助かるよ」

 さらりと黒髪の頭を軽く撫でた。

「な、撫でるなでち! そういうことされると何かむかつくんでち! チビなわたちへの当て付けでちか!」

「そんなこと言ってないって。とにかく、頼むよ。もうあんまり時間が無いんだ」

「ふん、任せとけでち。さぁ、さっさと後ろに乗るでち! ちゃんと掴まってないと、振り落とされても知らないでちよ!」

 数えきれないくらいの小さな黒い羽根を飛ばして、大きく左右に翼が開かれる。それはまるで、これから開くステージの幕。その翼に跨って、しっかりと握りしめた。

「――よし、準備OKだ」

「うみゅ。いくでちよ……『(ミ)太陽神八咫(シクルレーヴェ)烏(ン)』!」

 

 ***

 

「っつぁ……」

「ふむ、これでも耐えるか。四年間もどこで何をしてきたのか、ちょっとは成長してくれたようで私は嬉しいよ」

「うるさい、この……変態、っ」

 ラインハルトとか言う紳士風の男に連れてこられた施設は、私がその昔に逃げだした、『機関』のものだった。ラインハルトが『機関』の回し物だってことは向こうが漏らしたことだし、分かりきっていたけれど……何年経っても、やっぱりこの空間は最悪の場所だった。

 着いてすぐに、頭に変なチューブをぶら下げられ、苦い薬を飲まされて……それで意識を失うことは無かったけれど、私が自分で封印した記憶の全てが、それで蘇ってしまった。私をこんな体にした、目の前に居る元凶。私が記憶の奥底でずっと思い描いては遠く想っていた少年『フラウ』の存在。全部。

「まったくまさかこんなに長い間検体に逃げられるとは思わなかったよ。このためだけに騎士団に私の力を潜り込ませ、あたかもリトルプレイヤーが民衆の絶対的敵対勢力と報道を通じて擦り込ませて探させたんだからなぁ……しかしそれを差し置いてもキミは必要だったということだが。四年の間、私の研究計画はまったく進捗しなかったよ」

「……それはお生憎様」

「それじゃあちょっと強度を上げてみようか」

「触る、な…………ぁあっ!」

 頭に貼りつけられたシートからバチン! とくらくらするくらい大きな電気ショックが伝わってきた。これを、何度も何度も私は受けている。もう何回目だろう。

 意識が朦朧とする中で、私の頭に浮かぶのは、逃走生活でずっと過ごしてきたセトナでも、ミャーでもシアでもなく、ずっと記憶に縋り、追っていた存在。気が利かなくて強情で、でも昔から信じていた、ただ一人の私にとっての男の子。

「やはりどのリトルプレイヤー達よりもすばらしい数値なのは変わらないな。実にグレイトだ。あの頃から既に優秀な脳波長を持っていたが――キミの迫害と愛情の格差、リトルプレイヤーにとって何よりも重要な要素は未だ色あせていない。本当に、アイツが持ちかえってきたキミはその昔、どんな経験をしてきたんだろうね?」

「さぁ……別にあんたに話すことは無いわ」

「口だけは随分と生意気になったようだ」

「ぁうっ!」

 はたかれた頬にジンとした痛みが走った。

「まぁいい。うまく能力とコストの維持をできるようにするにはキミのような状態にすることが現状ではベターだと言う事は分かっているんだ。言う気が無いなら、無理矢理吐かせるまでだ、昔のことも含めて全てな――おい、ラボナールかLSDを持ってこい。一番濃いやつで良い」

 奥から慇懃そうに礼をした、赤い髪の少女が出てきて、男に何かの入った袋を手渡した。乱暴に破り捨てられた袋の中からは、細く鋭い注射針と、液体の入ったアンプル。液体はおぞましい黄土色をしていた。注射針をアンプルの先に付けると、剥き出しに固定された私の腕を掴んできて、注射針の先が当てられる。

「な、何を……」

「安心したまえ。効き過ぎても死ぬことはない。ただ少し、失うものがあるかもしれんがね」

「……っ! やめ――」

 鎖に接続された腕は抵抗を伝えない。何もできず、ただ銀色の針が徐々に肌を浸食していって、アンプルのピストンが押されるのを見ることしかできなかった。

 苦痛はそれほどでもない。一方で、血液から吸収されたアンプル内の薬品が一瞬で身体を巡り、頭に到達して…………。


 巡る記憶。自分の中から引き出されてく。

 

 ガチャァアン!

 ガラスが割れる音。何故割れたって? 母親代わりの女が、椅子を私に投げつけたから。体には当たらなかったけど、代わりに窓が犠牲になった。破片が頭に降り注いで腕に何個か刺さった。

「またあんたのせいで私は町内会からバカにされたよ! 呪われた異人(ホワイト)を子に持つ偏狂な母親だとね!」

 この母親は本当の母じゃなかった。父も、そうだ。

 本当の母は私を産んだその翌日に亡くなったらしい。微かに思い出せるのは、お母さんは綺麗な銀色の髪をしていた。一度だけ、頭を撫でられた気がする。

 お母さんを支えるべきお父さんは、居なかった。私は、そのお母さんの、紙の上でだけ交わされた妹に、引き渡された。お母さんは実はすごい大金持ちで、その資産の半分を、私を育ててくれた人の養育費として特別に相続するって、遺書を残していた。

 新しいお母さんとお父さんは、とても厳しい人だった。

 ちょっとでも間違えると、その日は晩までご飯が貰えなかったし、二人がとても高そうなお肉を頬張る横で、私はだいたい、パンとミルクとチーズを毎日食べていた。

「私が悪いんだ。私の髪が白くて、他の人とは違うから。だからお母さんは怒られて、私も怒られるんだ」

 そう思って、何をされても我慢した。


 学校に入った。

 友達はできなかった。

 私の机はいつも無かったり、真っ黒に塗りつぶされていたりしたし、三日に一度、靴の片方が無くなった。ばれるとお母さんに怒られるから、そのうち学校には裸足で行くことにした。


 空虚。

 そんな私の生活。何も感じなくて、ただ生きているだけ。

 それは窓から飛んできた一つの石に気付いたことで、何も味のしないパンに少し塗られたバターのような、少しの、だけど新しい世界に変わった。


 最初はまた、誰かのいたずらなのかなーと思っていた。けど、毎日決まった時間、夕方の赤い太陽が沈んでしまうちょっと前くらいに投げ込まれる石と紙に、段々私は興味を持ち始めた。どうせ、こんなくだらない世界だ。そんな世界より、くだらないものがあるはずがない。

 

 石を投げ込んでくるのが、私よりちょっと年上くらいの男の子と分かったのが、五日目。

 七日目、男の子は働いているらしい。

 十日目、今日はご飯が食べられなかった。石の代わりに、大きなチーズの塊がメモと一緒に届いた。大事に食べた。

 十五日目。学校で嫌なことがあった。掃除用具入れに閉じ込められて、なんとか出るともう夜だった。お母さんに怒られた。部屋には石と一緒に、中に写真が挟める、小さな銀色のロケットが転がっていた。シーツを細く破って紐にして、それを首から下げることにした。

 三十日目。今日は何をしたっけ? なんだか、よく叩かれてたような気がする。メモを読む元気は無かった。

 四十九日目。その日のメモは、いつもと全然違った。明日、嵐が来るみたいなことが書いてあった。

 初めて石を貰った日から四十九回寝たその次の日、私にゴミ袋をよくぶつけてきたお隣の家も、学校も、私にいじわるをする街は、無くなってしまった。


 外に出て、家と家の間で膝を抱えて座る私の前に、男の子は現れた。

 あの男の子だ、ってすぐ分かった。

 どうせ、お父さんもお母さんも居ない。

 私は男の子についていくことにした。


 空虚な世界は、一人住人が増えて、二人になった。


 彼のお仕事は、忙しい。

 帰ってくるのは、夕方とたまに、暇なとき。

 よく赤い飛沫を付けて帰ってきていた。拭いたつもりをしていたけれど、意外とぶっきらぼうな彼は、顔を良く濡らしたままだった。

 

 幸せ。

 元々黒ずんで使いものにならなかった私の心の器に、仄かに暖かなピンク色の液体が注がれていって、黒くなってしまった部分を徐々に、洗い流していった。

 彼が、私の存在を日常の悦びにしてくれることで、彼しか居ない私にとってそれは、最高の悦びだった。メモを受け取ったあの日から、私は彼の事が好きになりつつあったけれど、一緒に生活して私は彼を、子供ながらに愛した。彼もまた、子供ながらに愛してくれた。


 ところがある日、

 街の外れにある私と彼の小さなトタン小屋に、何人もの大人の人が押し掛けてきた。

 彼と違って、何の力も持たない私は……蹴り破られるドアを見つめて、ただびっくりするしかできなかった。

「ここか? フラウがちょくちょく通ってるって小屋は……なんだ、埃くさいな」

「…………っ」

「お? 誰だ、嬢ちゃん」

「あれじゃないか、フラウの連れが居るって噂が他の奴らから立ってただろ」

「ほう……? 少し年下なくらいか。ま、悪いことは言わねぇ、嬢ちゃん。フラウにもし惚れてんのならやめときな。あいつは俺らのボス、室長の息子で研究対象の最先端だ。今だって人さん何人ぶっ殺してるかわかんねぇ。あいつが最近妙に研究成果を落とし始めたから室長が疑っててな、この根城は潰す予定だからよ、さっさと逃げな。黙っておけば室長も嬢ちゃんまで手出しはしねーだろ」

「……ってなこと」

「ん?」

「勝手なこと、言わないで……」

 思い切り強がって見上げた大人は、予想よりも大分大きかった。それでも、彼と離れ離れになってしまうことを恐怖した私は、その大人に向かっていった。それが不幸の始まり。

「うぉ! なんだ、どうした!」

「彼を連れていかないで!」

「いでで、お、おい……とりあえず軽く取り抑えろ! 丁重にな!」

「や、やぁあああ!」


 私は連れていかれた。フラウが普段、お仕事をしているという施設に。

 薬を飲んで、注射を打たれて、眠らされて、起きた時にはもう――

 私は、私の知る私じゃ、なかった。


 この時間が、今この時が、無くなってしまえばいいのに。

 そうすれば、嫌な時間は良い時間にはならないけど、ゼロになってくれる。

 そうして生まれた、『瞬間切断』。私が、彼と引き換えに失った、力。


 さらに悪いことに、私の心は、何回も何回も嫌々ながらに飲まされた薬のせいで、彼に対する愛を忘れてしまった。私は、室長という、気味の悪い男の物になってしまった。最初に彼が私を見たとき、どれだけ絶望しただろう。


 それから傀儡のようになってしまった私は、彼に刃を向けた。彼は私に一度も刃を向けなかった。彼は負け、去った。私に、銀色のロケットを残して。


 室長は去った彼のことを完全に忘れさせようとした。私はほとんどのことを忘れた。代わりにほんの少しだけ自我を取り戻して、同じく僅かな自我を持って、お腹に子を宿したリトルプレイヤー、セトナと共に施設を逃げ出した。


 四年。

 彼のことを忘れていた。記憶の奥底、水筒の一番下に一滴だけ残った水のような残像だけを、何度も夢に見た。

 ひたすらに人目を避けるだけの、空虚ではないけれど目的を見失った生活にまた、戻った。

 セトナという仲間、その娘のミャー、どこからかはぐれてきたシア、いずれの存在も、失った彼を取り戻すには、穴が大きすぎた。


 彼と再会する。偶然にも、彼は私の敵対勢力としてやってきた。

 もちろん、最初は私もあの騎士が、彼だとは露ほどにも思わない。向こうもまったく知っている風では無かった。お互い、記憶を封印して生きてきたのだから仕方ない。


 だからこそ、日を追うごとになつかしいあの少年の姿を、事あるごとに彼に重ね――そして、

 つい今日になって、ようやくイコールで結んだ。あまりにも気づくのが遅かった。

 空虚な日常を、彼に救われた。彼との幸福を、他者に奪われた。

 また始まった物足りない生活に、彼が帰還した。二度目は、幸せを享受する暇もなく、彼自身を奪おうとした、それには耐えられない。なら今度も、私が犠牲になれば……きっとどこかでまた、再会できるはず。

 例え私がまた忘れても。

 君は私を見つけて、そして、思い出させてくれるよね?



「――ぅ、っあ……!」

「なるほどなるほど。いやぁこれは良いものを見せて貰った。まるで子供の脳内成長に必要な情操と真逆の、起伏ある負の強烈な感情がこれほどまでに覚醒率を引き上げるとはね……。これが全てのリトルプレイヤーに合致するとすれば、実のある成果が期待できるはずだ……」

 頭が薬のせいで、溶け落ちているように思考が定まらない。目の前の男は、一体何を言っているんだろう。

「さて――それはそうと、キミにこれ以上強い負の感情を植え付ければもっと能力の引き上げは起こるのかな? 今ですら普通の人間を軽く凌駕する力を持つキミ達がもっと強くなったとしたら、それは神に匹敵するのかもしれないな……ぬふふ」

「……っ」

 ある種の絶望感だけが直感で分かる。私がこれから何をされるのか……縫い付けられそうになる、怪しい視線から想像すればキリが無い。

 唐突に、傍のモニターに警戒を表わすアラートが鳴った。意味は把握できなかったけれど、男はそれを見て、途端に不快な感情を露わにした。

「とりあえずキミにオペを施す前に、入り込んだ邪魔物を制圧する必要があるかな」


 ***


「そろそろじゃないでちか? もう一時間近く飛んでるでち」

「地図ではもう騎士団領に入ってるんだ。だからこの辺だと思う。ただ俺も一回も来た事は無いっていうかこんなに森ばかりだと……」

 シアの背中から地に視線を落とせば、やや薄い霧とそれ以外は深い森林だけ。騎士団領の中でも特別立ち入り禁止地域に指定されていた場所に既に入り込んでいることには間違いない。地上から行けば、そびえ立つフェンスと屈強な歩哨が何百人と動員されている。曹長クラスでも入れず、確か同期の連中が忍び込む遊びを慣行して一カ月の軟禁刑になったことを思い出した。

 こんな木ばかりの場所の、何を秘密にしているのか理解不能だ……と思い始めた矢先、

「あれはなんでちか?」

「どこだ……あっ」

 森にカモフラージュされるように、巧妙に塗装された、しかし明らかな人工物が目の前にくっきりと像を浮かばせていた。注意されなければうっかり見落としていたかもしれない。目的のものかどうかは分からないが……、

「とりあえず確かめてみよう。あそこにシュカが居るかもしれない」

「了解でち」

 上空三百メートル以上はある位置から、施設目指してシアが降下を始める。耳たぶの裏を風が切り裂くように通り抜けていって、風圧に目を細めるその視野で無骨な緑色の屋根をした建物の全体像を捉えたところで、その片隅から迫り出して外部に出ようとする何かが見えた。

 それは、学校で見た軍事演習動画の確か……そう、空からの防衛戦術の演習に出てきたものだ。陸用に使うものとはまるで違う、口径は大きく上空へ角度が無くても飛距離の出るようにとナナメに伸びた筒。何に使われるのか、一瞬で理解した。

「シア! 高度を上げてくれ!」

「……なんででち?」

「いいから、とにかく上に!」

 それでようやく、翼を縮めていた降下態勢から両翼を開いて上昇に転じた。その直後、視界の端でピカッ! とおよそ雷光のように筒が光ったかと思えば、顔のすぐ横に幾筋の鉄塊が唸りをあげて飛んで行ったのを感じた。

「!? な、なんか飛んできたでち!?」

「……あれは軍用の対空射撃だ。そう易々と侵入させてはくれないらしい」

「落ち着き払ってる場合でちか! あわわ、また飛んできたでち、と、とりあえず退避!」

 一気にまた高度が上がった。対空射撃は口径が大きく、散弾というわけでもない。軌道が素直で、距離が遠ければまず当たらない。

 しかし、当たらなければどうということではない、なんて話では済まない。向こうが弾切れになってそれで沈黙してくれればいいけれど、そうでなければ待っていても目的は達成できない。俺達の目標はあくまでも、あの施設に居る可能性の高い、シュカを連れ戻すことだ。

「……どうするかな」

 対空砲火の射程外から逃れて、一度地上に降りて徒歩で侵攻する方法もあるが、辺りを森林に囲まれている上に時間が掛かる。地上戦力をわざわざ相手にするにも心もとない。

 能力で射撃を無効化できればいいが、俺の風楼はそんなに射程の長いものじゃない。ましてやあんな鉄の塊をぶっとばすには、相当の対価が必要な気もする。

「うーん……」

「一応、策は無いことは無いでち」

 上空で旋回しながら、シアが呟いた。

「その策は?」

「………………猪突猛進」

「侵入する前に死んじゃうだろ……」

 確かに軌道は素直だから運が良ければ無傷で通過することもできる。地上に降り立てば対空砲火は関係ない。が、それはあくまでも多数で特攻隊のように突っ込む際にやることで、単騎でそんなことをしたら愚策だと糾弾されるに違いない。

「一つ、約束してほしいでち」

「ん? 何だ突然」

「絶対に、シュカを助けて欲しいんでち」

「何をいまさら。絶対に助けるさ……あの子は、俺にとって大事なだけじゃ済まされないほど、大切な存在なんだから」

「さらっとくさい台詞をはく奴ほど信頼ならないでち。ま、今はもうお前一人しかシュカを助けるやつが居ないわけでちから、我慢するでちけどね」

「シアも一緒に来るんだろ?」

「…………」

「おい、どうしてそこで黙る」

 しばしの沈黙の後。

「わたちは、自分が何なのかも分からない、ただゴミのように打ち捨てられて、変な翼の生えた廃棄物として生を終える運命だったでち。その奈落の底から救い出してくれたのが、お前の追っている子でち。お前がどう思っているのかは知らないでちが、わたちの生に賭けて、お前をシュカの元に届けるのが、今のわたちのすること」

 やや間を置いて、シアは続けた。

「――わたちは、一緒にはきっと行けないでち」

「どうしてそんなこと言うんだよ?」

 俺の問いには答えず、シアは再び、対空砲火の筒が牙を向くエリアへ、降下を始めた。当然、その牙達はこちらに照準を定める。

「おい! 話を聞け――」

 今までよりも風を強く感じる急降下。風圧をまともに受け、うまく喋れない俺のすぐ横を、今度は本気で狙いを定めた弾丸が連続して過ぎて行く。シアは器用に幾多の砲火を潜り抜け、施設へと接近していく。目視でようやく入口のような、大きく口を開けたエントランスが見えた。

「……いいでちか、合図したらわたちから飛び降りてそのまま中に入るでち」

「シアは……どうするんだよ?」

 まさか――とは思ったが、

「わたちはお前が降りた後に能力を展開させるでち。太陽神の力を使えば入口に邪魔物が湧いて来ても関係ないでちから――アッ!」

「シア!」

 左翼の端に穴が開いていた。一瞬だけぐらつくが、スピードは衰えない。

「羽が……」

「大丈夫でち! さぁ、入口が近いでちよ!」

「そんなこと言ったってシア――」

 誰かのために、誰かが犠牲になるなんて、そんなのダメだ……と言おうとして、

「わたちは死なない! お前も死ぬな! そしてシュカを救えでち!」

「シア……」

 弾幕は激しさを増す一方で、羽への弾痕もそれに伴って、無視できない数になっていく。けれどシアの、どう考えても強がっている、嗚咽の混じったその声を聞いて、首を縦に振らないわけにはいかなかった。

「分かったよ。俺は絶対、あいつを助ける。だから……お互い無事で、またあの街に帰ろう」

「……口先だけはごめんでちよ。後、十秒でち」

 下がり続けていた高度が一旦止まり、空中で大きく横に旋回。元居た場所に弾幕が通り過ぎていく。全弾直撃すれば、死を免れない。入口が見えた。再び降下。今度はもう、ほぼ地面と垂直に落ちる。

 あと五秒。右翼にも傷。

 三秒、二秒……ぐらついた。一秒。

「今でち!」

 合図。それでも高さは二十メートルはある。飛び降りた。

 大丈夫、俺には風楼がある。さっき、みっちり練習はした。

 帰ってこい……妖精!

「『風楼』!」

 脳シナプスを解放。肌の周りを風がまとわりつく感触。落下を続ける俺の体に風のカーテンが巻き付いて、辺りの森林をざわめかせながらゆっくりと……地面へ降りて行った。

 落ちながらふと上を見上げる。

 大きな黒翼が、幾多もの対空射撃を至近距離で受けて羽根を散らしていた。

「……シアっ!」

「――愚問ッ! ……能力『太陽(カラミ)神炎爆(シアティ)』!」

 対空砲火の砲筒に向かって、紅に近いオレンジ、それこそ太陽のような光を纏ったシアがぶつかっていく。

 端から端へ、次々と。

 壁を抉る太陽の弾丸は、勢いを止めない。施設の壁についた半分以上の砲筒と一緒に、入口からわらわらと出てきた歩哨を巻き込んで、やがて大地を揺るがす大爆音を残して……視界一帯が全て、濛々と立ち込める煙で埋まった。

 俺の周りだけは風が渦巻いている。煙はその風で俺に近づけない。

 動くものが何も居なくなった地上に無事着地して、

「シアー!」

 思わず声を張り上げた。あんな特攻隊のようなことをして無事であれば良いのだが、返事は無い。

「……っ」

 唇を強く噛みしめた。自分の身を犠牲にしてまで、彼女は俺を送り届けてくれたのだ。約束は、果たさないといけない。

 体を引いて止まない後ろ髪を無視して、煙がやや晴れたエントランスへと、走った。


 施設内部。

 あれだけ派手にやらかして、なんとも手薄な警備だろう。無骨な緑色で鉄製の床を叩く俺の足音だけが通路に響き、それ以外の音は無い。電灯の光が弱くて視界が悪く、人気の少ない夜中の山道を走っているような感覚だ。

 それに一番の異変はと言えば、『風楼』に従えていた風が、明らかに減ったことだろうか。建物の中なんだから、『風』の能力の自分にとって、苦手な場所になるということだろうか。これだと、使えるようになったばかりの能力だけに頼るわけにもいかない。双剣を持ってきておいて良かった……。

 奥に進んで行く。兵士の一人でさえ気配を感じない……半分助かりつつ、半分は異様な雰囲気で飲まれそうになる。

 このどこかに、シュカが居る。

 そう思えば、一旦緩めた足もまた先を急いだ。

 やたらと長く感じた一本道をずっと走って、数分ほど経ったろうか。

 施設内だと言うのに、急に薄い風がざわめき始めた。

 足を止める。それでも足音は止まなかった。ゆっくりと歩いているような、一定のカツーン、カツーンという音が……俺を飲み込もうとしていそうな暗闇から聞こえてくる。

 きっと敵だ。額にじわじわと汗が滲んでいく緊張感。腰元の愛剣に手を掛けた。

 そして、闇から姿を現した――相手は、俺の見知った顔をしていた。

「……大将」

「やあ、久方ぶりだなフラウ。もう少し時間が掛かるかと思っていたが……とんだ伏兵を用意していたらしいな、感服に値するよ」

 大将ラインハルトは落ち着いていた。まるで、この通路一帯が、あの騎士学校の修練室のように。これから一対一で剣を打ちあう訓練の時のように、俺を真っすぐ見据えている。いつも身に着けていた装備を身に纏い、肩からは大剣の柄だけが見えている。俺の目の前でこの間捨てた愛剣の、スペアか。

「今更俺から色々言うことはありません。ただ、一つだけ――シュカを、返してください」

 ため息一つ。

「確かに、お前の求めるものはこの施設内に私が運んだ。が、一つ言うなら、黒幕は私ではない」

「あなたに指示できる人間が居るとでも?」

 大将は、騎士団、ひいてはこの国家の軍事勢力下で三本の頂点そのもの。直接命令を下せるのは、居ないと言ってもいい。

「それはあくまでも『軍部的』な要素だな。見るべきものは、そうではない。世界には軍部意外の勢力がどれだけあると思っている? 無論、贖罪などする気は無いが、彼女を私自身が必要とするため……というのは間違いだ」

「では、やはり」

 忌々しき名を出そうとした。

「全てを話すのは、まずお前が力を見せてからだ」

 右手一本。背負っていたモノを振り降ろす。離れているのに、空気を斬る音がここまで届いた。感じる、圧倒的なプレッシャー。

「あなたを倒せば、全部教えてくれるんですね?」

「勿論だ。私がお前と――騎士団全てに反旗して隠していたこと全部、お前に託そう! だがそれは、私を超えてから……だ!」

 跳躍。真っすぐ、俺目がけて飛んでくる。ぶつかる瞬間、

 ガキィィン!

 スラッシャー二本と大将の剣が交錯する。純粋な腕力では埋められない差がある。じりじり、押される。

「……どうした。新たな力を、風楼を、手に入れた筈だろう」

「そんなの分かって……!?」

 なんで大将までもが風楼の事を知っている?

「しまっ……!」

「ぬぅうっ!」

 気が逸れた。一気に押し切られて後ろに弾き飛ばされる。

 追撃だけは避けなければ。飛ばされたあと、瞬時に転がりながら後退した……視線を上げると大将は、俺を冷徹な視線で見つめているだけで、追い打ちを掛けてこなかった。

「……甘い、甘いぞフラウ。私はこんな弱さを見る為に騎士団に入れたわけではない」

「…………っ」

「何でリトルプレイヤーとしての能力を知っているのか、とでも言いたげな顔をしているな。話してもいいが、やはりそれは私を打ち倒してからだ。不用意に情報を与えて混乱されても困る」

 大将はもうなにか、俺の全部を知っている風だった。

 ならばなおさら倒さないといけない。倒さないと、先に進めないことは元より、大将の裏に黒幕が居るのなら。

「次は一切手を抜かないぞ。お前は能力でもなんでも使うといい。私を倒せなければ、それで終わりだ。あのリトルプレイヤーを助けることもできない」

 再び、大剣を中段に構えた。そこから感じる殺気は尋常なものじゃない。さっきとは、レベルが違う。

 ただ、俺だってここでみすみすやられるわけにはいかない。絶対に。

 立ち上がる。正面に見据えた。

 ――風楼。

 騎士学校時代に大将と打ちあった時、圧倒的な間合いの詰めるスピードと腕力でまったく叶わないことを知っている。ここは屋内で、風量はそんなに多くない。できることは限られているが、その埋まらない差を埋めるには……?

「来ないなら、こっちから行くぞ」

 また体格とは考えられないスピードで間合いを詰められる。

 単にそれを受けただけではさっきと同じだ。向こうとは攻撃に掛ける質量が違う。ならば、

 打ち合わずに、風のサポートで跳躍を強化。後ろに下がりながら、大将の頭上より高く、飛んだ。

「ぬぅっ!」

 すぐに上段斬りへと転じられたが、俺には当たらない。空振りに乗じて空中から強襲した。素早い身のこなしで反転、避けられる。着地。

 半身で態勢が崩れている。風楼で急加速、大将のものより速い詰めで両袈裟を放った。片腕一本だけで横に寝かせた大剣で防がれた。反動で手が痺れる。

 大将とて、片手で打ち合おうとは思わないようだ。互いに再び距離を取って、拮抗。

「ふむ……太刀筋、立ち回り。屋内という不利な条件下でもそれほど使いまわせるとは、流石だな」

「伊達に四年も学校に通っていませんから」

「ふはは、そうだったな!」

 また神速の詰め。避けるしかない。

 上空に退避。上段斬りを避ける。反撃。着地。後退。

 三回ほどこれをやって、しかし一度も攻撃を当てることができなかった。

 使っている負荷がそんなに大きくないとは言え、大将は肉体的な疲労だけなのに対して、俺は着実に『対価』を払い続けている。時間が長引けば確実にジリ貧になってしまう。

 俺の方から攻めざるを得なかった。

 だが、正面から見る限り、大将に隙は見られない。ただでさえ横幅のそんなに無い通路、横に回り込むなど、とてもじゃないが出来ない状況だ。

「どうした? 足が止まっているようだぞ」

「…………」

 プレッシャーが凄まじい。大将はいとも簡単に、俺に間合いを詰めてくるのに、俺はいざ攻めようとすれば、どんな手段を考えても能力無しでは手詰まり。圧倒的な体格と、面積の大きな鋼鉄が、この狭い通路で大将に大きなリードを生み出している。

 策も思い浮かばず、膠着したままの空気の中、大将が口を開いた。

「一つだけ、聞いておくとしよう」

 口を開きながらも、プレッシャーは揺るがない。

「お前が今追って、助けに向かおうとしている少女と、既に思いだしたであろう……お前が昔、友以上の存在として迎えていた少女は確かに同じ存在だ。では、お前が助けたいと思うのは、過去の少女か? それとも現在の少女か?」

「――今や昔なんて関係ない」

「ほう……」

「俺は、確かにその昔、リトルプレイヤーだったのかもしれない。自分の夢にみたとおりのことをやってきたのかもしれない。けれど今のシュカを見たのは、そのシュカを想ったのは、昔の俺じゃない、今の俺です。だから過去も現在も関係ない。昔の俺は昔の彼女を助ければいい。今ここであなたと相対している俺は、今の彼女を助けに行く。それだけですよ」

 思い出したところで、失ったものは戻らない。

 それに昔俺がそうだったと言う事実を知っていても、俺が今の彼女を救いたい、また一緒に居たいと思わなければ、きっとここには居なかった。騎士学校で模擬刀をぶんぶんと振り回しながら何かの妄想だと思い込んで、また日常に戻っていった、だろう。

「なるほどな。そこは私の目論見とは違ったわけだ。だが、良い解を得られた。試験だったなら、今の解答には及第点を付けたいところだ――さて、不躾な時間を作ってしまったな。続きをやろうか」

 さっき以上に感じる、直線的な攻撃の意図。ちょっとでも動いて隙を見せれば餌食になる。地上で勝ち目が無いのなら……やはり空中戦に賭ける方が分がある。

 そしてなによりこちらから行かないと、あの圧倒的な詰めの速さを殺さなければ。

 風の力を借りれば、多少はその速さに近づけるだろう。纏った僅かな風楼を……背へ。

「来ないなら、こっちから行きます」

 ピクリと大将の眉が反応した。今だ。

「だぁぁぁあああ!」

 足が地を長く離れ、宙を浮いているようだった。地面すれすれを滑空。スラッシャーを抜く。想像以上の速さ、まるで乗り物のような速度だ。大将は動かず、俺の攻撃を待ちうける。正面から受け、かち合うつもりか。

「――しっ!」

 その場から一歩前に出た大剣と二本の剣が交差した。散らばる金属音。そのまま鍔で押してくるかと思いきや……大剣は横に振るわれた。

「ぬぅんっ!」

「ぐっ!」

 足を不完全な態勢にしていたせいで、ほぼ互角だった剣先の力差の拮抗が崩れる。横に押されながらやや後退。そのままバックステップを踏んで二、三度距離を開けようとしたが、

「ふん、ぬっ!」

 左から袈裟。その後猛烈な斬り上げ。上段からの振り降ろし。

 ほとんど間を置かない詰めが、想像以上に速い。まともに三回、打ち合った結果大きく後ろに弾かれた。

「うぉおおおおおおおおお!」

 間髪入れない追撃。これはかわせないと、頭が判断した。距離にして5メートル、二秒で決着はつく。

 構えは下段。直線突きか、振り上げか。

 目前に大将が迫った。大剣の圧力を感じる。

 上、だ。上しかない。攻撃が近く、かつ下段。足から胴へ集中されている。

 瞬時に風楼を起動。背に纏わせていた風楼を、そのまま上方向へ。

「っ――!」

 跳んだ。跳ぶ瞬間、大将の神速の斬り上げが見えた。俺の胴に吸い込まれるように斬りかかってくるそれはしかし、目の前で急に高度を上げた俺には届かない。

 大将の表情が驚きに染まっている。

「な、に――」

「うぁぁあ!」

 防御は無い。抜いたスラッシャーは綺麗な半楕円の軌跡を描いて大将の両肩へ。抵抗もなく、軌跡のまま肩口から胸の上を、ざっくりと斬り伏せた。

「ぐ、ぁああ」

 大将の叫び声。

 分厚い肉体の確かな手ごたえと共に、そのまま大将の背丈を飛び越えて着地。その直後に、硬い床の上にドシンと、質量ある物体が落下する音を聞いた。遅れて、大剣が落ちる音もする。

 振り返る。大将の体は、緑色の床に横たわり、それ以上反撃の気配を見せなかった。

 両つがいの剣を鞘にしまい、しかし警戒は解かずに、大将の元へと駆け寄った。大将は両肩から血を流し、だが息はしっかりしているようだった。

「大将……俺の、勝ちです」

「そのようだな」

 大将は軽く首を横にずらして、俺の顔をその視界に捉えると、荒く息を立てながらも静かな、落ち着いた表情でそう返してきた。そして、

「はぁ……はは、負けた、か……想定通りとはいえ、流石と言わざるを得ないか……いや、少しは、はぁ……嫉妬してしまうな。まだ成人に至っていない若者に、私が敗北を知らせられようとは」

 虚空に腕を伸ばし、空気を強く、握りしめる。

 肩からは今すぐ命に関わるほど多いとは言えないものの、決して少なくない量の赤い液体が肩から髪を伝い、床を染めていっている。

「肩の傷が……」

「問題ない。この程度、私に関わった者が今回失くした血に比べれば、僅かなものさ……それよりも、フラウ。お前は勝ったのだ、知りたいことを聞くが良い。私の知っていることならば、全てお前に答えよう」

 大将は俺のまだ知らない、知りたいことを知っている。大将を倒した以上、この施設のどこかに居るシュカをすぐにでも探しに行きたいところだけれど、聞きたい話もある。

「大将はどうして……シュカを連れ去ったりしたんですか?」

「あの少女が必要だったのは、私の意思ではなく私を指示する人間……正確に言うならばこの施設の長、私達は室長と呼んでいる。そいつは、昔のお前も良く知っていた。何よりもリトルプレイヤーの発展、発達にその研究の全てを捧げる、狂った男、さ」

「室長……」

 父のことか。

「それと私の目論見がもう一つ。あの少女を連れ去ることで、フラウ。お前が確実にこの施設に助けにくるだろうと踏んでいた。地図を見たのだろう? あれを置いて行ったのは私なんだ」

「じゃあ、俺の能力とか、俺がリトルプレイヤーだったってことを知っていたのは……」

 なにせ、俺はちょっと前まで騎士団に居たのだ。リトルプレイヤー討伐を目的とする騎士団に。その長の存在に近い大将がそれを知っていたのなら、俺になんらかの迫害が加えられていたと言っても過言では無かったのに。

「私は騎士団の長として大将の地位を貰う前、この施設で研究を続ける室長と、ちょっとした因縁があったのだ。それ絡みで関係を持つようになり、大将位を頂く前から、リトルプレイヤーの存在をある程度許容していた。それで、昔この施設によく出入りしていたお前も知っていたのだよ。その頃に私は室長関連で騎士団に入ることになった。今話すが、騎士団は表面リトルプレイヤーを討伐する、市民のための軍団となっているが、その運営するトップは、リトルプレイヤーを研究する室長自身だ。私が大将位として、下をまとめたのは元々兵戦力として鍛練していた以上に、あやつの意向が大きい。……それにもう思い出したのだろう? 最後、心を失ったお前の想い人に敗北して近くの湾に身を投げた……それを助けたのは私だ。騎士団に入って貰ったのも、父が亡くなっていると言伝したのも私の意向だ」

「…………全部、手のひらで踊っていた? この、室長とやらの?」

「そう考えても間違いではない。事実、お前の父は死んでは居ない」

「室長が父だから」

「……そうだ」

「…………」

 つまりは騎士団ってのは、仮初めの集団で。シュカを連れ去った黒幕によって運営されているだけのハリボテだった。

 あまりにも信じられがたい事実だけれど、腑に落ちないこともある。

「ん……でも、大将がシュカの元に来たってことは、シュカがあそこに居ることを知っていたんですよね? そして、俺も同じ街に派遣された」

 騎士団の、所属する隊や遠征する地を決定するのは幹部、つまり将官クラスの中でも上位の人間しかありえない。なら大将はそれを知っているはず。わざわざシュカと俺を突き合わせることは、施設から何故か離れていた? シュカになんらかの影響を与える可能性もあったはずだし、何より俺がリトルプレイヤーだって知っていたら、騎士団から離反することだって分かっていたような気がする。それは、大将の上の存在である黒幕にとって、得ではない。

「私はあやつの下に付いていると言っても、賛同しているわけではないということだけ言っておこう。それ以上は、この奥に待ち受ける黒幕に、お前が全てケリを付けてから話させてくれ」

 大将は口を閉じた。これ以上、話す事は無さそうに。

「この奥に、シュカが居るんですね?」

「ああ……」

 大将の立ちふさがっていたその後ろには、先の見通せない闇が続いている。

「黒幕って奴を倒せば――」

 再び大将の方を振り返って、その姿に驚いた。

 それまで横たわっていた大将が、俺の足元に……土下座をしていたから。

「ちょっ、ちょっと大将! やめてくださいよ!」

「頼む……頼む、なんとか……私にはできなかった、あやつを止めてはくれないか! お前に居るあの少女のように……私にも囚われた、大切な者が居るのだ……。お前と少女なら、きっとできると信じて四年待った! お願いだ……フラウ……」

「だ、大丈夫ですから! 俺はそのために来てるんですから……! 立ってください!」

 大将の顔は、いつものミステリアスで紳士的な表情から想像されるイメージが崩れさるくらい、ぼろぼろと涙線を崩壊させていて、そうやって泣きむせぶ姿は見たことがなかった。

「済まない……こんな感情的になるつもりは無かったのだがな……だがもう、頼れるのはお前しか居ないんだ。頼む、頼むぞ……」

 手を貸してようやく大将は立ち上がる。肩の傷からは未だに出血していたが、俺の両手を握る力は、かなり強かった。

「ええ、任せてください。きっと、倒して帰ってきますから……!」

 背を向けた。後ろからは嗚咽が軽く聞こえてくる。

 大将はもしかしたら、室長である父に挑んで、俺と同じように過去、敗れたのかもしれなかった。シュカの他に、大将の守りたい人が、父に侵されていたんだとすれば……。

 自分の姿と重なる。

 あわよくば、大将の助けたい人も助けられれば。そう思いつつ、奥に進んだ。


「なんともまぁ、分かりやすい……」

 右折と直進を、息を切らしながら続け、特に分岐も無く突き当たった所には、いかにも奥に重要な物が隠されています、と言わんばかりの仰々しい鉄扉が待ち受けていた。

 廊下も天井も、老朽化を放置されていたのか扉の周りは塗装も剥がれてボロボロだが、その扉だけは少し前に取り換えられでもしたのか、暗い闇の中にあって銀の輝きを放っている。

 そんな扉の前に辿りつき、手を掛ける。

 外見だけは厳重そうに見えるが、鍵も何もない。試しにちょっと力を入れれば、簡単に開きそうなことは分かった。後は心の準備だけ――

「ありゃ? フラウ兄ぃ、来てたんだ」

「!?」

 突然聞こえた声に後ろを振り返る。眼前1メートル、ほんのすぐ先に……あの特徴的な金髪、フランの姿があった。

「そんなに驚かないでよ~。敵さんじゃないんだよ?」

「フラン……」

 問題は、影が知り合いだったことじゃない。何故あの夜に、シュカと大将と共に消えたフランが此処に居るのか。こうして自由に動いているということは、味方よりも敵側……ということになってしまう。この施設で、室長側についていて……。

 一つの、当たって欲しくない疑問が浮かびあがってしまった。

「お前も、リトルプレイヤー……なのか?」

 首は縦に振られた。しかも、特に否定する素振りも無い。あくまでも淡々とした口調で、

「そーだよ。っていうかなに、フラウ兄ぃ。私とシュカちゃんがどうなったかー、なんて聞いて無いの?」

「シュカが大将に連れ去られたことしか分からない。セトナさんは色々知っていたみたいだけど、多くは聞かなかった……」

 第一、フランの事に気を回せるほど余裕が無かった。

「フラウ兄ぃって普段は冷静なようで、意外と肝心な所が抜けてるよねー。いくらあの人が強くったって、能力的に一対一では最強のシュカちゃんには勝てないよ。あの子に勝てるのは、リトルプレイヤー……それも、あの能力を無効化して戦闘することができる能力を持った、ね」

「…………」

「そう! ずばり、フランちゃんがやっちゃったんだよ! ま、あとちょっとのところで限界が来ちゃって、残念ながら引き分け? っていうかあの人に任せたんだけど~」

 暗がりに半分顔を隠して、しかしフランの表情は妖しく笑っている。

 なんてこった。

 あれだけ強いシュカを、フランがたった一人であそこまで?

 意識がおぼろげな中で見たシュカは、見た目もボロボロ、いかにも死闘の直後のような有様だったから……俺はてっきり大将とシュカがやりあって、シュカが負けたんだと、そう思っていた。事実、目を覚ましたらそこには、ボロボロのシュカと俺の束縛された体、無傷な大将の姿が一番最初に見えたのだから。

 それに、フランの話が真実となると懸案されるべきことがあるじゃないか。

「お前は……いやお前も、俺の敵になっちゃう、のか……?」

 だが意外にも、フランは首を振った。

「ううん、私はフラウ兄ぃを愛してるからね。フラウ兄ぃの味方だよ、いつまでも。それは室長が命令しようが聞くつもりはないし」

「そ、そうか……」

 ほっと、心の底から安堵する。

 大将にしても、誰にしても、親しい人に剣なんか向けたくは無い。だからフランが敵じゃないことは、ただ戦わずに済むということ以上に、救われた。ただ……それもつかの間。

「うーん、あんまり時間潰してる暇ないし。そろそろ案内してあげるよ。この扉の奥の――地獄に、ね」


 ガシャア!

 俺が扉を開くよりも前に、フランが鉄扉に片手を添えた……と思った次の瞬間には、猛獣がそこの通路から走ってきて扉に追突したような破壊跡が残され、無理やりに歪められ半ば折れ曲がった鉄扉は、中央にちょうど通れるくらいの大穴を開けていた。穴の先に、通路と同じような色をした床と、巨大カプセルのようなものが見える。

「…………!!」

「開いたよ。さぁ行こうよ」

 呆然と扉を見る俺を余所に、フランは一人で奥に入っていく。

 足元を見ると、下半身が少し震えていた。緊張か、超次元的な力を見たせいか。

 ……しっかりしろ。もうすぐなんだから。

 自分を奮い立たせ、フランの後を追った。


























 最終章 君と共に人形でありたい




「……どうもこんな所まで邪魔をしにきてくれてありがとう、と言うのが適切かな? フラウ、直接見るのも久しぶりだなぁ。随分と大きくなった」

 あの通路からすると想定以上に大きい部屋の中、その最奥に……目指していたものの姿と、その隣。口を開いた男は室長か――若そうに見える風貌とは裏腹に髪の少ない頭が特徴的な白衣のいでたちで、俺は迎えられた。こいつが、黒幕。

「室長、お迎えはしっかりとしてあげましたよ」

「フラン……お前には力づくの言葉しかないのか? まぁ、いいんだがね。あんまり能力の無駄遣いはやめたまえ。ついさっきも壊れる寸前だったのを、ラインの頼みで直してやったばかりなのに。レディーには慎みが大事だ」

 はーい、とかったるそうな声でフランは、室長と呼んだ男の傍に駆けていく。俺も、その姿がしっかりと見える所まで近づいた。

 距離にして5メートル。男の表情までしっかりと見てとれる。当然、その隣でなぜか無表情に、俺に対して何も言わないシュカと、さらにその後ろに居るフランまで。

「…………っ」

 この目の前の室長が、俺の居ない所でシュカになんらかのことをしたのは間違いない。昔の記憶でも、こいつは俺からシュカを奪って、リトルプレイヤーにしてしまったのだから。

 俺の睨みの効いた視線を受けても、室長は飄々としている。

「そんなに睨まなくてもいいじゃないか、怖いなぁまったく。これでも私は君の、血の繋がった父親なんだよ? 君は長く忘れていたようだけどね」

 知ってるさ、そんなこと。既に夢で見たことだ。

「俺はあんたの事なんか何一つ知らない、知ろうとも思わない。血縁上で繋がっていたとしても、そんなの今の俺とあんたの間ではもはや関係無い」

「おやおや私の元を離れている間に冷たい人間になったことだなぁ? あ、一応ラインの指導下には居たのか。あいつの影響かな? それとも――」

 じろ、と横に居るシュカに視線が送られ、

「この子と再会したから?」

 顎をくい、と指先で持ちあげる。

「シュカに触るな!」

「おっとっと。これは素敵なナイト様の復活のようだね。いやー実に懐かしい。あの時も、お前はまるで自分の宝物にしていたおもちゃを遊びに来た友達に壊されたかのように喚き、叫び、暴れ、絶望したね? そしてそれはとても……高価だ。二回目に買ってもらうことは許されないおもちゃ。取り戻そうと私に歯向かったが、私のものとなったおもちゃに、君は負けた」

 腰からスラッシャーを引き抜いた。切っ先を……まっすぐ、目の前の男に。

「黙れ。それ以上言うとコレを室長……お前の喉笛に突き刺してやる」

「やれやれ、血の気の多い人間は損をするよ? ……それに」

 室長は短いため息と共に、挙げた両手を首の後ろに回し、

「あんまり生意気な事を言ってると、私も手加減はしてあげないかもよ?」

 ドスの効いた睨みで、俺に返してきた。

「……っ」

 ただのひょろひょろの研究者とは思えない。この殺気は、大将に引けるとも劣らない。だがそうかと思えば、

「っはははは! そーんな、緊張した表情をするな。別に私が今すぐお前をどうこうする気は無い。この子さえ手に入れば、能力的に劣り、しかも自我のはっきりして扱いにくい駒になってしまったお前は私の研究にはもはや必要ないからなぁ? もしこのまま帰るのなら、無事に返してあげよう。望むならば血縁のせめてものはからいとして、一生困らないくらいの財を分け与えてやってもいい。どうだ? 悪い条件ではないだろう?」

 ニヤニヤと薄気味の悪い笑みを浮かべて、俺を挑発でもしているつもりか。

「俺には、シュカ以外望む物はない。シュカを取り返せないのなら、この先どんな金持ちになろうと、そんなの意味の無いだけだ! ……とにかく、今すぐシュカを返せ。怪我をしたくないのならな」

「はは、良いだろう。そこまで言うのなら私とお前と、どちらに従いたいか彼女に問うと良い。もし彼女がお前を選ぶようなことがあれば……まぁそんなことは無いだろうが、そのままプレゼントしてあげよう……ほら」

 室長に背中を押され、その隣に並んでいたシュカが俺と室長のちょうど真ん中に出る形になった。変わらない、銀細工みたいにこしらえられた髪、妖精と見間違ってもいいくらい幻想的な儚さの肌、輪郭。ただ、街で共に生活した時のようなはつらつとした人間味のあるあの表情はまるで無い……その風貌だけが取り残され、本当にショーケースに飾られる、命無い人形みたいな表情を俺に向けていた。

「シュ、カ」

「…………」

 返事が無い。見上げる視線は固定されたまま俺に注がれているが、そこに感情は存在しない。

「あいつに何かされたんだろ? それは分かりきってる……だけどもし俺の言葉が聞こえてるならお願いだ、返事をしてくれ! 迎えに来たんだ、一緒に帰ろう」

「…………」

「――シュカ。君は私とそこの少年、どちらを選ぶかな? そこの少年は、君を手に入れたいらしいが」

 背後から口添えした室長に、シュカが口を開く。

「……私は室長、あなたの元に集うリトルプレイヤーです。対象の人間に興味はありません」

「な……」

 思わずシュカに駆け寄っていた。無表情を貫き通す姿の、両肩に手が伸び、がくがくと強く揺さぶってしまっていた。

「おい、そんなこと本気で言ってるのか!? 確かに俺じゃ役不足かもしれないけど、街にはセトナさんも、ミャーも待ってる! シアだってシュカを助ける為に……」

 次の瞬間、視界はぐるりと反転していた。

 正面から上向きの圧力を受け、まさに腹を『く』の字に曲げ、その瞬間には痛みは無かったが、俺がシュカにふっ飛ばされたことを把握したのは、緑色の床に強く腰を打ちつけて、俺を見下す冷たい視線と目を合わせてからだった。

「っ痛……」

「はっは、惨めだなぁフラウ。初恋の女に振られる男と言うのはこんな感覚なのかな? かくいう私も、お前の母親には幻滅した故に離別したがな。いやいや、実に愉快」

 室長の嘲笑が耳に刺さる。

「シュカに……何をした……」

「何も。ちょっと口を割らせる薬だけは飲んでもらったけどね。でもそれはお前も何回も飲んだことがあるものだよ? ただ彼女は、自分で自分の事を想い出して、それを私に知られて、これから何が起こるのか……お前の身に何をされるのか。全部理解して絶望して――結果、このような体になったわけだ。全ては必然の下にある。彼女の想いを実は無駄にしたのはお前だったね? ……ぬっふ」

 きっ! と睨みつける。だがその視線を遮るようにシュカは俺の前に立った。

「さて、お遊びの時間はもうおしまいだ。私は高みの見物をするつもりだったのだが、私のおもちゃに執着される男が周りに居るのは好ましくない。――四年前の再現といこうか。お前は、また愛を向ける女に刃を向けられる。その後逃げようがどうしようがは勝手だが、今度彼女を手にするのは私だ。研究の為に、な」

「お前、はぁあああああああ!」

 頭の箍が外れた。瞬時に風楼を起動。前に立ち塞がるシュカを飛び越え、棒立ちの室長へ、一閃――。

 何の障害も無く、ただ白衣と眼鏡と肉と骨と忌々しいあの顔を切断……する筈だった、両の手に持った鋼剣はしかし、その通りの未来を描かなかった。

 代わりに、柔らかい肉質をその刀身に感じる。僅か数瞬で、有り得ない距離を縮めて室長と俺の間に入った……シュカの手、だった。少しだけ切れた痕。切り口から数滴、ぽたり。

「なんっ……」

 防御しようともしていない室長。表情は剣を前に、緩やかだった。

「彼女が今味わっている絶望を、お前も味わうと良い。絶望的な戦力差、自分が攻撃できない歯がゆさを。私はそれを見物していようじゃないか」

「ぐうっ!」

 憎たらしい言葉を、下からの猛烈な突き上げで吹き飛ばされながら聞いた。シュカに殴られる寸前、彼女の目が一瞬だけ見えたが……それはもう、敵として俺を見る目だった。

 既に戦闘の火ぶたは切って落とされた。先ほど大将とやりあった時のように、初手の手加減が貰えるわけではない。今のシュカに、俺の言葉は届かない。

 すぐさま風楼で、宙に浮いた自分の体をなんとか支えた。しかし、シュカの姿はどこにもみえない――刹那、今度は空中で腹に蹴りのような圧力。なんの摩擦も無い場所で衝撃を食らって、俺はまた後ろに飛ばされ、床に腰を頭を、強打した。

「……室長に仇なす対象は、破壊? そう、破壊」

 十メートルほど離れた所で、瞳から光を失ったシュカが呟く。

 俺は床に倒れている。その視界に捉えた銀髪が残像を残してまた、消えた。

 同時に衝撃。遅れて、轟音と共に、背中に再度衝撃。

「――っ」

 今度は苦悶の声さえ上げることができなかった。息が詰まり、正常な呼吸を取り戻すまで数秒。背後には、フランがさっき破壊して大きく口を広げた扉があった。その破片に服が引っ掛かり、腕当てには大きく傷が。もう少し薄ければ、貫通して肌まで到達していたかもしれない。

 たった数フレームの間に、俺は二度も吹き飛ばされた。脳は理解する。答えは単純だ。

 シュカの能力、瞬間切断――。

 攻撃のモーションも、姿も、攻撃方法すら把握できない。俺がそれを視認するフレームを、きっと切断されているのだろう。まるで瞬間移動と変わらない。

 既に力の入らなくなりかけている対の剣を構えようとして、はたと気づく。

 もし彼女の攻撃が見切れたとして、俺は剣を彼女に身体に突きつけられるのか?

 室長の言っていた、絶望。夢の中で俺がそうだったように。

 今の彼女は、俺の知る彼女ではない。だが、それはあの室長に何かを仕組まれてこうなっている……と推測されることで、外見や肉体はたまた、眠っている彼女の本来の心は彼女そのものだ。たとえば、俺の繰り出した攻撃が彼女の腹を深く抉ったとしたら。

 元に戻るなんて保障は無い。彼女を助けたい俺にとって、安易な選択はできない。その時点で既に勝機が擦り減っているが、さらに彼女は……強い。

 ただそれを認めてしまえば、俺はここに来た意味が無くなってしまう。なら、どうにかして彼女を傷つけないという策が必要だ。

 腰を持ちあげた。シュカは俺から一定の距離を取ったままじっとしている。攻撃する時に自分はどんな距離があっても瞬時に詰められるし、室長との間に入って俺が彼に肉迫するのを、何より第一に阻止している、合理的な間合い。

 既に節々が痛み始めている体を、その絶対的な壁に守られた室長はあざ笑う。

「頭の中で必死に作戦とやらを考えているのかな? はっは、それも残念ながら前と同じだ。お前はあの時、実に一時間以上も絶対的不利な状況で、この子の攻撃を受け続けたんだ! だが結局、良い方法は見つからず、最終的にちょっとだけ私が隙を見せてあげたら考え無しに突っ込んできた。断言しよう、今回も一緒だよ」

 一緒じゃない。そうはさせない。

 今度こそ、君を救うんだ。


 ***


 私は夢の中から自分を引き摺り出され、奪われて……抜け殻のようになってしまった裸体を放り出して、水の感触も、色も臭いもしない、けれど確かに何かが流れている物体の上に背を乗せて、昔誰からか聞いた物語に出てくる大きな桃のように、何の思考もせず目的もなく、誰も止める事が無ければやがて最果ての滝つぼへと、終焉を迎える。そんな感覚。

 このまま、私の魂、なんてものが無くなってしまうとして。

 それは仕方のない事なのかな、とまで思ってしまう。

 

 私は、絶望の支配する生を受けて、

 そこからたった一筋の希望の光に、掬いあげられる。

 でも私を助けた光は私の代わりに闇に呑まれてしまっていて、私もまた闇になった。

 闇になってもなお私を取り戻そうとした光は、闇になってしまった私に排除される。私はまた絶望する。


 私は逃げた。

 逃げた場所で、絶望からもまた逃れた。希望を得ることはできなかったけれど、いつ絶望にか引き戻される恐怖に震えたけれど、それでも逃げ続けた。

 その先で、闇に呑まれた弱々しい光を見つけた。光は段々と大きく力強くなって、私に再び希望をもたらそうとした。

 それを闇は見逃さない。また、光は呑まれそうになった。

 私は知っている。

 絶望を知るくらいなら、何も思わず、何も感じずに……ただ自分が消えて、それで光が違う所で光自身の希望を知ってくれれば、それはそれで幸せ、なんだと。

 だってもう、次は無い。

 次に闇に呑まれてしまえば、光はもう元には戻らない。おそらく、死と言う方法をもって。あの闇を引き連れる男は、そういう人間だから。

 あの男は、私さえ手に入れば、光は要らないと言っていた。

 だから、私はどうなってもいい。光が助かれば。

『……なんで勝手に一人で決めるの?』

 頭の中に浮かんだ、もう一人の私が言う。

『二度目は助かるかもしれないよ?』

 そうかもしれない。

 でも、どうやって? 闇に眠った私と、光が共に在れる最高の状態になるには、光が闇を倒さなければいけない。それは、光を危険に晒すことと同義。

 それにきっと光は迷う。今の私は私じゃない。変わってしまった私は、たぶん光に刃を向ける。

 望んじゃいけないことなんだ。

 私と彼が、共に人形で無く、自分の足で歩いて行くことなんて……。


『――シュカ!』

 一瞬だけ、聞こえた。

 閉じかけた瞳を開いた。が、やはりここはまだ自分の眠っている意識の中。現実に戻れたわけでは無かった。幻聴だろうか。


 ううん、やっぱりやめよう。

 一度決めたことを振り返るなんて未練がましい。だから幻聴なんて聞こえるんだ。

 私はたった一瞬だけでも、光に触れられて良かった。だから、もう――消えよう。


 ***


「――で、お前の策もそろそろ、尽きたかな?」

「くっ……」

 あれからどれくらい時間が経ってしまったんだろう。

 とにかくシュカを傷つけないことだけを一番に置き、それ以外でできることを全て試した。

 単純に呼び掛け続け、隙を縫って彼女の体に直に触れ、あるいは風楼を、あくまで微弱ではあるが彼女が覚えているかもしれないと思い、シュカの目の前で何度も舞わす。

 その他、幾多もの方法を試し続けた。俺の体は彼女に切り刻まれ続け、だが倒れはしなかった。

「さすがに成長した分だけ耐えるねぇ。もっとも、今回の彼女は何も持たせていない、武器を手にせずにお前を圧倒してるんだから、銃剣を与えた前回より早く死なれちゃ困るんだけどさ。……でもいい加減見飽きたよ。私はラインほど戦闘狂ではないし、彼女を手に入れたことで早速試したい研究もあるんだ。諦めて今すぐ帰ってくれないかな?」

「断るって言ってんだろ! 俺はシュカを諦めない!」

「やれやれ……親に似ず残念な性格だ――いや、研究を諦めずに続けてきたと言う点ではやはり親譲りなのかな? まぁそんな遺伝的な繋がりはどうでもいい。お前が去る気が無いなら、ものの数秒で終わらせてやろう」

「やめろ……何をするつもりだ!」

 室長は、俺からの直線的な攻撃を阻止しようとその前に立っていたシュカの肩に手を掛けた。シュカの表情には変化は無いが、右肩に回された手には、小型の注射機が握られていた。

「何を? 見てれば分かるさ」

 その注射針が、シュカの白くさらけ出された首筋にぷすり、と挿し込まれる。

「――、ァ」

 びくん、と体が跳ねる。ふらっと力が抜けたように軽く前へ体を傾斜させ、

「おい――」

「ははは! フィナーレだ! もう手加減する必要は無い、さっさと殺してしまえぇ!」

 室長は叫びと共に、シュカの前へと短剣を二本投げ入れる。そして、一撃が飛んできた!

「っぐ」

 打ち合う。一発二発三発四発。シュカの瞬間切断が連続して発動される。俺の目に、彼女が移動する軌道は見えない。ただ、直前の位置から攻撃を予測してスラッシャーで防御しているだけに過ぎない。たまに予測が外れ、腕の皮は切れ頬に血筋が走る。

 手数で圧倒されてはたまらない。室内に僅かに発生する風で風楼を作り、自分の体を宙に浮かせて一息ついた。が、少し気を抜いた直後、

「うっ!」

 正面から重い打撃を受けた。地上四メートル程度、とてもジャンプで届く距離じゃない。

 叩き落とされるようにして地上に降りる。また止まらない攻撃が始まる。態勢の崩れた俺では、もはや防御を固めるだけで手いっぱいだった。

 ――あの注射で、シュカの攻撃が激しさを増していることは明らかだった。それは俺がより傷を負って死に近づくと言う事以上に、シュカの『対価』が今この時も、どんどん増えていっている、それに等しい。

 セトナさんから教えて貰った『対価』。度を過ぎて使えば段々と人間性は失われ、そして最後には完全な、人格の消失。すなわちその時点で、もう二度と前のシュカは戻らない。

「…………っ」

 俺がやられるとしても、それだけは絶対に避けないといけない。

 こうして考えている間に、時間はどんどん無くなっていく。チャンスは一度きり、その一度で試せる、最後で一番大きなことをやってやろう。それでダメなら、俺は彼女を生かして死ぬのも、また一つの選択肢だ……できれば、選びたくは無かったけど。

「おいシュカ、聞こえないフリをしてるみたいだけど、ちゃんと聞いてくれよ?」

 瞬時にしか姿の見えない、荒れ狂う濁流のように激しい短剣の舞踊を受けながら俺は叫ぶ。

「ずっと……待っててくれたんだよな。俺達が初めて会った、あの街で。俺が情けないせいでシュカの手を離してしまったけど……」

 剣舞は止まらない。頬に一つ、決して浅くはない傷が増え、痺れる痛みが走る。

「思い出したんだ、全部。それは今更なのかもしれないけど、シュカを置いていって、自分はのうのうと遠い場所で見当違いなことをやってて、謝っても許してもらえないかもしれないけど!」

 シュカの影の向こうで、室長が腹を折り曲げ、声を殺しながらも笑っているのだろう、そんな様子が見える。構うもんか。

「……だけど、こんな奴の言いなりになるなんて絶対ダメだ! そこには『何も』ない! そこに行ってしまったら、今まで会ってきた人達……セトナさんやシアも、俺も! 裏切ることになるんだぞ! いいのか、それで!」

 ああ、自分で言っておきながらすごく虫の良い話だ。こんな自分勝手な奴を他人で見賭けようものなら、俺は辟易してやまないだろう。

「それに、俺は約束したはずだ。あの街でシュカが街で迫害された日に、俺は盾になるって。もう、こんなになってる時点で約束を守れてないけど、でも……俺はこの身が滅んだって構わない、でもシュカ。君のことだけは、君の心だけは、絶対に殺させやしない!」

 縦からの変化に対応できない。剣が上に弾かれる。

「だから……戻ってこい!」

 ふと、シュカの表情がちょっとだけ緩んだ気がした。

 おかげでそのたった一瞬だけ、動きが止まる。姿が見える。

 俺は相棒である二本の鋼を宙に手放した。シュカの目線が僅かに剣へ注がれる。と同時に、風楼を足元に。

 小さな竜巻が床から噴出する。ほとんど組み合った状態の俺達の下でとぐろを巻いて、それは集中力の留守になっていたシュカの細く白い脚を浮かせるのには十分だった。

 シュカのバランスが崩れる。予期せず宙へ浮いたのだから当然だ。重心が後ろに逸れ、体が背中から床に吸い込まれていく――それを俺は、両の腕でしっかりと、抱きとめた。シュカの手に握られた短剣にははばかることなく。

 ぐさ、と深く、横っ腹に刃物が浸食していく感じがした。でも不思議と、痛みは無い。それは別に鍛えているから痛みが軽減されたとか、極限状態にあって痛覚が無いとかじゃない。痛みを感じる以上に、俺は柔らかく暖かいものに包まれたその感覚を感じていたから。

 時間と世界が、ちょっとの間だけ止まった。

 俺とシュカは、お互いの唇と唇を合わせていた。はたから見れば、一方的に俺がそうしたようにしか見えなかっただろうけど。

 一時間にも、二時間のようにも感じたその間、シュカはまったく抵抗をしなかった。やがて、

「んっ……んん!?」

 シュカはがばっと顔を立たせ、俺達の唇は再度離れた。だがそんなことは些細で、これまで感情を表に出すことの無かったシュカの顔に、驚きの表情が色濃く映る。そればかりか、ため池の底のように黒く濁った澱みがかっていた瞳が明るさを取り戻していた。

 思わず、心臓がどきりとする。腹に刺さっていた短剣がカラリと音を立てて落ちる。

「シュカ!」

「は、はれ……フラ、ウ? どうして私、ここに戻っ……」

 俺の腕をするりと抜け、ぺたん、とお尻から床につく。じっと上目遣いで数秒、俺を見つめたあと、自分の頬を手で軽く撫ぜるように触れて、

「戻って、これた?」

「シュカ……シュカ、なんだな!?」

 問いかけに、ぼうっとしたまま反応しようとしない。せっかく、あのおかしな状態から戻ったと思ったのに――と一時戦慄した。が、それはすぐに流れ去る。

「フラウ……私、私……っ」

 シュカの両頬に、幾筋もの涙が通り過ぎては顎を伝ってぽた、ぽたと落ちる。体を震わせ、感情を押しこめるようにしていたが、床に落ちた水滴の粒は増えていく。そうして顔を再び上げたシュカの顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。

「ははっ……あー、なんか前とそっくりだ」

 まるでそう、あの雨の中シュカを見つけた時と同じように。

「何が、よ……。それに……ばか、こんなところまで来ちゃって……ぐす」

「さっき言ったこと聞いて無かったのか? 約束を守りに来たんだよ」

「それにしたって……こんな、絶対危険な所なのに……。来て欲しく、無かったのに」

 消え入りそうな声だ。

「シュカは、そのまま起きることなくて、俺と二度と会えない方が良かったか?」

「そんなわけないじゃない!」

 今度は一転して、涙声の混じる、強い声。

「そんなわけない……ほんとに、ほんとにもう一度……顔が見れて、良かった……でも、あいつが、言ってたの――私さえ手に入れれば、フラウには何もしないって。思い出したの。昔、私が黙ってあいつについて行ったのは、あいつに隠れて私と一緒に住んでたフラウを、処分しようって……言われたから。そんなの思い出したら、助けに来てなんて言えない……! ただでさえ、フラウはあのいけすかない大男にボコボコにされてたし……」

 俺に力が無かったからだ。シュカに、守って欲しいと言わせる力が、無かった。

「しかも私と一緒に来なくても、もっと幸せな道が、あったはずよ? そこにいる……金髪の子とカップルになって、結婚とか……する未来だって、あるはずだったのに。なんで来ちゃったの。何も知らないフリをして生きて、そういう道を選んだって」

「――ダメなんだ。それじゃあ、ダメなんだよ」

「なんで……?」

「シュカが絶望と希望を繰り返したように、俺の小さい頃は絶望に塗れた日々だった。それも、受ける方じゃない、与える方で。室長の手駒としてあくせく働いて、人間らしいことは何一つとして教えられてこなかった。そんな俺は、シュカに惹かれた。忘れた間も、賑やかな同僚と充実した戦闘訓練に勉強、リトルプレイヤーへの負の想いを抱きながら、どこか欠落したものが見つけられずに過ごしてた。そしてそれは、シュカじゃないと埋められないんだよ」

 どんなに姿形が可愛くて、器量は少しおっちょこちょいだが、俺に好意を寄せてくれるフラン。だが、彼女とデートまがいのことをしていても、俺自身がどこか違う場所を見ているというか、多分頭のどこかで、シュカのことを気にしていたのかもしれない。

「どうして、どうして分かってくれないの! あいつは危険で、私さえあいつの元に行けばフラウは安全で……」

「分かってないのはシュカの方だ!」

「――っ」

「室長が危険? そんなことは分かってる。あいつは曲りなりにも血のつながった親で、何年もその下で生きてきた。第一、室長のことだ。恐らく、シュカがそのまま手に入ったとして、俺を警戒して身柄を探し、潰しに来ると考えるのはたやすい。同じ危険なら、一人より二人だろ」

「…………」

「俺が嫌いならそうだと言ってくれ。なにせずっとずっと、忘れてたんだ――もしそうなら俺は」

「……好き」

 一言だけ。それだけで、俺の心臓はどくりと跳ねた。

「え――」

 シュカが中腰の俺の体に飛びついてくる。肩に頭を乗せ、涙に濡れた顔を擦りつけるようにしながら、泣いた。

「嫌うわけない、じゃない……っ、どれだけ忘れてたって、私の隣には……一人しか居なかったんだから……ぁ」

 すぐ傍で、シュカの息遣いが聞こえる。すすり泣くシュカの頭に手を回し、抱きしめ返す。安堵、そう安堵だ……敵陣のど真ん中に居るにも関わらず、俺は腹から流れる自分の赤い液体も、脅威となりうる存在がすぐ近くに居ると言うことも忘れて、それに包まれていた。

 しばしの間そうしていて、そして、終わる。

「あーはいはい。茶番はそれぐらいにしておいてもらおうかな? 小学校のお遊戯会並みの演出で、あくびが出るかと思ったよ」

 パンパン、と手を叩く音。離れないシュカの体越しにその音のした方を睨みつける――言うまでもない、愉快なものを見たとばかりに口元を横に捻じった、恐怖感のある笑みを纏った室長、だ。

 だが、シュカはもう室長の影響下から逃れた。今彼の言葉にシュカが体を震わせ、否定の意図を示していることが何よりの証だ。つまり現時点で、俺は室長との勝負に勝っているのだ。

「そんなにあくびが出るなら自分の部屋に帰って寝たらどうだ? その間に、俺達は帰らせてもらうけど」

「なに、研究者たるもの徹夜なんてしょっちゅうだよ。ましてや貴重な研究サンプルが手に入りかけている今日、睡眠欲に従ってしまうなんて愚の骨頂だ」

 こいつ――まだシュカの事を。

「勝負はついたはずだぞ、室長……いや、父さん。お前は負けたんだ、シュカはここには残らない!」

「ほう……試合がまだ終わってないにも関わらず余裕だなフラウ。いくら差があろうと、途中で寝ぼけるウサギは走り続けたカメに負ける。それと同じだぞ?」

 なんだこの、まだ自分が圧倒的優位にあると、さぞ言いたげな余裕は。

 不気味。

 せせら笑うこのひょろひょろの体格の影に潜む、狩猟者とでも言うべき不穏な気配。大将のプレッシャーとも、シュカが戦う時に垣間見せていた殺気のようなものとも違う。あくまで今は滝を登る前の鯉。しかしすぐにでも竜になれる、そんな余裕を表わしている。

「確かに見事だよ、フラウ。約束通りそいつはお前に返そう。もっとも、無事に此処を出られれば、の話だがな」

「…………」

 室長の横にはフランが控えている。フランは俺の敵にはならない、と言っていたが、室長をマスターと慕っている以上、向こうの言う事を聞く算段が高い。数的には二対二。しかしシュカはさっき力を使いすぎて、リトルプレイヤーとして戦うには危険過ぎる。室長が戦わないにしても、ボロボロの俺とフラン……どんな戦力差があるのか。扉に大穴を開けていることから、戦闘型の能力を持っているのだろうけど……。

「ああ勿論、一人でも二人で向かってきても構わない。ただ今度の私は手加減ができないから……綺麗な体のまま死ねるとは思わないようにしておいたほうがいい。おいフラン、あのプラスミドを一本、ついでに残りの予備も全部用意しておけ」

「はぁい……って、本当に使うんですか?」

「つべこべ言わずに全部だ。持ってこい」

「でもでもぉ、あれはまだ未完成だって――」

「聞こえなかったのか? 持ってこいと言っているんだ」

 あくまで静かな声ではあるが、明らかにフランを恫喝しているのが分かった。慌ててフランは、すぐ近くの棚をなにやらガサゴソと探しては、やがて何かを室長に渡したのが見えた。

 何をするつもりだ……?

「ふむ。とりあえずは一本やってみるか」

 そう言うと、受け取った中から一本だけを取り出し、栓のようなものを外す。先端にはキラリと鋭く光る短い棒が飛び出していた。それをおもむろに自らの首筋へと持って行き、

「……っふ、う――」

 躊躇うことなく、そのまま突き立てる。飛び出た部分を指で押しこみ、一瞬だけ電撃が走ったかのように痙攣を起こす。その動きで、室長が持っているのは注射機だと分かった。中に何が入っているのかは知れないが、何でもない物な訳が無い。

 すると変化が顕れたのはそれからおよそ数秒後。警戒したまま固まる俺をよそに、室長の状態に明らかな異変が起きた。

「ヴ、ぅ、あッ……!」

 何を言っているのか分からない奇声と共に、見るからに異常だと分かる、腕の膨張。身に纏っていた白衣がすぐにパンパンになり、やがて縫い目から引きちぎられその内部を露呈した。

 それは、人間の……いや、生き物の腕とは思えない。俺の二倍、三倍とまで言ってもおかしくないくらい巨大化した両腕。しかも生気なんて言葉を失わせる、紫と黒の混じりあった非生物的な、もっと言えば気持ち悪い色。表面は血管が縮れて浮き上がり、その様子に元の血管が耐えられていないのか……所々から出血。腕を伝い、さらに異様なものとなる。

 腕だけであれば良かったのだが、それは時間を追うと共に室長の体全体へと広がり、首より上は大きさは変わらないが同じ模様に染まり、両脚は腕と同じく腫れ、やはり同じように黒紫色と、出血をもたらしていた。

「な、何だ……!?」

「…………っ」

 腕の中でシュカがもぞ、と動き、そして同時に室長に対して恐怖感を覚えているのが分かった。というか、この姿に恐怖を覚えない者なんか、数えるほどしか居ないだろう。そしてそいつはきっと、心臓が鉄で出来ているに違いない。それくらい、俺が今この目で見ているものは、『化物』と形容するに等しいほど、おびただしい姿だったんだから。

「クック……、あぁ。確かにこの可笑しいまでの高揚感はぁ……、完成品とはとてもぉ……言い難い、なぁ……」

 声ですら、別人。まだ活気のある壮年とは程遠い、しゃがれて、くぐもった老人の声。

「説明をしてあげよぉうじゃないか。何が起こったのか教えないのはフェアじゃないからなぁ? せめてものハンデだ……コレ、この注射機に入れてあったものは、私がこの四年……ずっと研究して研究して、ようやく被験者の脳から抽出したものだ……」

 化物と変わり果てた室長は、嬉しそうに続ける。

「リトルプレイヤーに出来るのは、子供だけだ……そうでないと、良い能力を発現できねぇどころか、ナノマシンに細胞を食いつくされて廃人になってしまう。これは五人かな? 十人かな? それぐらいつぎ込んで、全員――死んでしまったよ! 愉快だろ? ハハハッ!」

「なっ! 平然と、人を殺したって言うのかよ! その研究とやらに!」

 俺の言葉にも、意を介する素振りを見せない。

「別にお前とて人の事を言えまい。既に忘れ去った昔、十や二十では足らない数を無にせしめてきただろう。それがたった数えられるほど、問題無いさ」

「そっそれは――」

「私に言いつけられたからだって? ふん、何とでも言うがいい。とにかく、その成果がコレだ」

 悠然と、血の色に染まった片腕を掲げた。

「見ての通り成人した私でも、こうしてリトルプレイヤーの能力を得ることができる。もっとも、実際に自分で使うのは初めてだがな。なるほど、超人的なパワーを手に入れた人間の気持ちが分かった気がするよ。腹の立つ奴、立場上死んでほしい人間、あるいはライバル……それらが、非力な私であっても実力的に上回ることを可能にできる――さしずめ、付加型のリトルプレイヤーと言うべきかな?」

 つまり室長は、あの注射機は、打つことでリトルプレイヤーと類似した性質を帯びることができ、そして今……俺やシュカと同等の力を扱えるようになった、そう言いたいのか。

「まぁ、そんなところだ。さて――私の研究成果をご覧に頂いたところで、そろそろ始めようか」

 室長が破れて地面に転がった白衣を隅に蹴飛ばし(その白衣が飛んだ距離が既に常軌を逸していた)、一歩前に踏み出した。どうやらフランは見ているだけで、室長に続く様子は無い。……というより、少し怯えている?

「シュカ、シュカは離れててくれ」

 少し前はすぐにでも御せそうなくらいの非力な人間でしかなかったが、今目の前に居るのは未知の力を持った敵。消耗しているシュカを、危険な目には合わせたくなかった。ところが、

「わ、私も戦える、から」

 袖を掴んでそう訴えかけてくる。

「無理だ……そんな体じゃ。ただでさえ『対価』を使いすぎてる。もし危険になったら俺を置いて逃げてもいい。大丈夫、俺が守るから」

「でも……」

「俺が信じられないか?」

 目をじっと見た。

「……っ、な、なんでそんなに自信たっぷり……し、信じてるけど!」

「そうか。なら分かってくれるよな」

「……死んだら地獄まで追い掛けてやるんだから」

 はは、そりゃ怖いや。

「気を付けてね。あいつ、本当に何してくるか分からないから。例え私が一人でやれてても、今のあいつに渡り合えるか分かんないくらい……それぐらいの気がするの」

「おう、守りたいものがあるからな。今度は――負けない」

「――おしゃべりは終わったか?」

 鉤爪のように長くなった指先をこちらに向けながら室長が言ってきた。

「ああ。続きはお前を倒してからだってな!」

 つがいの相棒を腰から抜いた。それが戦闘開始の合図になる。

 唐突な踏み込み。太さも長さも巨大化した腕が上から叩きつけられる。どれぐらいの力があるのかは分からない。様子見を兼ねて、まずは後方に回避。空振りした腕は床を打った。その直後。

「んな!?」

 石材で出来ている筈……少なくともそれなりに丈夫に作ってあるはずの緑色の床。それがたった、巨大化したとはいえただの素手1発で、すぐそこに大砲を撃ち込んだかの如く、抉れた穴が出来あがっていた。

「はは。驚いたか? これが私の得た能力、『破壊(キリン)殺戮(グ・マ)機構(シーン)』さ。お前に持たせた『風楼』なんかよりも随分と直線的だが、これを実験的に扱わせてみれば非常に使いやすそうでね。その名の通り、どんな標的でも破壊する力を与える。すなわち相手が十の硬さを持ってようが百の硬さを持ってようが、触れたものが壊れる以上の力で壊す。例え、石や宝石でも……な」

 なんて、能力だよ……っ!

 続いて横殴りに腕を振り回しながら俺に突っ込んでくる。今の話が本当なら、かち合うのは愚策だ。避け続けなければならない。

 だがそこまで脅威的だとは思わなかったのは、室長自身の動くスピードが、そんなに速くは無いということだ。むしろ体がデカくなっている分だけ軌道を読みやすく、かつ遅い。これならまださっきのシュカの方が相手にするには辛かった。

 とは言いつつも、こっちだって効果的な攻撃方法があるわけじゃない。相手のリーチが長いせいで懐に入れないし、相打ちではこっちがやられるのだから。

 それに風楼を起動しようとしても、やはり閉ざされた室内。セトナさんに習った時のように、屋外で自由に集められるのに対し、ここでは俺の呼びかけに集ってくれる風自体が少ない。間接的に攻撃手段として使うには、心許なさすぎた。

「どうしたどうした! 避けるばかりでは勝てないぞ?」

「ちっ――」

 そうは言っても当たれば終わりの攻撃を避けるので精いっぱい。攻撃し疲れて動きが鈍りでもすれば勝機も見えそうだったが――

「そら! そら!」

 目の前を次々と巨大なジャブが通り過ぎる。それをただ避ける。バックステップ。後方に壁。左に回避。壁に腕が直撃。穴が開き、無残にも崩壊した壁の瓦礫がガラガラと音を立てて落ちる。

 何度もそれを繰り返し、それでも室長の動きに衰えは見られない。逆に俺は息が切れてきて、少しずつ回避の度に、顔に感じる風が強くなってきた。それだけギリギリになってきているということだ。

 同じことをやっていれば確実に体力が尽きて、やがて捉えられる。こちらから何かしかけなければ、と思ったところで室長の振り回す腕がピタリと止まった。

「うーむ。やはりこれだけではそれほど力を得られない、か……たかだか小蠅一匹、仕留めるのに時間が掛かるとは」

 自分の腕を見つめながら、憎しみのこもった声でそんなことを呟く。そして、

「フラン。追加だ、持ってこい」

 遠くで見ていたフランに――先ほどの注射機だろうか、それを要求した。

「えっえっ、残りも打つんですか……?」

「それ以外に何がある。それとも、お前もやってみるか?」

 ふるふる、と首を振ってフランは室長の元に駆けていく。手元に持っていた残りを全部……室長に渡した。

 その全部の栓が、乱暴に抜かれては地面に落ちて行く。その様子を俺は戦慄しながらただ、見つめていた。――見てくれだけは隙だらけ。視線は俺よりも注射機に注がれているし、今踏み込めば、簡単に間合いに飛びこめる。実際、さっきまで手が出なかったことを考えれば唯一無二のチャンスに思える。しかし……その巨体が纏う不穏な圧力、ヘタに手が出せない。

 そうしているうち、器用に指の間に挟まれた針を、まとめて一気に……同じ場所、首筋へ突き刺した!

「――うっ、ぐっはぁああああ……、来たぁ……ははははぁ、来た来たぞぉ……。これが、私のっ、チカラ! 溢れるまでの、私が手にしたっ、チカラがぁ!」

 大きく体を震わせ、咆哮。後ずさりする俺の元に、薬品が押し込まれて空になった注射機の残骸が転がってくる。それから起きることはもう予想できていた。予想できていても、

「なんだよ、これ……」

 そう漏らすしかなかった。

 ただでさえ巨大化していた腕に脚。みるみるうちに、さらに太さも、長さも大きくなっていく。それと共に、変化していなかった胴と顔まで……空気を詰め込んだ風船のように丸みを帯びながら膨らみ、そして手足と同じく、紫に色を変え、浮き出した血管から、赤ではなく紫色になった液体が次々と飛び出しては輪郭を濡らす。眼球は膨らんだ顔に陥没してしまってほとんど見えなくなった。口鼻は縦に捻じれ、入学前の幼児が自分の両親を似顔絵に書いたものでさえ、まだマシなくらい原形を留めることができていなかった。

 髪は海の生物の持つ触手みたく自在にダンスを踊り、全身のバランスは生物として崩壊している。比喩無くして、まさに化物と、そう呼ぶにふさわしくなった瞬間だった。

「ぐぉぉおおおっ!」また咆哮、と同時に広げられる、腕だったもの。

 耳障りな、木造の建築物を無理やり壊すような音を立て、胸から、腕から、膝から――白い尖った棒がいくつも飛び出した。骨、だろうか。

 生唾が飲み込めない。心臓が飛び出しそうになるのを、実際にそうなるわけでもないのに手で押さえこみたくなる。絶叫したい、でも逃げるわけにはいかない。すぐ傍にはシュカが居るのだ。

「どうだ……驚いたか? なんだ、やけに小さく見えるな。これほどまでにちっぽけな、ははは! まるでゴミのようだな!」

 化物が俺を見下ろす。身の丈は膨張し、三メートルに到達している。かろうじて、睨みつけられる眼球が顔に陥没しているから、その威圧感を受けることはないけれど。

 ずしん、と一歩踏み込むたび、床が沈む。地響きが轟く。

「はっ――、そんなにでかい図体、どうせ攻撃も……」

 鈍いんだろ、と言いかけて、言えなかった。

 目に止まらぬ速さで、十分に離れていたはずなのに距離を詰められ、なお長くなったリーチでの攻撃。間一髪のところで横に回避したが、さっきまで立っていた所には深々と、爪のようなものが突き刺さっていた。

「で、攻撃がなんだって?」

 縦に捻じられた口が僅かに横に伸びる。恐らく本人は笑っているつもりなのだろう。

「ちっ……」

 これは、まずいぞ……。

 ただでさえ防戦一方だった展開に、さらなるリーチの強化と、速度の上昇。避けに徹すれば一発、いや二発防げるかどうか――

「ぬわっ!?」

 追撃も速い。顔の前を巨大な腕でのフックが通り過ぎ、前髪が数本飛んで行った。……注射を追加する前とは段違い。このままでは、避けられない!

 向こうがスピードを上げたのなら、こちらも上げるしかない。僅かな風楼を自分の足と床の間に挟んで少しだけ浮かせ、これならまだ……。

「残念ながら、この圧倒的な戦力差、お前の微々たる力では無理だ」

「な……」

 目の前で右から左に、巨体が横切った。いや、見えたのは自分の目が付いて行かなかった故の残像で、瞬きしたその僅かな間で、フックを放ったばかりで右に流れていた体が、左に逃げようとした俺のすぐ前に現れていた。

 さらに間もなく、視界が紫に埋まる。体当たりか拳を突き出したのか、何かは分からないが攻撃が来たことだけは分かった。咄嗟にスラッシャーを交差して顔を守るのが精いっぱいだった。

 頭の中身ごと揺れる衝撃が、その次の瞬間にやってきた。

 金属の鳴き声を同時に聞いた。

 宙を舞っていた。紫の頭より上に飛んでいた。

「ぐ、ぁ……っ」

 背中から叩きつけられ、肺の中の空気は全て押し出された。骨の軋む音。筋のひき千切れる音。全身が雷に打たれたように、一瞬で一気に痛みがほとばしった。

 遅れてカランカランと、虚しく床の上を跳ねやがて伏す、鉄の音。

 視界のすぐ横にあったその発生源は、今両手に持っているものの先っぽだった。

 ずっと振り続けた愛剣。その対。両方が……あの攻撃でポッキリと折れ、転がっていた。手元にはもう、柄の部分しか残っていない。かつて鍛冶屋に無理を言って限界まで硬く、しかし細く作ってもらった、折れることに対しては相当強かったはずのこいつが、無残に散った。

「終わりだな――死ね」

 直進してくる巨体。飛び跳ねる。両手の握りこぶし。頭の上で作られ、巨体と共に落ちてきた。とてつもない質量が、倒れた俺に向けて殺意をぶつけてくるのが分かった。

 ああ、ごめん。

 シュカ……俺はまた、君の盾にはなれずに、

 ダァン!

 金色の光が飛び散った。意識が朦朧としていたから、天に誘われる光かと、そう思った。

 しかし現実では、俺はまだ死んでいなかった。何かと何かが激しくぶつかった、それが顔のすぐ近くで感じられた。

 なんだ、何が起きた……?

 痛む体の文句を無視して、がばりと立ち上がる。そこには、

「良かった、間に合ったね――フラウ、兄ぃ」

「フラン?」

 光に見えたそれは、フランの輝く金髪だった。

 だがそれはそれとして、思考回路がまったく整理されない。

 何故、室長に味方していたはずのフランが、俺の前に居る?

 そして何故、フランの背中から、紫色の腕が生えているのか?

 その疑問に答えが出たのは……フランが口から大量の赤い液体を吐き出し、俺の足元に、ぐしゃりと音を立てて崩れ落ちた、その姿を見た後だった。

「フランッ!」

「おっと……何故君がしゃしゃり出てくるんだろうねぇ……? まぁ、邪魔をしてくれた結果がこれだから何も言わないがね。みみったらしくそこで死んでいるといい」

「お前は……っ! お前はぁあああああ!」

 自分を慕っている部下を自分の手に掛けても、何とも思わないのか!?

「うるせぇなぁ……どうせお前もこれから死ぬんだよ。それがちょっと遅れただけさ……やれやれ、血で汚れてしまったじゃないか」

 まるで一寸の虫を踏んでしまった子供のように嗤っていた。

 血が沸いてくるようだ。

 目前の巨体に今すぐこの怒気を叩きつけてやりたい。狂ったように、こいつをこいつをこいつを――ぶっ殺してやる! その想いが頭から足の先まで巡っては俺を支配した。

「なんだ? 今更そんな目つきで睨んだってムダだって、まだ理解してないのか。自分の手元を良く見ろ? その短い棒きれで何が出来る? クッハハハ! 最高だな! その怒りをぶつけることもできずにさぁ――惨めに死ねぇ!」

 容赦なくフランを討った攻撃と同じ、握りこぶしが頭上から降る。ただ怒りのせいで自分の何かが変わったのか、スローモーションに見える。こんなの、避けられないわけがない。

 目標を失った紫色のこぶしは床を打った。破壊され、飛び散った破片が俺にも降り注ぐ。武器も無く、能力の限定された条件。しかも相手は絶大な攻撃力を兼ね備えている。そんな中、昔の同僚を目の前で傷つけられた俺に、その飛び散る瓦礫がヒントを教えてくれた。

 ――床は、室長の『破壊殺戮機構』と言ったか。それによって、施設の立っている地表だろう……それが見えるにまで壊されている。言われた通り、本当に目標を物理的に破壊するようだ。

 ただ、床が破壊される度に俺は、自分の風楼がほんのわずかだが、多くなってきている。そう感じていた。理由は簡単で、施設の底面が壊され、徐々に外界との隔たりが少なくなって来ているのだ。もしこのまま風楼が増えて行けば、勝機は必ずある。

「どこを攻撃してるんだ? 俺はここだ」

「フン――言われなくても分かっている、ぞっ!」

 間一髪、ギリギリまで引き付けたところで、かわす。猛烈な風が髪を揺らした。

「ちぃぃぃいっ!」

 大ぶりの連打。右から、左から。使える風楼が床の破壊で増えたことで、敵の軌道も読みやすく、避けるタイミングも分かってきた。分からないように、あの紫色の腕に微かな風楼を纏わりつかせた。どんなにフェイクを入れてきたところで、事前に知れている攻撃が当たるはずもない。

 それをあたかもスレスレで回避しているかのように、バックステップに次ぐバックステップ。ふと視線を横に逸らすと、シュカが両手を握りしめてこちらを見ていた。心配するな、もうすぐ――こいつを倒す。

 やがて俺の背中が、ぴったりと壁にくっつく。後ろにはもう、逃げられない。

「はーっ、は、ようやく追い詰めたぞ……? もう逃げ場はない、当然横に避けることも無理だ。両手で、お前をサンドにしてやるからなぁ……!」

 ぐぐ、と大きく両腕が開かれた。その射程範囲の真ん中に、俺は居る。

「言い残したことはあるか?」

 縦割れの口が歪んだ。

「さぁ。それはアンタの方じゃないのか?」

「命が惜しくないようだ――今度こそ、死ね!」

 両側から壁が迫って来る感覚ってのはこういうもんだろう、と思った。そう思索するだけの余裕があった。巨大な腕は俺をターゲットに迫ってくる。

 後ろは無い。前も無い。横も無い。

 だが、上はある!

 なけなしの風楼を使い、自分の体を高く弾き上げた。量が足りるかどうかそれだけが不安だったけれど、床を余計に破壊しまくってくれたおかげで大丈夫だったようだ。

 地面に向いている室長の頭を超え、背中の後ろへ。

 攻撃手段があるわけじゃない。だから背後を取っても、倒せるわけではない。もっとも、俺の狙いは最初からそんなところには無かったからどうでもいいことだ。

 一方、またもターゲットを失った室長の両腕は何もない空中を通り抜け……そして、俺の後ろにあった、床と同じ色をした壁を、勢いのまま叩いた。

 ゴシャア、と一瞬だけ壁の方が抵抗して、直後。けたたましい轟音が、施設の中に響き渡った。みるみるうちに壁が瓦解していく。瓦礫となった壁は、室長の頭にいくつかぶつかる。

「ぬぉ、おおおう?」

 室長が頭を手で押さえながら、こちらを振り向く。表情は依然として顔が潰れているので伺えなかったが、驚愕に近いものであるということは分かった。

「お前、まだ――」

「残念だけど、父さん。アンタの負けだ」

 壁が壊れた。

 それはつまり、施設と外界とを、大きく隔絶していたものが無くなった、ということだ。

 風楼が俺に寄って来る。外から舞いこんできた、風の妖精が踊る。

 目には見えない、けれど俺だけのチカラ。

 その力を、右手へ。

 武器は折れた。だが今は、風の作る剣がある。

「何を、するつもり……」

「これで、終わりだ!」

 室長の巨体に、右手に形作った風の剣を向ける。腕を軸に轟々とした空気の流れが、天に昇る竜の如く、集まっていた。

 だがしばらく経って、想定外のことが起きた。俺にだけ感じられる、右手へと集めたはずの風楼が、突然ばらけ始め、収束させるのにうまくいかない。それと同時に鈍痛が頭を浸食していく。まるで脳が虫に食われて行っている、そんな感覚。まさかそんな、ここで対価が……。

 焦った。あともう少しというところで風楼が集まらない。

 その時、後ろからぎゅっ、と抱きつかれた。頬にさらさらとした銀色が触れたのが分かる。シュカだ。

「私……が……」

 声が震えていた。こんな短時間で、シュカの状態が回復するはずもない。喋るのも相当無理をしているように思えた。しかも、

「私が一瞬だけ……フラウの能力を留めるから。合図したら、あいつをやって」

 なんてことを言う。

 確かに俺の意思に関わらず、シュカならどんな物質であれ、その瞬間を制することができる。風楼にもそれは有効なはずだが、当然シュカの負担になる。本当なら避けたかったが、俺は……シュカを信じることにした。

「分かった……頼む」

 こく、と頷きのみが返ってくる。目の前の室長はしかしそんな俺達を見て、

「なんだぁ? お前が急に何かをやってくるかと思いきや、やっぱり見かけ倒しか、ハハハ! 驚いただけ損をしてしまった――丁度いい、二人まとめて死んでもらおう!」

 素早く態勢を立て直すと体ごと突っ込んできた。押し潰すつもりか――シュカからの合図はまだ来ない。

 ぶくぶくに膨らんだ腹がすぐそこまで迫って、その巨体がジャンプした。頭上から家がまるごと落ちてきたようなそれは、確実に俺達へと近づき……、

「今よ!」

 本当に、目と鼻の先に腹の先が着いてしまうんじゃないか、というような寸前。シュカの声、そして風楼達のざわつきが、止まった。

「おらぁああああああああああ!」

 横に一閃。

「ぐ、ぁ、ぁあああああああああ…………」

 腕に纏った風の剣であり激流の渦であり荒れ狂う竜になった、風楼。

 それによって、視界いっぱいに迫った紫色の物体が切り裂かれる時、そこから聞こえた断末魔の叫びと共に、ひとえに大きくなった頭痛、白黒に明滅する視界の裏で、俺は幻覚のようなものを見ていた。

 真ん中から切れ目ができ、腹が両断されたその後ろ。壊れた壁が見えるはずなのに――

 少年と少女が、手を繋いでお互いに笑いあいながら、遠くへ遠くへと走っている。

 その途中、ふと二人が立ち止まり、俺の方を向いた。少年が口を開く。

 だが、無音。口の動きだけで、何度も同じことを言っているのは分かる。

「『かこをふり』『かえ』、『る』『な』?」

 かこをふりかえるな。

 過去を、振り返るな……?

 何を、何の事を指して幻覚の少年がそう言ったのかは分からない。それきり、また二人はしっかりと手を離さないように、影を薄めていって……やがて、見えなくなってしまった。

 直後に、ドシン!

 大きなものが、壁を壊した時に落ちてきた瓦礫よりも大きなものが、地に伏した音だった。


 *


 瞬間と風の妖精にその存在を切り裂かれ、人間としての体を失った化物……いや、『室長』だったものが、地面に倒れ伏す。それを暫く、荒くれ立った息を整えるように俺達二人は見ていた。

「終わった……のか?」

「そう、みたいだけど」

 動いていた時もおびただしい、元が人間だったとは思えない姿をしていたが、事切れた今の姿は……ただ悲しい、自ら狂って人を狂わせ、そして最後にその狂いをもたらした悪魔によって生の運命を断ち切られた化物そのもの。

 全身から生の人間では有り得ない青みの掛かった色をした液体を吹き出し、ありとあらゆる体のパーツは、ヒトという動物を設計される際に考え出された限界をゆうに突破した自らの力で細胞から崩壊、何も知らない人間がこれを未知の生物と言われたらほぼ全員が信じ込むだろう。それぐらい、ぶくぶくと奇妙に膨れ原形を留めていないものだ。もちろん、その原因の幾ばくかに、俺のもたらしたものはあるのだろうけど。

 残滓。

 俺が壊した、施設の壁から漏れだして室長だったものの顔を照らす光は、決して彼をあまねく安息の地に連れて行ってくれるような優しい光ではない。気化した変な紫色の煙、辺りに撒かれた血のおびただしさ、それらと合わさり……まるで、地獄だ。

 ずる、と肩に感じていた圧力が滑り落ちる。慌てて支えた。

「お、おいシュカ! 大丈夫か……っ」

 かなりの量の薬品を接種させられていたはずだし、俺と戦っていた時間は相当長かった。意識が持っているのが奇跡かもしれない。ところが、シュカは自分の身を案じるでもなく、

「わた、しは平気……。眠ってる間に、力を使いすぎただけだしちょっと休めば――それよりも、あの子を先に……」

 床に倒れ込みながら指をさす。そこには赤い液体に髪を濡らしながら力無く仰向けに倒れ、微かに手をぴくぴくと痙攣させているフランの姿があった。シュカは自力で床に横になると、俺にあっちに行ってあげて、と言いたげに指先を振る。どちらのことも心配だが、シュカがそう言うのならと、倒れるもう一つの影に駆け寄った。

「フラン! まだ息があるのか? 良かった、俺はてっきりやられたんだと……」

 背中に手を回し、倒れた体を支えるとすぐに、ぬめっとした嫌な感触が手のひら全体に広がった。腹から貫通して背中まで到達していた傷口は、生死に関わることは間違いない量の液体を零して、フランの体を濡らしていた。

 俺に気付いたのか、焦点の合わない瞳を開き呟く。

「フラウ……兄、ぃ」

「喋らなくていい。体を楽にしてろ――とりあえず治療、を」

 だが、ここは森林の生い茂る奥の施設……一番近くにある騎士学校ですら、医務室はあれどこんな大けがをどうにかできるものじゃない。当然、この場所も、恐らくは研究の為の施設で、とにかくフランを助けるには、森林を抜けられる移動手段が必要だが……ああもう、どうすりゃいいんだ。

 ここに居てもどうしようもない、何か動かないと、と思って外に出ようとしたその時、力の無い、添えられたのと勘違いするくらいの力で腕が握られた。

「だめ、フラウ兄ぃ……。ここに、いて」

「だってお前……それじゃ、その怪我じゃ長くここに居るのは」

「もう、いいの」

 弱々しい、しかしはっきりとする声だった。

「もういいって……このままだと死ぬんだぞ!? それでもいいのか!?」

「うん。多分もう……無理だから」

 全てを悟ったように、顔つきに恐怖は見られない。しかし震える手はそれを隠し切れてはいなかった。未だ噴き出して止まらない鮮血は、フランに刻一刻と『死』という一文字が迫っているのを理解せずにはいられない。

「馬鹿野郎、最初っから諦めてどうすんだよ! ……絶対俺が助けるからな。俺はシュカもフランも見捨てない……俺の為に誰かが死ぬのはもう嫌なんだよ!」

 絶対に誰も失わない。そう決めてここに来たんだから。例え大将に与していたとしても、その実情は、裏で室長が操っていたことに他ならないし、そうでなくても俺がフランを放っておくことは考えられないんだ。

「シュカちゃんも私も、か……。そういえば結局、フラウ兄ぃには最後まで振り向いては貰えなかったね。ずっとずっと、好きだったんだけど。だからマスターにフラウ兄ぃが殺されちゃう、って思ったらもう、体が先に飛びだしちゃった。でもでも、フランなんかの命で大好きなフラウ兄ぃが生きてるならフランは幸せ。シュカちゃんには負けちゃったけどね」

「フラン……」

「いいの。そんな顔しないで、フラウ兄ぃに二股なんて器用なこと、できるわけないもん。……でも、目の前であんなこと宣言してくれたんだから、シュカちゃんをちゃんと幸せにしてあげないとだめだよ? 私が浮かばれなくなるから」

 フランの目が少しずつ虚ろなものになっていく。もしかしたら、もう意識もはっきりしていないのかもしれなかった。

「フラン、フラン! しっかりしろ、目を閉じちゃだめだ!」

「――フラウ兄ぃ、最後に……一つだけお願い、してもいいかな?」

「最後とか言うな、なんでもお願いなんて聞いてやるから! な、待ってろ。今すぐ騎士学校に行って誰かに連絡すれば、大きな病院から駆けつけてもらえるかもしれない」

 立ち上がり、壊れた扉へ向かおうとした。かなり絶望的な賭けではあるが、ここで何もせずに手をこまねいているよりは、百倍も千倍もましだと。

 しかし、不意に足を掴まれ、歩みが止まる。

「行っちゃやだ!」

 掴んでいたのは他でもない、フランのか細い腕だった。ただでさえそんなに力があるとも思えない、ましてや弱っているフランの腕を振り切ることは簡単だったが……。

「行っちゃ、やだよ……フラウ兄ぃ。怖いよ、一人じゃ死にたくない……だからお願い。ねぇ、ここに居て」

「…………っ」

 そんな、そんな顔をされたら……どこにも行けなくなるじゃないか。

「フランの最後のお願いだよ。あのね、今度は照れ隠しとか無しで――ちゃんと、あの卒業式の日の続き、してほしいよ。……フラウ兄ぃが言ったんだから、忘れてなんてないよね」

「ああ……覚えてるさ」

 俺が大将から赤紙を受け取り、早くして卒業を果たしたあの日。フランは別れを惜しみ、俺にキスをせがんだ。結局、フランの想いに答えることはできず、誤魔化しで済ませたけれど。

「……お願い」

 フランの顔色はもう、血色が薄くなってきている。声は擦れて、すぐに空気に散って消えてしまいそうなぐらい、儚かった。

「分かったよ。――目は瞑ってもいいけど、そのまま死ぬなんて許さないからな。すぐに病院に運んでやる」

「うんっ」

 フランが軽く目を瞑った。整った白い肌に穢れの無い、咲き始めたチューリップのような唇。まるで死の淵に居る顔とは思えない……その顔を負担の無いように少しだけ上を向かせて……そして、ゆっくりと。今度は誤魔化しなんかしない、ちゃんとした口づけを。

 何秒経ったかは分からない。

 ただ――俺が唇を離すより前に、フランの方から唇を、離してきた。

「……フラン?」

 反応が無い。唇を離したと言うより、顔から力感が失われ、その分首が下がったのだ。

 ピンク色をしていた唇。徐々にその赤みが失われていく。なんだか、急にフランの体が重くなったような……。

「おい、フラン。嘘だろ……? 返事をしてくれ! フラン! フラン!」

 頭をゆすっても、頬を叩いても、閉じられた瞳が開くことは無い。返事も当然、返ってはこない。

 カチャン。

 絶望感で力が一気に抜け、垂れ下がった腕の下で、何かが音を立てた。

 その下には……あの日フランが自分で買った、俺とお揃いのペアリング。フランがどこかに鎖を付けて持っていたらしいそれの金属部分と、俺の腕当てがぶつかった音だった。

「フラン……っ」

 顔を見る。妙に安らかな表情を浮かべていた。ただ眠っていてすぐにも起き出しそうな、幸せな夢を見ているだけのような、顔をしていた――。























 エピローグ




「――キリア。この細胞……おかしな分裂をしていないか?」

「なぁにあなた。ちょっと見せてみて…………あら、本当ね。染色体がバラバラに崩れてるのにちゃんと正規分裂してるわ。何加えたの?」

「いや……ただ国の連中が押しつけてきた研究サンプルとやらの成分分析をする為に塩酸と……あと何を入れたっけ……」

「えいっ」

「こ、こらこらなんで頭を叩くんだ?」

「研究者たるもの――」

「メモ癖は付けろ、だろ。いつも聞いているよ……、思い出した、確か7,7スチレンとシアル酸だ。本当に試しに入れてみただけなんだよ」

「ふぅん。まぁ、面白いことが分かったら教えてよ。あたし、次の論文発表があるからさ。そろそろ行かないと」

「おいおい、ちょっとは寝なくてもいいのか?」

「大丈夫、帰ったら寝るわ。そいじゃ!」

 今からおよそ二十年ほど遡った、国の研究機関の一室。

 小さいスペースで、高価な機械も無い。

 決して恵まれない環境。そんな場所で、私――ラインハルトと室長、その妻キリア、そして助手のシルヴィの四人は政府直下の組織員として、日々研究を続けていた。

「なんだ……キリアさんは相変わらず忙しそうだな。新婚して早々に休み無く働くなんて、君達らしいと言えば君達らしいのだが……」

「放っておきましょうよ先輩。二人とも仕事人間なんですし」

「そうもいかん。二人が倒れた時いっつも病院に担ぎこむのは私の仕事だ。一人一人ならまだしも、二人一緒に運ぶのはいくら私でも無理がある」

「でも、その無駄についた筋肉、使うのってそれくらいじゃないですかー」

「ム。……まぁ、確かに一理はあるが、だがな、肉体というものは――」

「ハルト、ちょっと手伝ってくれ。シルヴィも。こいつの増殖スピードが意外と早い、すぐにデータを取らないといけないかもしれない」

「はいはーい」「……分かった」


 国にその地位を認められることは中々無かったが、それでも私達の研究レベルは少人数ながら民衆の生活に直結するようになり、私自身、そして三人もそれがやりがいとなっていた。

 ところが、国のトップが内乱で入れ換わり、独裁勢力が力を増していった頃、研究室に対する軍事的な要望が大半を占めるようになってしまった。

 作るもの、調べるものは国民の為のものではなく、兵器にしか応用できないもの、あるいは兵器そのものであったり……研究室は徐々に疲弊していった。

 そしてそれから僅か半年後。

 室長は国にストライキを発表し、兵器開発に伴う研究を全て破棄した。私も他の二人もそれに倣って、国に従うことをやめた。

 それは私達にとって、悪夢の入口であった。

 室長は政治犯として拘束された。

 釈放された彼の頬は青く染まっていて、目の上には切られたような傷があった。

 私もシルヴィも参考人扱いされ、正当な研究者としての地位を剥奪された。

 勿論悪いことばかりではなかった。室長とキリアさんの間に男の子が生まれ、そして私にも、

「……あの、先輩」

「どうしたシルヴィ。こんな所に呼び出して」

「さっきまた警察が来てて……」

「何? あいつら懲りもせず――」

「先輩、聞いてください」

「……?」

「このままじゃ、私達も室長みたいになっちゃうんじゃないかって、思うんです」

「……だろうな」

「そしたら多分、また離れ離れになっちゃいますし。……そのっ、そうなったら、二度と会えなくなるかもしれないですしっ!」

「…………」

「あの、えーっと………………私と結婚して、ください…………」

 などという、人生初の告白を受け、私とシルヴィは結婚することになった。どうでもいいことだが、シルヴィは料理が下手だった。最初に出てきた黒い卵焼きの味は、私は一生忘れることができないだろう。

 どんな苦境があっても、決してめげない……時代が変わるまで耐え、そして必ずまた民衆のための研究者に戻ってみせると、誰もがそう思っていた。願っていた。


「……なんだ、やけに静かだな」

 隠れ家的に利用していた、地下の研究室に帰ると、いつも忙しなく動いているはずのキリアさんの姿が無い。彼女は底無しの明るさを持っている人間だったから、仕事をしていてもしていなくても、居るだけでこの場所は元気に溢れていた。そのはずだ。

「先輩……今、帰ったんですか」

 ところが居たのは、白衣を乱れさせ床に座り込んでいるシルヴィ……ただ一人だけだった。

 何かあった――それを直感で理解した私は、すぐにシルヴィの元に駆け寄った。その顔には、いつも強がりで皆に毒っぽい接し方をする姿は微塵も感じられず、目元を赤く腫らして幾重にも筋を作った涙の通り跡が強く残っていた。

「――っ!? 一体、何があったんだシルヴィ!」

「しつちょう、と……キリアせんぱいが…………けーさつ、に……私、止めようとしたけど……だめでした……」

 彼らが二回目の投獄を受けた。それはただの二回目ではなく、私達の行く末に大きな『杭』を打ちこんだ、そんなものだった。

 シルヴィと二人で、まだ乳飲み子のフラウの面倒を見ながら彼らの帰りを待ち、そして室長はほどなくして戻ることができた。室長だけ、は。

「あいつら……っ! キリアを人質に取って俺達に非道な研究を持ちかけてきやがったんだ……! まだキリアは囚われたままだ……」

「だが、私達は」

「ああ。要求は呑まない……それはあいつも分かってる」

「じゃあどうするんですか?」

「……戦争さ。研究者の力、思い知らせてやる」

 

 思えば最初から勝てる見込みなど無かった。しかし私達の信念と大事な仲間を取り戻す為には、やらねばならないことでもあった。

 今まで禁忌としていた生物兵器に室長は手を出し、私達も手伝った。

 結果、国に一矢報いることはできたが、室長は逮捕された。


 そして……見せしめに、キリアさんは処刑された。


「許さない。絶対に――あいつらを。キリアを奪った奴らを、俺は許さない!」

 彼は狂った。


「はは、ははは……! ついに、ついに完成したぞ! ……まさかあの超分裂をする細胞が、こんな成果をもたらしてくれるなんて……ああ、キリア……これで君の無念を晴らしてあげられる!」

 私は室長がおかしくなってしまった後も、何故か自分の信念に反して、彼の実験を手伝い続けた――『どんな兵器よりも強く、簡単に量産できる人物兵器』を作るために。


 彼が名付けた『超分裂脳細胞』……人間の脳より遥か、数億倍の分裂性能をもつもの。単体だけ見れば、ただの研究者の一発明にすぎない。あくまでも単体であれば――。


「やめろ! 何をしているんだ! 君の目の前に寝ているのは……自分の息子だぞ!」

 超分裂脳細胞、それを……未熟な子供の脳内へ。

「フラウだって理解してくれているさ……自分の母親の為になるのなら、なぁ……」

「馬鹿げてる! 今すぐこんな被人道的なことはやめろ! キリアさんは確かに無念だった、だが……今君が守るべきは、この……キリアさんが残して行った、子供だろう!」

「ハルト……俺に、反対なのか……? お前まで、キリアを裏切るのかっ……!? そうかそうか、所詮その程度の人間だったんだな……そんな奴、もういらないよ」

 私は、彼を止めることはできなかった。


 数ヵ月後、国のトップと幹部連中が殺された。軍部政権は崩れ、圧政が終わったのだ。

 殺したのは、一人のまだ小さな少年。

 少年は風のように忍び込み、そしてまた――切り刻んだ。最初の『リトルプレイヤー』だった。


 彼の野望は留まるところを知らなかった。

 スラムに溢れる孤児を攫っては、リトルプレイヤーへと、『改造』する。

 彼の存在と彼が作った『機関』は、彼がトップとなって動く、リトルプレイヤーを作る組織となって、国に大きな影響を及ぼす影になった。


「おい……もうやめてくれ。人間が他人をこんな風に……あっていいはずがない……。まるで兵器みたいに使って、昔の君は何処に行ってしまったんだよ……?」

「うるさいなぁ。俺は力を手に入れたんだ……百以上居る、リトルプレイヤー達! 全員が、素晴らしい能力を秘めている。道端で寝転んでいる、石ころよりも価値の無い肉塊が、この世界でどんな兵器よりも価値のあるものになるんだ、俺はまさしく……錬金術師のような存在だと、そうは思わないか?」

「貴様……命を、尊きものをそんな軽々しくっ!」

「だったらどうする?」

「――貴様を殺す。私が武闘訓練を積んでいることは同じ学校だった貴様も知っているだろう。鈍ってなぞはいない……今ここで、貴様を止め……ぐっ!」

「残念だよハルト。俺の力を軽く見過ぎていたようだね……護衛のリトルプレイヤーだって居るのに、そう易々と俺に触れられると思ってもらっては困る。だが、今のは重大な反逆だ、君には罰を与えないといけないな――そうだ、確かシルヴィ、去年女の子出産したんだって? フラン……だっけ? 1歳は試したことないんだよねぇ」

「まさか……おい、やめろぉ!」

「――連れてこい。邪魔があったら殺して構わん」

「やめろ! シルヴィ! フラン!」


 私は自らを責めた。

 彼を放っておけば……少なくとも愛する妻を亡くすことも、娘を奪われることもなかった。彼は私に、なおも追い打ちをかけた。

「君がもう一度俺の元で助けてくれると約束してくれるなら……フランの命までは取らないさ、どうだい? 娘と暮らしたいだろう?」


 私は……強大になった室長の力をバックにした騎士団を組織した。

 国に認めさせるため、表向きは社会問題と化していた『野良リトルプレイヤー』の捕獲を目的とした。中身は、暴走したり、使いものにならなくなったりしたリトルプレイヤーの処分が、彼から下される本来の目的だったのだ。

 だが、そんな表向き英雄とする騎士団の姿を、民衆は支持する。金は最終的に室長に集まり、リトルプレイヤー計画を加速させた。彼の最終目標は、自分自身がリトルプレイヤーとなって国を支配する……そんな愚かなものに変化していった。


 そんな日々が過ぎたある時、彼の計画にイレギュラーが起きた。

 傀儡のように室長に従っていた息子・フラウが、彼を裏切って護衛のリトルプレイヤーに負け、機関を離脱した。フラウは冷たい湖の底に身を投げたが、私はフラウを助けることにした。

 目を覚ましたフラウが、一切の記憶を失っていて……その瞬間、私の計画は始動した。

 フラウが騎士団に定着できるように、嘘の記憶を植え付け、そしてフラウは成長する。

 同時期に、フラウが執心していたリトルプレイヤーの脱走をも手助けした。そのために実の娘であるフランをも、作戦に利用した。最終目的は娘自身の心をも、取り戻すことだと自分に言い聞かせて――思えば私も室長と同じように狂っていたのだろう。


 私はただの人間でリトルプレイヤーには勝てない。それはどんなに訓練を積んだ肉体が心臓を鉄砲で撃ち抜かれただけで死んでしまうのと同義だ。

 しかし、リトルプレイヤーであれば、リトルプレイヤーに勝つ、ひいては、室長に勝つことができる。そしてほとんどのリトルプレイヤーが室長に従順であるのに対して、フラウと、シュカという名のリトルプレイヤーだけは違った。

 彼らを引きあわせ、室長を討つ。室長の計画を止め、娘を取り戻す……全てはそれだけのために騎士団を騙し、少年と少女を騙した、私の計画の内だった――。

 

 私は彼らに償いをしなければならない。

 フラウや、シュカだけではない。

 多くのリトルプレイヤー達を見殺しにして、利用してきた罪は洗い流せるほど簡単な上辺だけの汚れではない。自らの肉体に深く刀で刻まれた焼印だ。

 

 ……今、誓おう。

 今度は私こそが、この吹き荒れる世の中の嵐から、彼らを救いだすと。

 それが国に反逆し、人間という域を大きく逸脱したものを作りだしてしまった私達の、唯一の生き残りである者の、為すべきことである。



























 アフター・ザ・ワールド




 時が、経った……。

 

 大広間は、大勢の人間の喧騒で満ちていた。

 スーツを着込んだ紳士たちはグラスを手に深い赤色の液体を嗜み、女性は思い思いに着飾り、自分こそが次にこの場で祝されるのだ、と心を滾らせつつ談笑に励んでいる。

 テーブルには豪華な食事が用意されていて、煌びやかな灯りが広間に惜しみなく飾られていた。

 それは、一人の若い男女の、永遠の愛を契るための祝儀。復興をしたスラム街の、一番大きなチャペル風味の建物で催されていた。

 そんな中、主役であるうちの一人……シュカは、控室で大層機嫌を悪くしていた。

「あー……もう! あいつってばどこで何やってるのかしらっ!」

 狭い部屋を、右に左に行ったり来たり。

「まぁまぁ。主役は遅れてやってくるって言うじゃないですか。きっと緊張してらっしゃるんですよ。さぁ、まだ髪が出来てないんですから、座って」

 うー、と唸りつつも、今回の世話役を買って出たセトナに促されて、立ち鏡の前の椅子に腰かけた。

 鏡に映るのは、十六歳になってやや幼げな部分は残るものの、顔立ちは少女のものから、大人の女性の片鱗が見え隠れするほどになっている。

 ……ひょっとしたらそれは、着ている純白のウェディングドレスのせいかもしれないが。


 シュカとフラウがお互いに本当の意味で『再会』した日から、四年の歳月が経った。

 裏の顔が明らかになった騎士団は国の支えを失って解体され、代わりにラインハルトを頂点とした自衛軍が組織された。

 その日、正式に政府の高官として軍を指揮することになった元・大将は、驚くべき発表を、演説で行った。

 『リトルプレイヤーの解放』

 今まで騎士団により発表されてきたリトルプレイヤーの弾圧は、一人の男によって為された虚構であり、犠牲になった幼いリトルプレイヤー達には、何の罪も無いこと。

 そしてその脅威が倒されたこと。

 彼らは人間と何も中身の変わらない、同じ存在であること。


 政府は混乱を極めた。就任早々、彼を更迭せよという意見も絶えなかった。

 しかし国民にとってヒーローであったラインハルト、しかも自らの娘を人質に取られていたこともあってか――世論ではラインハルトを責める者は日に日に少なくなっていき、ついには法令化にまでこぎつけた。国民投票によってそれは正式に決まり、リトルプレイヤー達は住む場所を得たのだった。

 もちろん今でも偏見の目は消えてはいないが、ただ……このリトルプレイヤー同士の祝宴には、人間もそうでない者も関係なく集い、まさに新しい世界の象徴とも言えた。


「はい、終わりましたよ」

 セトナがシュカの後ろ髪を結い終わる。すると、不安そうにシュカは、鏡に映った自分を見ながら呟いた。

「ねぇセトナ……私って、今綺麗かな?」

「綺麗ですよ。とっても」

「そう……? 変じゃない、かな」

 鏡の前でくるりと回ると、粉雪のように華麗なドレスがふわりと舞い上がった。背中は開きが大きくなっていて、肌の露出は大人っぽさを醸し出している。胸元には、自身がリトルプレイヤーとなった時から持っている、ちゃんと修理までした銀色のロケットが下げられ、後は新郎……すなわち、新郎を待つのみだ。

 五分。

 十分。

 十五分。

 待てど待てど、待ち人は来ない。そのうち長針に穴が開いてしまうのではないかという具合に、控室隅に備え付けられた時計を睨みつける。

「もう、そんなに心配しなくても。まだ時間まで十分もありますよ?」

「だって……」

 彼女は、これまで三度、待った。

 一度目は、誰も味方が周りに居ない幼き時。探してくれたのが、小さな少年だった。

 二度目は、自らを失い、少年が自分の元から去った時。長かった。記憶さえ失った。

 三度目。再び狂人に連れ去られ、終わりを覚悟した。けれど彼はやってきた。

 だからこの四度目も。

 やってこないはずがない。

 しかし彼女が長い間待った時間があるのは確かだった。その間、孤独という不安に幾度となく押し潰されそうになった。それだけ、シュカはもう、孤独に待つことに対して弱くなってしまった。頼ることを知った枝木は、まだつぼみを付ける前に支え棒が無くなると半分は枯れてしまうのだ。

「う~……」

 被ったヴェールの内側から、ドアを睨みつけた。目尻に薄く、水珠を浮かべながら。

 と、そのとき。

 ドアの奥に、誰かの気配がした。

 変に慎ましい間が空いて、しかし勢いよくドアは開いた。

「悪い! 遅れた!」

 息を切らしながら控室に入ってきたのは、背の随分と高くなり、顔立ちからも昔のような少年っぽさの消えた、まさに精悍という言葉が似合う、好青年となったフラウだった。

 柔らかく暖かい風を身に纏ったフラウは、白に染まったシュカを一目みて驚いた顔をした後、ゆっくりと近づいて、ヴェールを捲った。

 その下では上目遣いにフラウを睨む、あのスラムで会った時のような目つきをしていた。だが、いくら睨んだところで、今にも零れそうになっている涙で台無しだった。

「……遅い」

「ごめんって。ちょっと、大事な用があってさ」

「すごく、すっごくすっごく、待ったんだから!」

「そ、そんなに怒らなくても……俺は、ちゃんと迎えに来ただろ?」

「むぅ……」

 今になって、姿を見られた恥ずかしさも半分加わり俯くと、

「あ、セトナさんも……」

「お久しぶりですね、フラウさん。お疲れ様でした、私達のために」

「いえ。びっくりしましたよ、シュカがこんなに綺麗になってて」

「そうでしょう? うふふ、一年間うるさかったんですよ。シュカは、フラウさんがもっと好きになってくれるような女の子にならなきゃって、毎日毎日」

「ちょっ!? それは言わない約束でしょー!」

「はは、は……でも、待たせて、悪かったよ」

 『再会』した次の日から、二人が一緒になれる……という甘い妄想を抱いていたシュカの幻想は、意外にも脆く崩れ去っていた。

 リトルプレイヤーが世間に復帰するため。

 ラインハルト一人では到底身に余る、世間への理解や実際に自分が被験体となるなど、大将の補佐として一日も休むことなくフラウは、政治の世界に身を投じていた。

 リトルプレイヤーの真実を知った悪徳研究者達が『リトルプレイヤー狩り』を行わないためにも、先陣を切って動き続けた。故に、彼らが顔を合わせるのもまた、一年ぶりだった。

「さぁ。主役が揃ったことですし、行きましょうか……皆、待ってます」


 *


 赤い絨毯の上を、紳士服と煌びやかなウェディングドレスが歩いてくる。二人の手は、切っても離れぬとばかりに、堅く結ばれている。

 祝宴は終わりに差しかかっていた。

 新郎新婦による婚姻指輪の交換、誓いの儀……ささやかではあるが、全て滞りなく行われ、そして今二人が階段を降りる両脇からは惜しみない拍手が沸き起こっている。

 暖かい風を、風楼が運んでいる。

 ウェディングドレスから漏れた、銀河を想わせるシュカの髪はその風に靡いて、拍手に混じった嘆声があがった。

 やがて、バージンロードが終端を迎える頃、二人にとって見知った顔が並んだ。

 セトナにミャーだ。

「シュカお姉ちゃん、綺麗~」

「ふふ、ありがと。ミャー」

「私がシュカの事を隅々まで調べつくして作ったドレスですからー、当然と言えば当然ですよねぇ~」

「す、隅々まで……?」

 セトナの発言にぎょっとしたフラウがシュカの方を見ると、途端に顔を赤くして手をぶんぶんと振り否定する。

「違うから! 変な意味じゃないから!」

「もう私の手からシュカが離れていくのかと思うと心配で心配で……」

「そうでち。シュカが居なくなったらセトナの魔の手がわたちに集中するでち……はー、明日から憂鬱で憂鬱で仕方ないでち」

「なんだ、シアも来てたのか」

 セトナからやや距離を開けた所に……変わらない真っ黒な翼を従えた鴉の少女、シアが立っていた。相変わらず、変な語尾は直っていない。

「別に祝いに来たわけじゃないでち、なんでわざわざお前たちのイチャイチャする姿を見に来ないといけないでちか」

「そうは言っても、ちゃんと正装してるのね」

「これはセトナに無理やり着せられただけでちっ」

「そうそう。ミャーと同じサイズで助かったわ~」

「ん? 同じサイズ? ……そういや、シアともかなり久しぶりだってのに……。ちょっとミャーちゃんさ、シアの隣に並んでみてくれないか?」

「いいよー?」

「な、なんでちっ」

 時が経って、ミャーは見違えるほどに背が伸びていた。つまりシアもその例には漏れないわけだ、が。

「……シア、お前ミャーちゃんに背抜かれてないか?」

「うぎっ」

「ミャーちゃんも大きくなったしなぁ、なるほど……」

「ぐ、ぐにゅにゅ……」

 言い淀んだシアに、とどめとばかり、

「ま、がんばれよ」

 と、小さい頭をポンポンと撫ぜた。

「む、むきゃーっ! おまっ、お前なんかもう知らないでち! さっさとどっかいっちまえでち!」

「あらあら……さ、お二人は先に進んでくれませんと」

「うん。行こう、フラウ」

「ああ」

 再び腕を組んで、歩み出す二人の先に、今度は二つの影が見えた。

 その二人はシュカのまったく知らない顔だったが、フラウは目を見開いて、思わずその人物を指差した。

「ヴィル……か?」

「よぉ。随分と見ない間に……立派になったもんだな、お前も」

「てことはそっちは……」

「久しぶり、フラウ。ちょっと前ニュースになった時は私もヴィルも、驚いたわ……先に卒業して行った先輩達が皆戦死したって聞いて、ヴィルなんか寝込んじゃって。でも、元気でなにより」

 騎士学校でフラウと行動を共にしていた……心許せる数少ない旧友、ヴィルトールとリゼッタだった。二人とも私服に身を包んではいるものの、その下にはしっかりと鍛えられた筋肉が存在感を放っていて、性格とは真逆に強面のヴィルトールも、騎士学校時代からマドンナの風貌を持っていたリゼッタも、フラウには懐かしく感じた。

「フラウ、この人達は?」

「友達だよ。とっても大切な」

「……びっくりしたわ。私達、今自警団の仕事に就いてるんだけど、かの有名なラインハルト様が急に訪ねてきて、連れてこられた所が所在不明の友達の結婚式だなんて。可愛いお嫁さんじゃない、ねぇヴィル?」

「ああ、フラウには勿体ない……と言いたいところだが、あの時と比べて顔つきが変わったな。正直お前は実力だけが先行して、心はまるで小さい子供そのものでよ、兄貴分としちゃ、不安で不安で仕方なかったんだ。無理して生きる理由を模索してる気がしてた――が、もうその心配は、無さそうだな」

「ああ、守るべきもの。見つけたんだ」

 そう答えると、愛おしそうにシュカの方を見つめた。当人の方はというと、頬を朱に染め、目を逸らしてしまったが。

「でも、こうして見ると本当に可愛いわね……私、同じ女として嫉妬しちゃうわ。ちょっと前まで、リトルプレイヤーの子なんて見る機会無かったけど」

「あ、ありがとうございます……」

 まじまじと正面からリゼッタに見られ、またさらに俯いてしまった。

「リゼッタの方は、どうなんだ?」

「それを聞いちゃう? ……ほんと、呆れちゃうんだけどね。ヴィル、私とこの子。どっちが可愛いと思う?」

 溜め息をつきながらヴィルトールに聞くと、さも当たり前のことを聞かれたかのように、

「そりゃー、どう考えてもフラウの奥さんじゃないか。お前が勝ってる所なんて……無駄に腹の上についた脂肪くらいなもんだろう」

 と、陽気に答えた。答えてしまった、と言った方が正しいか。

「ヴィ~ル~? どういうことなのかしら~?」

 その瞬間、今まで朗らかにしていたリゼッタの眉間に皺が寄り、体格ではここに居る誰が掛かっても敵わないであろうヴィルトールの両肩を掴み迫った。

「あだだだだ! な、なんでだ!? 俺は正解を言ったまで……やめろ、肩の骨が曲がる!」

「アンタは、何年! 私の隣に居ると思ってんのコノヤロー!」

「か、変わってないな……」

 呟きながら、懐かしい光景と変わらず接してくれる仲間の存在に感謝しつつも、『もし、フランがここに居たらあの時そっくりだな』と、フラウは一抹の寂しさを感じた。

「面白い人達ね」

「そうだな……根はいい人達なんだよ」

「分かるわ。まだ私を見て目を逸らす人はたくさんいるけど、あの人達は普通に扱ってくれた。そういう人が一人でも居るだけで……私達にとってこの世界は変わるはず。そのためにも、頑張っていかないとね」

「世界……か」

 異なるもの。

 それが混入した時、人は惑い、憤り、排斥しようとする。

 ただそれが、認め合い完全に混ざり合った時、世界は別の素晴らしい色に変わる。

「でもさ、これだけは自信を持って言える」

 バージンロードの端。二人の目の前に聳える、大きな金色の鐘が今か今かと鳴るのを心待ちにしているようだった。フラウがシュカの方を向いて、そしてゆっくりと、抱き寄せた。

「何?」

「どんなに世界が変わっても、俺は一生シュカを守る、そう誓うよ」

 あくまで真剣なまなざしで、言った。

「……今度こそちゃんと、守ってくれる?」

「もう二度と離さない。絶対に」

 先ほどよりもっと強く、シュカを抱いた。二人の顔の距離は、おでことおでこがすぐにくっついてしまいそうなくらい、近かった。

「私も、もう二度と――」

 強く風が吹いた。突風に、会場に居る誰もが、目を瞑った。

 時が止まった。切り取られたフレームは、誰の記憶にも存在しない。

 その瞬間に、二人の唇は合わせられた。

 誰も知らない、誰も見ていない、二人だけの世界で。

 長い時間、離れ離れだった少年と少女の物語は今、確かに繋がった。


 あまねく祝福を伝える鐘の、美しい音色は、

 彼らの物語を音に乗せて、

 世界中へと鳴り響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Little Prayer 逢瀬悠迂 @littelsia

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ