第2話

 ナカローグ




 ギリギリと、頭が痛む。

 まるで頭を上からかち割られて、中を調べられているかのよう。

 それで、何か工具みたいなもので、ぐちゃぐちゃと。混ぜられて。

 そんな感触。気持ち悪い。


 ここは夢だ。なぜなら、現実の僕は、一人の女の子と一つ屋根の下、ボロい小屋のボロいベッドに横たわっているはずだから。突然未確認生物に連れ去られたわけでなければ、夢に違いない。


 僕は記憶を失ってからの四年で、みっつの夢をループし続けた――いや、一つの夢のループが、時を経る度に進化して、道を分かつように、他の夢に分岐して三つに増えたと言うべきだろうか。

 全部、一人の女の子との、夢。

 これはいつもの三つ、とは違った。四つめだろうか。


 しかしいつまで経っても、視覚に色は入らない。一面、黒。音すらない。痛みのせいで軽く耳鳴りがしているかもしれない。

 ただギリギリ捻じられ弄られて自分が変になっていく苦痛だけが支配するそんな世界。

 何分、何時間経った?

 もうそろそろ朝だろう? 早く起きてくれ現実の僕。学校でも早起きが得意だったじゃないか。

 それか、見飽きたいつもの夢になってくれてもいい。だから早くこの苦痛から解放してくれ!

 そう願った。


 ふと、黒が落ちた。

 舞台のセッティングが入れ替わるように、色はたちまち黒から一瞬にしてパステルな、淡い色に。

 音は相変わらず無かった。けれど、薄いピンクとか紅色、黄色に黄緑、春をイメージできるその色は、温かく僕を包んでくれた。

 気づくと頭痛は消えていた。代わりに柔らかな、ふわふわとしたものに触られている感覚。くすぐったい、けれど心地の良いもの。

 そんな暖かさの中で、意識は急速に沈んでいく。それは夢の終わりが近いことを予感させた。……まだもう少し、この感触に縋っていたい、と抵抗したが、パステルカラーは淡さを増して、最後には真っ白に――
































 第4章 火狐と子猫と金色の来訪者




 脳波が眠りから覚醒に傾いて、意識は夢から現実に引き戻される。

 もっとあの暖かい夢を見ていたかったのに。夢というやつは大体そんな儚いものだとは分かっていても、惜しい気持ちが残る。……きっとそんな性格の人間が居たとしたら間違いなくクラスメイトからは浮くに違いない。うん、僕なら好んで仲良くしようとは思わないだろう。

 しかし夢は終わっても、何故か不思議と温もりのある空気が現実に漂っていた。

 視界を開くと、寝る前と同じ、くたびれたやや黒ずみの目立つ天井が当然ながら目に入る。肩の怪我が治るまでは変に寝がえりを打とうとしないように意識した結果だ。

 もちろん起きてしまえばそんなことをする必要もないので、同じベッドで寝付いたはずのシュカを押しやってしまわないように(ベッドが滅茶苦茶狭いせいだ)、ゆっくりと起きようとしたところで違和感に気付いた。

 額の辺りに、軽くではあるが抑えつけられる感触。さっき感じていた暖かさは、これだったのか、と理解すると共に入ってきた、耳に囁き声。

「ふふ……逃がさないんだから……ぁ」

 それで一気に目が覚めた。自分の置かれている状況を、脳内にパルスが走るよりも速く、感覚で理解する。

 寝る前に背と背を向け合っていたはずが(いやそれも十分問題なのだけど)、シュカの小さい体躯は、比較的長身だと自負している僕の腰を細い足でホールドしていて、なおかつ僕の頭を、ぬいぐるみか何かのように、ぎゅっと強く抱きしめていた。

 それになにより、自分の胸に抱え込んでいるから、頭頂部から際どい所に当たっている感じがしないでもない。当たっているかどうか感触が微妙すぎて分からないと本人の前で言うと、また生傷が増えそうだからおいておくとして、誰かに見られるわけにはいかない状態だ。

 とりあえず第一に脱出を試みることにする……が、これはあえなく失敗。

 見た目は少女でも、兵力に換算すれば騎士団一個中隊に匹敵するくらいのリトルプレイヤーである、細く見える腕が痛くはないが決して逃がさないとばかりに拘束していて、微塵も首が動かせなかった。

 じゃあ諦めて二度寝でもしようものなら……シュカが目覚めたとき、僕はその直後に物言わぬ肉塊になっているかもしれない。

 いや悪いのは僕じゃなく、多分きっとおそらく、シュカの寝相のせいなんだろうけど、それでもつい前に風呂場で鉢合わせした(もちろん不可抗力だ、と断固抗議する)時だって散々に罵倒されたんだから、何かしらのお咎めを食うことは明白なんだと、悲しくもそう思わざるを得なかった。

 となると、ダメージを必要最小限にするべくあえて茨の道を通るとするならば、

「おいシュカ……起きてくれ、朝だ」

 自然に呼びかけて起こすのが一番だ……たぶん。

 呼び掛けてふと拘束が少し緩んだ隙に、首をやや上に向ける。なんとも幸せそうにうとうとするシュカの顔が、目のすぐ先にあった。「んん……」と、唇から漏らされた吐息。起きる様子は無さそうだ。

 約四年もの間、ねぼすけな同僚を同じ部屋に持ったのだから、四十八手とも言えるかもしれない、起こす術は持ち合わせている。よし、覚悟しろ。

 上を向いたまま、シュカのゆでたまごみたいな白いほっぺに手を伸ばす。ふに、と音が聞こえたかもしれない。なんの抵抗もなく僕の指が沈み込んだ。そのまま圧力をかけていって、ぐりぐりと押すと、「うにゅにゅにゅ……」と反応。

 指を離すと、引っ込んだ頬がゴムボールみたいに元に戻った。本人に起きる気配無し。

「フランは大体これで起きたんだけど……」

 そのねぼすけ同僚の顔を思い浮かべながら思索する。確かこれで起きなかった時は……

「むぎゅ」

 さっき突いた方と同じ所をぎゅ、と抓った。これならさすがに……

「…………むにゃ」

 強情だな。

 片方の頬を引っ張られながら小さい口を開けて、寝息を立て続けているのを見ていると、本当にただの人間としか思えない……なんて感想は前にも抱いたか。こいつらを害悪としか見ない、前の僕みたいな世間の目は、シュカのこの寝顔を見て、何を思うんだろうか。写真を撮って、誰かに見せて「実はこの子リトルプレイヤーなんですよ」って言ったら何と言われるだろうか。「嘘だ」とか、「本当だとしても人を欺く為の狸寝入りだろう」とか……あるいはそれとは真逆の、「こんな顔もするんだね」って、言ってくれるやつらは居るのか。

 頬を突いたり抓ったりしながら、そんな神妙なことを考えていると、その指が突然きゅっと、握られた。

 当の本人は夢でも見ているのか、へらっと笑って、

「ねぇ……」

 呼び掛け。

 なんだ、と言おうとしてやめた。どうせ寝言だ。

「約束、だよ……」

 握られた指が、ひときわ強く力を感じる。

 約束。……なるほど、この指は指切りでもしてるのか。

 どうやら幸せそうな夢らしい。しばらくは起こさないようにしてやるか?

「それに、この顔を見てるのも案外悪くないしな……」

 役得とはちょっと違うが、まぁ後で殴られることの対価としては十分だろう。

 とりあえず指はこのままにしておくか、などと思っていると、

 かぷ。

 その握られていた指が、シュカの口に運ばれていた。痛くはない……甘噛みだ。

 こそばゆい思いを抱きながら、指を預けているシュカの寝顔を、もう少し近くで見てやろう……と体を上に動かそうとした。

「う、ん……にゅ――へ?」

 琥珀色の瞳がねぼけ眼ながら見開いて、ちょうと顔を近づけていた僕とばっちり視線が合った。噛まれていた指が、ポロリと落ちる。

「ちょ、ちょっと何これ……え!? えええ!?」

「おう、おはよう……」

「なんでこれ、なんであんたがこんな――い、いやぁあ!」

「うわ!?」

 それはもう洗濯機に入れられたみたいに見事、視界が三、四回転。華麗に投げ飛ばされた僕は、受け身も取れずに硬い床に頭を打ち付け、昏倒した。



「いてて。あーもうなんか生傷だらけだ……」

 とまぁ、気絶していたのはたった数分だったんだけど、起こされるのにもやたら頬を叩かれたらしく、顔はじんじんと痛むし脳がまだ揺れてる感じがする。

「そりゃあ私にも非はあったけど……でもそれなら早めに起こしてくれれば良かったのに。本気で貞操奪われそうになってるのかと思ったじゃない。一瞬切り刻んでやろうかと刃物探したわ」

 ベッドで座っているシュカに睨まれながら聞いて、背筋が凍る。自分からはほとんど何もしてないのにもしかしたら今僕は肉片になってたかもしれないのか。

「それができてたら苦労しないって……大体、僕の力じゃシュカの腕、びくともしなかったし」

「何よ。女の子っぽくないって言いたいの」

「そんなこと言ってないだろ」

「言ってるわよ! ……暗に」

「言ってないって。十分シュカは女の子っぽいさ」

「ふ、え?」

 指の甘噛みとか。

 そうやって少し小首を傾げる仕草とか。

 色っぽい、というよりは『少女らしい』って感じだろう。

「飾らずにそういう仕草とか感情が出せるのは、普通に女の子だと思うけど」

「な、な――ッ!」

 僕は誉めたつもりだったがしかし、シュカは顔を赤くして、

「何たぶらかしてるのよ! べ、別にそんなの……大きなお世話、よっ!」

 足元に置いてあった、みるからに重そうな鞄を、勢いをつけて投げてきた。重い分、咄嗟に避けられた。

「うわぁ!? なにすんだ危ないだろ!」

「うるさい! 死ね死ね死んじゃえ~~~!」

 当たらなかったことに腹が立ったのか、さらにシュカは手あたり次第に物を投げつけてくる。

 時計、日記帳、枕、スリッパ!

「本気で危ないから! やめろって!」

「うるさい!」

 最後にブンッと投げられたのは、細い鎖の付いたアクセサリーのようなものだった。それが、予想以上に僕へと的確に飛んできて、

 スコーン! と、額の真中にぶつかった。結構硬いもので、めちゃくちゃ痛かった。

「何すんだこの!」

 その最後に飛んできたアクセサリーを拾い上げ、投げ返そうとした。

 しかしそこで、シュカがふいに顔を凍りつかせて、

「――待って!」

 投げてきたのは自分のくせに、僕の手を強引に取りアクセサリーを奪ってくる。

 そしてそれを自らの手の上に乗せると、きゅ、と大事そうに胸に抱えた。

「……ごめん、私、熱くなってた」

 いきなりしおらしくなったシュカに面くらって、額に物をぶつけられた怒りがどこかにぶっとんでしまった。

「大事なものなのか? それ」

「うん……」

 よく見れば、それはシルバーの写真入れだった。金属にはだいぶ光沢が失われていて、開閉部は錆が目立つ……特に高そうというわけでもなさそうだが。

「中は?」

「もう開かないの。四年前から」

 シュカは、その錆びた部分を見せてくる。見た目からすれば簡単に開きそうではない。

「こじ開ければ中身だけは取り出せそうだけど……」

 シュカは、顔を伏せてふるふると首を振る。

「中身じゃなくて、これ自体が私にとって大切なものなの。っていうか、もう私にとって価値あるものって、もうこれとそこのポシェットと、この家くらいなものなんだけどね」

 そう言うシュカの声は、とても寂しそうだった。


 それからしばらく経って。

 僕とシュカは、シュカの家から少し離れた、スラム街の中でも奥の方にある別の建物に来ていた。

 目的は一つ。

 僕を知り合いのリトルプレイヤーに紹介するため、だ。

 正直彼女らのような存在に、この目で見ることはそんなに無かったから、実際数も少ないんだろう……と思っていたが、シュカが知るだけで実はこのスラムにシュカを含め四人が居住しているらしいから驚きだ。世界は意外に狭い。

 ところが、だ。

 普通『紹介してもらえる』ってのは自分にとって良いことが基本なんだろうけれど……今の僕にとって、これは良い方にも悪い方にも捉えられるものだった。

「ほら、立ち止まってないでよ。さっさと奥に行って」

「あ、ああ……」

 迷惑そうな声で僕の背中を、シュカがグイと押してくる。

 が、そうは言っても進んで中に入りたいとは思わなかった。止まっているとどうせ蹴りでも飛んできそうだから、足だけは動かすが……。

 家屋内の、古ぼけた木造床にやや不愉快な軋む音を響かせながら、視界の先にあるドアを見て生唾を飲み込む。それは未だ知れないモノへの不安からだ。

 ミャーと言われていた子の事は知っている。事前にシュカに、この屋敷に三人のリトルプレイヤーが住まっていることを聞いていて、ミャーもその一員だと。知っていると言っても一度見た程度なのだけれど、僅かであっても何か情報があれば人は安心するものだ。『ミャー』は所謂、『外見型』に属するリトルプレイヤーだろう。動物に擬態したり肉体自体に改造を施したリトルプレイヤー。物理的な戦闘能力が高い者も多い半面、どんな能力か分かりやすい。その点、見た目だけで見れば僕の、ミャーに対する警戒は概ねそんなに高くないのだった。

 一方、残り二名に関してはまったくの無知。シュカからも、「どうせ会うんだから今言う必要無いでしょ」と一蹴されてしまったし。つまりはその二名は、僕の警戒度は紛争地域の前線に居る兵士並みに、高ぶっていた。

 汗で滑りを手に感じながら、ドアに到達してしまう。シュカがふところから鍵を取りだし、機械的にドアノブを捻る。心の準備をする暇もなく、部屋に入った。

 やたら緊張して足を踏み入れたそこは、禍々しい雰囲気を纏った闇の背景に、奥で高そうな椅子にふんぞり返った王みたいな奴が居る訳でも……いきなり攻撃が飛んでくるわけでもなく。ただの、そう本当に何の変哲もない、大広間だった。

 当然中も木造。しかも古い。その割に高さと広さだけは十分で、金持ちがちょっとした時に開く舞踏会なら問題なく開催できそうなほどのスペースを誇っている。シュカの家なんか、二つ三つ入れたところでまだ余るだろう。もっとも、あの家は『家』というより『小屋』と称する方が適正かもしれないけど。

「なによ。私の家はどうせ狭いわよ」

 横から睨みを利かせて言ったのはシュカだ。

「まだ何も言ってないんだけど」

「心の声が聞こえたわ。分かりやすい奴」

 そしてフンとそっぽを向いてしまう。なんだよ、機嫌悪いな。

 その荒げた口調のまま、何もない空中に響かせるようにシュカは口を開く。

「セトナ? 来たわよ、『扉』を開けて頂戴!」

「……とびら?」

 この空間に、僕らの入ってきた出入口はあれど、それ以外にどこかと繋がっている風はない。というかこの大広間、一面を囲まれていて、換気用らしい高所窓はあれど、小部屋みたいな……そんなものが何もない。テーブルや机などの備品が何もないにしても、これは若干不自然というか。それにここに三人が住んでいるとするなら……何かの生活感があっても良いもんだろうが、埃があちこちに目立ち、そして僕の足跡が床にくっきり残るのは、誰もここをほとんど訪れていないということを暗示している。

 呼びかけをしたシュカも不思議に思ったのか腕を組んで、

「おかしいわね……まさかここが破られてるわけないし……珍しく遠出でもしてるのかしら?」

 と言い、壁沿いにウロウロし始めた。

 手持ち無沙汰になった僕は僕で何もすることがないので、シュカとは反対方向にこれまたウロウロしようとした。すると、

「……なんだ、これ」

 目の前には何もない。にも関わらず、その虚空は、まるで池に小石を落とした時のような、もやもやとした波紋を描き、それはゆっくり、ゆっくりと大きく幅を広げていって――

「シュカぁああああああ~~~~!」

 ぶわ、と髪が一気に後ろに靡くほどの突風と共に、波紋の中から黄色い声。そして、呆然とする僕の鼻先三寸に現れた、なにか。

 その物体は、勢いよく……僕が「あ」と発する前に直進。等加速直線運動。避ける術は無し。

「どーんっっ!」

「ぅふぐっ!?」

 トラックがぶつかってきたような物凄い衝撃――ということはなく、声の正体の衝撃を僕は易々と受け止めた。それこそ、小さな子供がじゃれてぶつかってきた程度の強さ。日ごろ鍛えあげていた僕の身体は、びくともしない……ただ、とある『鍛えられない』場所に、運悪くその物体は飛びこんできたらしい。どことは言わない。言えない。

 衝撃が伝わってきた後に一瞬にして込み上げてくる、下半身からの臓を抉られる感覚。異性には絶対分からないあの場所に、甚大なダメージを食らうことになった。

「いたたたー。ちょっと力加減間違えちゃったっ」

 そんな僕をよそに、ぶつかってきた張本人(?)はそんなことをのたまっている……もちろんこっちはそれに恨みごとが言えるほどの状況じゃなかった。痛い。半端なく痛い。もしかしたら肩を銃で撃ち抜かれた時よりも痛いかも。

 そうして、体を「く」の字に曲げながら、痛みを堪えていると、

「はれれ? ……お兄ちゃん、誰?」

 と、物体は聞いてきた。うすら目を開けてみる。

 ――いきなり視界に飛びこんできた、太陽みたいな、金の髪。そして幼い顔。シュカよりもさらに二周りほど体躯は小さくて……何故か両手をバンザイしていても、やや屈んでいる僕の頭に手は届いていない。

 それになにより、頭に耳。

 ……どこかで見たような女の子。頭がうまく回らないせいで記憶を辿るのに時間がかかる。どこで見たんだっけ……。

「にゅ? どうしたの? ……も、もしかして痛い、の……?」

「い、いや――っつ」

 心配そうな顔で、金髪の女の子が顔を覗き込んでくる。痛くないわけがない。額からは脂汗が滲んでいるのが自分で分かるほどだ。

 ガクリと膝をつく。これで少しはマシになるかも。

 でも、そんな僕を見て少女はぐす、と漏らし始めた。

「痛い? 痛いの? ふ、ふぇ……ごめんなさぁあい……」

 泣きだしてしまった。ぽろぽろぽろぽろ、真珠みたいな大粒が頬を垂れて、床についている僕の手にぽとりと落ちる。

 泣かないでくれよ、僕だって泣きたいほど痛いんだぞ……。

「あーあーもう……何やってるのよ」

 スタスタと足音を立てて、傍目に見ていたのかシュカの声。

「男がこれくらいで痛がっててどうするの? まったく、それでも私達の敵のつもりだったのかしら。騎士団が聞いてあきれるわね」

 フフンと人をあざ笑うかのよう。ちくしょうむかつく、男にしか分からん痛みってもんがあるんだよ。

 顔を上げて文句を言おうとした。すると、シュカにポンポン、と背中を叩かれる。

「……? なんだよ、……ってあれ?」

「楽になったでしょ?」

「あ、ああ」

 片手で抱えていた下腹の痛みがすっと、最初からなかったかのように消えてしまった。

「くだらないことに力を使わせないでよね。対価を払うのは私なんだし」

「チカラ?」

 シュカの、リトルプレイヤーとして持つ能力は、時間を一瞬だけ止めたり切り取ったりするものだったはず……。

 呆ける僕に向かって、シュカは面倒そうに、

「瞬間(フレーム)切断(カッター)は、時間だけじゃなくてその時間軸にある存在概念そのものを切り取るから。あんたがミャーに突っ込まれた時間そのものを切り取ったってこと。分かるでしょ」

「ふーん……」

 なるほど、そんな使い方ができれば便利だ。戦闘になったら、さぞかし活躍するに違いない。

「ま、『対価』があるから何十分も遡るのは無理だけどね――さ、ミャーも泣いてないで。もうこいつは大丈夫だから」

「う、うん……。あっ、おかえりなさいなの。シュカ」

「うん、ただいま」

 ニッコリと微笑んで少女の頭を撫でるシュカ。少女もそれを受け入れている。

 そうだ、この子がミャーか……。

 僕が前に見た、先輩騎士に襲われていたあの女の子だ。

 トレードマークの、虎のような耳。黄色と茶色の縞模様の尻尾。シュカに撫でられるのと同期して、耳は閉じたり開いたり、尻尾は左右にゆっくりと揺れていた。

「そうそう、ミャー……セトナはどうしたの? 姿が見えないようだけれど」

「うーん……おかーさん、わたしより先に行っちゃったけどー」

「ふぅん? 変ねぇ」

 二人から蚊帳の外に置かれた僕は、再びこの部屋をぶらぶらしようとする。と、

「ふふっ」

「…………!?」

 むにゅ、と背中がとても柔らかいものに包まれる。マシュマロ、プリン……そう形容すべきものにいつのまにか、背後を取られていた。

 そして、耳元に囁き。

「ねぇ、君は誰かしらぁ……? とっても格好よくて、私の好みなんだけど……」

「えっ、えっ」

 おそるおそる、首を後ろへ向けてみる。真っ白の、陶磁器のような二つの谷間がチラと見えて、思わずまた前を向いた。すると、その声の人物は僕の肩に手を置いてしなだれかかり、妖艶な声色でまさに誘ってくるように、

「もしかして……シュカの彼氏、とかかしら? あの子も大人になったのね……」

「い、いや僕は別にそんなっ」

「違うの? それなら……私、君のこと食べちゃおうかな~」

「そ、それは――」

「セトナぁ~! もう、何やってるの!」

 べり、と背後にくっついていた何かが剥がされた。剥がしたのはシュカだ。

「なによぉ。シュカが呼んだから忙しくしてたのをわざわざ気配を消してやってきたのにぃ。ぷぅ、もうお姉さん怒った。この男の子、私にちょうだい!」

 ぎゅっ、ともう一度抱きつかれる。

「だ、ダメ!」

「ぐは」

 横から強烈な力で突き飛ばされて、床に転がされた。僕の扱い、本当に怪我人として見做されてるんだろうか……いや、だいぶ治ったけどさ……肩。

「だ、大丈夫……? お兄ちゃん……」

「ん? ああ、ミャーちゃんだっけ。大丈夫、シュカにはもうどつかれ慣れてるし……」

 言いながら立ち上がる。シュカと、セトナと呼ばれた女性はまだ何か言いあっていた。

「こ、こいつは私の! 私のモノなんだから!」

「あら? なら本人に聞いてみましょうか?」

「いいわ……フラウ! ちょっとこっち来なさい!」

 突き飛ばしたの君なんだけど。

 渋々、二人の元へ。

「さぁ、答えなさい! あんたは私のとこに住んでるんだから、私のモノよね!?」

「いや別に……ぎゅっ!」

「何ですって……?」

 く、首を絞めるな……!

「わ、分かった分かった! 所有物でいいから、ぐ、首を……」

 解放。身体が空気を一気に求めて噎せた。

「ほら! 言ったでしょ?」

「うふふ……もう、なら仕方ないわね~。シュカのお婿さんらしいし……今回は勘弁してあげる」

「だ、誰が! こいつを婿なんかに!」

「あら違うの? それだったら私が……」

「ダメって言ってるでしょ!」

 きゅ。

 シュカさん、首が……首が絞まってます……。


 それから。

 ミャーちゃんの介入もあって、(シュカは「ふしだらだわ……」と文句を垂れてはいるが)場が落ち着いて。セトナさんの提案で自己紹介の流れになった。

「それじゃ適当に……」

「はいはいはいはい! ミャーはね、ミャーって言うの!」

 シュカの仕切りに割って入って、しゅばっ! と立ち上がり勢いよく手を挙げたのはミャーちゃんだ。

 にぱ、と弾ける笑顔がとてもよく似合う……それこそ、休日には公園で走り回っているような幼児によく似ている。白のブラウスと花柄のスカートは、肩まで伸びた金髪と薄く焼けた微かな小麦色の肌によく映えて、耳と尻尾は、盛んにその存在を示すかのように動きまくっていた。ある意味で子猫のようだ。

「それだけじゃ紹介になんないでしょ……まぁいいわ、私から補足するから」

 うに? と首を傾げるミャーちゃんを余所に、シュカが続ける。

「一度会ってると思うけど、ミャーもリトルプレイヤーよ。能力はちょっと分かりづらいけど、『虎』を擬態化してるの」

「……虎?」

「そーだよ! がおー」

 両手を頭の上に掲げて、ポーズする。うん、猫にしか見えない。

「名前は猛(タイガ)虎(ーラ)狂乱(ンペイジ)。ま、私みたいに普段から能力を使うことはないわね、残念だけど」

「なんでだ?」

 僕がそう言うと、シュカはさっとこっちに寄り、耳に手をあてて小声で囁いてきた。

「(肉片になりたい?)」

「(は!?)」

 肉片って。

「(ミャーの能力はそれだけ強力なの。まだ子供だから発現してないだけで……。ライオンだって、小さい時は猫と変わらないけど、成長すると体格が段違いに変わるでしょ。軽視しちゃダメよ。もし……彼女に襲われそうになった時は……もしもの話だけど、逃げるの優先だから)」

 思わず、ミャーちゃんの方を見る。にぱ、と笑った口の端に、鋭く光る牙が見え隠れしていた……。見た目で判断しちゃいけない、ってことだな……。

「次は、私の番かしらぁ?」

「うわ!」

 急にメロン2つが現れた……もとい、セトナさんが目の前に。

 たゆん、と揺れる。さっきこれで背中を包まれていたんだな、と思うとなんだかまじまじと見てしまう。

「きゃ、やっぱり可愛い!」

「むぐ!?」

 しょ、正面攻撃だと!?

「やめなさいって言ってるでしょ!」

「ああん」

 すぐにシュカによって頭から引き離される。助かった半面、柔らかさがちょっと名残惜しいような、

「……スケベ。変態」

「…………」

 不埒な考えはやめておこう。後が怖い。

「まぁ、冗談はこれくらいにして~。半分だけど」

 半分は本気ですか。

「私はセトナ、華の16歳なの……よろしくね?」

「はは、はい!」

「……20歳よ」

「むぅ! シュカのいじわるぅ!」

 ぷく、と頬を膨らませるセトナさん。まぁ確かにこの人が僕と同じ年だったら、色々困る……。

 言動はともかく、セトナさんはミャーちゃんとは対極というか、すらりとした長身の、まさに『大人』な人だ。……が、それでいて細身なシルエットで、出る所は出ていて引っ込む所は引っ込んでいる。まさに同姓から羨望の的になりそうなスタイルだ。

 胸元を強調している服のせいでどうしてもそっちに目が行ってしまうのだけど……軽くウェーブのかかった、よく手入れされているであろう茶色のロングヘアと、白く透き通りそうな肌も十分特徴立っていた。

「ま、私もシュカと同じリトルプレイヤーなんだけど……」

「全然小さくはないけどね」

「シュカのココと違ってね~」

 セトナさんがシュカの平面地帯……どことは言わないが、そこを指差す。

「放っといてよ!」

「まぁまぁ……」

 ほんとすぐにこの二人は茶々を入れ合うな。仲が悪いと言う感じはしないけど。

「ふん。とにかくセトナは、ミャーと同じ擬態型よ」

「え?」

 擬態型って言っても……ミャーちゃんみたいな、耳や尻尾といった特徴は見当たらない。どこをどう見ても、普通の女性にしか……。

「――セトナは二次性徴が終わってるから。ミャーとは違ってコントロールできるのよ」

「そう……こんな風にね」

 セトナさんがふふ、と妖しく笑う。すると、

 ぴょこ、っと頭から――狐のような茶色の耳が飛び出した。

「自分で制御できるから、隠すことも自在なの」

 華麗にウインク。感情が耳に出る所は、ミャーちゃんと同じだな、と思った。

「能力が弱まってるとも言うけどね……」

「そんなことないわよぉ。まだまだ現役なんだからっ」

「ばか言ってないで。今だって体調崩してるくせに、無理だけはしないでよ」

「分かってるわよぉ。ふふ、でもシュカが心配してくれるなんて。可愛いところもあるんじゃない~」

 セトナさんがシュカの細い身体を抱き上げる。身長差があるから、シュカの頭がセトナさんの二つの谷間の間に挟まって、艶めかしい動きを……。

「きゃっ! ちょ、ちょっと抱きつかないで! むむ、胸がくるし」

「うふふふふ~」

「フラウ! セトナを、どうにかしなさい……っ、はや、く」

 気づけばシュカが窒息しそうになっていた。

「セ、セトナさん……それくらいにしてあげた方が!」

「フラウさんがそう言うのなら~」

 ぱっ、と手は離され、シュカは解放された。

「ぷは。うぅう~このおっぱい魔人……」

 眼福ごちそうさまでした。

「もう、シュカはつれないわねぇ~。代わりにフラウさん、どうですかぁ……?」

「ぼ、僕!?」

 気づけばセトナさんが今度は僕の目の前で、胸を前に出すようなポーズを取っていた。

「い、いやその、それは」

「フラウさんが私を抱いてくれても良いんですけどぉ~」

 いきなりこんな形で迫られて、焦る。女性経験なんて、露の1回ほども無いのに……。

 それで、対応が遅れたのかもしれない。いつの間にか蘭として光っていた、セトナさんの紅い眼光に、気付けなかった。

「いいじゃないですか……シュカなんて放って、二人で――」

 目が離せない。意識で逃げようと思っても、体が言うことを聞かない。この感覚、この光景はそう、僕が初めてシュカを見た時の、まったく動けなくなる殺気に似たそんな状況を思い出させた。

 ――まるでブラックホールに吸い寄せられるように、僕の意識から急速に、セトナさんを除いた『世界』が乖離していく。ぐにゃり、と視界が曲がる。世界が暗転する。


 ***


「あれ?」

 一瞬の暗転の後、意識が復活……したと思えば、僕はさっきまで居た、あの木造のだだっ広い部屋とは相対するような――まばゆい光に囲まれた、それでいて生物らしさをまったく感じない、無機質な空間に座っていた。

 立ち上がる。天井を見上げる。

 ……霧のような、白い光で隠されていて、どこが上限か分からない。いや、あの光こそが天井なのか。

 一面鏡張りの部屋に閉じ込められたみたいに、此処は光に満ちていた。それだけに、天井も壁も……どこまでも広がっているようで、すぐそこが限界であるようにも感じる。もやもやとした、曖昧な――まだ造られて間もない雲の中に入ってしまったみたいだった。

「それにしても……どこなんだ、ここは」

 眠っている間に連れ去られたわけじゃない。感覚的にはつい数十秒前まで、僕はシュカやセトナさん達と一緒に在った、筈だ。セトナさんと話している時にこうなった所までは覚えていた。

 そんな僕の疑問に、目の前の光からぼう、っと姿を現した人物が答えた。

「境中(マインド)庭園(ガーデン)。此処は――フラウさんの、心の中です」

「セトナさん……」

 そう、茶色の髪にびっくりするぐらいのスタイル……そして狐の耳。何本にも分かれた、尻尾。まごうことなき、知り合ったばかりのセトナさんだ。ただ、あの紅い眼から発せられる異様な光と纏った雰囲気、それに声色……まるでさっきまでシュカと茶々を入れ合っていた優しそうな女性とは、まるで違う。

「僕の心の中って……どういうことですか? シュカや、ミャーちゃんは」

「その名の通りですよ。私の能力、まだ言っていませんでしたね。『九(ナイ)尾(ン)火(フォ)狐(クス)』……人化かしの妖怪です。狐を模したリトルプレイヤーである以前に、人の心に擦り入り、惑わし、かどわかす。心に働きかけるのは妖怪の得意な技ですから――私に対してほとんど警戒をしていなかったフラウさんの心に、忍び込みました。ここはそれを私の能力で視覚化した場所。現実世界とは、違う場所です。シュカも、ミャーも居ません」

 セトナさんが、ゆっくりゆっくり、僕の方へ歩いてくる。

「そ、それは分かりました……。でも、どうして?」

「私が――リトルプレイヤーである私が、リトルプレイヤーとしての能力を使うんです。それも、人間に対して。意味は、分かりますよね?」

 後ずさる。

 セトナさんの眼は決して揺るがず、僕のみに一点が注がれている。そもそも、此処には僕とセトナさん以外のモノは存在してないのだけど。

 その視線が……とてつもなく痛い。敵意のある眼、だ。

「……シュカがあなたを連れてきたと言うことは、それなりに信頼のおける相手だと、私は理解しました。私達にとって人間とは天敵であり、生活するうえで存在する必要はないと思えるのが大部分と認識している種族ですから」

 反論はできない。むしろそれが正論だからだ。

 もし僕ら非能力者である人間がと、リトルプレイヤーとの間に食物連鎖のピラミッドのようなものがあるとするなら、間違いなく上に立つのはリトルプレイヤーだ。しかし、何せ数が違う。人口はこの世界で何十億と居て、逆に彼女らは万すら確認できていない。数とは暴力。一人の近接武器を持った大人と千人の少年が戦えば、犠牲は出ても少年側が必ず勝利する。

 故に彼女らは隠れる。そして当然ながら、隠れ家に異質な物が入り込めば――排除するのが普通だ。

「なので、良い機会です。処遇は別にして、まずはフラウさんの心を覗かせてもらいました。結果に、驚くばかりですが」

「……とは」

「周りを見て分かる通り……この空間は非常に境界が曖昧な霧と、どこまでも続くまっさらな背景。それだけで構成されています。こんなのはあり得ません。まるで生まれたての赤ん坊のよう」

「ありえない?」

「あくまで私の能力は分かりやすいようにデフォルメするだけですが……生を営む動物は皆、欲や愛、希望、絶望、夢、心相……それら複雑な『心』を持つものです。それが色なり雰囲気なり、あるいは他に凶悪な生物が現れることもあり、それによって描かれるものです。ただ――ここは何もない」

 セトナさんは続ける。いや、僕が発言することを許さないように、間を置かなかった。

「もう少し詳しく教えて差し上げます。私はリトルプレイヤーとしての素性を隠しつつ、普段は呪い師、占い師……その類のことをやっていますから。この景色が何を指すのか」

 指し伸ばされた細長い人差し指。僕の胸をするりと撫でる。

「白とは、なによりも空白に他なりません。生まれてすぐのモノが純粋であるように。今のフラウさんはそれが今の大半を占めていると。そして境界の曖昧さは、危うさや反抗。現状からの変化を望んでいる証拠です。恐らくはシュカと出会ってアナタは変わり始めている。今は白でも、すぐに黒に変わってしまいそうな。それがこのフラウさんの、境中庭園」

 白と黒、か。

 僕には今から4年以上前の記憶は無い。そしてその直後から騎士学校に入り、頭の中はリトルプレイヤーについてしか考えたことが無かった。そもそも、そういう施設だし。

 そして、そんな記憶しか持たずに、4年を費やした目的をあっさり見失っているからこそ――迷っているだけだとも解釈できるけども――セトナさんの能力で言う、白しかないんだろう。絵具をパレットに垂らしても、洗い流してしまえば残るのはパレットの白色しか残らない。

「それで結局、僕はセトナさんにどう思われているのでしょうか」

 一番の疑問だ。

 こうして能力を使ってまで……僕と対一の場を持つなら、何もしないわけがないから。

 ちょっと前の僕ならこういう事になったら問答無用で剣を抜いていた。それをしないのは、シュカをある程度信用していて……だからこそセトナさんがどういう人なのか真意を図りたいから。

 だが――それは、あまりにも甘い考えだった……らしい。

 僕の胸に当たっていたセトナさんの指は、無言のうちにずぶずぶと……服を突き破って、抵抗なく僕の身体にたやすく侵入してしまった。

「――ッ!?」

 直後、全身を舐めまわされたみたいな悪寒が支配して、現実感の無い、けれど実際に目の当たりにしているソレを、脳が必死に否定しようとした。

「答えは……NGですね」

 より一層冷たく、機械的な声と共に。

 セトナさんの手は、手首が見えなくなるくらいまでに僕の胸に浸かっていた。

 逃げたいと思う。

 けど、それを許さないとばかりに……意思を持った個体のように、紅い眼光が僕を照らす。さっきからまるで体が動かないのも、こいつのせいだ、と思った。

「NG、って……つまり」

「残念ながら……私は、フラウさん。アナタの心の存在を許さない、と言うことですよ」

 ぐぐ、と胸――いや、もはや心臓を握られているとしか思えない――を押さえる手に力が伝っていくのを感じる。

 絶望的観念、ってのはこのことだろうか。

 自分に沈んでいくその手を、ただ見つめるだけしかできない。

 そんな僕に、セトナさんは告げる。

「安心してください。私の境中庭園が壊すのは『心』のみ。ここでいくらフラウさんを切り刻もうと現実世界の肉体に傷がつくことはありません……私は、シュカと知りあって『曖昧になってしまったアナタの心』を壊す。そうすれば、アナタはリトルプレイヤーであるシュカや私の内情に対する中途半端な同情は消え、記憶も無くなり、起きた時にはまた純朴なリトルプレイヤーの敵に戻っているだけです。アンフェアですからその時点で私達がアナタを消すことはありませんが――次会った時は敵として殺し合う。ただそれだけの話です」

「なん、だって……ッ」

 僕が、シュカの事を。

 リトルプレイヤーの、ようやく知りえたことを忘れる?

 守りたいと思ったものに、剣を向ける――?

「そ、そんなの…………いやだ!」

 咳をきったように、今まで動かなかった体が動く。ぬぽ、と泥沼に嵌まった長靴を外した時みたいな音をして、セトナさんの腕が僕の胸から抜ける。一瞬、不快感が全身を駆け抜けたが、そんなのは気にしない。背を向けて、一心不乱に逃げようとする。でも。

「……なんだよ、これ」

 この空間に運ばれた時から、まっさらな白で構成されて何もなかったはずの背後に……何故か灰色の無骨な壁――それも身の丈五メートルほどで、とても乗り越えるなんてことはできない――が、そびえ立っていた。

「無駄ですよ。私の創り出したこの庭園は、何も心だけを映し出すものではありません。此処は私の世界。すなわち、私が神とさえ言えるゾーン……私の都合通りに、組みかえられる」

 振り返る。

「――がっ」

 視界がセトナさんの顔を捉えるかその前か。

 いずれにせよ認識できても避けることができるとは限らない。細身の女性とは思えないほどの腕力で首を掴まれ、僕の足は宙に浮いた。

「そろそろ観念してくれませんか。私もリトルプレイヤーとしては老いた身。能力に払う『対価』を考えないと行けない身、フラウさん一人に時間を費やすわけには行かないんです」

「あ、ァ……」

 掴まれるのに使われていない手が、再びズブズブと、胸の中へ。

「ぐ、ぅ」

「楽にしてください。力を入れなければ痛みはそんなにないですよ。終わるときは一瞬でやってあげますから」

「い、やだ……僕は、シュカの事を忘れるわけには……いかない、んだから」

 手が止まる。セトナさんが明確に、不快な表情を示した。

「どうしてそこまでただ一人のリトルプレイヤーに固執するんですか? ここまで目的を持たない曖昧な心をしていて、異様な執着とも言えますね。アナタにとってシュカは、そこらへんに居るリトルプレイヤーでしかないでしょう」

「それは、違い、ますよ」

 例え僕がここで自分の心を殺されたとしても、これだけは絶対に否定しておきたかった。

「僕は確かに……リトルプレイヤーを、敵として、いる。けど……ゲホッ、僕にとって彼女は特別で……守りたいと思える存在に、短い時間で昇華したん、だ」

「…………」

「僕らが、彼女らに憎まれることは、分かる……けど、それでもシュカは、瀕死の僕を助けてくれた。それは果たして、偶然、なんでしょうか」

「偶然でしょう。シュカに何かのメリットがあっただけです」

「そうかもしれない……けど、僕は、そうじゃなかった。僕にとって、シュカは、偶然なんかじゃ、ない。ゲホッゲホッ……彼女の生活を知って、彼女の涙を知って、僕がそれを守れる盾に……なれればいいと、思ったんです、よ」

 ハァ、とセトナさんは落胆したような溜息を漏らした。

「戯言めいたことを言って命乞いでもするつもりですか。さすがは人間ですね。あざとく、滑稽」

 そして、より一層妖しさを増す紅い光。

「――これくらいにしましょう。おしゃべりは終わりです……」

 ついに、セトナさんの腕は、肺にまで達したらしい。息ができない。酸素を求める肺の微動だけが、気管を通って情けない嗚咽となる。

 ここまでか。

 また僕は、守れずに……。

 …………。

 いや、待ってくれ。

 それは困る。

 往生際が悪いようだけど――やっぱり僕が歩もうと思った道。どうせ『心』が死ぬなら……ここで死ぬも一緒だ。

 薄れゆく意識の中、自分の胸に向かって真っすぐ伸ばされた腕を、掴み返す。

「……何をする」

 何か策があるわけじゃない。

 ただ、奇跡を。

 自分の中にある何か奇跡を。

『そう――ただ、願いなさい』

 声が聞こえる。僕の頭に響く、夢の女の子の声、だ。

『あなたには力があるのだから』

『ここで終わるなんて許さない』

『まだ私を迎えにきていないでしょう?』

『忘れた力は……呼べば戻ってくる』

『今はまだ、未完全だけど』

『私が力を、貸してあげる』

『さぁ、呼んで――自分の名前を』

 頭の中に浮かび上がる。

 フラウ、いや……『風楼(フラウ)』!


 パキンッ


「あ、あぁ……あぁああぁぁああああああああ!」

 僕の中で、何か『錠前』のような……自分を制御していたモノが、半分、壊れる音がした。ソレでせき止められていた色んな全てが、体を頭を脳を臓器を……駆け巡っていく。

 頭が割れそうだ。いや、もう割れているのかもしれない。

 今まで経験したことのない……大岩で止め処なく何度も殴られているような痛みが頭を支配する。

 その代わり――

 痛みは、力を運んでくる。

「何、ですかこれは……」

 突然叫び声を上げた僕に、セトナさんは呆然としているようだった。ああ、そう言えば腕を掴んでいたんだっけか……。

 ちょっとだけ、腕に力を込める。

 ピシッ。

「あぐっ……!?」

 セトナさんが驚いたように腕を離す。ごぼ、と音を立てて僕の胸から腕が抜けた。

「嘘……こんな、私の庭園で」

 セトナさんの顔には驚愕と、焦りが走り……今までの落ち着き払ったクールな表情はどこにもなかった。紅い眼光が消え失せ、威圧感を持った圧倒的な雰囲気はもう感じない。

 今なら、やれる……?

 もはや理性は飛んでいた。

 目の前の人物がどうなろうと――関係ない。

 頭痛と共に、本能が加速。

 シナプスとパルスが光速で廻り、

「おあぁあああぁぁあああ!」

 突如、轟風。

 何もない庭園に、嵐のような風が猛る。バキバキバキ……と大樹を割るように、背後にそびえ立っていた灰色の壁が捲くり上げられ宙を舞う。微塵となって巻き込まれながら、渦を作り目の前の人物に向かう。

「はは、はははははははは!」

 壊れろ、圧倒的な力をぶつけろ、

 猛烈な風が齎す銀の龍を――アイツに!

「コレは……ッ!」


 ***


「――フラウ。フラウっ! 起きなさい!」

 ぺちぺちと何か叩かれる音がする。

「起きろっ!」

「ぁ痛!」

 脳を揺らされる衝撃に、跳ね起きた。

 すると、視界には見慣れた顔。シュカが居た。

「あれ? どうして俺……」

 頭がぼうっとして、記憶の前後をうまく接続できない。が、どうやら俺は寝かされていたようだった。

「はぁ、やっと気が付いた。ほら、重いんだから早く起きてよ」

「あぁ……うん?」

 重い、って……

 上半身をがば、と起こしてシュカの方を見る。正座していた。ってことは……

「もしかして俺、シュカの膝枕」

「あーあーあー! は、恥ずかしいんだから言わないで! もう……こんなんだったらやるんじゃなかったわ……」

 頭の後ろを撫でる。柔らかい、そしてほのかな温もりが残っている気がした。

「別に良いじゃない。自分からやりだしたくせに~」

「うるさいセトナは黙ってて!」

 そこで、痛烈な違和感。

「あ、れ……? そういえば確かセトナさんと話してる最中に何か意識が飛んだような気がするな……。覚えてないけど、セトナさん。俺何したか覚えてます?」

「……あー、それだけどね」

 割って入るシュカ。

「セトナとあんたの間にちょっと良くないことが起こったのよ。ほんとに些細なことだけどね。それで結果的にはなんともなかったんだけど、多分その記憶が戻ることは無いと思う」

「それって、大丈夫なのか?」

 些細、と言われても。良くないこと――ましてや自分が覚えてない時のことだから、不安になる。

「うん。あくまでもあんたが倒れてる、っていうか気絶してた間だけだし――セトナの名前を覚えてるなら、そんな深刻なことじゃないと思うわよ。ちょっとしたリトルプレイヤーの干渉反応が起きただけ。貧血みたいなものね」

 シュカの表情は至って普通で、何かを隠してる様子は無い。

「ならいいんだけど。……でもシュカ、もしかしてお前、泣いてたのか?」

「えっ!?」

「だってほら、涙の跡が」

 白い透き通るような輪郭の端は少し濡れていて、目の下がやや赤くなっている気がしたのだ。

「な、泣いてなんかないわ! ただちょっと、さっき顔を洗ってきただけよ」

「ふーん……」

「シュカは泣き虫ですからねぇ~」

「そんな頻繁に泣かないわよ! もう、二人して私をからかって……はぁ。とにかくフラウも起きたことだし……ミャーはまだ寝てるけど」

 高窓から入って来る一筋の暖かそうな明かりに、猫みたいに体を丸めたミャーちゃんが、昼寝というべきなのか……すやすやと休んでいる。

「ミャーは、フラウさんに任せておいても大丈夫でしょう」

 そんなことを言ったのは、セトナさんだ。

「へ?」

「まぁ……セトナがそう言うなら良いけど。一人にするよりはマシだろうし。でも本気で言ってるの?」

「はい~」

 セトナさんの顔は朗らかだ。

 一方、俺にとっちゃ何の話をしているのか分からない。

「えっと……何の事?」

「私とセトナは、これからちょっと外に出るから。ミャーを連れていくわけには行かないし、そんな長い時間じゃないから……ここでちょっとミャーのお守をしてて欲しいの」

「うーん、それならまぁ、いいけど……」

「決定ですね~」

「ミャーが可愛いからって、変なことしたら切り刻むからね」

「するかよ!」

 これでも僕は紳士のつもりだ。

 まぁそんな僕の弁明はあっさり無視され(セトナさんはプレッシャーのある笑みを放っていた)、二人は足早にこの部屋から出て行った。なんとなく頭がまだぼうっとしているし、ミャーちゃんのお守、って言っても寝ているし……俺も昼寝するか。


 ***


 言い訳のようにミャーをフラウの元に置いて、私とセトナはフラウに見られない場所から、セトナの作った空間のゆがみを利用して、とある密室に移動した。

 誰にも話を聞かれる心配はないし、人間に見つかる事も無い。問題は、風通しなんてないから、物凄く蒸し暑いことくらい。

「便利だけどね……せめてもうちょっと涼しい所がやっぱり良いわね……」

 思わずぱたぱた、と手うちわで仰いだ。当然風なんてこないけど。あくまで気休め。

「熱いなら脱いじゃえば良いんじゃないかしら?」

「ちょ、ちょっ!」

 言って、すぐに身につけている服のジッパーを緩めようとする。セトナの胸はかなり大きいから、上着を脱いでシャツ一枚なんかになったら、露わになっちゃう。

「セトナがそれをやると洒落にならないから本当にやめて!」

「え~……シュカってば、嫉妬してるの~?」

「そりゃちょっとはするけど! でも女の私の前でも、そういうえっちな事は禁止って言ってるでしょ! ミャーが真似したらどうするのよ!」

「ミャーは頭が良い子だから大丈夫よぉ~」

「もう……とにかく、近々奴らが来る気配だってあるし、あんまりあそこを空けたくないから早めに本題に入るわよ」

「はいはい~」

 本題、ってのはもちろんフラウのこと。

 フラウには私の瞬間切断で、記憶を一部消したからきっと分からないだろうけど。

 あの自己紹介の時、セトナがフラウに対して能力を使っていた。そして私も、止めることが出来なかった……。

 ミャーの前であんまり暗い話はしたくないから、ミャーが寝るのを待って、セトナと話すことにした、ここはそういう場。

「単刀直入に言うわ、セトナはどうしてフラウに能力を使ったの」

 あくまでも、口調は普段通りで。彼女は私の同胞で、機関から逃げた後ずっと一緒に支え合ってきた身。彼女には彼女なりの理由があるって、思うから。

「今は『セスナ』が眠っていますから、全部は説明できませんけど~、一概に言えば私もセスナも、彼を信用できなかった、からですよ。シュカの隣に居る存在として、ね」

 セスナ……とは、彼女の能力として身を宿す人格。外形擬態化のリトルプレイヤーは、その擬態能力を示す人格が、本人とは別に宿るもの。温厚でトロくて天然のセトナと違って、セスナは冷静沈着、計算高く物を考える人格。正直私も彼女は気難しいと思う。

「私が彼を信用してるの。もちろん、あいつは馬鹿でスケベで空気読まないけど……」

「それは分かってますよ~。というか、シュカが連れてきてなければ敷地を踏む前に『壊して』ますから」

「……っ、セトナ!」

「今は違いますよ。上辺ながらも彼がシュカに危害を加えるとは思わないですし」

 はぁ、と大きくため息が出る。温厚なセトナだけれど、たまに見せる、こういう言葉はゾクっとする。

「――ですが、どうしてシュカはそこまで彼を擁護するんですか?」

「……分かんない」

 そう、どうして彼を。フラウにここまで心を許してしまっているのか、分からない。

 一応、フラウが他の人間達と、少しは違うことを知ってる。まだ短い期間だけれども、あいつは騎士団っていう地位を捨てて、私と共に居る。

 最初はスパイのつもりかと思って、寝たふりをしながらあいつが動くのを待ったけど……拍子抜けも拍子抜け、あいつは人様の家のベッドの半分を占有しながら、毎日私よりも先に爆睡している。

「分からないのに、信頼しているの?」

「でもっ! でも……あいつは何か『違う』って確信してるの。……いや、私の知ってる何か、な気がする……のかな」

「ふぅん♪」

「と、とにかく! 私は彼を信用してるの! ……漠然とだけど。でもセトナは……なんで彼をあそこまで、やったの?」

 セトナの能力の詳しくは、私も知っている。

 妖狐を擬態する『九尾火狐』は、仮初めのもの。本態は……その人格が持つ、凶悪なまでの『心』の破壊衝動。セスナに取り込まれたフラウは、幸いそうなることはなかったけれど、代わりに、頭を押さえながらもセトナと揉み合いになって――そして、突然……私に抱きつくようにして眠ってしまった。何かがあったのは間違いなかった。

「正直……セスナがあそこまでやっちゃったのは予想外だったわ。私としては、ちょっとシュカの事を忘れてもらうくらいで済ませれば良いって思ってたから~。でもね、今なんで『やった側』のセスナが……力を使って覚醒している筈なのに、眠っていると思う?」

「……もしかして」

 私の中で、一つの推測が浮かんだ。

「セスナが――負けた?」

 普通の人間に対してリトルプレイヤーが能力戦で負ける事は無い……ましてや、自分の否定するもの全てを思いのままにできるセスナが、肉弾戦で負けるわけが無かった。でも、目の前のセトナは……私の問いに、首を縦に振った。

「そんな……まさか……」

「負けたと言っても、別にセスナが死んだわけじゃないけどねぇ。でも、彼はあの空間で、セスナが無理やり『心の回線』を切らなきゃいけないほどの力を使ったのは事実よ。それはつまり」

 ――フラウが、人間離れした何かを持っている、と言う事。

「まだ答えを出すのは早いと思うけど、そういう運命が待ってるかもしれないわね」

「そう……」

 ミャーが、肩を撃たれていた彼を見て、同じ匂いがする、と言った。

 セスナが、彼に負けた。

 この決定的な二つの出来事が、私に一つの確信めいた結論を持ってくる。

 不思議と胸が高鳴る。

 彼が、そうなんじゃないかって。

 私が失った過去の残像が見せる、あの姿が。

 それに、

「フラウって、自分のことは『僕』って言ってたのよ。でもさっきは」

「確かに、『俺』って言ってましたねぇ」

 何かが彼に起きたのは間違いないと思っていい。

「……結論を急ぐ必要は無いと思うわよぉ? ゆっくり、ね?」

「……うん」

 そう、急がなくてもいい。

 彼は、私の傍に居るのだから。

「帰りましょう~、ミャーも待ってるでしょうし。ああ、あの子は寝てるかしら」

 セトナが、元の場所に戻る為に能力を使おうとした、それと同時に。


 『警報』を知らせる赤いランプが、光っているのが見えた。


 ***


「うーん……あれ?」

 気づけば床の上で、かなりの時間寝入っていた。少しだけ昼寝するつもりだったのに……。

「学校だったら、教官から制裁貰ってたかな」

 我ながら緩くなってしまったんだな、と苦笑する。

「はれ~? お兄ちゃんも起きたの? おはよう~……」

 さっきまで陽だまりで丸まっていたミャーちゃんも起きてきた。顔を擦っている様子が本当に猫そっくりだ。

「おはよう。シュカ達はまだ帰ってきてないみたいだけど」

「うん~? 二人なら、すぐ近くに居るよ?」

「?」

 首を傾げる俺に、ミャーちゃんは四つん這いのままぺたぺたと寄ってきて、

「あのね、ここは、おかーさんが結界、ってのを張って、一つの場所をいっぱいあるように見せてるんだー。それで、わたし達には見えないけど、すぐそこできっと……お話してるんじゃないかな」

「おかーさん、ってのは?」

 俺がまだ知らないリトルプレイヤーだろうか?

「にゅ? お兄ちゃん、さっきおかーさんと話してたでしょ?」

「もしかして……セトナさん?」

「うん」

 そ、それは知らなかった……。ていうか、セトナさん二十歳って言ってたような。ミャーちゃんの年齢はまだしも、まぁ、なんだ……色々複雑そうだ、な。

「そのおかーさんの力で、このお部屋ぜんぶが、人間さんに見つからないようにしてるんだよ~。だからね、ここは安全なの。わたしとおかーさん、それとシアちゃんが、ここで暮らしてるんだよ。シュカだけはずーっとお外の家に住んでるんだけどね~」

 にゃはは、と少し困ったように笑う。

 シア、ってのは多分あと一人のリトルプレイヤーの事か。それにしても、ただ住むだけでもやはり、何か施しておかないといけないらしい。俺だって、敵地のド真ん中で見張り無しに野営はしたくない。そんなことしてたら寝首を掻かれることは容易に予想できる。

「ん、でも……なんでシュカはあんなボロ小屋に住んでるんだ?」

 そりゃ、シュカの事だから寝ている間に襲撃されても返り討ちにしてしまいそうだが。

「えーっとね……シュカは、わたし達と会う前からここに住んでたことがあったんだって。その時はシュカ一人じゃなかったらしいんだけどー、その時からあのお家に居た、って聞いたことがあるよ~? おかーさんが何回も言ったけど、シュカはぜったいに聞いてくれなくて。おかしいよね~」

 へぇ、何かこだわりでも持ってるんだろうか。今度聞いてみてもいいかもしれない。

「うにゃー、お暇だにゃー」

 ミャーちゃんが、ごろん、と再び横になる。あぐらをかいて座っている、僕の膝の上に頭を乗せて。

「はは、またお昼寝の時間か?」

「うんー……することないと、眠くなっちゃうからー……」

「膝、硬いだろ? 毛布か何かの上に」

「大丈夫だよ~……お兄ちゃん、暖かいし……にゃー」

 そのまま、俺の腿に手を乗せてうつらうつらと船を漕ぎだした。頭を軽く撫でると、「うにゃー……」と返ってくる。本当に猫そのものだ。虎だけど。

 ゆっくりと、安寧な時間が過ぎて行く。それはずっと続くんだと思っていた。

 その刹那。

 ダーン、なんて音では表現できない程大きな爆発音が、巨人が近くを走ったのかと思うくらいの振動と共に、訪れた。

「な、何だ!?」

「んみゃ?」

 思わずあぐらをかいていた下半身を立たせてしまい、腿の上に乗せていたミャーちゃんの頭を床に摺り落としてしまう。

「あ……ごめん、痛かった?」

「う~……大丈夫」

 耳の後ろをさすってやる。コブにはなってないようだ。

 しかし、ズシン、ズシンと腹を震わせる振動はなおも続いている。爆音は一定間隔で何回も起こり、やがて多数の叫び声やタタタッと言う発砲音まで聞こえてきた。騎士学校の訓練で、何度も聴いてきた、戦闘の音だ、と思った。

「うゅ……お兄ちゃん……怖いよぉ……」

 きゅっ、とミャーちゃんが俺の服を掴んで、ベルトの辺りに顔を埋めてくる。無理もない、彼女はまだ小さいのだ。いくらリトルプレイヤーであっても、それに変わりは無い。

「シュカは……セトナさんは、まだか!?」

 そんなに時間は掛からない、と言っていたのに――と思っていた所、部屋の空間に波紋が広がった。さっき見た光景だ。

「――ごめん、遅くなった!」

「遅くなりました~」

 そこから、シュカとセトナさんが二人揃って出てくる。

「おかーさん!」

「あらあらまぁまぁ」

 すぐにミャーちゃんはセトナさんの元に飛びついて行った。

「シュカ……この音は? 外が騒がしいようだけど」

 小粒の汗を額の所々に浮かべているシュカは、深刻そうな顔で告げる。

「――騎士が攻めてきたみたいよ。戦闘ね」



 それからは実に淡々としていた。

 シュカは走って荷物を取りに。

 セトナさんは服を着替えに行った。

 俺はただオロオロしながら、ぎゅ、っと裾を掴むミャーちゃんと一緒に、突っ立っているだけだ。

 やがて、シュカが戻ってくる。手には灰色にくすんだ、紐の千切れているバッグが握られていた。

「フラウ。あんた、どうするの? ここに残るか。私達と一緒に来るか。言っておくけど、相手は騎士団の連中だから、あんたも向こうに帰るなら帰っていいわ……今なら見逃してあげるから」

 俺は唾を一つ飲み込んで、首を横に振る。

「それは無い。俺はもう、あそこには戻らない。その覚悟でシュカについてきたんだし。今更騎士団に付くことは無いよ」

「そう……なの」

「当然、俺も行く。足手まといになるかもしれないけど、『約束』だからな」

 あの雨の中、俺はシュカの盾になるって誓った。覚悟はできている。

 それを聞いたシュカは、少し頬を赤らめて、

「……ふ、ふん! 足手まといのくせに言う事だけはでかいんだから! 邪魔だけはしないでよね!」

「いちゃいちゃタイムは終わりましたかぁ~?」

 セトナさんも、着替え終わったらしい。さっきまでの、セクシーな服とは一変、清楚な白を基調とした、袴服だ。僕とシュカを一瞥し、雰囲気が変わる。

「――行きますよ。能力の展開中、部屋の結界は使えません。逃げ場はありませんので、対象は駆逐してください」

「分かりました」

「ええ!」


 先頭はシュカ。真ん中に俺。セトナさんは後方から、ミャーちゃんはセトナさんのさらに後ろで、隠れるようにしている。

 入口から隠れるように、外へ出た。

 途端、目に入ってきたのは……ボロ小屋だらけで草木は萎れ、暗雲とした空気ながらも、精一杯生きようとしている人達が溢れるスラムの姿はどこにも無く、禍々しい金属音と発砲音が支配し、火の手が次々と家屋を飲み込んでいくだけの――そう、まさに戦地だった。

「こんな……」

 思わず絶句してしまう。鋼鉄の剣と弾ががちゃがちゃタタタと死を奏で、爆発音。地面に突き刺さる。土埃がカーテンのようにばっと舞う。

 スラムを闊歩しているのは住人ではなく騎士団だ。俺の隊が使っていたのと同じ、防弾性が極めて高い、頭から脚までを金属で固めた重装備。兵装は各々、剣や銃など……数は見えるだけでも百数十は居る。兵数としては多く無いが、スラムの狭さを考えれば、小一時間で制圧できる量が送りこまれてきていることは確かだ。今一度言うが、ここは戦地じゃなく、中程度の町の、それも一部なんだから。

 前に陣取っていたシュカが振りかえる。

「……行くわよ。大丈夫?」

「――ああ」

 鞘に収められているスラッシャーを確かめるように撫でる。大丈夫だ、覚悟は出来てる。こいつを振るうのは、初めてじゃない。

「セトナ、お願い!」

「――結界(セクリッド)庭園(・ガーデン)」

 シュカが飛び出すのを合図に、セトナさんが能力を展開した。

 目標を特に定めずにスラムの破壊を繰り返していた騎士団が、一斉にこちらを向く。と同時、うす黒い膜のような、セトナさんの結界が、スラム一帯を取り囲んだ。

 それまで隊列を組んでいた彼らが、唐突な目標の出現と、不可解な現象の存在に慌てふためいている。チャンスだ。シュカが先陣を切って前に飛び出した。

 戦闘が始まる。

 俺はシュカの邪魔にならないように、援護用のハンドガン(殺傷能力は重装備相手にはほとんど無いだろう)を片手に、もう片手を鞘に当て、後ろから追う。

 慌てふためく小隊の一部が、シュカに対して明確に敵意を露わにした。ほとんどが近接兵装だ。援護射撃を一つ、二つ入れる。伏せる。

 敵の足元に弾痕を二つ。それだけでシュカには十分だった。

 俺はまだ、シュカの戦闘方法を見たことがなかった。何せそもそもリトルプレイヤーは能力によって戦闘に特化するもの以外にも、前線ではまったく意味を為さないものもある。前者は例えば、触れたものを発火させることができる……など。後者は、体内でどんな毒物にも対応できる抗体薬物を作り出すことができる……など。

 セトナさんは所謂補助側なそうで、普段結界を張ってあの家周辺に人間が入りこまないようにしたり、その他幻術めいたものを使う。よって、武器は最低限護身用のマガジンしか持っていないらしい。

 一方シュカの能力は瞬間切断……どんな戦いかたをするのか、それが初めて明らかになる。

 シュカの手元には一般的な長刀。スラリと長く、スラッシャーよりも厚みがある。腰には回転式の小型銃がホルスターに止められていて、薄手のワンピースに似つかない。

 シュカの直線状に五人が立ちはだかった。刀が構えられる。

 その一瞬。

 一歩大きく前に踏み出したかと思えば、次に瞬きした時にはもう、五つの首が宙を舞っていた。遅れて赤い霧が噴出して、白のレースが染まった。

 俺には、シュカが能力を使ったことが分かった……が、彼らには何が起こったかすら理解できずに逝っただろう。相手がまだ自分より射程外に居るのに、そこから首を討ち取られるまでの時間を、切り取ったんだから。

「目標だ! 隊列を乱すな、一斉にかかれ!」

 隊長と思しき人の声が響く。二十や三十では済まない銃口が、シュカを捉えて火を噴いた。

 鉛玉が迫る。その全てに、シュカは避けようとしない。否、当たらない。

 銃弾が体に当たって殺傷する瞬間を、切り取るから。

 シュカが前に突っ込んだ。飛んだ。目標に鋼鉄の嵐を浴びせた、と思いこんでいる騎士団は呆然としている。空中で一回転。刀を上に放り投げ、ホルスターから銀色に光る拳銃――二丁抜いた。鮮やかに手の内で半回転。集団に向かって、逆に弾丸の雨を降らせた。

 全てが流れ作業のように、滑らかに動く。俺の眼には、そう映る。

 けれど瞬間(フレーム)と瞬間(フレーム)の間を、コンマ(フラ)以下(ット)に切り取り、張り合わせている。映画のネガの前後が少し変化して繋がれている、その間――空白部分に自分を滑り込ませて、敵からの攻撃は絶対に当たらない、そんなゲームみたいな無敵時間を作り出している……そんなカラクリだ。

 ……と、戦闘前にシュカから教えてもらった。

 シュカが地面に降り立ったと同時、銃を向けていた数十の人間が、バタバタと動かないモノに化した。たった二回。それだけで、視界に捉える人数を戦闘不能にしてしまった。

「大分侵入を許してるみたい。一掃しながら、街の入口まで戻るわ」

 俺は頷く。走るシュカの後ろをついて行きながら、骸から起き上がる敵が居ないか逐一振り返ったり、死角に牽制射撃を入れる。まだ敵は多数だ。


 入口へ向かう間、シュカは八人を斬った。残酷なように思えるが、これで怯んでいてはとても務まらない。俺だって学校で学んだことは、リトルプレイヤーを斬ることだ。対象は違えど、やることは一緒。上がる血飛沫で服が染まろうと、剣が濡れようと、前に進まなければいけない。

 道中、スラムの住人が無残に腹に穴を開け絶命しているのも見かけた。老人から子供まで。やったのはおそらく騎士団の連中だ。あの、ゴミ捨て場で生きようとしていた人も混じっているかもしれない。頭の中でそっと祈った。


 走り抜け、隙間に身を潜めた先に、門が見えた。禍々しい灰色の門だ……今は錠前ごと外され、門はその口を開けている。当然、周りには両手両足の指で数えられない騎士団が集っていた。いや、それどころか、まだ後ろにも続いている様子を見ると――千に上ってしまうかもしれない。

「数、多いな……」

 思わず口から漏れる。いくら味方の力量が分かっていても、数は暴力だ。ましてやこっちは機械じゃなく生の人間。この状況に恐怖しないやつなんて、鉄の心臓どころか重合金でできてるに違いない。

「おかーさん……」

「大丈夫よ、怖かったら隠れていてもいいからね?」

 背後のミャーちゃんはずっとセトナさんの服を掴んでいる。壁と壁の間に隠れながら、シュカに言う。

「この数、大丈夫なのか?」

「……やるしかないでしょ」

 シュカは表情を変えない。

「ただ少し多勢に無勢って感じね……さっきみたいに軽めの能力解放じゃ苦しいわ……、全力で叩かないと数に呑まれる」

 四対千。

 実質戦っているのはシュカだけだから、一対千だ。

「さっきの、セトナさんの結界を展開してもらうのは……?」

「さすがに無理ですねぇ。私が思いがままにできる庭園は、入れる人数や能力の強さに応じてキャパシティがありますから~。さっきの『結界』ですと、百人くらいは入れますけど、あれは外界との次元を捻じ曲げるだけで、攻撃機能はありませんし……それより負荷の強い『境中』『幻想』は十人ほどでいっぱいいっぱいです。シュカはともかく、私は大人数の戦闘には向かないんですよ~」

 ごめんなさい~、とセトナさんは頭を下げる。

「なら正面突破しかない、か……」

「そうね――切るフレーム数を上げれば……援護射撃、頼めるかしら」

 いや。

「俺も行く。一人より二人の方が良いだろ」

「なっ……! そ、そんなのダメ!」

 壁に潜みつつの最大限の声でシュカが叫ぶ。

「お、おい……あんまり大声出すなよ」

「ごめん……。でも、あんたを前に出すわけにはいかない。私達みたいに、能力があるわけでもない、ただの人間なんでしょ。瞬間切断は万能じゃないの、瀕死なら治せることはあっても、死んだあとじゃ戻せないし……」

「俺がこれで死んだって恨んだりしないさ。言ったろ、盾になるって。矛に守られる盾じゃだめなんだ。頼む、俺も一緒に行かせてくれ」

 小声だけど、あくまで強気の目で訴えかける。

 シュカは一度目を白黒させて……数秒ほど中空に視線を漂わせた挙句、ようやく諦めたように言った。

「はぁ……分かったわ。物分かりが悪いのもあいつと――」

「ん?」

「あぁいや、今はそんなことより。とにかくセトナは維持できるだけの結界をお願いね。最低でもミャーだけは守ってあげて。フラウ、あんたは……私と横列で、銃は使わない方がいいわ。遠くからは牽制に使えるけど、近場じゃ手数にしかならないから」

「ああ、分かってる」

 一応腰には付けておくが、余りのマガジンは捨てておこう。邪魔にしかならない。

 これで準備は整った。

 本当に唐突だけど、あとは生きるか死ぬかだ。さっきまで普通に自己紹介なんてものをしていたばかりなのに……まぁ、生き死になんて、そんなもんだろう。

「――一斉に、行くわよ。三、二……」

 一、

 ゼロ。

 並んで静かに飛びだした。掛け声なんてのは要らない。

 スラム奥まで展開していた隊と違って、こっちの奴らはまるで警戒感が無く、近づいているのに誰も気づかない。あちこちに上がっている火と煙に、制圧の安堵感が漂っているのだろうか。どのみち、こっちには関係ない話だ。むしろ、ありがたい。

 大隊の先頭まであと数メートルまで迫ったところで、ようやく向こうがこちらを指差してきた。もう遅い。

 シュカが口に黒い物体を咥え、先端部分を外す――手榴弾。

 走りざまに隊の真ん中に向けて投擲した……あくまでも古典的な方法だが、それが非常に効果的な不意打ちになったことは、火を見るより明らかだった。

 数秒の後に炸裂音。スラムの硬い土でも、埃が上がる。埃のカーテンで、見たくもないものを大量に見なくても済んだのは幸いだ。いくら敵でも、肉片の散る姿は狂気に満ちている。

 結局、爆発だけで大隊は大混乱に陥った。先頭集団は吹っ飛び、中距離攻撃をするはずの真ん中がむき出しに。突然の事態に統率は取れず、瞬く間に散り散りになって行った。少数対多数の、理想的な形だ。

 俺はシュカの方を見つめた。無言で頷きだけが返って来る。背を向け合うようにして、俺達の戦闘は再び始まった。

 砂埃がまだ収まらない中、まず一番身近に居た騎士を斬り伏せる。無意識の内に俺はスラッシャーの片方を抜いていた。ぴぴっと、赤い泡沫が切っ先を濡らす。さて、終わった時に濡れてない所はあるだろうか。

 移動する。斬る。次の目標を探す。目前に三人の集団だ。一人目を薙いだ後、二人目を冗談から袈裟。三人目は奇声を発しながら掛かってきた。二人目のせいで剣は泳いでいる。隙のでかい腹に蹴りを入れて押し戻してやった。怯んだ。脳天から正面一発。

 背中越しに聞こえる断末魔は、前方から聞こえるものよりも遥かに凌駕していた。振り返っている暇はないが。

 一歩踏み出した。完全に相手は混乱している。まるで初年兵どころか、騎士学校の一年生だ。斬り伏せる。斬り伏せる。首、胴、心臓。

 どこからか飛んできた弾丸が、肩を掠めた。痛みは特になし。目を凝らす。正面五メートルほど。ハンドガンを構えた奴が居た。拳銃を吊るしていない方のポケットから投げ慣れたナイフをお礼に返してやろう。額に直撃した。

 正面の視界から敵が消えた。ふと左へ視線。向かってくる集団が居る。三十ってところか。シュカとふと目が合う。なるほど了解。

 突っ込む。返し袈裟で相手の武器と交差する、金属音。後から遅れて、集団を微塵にするタタタと発砲音が響いた。頭部に穴を開けて、頸動脈から鮮血を飛ばして、バタバタと倒れた。

 死をもたらす弾丸が飛び交う中で、手を伸ばせば触れられる距離で相対して、それでも俺は不思議な安心を隣から感じていた。

 フレームの世界を切り取り、弾丸をばら撒いていき、長刀を振るう……それは何か、既視感のようなものさえも感じさせた。まるで何年も前から、一緒に戦っていたような。

 そうして小一時間。

 疲労は思ったほど重くなかった。むしろ、緊張が取れた分だけ動きが良くなっているかもしれない。

 そして、背を向け合ったままぐるりと螺旋を描きつつ屠り淘汰し続けた結果――戦場の支配者となっていた。

 描く螺旋の線上から敵は消える。さもなくば、スラッシャーの餌食になる。集団は、フレームの間に弾に貫かれる。

 螺旋の通る所、後に残るのは骸の山。

 やがて、敵の作るベールが晴れた。肉体という名の壁が無くなり、向こう側に閑散としてしまった街が見える……ただ一つの集団を残して。

 二十、三十……百は居る。それも全員が重装備。練達なのか大隊の中核なのかは分からないが、統率の乱れていた奴らとは雰囲気が違う。

「投降しろ!」

 全員が、銃口を向けてくる。

「……だってさ」

 さすがに苦笑が漏れる。この状況は、俺ではどうにもならない。俺では。

「そうね、でもその前に……」

 シュカが前に出る。正面に銃口を見据えて、歩いて行く。

「!? と、止まれ! 止まらないと――」

「止まらないと?」

 彼が喋れたのはそこまでだ。

 フレームが止まる。

 瞬間だけでなく、連続して。

 僅か一、二秒だけ……シュカの姿が視力の世界から消えていた。その姿が元に戻った時、

「――瞬間(フレーム)解放(リムーブ)」

 投降を促した彼を含め、百人以上……誰も口を挟まない。挟める訳もない。

 シュカがフレームを解放したと同時、赤色の津波が一瞬空中に散って、二倍に増えた肉塊がぼとぼとと地に臥した。

 物を言う肉体が前方から全て消える。戦闘が終わったことを示していた。



「セトナ! そっちは?」

「敵意反応は無くなりました~。敵影自体はまだ残っていますけど、それでも十には上らないでしょう」

 俺達二人はセトナさん達と合流した。門付近でドンパチやったせいで、逃げようとした騎士がスラムの方に流れてしまったらしい、軽傷ながら戦った痕が見られた。

 ちなみにミャーちゃんはセトナさんの背中にしがみついて眠っている。

「なんとか……なったのかな」

「うん……。私もちょっと、疲れた」

 崩れたコンクリート塊に背持たれて座っていると、横に居たシュカがこてん、と頭を肩に乗せてくる。白のワンピースだったものが紅白になっていて、銃創の跡、火薬の黒ずみが雪のような肌を痛々しく見せている。それに息遣いも薄く、相当に疲れているようだ……当たり前だけど。

「うふふ、やっぱりお二人は仲が良いんですね~」

「茶化さないでよ……これでも全力出した後なんだし」

「ああ、シュカは頑張ったさ」

 軽く梳くように頭を撫でる。特に嫌がる素振りも見せず、シュカはそのまま身を任せてきた。

 と、その時。

 ガシャ、と何か重い物を地面に落とす音がすぐ近くでしたのが耳に入った。

「っ誰だ!」

 音がした方へ視線を向ける。姿そのものは見えない。

 もしかしたら大隊の残存兵力が居るのかもしれない……全部を倒したわけじゃない、相手が銃器を持っているのなら警戒すべきだ。

「……セトナさん、ちょっとシュカをお願いします」

 シュカの肩をセトナさんに預け、長い雑草が密集して……如何にも隠れられそうな死角がある場所へ向かう。ハンドガンを片手にそこへ近づいて、

 ザ、と草を掻き分けた先には――

「ひゃあ! ここ、降参! 降参するから……私何もしてないんだから連れてこられただけなんだからぁ命だけは」

 妙に見覚えのある金髪のツーテール。幼い顔立ち。そうそれは、

「まさか――フラン~~~!?」

「ふぇ……、えっ、えええっ!? ふ、フラウ兄ぃ……!」


 およそ数カ月ぶりに見る、『元同僚』の姿だった。





























 第五章 果てなき夢の果て、眠る楼はついに、




「フラウ兄ぃ、あ~んっ」

「いいって俺は……自分で食べられるからっ」

 嬉々とした表情で、「あーん」をやって、野菜を俺に食べさせようとするフランを牽制しながら、自分の皿によそった肉を口に運ぶ。うん、うまい。

 あの一戦が終わってから、俺はあり得ない再会を果たしていた。

 フラン。俺の、妹のような存在であり、元ルームメイト。

 正直このスラムで一泊した時から、騎士団に戻れるとは思っていなかったから、時として思い浮かべることはあっても、学校の奴らとは二度と会う事は無いとそう思っていた。

 時間にしては、たった数カ月だ。隊に配属され、初陣で行方不明扱いになっている間に、フランは一学期遅れで騎士学校を卒業したらしい。十二歳での所属は、多分史上最年少だろう。今回の任務の遊撃隊に、支援要員で参加していたのだが、前方が壊滅したせいで遊撃もクソもなく、ずっと物陰に隠れていてあそこに居たのだそうだ。

「しかしちょっと見ない間に……背、少し伸びたか?」

「えへへ。成長期だからねっ。フラウ兄ぃは――なんか、大人っぽくなった」

「そうか?」

「うん、雰囲気がね。前はちょーっと俯瞰的っていうか、妙に冷めてて、たまに何考えてるのか分かんなかったけど……今はやりたいことをやってるって顔してるよ」

 やりたいことをやってる、か。

 俺がこのスラムに居たことについて、フランは何も聞いてこなかった。騎士団内部では俺以外の小隊は全員戦死扱いで、ほぼ戦死と見られていた人物が、敵であるはずのリトルプレイヤーと一緒に居たんだから。

 ちなみにシュカやセトナさんには、フランの事について全部話している。早々にフランの事を認めてくれたのは想定外だったが助かった。さらに、積もる話もあるだろうと、シュカの家を貸し切りにして貰って夕食を摂っている次第だ。他三人は、セトナさんの住まいに帰っている。

「まぁ……フランも卒業できたのは俺も嬉しいさ、ただ――俺はもう、騎士団の一員じゃ、ないんだ」

 皿と箸をテーブルに置き、フランに語りかける。が、フランの方はというと、野菜を口にもごもごさせながら、表情一つ変えない。

「うん」

「いや、うんじゃなくてだからだな……俺は、騎士団に戻るつもりはないんだよ」

「うん。それで?」

 いやいやいや。

 確かにフランは昔から天然で頭が若干弱い部分もあったけど。

「フランお前、騎士団に入ったんだろう。俺は、シュカ達……リトルプレイヤー側についてるんだ。今は何故か成り行きでこうして鍋を囲んでるわけだけど、本来なら即軍法会議だ。言いたいこと、分かるよな?」

 俺が詰め寄ると、フランは幾分不満げに眉根を寄せた。手は鍋の次の素材に向かっているが。

「うーん……フラウ兄ぃは騎士団やめたんだよね? なら、私も騎士、やめちゃえば問題ないんじゃないかな?」

 さらっと。

 そんなことを口にした。

「はぁ!? おまっ、自分が何言ってるのか分かってるのか?」

 四年も学校に通い、兵士としての教育を受けて、ようやく前線に出たと思えばすぐやめてしまうなんて……。

「本気だよ。うん、もう決めた。私、騎士団やめる」

 フランの瞳がすっと細められる。

「待った、せめてもう少し考えてからに」

「いいじゃん、時間なんて無くても。……それに、フラウ兄ぃのことだから、ここに留まるって決めたのもどうせそんなに考えなかったでしょ?」

 うっ。

 た、確かに即日即決だった気がするけど。

「なら一緒だよ。……それに私、孤児だし。記憶も無いし家族も居ない。フラウ兄ぃだけが、ずっと私の傍に居てくれた。もちろんリゼッタやヴィルも居たけどね? だからフラウ兄ぃが卒業しちゃってから、私今まで以上に頑張って。フラウ兄ぃと同じ戦線に立てればいいなって、立ちたいって思った。フラウ兄ぃがやめて、ここに残るなら、私も残るよ」

 フランの瞳は揺るがない。心に揺るぎが見えない。

「……そうか。本気なんだな」

「フランちゃん聞きわけ悪いからね。一度決めたら例えフラウ兄ぃでも止められないよ」

 にひ、と悪戯っぽく笑う。

「はぁ……。そこまで決めてるならもう何にも言わないよ。せめてシュカやセトナさんには話を付けてやる。そこから先、どうするかは自分でどうにかしろよ?」

「本当!? うわーいやったぁ! ひゃっほう!」

 急に立ち上がり、箸を片手に万歳してテーブルの周りをぐるぐると回りだすフラン。

「こ、こら! 暴れるな! あんまり建て付けの良い家じゃないんだから、走り回ったら崩れるかもしれないだろ!」

「おおー! 狭いながら実はお風呂まであるよフラウ兄ぃ! そういえば私ずっと遠征でお風呂入って無かったんだよね! 後で一緒に入ろう!」

「入るか馬鹿!」

 っていうか他人の家に上がりこんでるのに物色し回るのはやめろ。



「はぁ……なんか色々と疲れたぞ」

 浴槽に半分ほど張った湯船に浸かり、立ち昇る湯気を眺めながら、そう一人ごちる。

 フランとはとりあえず話をつけた。シュカはまだ戻ってこないから……それを待っている間に風呂まで済ませることにした。ちなみにフランは居間で待機。ちゃんとカギも掛けてある。

 今日だけでセトナさんと知り合い、騎士団に反逆して、フランと再会した。

 まさに激動の一日と言う奴だ。作った生傷に湯がしみる以上に、身体は疲労に浸食されている。

 これからどうしよう。

 そればかりが頭を巡る。

 フランにはああ説明したが、俺は行方不明扱いになっているだけであって、騎士団に辞表を提出したわけじゃない。毛頭戻る気など無いわけだが、じゃあ逆にフランまで巻き込んで、ここで何か目的があるのかというと、今のところシュカの傍に居る、という漠然としたものしかなくて、明日一日をどう過ごすのかすら決まっていない。

 肩の傷が治るまでは……なんてずっとシュカの家に泊っていたものの、じゃあ治ってしまえばいざ何をするのか……。

 そういえばシュカがこの地に留まっている理由はなんだったっけ。そもそもどうやって生計を立てているのかすら不思議でならなかったし、今度でも聞いてみようか。

「よしっ」

 ざば、と湯船から腰を浮かせた。と同時に、洗面所側のドアが開くのが見えた。

 ガラガラと音を立てて入ってきたのは、

「じゃじゃーん! フランちゃんがお背中を流しにやってきちゃったよ!」

 なんというかまぁ、予想通りの、フランだった。

 いつもリボンで束ねている金髪は解かれて腰の辺りで揺れている。丈の短い、白い布一枚しか身につけていないせいで、流体のようなほっそりとした腰と、平面に近い胸ですら色っぽい。

 だがここで慌ててはフランの思うつぼ。ここは平静を装って……。

「はぁ……フラン。鍵掛けてた筈なんだが、どうやって入ってきた?」

「鍵? これのこと?」

 つい、と右手を挙げる。握られていたのはドアノブ、と錠前の部分だ。

「壊してまで入ってくるかよ普通……」

 さすがに呆れる。シュカになんて言えば良いんだ……。

「ちっちっち。甘いね、私とフラウ兄ぃの障壁は例えお風呂場の鍵だって意味をなさないんだよ!」

 そりゃ壊してしまえば関係ないからな。なんてこった、俺が居ない間に破天候度が酷くなっている……思わず頭を抱えそうになった。

「とにかく、俺はもう上がるから。背中流しは必要ない。ほら、出た出た」

 風呂場からフランを押しやる。

「えっ、ちょっ、ちょっと~。やんっ肩触ったフラウ兄ぃのえっち!」

「はいはい」

「むぅう~! ちょっとくらい意識してくれたっていいじゃんフラウ兄ぃのバカ!」

「うおっ」

 咄嗟に腕を取られて、フランに引き込まれる。このまま倒れると肌と肌で密着してしまう。それはさすがにまずい、とドア枠を掴んだ。それが失敗だったらしい。

 古くて腐っている木の部分なのか、持った瞬間べきりと枠が折れる。さらに濡れた床でバランスを崩して、つい前にあったフランの身体を押してしまう。

「きゃあっ!」「うわぁ!」

 二人して転倒。はらり、と白いものが舞った。

 瞬間、視界に入ってきたのは、ほんのちょっとだけ焼けた、人形みたいな幼い肌。小さな起伏。俺は結果的にフランを押し倒すような形になっていた。

「ふ、フラウ兄ぃ……そ、その……」

「~~~~~~~ッ!!」

 お互いタオル一枚しか身につけていない。タオルが巻かれていない肌の部分が密着して、なんとも言えない緊張が走る。

「ご、ごめん! 今どくから……」

「あっ……フラウ兄ぃ、ちょっと痛いよぅ」

 反射的にどこうとすると、足が絡まってうまく抜けない。あああ、早くこの艶めかしい展開から脱却したいのに!

 顔の前数十センチに、耳まで顔を赤くしたフランの顔と、流麗な首筋のライン。心拍数が急上昇して冷静な思考が取れない。そして、

「ただいま~……あら? フラウ、居ないの……?」

「……シュカ?」

 …………。

 絶望的なタイミングで声が聞こえてきて、それと共に一気に、頭に昇った血が冷めていく。

 がらり、と洗面所と部屋を結ぶ戸が開いた。

「まだお風呂に――」

 そこまで言って、シュカの口は閉じた。

 シュカから見た状況は、『風呂場』で、『ほぼ全裸の男』が、『年下の少女を押し倒している』のに、違いないのだから。

「……ふ、ふふふ……」

 ぷるぷると震える。

「い、いや……シュカ、これは……誤解なんだ!」

 何を言っても言い訳にしか聞こえない、と思った。

「ふふ……ひ、人の家で……他の女を風呂場に連れ込んで……何してるのかしらぁああ? ねぇフラウ、あんた……覚悟はできてるんでしょぉおおねぇえ!?」

 ずんずんずん!

 怒りを足先から頭のてっぺんまで露わにしたシュカが迫って来る。

「ま、待て……な? 話し合えば分か――」

「夢の中で勝手に話し合いしてこいっ! ばかぁあああ!」

 ごすっ。

 足で蹴られたのか、鈍器で殴られたのかは分からないが……とにかく顎を正確に捉えた熱の芯は、すぐに頭に到達して、視界の端にシュカの怒り顔と、フランの驚いた表情が移ったところで、意識を失い――なんだかよくわからない混濁を彷徨って……


 目を覚ました。

 気づくと、やたらと感触の硬いベッドの上に寝かされていた。もう何度と見た、ボロ小屋の天井がすぐに目に入った。額の上に乗っていた、薄い水色の濡れハンカチを手に取る。仄かな清涼系の香りがした。

「大丈夫~? フラウ兄ぃ」

「んっ……フランか」

 ベッドの横に、心配そうに俺の顔を覗き込むフランが居た。

 腹筋に軽く力を入れて、起き上がる。どうやらダメージは残ってなさそうだ。

 ふぅ、と一つため息。

「フランは何もされなかったのか?」

 シュカにとっては変なものを見せられた鬱屈があっただろう。俺はこうして攻撃されたわけだが、同じくほとんど素っ裸の状態で居たフランにも何かやったはずだ。というか、シュカの何気なく八つ当たりに走る性格から考えて、そうに違いない。

「えー……? まぁ、ちょっとだけ?」

「別に何もしてないわよ。話聞いたら、半分だけは納得したわ」

「し、シュカ……」

 気付かなかったが、シュカもフランの後ろに居た。何故かリンゴを、器用に包丁で向いている。

「フン。本当だったら、裸のまま外に放り出してるところよ。それに、この子のことは聞いた。さすがにこの家はそんなに大きくないから、数日のうちにセトナに工面してもらうけど……大きく動いたせいでこの付近自体が物々しくなっちゃってるし、暫くは泊めてあげてもいいわよ」

「……本当か?」

 しょりしょり、と皮を向く音が一瞬止まる。

「こんな子供を、犯罪率の高いスラムに野放しにするわけにもいかないでしょ」

「む。フラン、子供じゃないよ!」

 いやいや、お前まだ十二歳だろ……。

「子供でしょ。胸だってつるぺったんだし、私よりも背、小さいじゃない。言動も子供っぽいし。フラウの入ってる風呂に侵入するなんて、兄が好きな小さな妹のすることよ」

 つん、とシュカが突っぱねた。それに対抗意識を燃やしたのか、フランは座っていた椅子からガタン! と音を立てて立ち上がり、リンゴを向いていたシュカに詰め寄る。

「子供じゃないもん! 大体、胸がつるぺったんって、あなたもまな板じゃない! そのリンゴを置いて切るのに丁度いいんじゃないの?」

「……喧嘩売ってるのかしら?」

 カタリ、とシュカが包丁を置いた。眉間に皺を寄せた二人が向き合う……こっちから見ると、どっちも背は変わらない。どんぐりの背比べの方が、まだ益があるかもしれない。

「そもそも、さっきは如何わしい真似をしておいて、よくそんなことが言えるわねっ!?」

「如何わしくなんてないもん。お兄ちゃんに迫るとこのどこが悪いの!」

「本当の兄弟じゃないから問題よ!」

「それに、別にシュカさんがフラウ兄ぃのことをどうも思ってないなら私が何しようと勝手でしょ!」

 おいおい、起きて早々ちょっとまずい方向に話が流れてきたぞ。

「どど、どうも思ってないわよ? ……ええ。でも私は家主でフラウは居候なわけ。関係で言えば主と従なんだから、従者の面倒を見るのは主の役目でしょ!」

「どこが従者なの! もうフラン怒った。フラウ兄ぃをそんな目で見てたなんて、酷い!」

「私が言いだしたんじゃないもの。ついてきたのはフラウよ? ねぇ、フラウ?」

 いや、俺に振られても……。

「ほらー! フラウ兄ぃ黙ってるじゃん! そんなの作り話だよ!」

「ちょっとフラウ! 本当のことを言いなさい!」

 今度は、二人の矛先が揃って俺に向かう。

「い、いや……な? 二人とも同じ年なんだし、もっと仲良く……」

「そんなのできないよ!」「こんな子と一緒にされたくないわ!」

 どうしたものか。

 いやもしかしたら男としては二人の女の子……それに可愛い子から詰め寄られているシチュエーションは悪くないのかもしれないが、しかし状況が状況である。彼女らは存在が相対する者同士でもあるから、ちょっとした喧嘩でも大事にならないかこっちはたまったもんじゃない……などと思いつつ、困った顔をしていると、二人が視線を一瞬だけ交差させる。

「ねぇはっきりしなさいよ!」

「フラウ兄ぃ~、もちろん私を選ぶよねっ!?」

 フランに左腕を、シュカに右手をとられる。

「お、おい何を――ぎゃあ」

 そのまま上半身をベッドの上に押し倒され、どさっ。埃がばっと舞い、視界には煌めく金と銀。腰の上に跨るそれが、綺麗なシンメトリーを思わせた。

 まぁ端的に言って、二人にマウントポジションを取られていただけの話だ。

「さぁ」

「どっちを選ぶの!」

「いや……あの……いきなり言われてもだな」

 そもそもこれはどちらかを選んだとして、それでどうなるのか……。いったい二人は何を争っているのか、皆目見当がつかない。

「私と同じベッドで寝たくせに! あれは遊びだったわけ!?」

 何とも誤解を招きそうな言い方だから補足しておくと、怪我人は放っておけないってベッドに寝かせたのはシュカの方だ。

「わ、私だってずーっと何年も、フラウ兄ぃと同じ部屋で寝てたもん!」

「別々のベッドじゃない! 私の勝ちね」

 あの、人の腰の上で喧嘩しないでくれないか。

「むきー! むかつく! なら今日は私とフラウ兄ぃが一緒なの!」

「おわ!?」

 腰に跨っていたフランが、胸に飛びついてきた。柑橘系の香りがぱっと一瞬だけほのかに香って、どきっとした。軽く小さい体の女の子の匂いじゃなくて、大人っぽさを醸し出したそれに近い気がした。

「ちょ、ちょっと抜け駆けするつもり? 私も!」

 続いてシュカまで……左肩と胸をフランが占領しているから、シュカは首筋にもたれかかるように。異なる二つの女の子の雰囲気が、俺の頭を加速度的に駆り立てていた。

「ま、待て二人とも。正気になって、頭を冷やしてくれ。な? まずは俺の上からどいて……」

「ダメよ」「ダメ!」

 即効で却下された。

「決めた。私その子がフラウから離れるまで離れないわ」

 シュカは端然として、首に絡めた腕に力を強めてくる。

 や、それはちょっと……。

「じゃあ私もシュカさんが離れるまで離れない!」

 胸に込められた力もいっそう強くなる。

 もうどうすればいいのか分からないまま、幸か不幸か眠気が襲ってきた。しばし忘れてはいたが、つい数時間前には騎士団とやりあったばかりなのだ。フランはともかくシュカも俺にしがみつきながらも目を閉じている。まさかこの体勢のまま寝るとか言わないよな……?

 ふと視線を横にやる。フランと目が合った。するとフランは、もそもそと上の方に這い上がり、小声で囁いてきた。

「(ねぇ、フラウ兄ぃ)」

「……ん?」

「(――こうしてると、昔みたいだね。変なのは居るけど)」

「ああ……そうだな……」

 スペースだけ広い部屋に、二人居た学校時代。

 初めてルームメイトになった年、フランは一人で寝るのが嫌だと言って、兄妹でもなんでもない俺のベッドに勝手にもぐりこんでいたっけ。俺は当時嫌がっていたけれど、てこでもフランは離れなかった。

 不思議だ。

 思えば途中からは、親の仇打ちと共にフラン達の安寧を守るために戦おうって思ってたんだけども……まだ一人のリトルプレイヤーを手にかけてないのに、フランは傍に居る。むしろ、あのまま俺が見つけることがなければ、どうなっていたかは分からない。

 なんとも言えない気持ちを抱きつつ、再びフランに視線を移すと……もう軽く瞳を閉じて、寝入っているようだった。

「まぁ……久々に、こういうのも良いか」

 自分の体に二つの温もりを感じながら俺もまた、硬いベッドに意識を預けた。


 ***


 今日の指令本部会議は慌ただしさに満ちていた。

 無理もない、最低でも一人のリトルプレイヤーが潜伏していると考えられていたスラム街に一部小隊を送り込み五人を戦死させ、重い腰を上げて上層部が意気込みながら大隊を突入した第二作戦、決行が今日だったからだ。

 しかし現在目の前で展開されている論戦というか……まぁ私からしてみれば老害共の責任の擦り付け合いと愚痴にしか見えないのだが、とにかく彼らにとって悪いしらせだったのは言うまでも無い。

 歩兵、遊撃隊、将官クラスまで総動員した約千二百名……本来ならば作戦を終えて帰ってきているはずである。なにせ相手は超人といえど数人だ。

 が、報告員が持ちかえったのは……戦死九百名超という、もはや大敗では済まされないほどの大損害、さらに残り三百余名のほとんどが重傷・または行方不明……。

 聴取によると敵勢力は全部で三名だったそうだが、何にせよこの負けは軍部の、騎士団の負けと言われても言い訳は出来ない。

 それこそ騎士団人口で見れば千人を失っても問題ない戦力があるのだが、言い方を変えればではどれだけ戦力をつぎ込めば相手を倒せるのか……当然ながら、相手戦力の死亡は一人たりとも確認できてはいないのである。

 怒号は続く。

「ですから! 何故あれだけの戦力を結集させたのです! 段階を踏めば良かっただけのこと、しかも標的施設は狭いことを考えれば大戦力は逆に邪魔になることを理解できなかったのか!」

「……ではどうしろと言うのだ。結局千人を持ってしても倒せなかったのだろう。将官の数はそう多くなかったとはいえ、もはやこの程度では無理だと言うことだ。では次はどうする? 万か? 十万か? 冗談も休み休み言え。たった数人にそれほど使うぐらいなら民衆ごと犠牲にしてしまって空爆した方が楽だ」

「本気で仰っているのか! 民の為の騎士団がこれでは話にならない! とにかく、今回の責任は中将、あなたにある!」

「なんだと……? お前、相手を誰だと思ってそのような口を利く!」

 会議は紛糾している様はもう何時間と続いている。それはそうだ、騎士団はリトルプレイヤー討伐という大義名分を振りかざし、国から多額の支援をもって兵力としている。失態が知れれば、騎士団は潰えて他の組織にとって代わられるだろう。

 だが私は――自分が大将という、国を除けば最高地位にあるにも関わらず。

 その状況を、静かにほくそ笑んでいた。

 一人の部下――先ほど中将に怒鳴りつけていた奴が、慌てて私の元にやってくる。

「大将……あなたにも策を伺いたいのですが」

 それを突っぱねる。

「残念ながら私も一朝一夕に思い浮かぶわけではない。そもそも最初に一小隊だけ送ったのは私の指示だが、今回の敗戦は預かり知らぬところだ……まぁ、尻だけは最悪拭いてやる。その代わり然るべき処置は覚悟しておくことだな」

「そ、そんな……」

「話は終わりだ。思索を邪魔されるのは遺憾なものでな」

 顔面を蒼白にして部下は去って行く。ここで私に物言える者など居ない。

 ああは言ったが、この状況は実に私にとって思い通りになっているのだ。つまり、策など無い。毛頭尻を拭いてやるつもりなどない。

 この大敗を指示したのは私に反感を抱く者達だが、挑発を煽ってそうさせたのは私だ。

 そして結果、見事に敵は部下達を叩きのめした。

 半ば敵が倒される可能性こそあったが、見事に敵はやってくれたらしい。

 まさに目論見通り。

 私がずっと前に蒔いた種が芽を出し根を張った。つぼみが作られ、そろそろ花が咲くだろう。

 そして出来る『実』のために、

 『実』に袋を掛けに、自ら出向いてやろう。

 誰にも採られないように。

 自分が摘み取る為に。

 私が動く時が、来たのだ――。

 無駄に高級な椅子から立ち上がり、未だ収まらぬ会議に一石を投じる。

「中将」

「……ハッ?」

「兵をこれ以上つぎ込む必要は無い」

「了解しましたがしかし……この件はどうするのです?」

「私が居る」

 これにはさすがに静まり返った連中もどよめきを上げる。

「私が行こう。余計な兵は要らぬ。邪魔になるだけだからな」

「しかしッ……!」

 異は唱えさせない。両手で机を打つと、途端に声は無くなった。

「私一人で十分だと言っている。アラン中将、君を今日付けで大将代理に任命する。私が居ない間、騎士団を頼むぞ」

 それだけ言って私は部屋から去った。背後から聞こえてくる喧騒など、私が待った四年に比べれば無と一緒だ。

 さぁ、クライマックスへ行こうか。


 ***


「ん……っ」

 朝一番、窓代わりをしている壁板の穴から差し込んだ光で、私は目を覚ました。

 いつもは硬くて腰が痛くなるベッドも、今日はそんなに苦労しなかった。昨日の夜、アイツの身体にくっついていたら、いつの間にか寝ていたみたい。起き上がると、そいつの寝顔がすぐ近くで見れた。

 私の所にコイツが来てそんなに時間は経ってない。けど、コイツに対しての私は、どこか緩くなってしまったような気がする。今だって、ほら。

「なーに幸せそうな顔して寝てるんだか」

 つん、とほっぺを突いてやった。硬い。

 隣には同じく緊張感の無さそうな顔で、フラン、って子が眠ってる。フラウの腕を取って。

 フラウとはずっと、ルームメイトで妹みたいな存在らしい。正直、お似合い……かもしれないって、思う。

 人の家でこんなにすやすや寝ちゃってまぁ図々しいって思うけど。

 でも、やっぱり私の知らない彼を、彼女は知ってる。

 悔しいって思っちゃってる?

 なんで。

 ただの他人なのに。

「うん……そう、他人なんだから」

 他人だから――関係ない。


「ああシュカ、ちょっといいか?」

 だからフラウを起こして、フランちゃんを起こして、

「何? もうおかわりは無いわよ」

「違うって……フランが半分以上食べちまったのは謝るけどさ……。今日、フランにここ周辺とかを案内してやろうと思うんだ。来たばっかりだし、ついでにセトナさんとも詳しく話しておきたいし」

 こう言われても、別に気にしないんだ。

「フラウ兄ぃとデートに行くんだよ! 良いでしょ~。あっ、私だけだからね!」

「案内っつってるだろ……」

「別に良いんじゃない?」

 気にしないから、フラウとフランちゃんがデートしたって別に構わない。

「そ、そうか……」

「あれ? 何か言ってくるかと思ったのに。意外とアッサリOK出しちゃったよこの人! やっぱりフラウ兄ぃとは遊びだったんだ!」

「人聞きの悪いこと言わないで! フラウとは遊びじゃな……って別に付き合っても無いわよ元から! 何言わせるの!」

「今軽くシュカの方から自爆したぞ」

「うん、人のせいにするのは良くないよね~」

 うぅ~、関係ないにしてもやっぱりこの子はむかつく!

「まぁとにかくそんなわけだから少し街の方にも出るけど……大丈夫か?」

 少しだけぴくりとしたけど、平静は保てたはず。

「良いって言ってるでしょ。ま、二人でゆっくりしてくれば」

「う~ん……何か引っかかる言い方するな……。まぁいいや、そういうわけだからフラン、出掛ける準備が出来たら早速行くか」

「わぁい! 三秒で準備しちゃうよ!」

 さすがに三秒では終わらなかったけど、どこに持っていたのかフランはそれから今流行りらしい服に着替えて、そしてフラウと一緒に出て行った。

 私は街に出るのが嫌いだから、服なんてそんなに持ってない。

 流行外れで廃棄されるものを使い捨てに着てるだけ。今持ってるワンピースなんて、フラウはきっと可愛いなんて思ってくれてない。

「……って、何考えてるんだろ」

 フラウのことなんて、関係ないんだから。私が可愛いかどうかなんて、どうでもいい。

「そういえば、二人ともどこ回るんだろうな……」

 フラウに前、強引に街へ連れて行かれた時、いかにも『恋人』っぽい人達がいっぱいいたから、そういうことをする所もあるのかな。

 思わず食器を洗う手が止まってしまう。なんだか私、ばかみたい。

「悩むなら、こっそりついて行けば良いじゃないですかぁ~?」

「ひゃあ!」

 玄関先から声がして、食器を落としそうになる。そこには、セトナがふふふとなんだか黒い笑みを浮かべながら立っていた。


 ***


「さてと……どこから回ろうか?」

 フランを連れて、スラムから街へ。実際には前有ったことを考えれば街はあんまり好きではないんだけれども、これからさらに行く機会は増えるだろうし、案内して損はしない。それに、久々にフランと外に出たことだ。今日は楽しませてやりたい。

「フランはフラウ兄ぃが一緒ならどこでもいいよ! ……えいっ」

 腕に抱きついて、絡ませてくる。

「ふふ、こうしてたら恋人みたいだね」

「……そうか?」

 わざとおどけてみるが、内心その気が無いわけじゃない。というか、久しぶりに並んで歩いたフランは少し色っぽくなっていて、昔の、妹扱いしていた頃とは違うな、と思った。

 実際に、街はカップルで色濃く染まっている。年齢層は様々だが、昨日戒厳令が出ていたとは思えないくらいに活気づいていて、それぞれ着飾って我こそがベストカップルだと言わんばかりに皆煌びやかだ。

 概してフランも、ハイウエストなプリーツスカートに、細身の体をスタイル良く見せる白のブラウスで、身長差があっても子供っぽいとは言えない。逆に俺はいつも通りのデニムにこれまたいつも通りのシャツと、何の変哲もないアピールをしているみたいで小恥ずかしい。

「ま、とりあえず適当に回ってみるか」

「うん!」

 二人並んで、腕を組んで、

 たまにフランへの視線を感じた。

 それをフランは気にしていないようだったけど……すれ違う男性のほとんどがフランを振り返っているのを見るとなんだか、誇らしいのと共に、その視線を避けてやりたくなった。

「店はたくさんあるし……どれが入りたい店あるか――あれ?」

 急に隣からフランの姿が消えてしまった。

 焦って周りを確認してみると、居た。

「……はわぁ~~……」

 ガラス張りのショウケースにべったりと貼りついていた、手と顔をそれこそガラスを通り抜けようとせんばかりに。

 その中には、煌びやかなものから、一見質素に見えてそれが清楚な感じを引き出しているものまで……要するに、流行物を扱う女性用のファッションショップだった。

「おい、いきなり居なくなるなよ。心配したぞ」

「あ、ごめんねフラウ兄ぃ。でもあれあれ、見てよ。すっごい可愛いと思わない? はぁー、着てみたいなぁ~~」

 フランの視線は、その清楚な方に釘付けにされていた。

「……入ってみるか?」

「入る!」

 即答だった。というか、そのまま手を引っ張られて無理やり入店。

 中も色とりどり、所々綺麗に着飾った女性スタッフが忙しく動いていて客も女性ばかり。男性の姿はほとんど見られない。なんというか、すごく気まずかった。

 そんな、店内の様子をわーわーはしゃぎながら動き回るフランと、ぼけーっとしている俺に気付いたカウンターのスタッフが、こちらへ歩いてきた。

「いらっしゃいませ! 本日はカップルでのご来店でしょうか? こちらへどうぞ~」

「い、いやいやそんな! 違いますって、こいつは妹みたいなもんで……」

「えへへ! フラウ~恥ずかしがらなくてもいいんだよ! きゃっ呼び捨てにしちゃった!」

「ばかおい、誤解を生むようなことを言うな!」

 俺達二人を見た店員さんは、もうほほえましさを全開にして、「あらあら~」なんて呟き、

「そうですね、本日は女性のお客様が多いですけれど、普段はお二人で来られる方々も居ますから、お好きなものをご自由に取っていただいて、試着ルームはそちらになりますのでごゆっくりしていってくださいませ。何か御用命がありましたら、お呼びください」

 華麗な営業スマイルを残して、別のお客の所へ行ってしまった。

「綺麗な人だったね~」

「あ、ああ」

「私もあんな人みたいになれたらいいなっ。あ、あの服良さそう!」

 フランが俺の手を引っ張り、コーナーの一つへ。手に取ったのは、春の妖精っぽさを想わせる、淡い色遣いをしたフリル付きのドレスタイプだ。

「これとかどうかな?」

「……一回着てみたらいいんじゃないか?」

「そうだけど――あ。これサイズが大きすぎるかも……現品限りって書いてあるし、残念だけどもうちょっと成長しないとダメだね。あはは」

 その服を元に戻して、また別の場所へ。

「うわぁ、結構コアなのも置いてあるよ」

「どんなのだ……ぶぶっ」

 両手に持たれた、二着の衣装を見ただけで思わず噴き出してしまった。

 片方はひどく胸元と肩の露出した、お腹もへそが見えそうなくらいしか布の無い、極めて布面積が小さい真っ黒の、しかも臀部に至ってはこれは服じゃなくてただの紐なんじゃないかってくらい細い。その紐の先っぽには白い糸の塊がおまけのようについていて、衣装と一緒にウサギの耳を模したヘッドドレスが。

 もう片方は、ちょっと動いただけで下着の見えてしまいそうなくらい丈の短いスカートの、婦女喫茶店で働く人の制服に似ているものだ……確かメイド服、なんて名前だったと思う。

「これ、似合うと思う?」

「いやいや、やめとけって。似合う似合わない以前に、これを着る奴はどうかしてるだろ……」

 これを着て街を歩くフランの姿を少し想像しただけで……頭を抱えたくなった。

 するとさっきの店員さんが後ろから声を掛けてきて、

「ああ~、それはとあるお客様が勝負服に使われるとかで、お取り置きしてるものなんですよ。一応お売りすることもできるんですが……いかがなさいます?」

 俺とフランは一瞬だけ逡巡したあと、揃って首を横に振った。

 そのあともフランは2,3着ほど胸に当てては考え込んでいる。

「うーん……でもどれも可愛くて、迷っちゃうなぁ」

「さっきガラスケースでじっと見てたやつはどうするんだ? 一回着てみたらいいんじゃないか」

「えっ……! だ、だけどあれ。すっごく高いんだよ?」

 別に試着するだけなら構わないと思うんだけど。

「もし着ちゃって、買いたくなってもさすがに無理だからね……ほら、あれ」

 フランが指差したのは、そのガラスケース裏にある値札だった。

 1から始まる数字が3つ並んだあと、0が3つ。

 この店の色んな服より、大体0が1個多い。この地域の通貨で考えると、騎士団の隊長クラスの給料が1カ月分吹っ飛んでしまうくらいの額だから、当然フランには手が出ないのも頷ける。

 俺は自分の財布に入っている紙幣の数を想い出しながら、心の中で笑みを浮かべた。

「いいから。とりあえず着てみな」

「な、なんでフラウ兄ぃそんなに積極的なの……っ」

 フランを試着室に押し込みつつ、

「すいません、あそこに展示してあるやつ、彼女に試着させてあげたいんですが」

 と店員さんに告げた。

「やっ、ちょっ、フラウ兄ぃ!」

「かしこまりました」

 店員さんとフランが、白いドレスと共に試着室に消えていく。

 少しだけ抵抗する素振りがあった後、衣擦れの音がカーテン越しに聞こえてくる。

 適当に椅子に腰かけて着替えが終わるのを待って、

 やがて、カーテンが開いた。

 周りの店員さんと女性客達が途端、現れたフランに注目して、わあぁぁっ、と羨望に似た歓声が上がる。

 輝く金髪とシンメトリーを成す、白いレースのドレス。花と蝶が絹のあらゆる所に舞い、薄く透き通る袖に負けない細いフランの体の線は、ドレスの清楚さと合わさって現実離れした……まるで人形のよう。

 少し開いた肩と背中からはちらり、白い肌が見えているけれどそれは艶めかしいとか色気とかそういうものじゃなくて、精一杯大人になろうとしている少女の儚さとか健気さみたいな、そんな可憐さがあった。

「……どう、かな」

 フランは頬を赤らめて、少し顔を俯かせている。普段活発なフランがこうしてモジモジしているのは、服も相まってまるで初々しい花嫁っぽくも見える。

「ああ。すごく可愛くなってるじゃないか。まるでこれから結婚式を挙げるみたいだな」

「はうあ……え、えへへ……」

「とっても似合ってますよ、お客様」

「あ、ありがとうございますっ。で、でも……これ。とっても高くて。私買えな……」

「店員さん。じゃあこれ、お願いします」

 俺は財布の重量の半分ほどを占めている紙幣を、まとめてレジに差し出した。

「フラウ兄ぃ……!?」

「どうした? 別に金は気にしなくてもいいんだぞ?」

「で、でもこんなの……!」

「要らないのか?」

「そういうわけじゃないけど、でも」

「じゃあ受け取っておけって。今日はフランの為の日なんだから」

「無茶だよう、私、フラウ兄ぃに何もまだしてあげてないのに……」

「俺がフランに着てもらいたいんだ。だめか?」

 フランの目をじっと見つめる。

「フラウ兄ぃ、本当にフラウ兄ぃ? 誰かと中身入れ替わってるの……?」

「俺は俺だよ」

「うにゅう……そこまでフラウ兄ぃが言うなら、着てあげても、いい、けど……」

「決まりだな。じゃ、お勘定お願いします」

「お買い上げありがとうございます!」

 半ば強引にフランを納得させて、高い、けれどフランに良く似合った服を購入した。結局フランはすぐに元の服に着替えてしまったのが少し残念だったが、本人が恥ずかしがって、仕方なく妥協することにした。


 *


 フラウとフランが店から出てくるのを見て、こっそりと私達は物陰に移動した。ここなら、歩いている二人が急に振り返っても見つからない。

「仲良くお洋服を見て、何か買われていったようですねぇ~。フラウさんが買ってあげたんでしょうか?」

 フラウが持った大きな白い紙袋をめざとくセトナが見つけて、そう言う。

「婦人服ショップみたいだしそりゃそうなんじゃないの。むしろあれをフラウが自分で着るためとかだったら私、引くわ」

「お兄ちゃん、楽しそうだね~」

 私とセトナ、ついでにミャーの三人。フラウとフランが街を回るのを、こうしてずっとついて行くことになってしまった。元々の原因は私でもあるんだけれど、発案はセトナ。無理矢理街に連れてこられて、一度入り込んでしまったらここは一人になるのは怖いし、仕方ない気持ち半分でこんなことをしてしまっている。

「あの子、フランさんでしたっけ? フラウさんとは旧知の仲だとか……シュカの新たなライバルが出現って感じで、面白くなりそうですね、ふふ」

「ら、ライバルって何よ! 私は別に関係ないでしょ!」

 そして、私がフラウにちょっとだけ気を許してるみたいに勘違いしてるセトナは、たまにこうして茶々を入れてくる。確かにフラウがあの男の子なら、私にとっての鍵になるけれどまだそうときまったわけじゃないし……。

「関係ないと思ってるならどうして、あんなに街と人間が嫌いなシュカがここまで来たんでしょう~。私も嫌いですけど、シュカの街嫌いは筋金入りですからね」

「……仕方なくついてきてるだけよ」

 昔の記憶を辿れば、この街にはたった一つを除いて、嫌なことしかない。

「だからなおさらですよ。フラウさんのことが気になるってこと、シュカも素直じゃないですね~」

 別に、気になってなんか……。

「シュカー、お兄ちゃんのこと好きなの?」

「ばっ! バカバカ、そんなわけないじゃない!」

「顔、赤くなってますよ?」

「せっとくりょくないのー」

「もう! 私のことはおいといて、フラウ達が行っちゃうから! 追いかけるわよ!」

 気になってなんか、ないんだから。


 *


「はぁ……もう、まさかあんなことになるなんて思わなかったよ……」

「良かったじゃないか。お客も店員さんも皆可愛いって言ってくれてたし」

「あ、あんなヒラヒラした服着たことなんて無かったし……。今までずっと、外に出る時も軍服か武装しかしてなかったもん」

「はは、たまには良いもんだろ。フランは素材が良いんだから軍服よりも百倍、可愛い服の方が映えるさ」

「言っとくけど、フラウ兄ぃがあんなこと言ったからだからね! フラウ兄ぃの前以外じゃ着ないもん」

「分かった分かった」

 頬を膨らましつつも、少し声が上気している。喜んでもらえて何よりだ。

 しかしかなり時間を使ってしまった。夕方までに戻ることを考えれば、もうあと二、三つほどくらいしか店を回れないだろう。

 街道を歩きながら、次はどの店が良いか……とフランに聞こうとしたところで、

「お……?」

「どうしたの?」

 店を構えていない――所謂路上販売というやつだ、薄い青マットの上に商品を広げただけの野店が横目に入った。マットの上にはアクセサリーと思われる小物が並んでいる。繁盛はしていないらしく商品は綺麗に整列したままだったが、店の主と思しきサングラスで長髪の男は俺と目線を合わすなり、

「ん? ああ、兄さん達! ささそんなとこで立ってないで、そんな高いものは置いてないけどさ、ちょっと見ていってよ! おまけくらいはするぜ!」

 と、手招き混じりに声を掛けてきた。

「指輪屋さん?」

「……みたいだな、他にもネックレスとかあるみたいだけど……。さっきの服に似合いそうなものでも選んでみるか?」

「もう、さっきのはもう忘れて! 普通に恥ずかしかったんだからっ。でも、ちょっと見ていい?」

 元からそのつもりだ。

「何か良いのがあったら言えよ?」

 頷くなり、真剣な目つきでフランは数あるアクセサリーを凝視し始めた。

 だが言っても路上販売、おそらくブランド物のようなものは置いてないんだろう。金に見えるのは表面だけの鍍金品だろうし、あしらわれている赤、青、緑の宝石は目立たないくらい小さい。

 じゃあネックレスや腕輪を、と思ったがやけにごちゃごちゃしていてこれは年配の女の人用でとてもフランに似合うようなもんじゃない。

「うーん……」

「兄さん、迷った時はインスピレーションだぜ」

 店主がニヤリ、と笑う。そんなこと言ってるから売れないんじゃないのか、と思いつつも、ちょうど真ん中にあった、小さいダイヤの付いた女性用の指輪を見つける。

 他のものより存在感があって、何より金色がフランの髪とそっくりだったから。

「フラン、これなんてどうだ?」

 その金の指輪を手に取り示す。が、フランの興味は別にあった。

「……これとかいいかも」

 フランが指差したのは、さっきのものより幾分年代の古そうな、光沢のやや鈍った金と銀のペアリングだった。特徴のある装飾はなく、小さい文字で書かれた値札にも、子供でもおこずかいですぐに買えそうな額がつけられていたが、店に並んでいるもので唯一ペアのアクセサリーだった。

「それでいいのか? 他にもあるけど」

「うん。これペアになってるし……だめ、かな」

 ペアリングを買うってことは、対のうち一方は、つまりそういうことだ。

 その意味に多少どきっとしてしまったけれど、

「だめなわけないさ。じゃあそれにしよう、これください」

 金硬貨一枚を店主に渡そうと取りだした。けれど、

「待って、フラウ兄ぃ……おじさん、私が出すよ」

 どこに持っていたのか、小さい財布から銀硬貨と銅硬貨を十枚ほど出して、店主の毛むくじゃらの手に軽く響く音を残して渡される。

「おじさんってほど年重ねてはねぇつもりだけどなぁ、うはは。いやしかし彼氏のために身銭を切る女は良い女って昔から相場が決まってるんだ、あんさんも将来良い嫁さんになるかもな! ほい、お釣りだ。まいどあり!」

 フランの小さい手に、小さいリング2つが乗る。

「フラウ兄ぃ、手、出してみて」

「ん」

 金と銀……銀の方が男用で大きい。それをフランに、右手の中指へ嵌めてもらう。

「似合ってるね、フラウ兄ぃ」

「そうか?」

「うん。じゃ、じゃあ……私にもお願い」

 フランから、金の指輪を受け取って、

「薬指だからね、間違えちゃだめだからね」

 左手を差し出すフランに、そんなことを言われる。

 しかし人間、恥ずかしさが募ると逆に悪戯心に逃げたくなるもんだ。

 聞こえないフリをして、中指に嵌めようとする。

「ちょ、ちょっと! 言った傍から!」

「おっとっと、間違えた間違えた」

「もう! いじわる!」

「悪かったって、ほら動くなよ」

 今度はちゃんと、薬指に付けてやる。細い指を通って、ピッタリと綺麗に嵌まった金色のそれは、ブルーシートの上に並べられていた時と比べて、少しだけ輝きを増した気がした。

「えへへ~」

 真上から少し傾いた太陽の光に透かすように、手を陽に晒して指輪を輝かせてみせる。

「気にいったんだな」

「うん! だって、フラウ兄ぃとお揃いだし。なんかこういうのって、憧れてたんだぁ」

 言われて、自分の指に付けた銀のリングを見てみる。

 お揃いと言っても色は違うわけだけど、改めて小恥ずかしさがこみあげてきた。

「別に、俺じゃなくたってフランにならもっと良い男は居るさ。そしたら今度は、本物の高い指輪を買って貰えばいい」

「むぅ……さっきはちょっとキザっぽいことしてたのに、なんで女の子をこう落ち込ませること言うかなフラウ兄ぃは! 今日はデートなんだから、ちゃんとエスコートしてくれないと、もしフラウ兄ぃに彼女が出来た時知らないよ?」

「今までそういう子が出来たことないから仕方ないだろ? と、とにかく。もうあんまり時間も無くなってきたし、戻り始めよう」

「う~~。もうちょっとくらい……あ! あそこアイス屋さんがあるよ! お腹減っちゃったし行こうフラウ兄ぃ!」

「お、おいちょっと待てって――」


 *


「あらあら、中々良い雰囲気になってきましたね。まるで恋人に見えないこともないかもしれませんよ?」

 セトナが何故か、私のほうをじーっと見て微笑みかけてくる。

「だから……なんで暗に私に振るわけ? それに、全然恋人には見えないわ。面倒見の悪い兄とうるさい妹って感じ」

 フラウ達がソフトクリームの屋台に移動したのを見て、近くに併設された休憩所のベンチで、あくまでも他人のようにしつつ三人で彼らを引き続き監視……のようなことをする。

「嫌い嫌いも好きのうち~っ」

「きゃ! ちょっとミャー抱きつかないで、暴れたら気付かれるでしょ!」

「はぁ~い」

「………………はぁ。私、何しに来たんだろ……」

 ついてきたはいいけど、見るのはフラウとフランの仲良さげな光景ばかりで、恋人っぽくはないけれど確かに二人には何か絆みたいなもので、切ってもきれなさそうな、そんな間柄を繋いだ手に感じる。

 思えば私とは手を繋いでくれたことなんてないし、たぶん今フラウの隣に私が居たとして、同じように振る舞うなんて……無理。

 私の中にある空白は、人間らしさってものを奪い去ってしまったから。

 何が楽しいのか分からないし、どうやったら笑えるのか分からない。

 それでも、もしあの隣に居られたなら、

 笑えるのかな。


「わぁい! ストロベリーとチョコとバニラのミックスだよ!」

「はしゃぐなよ、落として泣いても知らないからな」

「泣かないも~ん。あ、あそこ空いてるから座ろう!」

 二人が戻ってきて、私達の結構近い場所に腰を下ろした。顔だけは見られないように、手持ちの新聞を読むフリをして隠す。

「お母さん~、わたしも……」

「後で買ってあげるから、我慢してね?」

「うん!」

 もうちょっと静かにしてくれるといいんだけど、この二人も。

「うーんやっぱりおいしい! アイスってたぶん世の中の食べ物で一番おいしいと思うんだ」

「まぁ、暑い日にはそう感じるかもな。俺も一口……うん、うまい」

「フラウ兄ぃはオーソドックスにバニラ一色なんだね。ちょっと食べていい?」

「いいけど……お前のにも入ってるだろ? バニラ。味は変わらないだろ」

「ちっちっ。甘いなぁフラウ兄ぃは。他と混ぜたバニラはその時点で他の味に染まっちゃうんだよ! 白は白じゃないとダメなんだよ」

「どんな持論だ。ま、口付けたやつでいいなら、ほら」

 フラウが一口だけ食べたアイスを、フランの口に持って行く。ぱくり、と大きく口を開けててっぺんから齧りついた。

 間接キスだ、と思った。

「えへへ……間接キス、だね」

「ばっ……いきなり何言い出すんだよ!」

「あー、赤くなってる! フラウ兄ぃ、もしかして私のことようやく意識しちゃったり……」

「しないしない。あーもう、それ返せ」

「うぅーまだちょっとしか食べてないのに」

「余計なこと言うからだ」

 フランからソフトクリームを取り返して、大口でばくばくと食べ進めるフラウは、それもまた間接キスってことに、気づいてない。それどころか、口の周りをクリームだらけにして、まるで幼い子供みたい。

「フラウ兄ぃ、口にクリーム付きっぱなしだよ」

「お? どの辺だ……?」

「私が取ってあげるよ~。動かないでね……」

 クリームに気付いたフランが、フラウに近づく。そして、

「え――」

 クリームを口で舐め取り、唇と唇が触れた。

 フランがそっと、フラウから離れる。悪戯っぽい表情をしていた。

「え、お前、今何を」

「しちゃった……♪」

 その瞬間、視界が一気にぼやけて……どす黒いものが体を駆け廻って蹂躙される、今まで感じたことのない感情が支配して、頭の中で考えていたことが全部、抜け落ちてしまった。

 顔を覆い隠すように持っていた新聞が手から滑り落ちる。視界のピントが合わない。頬の横を、すぅっと液体が流れて行った。

「え、と……シュカ?」

 セトナが何か言ってる。けど耳に入らない。

「ごめん……私帰る」

「待って、一人だと危険が……」

「帰る!」

 立ち上がった勢いで、ベンチががこんと音を立てて後ろに少し傾いた。周りから少し目線を感じたけれど、もう関係ない。

 今はとにかく、二人から離れたい。今の二人を見たくはなかった。


 *


「――ん? さっき走って行ったのって……」

 フランに不意をつかれて一瞬だけキスをしてしまった直後、近くで大きな音がして、音のした方を見ると、一人の女の子とその後ろから二人ほどが追いかけていくのが見えた。ちゃんとは見えなかったけれど、あのシルエットは……。

「どうしたの?」

「ん、さっき走って行った人がシュカに似てたような気がして」

「ふーん?」

 まぁ、シュカは街が嫌いなようだし、さすがに見間違えか。

「――で、だ」

 ひとまずその後ろ姿は忘れることにしよう。それよりも、

「いだたたた! 痛い痛い、痛いよフラウ兄ぃ~、頭グリグリするの禁止ぃ~~~!」

 フランの方に向き直って、きょとんとしていたフランのこめかみ部分に、両拳を押しつけながら擦ってやった。

「さっきの行為について、弁明は?」

「だだだってだって、したくなっちゃったんだも痛い痛い!」

 ぐりぐりぐり、と続ける。

 これはフランと同じ部屋だった時、教官の言うことを聞かなかったフランのせいで連帯責任を取らされた時の罰ゲームに使っていた技だ。未だに克服してないらしい。

「こんな人前で、知人に見られたらどうするつもりだったんだよ」

「うー。だってー」

「そんな簡単に唇を許すんじゃないって言ってるんだぞ。浅ましいって思われたら嫁に貰い手が無くなるだろ」

「別に浅ましいですよーだ」

 開き直るな。

「はぁ、とりあえずもう帰ろう。本当はもっと案内してやりたかったけど、続きは今度な」

「えー……じゃあ、最後に……」

「最後に?」

「もっかい、口に今度はフラウ兄ぃから♪」

 額に軽くチョップ一発。

「痛っ! もう、愛が無いよ愛が!」

「うるさい。帰るぞ」

「ふぁーい……」


「あ、シュカ。今戻ったよ」

 街から帰り、ちょうど家の前に差しかかった所で、ばったりとシュカと出くわした。

「……そう、遅かったじゃない」

 外出する時のような服装でこちらに背を向けている。今からどこかへ行くのか、はたまた同じタイミングで帰宅したのか。

「いや、ちょっと色々あってな。でも陽が落ちる前には帰ってきただろ?」

「どうせその子と変なことでもしてたんでしょ」

 冷たい声でそんなことを言われて、

「してないって。ただ買い物をしてたら遅くなってただけだって。ほらこの袋」

 買ってきた服が主に入っている紙袋を掲げて見せるが、シュカはこれっぽちも見ようとはしない。

「どうだか。その子と仲良いみたいだしね、一目につかないとこで妙な関係になってたとしてもおかしいとは思わないわ」

 そんな、視線すら合わせずに思わせぶりなことを言われる。カチンときた。

「なんだよ。そんな言い方はないだろ、別に何もなかったよ」

「なぁーに? もしかしてやっぱり、私とフラウ兄ぃが一緒に行って、寂しかったのかなぁ?」

「そんなわけないでしょ! バカにしないで!」

 フランの挑発っぽい言葉にキッとした表情でこちらをやっと振り向いて、声を荒げた。

「大体、私その子のこと、全部認めてないもの。一緒に行動することを快く思ってるとでも考えてたの?」

「それは」

「フラウもフラウよ。私達の立場を理解するなら、今街に繰り出すことがどれだけ危険なことか分かってたでしょ。もちろん、ダメだなんて言ってないけど、あんまりはしゃぎすぎるのも考えものね」

「…………」

「――悪いけど私、忙しいの。家だけは勝手に使ってもいいから、何かあったらセトナのとこまで来て。そこに居るから」

「あっ……おい!」

 呼び止める暇もなく、シュカは走って行ってしまった。

 居場所だけは言って行ったのだから、そんなに大事ではないんだと思うけれど。

「感じ悪いねー。なんかカリカリしてたよ」

「俺、別に怒らせるようなことしてないと思うんだが……」

 シュカの家の古びれたドアを開けながら軽く思索するが、特に思い当たるフシはない。

 となると、理不尽に怒って行ってしまったことに対して、やや腹が立ってくる。

「ったく、なんだあいつ」

 悪態をつきながら、紙袋と、持って行っていたカバンを脇に置いて、もはや見慣れた硬いベッドに勢いをつけて腰を落とし込んだ。すると急に、

「んん……? なんだか、眠くなってきたな」

 時刻的にはまだ夕飯すら早いくらいの時間。当然、寝るには早いなんて程度ではないのだけれど、瞼が急に重くなってきて、思考もぼやぼやとし始めた。

「フラウ兄ぃ、眠いの?」

「ああ……さっきまではどうもなかったんだけど」

 本当に唐突だ。イラついた思考でさえも、急に薄れている。

「ずっと歩いてたから疲れたんじゃない? 寝ちゃっててもいいよ、少ししたら起こすから」

「そうか……? うーん、ならお願いしとくかな」

 近くにあったタオルケットを手に取り腹に被せ、ベッドに横になるともう睡魔には抗えなくなる。徐々に閉じていく視界の端で、フランが薄く微笑んでいた。



「――んふふ。よく寝てるね、フラウ兄ぃ」

 フラウが寝入ってから何時間も経ち。

 ベッドの前で、ずっと座っていたフランは確かめるようにフラウの顔を覗き込み、月明かりが僅かに照らすフラウの顔を、金の髪がさらりと撫でる。

 ベッドからはみ出たタオルケットには温度が残っている。フランにとって長年、一緒に居た兄のような存在の温もりだ。

 それにフランは一度、ベッドにそっと登って、顔を埋めた。

 しっかりと残滓を受け取るように。

 これが今生の別れかのように。

 そして離れた。

 起こさぬように腰を上げてベッドから器用に降り。

 床に膝を着いて……シーツを手でくしゃ、と握った。

 立ち上がる。

 闇にゆらゆらと金髪が揺れ、ポケットに手を。懐から出して……掲げる。

 それは、

 柄の付いた、一筋の鋼。

 人――それをナイフと言う。

 

 ***


「うぅー……なんで眠れないのよ……」

 得体の知れない不安感が、夕方からずっと……ううん、正確には昨日から続いていた微弱だったものが、ここ数時間で強烈に込み上げてきて、私は眠れないでいた。

 フラウにあんな事を言って、本当はちょっと経って落ち着いたら戻るつもりだったけれど、顔を合わせ辛いからと、今日は無理を言ってセトナの所で一夜明かすことにしていた。

「フラウさんのことが気になるなら行けばいいじゃないですか~」

 隣でミャーを寝かしつけているセトナが、そんなことを言ってくる。

「フラウの事なんか……気にしてないわ」

「嘘はいけませんね~。どこかのフラウさんとどこかの誰かがキスをしていたのを見て泣いて逃げたのはどこのシュカでしたか?」

「うぅ……あの時はちょっとびっくりしただけだってば……」

 でも、この違和感には何か、危険信号のようなものを含んでいる気がする。

 フラウじゃなくて、フランに対して。

 私にあの子の素性は分からない。フラウの元・仲間ってだけで信用していいのかな。

 何か裏が……闇があるんじゃないかって。

 そう思い出すともう不安で不安で堪らなくなってきた。

「……っセトナ、やっぱり私、ちょっと行ってくる」

「ふふ、素直なシュカは好きですよ」

 茶化すセトナを置いて、少しばかり離れた、私の家へ。とりあえず二人の姿を確認するだけでもいい。

 不思議と掛け足になる。私の足は、珍しく冷えて霜の降りた雑草を踏みしめリズムを奏でる。

 こんなに遠かったっけ。

 一秒が千秒みたいに感じる。

 走ればものの数十秒で着く自宅に、感覚的に十分以上掛かってしまったように感じながら……いつもの古い、木造の家の前に手を掛けた。

 息を潜めて、音を立てないようにちょっとだけドアを開いて……月明かりを利用して中を見ると。

 ベッドに横たわるフラウと、それを見下げて、頭上にきらりと光る鋭利なナイフを掲げるフランが居た。


「――何をしてるの!」

 『瞬間切断』を発動。一瞬で、ゼロ距離に詰め寄る。ナイフを持っていた腕を掴むことに成功した。

「あーあ。見つかっちゃった」

 私に、武器を持つ手を取られたフランは特に抵抗するそぶりもせずに、まるで親に隠れて悪戯をしようとして見つかった子供のように飄々と、そんなことを言う。

 寝ているフラウ、にナイフを振りかざしていた。

 状況だけを見れば……彼女が何をしようとしたのかは、想像するまでもない。

「まさか、本気で刺そうとしてたんじゃないでしょうね……?」

 ぐ、と腕を取る手に力を込める。

 フランの、へらっとした表情は変わらない。でも次の瞬間、その笑みは……黒いものになった。私が抱いていた不安感は、確信に変わる。

「ふふ……外に出ようか。ここじゃ、フラウ兄ぃ起きちゃうし――お互い、話したいことがあるでしょう?」

 物凄い力で、腕を掴んでいた手が振り払われる。勢いで後ろによろけたけれど……フランはナイフを胸に収めて、私を正面から見据えた。

 ……何なの、この子。

 どんなに訓練したって、私達と普通の人間じゃ、身体能力が全然違う。ましてや同じ年の少女に、腕力で引けを取ることなんて無いのに。

「フランあなた……まさか」

 私の疑問を、フランは片腕を上げて制した。

「おおっと、続きは外でって、言ったでしょ。シュカちゃんの問いには全部答えてあげるよ、心配しなくても」

 それだけ残して、先にスタスタと家を出て行ってしまった。

「……っ」

 目的が分からない。けれど今は……追うしかないのかも。

 鍵なんてまず存在していない家のドアをゆっくりと開けて、私も外に出た。すぐ近くの、少し広くなっている所にフランは立っていた。

「さて……話をしようか」

 静かな、それでいて話の主導権をこちらに譲らない、有無を言わせない口調だった。ただの騎士団の端くれ少女では絶対にできないことだ。笑っている。けれどそれは喜びじゃない、意識の読み取れない表情をしていた。

「話があるのはこっちよ。何故さっき、フラウにナイフを向けていたのか……理由を言いなさい。中身によっては手加減出来ないわよ」

「うーん……理由って言われても。殺そうとしてたから、じゃダメなのかな?」

 ポーカーフェイスで、淡々と。

「フラン……っ!」

 思わず腰から銃を抜いた。

「まぁまぁ、落ち着いて。まだ話は始まったばかりなんだから」

「これで落ち着いて居られる方がおかしいわ」

「うん、私。おかしいからね」

 銃を向けられているのに、薄い笑いは変わらない。圧倒的に優位――レバーを引けば額を穿つことのできる立場にあるのは私なのに、ぞわり。異様な殺気をその眼から感じた。

「一つ聞くわ。あなた、普通の人間じゃ、ないわね」

 ここで普通の人間じゃないと聞くと、イエスであった場合の答えは一つしかない。

 フランは何の躊躇いも見せずに即答した。

「間違いないよ。私も、リトルプレイヤーだからね」

 予期していた。

 けど、改めて言われると。何も言えなくなってしまう。

「そう……でも、フラウは私達リトルプレイヤーの側についたわ。それにあなたも賛同してたんでしょう。なら、なんで」

「あははっ。リトルプレイヤー同士だからって皆が皆一枚岩になってるとでも思った? 人間だって同じ街に生まれて同じ街で育っても、その二人が殺し合いをすることなんて多々あるんだよ? そんな枠、アテにはならないよ」

「それにしたって……狙うなら私でしょ! なんでフラウなのよ!」

「あれ? 別に私、フラウ兄ぃだけを、なんて言ってないけど?」

「……遠まわしな言い方はやめなさい」

「機関」

 そのワード一つで、自分の体全体に動揺が走ったことが、すぐ理解できた。

 だってそれは……ずっと前に捨てたはずの、逃げたはずの名前。

 自分と、自分の大切なものを奪って行った、名前。

 それを何故、フランの口から……。

「ふふ、そんなに慌ててたら面白くなっちゃうからやめてよ。まぁ、シュカちゃんが最も嫌う言葉だ――って、所長からは聞かされてたけどね。まさかこんなに効果てきめんだとは思わなかったな~~フランちゃんびっくり」

「嘘……嘘よ、そんなの……」

「嘘じゃないよ。しっかりとゲンジツを見てないと、この世界生き残れないんだから」

 まさか、と思う。けれど、もし彼女の言う事が全部本当だとするなら……ずっと感じていた胸のつっかかり、彼女への違和感に説明がつく。ついてしまう。

 彼女はやけに私達に対して友好的な態度を崩さなかった。フラウが隣に居着いてしまったから、感覚がブレていたのか……本当ならフラウを信用する以前に、セトナがフラウにしたように、直接フランを見ないといけなかったのに。フラウと親しい、そんな感情だけで納得してしまった。

 視界がぐらつく。まるで悪夢をみているよう。

 わからない。世界を、理解したくない。

「フラウも騙してたの……?」

「うーん。半分正解で半分不正解かなぁ。私が騎士団に居る間はずっと、フラウ兄ぃと一緒に居れるように、って頑張ってきたんだし。私は、『機関』で、『騎士団』なんだよ。フラウ兄ぃは知らなすぎるだけで、騙したつもりなんかないんだけどな」

 嘲るような声。ぎり、と奥歯が鳴る。

 最低だ、この子は。

 フラウを欺いて、飄々と仮面を被りながら同調して。

 それに気付かなかった私も、最低。

「さて、そろそろ説明も良いかな? 話せることは大体話した感じだし」

「……っ、『機関』の目的をまだ聞いてないわ」

 恐らくその答えは、大体想像のつくものだけれど。

「まぁ、どうせ最期なんだし。言ってもいいかな? 正直、フラウ兄ぃにはそんなに興味ないんだよね。『機関』から監視しろとは言われたけど、手を出すつもりはなかったんだー」

「さっきナイフで刺そうとしてたじゃない!」

 私の激昂に、フランは心から喜びを感じているように、微笑む。

「ああ、あれ? ブラフだよブラフ。なんとなくそうしてたら、シュカちゃん怒ってくれるでしょ~? 『機関』とか抜きにして、私はフラウ兄ぃのこと愛してるし。本当に刺すわけないじゃん?」

「なん…………なのよそれ……」

 ようやく手にしたと思っていた、存在との時間を。

 それがまさか、『機関』の思惑通りに動いていただけだったなんて。

「楽しい楽しいお話タイムはここまでだね。フランも、リトルプレイヤーとお話する機会なんてほとんどなかったから、シュカちゃんと話せて楽しかったよ――だから」

 愕然とする私に、フランはさく、さく……と枯れた雑草を踏みしめながら近づいてくる。

「次は、力で語り合おう?」

 銃を構えている私に……その身を曝け出した。

 身に着けていたマントが舞い、必要最低限しか守られていない――お腹や、肩を露出した薄い衣装が、月光の下に露わになった。

 そして告げる。

「行くよ……っ! 私の能力、『(コ)波調(ンツェ)狂騒曲(ルカイン)』(ド)!」

 少女とは思えないくらいの速さで突進しながら、腰から抜かれたのは銃ではなく、ナイフよりもさらに切っ先の細い、武器とは思えないくらいの……アイスピックに無理やり柄を付けたようなもの。まるでそう、指揮棒。ただ、剣のように長い。

 それを真っすぐ突き出しながら向かってくる。

「そんな単調な攻撃、当たらない」

 当たる前に、瞬間切断を起動。素でも避けられるほどだけれど、フランの能力がまだ分かってない。長丁場になると『対価』の為に能力が使えなくなっていく。でも出し惜しみをしているわけにはいかない。私は……まだ『機関』に捕まるわけにはいかない!

 フレームの網に掛かった斬撃は、無かったことになる。フレームの枠から逃れた私の体はフランの攻撃を透過して、空振りしたフランは背後に回った後にすぐ反転。追いかけた銃撃がかわされた。

「へぇ……なるほどっ! 物理攻撃は利かないんだね!」

「……なら諦めたらどう?」

 瞬間切断。一瞬で間を詰めて、正面から袈裟切りに。指揮棒とぶつかって、嫌な金属音を響かせたあと、有り得ない力で押し返される。

「それはできないよぉ。まだ全然楽しんでないよっ!」

 直後、フランの存在感が一気に膨れ上がる。

 身体中を走り巡った悪寒に危険を感じて、後ろに回避……したと同時に、耳をつんざく轟音。それだけで終わらない、空中の見えない巨人の手で押し出されたみたいな振動が襲ってきて、私の身体は宙を数秒、舞った。

「かは――」

 後ろにあったレンガの壁に背中を強打してしまう。瞬間切断を発動することは、できなかった。

「げほ、けほ」

 肺から一気に酸素が吐き出されて咽る。嘲笑が、前から聞こえてきた。

「あれぇ? お得意の能力使えば良かったのに、こんなに簡単に決まっちゃうと面白くないなぁ~~」

「何よ、今の……」

 私の瞬間切断は、能力に対する『対価』が大きい。使う強度にもよるけれど、連発がそう易々とできる能力じゃない……から、今の攻撃は避けられなかったけれど。

 でも、能力が使えてたとしても……。

「あはは。そんな驚いた顔されてもなぁ。いいよ、私の能力教えてあげる。フラウ兄ぃも知らない、超特大シークレットなんだからねー」

 指揮棒が、高く掲げられる。軽く空に一回転が描かれて、

 キーン、と高鳴る音。何かが耳のすぐ傍を通って行った、そんな感覚だった。

「『波調狂騒曲』が操るのは、波。波って言っても水が無いとできないわけじゃないよ。波は、いつでもどこでもあるの。土の波、『地震』。空の波、『空震』。音の波だってあるし、光の波もある。今のは空気の振動数を引き上げて、超音波を飛ばしてあげたの。せっかくだし……もうちょっと、シュカちゃんに良いもの見せたげるよ」

 指揮棒の先を持って横に。両端からまぶしい光が広がって、それはフラン全体を包んで、

「虹……?」

 赤から紫まで、色とりどりに変化する虹の帯にそれは変わった。その虹に、フランのシルエットがうっすら混じるように体の輪郭が曖昧になっていって……。

 やがて、同じフランの形をした影が――四つに増えた。

「…………」

 着ている服も、指揮棒も、まるで同じ。

 四人になったフランは、左から右からステレオに声を被せてくる。

「面白いでしょ~。光の波長を操って、増やしてみたよ! あ、ちなみに本物は一つだけね。ニセモノに攻撃しても痛くないから、じゃあ頑張って……続きをやろう!」

 四方から私を嬲るように、攻撃が始まった。

 影が増えただけだ――と少し侮っていた。実際には、増えた分身からも、容赦なく攻撃は飛んでくる。それに銃撃を放ったって、まったく当たらない。相次いで見えない振動が左右から襲い狂って、照準なんて定められない。

 ニセモノと言われても、見分けなんてつかなかった。銃撃を当てても通り抜けるだけで、分身は消えない。何より四対一の圧倒的な火力差で、フランは確実に見えない衝撃波を当ててくる。目視できない以上、瞬間切断は通用しない。避けるべきフレームが分からないから、ただの無駄打ち……『対価』だけが消費されていく。

「ちょっとは反撃してくれないと面白くないよっ! さぁさ、もっと盛り上がって行こう!」

「うるさいっ!」

 間を詰めて像の一つに斬りかかった。透り抜ける。ハズレだった。

「残念外れ~」

 猛烈な衝撃波が背後から襲ってきた。視界には、妖しく笑う四人のフラン。

 その時初めて、四人が視界上に横並びになっていて、ひらめいた。

 なら四体全部に当ててやる!

「……おっとっと、そうきちゃったか」

 銃撃4発、全部に当たるように横っ跳びしながら連射。そのうち一体が指揮棒を振って直撃コースの弾を避けた。残りは、避ける動作なんてしない。本物は、右から二番目。

「そこね!」

 飛びあがった。フレームの網に隠れた私の攻撃は避けられない。上空から振りかぶる。

 当たった――と思った。

 ドン!

 自分が攻撃しているのに、見えない壁に跳ね返されたように。

 剣もろとも……吹き飛ばされた。

「は、ぇ……?」

 数秒気絶していたらしい、目を開けた時にはすでに瓦礫の山へ、四肢をだらんとさせて突っ込んでいた。

 立ったまま見下して笑うフランの姿が見えた。当然、四人居る。

 何が起こったのかまったく分からなかった。さっきは私の決定機、フランにはそのタイミングは分からなかったはず……。

「無様だねぇ、シュカちゃん。瞬間移動できる超能力を持っているみたいだけど、波調狂騒曲には分が悪かったかなっ! 波長は時間と同じ、1本の線……けれど、シュカちゃんが切れるのは時間だけ。そうだよね? だから、いくら時間の波から逃れられても、波長の波からは逃れられない。私の周りにあらかじめ空震の波を張っておいたんだけど、まんまとはまっちゃったね!」

 つまりは、彼女の攻撃は時間の流れに影響されない、非物質。

 フレームだけじゃなく、攻撃の大元を見極めてそれ自体を切り取らないと、発生した波は無くならない……でも、波は目に見えない。

 詰んでいる。

 そう思うしかなかった。

「ぅ、く……」

 腰も背中もボロボロで、お腹に力が入んない。起き上がることも困難。

「仕方ないよ、フランちゃん最強だからね。でももうちょっと楽しめると思ったんだけどなー、所長は最強の能力者、なんて言ってたからきっと私すぐに倒されちゃうんだ、って思ってたし。これだけ強くなったら、所長も認めてくれるかなぁ? そしたらフラウ兄ぃもフランのコト、好きになってくれるかな?」

「勝手なことを……」

 悔しい。

 まるで敵わない。

 でも、私は。

「私はまだ……諦めるわけには、いかない」

 アイツの為にも。

 立ち上がる。もうあと1発、あれを貰ったらもう起き上がれないくらい、身体が悲鳴を上げてる。

 『対価』なんて気にしない。とにかく1回だけでも、大きいのを当てれば。なんとかなるかもしれない。

「へぇ~……あれだけ何回もボコボコにしてあげたのに、まだ立ち上がるんだぁ。でもフランちゃん嬉しいよ、あんまり弱いとうっかり殺してしまいそうだったからね、もうあんまり時間もないし、次は全力でやってあげる」

 四つの顔から笑顔が消えて、殺気だけになる。

 攻撃に身構えた……けれど。

 振り上げられたフランの指揮棒――四本のうちの、本物のフランの一本が、突如歪んだ表情と共に、手から滑り落ちた。

「っがあ、あぅ」

 乾いた音もなく、ただ地面にポトリと指揮棒は落ちて、持っていなかった方の手を額に当てて膝をつく。

 リトルプレイヤーに起こる、急な頭痛……それは、病気なんかじゃなく、ただ一つの結論。

「――もしかして、『対価』を使いすぎたわね……?」

 私の問いに、フランの四つの像は揃って、目を剥き出しにして激昂する。

「黙れ黙れぇ! あはは、別にっぃ、『対価』なんてまだまだっあ……、そんなそんなことあるわけないよぉぉ!?」

 口調も、表情も。

 急に、狂った。

 間違いなく、『対価』を払いすぎたリトルプレイヤーの症状。

「もうちょっとでぇ、もうちょっとでフラウ兄ぃを私のぉ、物にできるんだかっら、シュカ、あんたを倒してぇ……」

 なおも、地面に落ちた指揮棒を拾い上げて振ろうとする。

「やめなさい! それ以上やったらフラン、あなた壊れるわよ!」

「うるさいうるさいうるさいうるさぁい! 黙って……ァ」

 指揮棒が振られた。衝撃波が飛んでくる……でもそれは、私の横にある瓦礫だけを吹き飛ばして私には当たらない。

 唯一の、チャンス。

 本物がどれかは分かっている。なら、

「――『全瞬間(オートフレ)切断(ーミング)』……」

 私と、私の周りの世界そのもののフレームを切り取る。

 当然、『対価』は大きい。

 視界がぶれる。頭痛が駆け巡る。感覚が無くなった。

 耐える。耐えて、

 フレームの網から……立ちつくすフランの肩に、めいっぱいの力で斬りつけた。

 何の抵抗もできなかったフランは防御することなくそれを直撃して……めきめきと、骨の折れる音を出しながら崩れ落ちた。

「あきゃ……が、はぁ――」

 殺気づいていた眼の色が元に戻って行く。同時に、今まで狂った顔をしていた分身達が、さらさらと流れていく砂みたいに、溶けて消える。

 私は、ズキンズキンと痛む頭を押さえながら、膝をついた彼女を支えた。

「勝負、あった……わよ。もう、諦め……なさい」

「アハ、あははっは……まだまだ、私はヤレるヨ……! さ、ぁ。続きヲ……続けようヨ……」

 指揮棒は、もう……折れている。

 彼女が何の能力を使おうと、『対価』が払えなくなっているはず。無力化されている。

 トドメを刺さないといけない。私の目的のために。

 でも。

「……お願いだから、もう抵抗しないで。何も言わなかったら、私はフラン、あなたを殺すことはしない」

 同じリトルプレイヤーとして、できればそれはしたくなかった。

 だけどその願いは、ゆっくりと物陰から現れた一人の人物によって否定されてしまった。

「――それは、お断り申し上げよう」

「え……」

 いきなり出てきたのは、スラリと身長の高い、どこか古さを感じさせる……紳士風の男。

 ただ、その手が掴んでいるのは――

「フラウっ!?」

 肉体的にはむしろ細身に見えるはずなのに……小脇に楽々と、それこそただの軽い荷物のように、ぐったりとしたフラウが抱えられていた。足も手も、縄で拘束されている。

 瞬間的に、持っていた剣を構えた。能力の起動をさせようと思ったけれど……今使うのは、『対価』が怖すぎる。

 男は静かにこちらへ歩いてくる。じりじりと、後ろに下がる。黒いマントに隠されて詳しくは見えないけれど、背中の無骨なふくらみは、何か大型の武器を持っているんだと思わせた。

 やがてフランが蹲っている場所にまで寄って行くと……フラウをその場へゆっくりと寝かせる様に降ろして、代わりにフランを、自分のマントで優しく包んだあとで、その体に背負った。フランは特に抵抗することもなく、「あ、ぅ……」とだけうわ言を呟きを残した。

「さて……貴様が、リトルプレイヤーのシュカ、だな」

 しゃがれ声。見た目からさらに年を取った、老人のような……だけど重み、威圧感、プレッシャー、そんなものを持った声。

「私の名前を知ってる、ってことは『騎士団』かしら? それとも……『機関』?」

 フランの様子を見ていれば、フランの関係者だってことは容易く想像できる。

 男は、長く細いため息を吐きだして、答えた。

「どちらでも、とでも言っておこうか。あまり長話をしている時間もない、詳しく説明するのは後でもできるが……端的に言おう。シュカ、貴様を『機関』に連行させてもらう」

 一難去って、また一難。

 フランの次は、その仲間とも思える男。たぶん、強い。

「またその事? 私は自由を選んだ。今更『機関』に連れ戻される謂れはないわ」

「ほう……昔と変わって強情になったものだな」

「!?」

 なんで、この男……私の『過去』を知ってる?

「そんなに驚く必要も無かろう。私はもう十何年とそれに属しているのだから、当然貴様のことも知っている、能力の隅々までな」

「そ、それで……? 強情なのは性格よ。悪いけど、是正するつもりもないし、連れて行かれるつもりもない。もしそれでもって言うならアンタを倒してでも――」

「倒してでも、なんだ?」

 そう言うと、いきなり足元のフラウの顔を……重そうな鉄製の靴で、思い切り蹴り飛ばした。

「おご――」

 フラウの体がびくんと跳ねて、数メートル横にごろごろと転がった。

「……っ何を!」

「おっと……」

 小型銃を構える。殺傷能力の低い、口径の小さなものだけれど、顔を狙えば致命傷になる。男はゆっくり片手を上げつつ、静かな目線で私を捉えた。

「撃つのは構わないが、貴様の愛しいコイツが、どうなっても知らんぞ?」

 その言葉に動揺した私の一瞬の隙をついて、胸元から拳銃を抜いた。足元――フラウの方へと、向けられる。


 ***


「やめて!」

「……ぅ、シュカ……?」

 気が付いた時は、俺の意識はあの硬いベッドの上ではなく、それよりもさらに硬い……外の地面の上にあった。

 それになんだか体中が痺れて、ロクに首を動かすことさえままならない。手足はどうやら縛られているようで、それがさらに状況を理解できなくして……俺の頭は混乱していた。

 セトナさんの所に居た筈のシュカがここにいて、しかも服は徒手格闘を何時間もやっていたのか、というぐらいにあちこち破れ擦り切れて、土まみれに汚れている。顔もすらっとした脚も、何かで切ったのか血が出ている場所もある。

 そんな俺に、懐かしくも驚かされる声。

「どうしたフラウ。情けないな、女に守られるとは――」

「た、大将!? 大将がどうしてここに」

 そう、かのラインハルト大将が……俺に拳銃の口を向けながら立っていた。

 いや、確かに俺は騎士団から離れて此処に居た、所属の身からすれば反逆者だ。騎士団からすれば責められて当然、だが新兵一人を捜索にわざわざ騎士団が、ましてや地位も高く、リトルプレイヤーに一定の理解を示していた大将が来ることは、にわかには信じられなかった。

「どうして、だと? 我が騎士団は、リトルプレイヤーの捕獲に全精力を掲げている。その私が、リトルプレイヤーと思われる彼女の前に居るのだ。別に怪しいことなどなかろう」

「確かにそれはそうですが! しかし大将だけは、俺に言ってくれたじゃないですか! リトルプレイヤーとは分かりあえる、共存できるって」

 俺が赤紙を貰った日の事は忘れちゃいない。

 だがそれを……大将はあっさりと否定した。

「……あんなものは気まぐれででた言葉だ。私も長らくこの地域には手を焼いていたからな。ストレスのあまり、弱音が出てしまったんだろう。なんならば取り消してもいい」

「そんな!」

「――それ以上は口をつぐむんだな、フラウ。今この場で発言を許されるのは私と、そこのリトルプレイヤーの女だけだ」

「…………」

 そう言われて口を噤んだ。今の大将の顔は、あの頃とは違い……どこか修羅めいたものを感じて、別の意味で恐怖を感じた。

 それを見ていたシュカが横から口を出す。

「フラウと知り合いのようね。一体どういう関係なのかは聞かないけれど……まず要求するわ。フラウの縄をほどいて、解放しなさい」

「いいだろう」

 あっさりと、大将はそんなことを言った。

 俺からすれば未だに、どうしてこんな状況にあるのか理解できていないから、何故シュカが大将に対して交渉しているのか……それすらも分からないのだけれど。

 ところが、

「ただし、条件がある。貴様が私と共に来るなら、フラウは自由にしてやろう」

「なっ!? だから、それはさっき断ったじゃない!」

「呑めないのであれば、今すぐこの場所で、フラウを殺す」

 ――えっ!?

「…………っ!」

 寝かされているのに、体は立ち上がってしまいそうなくらいに俺は狼狽した。

 それはそうだ……騎士団として、戦場での命のやりとりはもう何年も訓練を受けている。だけど、こんな交渉のテーブルで、自分の命が天秤に掛けられることに耐性なんてあるはずがない。

 カチャリ、と重い撃鉄の引かれる音がした。

 あともう少し、トリガーに力が加わるだけで俺の額に鉛玉が直撃するだろう。

 死ぬのが怖くないと言えばそれは嘘だ。

 だが、俺がシュカの傍に居たいと思ったのは、守りたいと思ったからで――

 守られるために居る訳じゃない!

「シュカ、俺のことはいい! だから逃げてくれ!」

「発言は許さないと、言ったはずだが?」

「あぐっ……」

 顔を蹴られる。

 抵抗が出来ない。腹を踏まれた。鍛えていても、内臓に押し寄せてくる圧力が痛くないわけがない。まるであの先輩騎士の時と同じだ、と思った。

 五回、六回……と容赦なく蹴りが続いたところで。

「分かった! 行く、行くから……。それ以上フラウを傷つけるのはやめなさい!」

 蹴りが止まった。霞む視界でシュカの方を見る。泣いていた。

「シュカ! おい……」

「ふむ、よかろう。こちらへ来い」

 顔を伏せたシュカが、大将の元へとゆっくり歩いて行く。

 行っちゃだめだ!

 そう叫びたかった。が、何故か喉の先に詰まってしまったその言葉は、口から外に出ることは無かった。

 シュカが一歩進むたび、血の気が少しずつ引いていくのを感じた。

 大将の意思の変化がどうであろうと、騎士団に捕まってしまったリトルプレイヤーの末路が決して幸福なものじゃないことはよく知っている。

 やがてシュカが俺のすぐ前を通る。少しだけ、目を合わせた。

 何も言わない。

 ただ、口先が「ごめんね」と、言ったのだけは分かった。

 なんで……。

 なんで、俺の為に。

 今更ながらベッドで睡眠を取っていた自分に腹が立つ。なんですぐに気付いてあげられなかったのか。そればかりか、俺は足を引っ張っただけだ……。

 シュカが大将の前へ立ち、手錠を両手に掛けられる。リトルプレイヤーが捕獲後、能力を使えないようにする為の、軍用兵器だ。ガチャリ、と鍵のかかった音は、何よりも俺の心深くに、冷たい冬のような響きを残した。

「……あなたと言う通りにしたわ。フラウの安全を確保してほしいわね」

「暴れられては面倒だからな、縄はそのままだ。その代わり、私が持つ武器を全てここに置いて行こう。これ以上コイツに乱暴する意思は持ち合わせていない」

「不本意だけど……それでいいわ」

 目の前で大将の愛剣、愛銃が捨てられていく。

「待て、よ……」

 背を向け去ろうとしているシュカに、まだ手を伸ばせばギリギリ届く。這いずりながら、体を懸命に近づけようとした。

「見苦しいな」

 バチッ! と背後で音がした。

 元々痺れている体に、頭までそれが伝わる。突如、電線が切られた回路のように、体は頭からの命令を受け付けなくなってしまった。視界も、徐々に周りから闇に浸食されていき、狭くなる。

 顔だけ振り返ったシュカの、月明かりを受ける涙が幻想的で――それを最後に、視覚野への情報は途切れる。意識も薄くなって行き、その中でふと思った。

 俺はただのポンコツだった。

 盾になると言って、最後まで盾になりきれなかった、ただの鉄塊だ。いや、それよりもタチの悪い……盾として失格の烙印を押された、いつまでも売れ残った、木造のボロ盾だったに違いない。

 足音が遠ざかっていく。

 ちくしょう、

 ちくしょう……。


 悔しさ。からの狂乱。

 わけのわからないものが混沌となって自分の中に入って行き、

 自分の頭に長い間括りつけられていた固い固い錠前。

 それが完全に外れる音が、した。

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