Little Prayer

逢瀬悠迂

第1話


プロローグ.夢中の記憶、霧のように




 <In the dream phase 1>

 今日もまた、夢を見た。

 いつもと同じ夢だ。

 

 幼少時代の記憶が僕にはほとんど無いにも関わらず、この夢だけは何故か――僕が子供の頃のことを写し出すのだ。その繰り返し。ループ。何回見たのかは両手で数えきれなくなってから覚えるのをやめた。

 

 辺りは黒煙に包まれ、激しい火の手が視界の中で揺らめいていた。

 戦争? いいや、違う。


 ――一方的な殺戮だ。

 それも、対象は僕。幼い僕。

 

 遠く離れた所から、鋼鉄の死神が飛来する。鋭く澄んだ、頭蓋をびりびりと響かせる音を出してこちらへ迫る。既にガタついて使い物にならない足が訴える文句は無視して、横へ飛んだ。それでも完全には避けきれず、また一つ、腹に抉られたような傷跡が増えた。

 体中がボロボロだ。右眼はまともに攻撃を受けて失明した。そこから流れ出た鮮血は否応なく口へ、鼻へ、流れ込む。その口鼻もいまや息を繋ぎとめるだけの出口にすぎない。歯は何本か欠け、鼻はひしゃげて匂いを感じない。

 腹部胸部に至っては生きていることが不思議なくらいのダメージを、少なくとも見た目からでも感じる程度に負っていた。前屈みになると激痛が走るのは背骨が何本か逝っているからだ、かと言って、次々に外へ出ようとする数多の紅の水源を止めるにはどうしても前に屈まざるを得ない。それくらい、幾度の襲撃で穴だらけだった。

 足元には僕を穿った鋼鉄のモノとその痕跡が、獣が数百暴れたかのように非常に多くの爪跡となって切り刻まれている。

 何故、この夢の中の僕はまだ死んでいないのか。

 夢とはいえ、当然痛みは感じる。

 むしろ早く殺してくれ、楽にしてくれと、身体が叫ぶ。

 けれど幼い僕は頑丈だったのか、負けず嫌いだったのか――自ら倒れることはなく。

 その後も敵からの攻撃を受け、傷つき、痛み、耐え……続けた。

 反撃はしない。

 それは敵に攻撃しても無駄だと分かっていて諦めていたのか、はたまた攻撃できない理由が彼にあったのか……。

 襲われているにも関わらず、回避ばかりで抵抗の意思が夢の中の僕にはなかった。

 

 また一つ、死神が飛んだ。

 ――避けられない。

 咄嗟に右腕で顔を庇った。

 激痛。

 液体が顔へかかり、鉄の味を残した。

 こじ開けられた城門のように真っ二つ、右腕は完全な二枚に下ろされ、骨が露出する。

 

 敵は見えない。

 黒煙で確かに視界はかなり悪い。

 それでも向こう側の灰白色の壁は見えるのだ。

 今巷で有名な戦闘用ステルス機の外表面でも纏っているのか。

 あるいは透明マントなどという架空の道具を使っているのか。

 細かいことは分からない。けれど一つだけ明確な点があった。


 このままでは、誰がどう見てもやがて死に追いやられる、ということだ。


 絶望だけが支配する中、荒れる息を少しでも落ち着けようと副交感神経が働く。

 ATPを獲得せよ。闘争するのではない、逃避するのだ。少しでも、致命的な一撃を避けなければ――


 三度目の死神の攻撃は横から襲ってきた。

 まさに影のように視界を過ぎったそいつに、反応が遅れる。

 神速の衝撃に、頭をノイズが流れた。

 もともと機能のほとんどを失っていた片方の肺は完全に潰れ、息が詰まった。天地が逆さに見え、頭から固い地面に落ちた。痛みも音もなく、自分の右腕はもうどちらを向いているのかも分からない状態になった。腹から優先して排出される血は、もう口からは出なかった。

 気づくと、僕はさっきより数メートルも違うところに居た。ふっとばされたのだ。

 もう体は動かない。

 ふと、視線を感じた。

 芋虫が地を這うように頭をずりずりと動かすと――そこには幼い僕よりもさらに小さな、およそ五歳か六歳だろうか、そんな少女がこちらを見下ろして立っていた。……血染められた服を纏って。

 夢の中で僕は、ああ、この少女にここまでやられたのかと理解する。

 髪色は銀に近く、光の少ない屋内でも容赦なくそれはきらきらと星屑の輝きを持っていた。紅の飛沫に覆われても侵されることなく、腰まで余すことなく伸びている。

 髪と同調した色白の輪郭は儚さが程よく残るものの、右手に握られた、鈍く光るカトラスのような剣から発せられる殺気が、それを感じさせない。

 ところが、少女が僕にかけた言葉は、殺意のこもったものではなく、

「ごめんなさい……」

 謝罪、だった。

 僕は問いを投げた。

「なん、で……君が」

「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい……」

 俯いた少女の首筋から、煌いた透明の雫が落ちるのが見えた。

「…………」

 半ば諦めたように、僕は溜息を吐き出した。空気に血が混ざってゴボっと音を立てる。

 途端、僕のものでも、少女のものでもない声が一つ、正面から聞こえた。

「これまでのようだな。私が数年かけてもたどり着くことの無かった答えをただの一度で解決する種になってくれたのだから、邪険には扱いたくはなかったが。お前が私に抗ったのが間違いだったな。明るい未来を自ら消すなど」

 少女の背後から現れた声の主は、白衣に身を包んだ壮年の男だった。

 白髪が目立ち、皺も多く痩せこけた容姿からは威圧感など欠片も感じられないが、男の背後には、目の前の少女と同じか少し上くらいの年齢の男女子供達がずらりと並んでいたところを見ると、支配的な位置にあるようだ。

「う、るさい。お前の指図なんか受けるか……! 返せよ、僕の***を……」

 自分が発したはずなのに、一部何故かノイズが掛かり、聞き取ることができない。

 「黙れ。おい、今すぐソイツにとどめをさせ。どうせ虫の息だ、抵抗もロクにできんだろう。さぁ、やれ!」

「っ……」

 男が少女を睨んだまま、僕を激しく指差す。が、その意とは裏腹、少女は何か迷うように瞬きを何度も繰り返し、微動だにしない。

「どうした! やれないのか! ……チッ、これだから情の残った兵器は使いづらい。いいだろう、ソイツを殺れないのなら、まずはお前からだ」

 男がポケットの中をまさぐり、手のひら大の、一見テレビのリモコンのような物体を取り出して、何か操作をする。

「――やめろ!」

 僕は激昂する。

 体に残った空気をそれだけで吐き出してしまった肺は、折れて守護を失った肋骨から圧力を否応無く受け、体内で猛獣が暴れたように、ドクンと身体全体が跳ねた。男はそんな僕を一瞥すると、吐き捨てた。

「そんな身体で何をどうするつもりだ。――だがもう遅い。貴様はここで、愛するものに殺されるのだ。本当ならば私がこの手で葬り去っても良いのだがな、それでは情操教育に良くない……なぁ***」

 ジロリ、と横目で少女を見る。すると、先ほどまで頬を伝っていた雫の泉は枯れ、まるで人形の様に、瞳は光を失っていた。僕を睨み目線を外さないその顔から、僅かに口が開かれ、

「……逃げ、テ」

 瞬間、幼い僕は堰を切ったように動き出していた。

 地に伏した格好から、瞬間的に腕へ電気信号を送信。パルスは0.3秒という短い時間で伝い、カエルが伸び上がるように、両手の力だけで前方へ飛び出した。

 目標は少女、ではなく男。

 超人的な跳躍力に、男は反応できない。

 少女が僕を見ていた。何も動く様子は無かった。ただ、失われた光の奥に、何かが見えた気がした。

 10メートルの距離を、0.2秒で詰めた。高度は男の頭上2メートル。

 拳を固めた。

 振り上げた。

 叫んだ。



 意識が、途切れた。
















   1.旅立ちは喧騒と共に




 季節は夏。

 国の首都に位置する、騎士養成所。

 中核施設――もし他国との戦争が勃発したならば、まっ先に狙われるであろうほどの規模――であるこの養成所には、常駐騎士が十三万。非常駐騎士がおよそ一万程度。生活の場として、朝起き上がる瞬間から夜眠りに付く時までを過ごす。

 時刻はまだ東方より登る日の丸を認めていないほど早く、辺りは暗い影に包まれている。

 しかし、一国を守る騎士にとって日照時間などただの基準にもならない。

 朝は夏冬問わず四時起床。

 訓練所に勤める騎士の場合は、五時までに食事を済ませ、五時半より講義なり訓練なりが始まる。

 そして、騎士学校所属、訓練生のフラウもまた、それは例外ではなかった――



 騎士学校訓練生寮の一室。

「ふぅ……よし、スパイクも取り付けたし、短剣の補充もバッチリだな。忘れ物は、ないか」

 自分の服を上から順になぞる様にして確認していく。一人前の騎士にとって、慎重さとは任務において重要になることが多い。まぁ、まだ騎士学校を出てない手前、一人前とは言えないのだけど、常に一人前だと思い行動することもまた、一人前への道だ。

 今日は定刻より早く起きたおかげで準備を念入りに行ってもまだ時間は余った。武器関連のチェックは2回。靴は3回も確認して、ついでに磨いた。少し研磨剤のキツイ臭いが残ってしまったが、どうせ訓練の中では人口の9割を占める男臭さで掻き消される。

 ……そんなに早く終わらせても、結局定刻ギリギリになってしまう原因が残っているのだが。

 溜息を付きつつ、自分が一時間前まで横たわっていたベッドと向かいにあるベッドの上で未だ静かに寝息を立てる『同僚』に訝しげな視線を向ける。

 水色の短いタオルケットを微かに揺らしつつ夢の中を泳いでいる同僚、フラン。

 年はまだかなり若い。若いというよりは、幼いと言った方が良いか。

 僕も十六――正確には自分でも把握していないが――になったばかりだけど、フランはその僕よりも四つ下。つまりは十二歳。

 先にも述べたとおり、騎士団のほとんどは男であり、それも騎士団に入るのは平均で十年以上掛かる。自衛隊で一階級上げるのに掛かる時間の倍以上も学校に通わなくてはならないのにこれほど人数が居るのは、政府が直々に年三百万円を保証してくれるからだ。

 要するに前科者、元暴力団関係者、海外からの不法移住者、はたまた施設出の孤児まで。そういった人間が集まっている。

 僕とて例外ではなくて、僕は四年前、浜辺に打ち上げられているところを巡回中の騎士団第一大隊に保護されて騎士学校に入った。

 そしてフランもまた、僕と同時期に入った孤児だ。

 ただ――一番稀有なのはやはり、女の子と言う点だろうか。

「ふにゅ……」

 可愛らしい寝言を上げて寝返りを打ち、布団から顔が出てきた。

 白く透き通るような輪郭は、日焼けという言葉を否定するくらいおぼろげで儚い。対照的に、輝いて存在を誇る金の糸のような髪。普段は束ねているが今は枕の上に放射状に広がっている。

 どこをどう見ても、青年や壮年のガタイの良い男達と同じ訓練をする子には見えない。

 訓練は厳しい。知り合いのヴィルトールは前科二犯だけど、刑務所の中で更生プログラム用に組まれたものよりも数倍辛いって話だ。それを何年も、ましてや少女が続けるんだから、驚きだ。

 だけど、それとこれとは別。

 過去に偉大な王が言ったらしい。

 『時に無慈悲な行動が、仲間に最大の恩恵を授ける』と。

 その教えに習って、僕はおもむろにベッドの前に立つと、

「おーい、起きろ。訓練の時間だ、ぞっ!」

 布団を捲り上げ、フランの手から奪い取った。

「う、にゅう……」

 微かに返ってくる反応。だがまだ起きる気配はない。

「遅刻するぞ。教官のゲンコツが増えるぞ」

「うぅやだぁ……教官より布団……」

「あ、こら布団持ってく、な!」

 奪った布団を取り返された。無理やりひっぱったが、すごい力で握りしめているから奪えない。

 そして、顔は横を向き、再び寝息を立て始める。

 仕方なく肩を揺らすと、今度はくるりと回ってうつ伏せに。さらに揺らすとくるくる何度も、布団を巻き込みながら回転し、やがて蓑虫型フランが完成した。

 ぐう……今日のフランは一味違うか。いい度胸だな。ならば次の作戦だ。

 ベッドに膝を立てて上がりこみ、布団の防護から飛び出た頬を、人差し指で突く。

 柔らかい感触と共に反応が返ってくる。

「う、うぅう」

 眉間に皺を寄せ、不機嫌そうな表情になる。

 もう一息。

 今度は両手を顔の端と端に持っていって、横に伸ばした。

「うにに――い、いい加減にしろ~~~!」

「おっと」

 起き上がる勢いを利用して投げられたクッションを軽くかわして、額を右手で確保。

「ほい、ストップ、フラン。起きたか?」

「う、う~?」

 僕におでこを抑えられ、リーチの短い腕で反撃することもできなくなり動きの止まったフランは、長い金髪を乱し寝惚け眼のまま、暫く唸りながら僕の手に額を擦り付ける。

 そして突然、スイッチが入ったかのように頭で手を跳ね除け、がばりと上体を起こす。

「お、おはよう……? フラウ兄ぃ」

「おそよう。あと五分しかないぞ、急げ」

「う、うん……!」

 こくりと頷くと、ぱたぱたと音を立てて慌ただしく自分用のクローゼットに走って行き、扉を開けるとおもむろにパジャマを脱ぎ始めた。

「…………」

 僕は即座に目を逸らし、窓の外を眺めることにする。

 いかに四年同じ屋根の下過ごしたとは言え、フランは女の子だ。本人はそんなことまったく気にしないのだけど、こっちは気が気でない。なんだか父親気分である。

 背中越しに布ずれの音を聞きつつ、フランに問う。

「まだか?」

「うーん、もうちょっと、待って。……手伝ってくれれば早く終わるけど」

 何をどう手伝えと。

「誰がするか、少しは恥じらいってものをだな」

「むー。年頃の女の子が誘ってるんだからその気になってくれてもいいじゃない!」

「だー! 口開いてる暇あったら手を動かす!」

「はいはーい」

 棒読みでまったく反省の兆しが見られない声を上げて、再び準備を開始したようだ。

 

 ……結局、フランが準備を終えたのはそれから三回、僕が叱責を飛ばした後だったが。



 ざわざわと、食堂は喧騒に満ちている。

 訓練用の武装準備をした僕とフランは、定時ギリギリで朝食の食堂に飛び込んだ。

「わぁ、席見つかるかな?」

「誰のせいだ、誰の」

 僕はフランに皮肉を飛ばしつつ、空いている席を探す。

 訓練時間は起床後一時間で開始される。故にそれまでに朝食を摂らねばならないが、寮と訓練棟は離れているので、往復している時間はない。よって、食事は各々武装したまま食べないとだめだ。

 これが遠方支援や軽武装兵なら良いんだけど、僕もフランも中・重武装。靴はレアメタル製で非常に重く複雑なもので、胸装・腕装甲までも金属。だから準備に時間がかかる。

 その為に僕は早起きしているんだけども、フランが朝に弱いことで、食堂の席を見つけるのが非常に酷だ。

 なお、訓練前に皆座って休みたい気持ちがありありだから、空席を作って貰えることはまずない。席が無ければ、立ってでも食べる。例え朝食が鮭と味噌汁とご飯のコースだったとしても、カレーだったとしてもだ。それが騎士団……と言うお小言をこれまで何回も聞いた。

「お、あそこ空いてるな」

 だだっ広い中凄い人口密度で、視野が狭くなるところ、ある場所にちょうど二人分の空席を見つけた。が、

「おいー、空席見つけたぜ~」

 背後から野太い声。振り返ると外人風情の長身二人が同じ席をターゲットにしたらしい。一人は黒髪で強烈にパーマをかけたレゲエ風、もう一人はポニーテール気味に金髪を後ろで纏めた奴だ。

 「む」と、唸りを上げたのはフラン。

「アァん? なんだ若いの。俺達とやろうってかあ?」と、向かって右側の金髪。俺を睨みつける。

「……なるほど」

「……チッ」

 僕とレゲエが互いに相槌を打った――刹那。

 八本の腕、八本の足が、一斉に『二つの席』を目指し、動いた。

「にゃあぁぁあああ!」

「うぉおおおおお!」

「クソがぁ!」

「…………ッ」

 奇声を上げたのは二人と一匹。違った、二人の男とフラン。

 距離は二十メートルだ。奇声を聞いてか、恐ろしい形相で走ってくる四人を見てかは知らないが、近くで駄弁っていた騎士達が道を開ける。

 ルールは簡単。というか、騎士学校暗黙の了解。

 席に先に座った方の勝ち。

 エレメンタリースクールや、程度の低いジュニア・ハイスクールでよく見られる『タッチした者勝ち』は適用されない。手早く言えば椅子取りゲームだ。

 僕らの方が先に出ていたから、せこいとかそういうのは存在しない。因果応報もまた、騎士の心得だからだ。

 装備が重いのはお互い様。

 ならばあとは個人の俊敏さだけだ。

 ――勝負は一瞬で決まった。

 相手はガタイがでかい。僕よりも頭一つ抜けている。

 だからこそパワーに身を任せて押さえ込むことでそのスキに奪おうとしたのだろうが、それでは甘い。

 僕らは二人とも、スピードに物を言わせる近接兵だからだ。

 フランは僕よりも速く、ちっこさを生かして最短コースで席に到達し、外人部隊の手が届くよりも前に着席を完了させた。

 僕はそれから一息遅れたが、やはり『タッチ』すらさせずに滑りこんだ。完勝だ。

 遅れて二人が到達するも、

「ちっくしょぉ~~~!」

「クソが! 速過ぎんだよ!」

 と悪態を付くだけに留まる。

 ところが、膝に手をついて本気で悔しがる外人部隊に、やめておけばいいのにフランが突っつき回す。

「しっしっ。敗者はさっさと次の席を見つけるんだね」

「………………アァん?」

 ほらみろ、こういうことになる……。

 レゲェ風の男がフランの方をジロリ、と蛙を見つけた蛇のような、血走った目で睨むと、急に立ち上がって、白いプラスチック製のテーブルに太い、毛ばかりの腕を振り落とした。

 ドォン、と音がして、その衝撃で同じテーブルに乗っていた隣席の奴らの朝食が5センチほど浮き上がった。向かいの席から味噌汁の飛沫が飛び、僅かに胸甲にかかった。途端にそれを見聞きした野次馬が集まり始める。

「調子に乗ってんじゃネェぞこのガキが!」

「痛っ……! ちょっと離してよ!」

 男の力強い腕が、フランの長い金髪を掴み、引っ張る。

 僕はたまらず立ち上がって、男を抑止に入る。

「おい止めろ。騎士が女子供に手を上げる気か」

 フランの髪を掴んでいる腕を上から持ち上げ、睨む。すると、向こうは僕を見るなり鼻で笑った。

「騎士? バカにしてんのかテメェ。そんなもん律儀に守ってられるかってーの。大体、戦闘なんてもんはな、俺やコイツみてーな前科付きの奴こそが敵をブッ飛ばして、金貰えんだよ。お前みたいな背もそこそこ、腕っ節も中途半端なガキは一生学校で教鞭垂れてゃいいんだよ! ハハハ!」

 釣られて横の金髪も笑った。野次馬の中にもやや嘲笑が混じる。

 対して僕は、憤怒も抱くことなく、ただ冷酷にその男を睨みつけていた。それを不快に思ったのか、それまで笑っていた男は唐突に口を閉じ、手をバキバキと鳴らし始めた。

「……なんだその目は。ヤんのかオラ」

「まずはフランを離せ」

「上等だこの野郎ッ!」

 フランの髪を掴んでいた方の手が僕の方に飛んできた。争いごとには慣れているらしい、腰の入った右ストレート。

 反射的に体が動く。

 戦闘において、体の軸は必ず利き手側と反対側に偏らせなければならない。

 そうでなければ、大抵が右利きである敵側の攻撃が左から迫ってくることに対して反応が遅れるからだ。

 教え通り、左に重心を掛けていた僕は、左足を軽くスライドさせるだけで、威力の乗った高速パンチを避けた。

 風圧がやや頬を掠めたものの、腕は素通りするように僕を避けて、勢いのまま男はバランスを崩した。二、三歩たたらを踏むと、野次馬の肉壁に突っ込むようにして止まる。

 周りから歓声が上がる。

 男は顔を茹で上がりの蛸みたいに染め、再度殴りかかってきた。

 また避けるか、あるいは反撃してやるか。尻尾巻いて逃げ出す選択肢は無い。まだ朝飯にはありついてないし、それでは騎士としても男としても示しが付かないだろう。

 とりあえず避ける。

 当たれば重い一撃を、軽くバックステップでいなす。顔に命中すれば頬骨の一本は折れるだろうそれは、正確に僕の顔面を狙う精度があった。

「畜生、当たりやがれ!」

 観客の野次や罵声が大きくなる。もっとも雑音としか捉えられず、何を言っているのかは分からない。

 二発目は突っ込まずに、空振りだけで済ませた男は、間髪入れずに左フックも見舞ってきた。

 威力は良い。さっきからぶんぶんと、風を切る音だけは凄まじい。きっと野球の木製バットで殴られるより痛いだろう。

 たが、それだけだ。

 軌道は直線で読みやすい。これがもっと初速の遅い剣だったなら、教官に怒鳴られ、外周ダッシュを罰として命じられるに違いない。速度や威力は純粋な力としては重要だけど、相手と自分の実力が伯仲してない場合、特に数で劣る場合において規則正しいというのは致命的だ。戦闘において、1+1が2であることを暗記するよりも1+1を3にする不規則さが攻撃の質に影響する。

 つまり男の攻撃は延々と1+1=2を繰り返しているだけ。エレメンタリースクールの初年度生にとっても練習にすらならない行為だ。書く文字が達筆でも1+2に対応できなければ意味がない。

 しかも攻撃にだけ集中しているせいか、足はロクに使われてないし、腹はガラ空きだ。

 僕には、幾度と無く空気を殴る男を観察する余裕もあるというのに。

 このまま観察し続けて、相手が疲れるのを待って退散してもらうのもありだった。

 だけどそれじゃさっきフランが痛みつけられた分を返せない。ただ髪を掴まれて肩をゆすられただけだったりするけど、これでも可愛い妹のような存在、兄としてとりあえず一発入れておくのが筋だ。

 あんまり重いのはいらない。ただせめて、今日の訓練に時間通り参加できないようにしてやろう。そして遅刻した分の特別補習を、皆が休憩する時間に受けさせてやる。

 脳のスイッチを切り替えた。

 冷静に男のパンチを見極める。一段階、スピードが落ちているように見えた。

 より近くで攻撃をかわし、右手にありったけの力をこめる。

 左フック。ちょっと体を捻って回避。ナナメ横から、がら空きになった腹に向けて急所を外して叩き込んだ。

「ごふっ!?」

 胸骨と腸の間にめり込むクリーン・ヒット。伊達に鍛えているわけではないのか、感触は、肉に押し返される感じがした。それでもダメージは大分あったらしい。男は喰らった瞬間咳き込むと、ふらふらと体を前後に揺らして、床に手と腰を着くように倒れこんだ。

 野次馬共がとびきり大きな歓声を上げた。黙っているのは僕と、地を眺めるレゲエ男、それとその連れだけだ。

「ぐぬぬ……」

 レゲエ男が腹に片手を当てて立ち上がった。僕を睨む眼光は一級品。でも深く肩で息をしている。

「手前……やりやがったな……!」

 なんだ、まだやるのか?

 同じ攻撃なんかしてきても当たらないことは分かりきってる。よくあるロールプレイング・ゲームのボスがやってくる、一定ダメージを喰らうと攻撃力が二倍になる、なんてオプションは現実世界じゃありえないのだから。

 それでもなお、男は敵意を剥き出しにしてこちらへ向かってきた。

 呆れていた僕は、男が先ほどとそう変わらない攻撃を繰り出してくると、半ば慢心していた。そのおかげで相手が固めた拳の中に何を握っているのか、注意を払っていなかった。

「フラウ兄ぃ! そいつ、ナイフ持ってる!」

 フランの声で、はっとした僕は男の右手の内を見る。そこには、ギラリと獲物を狙う狼

の牙の如く鋭い銀色の刃が僕へ向けられていた。刃渡りはキッチンナイフとは程遠く、15センチ以上はあると見受けられる。狩猟用のナイフだ。

「うおあれ%#&!」

 奇声を発した男の刃が迫る。

 完全に誤算だった。刃を持たれれば、それは攻撃力だけでなくリーチも、軌道も変わる。

 さらに敵が錯乱しているのもある。一歩間違えれば致命傷になりかねない。装甲にだって急所はある。

 今までのように避けようとすれば、刃でリーチが伸びた分だけ僕の腹を掠めるだろう。後退すれば、突っ込まれた勢いで装甲を突き破り致命傷になるかもしれない……なら、答えは一つ。

「クッ……」

 眼前1メートルに迫ったナイフの先に、むしろこっちから刺さりにいく勢いで左肘を突き出し、体を半身にして相対しようとした――

 刹那、横からヘビー級ボクサーの直撃パンチを受けたような衝撃が、僕を襲った。

 ベクトルを前方にしか向けていなかった僕は当然のように吹き飛ばされる。視界がくるりと一回転。プラスチックのテーブルにヒビの入る音を聞きながら、腰を床に打ちつけて止まった。

 目を開けて辺りを見回すと、視界にはぶっ倒れたレゲエ男が映っていた。何が起きたのか分からず、体を起こすと横にはフランが居た。

「フラウ兄~~大丈夫?」

 僕の背中を手で支え、心配そうに覗き込んでくる。少し瞳の端に雫が浮かんでいた。

 そんなフランの頭をポンポンと撫でてやり、

「大丈夫……ちょっと腰は打ったけど。一体何が……?」

「ん」

 フランが指で指し示す先には――身長2メートルはあろうかという大男が、倒れたレゲエ男の頭を掴みながら、連れの金髪男に向けて凄い形相で罵詈雑言(何を言っているかは分からないがとりあえず凄い言葉のようだ)を放っていた。

 やがて文句を言い終えたのか、大男はレゲエ男を離すと、僕の方を見てこちらへ歩いてきた。

 こういう事に首を突っ込むのは一人しか居ない……と心の中で思いつつも、大男の名を呼ぶ。

「ヴィルトール!」

 それまでつまらなさそうな表情だった彼は、微かに笑みを浮かべると――と言っても彼の元々の顔があまりにも怖いから笑ってる、とは言いがたいが――こちらに向かって、挨拶であろう、手を挙げた。

「よぉ、遅くなって済まなかったな」

 ヴィルトール=ラングレー。

 僕よりおよそ頭一個分高い背に、ずっしりと重い肉体。それは全て脂肪ではなく筋肉だ。巨漢、の言葉がまさに合う。今は訓練前で重装備を身に纏っている為、さらに大きく見え、近くに居るだけで妙なプレッシャーを受けてしまう。

 さっき吹き飛ばされたのは他でもない、彼のタックルかなんかを受けたからだ。

 とはいえ、僕に責める気は微塵もない。いや、むしろ感謝すべきか。

 結果的に腰を強打することになったが、彼が僕とレゲエの間に咄嗟に飛び込んだおかげで、僕は致命傷を負ったかもしれない攻撃から助かったのだ。

 ヴィルトールは僕の横で中腰になると、背中をボンボンと叩いてきた。本人には軽いつもりなんだろうけど、地味に痛い。

「大丈夫だったか? 悪いな、間に合いそうになかったんで加減が利かなくてよ、お前までふっ飛ばしちまった」

「大丈夫。むしろ助かったよ、ありがとう」

 僕が素直にそういうと、ヴィルトールは「あ~」と少し照れながら頭をぽりぽりとかいて、 

「ちと人ごみが面倒だな……。窓際の席にリゼッタが居るからよ、そっちに移って飯食っちまおうぜ」

 と、食堂の奥の奥にあるスペースを指差して言った。

 僕は勿論賛同した。


「フラウ、フラン、ヴィル~、こっちこっち!」

 奥の席に向かうと、リゼッタが手招きをしていた。金色のポニーテールに赤のリボンがよく目立つ。僕ら三人は、それぞれリゼッタの周りに座った。

 思わぬ騒動に巻き込まれたから、かなり時間を食ってしまった。訓練開始まで残り三十分もない。いちいち並んでいるわけにもいかないから、フランに全員分の注文を取りに行って貰った。

「しっかし災難だったなぁ。アイツら二人、素行が良くねぇって有名なんだよ。何か絡めそうな奴を見つけては、喧嘩吹っかけてるらしいからな。まさか武器出してくるたぁ思わなかったが」

「アンタに素行云々言われちゃオシマイね」

「うるせぇ」

 リゼッタがすかさず突っ込み、ヴィルトールは憮然とした顔つきになる。

 ……確かに誤算だったけれど、僕の甘さもあったはずだ。訓練前は戦闘装備携行が当たり前。今はセーフティ(刃止め)を付けているけど、僕だって履いている靴は凶器だし、短剣を身に着けている。これじゃまだ、一人前の騎士にはなれない。

「おいおい、そんな心気くせぇ面すんじゃねぇ。お前さんはよくやったよ、フランを助けたんだ、もっと胸張れ」

「そうよ、気に病むことなんかないわ」

「……うん、ありがとう」

 ヴィルトールとリゼッタの指摘に従うことにした。終わったことを反省するのは当然だけど、引き摺りすぎるのもまた良くない。

「はいはい~取って来たよ。ちゃっちゃと食べちゃおう!」

 戻ってきたフランが全員に朝食を配る。僕はオーソドックスなサンドイッチ、リゼッタはパンケーキとコーヒー。フランはカレーライスだ。ヴィルはというと、朝からガッツリとビッグバーガーセットに山盛りのポテト、さらに追加でカツカレーも付けていた。見るだけで胃がもたれそうだ。

「あ、そうだフラン。新聞無かったか?」

 一個目のサンドイッチ(中身はタマゴ)を頬張りつつ、カレーで口の周りをベタベタにしているフランに尋ねた。食堂にはおよそ十部ほどではあるが、誰でも無料で見られる新聞類が置いてある。人気は決して高くないけれど、ちり紙などの用途に使ってしまう奴が後を絶たない為、朝早くから確保しておかないと手に入らないこともある。

「勿論取って来たよー。フランちゃん、言われなくてもさり気無く気を利かせる……偉いでしょ! 褒めてくれたら渡したげても良いよ?」

「はいはい偉い偉い」

 「ちょ、ちょっと!? ごほうびは~~~?」 

 うるさいフランを机越しに押し戻し、受け取った新聞に目を通す。裏面のテレビ番組表は必要ないので飛ばして、政治経済のニュースを主に見る。

 そこには今や毎週何かしら載っている、『彼ら』の情報がズラリと並んでいた。


 『公共機関、また被害……三人死亡』

 『製紙工場全焼、先月と同一犯か』

 『政府高官官邸襲撃、リトルプレイヤーの仕業と見られる』

 

「……また、リトルプレイヤー、か」

 これら三つの記事は全部、リトルプレイヤーについて書かれたものだった。僕は軽く舌打ちをし、顔を顰めた。

 リトルプレイヤー。

 意訳すると、『幼き機械人間』。

 およそ十年前、突如姿を現した彼らは、現在確認されているだけで数は千前後。

 ほとんどが子供のままの容姿を保ち、そしてなにより、人間離れした『異能』により人類を攻撃、時には殺戮に及ぶ――元・人間。

 異能の種類は様々だ。

 曰く、空を自由に飛べる。

 曰く、掌から炎を浮かべることができる。

 曰く、百メートル、二百メートル先でさえ鮮明に見ることができる。

 

 普通の人間には到底できたること。

 そしてその能力を使い、迫害を行う。

 騎士団は、リトルプレイヤーの為に作られた、特別自衛隊だ。リトルプレイヤーの発見、保護……とは表向きの活動で、原則リトルプレイヤーは被害を起こせば逮捕され、処刑される。

 もっとも、全部が全部危険というわけでもない。

 政府機関――特殊異能管理庁の長官は、『読心』を持つリトルプレイヤーだ。

 人間に協力する意思があり、能力が非攻撃的であるものは政府に手厚く利用される。

 そもそもリトルプレイヤーの起源は、政府の無能な政策によってもたらされた産物だからだ。

 減りすぎた子供と終わらない高齢化を嘆いた政府が、国外から児童移民を大量に行い、結果あふれた子供達がなんらかの影響を受けてこうなったからである。そのなんらか、は実は分かっているらしいが一般には公開されていない。当然僕も知らない。

 ただそれを考慮しても……僕にはなんとしても騎士団に入り、有害なリトルプレイヤーを根絶――いや、希望としては有害無害関わらず滅したい事情がある。

 僕は十二歳で孤児になった。

 その際に両親を亡くしたのだが、保護した分隊の話によると、辺りにあった村一つが、とあるリトルプレイヤーに滅ぼされていて、つまり僕の両親はリトルプレイヤーに殺されたのだ。

 その時のショックか、僕には幼い時の記憶が無い。あるのは、偶に見る夢だけ。

 復讐と聞かれれば、少し違うかもしれない。

 ただ僕は――未だ人々の日常を壊す彼らが、酷く憎い。

 妹のような存在も出来た。ヴィルやリゼッタと言う仲間も居る。けれどいつか彼らがリトルプレイヤーによって生活が脅かされることがあるのなら。

 僕は身を粉にしてでもリトルプレイヤーに刃を向ける。

「フラウ兄ぃ?」

「何……ってフラン、どうしたんだよ」

 呼び声にふと顔を上げると、目の前にフランの顔があった。なにやら心配そうな顔つきだ。

「あんまり考えすぎないでね。今のフラウ兄ぃ、とっても怖い顔してる」

「えっ……」

 思わず頬に手を当てた。

 ぎゅっと、フランが僕の片手を握り、

「大丈夫。大丈夫だから。フラウ兄ぃは一人じゃない。いつもフランが、傍にいるから」

 薄く微笑んでくる。

「…………あぁ」

 フランは本当に良い子だ。

 寝坊常習犯だし、たまに僕のベッドを失敬するけど。こうして僕を気にかけてくれる。

 ――だからこそ、守りたいんだ。

 

「ねぇ、ところでヴィル?」

 まだ残っているサンドイッチを片付けようと急いで口にしていると、既に食べ終わったリゼッタが、同じくあの分量をぺろりと平らげ、今は爪楊枝を口の中で動かしているヴィルトールに突然話題を振る。

「なんだ?」

「今日の私、何か違うわよね?」

「…………何が」

 本当に突然な話だ。

 いきなり聞かれたヴィルトールは目を白黒させると、咄嗟に隣でサンドイッチを頬張る僕に近づいて、内緒話を持ちかけてきた。

 「(おい、フラウ。何か分かるか?)」

 「(う~ん……あっ、今日のリゼッタ、少し香りが違うかも。香水変えたんじゃないかな?」

 「(はぁ……? わっかんねぇな……。まぁお前がそういうなら……)」

 リゼッタは普段、気の強い女剣士としてかなり恐れられているけれど、素はかなり可愛く、人気がある。命知らずの新入生達がこぞってラブレターを送り、纏めて訓練ホール裏に呼び出し渇を入れたのは有名だ。

 また、密かにヴィルトールに気があるのは同じ訓練クラスの輩は皆分かっていることで、ヴィルトールの前では女の子っぽい仕草で通している。

 そんなわけだから、今日もきっと何かしら高い香水だとか用意したんだろう。もっとも、ヴィルトールの朴念仁はもはや定評で、リゼッタの試みも長持ちせずに毎回失敗するのはお決まりのパターンとして定着してしまっているが……。

「こ、香水を変えたのか?」

 しどろもどろに、ヴィルトールが(本当は僕の意見だけど)返す。

 するとリゼッタは、ぱぁっと顔を輝かせて、今まで凛としていた表情はどこへやら、ふにゃと相貌を崩す。

「えっ! ええ……よく気づいたわね……その通りよ。えへ、実は……先週カティア達と首都に遊びに行ったんだけど……その、ヴィルが前、おしとやかでアイドルみたいな娘がいいからっていってたから、今有名なAKP48が宣伝してる……高級ブランドのやつ買ってきたの。値は張ったけど……ヴィルが良いって言ってくれるなら私……」

 ああ、いつもハキハキしてて、後輩からは羨望の的であるリゼッタが完全に骨抜きだ。頬を少し紅に染めて、なんだかモジモジしている。

 が、それを素直に受け取らないのもまたヴィルトールの性格で……。

「フン、無駄なことを」

 と、口走った。

「――なんですって?」

 瞬間、食堂中の空気が急に北極に放り出されたかのように、凍りついた。さらに、なんだか鋭い痛ささえ感じる……。

 ヴィルトールはしまった、と口を開けて固まるも、もう遅い。

 ゴゴゴ、と禍々しい『気』みたいなものがリゼッタから溢れ出ている気がする。

 これはやばい、と僕は思った。笑顔なんだけど、全然笑っている気がしない。

「……ち、ちょっと糸電話掛かってきたから行ってくるわ」

 などと言って、当のヴィルトールはガタリと音を立てて立ち去ろうとする。その腕をテーブル向かいにガッシリと掴んで、

「どこに! そんな! 電話が! あるのよ! 今は現代社会よ!?」

「おい、離せってば……」

 リゼッタはヴィルトールの腕を掴んだまま、向かい側に移動。そのまま両手に持ち替えて締め上げた。

「痛だだだだ! おいやめ、訓練始まるだろ!?」

「うるさい! さぁ、さっき言ったことをもう一回言ってみなさい」

「だ、だってお前みたいな暴力女が高級ブランドの香水なんてつけた所でかわんねーだろ!? 金の無駄だ無駄。どうせならお得意の剣につぎ込んどけよ!」

 だめだ。今のヴィルトールには『自重』の言葉が思いつかないらしい。リゼッタの目つきが段々と据わっていき、と同時にヴィルトールの腕も極まっていく。

「ちょ、マジで痛てぇって! 折れる折れる折れる!」

「選びなさい。三択よ。ひとつ、このまま腕を折られて病院。ふたつ、この訓練塔の屋上から飛び降りる。みっつ、死ぬ」

 逃げ場の無い三択だった。むしろ一択にしか見えない。

「待て、落ち着け、な? そんな物騒なものは下ろして早く解放した方が身の為……ぎゃああ」

 ボゴッ、と何か潰れる音。

「フラウ兄、逃げよ。ああなったらリゼッタ、止められないし」

「そうだな……」

 呆れた声で耳打ちしてきたフランに連れられ、野次馬の壁を掻き分けて僕らはその場から去ることにした。

「やめろ、いややめてくれ!」

「これは楽しみにしてたお菓子を毎日我慢して貯めた貯金の分! これは遠路はるばる街まで出向いた私の脚の分!」

「あぐっ……おいこれはまじでやば」

「これは私の分! 私の分! 私の分! 私の分! 私のぶぅうううん!」

 数回の鈍い音と、背後から断末魔の叫びが聞こえてきた。ああ、どうか安らかに成仏してくれ……。


 ***


 ――訓練棟、第五訓練室。

 訓練室と聞くと聞こえは良いが、ただの剣道場みたいなもの。質素な屋根に窓が二、三。床が実践を拝してコンクリートと木片、人工芝が敷き詰められている所だけが大幅に異なる点だろうか。

 そんな訓練室は部屋中、物々しい雰囲気に包まれていた。

 それは部屋の中に所狭しと詰められ、かつ正座で耐えている男騎士の、暑苦しいフェロモンが滲み出ているからというわけでも、朝早くから訓練召集を受けてちくしょういますぐこの隣を野郎をぶん殴って憂さ晴らししてやりたいぜというフラストレーションから、というわけでもない。……まぁ後者は少し影響しているのかもしれないが。

 著しくプレッシャーを受けるこの空気の原因は、僕らを前に口を閉ざし、銀色の両手剣を上段に構えた、重装備の騎士。

 グスタフ・ラインハルト。

 現騎士団の第一連隊長にして、特務騎士団団長、団における地位は大将。

 実質的に騎士団のナンバー1であり、十数万の騎士全てを束ねる武人。

 高貴な身分の男性のような、軽くウェーブを掛けた金髪。曲線は甘えとばかりにキリリと直線に伸びた凛々しい眉毛に、僕ら訓練生を静かに見据える碧の瞳。肩口から足元まで鋼鉄の鎧に覆われている彼の肉体は巨大で無骨。一見美男子の顔からはとても似つかない……が、頬に走った数センチほど、一筋の消えぬ傷、それと獲物を常に監視するような眼光は、誰が見ても「武人だ」と答えるだろう。

 その迫力を前に、僕らは半時間以上も晒され続けているのだ。

 前方から無言の圧力、左右は密着させられた肉壁によって、体位を変えることを許されない。長時間の正座で筋は悲鳴を上げつつあるし、何より地面に転がるコンクリートの破片や尖った石木が遠慮なく膝に刺さる。痛みから逃れようと手で除こうとすれば否応なく睨みつけられた。

 勿論これも訓練の一環であることは皆分かっている。

 ラインハルト大将は名将かつ実力主義の騎士団において断トツの技量を持つ人だ。それでいて奢らず、こうして騎士の端くれですらない訓練生の講師としてやってくる、面倒見の良いことでも知られる。

 だから、普段講師をしている年齢だけで昇格してきた曹長や軍曹レベルの命令する、ロクに役にたたない訓練と違って、皆黙って正座を続けているのだ。なお、いつも偉そうにしている軍曹は小さく体を縮こませ、隅でただ見ているだけだ。

 そんな中、やはり耐えられない奴はでてくる。

 ちょうど僕の右と、その隣の奴――なんだか顔が二人とも良く似ているし、右隣から取ってライト兄弟と名づけてやろう。今決めた。ちなみに人類初の飛行機で有名なライト兄弟の綴りはWrightであり、Rightではないが。とにかくそのライト兄弟が、大将には分からないように小さな声で私語を始めた。脚こそ正座したままだけど、背中に回した手で隣同士ちょっかいを出し合っている。小学生か。

 訓練中の私語や無駄な行動は厳禁。ライト兄弟達は見つからないと思っていたようだけど、歴戦の兵は見逃さなかった。

「――そこの腐ったミカン二人。前に出ろ」

 前から罵声が飛んだ。叫ぶというよりは、諭すような重厚を持った声。

 対して、ライト兄弟は顔を見合わせ、やべぇ、といった表情。

 良く見ると、ライト兄弟の右側はさっき食堂でやりあったレゲエの連れじゃないか。ざまぁみろ。

「どうした。忍耐訓練がつまらないのだろう? さぁ早く前に出ろ」

「い、いやでもその……」

「別につまらないわけじゃ――」

「前に出ろ……ミカンらしくそのままジュースになりたくなければ」

「「は、はい!」」

 口を揃えて竦みあがったライト兄弟は、がちゃがちゃと装甲の音を立てて、僕の横を荒々しく通って行った。

 二人は大将の前まで出ると、さっきまでの余裕はどこへやら、平身低頭、平謝りを始めた。

「ほ、本当にすいませんでしたぁ!」

「ちょっと魔が差しただけなんです……!」

 ガタイは僕より一回りも二回りも大きいくせに、今にも泣き出しそうな勢いだ。その滑稽な見た目に、心中ほくそ笑む。

 一方大将は、まったく意に介さない表情で、

「構わん。忍耐だけが訓練ではない。やれやる気だ根性だ、と無意味な精神論を唱えるだけの騎士など所詮は階級だけの存在。もっとも、忍耐を軽んじるからには戦術でカバーできるのだろう。……さぁ、かかってこい」

 両手剣を右手一本に持ち直し、二人の胸元に突きつけた。

「は?」

「え?」

 棒立ちのライト兄弟は、目を左右に泳がせて固まっている。困惑するのも無理はない……こっちは階級すら何もない、ただの訓練生。向こうは国で一番の騎士。まさにゾウとアリ。ゾウの長く太い足が、アリの頭上1センチで止まっているに等しい状態と言える。

「どうした、掛かってこいと言っている。二対一で良い。掛かってこなければ、こちらから行くぞ」

 右手に立てた剣の切っ先を左手に持ち、横に。大将・ラインハルトの、有名な臨戦の『型』である。

「……おいどうすんだよ」

「やるしかねぇだろ――っくしょう!」

 ライト兄弟の左側が腰元からシミターを抜いた。合わせて右側も剣を抜く。こちらは細く長い――レイピアだろうか。当然ながら訓練なので全員刃は落としてある。それでも、三者が持つのは正真正銘の金属武器、喰らえば痛い。

 全員が武器を構えたのを見て、僕は正座から膝立ちっぽい格好になりつつ身を乗り出していた。周りも大体そんな感じだ。毎日剣の打ち合いはやっても、大将の剣技なんてそうそう見れない。間近で見れるとしたら、戦地に赴いて大将と出くわした敵くらいか。

 緊張感のあまり、唾を飲み込んだ直後。

「――シッ!」

 ライト兄弟の左側が繰り出した、シミターの一振り。斬撃の軌道は斜め。力任せに振り下ろされただけだが、有り余る筋力によって増強されたそれはとても速く見えた。大将は横一線の型から右手だけで両手剣を横に一閃。斬撃と斬撃がかち合い、鋭い金属音を生み出す。

「ハァッ!」

 続いて、右側がレイピアを突き出した。片手で凪いだ慣性で、ラインハルト大将の剣は横に泳いでいる。完全に空いた左胸にレイピアが迫る――!

「ふむ」

 対して、大将は余裕だった。突き刺しに向かうレイピアに対抗しようとはせず、あえてじっくりと剣筋を見るように、直前まで不動。

 もらった、とレイピア男が口端を緩めた瞬間、まるで最初からそこにあったように――大将の上半身は四十五度、左へ反転。

 左胸を目標としていた切っ先は、ちょうど脇の下を抜け、空気を切った。

「なっ」

「甘い」

 踏み込んで前につんのめった男のレイピアを、泳いでいた剣で振り上げ、真上へと弾き飛ばした。おおっ、とざわめきにも似た歓声が上がる。

「畜生っ!」

 間髪入れず、続いてシミターの迫撃が襲来した。上段から剣道の「面」のように打ち下ろされる。レイピアを打ち上げた衝撃で、右手に持たれた両手剣の剣先は上空を向いていた。今度こそ、肩口を確実にヒットするであろう攻撃に、皆緊張を走らせる。

 するとまたもやそれは杞憂に終わる。

 頭より高い位置に掲げられていた右手から剣を離し――シミターが襲い来る寸前、左手に持ち替えた!

 再び耳を劈く金属の悲鳴。

 本来両手剣はその重さと重心から言って片手では到底支えられないし、バランスをとることも難しい。その状態でシミターの斬撃をまともに正面から喰らえば押し戻されるのが普通だ……しかし、後退したのはシミター男の方だった。

 武器がやや弾かれ、空を舞い、腹が開いたその一瞬を、強者が見逃すはずもなかった。

 右手を添え、形は両手に。

 中段から繰り出される「胴」の一撃。

 それは避けることを赦さず、男の装甲へ鈍い音を残した。

「ごはっ……」

 装備の上からとはいえ、現役最高の戦力から一撃を貰った男は、どうすることもできず後ろへ吹き飛んだ。

 もう片方は武器を失っている。たった数秒で、大将が勝利を収めたのだ。

 

 その後すぐに二人は救護室へ連れて行かれた。普通に手加減してもらっていたのか、直撃を受けても意識はあったが、鉄とコバルトの合金で出来た分厚い胴当ては陥没していた。

 そして何故か今……僕の目の前には大将が、凄みを利かせた目でこちらを見据えていた。

 勝利を収めた直後に大将が言った。

「さて、今日の本題はこれだ――多対一の状況で、如何に多から攻撃を凌ぎ当てていくか、また一をどのように限定していき倒すか、の練習である。三人一組になり、二対一で打ち方始め!」

 言われるなり、三人グループを周りは組み始めた。

 が、一つ問題があった。

 僕の隣とその隣、ライト兄弟は救護室に行っているのであり。

 つまり二人足りないから……僕は一人あぶれることになった。

 やばいこれは困ったぞ、と頭を悩ませていると大将が、

「一人になった者は私と組むように」

 ということになってしまった。

 ちなみに軍曹は救護室に付き添ってしまったから、三人にすらならない。あの軍曹、大将と打ち合いたくないからって逃げ出したな、ちくしょう。

 そんなわけで僕は大将と向き合う形で打ち合い訓練を始めることになってしまった。

 なお、僕の武器は短剣と二刀。いつもは『スラッシャー』と呼ばれる細く長い、しかし幅を持った刀二本を表に出し、遠距離からの攻撃手段として短剣を楔に繋いで懐に備えている。この距離だと使わないけど。大雑把に言えば二刀流である。

 しかしスラッシャーを構えたはいいけども、正面に相対すると凄まじいプレッシャーで動けなくなる。まだ相手は構えてすらいないのに。それを考えれば、ライト兄弟は結構肝が座っていたらしい。

 緊張で固まっていると、前から声を掛けられた。

「脅圧もまた、武なり」

「は……?」

 いきなりなんだろう。

「発するプレッシャーは実力と比例すると言うことだ。故に、君が緊張するのは武人として当たり前ということだ。先ほどの二名は、そのことに気づかなかったが為、私の間合いに何の警戒もなく踏み込んできた。いかに力差があろうと、三手で詰まれるのは力よりも考えと知己による」

「はぁ……」

 なんとなく言われたことは分かる。けれどこのまま突っ立ってる訳にもいかないじゃないか、と腑に落ちない顔をすると、大将は僕の返答を待たずに返してきた。

「まだ理解は難しいか。ならば分かりやすく言おう。私の間合いを破る方法など無限にある。その服の中に詰まった短剣はただの飾りか?」

 驚いた。

 僕の仕込みナイフは戦闘に役に立つかもしれない、くらいの軽い気持ちで持っているだけで、実戦じゃ使ったことはない。だから大将も知らないはずなのに。

「分かったのなら始めよ。私から攻撃はしない」

「――了解しました」

 言われて、ようやく体が軽くなったようだ。

 一呼吸の後、両手に収めたスラッシャーの片方を素早く納刀。寸後、腰口に備えておいた短剣を投擲、目標は足元。

人間にとって最も弱点は頭部と心臓。但し戦闘の場合、一番効果的なのは足を封じることだ。下半身を折られればどんな兵士でも戦闘力は零に等しくなり、かつそれが多数戦であれば味方の足枷にもなる。歴史上の戦争の悲惨な副産物として地雷がよく上げられるのはこのせいだ。

 武器を構えることすらしていなかった大将は、五メートルの距離から放たれた短剣を後方に飛びのいて回避。短剣は寸でのところで地面に突き刺さった。

 飛ぶと言うことはそれだけ隙ができる。僕はその僅かな時間でやや前進。今度は右ポケットから二本綴りの短剣を抜き、投げる。上から角度を付けて放ったそれは、互いを繋いだ鎖を捻りながら不規則に回転して目標に迫った。

 大将が背中に手を回す。澄んだ音を残して鎖が断ち切られ、唐突に別れを告げられた番の短剣はあらぬ方向へ飛んでいった。他の訓練生に当たらないことを祈っている暇はない。

 僕は前へ走る。走りながら、左右両胸に手を突っ込み、計六本のナイフを飛ばした。投げると同時に、さっき鞘へ戻したスラッシャーを抜刀。

 短剣の行く末は追わなかった。

 膝元に投げたから、避けることはできないはず。

 僕の予想どおり、金属を叩き落す音が二度鳴った。二回に分けたからそれはそうなるはずだ。

 視野に大将の脚が入り、上払いにスラッシャーを振った。そちらの金属音は一回。しめた。僕の剣は二本だ――

 やった、と剣先を確認しようと顔を上げるとそこには、

「知己は十分。だがそれでは足りないな」

 大将が左より繰り出した片方のスラッシャーを、薄い皮手袋一枚のみで、掴んでいた。

「っ……!」

 自分が攻めていた時にはまったく感じなかった殺気が、正面から溢れんばかりに突き刺さる。すぐに飛びのかねばならないのに、一瞬足が凍りついたように動かなかった。

「ふんっ!」

「っぐ!」

 そのせいで、重いタックルを至近距離で貰う。スラッシャーは手から離れ、後ろにぶっ飛ばされた。受身をやや失敗して肺から空気が漏れた。

「げほ、げほ」

「悪くは無いぞ。ただ次どう攻めるかが重要だ。二度同じ策を用いることは重大な戦況を生む可能性も有る。そして今度は私も剣を抜く」

 そう言った大将は、先ほどライト兄弟を捉えた必殺の構えに入る。なんとか立ち上がって、剣を拾ったはいいけれど、短剣はさっき全部で九本使った。無駄遣いすると一気になくなってしまう。しかし剣だけでは攻め手に欠いていた。

「来なければこちらから行くぞ」

 そしてこの台詞だ。焦って攻めても意味が無い。何か、何か手は……。

 そうこうしている間に大将は目を静かに開き、一瞬の間で突撃してきた。その速さはまるで流星のよう……流星、流星か。

 一計を案じた僕は、両手1本ずつ持ったスラッシャーを重ね、右手を上、左手は下にして……野球のバッターが球を待ち受けるような形で構えた。

 かの有名な、一本足のホームランバッターは言った。

 バッティングとはタイミング。技術以前にそれができなければ、如何に地面スレスレの変化球にも対応できようと、当たらなければ意味がない。

 ド真ん中の甘いボールでも、空振ってしまえばストライク。

 白球がゾーンを通過する僅か数フレームの違いが、三振とホームランを分けるのだと。

 その一瞬を待つ。今の自分は流星を打つホームラン王だ。

 凄まじい殺気を漂わせ迫り来る大将ラインハルトの一撃をただ待つ。

 まだ、まだだ。

 徐々に刃が向かってくる。一メートル。五十センチ。三十センチ。

 そしてその瞬間は訪れた。

 今だ――!

 踵を浮かせた左足を前へ。

「っあ!」

 前に出る勢いを利用し、束ねた二重剣を力の限り、フルスイングした。

 どんな巨大な鐘の音より大きいだろう、鍔鳴りが響いた。

 振動が金属を伝って指を伝って、腕の骨にびりびりと伝導。

 あまりにも強い衝撃。それでも何とか堪え、剣を振り切った……!

 上段から振り下ろされた流星は、軌跡を曲げられてスライド。大将の足元がぶれ、体が横へ泳いだ。

 攻撃の回避に成功した! と思ったのも束の間。

 大将は弾かれた刃から咄嗟に手を離し、空中で持ち換えると、

「――はぁあ!」

 右手一本で返しの袈裟切り。

 フルスイングで完全に空いていた僕の横腹にそれは狙い澄まされ、スレスレで入り込んだスラッシャーを巻き込み、鈍い音を立てて叩き込まれた。

「ぐ、は」

 肋骨が砕けたかと思うほどの衝撃に、意識が明滅する。踏ん張ろうとしたが、体はいうことを聞かず、膝は折れ、剣を落とし手を地面に着いた。

「……参りました」

「うむ」

 直後、休憩時間のベルが鳴った。打ち合いをそれぞれやっていた訓練生達が、各々部屋から出て行く。

 僕も休憩しようと、よろめきながら立ち上がると、

「良い太刀であった。私の初撃を刀剣で防がれたのはそう無い……この後話がある。本日の訓練が終わり次第、講堂奥に来るように」

 そう告げて大将もまた、訓練室を後にした。 


 ***

 

 言われた通り、既に日の落ちかけた夕方、講堂の奥にやってくると、大将・ラインハルトは壁に背を寄せて待っていた。訓練室では無骨な鎧を身に纏っていたが、今は薄めのシャツに長ズボンとカジュアルな格好をしている。

「お待たせしました」

「大丈夫だ、問題ない――さて、話をしよう」

「は、はい」

 実のところ、僕はかなり浮かれていた……それはそうだ、まさか自分の憧れている騎士団の、実質トップに訓練とは言え褒められる機会があったから。

 しかし、喜び勇んで昼ご飯時、フランにそのことを話せば反応は冷ややかで、

「フラウ兄、ちょっと浮つきすぎじゃない? もしかしたら、ボコられちゃったりするかもしれないよ?」

 なんでだよ、と返すと、

「だって放課後体育館裏に来い、ってシチュエーションだもんそれ! 男と男の殴りあいに発展するフラグが立ってるんだよっ。なんだろ、こう、グッとくるものがあるよね!」

 などと興奮気味に捲し立ててきたのだった。冗談じゃない、こんな人と本気でやりあったりしたらこちらが触れる前にボッコボコにされるだろう。

 そんなだから、浮ついた気持ち半分、残り半分はかなり緊張していた。やがて、大将が口を開く。

「フラウ。君は入校して何年になる」

「はい、今年で四年になります」

「ふむ……となるとかなり早いな。が、時は迫っている」

「大将?」

 時が迫っている、とは?

 何か重大なことでもあるんだろうか。

「――すまない。今のは気にしないでくれ……話を戻そう。君は何故騎士団を目指そうと思ったのか、聞かせてくれるか?」

「リトルプレイヤーを根絶するため。親の仇を討ち、友の平穏を守る盾になりたいからです」

「つまり、復讐ということか」

「一理あります」

「なるほど……しかし一武人として、君に一つ言うべきことがある。……復讐は何も生まない」

「…………」

「私とて、騎士だ。害なす彼らを屠り、時には残虐を課さなければならないこともある。しかしそれとはもう一つ、彼らと歩まねばならない時代も来ていることを、痛感してもいるのだよ」

 大将は続ける。

「世界中を巻き込んだ第三次世界大戦。それにはおよそ数億の児童が動員されたことはニュースとして新しい。そんな中、リトルプレイヤーは現れた。一人で兵士百人とも千人とも比較できる、戦力。私はこの因果を解き明かすことで、彼らの出生と秘密が明るみになると信じている。これが本当に何かの陰謀であれば、騎士はもう剣を振るわなくても良くなる。血は流れなくても良くなる」

「……それが本当だったとして、僕の仇はどう討てば良いのでしょうか」

「この陰謀の、主が居る。幼き子達を戦地に狂わせ、社会の敵へと仕向けた黒幕が。私はその敵を探している……君の真の仇はその者でもあると、頭の片隅に入れておいてくれるといい」

「ですが、そんな話は聞いたことが……」

「君だから話している。確証たる証拠はまだ無いし、国が揉み消すだろう。だからこの話は、君の心の中に留めておくと共に……覚えておいてくれ。騎士になるということは、命を背負うということ。そしてリトルプレイヤーは、共に歩むものだと」

 黙りこくる僕を前に、大将はポケットに手を突っ込み、なにやら探ったあと、手紙のようなものを取り出して、

「これを受け取りなさい。来週の頭、集合時間は朝の九時、正門前」

「これは……!」

 手渡されたのは、一畳みの赤い紙だった。

 通称、赤紙。騎士を目指す者にとって、命と家族の次に欲しい物。

 書かれている内容は分かっていたものの、一目確かめたくて、中を開いた。

 

 訓練生 フラウ

 右の者を大将 ラインハルトの命において、騎士入団資格を与える。


「どう騎士としての道を歩むかは君次第だ。だが数々の苦難を乗り越えて真実を見る勇気があるなら、この紙を持って門を叩くといい」









   2.若騎士と機能人形




「ぐすっ……ふあぁん、フラウ兄ぃいっちゃやだぁああ」

 翌週の頭、すなわち月曜日。

 今日僕は、卒業式を迎えた。

 騎士学校の卒業式はまばらで、年に八回も行われる。

 そして僕は五つも六つも年上の訓練生と一緒に、式に参列した。在校生代表なんてものじゃない。れっきとした卒業生だ。

 既に式は終わり(書状を各自前に出て受け取り、最後に校長から訓辞を受けるだけのごく短い時間である)、持ち場や騎士寮に配備される前の短い時間を、皆思い思い門の前で友人知人と語り合っている。

 僕達はと言うと、さっきから泣きじゃくって僕を離さないフランをなだめていた。

「コラ、フランよう。あんまフラウを困らせんなって。昨日笑って追い出してやろうぜって俺らで決めたじゃねぇかよ」

「うぅ、うぅう~~! だってだってだってぇ!」

「あはは……まぁ分からなくはないけどね。フラン、フラウにずっとひっついて回ってたし」

 ほとほと困り果てていた僕は、ヴィルトールとリゼッタにまで援護をしてもらっていたが――なにせ自慢のわがまま妹。かれこれ三十分は捕まっていた。

 しかし、召集の時間までには着いておかないと、騎士に着任早々、遅刻なんてありえない。新兵が重役出勤なんてしようものなら、大将の顔に泥を塗ることになる。

 そこで僕は、ポケットから飴を取り出し、

「仕方ないな。それじゃほら、飴やるからこれで元気出せ」

 フランに渡した。フランは飴を握ると、

「うぁーい、飴! 私、飴大好き……っているかぁ! 馬鹿にするなぁ!」

 一瞬喜んだかと思えば、急に怒って飴を地面に投げ捨てた。ああ、あれ最後の一個だったのに!

「なんだよ、飴おいしいのに」

「……飴、なんかよりも」

 ふとフランは俯き、小さな声で言った。

「飴なんかよりも……一つ、お願いがあるの」

「……うん? なんだ、あんまりあげられる物、僕は持ってないぞ」

 僕とは相対的に、フランは急に緊張したように体を強張らせていた。態度もどこかもじもじとして、視線は右往左往している。その中でたどたどしく、しかしはっきりと口にした。

「あのねっ……お別れのキス、してほしい……」

「な、なんだって……?」

 僕が聞き返すと、今度は視線を合わせて言う。

「キス、してほしいの」

 思いもしてなかった『お願い』に、僕は混乱した。上目遣いのフランの表情が妙に可愛く見えて、心臓が急に暴れ始める。それはもう縦横無尽に。

 いやいやまさか。これは冗談。そう、フランお得意の冗談で僕を困らせようとしてるんだ……きっと!

「フラン、冗談は止めてくれ。本気で心臓に悪い」

「っ! 冗談なんかじゃないもん!」

 ぎゅ、と僕の胸にフランが抱きついてくる。ふわりと香った、柑橘系の匂いが。さらりと触れた金色の髪が。肌を通じて伝う胸の鼓動、やや震えている手。それら全てが、フランの気持ちを余すことなく運んできた。

「フラウ兄ぃはいっつもそう、私のことなんか妹としか思ってない。こっそり布団に忍び込んでも何でもないみたいな顔して。私にとってフラウ兄ぃはただのお兄ちゃんなんかじゃない……だ、大好きな男の子なんだもん!」

「っ、フラン」

 驚いた。

 フランが、まさか僕のことをそんな風に思っていたなんて。普段の行動からは考えもつかなかった。

 いつもトラブルを持ち込んで。

 一人で処理しきれずに僕を巻き込んで。

 それでなんとかフォローした次の瞬間にはまた何かやらかしている、目の離せない女の子。

 そんな日常もまた、僕は楽しんでいたのかもしれない。こうやって言われて初めて、僕はフランを女の子として見ていた。なら……気持ちには答えを出さないといけない。

「分かった。そこまで言うなら――フラン、目を閉じて」

 僕はそう言って、フランの肩をそっと握って体から引き離した。瞳を閉じたフランのまつ毛は長く綺麗で、目尻からやや溢れた透明の雫が、真珠のように光っているのがとても幻想的に見えた。

「ふぇ……」

 僕はそのまま、顔を少し下げた。きっと横ではヴィルトールが囃したてているのだろうけど、緊張のせいか、心臓の音だけが聞こえ、それ以外は何も耳に入っていなかった。

 そして、フランの前髪を少し上にやって、

 僕は唇を近付けた。

「………………」

 触れていたのはほんの数瞬だったと思う。

 僕が離れると、フランは両手で確かめるように額を触った。

「お、おでこ……」

 軟弱者と言われるかもしれないけど、やっぱり僕には『そこ』にする勇気はなかった。だから、

「――僕にはやらないといけない事がある。フランのことはもちろん大切に思ってる……だからこそ、行かないとダメなんだ。もし、僕が目標を達して、その時にまだフランの気持ちが変わってなかったら、また答えを聞かせてくれるか?」

 本音半分、建前半分のなんとも情けない言い訳になってしまった。だけどまぁ、普段からヘタレてる僕にはこれくらいが丁度いいだろう。

 そんな僕に、フランは薄く微笑んでしかし、

「うん……分かった。仕方ないね」

 半分残念そうな顔をした。

 直後、門の外から召集のサイレンが鳴る。

「それじゃあ、そろそろ時間だから。ちゃんと消灯時間になったら寝るんだぞ? あと朝はきちんと一人で起きれるように。それから部屋の掃除と――」

「ぷ、くすっ!」

「あ、こらなに笑ってるんだよ。人が心配してやってんのに」

「大丈夫。フラウ兄が思ってるより私はちゃんとしてるから。フラウ兄こそ、しっかりしなくちゃだめだよ!? ヘタレて帰って来ることがあったら、追い返してやるんだから」

「はは……そりゃ、頑張らないといけないな」

「おう、いちゃいちゃタイムは終わりか?」

 隣からヴィルトールが茶々を入れてきた。そして後ろにいるリゼッタから窘められる。

「ちょっとヴィル、急かさないの! もう、デリカシーないんだから!」

「いでで、俺はただそこにもう集まり始めてるから知らせようと」

「はーいはい、御託はいいからあんたはこっちに来なさい」

「耳は、耳の端っこはヤメロ……」

「相変わらずだな、あの二人は」

「だね」

 あのままだと耳が伸びてしまうんじゃないかってくらい引っ張られていくヴィルトールを見て、僕らは苦笑した。

「フラウ兄ぃ」

「ん……?」

 突然呼ばれて、もう一度フランの方に向き直ると、頬に温かい感触が走った。

「な、ななっ」

「さっきのお返し! さ、案内の人が呼んでるよ! さっさと行く!」

「わ、ちょ……おい」

 フランに背中を押され、門から外に出される。不思議な顔をしながら、門兵が可動式の扉をガラガラと音を立てて閉めた。門越しに、フランの照れた顔が見える。

「いってらっしゃい、フラウ兄ぃ」

「……いってきます」

 僕はその顔に答えるように、笑顔でそう返した。


 ***


 フランやヴィルトール達に別れを告げた僕は、騎士学校から馬車で半日を掛けて移動した。着いた先は、初年度の騎士が駐屯する補給用の基地。配属は既に決まっていて、前線に出る小隊。

 正直僕は、この国が常にリトル・プレイヤーその他戦力に脅かされ続けていると思っていた。否、そう思い込んでいた。しかし……現実は優しくなんかなかった。

 ――『超』が付くほど甘かった。甘くて糖尿病になるくらいだ。


 一日の始まりは、既にニワトリがコケコッコーと鳴いて、エレメンタリースクールの子供達が長期休暇に集まる朝の体操の時間も過ぎ、さらには一般学生があくびをしながら最初の授業を受けるくらいになった時――その時になってようやく始まる。時間的にも曖昧だけれど、大体午前九時ってところか。

 そしてそこから厳しい戦闘準備の為の訓練があるかと思えば、同じ隊の先輩達は特にそういった様子もなく。

 いや、最初の頃は殺意さえ抱いたが、実は彼らが怠けているのも仕方がない、とも思えるように数日でなっていた。

 出動要請が来ないのだ。

 一日、二日来ないのはまだ分かるが、僕が入隊して半月。ものの一度も僕は基地の敷地から出ることはなかった。

 そして今日も……

 

「クソったれた今日に! 乾、杯ィ!」

「「乾杯!」」

 古ぼけた木造の詰所には、まだ日の落ちていない夕方時だと言うのに、盃を打ち合う音が木霊していた。

 男達が野太い声を響かせ、木製の干からびたテーブルの上で酒を次々に煽る様。祝杯ならまだしも、朝から寝てばかりで昼は賭けトランプ、そしてこの晩に下卑た笑い声で宴を催しているのだから……とても騎士とは思えない。でも、既に見慣れた光景でもあった。ちなみに、この後夜通し賭け麻雀に発展し全員が寝潰れるまで行われるのも通例だ。

「おう、新入りも今日くらいはこっち来いよ! 何も俺達に遠慮しなくてもいいんだぜ? たまにはよ!」

「そうそう、酒くらい一気にヤっちまえよ。ま、良い女引っ掛けた時は譲って貰うけどなァ!」

 最初に僕を誘った先輩騎士が、お前は譲って貰う前に勝手にヤるだろうがよ、と突っ込み、周囲からどっと笑いが起きた。

 僕にはやることがある。故にこの宴には参加しない。無理に誘われても断ることにしていた。

「結構です……というより、今日は気分が悪いんで、早めに寝ようかと」

 無論気分が悪い原因は、この人らの際限ない葉巻の臭いや煙だったり、酒臭さのせいだったりするのは言うまでもない。

「そりゃオメー、朝っぱらからそこらじゅう犬みてぇに走り回ってたらバテんだろ! ヒハ、俺ァどうせ動くなら綺麗な姉ちゃんの腰の上だよなぁ!」

「おいおい新入りにゃまだ早ぇ話だろ。ま、俺なら小っこい方が燃えるな、胸も尻も小せぇ方が最近のブームってな!」

「テメーのロリコン癖はちょっと分からねぇわ」

「うるせぇな、なんなら今度の召集の時にでも存分に語ってやるよ! こう……嫌々ながら無理やり捻じ込むってのも中々味わえないもんだぜ」

「へぇへぇ」

 そこまで聞いて、僕は耳を塞いでボロボロの布切れに身を埋めた。

 寝床越しにも、騒ぎ声が聞こえてくる。

 おら、飲め飲め! 一気だ一気! ばかやろうそれ一番高い奴じゃねぇかこぼすなこぼすな! お、ブラウンとデニーの飲み比べが始まったぞ皆賭けろ! 俺は一万! 俺はデニーに五万だ! テメー昨日ちょっと麻雀で大儲けしたからってブルジョアぶりやがって! おい誰だ俺のステーキを奪った奴は!

 ――ばかばかしい。

 僕は飲み騒ぎ、賭け、遊び狂う為に四年を犠牲にしたわけじゃない。

 前線に放り出され剣を振るってもしかしたら命を落とすかもしれないけれど戦いの場に身をおきそれで死ねるなら本望だ。他を守りたいと思えど自分の身が大切なんて思ったことは無い。

 騎士になって、成果を挙げて、親の仇……リトルプレイヤーを倒す。

 それだけが目的なんだ。

 テレビで流れる騎士の様はとてもヒーローのように映っていた。荒廃した街で救助や自治を行い、ならずものには刃を向ける。

 僕はヒーローになりたいわけではないけど、少なくともそんなイメージしか抱いていなかった。

 そういえば……夢の中の女の子は一体なんなんだろう。

 幼くして僕と面識があったかもしれない……ということは、彼女との仲もまたリトルプレイヤーに引き裂かれたのだろうか。

 なんだかんだであの夢は、騎士に上がって以来見ていなかった。

 これが何のシグナルかは分からないけれど。

 とにかく、現状に変化を求めたかった。

 そう念じ、強く拳を握りしめて……僕は瞼を閉じた。



 今日の夢はちょっと違った気がした。

 いつもならば、眠りに落ちて夢に入った瞬間、暗い闇に、奈落の底へ突き落とされたような絶望の世界で、あの戦闘が始まる。

 無機質な鉄壁と、死神がもたらす闇に染まる。

 それとは、最初から異なっていた。

 色彩ないモノクロームではない、鮮やかな銀に支配された世界。

 どちらかといえば灰色に近い銀色が、鮮やかと言うのは少しおかしい表現かもしれないけれど、確かにこの銀は、モノクロとは違う、希望の『色』をしていた。

 光沢を持ち、明暗のグラデーションが美しい、波紋が次々に視界を横切っていく。

 それはそう――絶望の夢でいつも泣いている、彼女の髪の色。それに近い感覚だった。

 不思議と暖かい気分に包まれる中、誰かが僕を呼んだ。


『フラウ』


 辺りを見渡しても姿は見えなかった。

 僕の行動を見透かしてか、薄く笑ったような声で、


『目だけじゃ、見つけられないよ』


 と言ってくる。

 じゃあどうやって見つけろと。


『心、記憶、絆。私とアナタにあったものが、教えてくれるはずだよ』


 なんだよ。お前、誰だよ。

 絆なんて持ったことなんかない。


『ねぇ、私を見つけられないの?』


 探してないし。


『探してよ』


 僕にはやることがあるんだよ。


『それでも見つけてくれるって信じてる』


 …………。


『出来るだけ早く、見つけてね。一人ぼっちじゃ寂しいから――』


 そう言ったきり、声の主は音量を徐々にフェードアウトしていって、やがて何も聞こえなくなった。

 銀の空間に取り残された僕は、まだ心地よさの残るここでまどろみながら、夢が明けるのを待った。



 いつもと違う夢は、いつもと違う日常を運んできてくれたらしい。

 朝早くに起き、走りこみと一通りの鍛錬を終え、詰所に戻った時だった。

 麻雀を打っている途中で寝落ちした連中が、テーブルに突っ伏して酒臭い呼気を辺りに撒き散らしている。ここまでは普通だ。しかしその傍で、基地宛の手紙――すなわち、この分隊全体への手紙だ――を選り分けていた先輩が叫んだ。

「遠征が決まったぞ! しかも大将のお墨付きでだ!」

 それを聞いた瞬間、低く唸って地面に指で絵を書いていた者も、寝惚け眼で賭けの勝ち金を集計していた者も、皆色めきたって一斉に歓声を上げた。

「よっしゃああ!」

「オイオイ来たぜオイ! オイ、起きろオイ!」

「ヒャッハー! 狩りの時間だぁあああ!」

 何故かさっきまで爆睡していた者まで起き上がってハイタッチを交わしている。

 僕は『遠征』の意味が分からず、手紙を見つけた先輩に尋ねた。

「あの……遠征ってなんですか?」

 すると、先輩騎士はきょとんとして、

「何ってお前、知らねーのか?」

「はあ」

 ここの連中が全員喜んでいるようなイベントだから、どうせ大したことない……というかくだらない内容なんだろう。遠征っていう言葉の意味から推察するに、どこか遠くに行くんだろうけど。旅行? まさか。

 生返事であれこれ考えていると、後ろから数人にバシバシと肩を叩かれる。

「新入りはまだ遠征行った事なかったよなぁ! お前もようやく初体験ができるってこったな! 男を上げられるぜ?」

「いやー、コイツ連れていってもどうせ恥ずかしがって表に出てこないんじゃねーのか? なんせまだ『お若い』からな! それとも意外と燃えるのか? うはは」

「まぁまぁ、ノウハウは俺が教えてやっからよ! どう小っこいのに入れるのかはレクチャーしてやんよ!」

「出たよ。オメー、スラム遠征の時だけこうだもんな。ったく、俺はチビは嫌いだ」

「そういったって、どうせヤる時はヤる癖に」

「そら腹減ってる時に目の前に飯があったら誰だって食うだろ」

「よくいうぜ、がはは」

「あの、話が見えないんですけど……」

 尋ねても、もう向こうは勝手に盛り上がってこっちの話を聞いていない。仕方なく、さっきの先輩騎士の元に聞きに行く。すると、ニヤリと笑って、言った。

「出征だよ出征。リトルプレイヤー狩り、さ!」



「こうも暑いとなんだか気が抜けちまうなぁ」

 僕の隣で呟いたのは、小隊長だ。あのくだらない基地の隊の中で、唯一の良心と言っていい人なので、必然的に近くに居ることが多かった。

「……そうですか? 僕は初陣ですから、緊張しかしてません」

「はは、自衛隊みたく他の国と戦争おっぱじめるってんなら、そら緊張もするかもしれねぇがな。実際本格的な戦闘になった事はほとんどねぇ。向こうは数も少ない。大体が単騎か、多くても一家族ってなもんよ。本当にやべー奴が居る場合はこんなしみったれた小隊なんかにゃ任せてくれねぇ。今回のスラムも、俺は五度目だが……前回行った時も特にやるこたなかったしな。安心しろ、怖いなら後ろに隠れててもいいんだぞ?」

 そういうと、小隊長はうはは、と笑う。

 僕らは今、街のド真ん中を行軍している途中だ。

 今回の目標は、基地管轄にある中程度の街、クレイル――のスラム敷地である。

 少子化対策として導入された乳幼児アジア移民政策の負の遺産として、国の各地にスラムは急増した。元々先進国家で就業率も世界トップを走っていたこの国でさえもスラム人口は全体の一割を超す。

 このクレイルの街では、街の半分以上が産業で栄えているものの、東部にこさえられた城門より奥からはスラム地域に区別される。

 スラムに住むのは他でもない、職を持たない貧困層になるのだが、政策により生み出された多くのストリートチルドレン達は、このスラム人口の半分近くに及ぶ。そして……ストリートチルドレンと容姿は変わらないリトルプレイヤーが、スラムに紛れて生活するのは良くあることなのだ。

 もっともその性質故に迫害されること、忌み嫌われることから身分を隠す者が大半らしく、この任務において、とりあえずスラム居住者で怪しい者は捕縛する、とのことだ。

 伝令内容的に、戦争のようなイメージしか沸かなかったけど、小隊長だけでなく周り全員がお気楽ムードで喋っている。これが某『北の国』なら、国家反逆罪とかで死刑になるかもしれない。まだ訓練校で行進の練習をしていた方が厳しかった。

 もちろん、僕みたいにガチガチ緊張しているのもまた滑稽なんだろうけど……さすがに前を歩く先輩はふざけすぎじゃないかと思う。

「でよ、こう腰をクイクイッって捻ると痛がるんだぜ!」

 行軍しながら体を横に向け、鎧の間から腹を出してクネクネと腰を揺らしている。それを向かいに居た別の先輩がむんずと肉を掴み、苦言を呈した。

「分かった、分かったから腹を出すな気持ち悪い。お前また太っただろ、こんなたぷたぷしやがって」

「そんなこたねぇよ。くびれが三つになっただけだ」

「それを三段腹って言うんだよ」

 格好良く名前付けてみようぜ、スリー・バウンド・ストマック、みたいによ」

「だせぇし!」

「だぁあ、うるせーよ黙って歩けハゲ!」

 あまりにもペースが落ちたものだからついに後ろから尻を蹴られる。ガァン、と乾いた音がして、蹴られた先輩は「おひょ」と声を上げて尻を押さえた。

「てめっ! やりやがったな!」

「お前らがおせーから悪ぃんだよ!」

「なんだとこの野郎!」

 今から任務だと言うのに。

 場所を目の前にして、かの二人は取っ組み合いの喧嘩を始めた。

 互いに肩をぶつけあい腰を掴んで、相撲のような形でオラオラと罵りあう。それを見かねてか、

「静まれ、そろそろ作戦開始だ。――スラムに入るぞ」

 小隊長がそう告げた。灰色の、形だけは無駄にでかい門がギギギと耳に痛い音を残して開いていった。

 門を通るとそこは、同じ街……いや、同じ人間が住むものなのかと思うほど異質だった。

 クレイル自体はそこそこ大きな街だ。首都周辺ほど人が満ち溢れているわけではないが、ずっと歩いてきた道は綺麗に整備された石畳が並んでいて、軒には活発な商店が立ち老若男女が商い集っている様子がそこかしこで見られた。

 ――が。

 ただの一歩、場所を違えるだけで景色はまるで変わる。

 クレイルの一般居住区を『光』と例えるなら、このスラムは『闇』ですらない、そう……『無』だろうか。

 土地は荒廃しきっており、当然ながら道路なんてものはない。土は灰色そのものでそれが見渡す限りずっと続いている。生命力の証か、なんとか生えている雑草でさえまばらである。

 点々と立っている建物は住宅のつもりなんだろうか。木造であることは見て取れるけども、それ以外はただのガラクタの寄せ集めというかなんというか。どの建物も屋根が粗大ごみのような、車だとかイスが突き刺さっている。窓は中途半端に割れ、ドアも見当たらず、どこから出入りしているのか検討もつかない。

人の姿は見えない。僕らがやってきたからだろうか。やせ細った犬や猫がこちらを見ている。残念ながら餌は持ってきていない……。

 一目見た感想では、酷い有様としか言いようがない。息を飲み、立ち止まった僕に背後から声が飛んだ。

 「各自指定された持ち場で行動開始しろ!」

 それと共に、初年兵の僕以外は皆慣れたように散らばっていく。訓練学校で何週間もかけて叩き込まれた隊列なんて微塵も感じさせないほど、ばらばらだが小隊長は何も言わない。僕は慌てて後を追った。


 ***


 行動開始、とトランシーバから聞こえる。

 作戦本部と言えば聞こえだけは良い、名ばかりの自室で、大将ラインハルトは大きく息をはいていた。それは失墜ではなく、安堵のものである。

「ようやく、ようやく我の願いの種が蒔かれた……。もとより長い年月とギャンブルのような願いではあったが、あやつが良く成長してくれたものだ。あの男から出し抜いた情報もある。万が一あやつが殺されてしまうことが無いとも言えないが、志優しき者だ、きっと悪いようにはいくまい。私がこの修羅から開放される時も間近だ――」

 普段、部下から慕わ畏れられるその精悍とした顔つきがふと緩む。

 無理も無かった。彼はとある事件で、最愛の者を一人亡くし、娘を人質同然に取られてしまった。そしてその状況は十年近くにも及ぶ。

 そこから修羅の道を究め、四年前に、ついには騎士の長へと上り詰める技量を得た。それでも敵は遥かに強大で、また卑しい者だった。

 彼は悲嘆に暮れた。

 一時、世界を捨て、地の果てで孤独に死に行くのも良しと思ったこともあった。

 そうこうしている間に世界は、自身の敵に屠られていった。退廃していくのが見えた。

 公園の遊具で昼下がり、思慮にふける彼の横を未就学の女児達が駆け回っていた。娘に面影を重ねた。

 娘と年齢を同じくする者達の未来を守りたいと思った。

 だが、どうしようもない。

 やりきれない気持ちで任務先に向かった時だ。

 彼は希望を見つけた。拾った。

 見た瞬間、『敵に繋がる者だ』と記憶の奥底が告げた。

 彼は希望に途方も無い年月と、微小な確率に、賭けることにした。

 そうして今に至る。

 希望は年月を遥かに早くクリアし、僅かな確率さえも超そうとしている。

 十年の思惑が、もうすぐ手に入る。

 そうとなれば、顔くらい緩むのも仕方ないといえよう。

 もう一つ、大きな息を中空へ放ち、やたら高級感のあるチェアに背を預けた。キシ、と軽く音を上げるがそれは彼の体重が重いせい。

 と、急に胸元から黎明な響きのメロディが流れた。着信音だ。

 ラインハルトは、すっと顔の緩みを戻し、音の元である携帯電話を指二本で摘まみ、着信元を確認する。表情は固く冷たいものへと変わった。この携帯の番号を知っているのは、ただ一人だけである。間違い電話であった欲しい、と彼は思ったが残念ながらディスプレイが示したのはその人だった。

 通話に出る前に部屋のロックを確認し、携帯のジャックに何かイヤホンに似たものを取り付ける。前者も後者も、盗聴を防ぐ為である。どちらも、通話主に言われたものだ。

 ややあって通話に出る。

「……なんだ」

「私だ」

 そんなことは分かっている、忌々しいやつめ、と拳を握る。

「披検体ナンバー2の事だ。既に潜伏場所を伝えたはずだ。首尾はどうなっている」

「問題ない、先日精鋭部隊を送り込んだ。もし失敗したとしても、通常任務の延長上だ。他に流出する怖れはない」

 精鋭と言えるのは一人だけだがな、とは言わない。

「それなら結構。君も丸くなったものだな。さすがに娘が大事だと見た」

「……分かっているなら返して欲しいが」

「それはダメだ。君が言うことを聞くと申し出たから、彼女は大切に扱っているし名目的にも君に顔を見せることだって許しているんだぞ? 本当ならば幽閉して実験してやるところだ。ナンバー1は裏切り、ナンバー2は目下脱走中。私の懐のよさにいい加減感謝してもらっても良いんだがね」

「何を抜け抜けと! ええい、とにかく言われたことはやった。成果が出ればまた報告する。他になにか連絡は!」

 バン、と机を殴り、携帯に向かって怒鳴る。電話の向こうの男は、それを心底愉快だとばかりに、楽しそうに応対する。

「特にないよ。君が何をしようと、結局無駄だってことは君が一番分かっているはずだろう? 精々私の足元で働いて」

 そこまで聞いて、ラインハルトは通話を切った。

「…………クソッ。計画は絶対に成功させてみせる。覚えてろ……!」

 虚しい憤りは、空気へ紛れ、部屋の隅へと拡散していった。


 ***


 任務、と言われるほど厳しいことは何一つなかった。

 僕は初年兵なので、一人巡回して怪しい人物を見かけたら、首を突っ込まずに戻って隊長に報告。と言うのが役割。

 けれどその怪しい人物も特に見当たらない。

 なんというかこのスラム、奥深くまで歩いても、身寄りのなさそうな幼い子供と会うだけで後は道端で寝ている酔っ払いや老人しか居ない。

 ぶっちゃけ、暇だった。

 それでも詰所で腐っているよりはましだけど。他の人はどこで何をやってるんだろう。

 そう思っていた時だ。

「にゃあああぁ!? なにするのだ~~~!?」

「……なんだ?」

 甲高い、子供の声。少女だろうか。

 そう遠くないところからだ。

 だが、周りはがれきで作られた建物(っぽいもの)が多く存在していて、どこからかわからない。

 すると、声の主がもう一度叫ぶのが聞こえた。

「だ、誰か! 助けてぇ!」

 助けを呼ぶ声が確かに。

 ……これはしらみ潰しに当たるしかないか。

「待ってろ!」

 瓦礫の山を掻き分け、一人捜索を始めることにした。



 言うなれば、北欧に良く見られるレンガ造りの……それが一気に崩壊したかのような、跡が並んでいる場所だ。

 声が近いと言うことが分かっても、まず入り口が見当たらないものも多いし、幾度となく瓦礫をどけても、当たりは引かなかった。

 時間だけが過ぎて、少女の声は今は聞こえない。

 あれは思い過ごしだったんだろうか……?

 ふと汗を拭う際に、天を仰いだ。

 すると、何故だろう。

 風の向きが、空を流れている風の道が、はっきりと見えた――そんな気がした。

 視界に、微かな白く細い糸のようなもので、右から左へと漂っている。それに触れると、そよそよと涼しい風を手に受ける。

 その糸の行く末は、瓦礫で作られた、塊にしか見えない一つの建物へと集まっている。よく見れば人が屈んでようやく入れるかどうかの穴が開いていた。

 風に背を押されるように、僕はそこへ近づき、穴に頭を突っ込んで中に入ってみることにした。

 ――そこには。

「ははは、オラオラ逃げるんじゃねぇよ」

「おい手は縛っておけよ」

「暴れんなってコラ」

「うぅっ、いやぁ、いやだぁ……」

 四、五人の先輩騎士と、泣きじゃくる一人の少女が居た。


 少女は両手を頭の上で掴まれ、元は白かったであろうワンピースのような服は、泥だらけなうえ引き千切られた跡があり見るも無残。やや焼けた肌には、無数の切り傷と殴られた赤みが残っていた。

 少女の齢は八、九と言ったところだろうか。小さな体躯に大の大人が群がっている様子は、誰がどう見ても悪戯の範疇を超えていた。

 絶句し固まる僕に先輩騎士が気づく様子はなく、さらなる暴力が少女に加えられる。

「なんでぇ……ミャー、何も、ぐすっ、やってない、のに……。なんでこんなこと、ひっく……するの?」

「そりゃ何もしてねぇだろうなァ? けどよ、お前らは――存在するだけで邪魔なんだよ!」

 少女の頭を掴んでいた一人が、壁におもいきり頭をぶつけるように、額を強く押した。ゴン、と鈍い音が響き、「あぐっ」と少女の口から声が漏れる。

 それでようやく我に返った僕は、ずりずりと小さな穴から這い出して先輩を怒鳴りつけた。 

「ちょっと先輩方! 何をやってるんですか!」

 すると、一番僕に近いところで、何やらビデオみたいなものを持っていた一人が、怪訝な顔でこちらを振り返る。

「あん? ……なんだ新入りじゃねぇか。何かあったのか」

「何かあったか、じゃないですよ。目の前にあるじゃないですか、これはどういうことなんです!?」

 思わず語気が上がる。体も心も興奮していた。

 そんな僕の、恨みの籠もった視線を彼は一笑に付して全員に問うた。

「ハッ。なんだ、訓練校でダダ上がりしてきたからよほど肝の据わった奴かと思ってたがやっぱり腑抜けだな。オイ、教えてやれよ。俺らが何やってるか」

「面倒だが、仕方ねぇな。オラこっち来い!」

 少女の頭を片手で掴んでいた者が首根っこに持ち替えて、僕の目の前にぶらん、と下がった少女を差し出す。

「う、うっ……」

「よぅく見ろ。コイツの頭には何がある? コイツのケツからは何が生えてる? 一発で分かるはずだぜ」

 ズタボロにされて、ぽろぽろと涙の雫を流す少女を見やる。すると、彼の言っていることは、すぐに分かった。

「耳……と、尻尾」

 普通の人間ならありえない筈の、頭頂部から飛び出た、黄色と茶色の毛に覆われた耳。それと、股の下から同じ色で先のやや曲がった尻尾があった。一言で表すなら、猫のよう。

 僕の答えに満足したのか、先輩はニヤリとして大声を張り上げる。

「そうだ、耳と尻尾。マジモンの人間にゃーこんなもんは付いてねぇ。勿論作り物でもねぇぞ? 引っ張っても取れなかったしな」

 言って、グイグイと耳の片方を引っ張る。少女は「や、やめ……」と弱々しく抵抗した。

 つまり、彼はこう言いたいのだ。

 人間ではない、異質なモノ。

 リトルプレイヤー。

「た、確かにそれは分かりました。でも、仮に彼女がそうだったとして、ここまでする必要はないでしょう! 戦闘能力は既に無いようですし、本部に引き渡せば……」

 途中で、ガン、と壁を蹴飛ばす音に言葉がかき消される。

「バカ言ってんじゃねぇ! コイツらがどれだけ狡猾でずる賢くてセコい野郎か、お前はまだ分かってないようだな。弱ってるとみせかけて突然襲ってくる、それで前任の副隊長は殺されたんだよ。俺だってあん時ぁ死にかけた。本来なら会った瞬間ブッ殺すのが基本だが、俺らは寸前で止めてやってんだ。――それに」

 そこで一旦言葉を切り、周りをジロリと見渡した。

「……楽しみもねぇとつまんねーだろ?」

「は?」

「そうそう、ボコすのも任務の一環、ってナァ!」

「そろそろ続きと逝こうぜ! 俺もうガン立ちで収まらねぇ!」

 全員が、呼応するように騒ぎ出す。

 掴まれていた少女は、藁の敷いてある所に放り投げられ、一人がそれに覆いかぶさった。

「お楽しみの続きだ! 新入りは邪魔すんならそこで見てろよ」

「や、やだぁ! た、助け――」

「黙れっつってんだろタコ」

「ん、むぐ、ぐ!」

 少女の口に布が詰められ、行為は進んでいく。

 僕は呆けて突っ立っているだけ。

 なんだ。僕は何をしているんだ。

 僕は騎士だ。

 目の前で力を振るわれる少女を助けないと。

 でも彼女はリトルプレイヤー。倒すべき敵。親の仇。

 なら、このまま見捨てても構わないんじゃないか?

 

 ――いや。

 そんなことできるわけないじゃないか。

 騎士としてじゃなくて、人間として。

 なら、するべきことは一つ。

「どけっ!」

「ぐっ!?」

 力任せに肩を突っ張り、横から一人に突撃。不恰好に手足を地面に付いていた彼は、それだけで押しのけられ、隅にあった瓦礫に頭から突っ込んだ。奇襲成功。

 だが奇襲できるのはそれまでだ。空気が変わった。ガラガラと音を立てて雪崩を起こした瓦礫と、無様に腰から頭を埋めた一人を見て、それまで馬鹿騒ぎをしていた他の四人が一斉に怒気を剥き出しに、僕へ迫ってくる。

「オイ新入りィ……テメェふざけたことしてくれたなぁ……」

 そのうちの一人から、装甲の襟を太い腕で掴まれ、僕は宙に浮いた状態になる。けどここで怯むわけにはいかない。両手でその腕を握って抵抗する。圧倒的な体格差。びくともしなかった。

「ふざけたこと、してるのは……どっちだよ」

「うるせぇ!」

「がっ!」

 ガラ空きの脇腹に、強烈な蹴りが入った。息が詰まる。そのまま投げられた。固い地面に受身が取れず肘と腰を打ってしまう。

「っ……」

 見上げた先には灰色があった。

 額でそれを受け止め、また地面に転がされる。蹴られたのだと理解するのに三秒掛かった。

 ガガガ、と立て続けに、容赦なく腹を踏まれる。その度に「オラ、オラ!」と声がして、胃から液が逆流してくるような感覚に陥った。ああ、ちくしょう。多対一なんて卑怯だぞ。

 マウントポジションの下にされ、両頬は際限なく殴られた。右、左、右、左。規則正しい暴力のリズムが、感覚を失くし、やがて攻撃が止んだ時、僕の体からは力という力が抜けていた。

 目の前には、息の上がった男が――もはや視界は歪んで誰か判別はつかないけれど、言い放つ。

「ったく邪魔しやがって。余計なパワーつかっちまったぜ」

 ペッと何か吐き出された。首筋にどろりと気持ちの悪いものがかかる。うわ、ツバかよ。行儀悪いぞ。

 と、そんな冗談を頭で考えていても、僕の口は何の言葉も吐き出さない。きっとあいつらから見たら今の僕は酷く弱々しい目をしてることだろう。

 やっぱり無謀だった。

 騎士にとって突貫とはもっとも愚かな戦略だと教えられたのはいつだったか。

 ともかく、僕は負けた。

 僕が倒れている横、少女が一際大きな鳴き声を上げた。一つ、殴る音が聞こえて少女は黙る。

 ビリ、ビリと破られる音と、野郎共の気味の悪い歓声が上がった。目を伏せた。耳を塞ぎたかった。これから惨状が始まる――そう思った直後、


「何をしているのかしら?」

 背後から声がした。

 幾度となく殴られ、蹴られたせいで頭はぼうっとしていた。さっきから耳が突っ張ったようなキーンとした音で、先輩騎士の笑い声は、地獄からの使者が密談しているような、モヤモヤとした不協和音にしか聞こえなかった。

 それなのに、その音を聞いたとき。

 全身からぞわぞわと毛が逆立つような……電撃が頭の先からつま先までを光速で駆け抜けたような、そんな感触が走った。

 痛みで鈍った頭。硬直した身体。おそるおそる、後ろを振り返ると。

 

 視界には、また少女が一人。小さいとはいえ、あの耳っこよりは少々大きいか。

 でもそれはあくまでも……視界に限った話、だ。

 頭の中では、僕は既にそれが一介の少女ではない、と理解していた。否、理解せざるをえなかった。

 外見はとにかく、白く透き通るような肌と、冬のダイヤモンドダストを思わせる光沢の銀髪が印象的だった。薄くやや赤い唇、黄金の琥珀にも見える鋭い視線の瞳――どれを取っても幻想のよう、そう……夢に出てきたあの女の子も、こんなタイプだった。

 小さな体躯は耳付き少女より少し大きいくらい、フランと良い勝負ってとこだろうか。なんにしろ、彼女の纏う異質な存在感は、僕を圧倒していた。逆に、先輩騎士達は小さな闖入者にそう驚くこともなく、むしろ悦に入った表情で少女へ近いていって、

「別に何もしてねぇよ? ただちょーっと躾のなってない子猫ちゃんと遊んでやってただけさ」

 「そうそう……もしかしてお譲ちゃんも俺らと遊びたいってか?」

 「ヒッハー! そりゃ大歓迎だぜ! 遊ぼうぜ俺達と!」

 すると銀髪の少女は、彼らを一瞥すると、

「……汚らわしい。ミャーをこんなにしたのも、貴方達のようね」

 ミャー、とはさっきの耳っ子のことだろうか。

 「汚らわしくてナンボさ。さぁ、こっちきて一緒に遊ぼうぜ」

 少女の細い腕が掴まれ、さっきのミャーのように、藁の敷かれたところへ引っ張られる。倒れこんでいる僕と、かすかに目が合った。恐怖からなのか、はたまた何も感じていないのか、その瞳には一点の光もない、曇り。感情を読み取れなかった。少女は抵抗できたはずだ。それをしなかった。何かを企んでいるような、でもその企みが見えない、そんな顔だ。

「さて、獲物が二匹になったわけだが。どうするよ?」

「俺、銀髪ちゃんとーった!」

「この野郎、抜け駆けは良くねぇぞ!」

「手前には尻使わせてやるよ。それでいいだろ」

「チッ。仕方ねぇ」

「じゃあ俺とリーダーは猫ちゃんで。アンディはビデオ係な」

「お、おい! そりゃねぇよ!」

「撮った奴はお前の好きにしていいさ。売り飛ばすなりなんなりとな」

「お? マジで? オーケーオーケー。それなら俺マジでバシッと撮っちゃうぜ」

 目の前で少女二人の処遇が、糞野郎達の手によって決められていく。もはやこんな奴らは騎士なんて名詞必要ない。糞野郎なんてひらがなで六文字も消費するのが宇宙の無駄だ。

 が、当の僕はボロボロで何もできない。目の前に助けたい対象が居ても、動けないなんて、糞野郎よりもさらに下の、ただの糞だ。二文字で効率的だ。四文字も少なくなった。

 ふと、二人を見た。

 「うぅう、シュカぁ……」

 「…………」

 耳っ子は両目泣き腫らし、震えながら少女の手を握っていた。シュカ、と呼ばれた銀髪少女は無表情のままで、その子の頭を撫でている。耳っ子の頬を伝っていた雫が、輪郭から儚く散って地面で跳ねた。

 彼ら、彼女らは。

 狡猾で薄汚い、社会の害悪だと報道され、世論は誘導され。

 そしてその通り解釈するならば……

 少女が流した涙すら、

 虚構だ。まがい物だ。

 毒物に変わりないものだ、と。

 しかしその毒物であるはずの雫は――僕には、この世のどんなものよりも透き通って見えた。

「待たせたなお譲ちゃん達。今からきっちり遊んでやるからよぉ? グヘヘ」

「……その前に」

「あ?」

「その前に、僕と遊んでくれませんかね、糞野郎」

 気づけば僕は、ボロ布みたいな体を無理やり立たせて、少女二人の目の前に立っていた。

 さっきみたいな、感情に任せた行動じゃない。

 今度は……怪我を負わせてでも止める。スラッシャーの番いを、鞘から抜いた。本気で、やる。

「ヒャッハー……それは何の冗談だ? 新入り」

「おいおいィ? まだ懲りてねェのか」

「懲りるも何も、さっきのは本気じゃないですから」

 右手のスラッシャーを顎先へ突き出した。

「ファック……イかれてやがるぜ」

「いかれてるのはアンタ達だ。腕を切り落とされたくなかったら、この子達には手を出すな」

 向こうは最初から任務を口実にこういうことをやろうとしていた。だから邪魔な重装甲は誰も着けてない。多分どこかに脱ぎ捨てたんだろう。丸腰であれば、引かざるを得ない。

「クソ、おい、どうするよ?」

「どうするも何も……仕方ねぇだろ。小隊長にチクられちまったらこっちがブタ小屋行きだぜ」

「早くしろ。僕は本気だ」

「分かった! 分かったってよ、畜生!」

 そう吐き捨てると、一人が恨めしそうに僕へ舌打ちしながら、後ろへ下がって行く。他の四人のうち三人も引き下がり、小さな穴から這い出て行こうとする。が、一人……リーダーと呼ばれていた男だけが、腕組みをしたまま僕を睨みつけていた。

「アンタもだ。さぁ早く」

「名前は忘れたが……新入りのペーペー野郎が。あんまり調子に乗ってっと、そのうち痛い目見んぞ?」

「それはこっちの台詞だ。冗談だと思ってると、その腕、切り落とすぞ」

 男との距離は僕の間合いで2歩半。0.5秒あれば刃は届く。

「オメーは今テメーの後ろに居る奴がリトルプレイヤーだってこたぁ分かってんのか?」

「分かってるさ」

「そうかそうか……なら死ね!」

 一瞬、男の目に冷酷な光が宿った、と思った時にはもう遅かった。

 男の脇から素早く握られたのは拳銃。僕は反応できずに鉄の音を聞いた。

 パンッ!

「っ、うぐ」

 音と痛みはさほど差なく、体に響く。

 灼熱の炎に焼かれる熱さが、右肩を襲った。思わず片膝を付くことしかできずに、スラッシャーは手から離れて地面に転がってしまう。視線を痛みの元にやれば、そこは装甲を貫き、赤く滴っていた。

 それはまさしく、目の前の丸腰の男から、自分の肩が銃で撃たれたことを示していた。

「ハハッ。無様だな……おい、コイツを捕えろ!」

 リーダー男が、僕に剣を向けられ帰ろうとしていた野郎共を呼び寄せ、そいつらに僕は両腕と頭を掴まれ拘束される。

「ちく、しょう」

 肩口からは滝のように血が溢れている。なんとか奮い立たせていた頭も、武器を手放したことで戦意から遠ざけられてしまった。痛くてぼうっとしないのだけは幸いか。でも、もうどうしようもなかった。

「オイ、さっきはよくも邪魔してくれたなぁ?」

「うぐっ」

 正面から腹を蹴られた。口から赤い液が漏れる。

 髪を引っ張られ、顎が上を向いた。空いた顔を、思いきり殴りつけられた。

 藁の上へ放り投げられ、腹を踏まれる。そこは鍛えられない場所だ。軍用の靴で踏まれれば、声も上げられない。顔が横になって、少女二人の表情が視界に入った。一人は涙で顔がぐしゃぐしゃになっていた。もう一人は……顔を傾げるだけだった。

「そっち見てる暇はねぇぞ」

 顔を蹴られた。無理矢理上体を起こされ、膝が顔面にヒットした。血で前が見えない。

 それから数分、体感的には数時間以上だったが……僕はボコボコにされ続けた。今日二度目のフルボッコだ。ゲームならヒットポイント・バーはきっと振り切っている。昔有名だったらしい、国民的カードゲームアニメで、敵をボコボコにする主人公を止めるヒロインの台詞が、それは僕に投げかけられるべきだと思った。例の、もう彼のライフはなんちゃらと言うやつだ。くそ。

 やがて僕の息は絶え絶えになり、痛みつけたと判断したのか、リーダー男は一人に命令して、地面に転がっている僕の愛剣を拾わせた。首筋にそれが突きつけられる。

「僕を殺して、どうする……小隊長に見つかれば、殺人になるだろ」

「ならねぇよ。そこの一人はリトルプレイヤーだ。お前を殺して、そこの耳野郎も殺す。新入り騎士は暴れたリトルプレイヤーを勇気を持って倒したが、相討ちになって命を落とした。良くできた筋書きじゃねぇか」

 ……この糞野郎。

「どこまで外道なんだよ、子供殺しを騎士がやることか!」

 激昂すると、血の混じった唾液が飛んだ。

「うぜェな……お前、そろそろ死ねよ」

 正面から、拳銃を向けられた。照準は僕の頭だろうか。

「あばよ」

 引き金が引かれた。

 確かに、ターン、と間の長い乾いた音を聞いた。

 ああ、死んだ。

 ごめん父さん母さん。フラン。ヴィルトール。リゼッタ。あと夢の中の女の子。

 僕は特に戦功を上げることもなく仲間に殺されました。

 鉄色の死神が、僕の額を捉えるまで意外と時間が掛かった。涙が流れる暇があったくらいだ。

 どうせなら涙くらい流しておこう。死体を焼く時に水分が多すぎて生焼けにはなりたくない。

 そんな、くだらないことを考えていると、突如。

 世界が青く光った。

 拳銃の色も青く。

 土の色も青く。

 死ぬ前の前兆か、これは。ここから走馬灯でも流れてくれるのか。


 そのアテは外れた。

 耳鳴りをもっと酷くしたような、ギィイイインと音がしたかと思えば。

「――瞬間(フレーム)切断(カッター)」

 誰かの声がして、

 僕の目の前に迫っていた、

 灼熱の鉄が、

 半分に引き裂かれた。

 

 耳鳴りが止んだ。というか、世界から音が消えた。僕はまだ生きていた。

 目の前のリーダー男の顔は、驚愕の表情に染まっている。

 その両端にいた他の二人は、開けた口が塞がらないといった感じで固まっていた。

 なんだ、これは。

 

 リーダー男が何か叫んでいる。声は聞こえないが、口だけは動いている。やや鈍い。ビデオをスロー再生をしている時に似ている。拳銃を構えた。おいおい、さっき撃ったのにまた僕を殺すのか。

 引き金を引いた。銃弾が迫った。

 二発目もまた、綺麗なナナメの線で、半分に切断された。

 

 ややあって、リーダー男の目が突然ひん剥かれたように、変な方向を向いた。

 挙動がおかしい。拳銃が手から離れた。


 次の瞬間。

 リーダー男の頭が、首を境に――撥ね跳んだ。

「!?」

 主を失った体は、少しばかり迷走するかのようにその場で地団駄を踏み……どしゃ、と前のめりに倒れる。切断面から飛び散った紅の飛沫が、僕の顔を濡らした。


 音は消えたままだ。

 リーダー男の左隣に位置していた男は、僕を……いや、僕の後ろを見て、何かを言いかけた。

 そこでまた、首に一筋の線が走り、

 歪んだ表情のまま、それは藁の上にバウンドした。ごろり、僕の方を向いて止まった。


 何だ。何が起きている。


 もう片方――右隣の男は背中を向けて逃げ出した。逃げ出したまま、背後から何かに腰を両断されて前に倒れた。

 気づけば、僕を拘束していた二人は、物言わぬ肉塊になっていた。

 辺りが血で染まり――

 夢のラストのように、意識は途切れた。


 ***


 全てを瞬間の世界で断ち切り、喰らい尽くして。

 私は、私の後ろで震えていたミャーに、声を掛けた。

「……終わった。もう、大丈夫……」

「…………ぅん」

 頭の上からぴょこんと生えた、猫みたいな耳(本当は虎なんだけど)をなぞるように、頭をよしよし、と撫でてやり、自分の胸に、ミャーの頭をそのまま抱え込んだ。まだ震えが止まらないのか、直に振動が伝わってきた。

 可哀そうに、ミャーは最近頻発しているスラム狩りに遭遇してしまった。いつもならセトナと一緒にしか外に出ないけれど、今日は一人でお使いに行ったところだった。セトナに帰りが遅いから、と心配して探してみたらこの様だった。

 洋服はぼろぼろ。太陽みたいにきらきら輝く金の髪は、切れ味の悪いはさみで切り取られたように、短くずたずたに切り裂かれていた。泥も被っている。

 まだ、心が壊されるようなことをされていなかったのは、不幸中の幸いだったかも。

 あの若い、青年が居なかったら、きっと――。想像するだけで虫唾が走る。

 あるいは、ミャーの中に眠る猛虎が、心もろともあいつらを切り裂いたかもしれない。

 とにかく寸前のところで、ミャーは助かった。名も知らない青年のおかげで。

 その青年は、私達の目の前で赤い海に沈んでいる。肩の傷が致命傷に見えた。……放っておけば、まもなく死ぬことは明白だ。

 でも――私に彼を救う義理はないもの。関係ない。

「ミャー、もう行こう。ここは、あいつらがまた増えるかもしれないから」

 ミャーを立たせて、手を引いて外に出ようとした。すると、僅かに抵抗があった。

「……ねぇ、シュカ」

「どうしたの?」

 尋ねると、無言でミャーが指をさした。その先には、倒れているさっきの青年の姿があった。

「そのヒト、死んじゃうの」

「ええ……仕方ないけれど。多分」

「助けちゃ、だめ?」

 上目遣いは卑怯だと思う。

 私はため息を一つはいて、ミャーに向き直った。

「あのねミャー。こいつは人間。私達とは違う。それに、この服は――あのどうしようもない大人が着ていたものと同じよ。つまり、仲間というわけ」

 さっきはその仲間同士で揉めて……最終的に殺し合いまでしていたようだけれど。まぁ、人間の考えることなんてそう分かりたくもない。

「でも、でもぉ」

 きゅ、と手が握りしめられた。

「ミャー、感じるの。このヒト、ミャー達と同じ匂いがするの」

「…………」

 ミャーの言葉に、どきりとした。

 男達を喰らったあと、虫の息で生死漂う青年にも刀をかざした時、頭の中に流れた既視感。

 何故か、こいつをどこかで見たことがある……そんな感じがした。

 そしてミャーがそう感じ取った、と言うことは。

「同類……か?」

 あり得ない。

 私達は人間とは相容れない。今人間達に服従している同類はみな洗脳で頭を焼かれたもの達だ。だから私達を狩る筈の人間と、同類が手を組むなど……。

「シュカ?」

 もう一度、青年の顔を見た。

 身長のくせにやけに幼い顔立ち。でも、雰囲気は、幾度となく修羅場を潜ってきた古兵。そんなものが見える。そういう意味では私に似ていた。

 まずは、調べてみようか。殺すことなら、いつだってできる。

 「分かった。この男は私が面倒見るから、ミャーは早く家に戻って、そのぼろぼろの体をなんとかしてきなさい、女の子なんだから。それからセトナが心配してたから、それもね」

 ミャーに言うと、ちょっと前まで瞳に溜まっていた泉はどこへやら、ぱぁっと顔を綻ばせて、

「うん! シュカ、だいすき!」

 と、私に抱きついてくる。血だらけなのに……。そんな笑顔されたら、ダメって言えなくなるじゃない。

「ほら、早くセトナを安心させてあげなさい」

「はーい!」

 パタパタと足音を立てて、ミャーが裏口から出て行ったのを確認して、倒れている青年をひとまずどうにかしようと、思案に暮れた。

「さて、どうしようかしら――」


 ***

 <In the dream phase 2>


 辺り一面、

 いや……空気が、世界さえも、赤く染まっていると思った。

 幼い僕は、街に一人、立っている。

 生死かぎらず、と付け加えれば一人ではないけれど。

 視界の端から端。大人、子供、男、女。

 分け隔てなく、『生』からかけ離れた肉体が、転がっていた。

 僕の顔と服は、赤い液体で染まっている。そして、手には何かよくわからない形の武器が握られていた。長い鎖のついた、先っぽには鋭利な刃物がジャラジャラとくっ付いている。刃物が本体なのか、鎖が本体なのか分からないけれども。

 一つ確かなのは、この刃物で何かと戦ったことだった。

 それが、街に転がる死体を屠ったのか、あるいは何かから街が襲われてその敵と戦ったのか。どちらなのかは知るよしもない。

 僕は街を見渡した。

 ビル、家、商店だったものが建ち並ぶ。

 今は死体が二、三突っ伏している巨大な噴水がある所を見れば、きっと日常は非常に多くの人で溢れ返る、盛んな街だったんだろう。それも、昔のものになってしまったようだが。

 ビルは窓という窓が割れている。無事なものは何一つない。

 中には、真ん中から巨人がポッキリ折ってしまったか、それか飛行機が飛んできて衝突したか……中階から上が無残にも折れ曲がって地面に落ちているものもある。

 商店……はその体を残していない。樽に大量に積まれたトマトが散乱し潰れ、死体から流れる紅と混じっている。住宅も同じ状況だ。半壊で留まっているものが数戸、あとは全壊。局所的にハリケーンが通ったように、一本の抉られた道に沿って破壊をされていた。

 僕はその住宅を眺め、やがて半壊の建物に向かって歩を進める。

 歩くたび、ぴちゃ、ぴちゃ……とただの水ではない反射音が残る。陰湿な臭いが鼻をついた。

 そして足が止まる。目の前には、一つの家があった。赤い屋根が他よりも際立っている。

 ただ家と言っても、ドアがひしゃげて入れそうもない。

 ぐるりと周辺を歩き回って、コンクリート塀との間に、子供一人が入れそうな隙間を見つけた。ゆっくりと近づいて、覗いてみる。

「――っ!」

 一人の幼い女の子が、びくりと驚いたように、こちらを見ていた。

 目には大粒の涙が浮かんでいて、顔や肌に負った傷が痛々しかった。

 僕は近づいて、見据える。

「……見ていた」

「えっ」

「君の両親のこと」

「そう、なんだ……」

 少女はそれを聞くと、少し安堵したような、そんな顔で俯いた。

「お父さんとお母さんは」

「この街に生きてるやつは君しか居ない。二人は、やられた」

「あなたが?」

「…………」

 僕が押し黙ると、彼女も黙った。けれどすぐに口を開いて、

「私も、そうするのかな」

 そう言った。夢を見ている『今の僕』には、彼女の言った意味は分からない。幼い僕はその言葉を理解したようで、淡々と告げる。

「君だけは逃げてもいい。僕は見なかったことにするから」

 すると少女は、僕の話をまるで聞いてなかったように、僕の腕を取ってまじまじと見ていた。

「……怪我してるわ」

「人の話聞いてる? ……って」

 途端、彼女の舌が僕の手首に触れた。深くはないが浅くもない切り傷に、唾液が絡まり、僕はぴくりと震えた。

「なに、を……」

「ん、ちゅ……む」

「や、やめろって、ば!」

 腕を振り上げ、少女を振りほどいた。

 少女はそんな僕を見てくすくす笑う。

「恥ずかしがり屋さんだ」

「それはどうでもいい……で、どうするのさ」

 僕は舐められたところをしきりに気にしながら、少女に問う。少女はふと視線を落として、途切れ途切れに答えた。

「私、行く場所、ないもの」

「そうか」

 それからしばらく沈黙が支配した。

 先に口を開いたのは僕だった。

「僕と一緒に、来る?」

「え……」

 少女は目を見開いた。

「きっと怖いこと、いっぱいあるけど。それでもいいなら」

 ぐっと両手を握り合わせて、迷ったように少女はその手を見つめていた。しかし、やや時間も過ぎたころ、

「…………うん!」

 と、薄く微笑んだ。


































  3.幼き銀月と風知る楼は再び交る




 はっ、とした時には夢から目は覚めていた。白い天井が視界に入る。

 頭の下には、枕にしては硬すぎる感触。視線を下げれば腹には焦げ茶色のタオルケットが掛っていた。

 ここは、どこだ。

 変な夢はさておき、記憶を探る。


 そう――僕は任務でスラムに来ていた。

 そこで先輩騎士が一人のリトルプレイヤーの少女に暴行を加えているところを発見した。

 阻止しようとして、二度もボコボコにされた。肩は銃で撃ち抜かれた。今も激痛とまではいかないにしても、痛むことは痛む。そのあと額にも狙いを付けられて、死ぬかと思ったら不思議な現象を目の当たりにしたんだ。

 目の前まで迫った銃弾が半分に割れたり、先輩騎士の首が次々飛んだり。あの野郎共は生きてるんだろうか。

 そこで記憶は途切れている。多分意識を失ったのがそこだろう。

 まだ僕がこうして生きているってことは、誰かが助けてくれたはずだ。が、今周りには誰の気配もない。

 とにかく自分の現状を知らないことにはどうしようもない。

「…………」

 起き上がろうとして、まったく体が動かないことに気づく。

 おかしい。肩は確かに痛むけれど、ボコボコにされたのは主に顔周辺で、後遺症が残るほどにはやられてないと思ったけれど。

 なんだか不自然に感じて、体を捻るだけ捻ってみると、タオルがずり落ちて、その原因が分かる。僕は愕然とした。

「な、なんだよコレ……」

 タオルに隠れていた腹には、縄が張りついていた。それはもう重病患者が暴れるのを抑えると言わんばかりに何重も、ぐるぐる巻きに。なるほどこれでは動けない。

 動けば肩は痛むし、どうしようもないからとりあえず黙って誰かが来るのを待つことにした。すると、ほどなくして、戸が開く音がした。

「あら、ようやく起きたのね」

 少女の声だ。抑揚の無い、無感情な声だと思った。

 その声の主はトントンと足音を響かせ、起き上がれない僕の視界に、ヌッと突然顔を出した。銀色の髪が、さらりと頬に触れた。

「君は、あの時の」

 そう、僕が死にかけた時に居た、銀髪の子だ、とすぐに分かった。黄色がかった琥珀色の眼でまじまじと観察され、なんとなくどぎまぎする。

「な、なんだよ……?」

「ふぅん、もう止血はしてるのね」

「痛っ!」

 ポンと肩を叩かれ顔を顰めると、ジト目で睨まれた。

「軟弱者。男なんだからこれくらい我慢しなさいよ」

「…………」

 どうやら肩の傷口を覆ったガーゼを変えてもらっているようだった。ロープで拘束されていることに多少の理不尽を感じつつも、僕は黙って天井を見つめていた。やがて終わったのか、

「はい終了」

 バシッと音がするくらい強く叩かれた。素手なのに、傷を狙われたせいで刺すように痛い。

「~~~っ」

 「本当に軟弱者ね、まったく」

「そりゃ傷叩かれたら誰だって」

「うるさい」

 頬を力いっぱい引っ張られた。こっちは動けないのをいいことに何するんだこのやろう。

 反論すればまた何かしてくると思い、心の中だけで毒を吐くことにする。

 黙っていると、少女はなおも至近距離で僕の顔を見回してきた。

「な、なんか僕の顔についてるか……?」

「別に。本当にあなたが私達を殺せるとでも思ってただけよ。ちょっと叩いただけで痛がるし。ま、あいつらは首ごと撥ねたから痛いって感じる前に死んじゃったけど。ミャーに怖い思いさせたことを考えたらもっと痛みつけてやった方が良かったかしら」

「首を撥ねる、って……どういうことだよ」

 頭に引っかかった物騒なワードを訪ねると、少女はさも当然かのごとく続けた。

「あんた見てなかったの? あんたと同じ服装した男達のことよ。私が殺した」

 殺、した?

 こんな無垢な少女が? 僕がボコボコにされるほど屈強な奴らを?

「はは、何を冗談言って」

「冗談なんかじゃないわ。だって私、リトルプレイヤー、だから。あんたもよく知ってるでしょ?」

「は……」

 少女がニッコリと微笑む。

 しまった、聞かなきゃ良かった。

 そうだよ、あのミャーとか言う子がリトルプレイヤーなんだから一緒に居た彼女もそれに近しい存在であることはちょっと考えればすぐ分かった話じゃないか。下手に相手の素性を聞くようなことをしたおかげで墓穴を掘った。

 彼らは自分達の身分が割れることを極端に嫌う。それは世論から容赦なく浴びせられる、偏見と排斥によるものだ。当然の結果とも言わざるを得ない。そして、それがばれたときにどんな行動を取るか、訓練校で耳にタコができそうなくらいに繰り返し言われた。

 身構えようにも、今の僕はまな板の上の鯛。何かされたら、抗いようがない。

 背中に大量の汗が滲むのを感じながら、僕は聞き返した。

「ぼ、僕をどうするつもりだ」

 すると、予想外にも彼女は「はぁ?」とでも言いたげな、怪訝な面付きで僕を見てくる。

「別に何もしないわよ。まぁどうせ、リトルプレイヤーはすぐ気に入らない人間を取って食うとでも思ってたんでしょ。いっつも人間はそう、別に私達はちょっと違うことができるだけで、本質的には変わらないわ」

「そ、そうか……それは、ごめん」

 そう言われて、少しだけ安堵する。いきなり殺されるかと思ったけど、それは回避したようだ。よく考えれば、あの瀕死の状態からここまで運んでくれたのも彼女かもしれないし。

 何かを探しているのか、部屋をうろうろし始めた彼女に一応聞いてみることにした。

「あの、君」

「シュカ」

「は?」

「私の名前。君って呼ばれるのは昔を思い出すから嫌なの」

「ならシュカ、僕を助けてくれたのはき……シュカなのか?」

 君、と言いかけてなんとか留まる。

「ここまで運んだのは私。でも助ける意思があったわけじゃない。あの猫みたいな耳つけた子、居たでしょう? あの子が頼むからその代わりをしただけよ。……やっぱりリトルプレイヤーなんかに介抱されるのは嫌だった?」

「いや……その、ありがとう」

「え……」

「だから、感謝してるんだよ。僕にはやらないといけないことがあったんだ。騎士になって早々死にかけた――いや、多分死んでた。けどシュカのおかげで今は生きてる」

「助けられたのが、リトルプレイヤーだったとしても?」

 僕は首を横に振った。あんまり動かないけど。

「そんなの関係ない。人助けに差別するほど僕は愚かじゃない」

「…………」

「だからさ、ありがとう」

 僕を上から見下ろすシュカにそう言うと、シュカの顔がぶわぁっと赤くなる。

「べ、別にあんたの為なんかじゃないわ! 勘違いするとまた肩殴るから! ……それに」

「それに?」

「やっぱりあんたみたいな軟弱者に呼び捨てにされるのむかつく! 様つけて呼びなさい、シュカ様って。はい、復唱」

 ムカッ。なんだそれ。

 人が殊勝な態度を取ってるって言うのに。見た感じ年下のくせに。

「はいはい、分かったよ。シュカ」

「だから様を付けなさいって!」

「分かったって、シュカ」

「あんたバカにしてるでしょ……!」

「いいや、バカになんてしてないぞ? シュカ」

「うぅう! もう知らない!」

「っ痛ってえええええ!」

 ガツンと傷口を殴られた。肩を抑えようにも手は縄の下。ああちくしょう。

「ふん、偉そうな口を利くから悪いのよ」

「だって見るからに年下だろ……。上背小さいし」

「何か言った!?」

「チビだって――あ痛ぁ!」

 ま、また傷を……! これはちょっと洒落にならないくらい痛いぞ。

 目の前には顔を真っ赤にしてぷるぷる震えるシュカの顔があった。近い、顔が近い!

「も、ももももう一度言ってみなさい……! その肩、一生上がらないようにしてあげるから」

 それはマズイ、かなりマズイ。

 僕は話題を無理やり変えることにした。

「そういえば……リトルプレイヤーって各自能力が異なるんだろ? シュカはどんな能力なんだよ」

「……話題の逸らし方がヘタクソね。それで答えてもらえるとでも?」

 う。それはごもっとも。

「まぁ、いいけど。ちょうど目の前に題材もあることだし」

「へ?」

 目の前って、僕しか居ないんだけど。

「1回しか見せないから、ちゃんと目開けてなさいよ」

 カチャン、と音がしてシュカが何かを持ち出した。手に握られたのは、果物を向くのにちょうどよさそうなくらいの刃渡りを持ったナイフ。

「ちょ、ちょっと待った! 僕に何するつもりだ!?」

「こら、動かない。暴れると間違って体が微塵切りになるかもしれないわよ」

「み、微塵切りって……」

 ああ、やっぱりリトルプレイヤーってのは訳が分からない。普通人に向けてナイフ持って微塵切りとか言わないだろ……! 往来で口走れば、即通報。運が悪ければ鉄格子の部屋に横縞の服を着せられて入れられるかもしれない。

 動くなと言われたから縮こまって待っていると、シュカが妖しい表情で僕を見つめる。

「ふふ、何怖がってるのよ。ま、さっきのお返しができるからいいけど」

「やるなら早くやってくれ!」

 はいはい、と言ってシュカはナイフを構えて目を瞑る。……本当に大丈夫か?

 緊張したまま、何が起きるのかを待つ。1秒、2秒、3秒……。

 いつやるんだ、ともう一度声を掛けようとする寸前、それは起きた。

 シュカは何もしてない。ナイフを僕の方に向けて、やや左右に動かしてはいるけど、空中を彷徨うだけで何かしている様子は見られない。

 それなのに、僕の体に巻きついた縄が一本、また一本……と切られて床やベッドに散らばっていく。僕の体自体に痛みはなかった。

 かまいたちが舞った後のように、縄は切れていった。やがてシュカがナイフを降ろす。僕の体には、断ち切られた縄だけが、草臥れたミミズみたいに数多散らかっていた。

 体が自由になったのを確かめながら起き上がり、

「すっごいな……何が起きたんだ」

 ふぅ、とシュカが一息つく。

「これが私の機能――瞬間切断。縄は切れてたけど、私が切る瞬間は見えなかったでしょ」

「ああ」

「『私がナイフを動かす直前』から、『縄を切った直後』までの瞬間を『切った』の。この瞬間は、私以外に認識することもできないし、触れることも当然できない。正確には、認識できるできないじゃなくて、意図的にしてないんだけど。ま、時間を切るっていう解釈でいいわ」

「へぇ……」

 端的に言えば瞬間移動だってできるわけだ。

 ん? しかし……ということは、だ。

「あいつらも、この力で?」

 僕を縛った縄を細切れにしたように、首を飛ばして。

「そうよ」

 頷いたシュカの表情は、まるで夏にぶんぶんと飛び回る蠅を叩き殺した後みたいな、なんでもないものだった。それを見て、沸々と心の奥底に何かが湧いてくる。

「でもさすがに、殺すことはなかったんじゃないか」

 あいつらはどうしようもないくそ野郎で、死んでしまった方が身のためだ……とそんなくらい思っていたけれど、いかに中身が無くとも人命は人命だ。肩書きは殉職と言えど、その当人が何の罪意も抱かないのはいくらなんでもおかしい、おかしすぎる。

「せめて捕縛するだけでも良かったはず……通報すればあいつらも処罰されただろ。正当防衛なのかもしれないけれど、あれじゃ殺人って言われても何も言えなくない、か」

 僕は何気なく口にした。

 それはシュカにとっては、何気ないことだったのだろう、辺りの空気が一変した。

「あんた、何も分かってないのね」

 途端の冷たいトーン。

 さっきまで僕の肩を遊び半分で殴っていた少女とは別人と思えるほど。いや、別人だ。

 思えば奴らがこの子に倒された時に感じたあの殺気と同じものを纏っていた。目線だけで心臓を掴まれて、それを潰されようとしている圧迫感。

「な、なんだよ……本当のことだろ」

 迫力に押されて、やや立ち上がりかけていた腰がすとん、とベッドに降りる。見上げたシュカの眼は、猛禽類のそれに似ていた。

「やっぱり人間って誰も同じ。リトルプレイヤーってことが分かっただけで、理解されないのね」

 寒気が止まらない。

 月の光も太陽の光も届かない、黒い海の奥深くで、見えるはずもないのに見えてしまった何かに、知らずと心が怯えているのが分かる。

「私達がなんでこんな辺境に住んで身分を隠しているのか分かってる? 普通の街になんか住んだら、すぐにあんた達がやってくる。何もしてない、ただ生きてるだけで害悪扱いされて、捕まったらおしまい。人体実験にされるか、見せしめに殺されるだけよ。そんなことをする奴ら相手に、じゃあ私達は黙って逃げ続けておけ? 馬鹿言わないで。私達は好きでこんな体に生まれたわけじゃない。全ては捨てられた孤児のなれの果てであって、能力だって使い手次第。協調しないのはあんた達じゃない……!」

 リトルプレイヤーはシュカが言うように社会の日蔭者だ。

 禁忌のように、言葉そのものを嫌う人だって居るし、ニュースでリトルプレイヤーが殺されたことが報道されど、弔いの気持ちを持つ人は何人居るだろうか。半数はそれを日常として受け流し、残りの半数はむしろ喜ぶ、そんな感じだろう。実際、訓練校ではそうだった。

 破壊が全てじゃない。それは誰しも考えれば分かる。だがそれは国民感情に既に刷り込まれてしまった。

 そして僕もまた、彼らには負の感情を持つ者だ。

「じゃあ、なんで僕の親は死ななければならなかったんだ!?」

 自分では激昂したつもりで、しかし声は震えたものしか出ない。それでも続けた。

「僕だって親の居ない孤児だ。拾われて、騎士学校に入った。親はリトルプレイヤーに殺されたって聞いてる。僕は記憶が無いから、どんな惨い殺され方をしたのかは知らない。ただ、少なくとも僕の親は一般人だった! 何の罪もない人を殺したのは誰だ!?」

「知らないわよそんなの! ……私には関係ないわ。私はただ、私とその仲間を狙うやつが居たら殺すだけ。あんたもそうすればいい。自分の親を殺した犯人が憎ければそいつを殺せば気が晴れるかもね。なんなら同族の私も手にかけてみる?」

「っ、それは」

 面と向かって言われ、口どもった。

 スラッシャーはどっかに行ってしまっているが、懐には二十を超える短剣がある。

 至近距離だ。僕が短剣を抜いて投げるまで、0.3秒しか掛らない。やろうと思えばやれる。

「どうしたのよ、やれるものならやってみなさい!」

 かたかたと手が震える。

 やれやれやってしまえ、と頭の中の黒い自分が言う。

 やっても誰も責めない、と白い自分が呟いた。

 どっちも同じ答えじゃないか、という突っ込みをする余裕はなく、ただ僕はその思考に抗う意思を、首を左右に振って示した。

「……やらないよ。今ここでシュカに刃を向けたところで、僕の気は絶対に晴れない。それどころか、僕がやることが、世の中で殺人を犯してるリトルプレイヤーと同じになってしまう。そんなの、本末転倒だ」

 頭の中にラインハルト大将から直接言われたことが浮かんでいた。

「もちろん、まだ犯人が生きてるなら、そいつは僕の手で捕縛して、法の下に断罪はしてもらう。その結果死刑になるなら、僕はそれでいい。リトルプレイヤーは憎いと思ってる反面、全員が全員そうじゃないことは、目の前に居る女の子が証明してくれたし」

「…………そう」

 それを聞いたきり、シュカは何も言わなくなった。僕もまた、口を閉ざす。

 沈黙が空間を支配して、重くのしかかる。

 何か言って欲しい、いやむしろ僕が何か切りだすべきなんだろうか。

 思ったけど初対面の相手に我ながら思い切ったことをしたもんだ……、騎士道は常に礼儀礼節を惜しまず、紳士的であるのが第一なのに。

「あの、さ」

 ひとまずこちらからこの重い空気を切り崩しに掛ることにした。すると、

 ぐるるるる~。

 紳士的の欠片もない音が、自分の腹から鳴った。

「う」

「………………」

「あ、いや。これは……その」

 なんて空気を読まないんだ僕の腹!

 心の中でついた悪態に抗議を唱えるかのようにまた、二度三度小さく音を鳴らす。

「……ぶ、ぶはっ! あはははははは!」

「わ、笑うなよ!」

「だ、だってさ……! あは、は……あ、涙出てきた」

 そういえば、任務に出る朝のご飯は軽くしか摂ってなかった。昼に食べられるように持ってきていた軽食も手を付けていないから腹が空くのは当然の話だけども……。

「はーあ。なんだか間が抜けちゃった。ヤメよヤメ。私だって本気で言ったわけじゃないわ、カマを掛けてみただけ。これでホントにあんたが向かってくるなら、その場で八つ裂きにしてたけど……その心配はないみたいだから」

 そう言うとシュカは僕の隣に腰かけて、ふふ、と微笑む。

「僕を試したのか?」

「別に。まだあんたを認めたわけじゃないし。っていうか人間なんて大嫌いだからそうそう許す気にはならないわ。だから、私はあんたを暫く監視下に置かせてもらう。仲間の所に帰られたりでもしたら、面倒だしね。異議は?」

「ないわけじゃないけど、ノーと言ったところで帰してはくれないんだろ」

「返答はイエスかはい、の二つだけ。ま、それはともかく」

 一旦僕から目を逸らして、どこか中空を見つめる。

「あんたがミャーを助けてるところを自分の目で見ちゃったからね。今日の所は勘弁してあげる」

「そ、そうか……」

 有り難く思った方がいいのか、そうでないのか、不思議な気分だ。

 なんとなく顔を上げづらくて床に視線を落としていると、さらにシュカが訪ねてきた。

「あっ、そういえばあんたの名前聞いてなかったわね? 教えてよ」

「ああ……フラウ、だ」

 改めて名前を聞かれるのも変な気分である。

「…………。フラウ、ね……」

 シュカは、どこか物憂げな表情のまま、何か考え事を一瞬だけしていたようだった。が、それも短い間で、突然立ち上がった。その勢いで、安そうな敷布団から細かい羽毛が跳ねる。

「そろそろ時間ね、行かないと」

「……どこ行くんだ?」

 尋ねても、当の本人はそれを無視して、部屋の出口へと歩いて行く。そして振り返り、

「何ぼさっとしてるのよ。あんたも付いてきなさい」

「いや、だからどこに行くのかをだな……」

 人の話を聞かない子なのか? と心中文句を漏らすと、ちょっと怒ったような顔をしてこっちへ戻ってくる。そして僕の手を無理やり引いて、言った。

「どこかの誰かさんが、お腹を鳴らしたから探しに行くのよ」


「で、その探しに行くってのはなんだ? 海に魚でも取りに行くのか? 畑持ってるとか」

 普通何かしらの食事を取るんだったら、探しに行くとは言わない。食材がなければ買いに行くのが基本だ。そんなことはお子様でも知っている。

 自給自足の手段を持っていれば探す、っていうのは適当なんだろうけど、街を歩いたらすぐ分かる通り、この街は石畳とコンクリートで舗装された土地であり、畑なんて見かけなかった。スラムではそんな舗装があるわけないので赤茶色に濁った土があるが、見るからに何かが育ちそうな気配はない。雑草ですら疎らにしか生えてない、ということは何か植えても数日のうちに枯れてしまいそうな気がする。

 僕の疑問にシュカは、面倒くさそうに答える。

「そんなの持ってるわけないわ。純粋に探しにいくだけよ」

「そうは言ってもな……川もないみたいだし想像が」

「もうすぐだから着いたら分かるわ」

 言われて、渋々口を噤む。

 ちなみに情けないことに、僕はシュカの後ろを、カルガモのヒナみたいにちょろちょろとついていっている。シュカの背が僕よりだいぶ小さいせいで、何も知らない人が見たらそれこそ少女に迫る変な青年の例として扱われそうな体だ。

 しかし、ちょっと離れて歩こうとすると、

「迷子になりたいの!? 迷ったら放って帰るからね!」

 と言われ、せめて横に並ぼうとすれば、

「あんまり近づかないでよ馴れ馴れしい」

 と怒られる。

 理不尽に思いつつも、なにせ僕らが進んでいる道は本当に道なき道といった感じで、瓦礫が不規則に積み上げられただけの立地だ、しかも側壁を利用して好き勝手に人が住んでいるので、めちゃくちゃ入り組んで迷路そのものにしか思えないくらい、迷いやすそうだった。

 実際、くねくねと曲がっている所が続けば1メートル離れただけでシュカの姿が見えない。そして慌てて追うと、曲がった先でぶつかってまた怒鳴られた。

 そんなやりとりを繰り返し、幾重の分岐を進む。

 さっき尋ねた時の「もうすぐ」から大分時間も経った気がして、もう一度尋ねてみようと思った時、ようやく目の前の視界が大きく広がり、広い敷地に出ていた。

 シュカはふぅ、と軽く息をつく。

「着いたわよ」

「ここが、か?」

 灰白質の、海岸の砂浜みたいな色の地面に積まれた、視界いっぱいの良く分からないものの山、山、山。

 山は規則正しい大きさで十数個連なっていて、一個だけでも普通の住宅より大きいかもしれない。よくみると左側に行くほどやや黒ずんでいて、一番右端にはトラックと思われる車両と、スラムに住む人達だろうかが多数群がっていた。トラックの積荷部分が山に降ろされると同時に、人もそちらへ動いているところを見れば、あのトラックに何かあるのだろうか?

「ああ、もうあんなことしてたから出遅れちゃった。これじゃなかなか良いもの手に入らないかも」

「良いものって?」

「ほら、フラウも早く来て。早く行かないと無くなっちゃう」

 そう一声だけ掛けて、シュカは一人トラックに群がる衆に混じっていく。

 この場所と、シュカの言葉の因果関係がまったく掴めず、頭の上に疑問符マークを並べつつも、これ以上怒られるとなんだかふがいなくなりそうで、シュカの後を足早に追った。

 そしてトラックと、人の集まる地帯に近づいた時、ようやく山の正体が分かった。

「ああ、なるほどそういうことか……」

 その理解は、どちらかというと落胆に近いものだ。

 青色のトラックからポンポンと投げられているのは水色のポリ袋。すなわち、家庭用のゴミ袋なわけだ。トラックの持ち主は回収業者らしい。

 投げられ、新たな山の糧になっていくポリ袋を、群衆が奪い合って、獲得した者が次々に袋を無理やり引きちぎっている。当然中からはゴミが出てくるのだが、自分の手が汚れるのも構わず、一心不乱に何かを探しているようだ。

 そしてシュカはというと、小さい体躯を生かしてスルリと人ごみの間を抜け、まだ手の付けられていないポリ袋を両手に一つずつ持つと、ずりずりと引き摺りながら戻ってきた。誰も気づいていない早業だ。今なら泥棒にもなれそうだ。

「もう、何突っ立ってるの! 男なんだからちょっとは手伝いなさいよまったく……」

「いやいやいや。手伝うも何も何すりゃ良いのか言われてないし。ていうか、これはなんだ? あとこの人達。僕にはどうみてもゴミ置き場にしか見えないんだけど……」

 反論すると、げしっと脛を蹴られた。痛い、すごく痛い。

「うるさい。あんたに食べさせてあげようと思って連れてきてやったんだから、ほら早く手伝いなさい」

 脛を抑えて蹲る僕に差し出されたのは、片方のポリ袋。

「えー……これってまさか」

「まさかもへったくれもないの。日が暮れてからじゃ探せないでしょ」

 えー、まじかよー……と心の中で反芻する僕をよそにシュカはその場に座り込んでゴミ袋を開いて漁り始めた。なんとも言えない家庭臭がすぐに漂ってくる。まだ新しいせいか、腐臭でないのがまだ救いか。

 しかし彼女を始め大勢がこれを求めにやってくるということは、それなに掘り出し物があるのかもしれない。この街は富裕層も少なからず見られるし、簡単に物を捨てる人が多いなら、スラムの住人にとって有難い物はあるのだろう。

 僕は意を決して、ポリ袋を開いた。

 僅かな時間で別れを告げた、クソったれた詰所生活では偶に当番で出しに行くことはあっても、当然その中身を凝視しようと思ったことなんて一度もない。初めてのことだ。

 しかし、結構緊張した割には中は案外普通だった。

 日付の過ぎた新聞や破れたシャツ、果物の皮など……おぞましい物は何一つない。その代わり、シュカの望むであろうものも無かった。

「おい、特に何も目ぼしいものはなかったぞ」

 未ださっきの袋を掻き分けているシュカに言うと、袋を持ったままやってきて、ずいと顔を近づけてくる。

「本当に? ちゃんと奥まで見たの?」

「ちゃんとやったって」

「ちょっと貸してみなさい……ほらー、あるじゃない」

 僕が中を調べていた袋をひったくったシュカは素手で中身をごそごそとやって、何を見つけ出したのか、僕を糾弾するようなジト目で睨んできた。差し出されたのは、さっき見つけた果物の皮だ。綺麗に一本繋がった、リンゴの皮とやや皺の寄ったミカンの皮だ。

「それ、皮じゃないか。食べられるわけないだろ……痛い!」

 また脛に蹴りが飛んできた。

「何すんだよ!」

「うるさいわねー、これは当たりなの。分かった? 皮が食べられないとか言ってるおぼっちゃまには分からないだろうけど、栄養豊富なんだから。はい、やり直し」

 無情にも再びポリ袋は僕の手に。

 どうやら僕が微かに期待した、意外性というものは微塵ほどもなかったらしい。

 シュカが自分の分の袋から見つけ出してはビニールに詰めなおしているものを見ても、何かの皮だったり色がまずおかしい飲料だったりする。

 ちょうどトラックが走り去って行く横で新しい袋の解体に勤しんでいる人達もやはり同様のことをやっているのを見れば、どうやらここではこれが日常なんだと理解せざるをえないことに落胆するしかなかった。

 本当に、どうしてこうなった……。

 それから十数分ほど、もはややけくそ状態に中身をひっくり返してみたり詰めなおしてみたりしたものの、結局僕の袋からは最初の皮以外何も出てこなかった。

「ふーん……ま、そんなものかしらね。残念、残念」

 そしてこの言われようだから、本気で自分が何をしに来たのか悲しく思えてくる。

 だが、僕とは裏腹に、シュカは意外と多くのモノを発見していた。

「これとこれはまだ大丈夫。うん、大漁じゃない」

 所々破れた青のビニールシートに広げられた物。端っこで申し訳なさそうにリンゴとミカン(の皮)が縮みあがっている横に並ぶのは、まだ半分くらい入ったジャム瓶、芽の生えたじゃがいも、明らかに誰か齧った跡がある食パンなどなど。腹立たしいけど文句を言えない。

「さてと、お腹も結構すいたでしょ? ここで食事摂るわよ」

「はいはい……」

 よっこらしょ、とその場に腰を下ろした。もうどうとでもなれの気分だ。

 今更ながらなんで僕はシュカについてきたのか。普通に詰所に帰れば事情が事情だけにもしかしたら処罰の対象になるかもしれないけどなんとかなったはずだ。その前にシュカが帰してくれるかどうかは微妙な所ではあるけれど、隙を見て逃げ出しても良かったのに……。いや、でもさすがにそれは騎士の名折れか。でもそれじゃどうするんだこれから。

「はい、これはあんたの分」

 考え込む僕の元に、半分にカットされたパンと、紫よりは黒に近いジャム、それに炙られた果物の皮……後はなんだかよく分からないものが置かれた。皮はライターで炙ったらしい。なんか、見てくれによっては囚人の食べ物みたいで泣きたくなってきた。

「……どもっす」

「態度が悪い!」

「いてっ」

 頭をはたかれる。ことあるごとに暴力を振るう癖があるのはなんとかならないのか。

「はい、それじゃいただきます」

「いただきます……」

 形だけの手を合わせ、まずはなんとかイケそうなジャムをパンの耳に付け、いざ口へ――

「…………」

 味を確かめるように舌にジャムを乗せ、仄かな酸味で大丈夫だと確信、咀嚼を重ねる。

 そう咀嚼、咀嚼……。

「……がはっ!」

「ちょっと何なの!? 汚い!」

 なんだこれ。

 口に入れた瞬間、異様にどろっとした液体なのか固体なのかも分からない物が口内を蹂躙していく。おまけに、最初感じた酸味が強くなり、もはや酸味ではなくただの『酸』のように感じる。少なくとも、栄養源として摂取していいものじゃないってことは、すぐに理解した。

「こ、こ、これはなんなんだ……? 食べ物じゃないだろ……」

 思わず吐き出した勢いでむせていると、シュカは問題ない、といった涼しい顔をした。

「ああ、ハズレを引いたの。たまに――2,3日に1回くらいはあるわ。でも我慢すればいけないことはないし、粗末にしちゃダメでしょ」

 僕は愕然とした。

 さすがにこれは無理だ。人間慣れればどうにでもなる、郷に入りては郷に従え、なんて格言っぽいものはあるけれど、こんなの慣れる前に死んでしまう!

 ならば、まずはここを離れなければならない。どこか違う場所で、何か食べられる物を……。

 そう思い、立ち上がったところで、案の定呼び止められた。

「ちょっと、どこ行くつもりなの」

 針の刺すような視線が飛んでくる。それに、憮然を装って返した。

「街に戻る」

「まだちょっとしか口付けてないじゃない。さっきはあんなにお腹すいてそうだったのに」

 その、ちょっとしか口を付けていないパンを僕は地面に叩きつけた。

「こんなの食べられるか! ちょっと食べただけで宇宙の底が見えた感じがしたぞ!? 正気か、なんで平気そうな顔してんだよ!」

「は~!? 人が親切に色々してあげてるのに何それ! ……街に戻るなんて言って、本当は逃げるつもりなんでしょ。ダメ、そんなの許さない」

「基地に帰れるなら帰りたいさ、そりゃ! でも違う、街に行くのは代わりに食えそうなもの探すためだって分かってくれよ、本気でこのままじゃ餓死しちまう!」

「ダメったらダメ!」

 ぐぬぬ、この聞かん坊め!

「だったら」

「なに、まだ何かあるの?」

「だったらシュカも、一緒に街に来ればいいだろ!」

「きゃあ――」

 ブルーシートに座ったまま僕を糾弾していたシュカの手を引っ張ってむりやり立たせた。一瞬可愛らしい悲鳴を上げると、慌てたように手をぶんぶんと振り回す。

「やぁ、ちょっとなに!? 離しなさいよこの変態!」

「いーや、離してやるもんか。さっきまで年上相手に調子こいた態度取ってたからな」

「なに強気になってるのバカ! いいからさっさとこの手を離しなさい! 離せ! 変態! ロリコン!」

「人聞きの悪いこと言うな! 誰かに聞かれたりでもしたら……あああお前ら見るな、こっち見んなしっしっ!」

 シュカの金切り声を聞いたのか、ゴミ置き場から撤収する子供達数人が、僕の方を無言のままじーっと見ていた。僕と視線が合うと、途端に蜘蛛の子を散らすようにばたばたと逃げて行った。

「ほら、僕だってあんま変に見られたくないんだから早く行くぞ」

 手を引っ張り、さっきトラックが帰っていった方角へ道を進めようとすると、

「嫌! も、もうほんとに……やめなさいってば……」

 シュカが駄々をこねる。足で踏ん張ってその場に留まろうとしているさまが、なんだか大型量販店で目当てのものを買ってもらいたい小児に似ていた。無論、僕は強引に引っ張って行った。

 途中、

「ねぇお願い。ほんとやめないと大声で助け呼ぶ、から」

「今ならまだ間に合うから! 斬りつけられてもいいの!?」

 と背後から言われたが、僕は聞き耳を持たないことにしたというか、何か食べたいの一心しか無くて頭を働かせていなかったから、特に応答もしなかった。結果、何もされることなく街の入口に戻ってきて、シュカはただ、

「うぅ……ばかぁ」

 と、しょんぼりした顔をするだけだった。

 

 そこから一歩入ればスラムと街の境界。

 夕方前の街は、商店屋台が石造りの道に迫り出して並び、老若男女溢れ返っていてなんだか美味しそうな匂いも少々漂ってきていた。

 お腹は、標的が近くにあるぞとばかりに、痛みを持って知らせて来て、もうちょっと黙っててくれと叱りたくなる。騒ぐ腹に変わって、シュカは街に入る直前から抵抗を止めて黙りこんでいる。背中にしがみつき、まるで街中の視線から僕を盾にして掻い潜るように、小さな体をさらにちぢ込ませていた。正直歩きにくい。

 ただ、文句よりも腹の虫を収めるのが先。

 一応、ポケットの中には在校中貯めに貯めたやや豊富な貨幣が入っているから多分足りないことはないだろう。思えば、最初から買っておいてもよかった。

 とにかく、数ある商店の中から目的の店を探さないといけない。

 僕より土地勘があるかもしれないシュカはさっきから黙ってなにもしようとしないから、聞いても無駄だろう。

 ちょうど店を開け始めた八百屋であろう店主のオヤジが近くで準備をしていたから、そのオヤジに尋ねてみることにした。

「すいません」

「おぅ、らっしゃい……騎士さんかい。すまねぇが俺っちんとこはまだ開店してねぇのよ」

 僕の格好は出撃した時のまま変わってないから荘厳に見えたのか、口調の割にかなり畏まった身振りをされる。

「いえ、準備中の所失礼します。ここの近くですぐに食べられる場所、分かります?」

 オヤジは、うーん、と顎鬚に手を当てて暫く唸ったあと、

「メシが出てくるってのはちょっと知らねぇなぁ。ただ、そこの曲がり角を左に行ったところのデッケェ店なら、野菜以外はなんでも揃うと思うぜ。あ、ちなみに野菜ならウチの店が一番だからな! はは!」

 と、終始にこやかに教えてくれた。

「ありがとうございます。野菜が必要になったら寄らせてもらいますね」

 お辞儀を返すと、オヤジはええってことよー、と言いながら店の奥へ消えていった。

 言われた通りの場所へ行けば、確かにかなり大きい商店があり、人の密度も他とは比べ物にならないほど、買い物客に溢れていた。

 中に入ればさらにその密集度は上がったが、僕は気にすることなく売り場へ向かった。

 適当にハムやチーズやパンを見繕っていると、背中をぐいぐいと引っ張られる。

「? なんだよ」

「……できるだけ早くしなさいよね」

「はいはい」

 本当はもっといいものを見たかったが、なんだかさっきからジロジロと、周りの群衆から見られている気がしてならない。後ろを振り返ると別にそういうことはないのだけれど、なんというか他人のヒソヒソ話が自分を対象にしている気がする、というようなものと同じ感覚だ。

 それもあって、言われるがまま清算レジへ。

 ここでもちゃんと金は払っているのにもかかわらず、何故か店員から怪訝な目つきで凝視された。お釣りもなんか投げ捨てるように渡されたし。サービス不足で訴えてやろうか。

 ともかく、戦利品は手に入れたのだ。これで飢え死にだけは避けられる。

 と、店を出て一息、安心した時だった。

 僕(とシュカ)の周りを、ぐるりと群衆が囲んでいた。

「…………え?」

 思わず間の抜けた声が出てしまう。

 あからさまな敵意は感じない。何か珍しい動物を見つけたような、奇異の目線。隣同士相談するようによそよそしく会話をし、僕にとっては凄まじく気味の悪い、異様な雰囲気だった。

 が、何かしてくるといった感じではない。たぶん、単に珍しく思われてるだけだ。さっさと去ってしまえば問題ない……。

「ちょっと、通りますよ」

 強引に列を掻き分け、視線とは目を合わせずに通り抜けようとした。すると、

「おい、やっぱり……あの男の人の背中にくっついてるやつって、スラムのアレだろ」

「まじかよ?」

 徐々に勢いを増していく喧騒。

 どうやら、ターゲットは僕ではなく、背後のシュカに向けられていたらしい。

 それは、次の言葉ではっきりと理解した。

「やっぱり! そいつ、リトルだ!」

 ざわっ、と空気が震えた。

 いままで躊躇っていた群衆が、一斉に敵意――いや、殺意を向けてきたと、そう感じた。

「なんでこいつがこんなとこに居るんだ! はやく出て行け!」

「何かしでかすつもりだ、注意しろ!」

「警察はなにやってんだ!」

 飛んでくる罵声に、僕は立ちつくすことしかできない。上着越しに、微かな振動があったけれど、気にする余裕はなかった。

 そんな僕の近くに居たおばさんが、声をかけてくる。

「ちょっと兄ちゃん! はやくそいつから離れな! 何されるか分かんないよ!」

「い、いや、僕は別に……わ、ちょ!」

 手を引っ張られて、群衆の中に引き摺りこまれた。背中についていたシュカが離れて、多くに囲まれた中、一人真ん中で孤立した。

「いまだ! 投げろ!」

 誰かの一声で、ありとあらゆるところから何かが投げられ、シュカ目がけて飛んでいくのが見えた。

 そのうちの二、三個がモロに当たって、地面に転がり落ちる。

 赤い、レンガの欠片だった。大きさから言って、大人でも頭に当たっていいものじゃない。

 それがシュカの細い体躯を打って、ずしゃ、と硬いコンクリートにシュカは倒れた。

 その隙。

 大人の男たちが周りに群がり、手に棒を、黒く長い棒を各々、地面に向かって打ちつけ始めた。

 鈍い音が数回続いた。

 昼に見た、大人の騎士数人を相手に力を振るい、僕を蹴ったり叩いたりした強気の彼女の姿はどこにもなかった。目の前に繰り広げられる情景は、ただのイジメだった。

 それを暫く呆けたように見ていて――やっと我に返った僕は、おばさんの手を振り払い、一人の男の肩を掴んでこちらを向かせた。

「ちょっと、さすがに……やりすぎでしょう! 大の大人が、一人に向かって!」

 でも、僕の言葉に男は、はぁ? と首を傾げた。

「やりすぎもなにもねぇだろ。ってか、あんたも騎士じゃないのか? こいつらはそもそもあんた達の管轄だろう?」

 他の男達も、そーだそーだ、と口を揃えた。

「そ、それは確かにそうですが……」

 男達の注意が僕に向いた。その瞬間、ちら、とこちらを見たシュカは、

「――っ!」

 群がっていた人だかりに突っ込み、避けたところから抜け出し、逃げた。砂埃がぶわぁ、と舞った。

「待てぇ!」

「逃がすな、追え!」

 それを、二人ほどが追っていく。ただ、それ以外の者は唐突に興味を失くしたの如く、ばらばらに去っていく。追う様子はない。まるで、ちょっと事件が起きたらしいから野次馬に来た、そんな程度の、顔つき。寸前まで、罵声を飛ばし興奮していたのが、だ。

 僕の周りに居た男達も、声をかけたおばさんも、既に居ない。

「ちっ……」

 舌打ち一つ、虚空に飛ばす。

 もう、街の民衆に構っている暇は無い。いま僕に出来ることは、シュカを追うことだ。

 僕もまた、群れる市民を掻き分け、走った。

 

 ***


 群衆から逃げた銀髪の少女は、未だ街を駆けていた。

 顔には、レンガによって傷ついた紅い線が幾重にも走り、白い肌と対照的である。腕は痛々しい打撲痕が残り、大人の体重が掛った足はどこか異常を感じさせた。

 やがて街の終端へたどり着き、後ろを振り返って何も居ないことを確かめてから、足を緩めた。

 こうなることはシュカ自身、分かりきっていた。

 この街は、リトルプレイヤーへの迫害がより強い場所である。

 それはかつて街が壊滅したのが、一人のリトルプレイヤーによるものだから。当時そのことに根強く関わっていたシュカは、誰よりも知っていることだ。そしてそれは、数年の時を経て復興した今も、市民感情に深く残っている。

 スラムという寝床はあれど、銀髪に異色の目をもたらされれば、当然のことだったのだ。

 だからこそ今まで、民衆の暮らす街へ足を踏み入れたことは無かった。

 が、結果的に彼女は街へ入った。

 あの男――フラウの、思ったより力強い握力に抗えなかったわけではない。

 シュカは自分の足元、流れていく灰色の土を見ながら思う。

 どこか、守ってもらえるとでも思っていた? あの大きな背中に。

 ぶんぶん、と頭を振ってその考えを捨てる。

「それは、絶対に、ない」

 昔同じようなことがあった。

 苦楽を共にして、大きな背中に自分の心を預けた。

 それは、もっともっと大きな力によって引き裂かれてしまったけれど。

 その背中と、フラウの姿をどこか重ねていた?

「ない、もん……。あいつは、違う」

 あの自分を守ってくれた少年はもう居ない。

 この街で自分を見つけてくれた少年はもう居ない。

 頬に一筋の雫が走った。

「ぐすっ……もう、無理だよっ……。待てないよおっ……」

 その場に崩れ落ちた。細い指の先を、土が覆った。

「どこに居るの……? 私を迎えに来てよ……!」

 記憶の彼方に沈んだ誰かに。

 名前の思い出せない、大事な誰かに。

 だが、その叫びは届くことはない。

 唯一それを聞いていた空が、薄く曇っていた雲から、

 サー……と、消えるような霧雨を降らし始めた。

 白いワンピースが点々と濡れ、その点が繋がり線となって、やがて肌に貼りつく頃――

 じゃり、と濡れた土を擦る、靴の音がした。


 ***


「ちっくしょう」

 街をくまなく探し、走り回った。

 しかし、未だにシュカの姿は見つけられていない。

 街自体はそんなに複雑な構造をしているわけではなかったから、容易だと思っていたけれど。

 既に陽は沈みかけているし、なにやら雲の様子も怪しい。すぐに雨が降ってきそうな雰囲気を醸し出していた。

 誰かに聞くことも考えたが、一瞬でそれは愚かだ、と振り払った。

 さっきの光景を、かなりの人数が見ているのだ――

 銀髪で……と言った瞬間、はぐらかされるのはちょっと考えれば分かる話だ。

「ああもう……どこに居るんだよ!」

 シュカがあんなことになったのは僕のせいだ。

 自分の空腹だけを心配して、この街の感情がどうなっているか、考慮に入れるのをすっかり忘れて強引にシュカを連れて来てしまった。

 それに、囲まれた時、僕は何もできなかったじゃないか。

 民を守るのが騎士の心だ、と教えられたのをまったくできていなかった。

 赤紙をもらっても、所詮はまだヒヨッコだったと、そういうことだ。

 コンクリート造りの壁を、自身のふがいなさに殴りつけた。

「だから、まずは見つけないと……!」

 思い当たる場所はいくつかあった。家に帰ってるかもしれないし、またあの収集場に行っているかもしれなかった。けれど、僕はその正確な場所を知らない。この暗さと雨を心配すると、ヘタに動いて迷うわけには……。

 思わず空を仰いだ。

 白い糸みたいな物体がふよふよ泳いでいるのが見えた。昼と同じだ。

 産卵を目的に川下りをする海の魚みたいに、それらすべてが一様に同じ方向へ競うように流れている。

 僅か数ミリの太さしかないそれに、僕は導かれるまま歩いていた。

 僕が追うと、そいつらはスイーっと逃げて、僕がペースを緩めると、早くこいよ、とばかりにその細い体を曲げて手招きしてきた。なんだか上から目線で物を言われているようで、腹のたつ糸だ。糸かどうかはしらないけど。

 風が舞っていた。雨がパラパラと落ちてきた。そう遅くないうちに本降りになりそうだ。

 それを見越したのか。いままで僕の前を先導して隊列を組んでいた糸達は、突然左右にばらけて、雨から逃げるように、サッと薄く、消えて行った。

「お、おいおい……どこいくん、だ!?」

 舞っていた風が、急に途絶えて静まったかと思うと、直後。突風が、僕の背を押した。

「ぬわっ、な、なんだ?」

 勝手に足が前に進む。まるで見えない巨人の、透明の手に押されているかのよう。つま先で踏ん張っても無駄だった。

 街を奥に、スラムへ。

 灯りがない分、視界が危うくなるほど暗い。このまま壁に激突でもしたらどうしよう――とそう頭の先に走ったところで、巨人の手――もとい突風はおさまった。

 その、家と家の間、狭い隙間に……やや濡れて肌色の透けた、白いワンピースの銀髪少女が居た。


「……やっと見つけた」

 遠目から見れば、白い塊にしか見えないそれに、一歩、二歩と近づいた。

そっと手を伸ばして、肩に置いた。

「探したんだぞ」

「…………」

黙ったまま、顔が上を向く。僕と目があった。涙が両頬に川を作っていた。

「……お」

「お?」

「お、遅い……」

「ご、ごめん」

 背後でびゅうぅ、と風が過ぎて行った。シュカの、長い銀髪が揺られてぶわっと踊った。さらさらと余韻を残して元に戻るそれは、僕の指に絡みつく。

「待ってたのに。……意外と足が遅い」

「いやいや、足は関係ないだろ」

「言い訳は見苦しい」

「はいはい、分かった分かった」

 それから、シュカは倒れるように、頭を僕の胸に預けてきた。すん、と鼻を鳴らして、「う~」と唸るとばしばし僕の肩を叩いた。傷口じゃない方だ。僕は黙って叩かれた。

「あのさ」

「……なに」

 肩パンチが止む。

「僕、シュカに謝ろうと思って。あんなに嫌がったのは、街に入るとああいうことになるからだったんだよな……ごめん。全然気付かなかった」

「別に、いい……もう、慣れたし」

 小さな身体がふるっと震えた。雨が段々と強くなってきた。シュカのワンピースはもう、白というよりは透けて見えた肌色の方が強い。密着している分、目のやり場に困った。

「どこ見てるの。変態。ロリコン」

「ばっ! べ、別にどこも見てない!」

「嘘」

「嘘じゃない。……大体、見るほどのものもない癖に」

「うるさいっ」

 げし、と蹴られた。身長差のせいでちょうど脛にクリーンヒット。い、痛くなんてないぞ。

 げし、げし。

 続けて蹴られた。けれど今度はむしろ、猫の肉球に踏まれたような、柔らかなものだった。蹴りながら、シュカは僕に抱かれ続けた。小さかった。冷たかった。

 やがて、弱々しくながらシュカは立ち上がった。僕に背を向け、震える声で言った。

「帰る。もう、あんたの監視はやめにすることにしたわ……だから、私につきまとわれたくないなら、さっさとここを出なさい。あんたが仲間のとこに帰っても……もう気にしないから」

「えっ……」

 それから無言の圧力を背中から発して、スタスタと歩いていってしまう。

 言われたことを直に受け取れば、僕は晴れて自由の身、ということだった。

 このスラムを後にし、詰所へ帰ることができる。もちろん、午前中の出来事については報告するついでにどんな処分を受けるか分からない。最悪謹慎処分さえ出されるかもしれない。それでも、元の鞘に戻れるということは今よりもきっと状況はよくなる、はずだ。

 しかし、僕の気分はどうも釈然としなかった。

 今までリトルプレイヤーを憎んで憎んで、四年を訓練に費やし、ついでに一カ月無駄足を踏んで、ようやく実戦に配備されて。

 僕はきっと多くの敵を斬って行くんだろうと思っていた。

 現実は、初めて会ったシュカという少女によって、全然違う視点を知ったということだ。

 ただ一つの出来事だけれど、それが自分に大きな変化をもたらし始めている。むしろ、もう影響を受けている。そう感じていた。

 まだ新しい絵具パレットに、白だけを使い続けても、パレットは汚れない。

 その白い絵具の詰まったパレットに、黒色の絵具を1滴たらせば。

 途端に白は、灰色へ染まっていくだろう。

 そして、一度黒い染みを作ったパレットは。

 洗剤を使ってもなかなか落ちない黒を作る。それと、おんなじ。

 黒を知らないパレットは、純粋なままで居られるが、黒を知ってしまったパレットは、それから白だけが存在する世界に戻ったとしても、黒を求めずに居られるだろうか?

 僕は、この新しい「(せ)色(か)」(い)を知ってしまった以上、このまま帰ってもいいんだろうか?

 徐々に姿を小さくし、角を曲がりかけていたシュカを追いかけ、肩を掴んだ。

「僕は、帰らない」

「は……!?」

「帰らない、って言った」

 シュカは振り返らない。僕の方を見ないまま、顔だけを俯かせた。

「なん、で……」

「責任。取らせてくれよ」

 この「(せ)色(か)」(い)を知ってしまった責任。

 あの状況を生んでしまった責任。

 守れなかった責任。

 僕より遥かに強い、一小隊よりも多分もっと強い、そんな彼女に対して『守る』なんておこがましいかもしれない。でも、何かしたかった。

「なんで私に関わるの……? もう放っておいてよ。どうせ私は孤独。誰も助けには来てくれない。軽々しい同情なんて要らないわ」

「同情なんかするもんか」

「じゃあ……」

「言ったろ。僕は、リトルプレイヤーが嫌いだ。それは変わってないんだ。違う視点を知ったから、一方的な感情じゃないけど。これまでは、僕がシュカに見られる形だった。だけど、今度はその逆だ。一騎士として、僕はシュカを監視する」

 シュカは顔を上げた。呆れたような、もっと言うと、バカにした顔だった。

「バッカじゃないの」

「痛~~~ッ!」

 ガツ、と音がするくらい、本気で脛を蹴られた。

「私よりずっと弱いくせに。叩かれただけですぐ痛がるくせに。足遅いくせに……生意気」

 か細い声だった。

「生意気でもなんだっていい。もし邪魔だったら斬られてもいい」

「……マゾ?」

「違うわ!」

 軽く咳払い。前に回り込んだ。

「だからさ。近くに居させてくれよ。……もっと、知りたいんだ」

「は……」

 ぽっ、と頬が紅くなった。

「っ……ば、バカバカ! 何言ってんのこんな時に! も、もう知らない!」

「あ、おい……」

 僕の脇下をすり抜け、シュカは再び去ろうとする、が、

 5メートルほど走ってから、足を止めた。小さい声で呟いた。

「……ついてくるなら、勝手にすれば。ただ、死んでも責任は取らないから」

 それを僕は、許容、と受け取った。


 ***


「――ふむ」

「これでよろしかったですか?」

「よろしい。下がってよいぞ」

「……失礼いたしました」

 六畳一間の指令室。

 深くもなく、浅くもないちょうど45度に保たれたお辞儀をして退室する秘書を目線で見送ったあと、報告書に目を落とした。

 作戦としては昨日早朝に伝令したものである。さすがに、この国は昔から純情気質があり仕事が早い。確実性と俊敏性を備えた、これで冷徹なタテ社会で無ければ世界一幸福な国だろうに、と思いふけるのはラインハルトの癖だ。

 作戦内容は、とあるターゲットの抹消。

 結果は失敗。

 隊のうち遂行に当たったとみられる人数は不明、少なくとも一小隊がターゲットの発見と戦闘を行った形跡あり。その隊が他に報告する義務を怠ったか――それ以外の隊は対象を発見できず。

 KIA、五。

 MIA、一。

 KIAは戦死、MIAは行方不明を表す。

 作戦に当たっていた他の隊は全員引き返させた。

 結果だけ見れば、最悪のものである。ターゲット一人に対して、五人の兵を失い、一人は見つかることなく戦地で行方不明なのだから。

 しかしラインハルトは、笑っていた。

 KIAになった名簿の中に、最も重要な者は入っていない。

 そしてその者の名前はMIAに入っていた。

 思い描いた通りだ――。

 唇の両端が軽く上がる。

「まずは種が芽を出した。あとは雨さえ絶えなければ茎が伸び、蕾は膨らむだろう。肥料は要らぬ。ツツジの種がツツジの花を咲かせる運命は決まっている……ここまで来れば、早急に事を運んだ方が良、か?」

 騎士団に参謀は居ない。

 名ばかりの中将や他の配下は多数居るが、そもそも騎士団は戦う対象が限られる。自衛隊とはそこが違う。作戦は全てトップが下す。つまり、ラインハルトに一任される。

 数分ほど、中空を仰ぎ思考を固めた。

 そしてすぐさま、部屋隅の電話を手に取る。

「――あいつを呼んでくれ」

 それだけ言って、すぐに切る。

 ほどなくして、呼びつけた者が部屋の戸を叩いた。

「入れ」

「失礼します」

 金髪の幼い少女だ。だが小さな体躯に秘められた能力は他の無能共と違ってケタ外れに強いことを、ラインハルトは知っている。

「単独で作戦を与える。日時は――」


 ラインハルトの捲いた種が動き出す。

 世界を激変させた獣を、終焉に導く種が。


 ***


 シュカの隠れ家(?)に帰ってから寸刻。

 タイル床に打ちつけられる水音をすぐ近くで聴きながら、包丁をまな板の上でふるいつつ、鍋に調味料を放り込んだりそれを味見したりしていた。つまるところ料理。

 相当ボロな小屋だけれど普通にキッチンが設置されているのは驚いた。シンク周りが埃でびっしりと覆われていて、使われていなさそうだったから磨いて使えるようにしたのだ。

 しかも幸運なことに、飲み水がちゃんと出る。スラムといえど、意外と捨てたものじゃない環境だ。窯に薪があるので火も起こせた。

 ふと、数メートル横にあるガラス戸に目が行く。着火式ランプで照らされた向こうからは、隙間から漏れてくる湯気と、それに紛れて動く薄い影が見えた。

 ちょっと前に降りだした雨でずぶぬれとまではいかないにしても薄着のシュカは全身濡れていて、帰るなりそそくさと風呂場へ向かった。そしてその間、僕は遅れに遅れた昼食を作っているという塩梅だ。

 湧いた微量のスープに買ってきたチーズを適当に投入。もう片方の湯入りの鍋には卵が入っている。もう少しで茹であがるはずだ。

 焦げ付かないように、ヘラ(のように見える木の板)で混ぜる以外はもう特にすることがなくなった。

 暇を持て余し、キッチンの周りをうろうろと徘徊する。特に意味はない。

 と、足に何か引っかかった感じがした。ずる、と前に滑ったから布類だろうか――

 目線を落とす。と、

「ぱ、ぱん……っ!」

 断じて言おう。あの小麦から精製される、主食にもよく用いられる穀物ではない。

 綿や絹、合成生地などで作られ、中には勝負なんとか、という極めて際どいもある、アレのことだ。

 それが、ヘラ(のような板)を片手に持った僕の足元に、突如として現れた。もうひとつ断わっておくと、僕のじゃない。

 簡潔に言うと、僕のものじゃない布物の下着が……誰が落としたのか、置いてあった。で、それに足が引っ掛かった……。白と水色の線が入った、ソレが。

 思わずガラス戸の方を見てしまう。持ち主かもしれない当の本人は、まだシャワーを浴びている。

 どうする!?

 一、気にしないでそのままにする

 ニ、気付かれないようにそっと元に戻してやる

 三、懐に隠す


 いやいや、三はありえない。常識的に考えて……。

 妥当なのが一番、それだとシャワーから帰ってきた時はその、はいてないことに……。

「…………っ!」

 いかんいかん、邪な妄想を一瞬膨らませてしまった。騎士たるもの常に冷静でないと。

 ということは消去法でニ番なわけだ。

 すると、キュッという蛇口を捻る音がして、シャワーの水がタイルを打つ音が止まった。

 ぺた、ぺたと足音。それから少しおいて、

「あ、あれ……どこやったっけ……?」

 と、困ったような声。

 間違いなく、ここに落としたせいで持ってきたはずの物が無くて、困惑しているようだった。

 さすがに手渡しするわけにはいかない。

 せめて戸の近くに置いてやろう――

 がらり。

 ガラス戸が開いて、シュカと目がばったり合う。やや沈黙。

 平坦な上半身には白いタオルが巻かれていた。

「な、なに、何やって……」

 片手でタオルを押さえ、口をパクパク。って見とれてる場合じゃない弁解を……

「あ、いや違う! こ、これは違うんだ! そこに転がってたから近くに置いてやろうと」

「どこが違うのよ! っこの……ヘンタイヘンタイ! 死んじゃえ~~~!」

「ごふっ……!」

 本気のグーパンチが、顔面に直撃。鍛えてるはずなのに、一撃でKOされた。能力なんかなくても、リトルプレイヤーは強かった。

 でも僕、何か悪いことしただろうか……?

 昏倒しつつ、そう思った。


 それから目を覚ましたのは一時間くらい立ってから。

 罵られながら、さっき作りかけたフォンデュを食べ(シュカにかなりの量を食べられた)、全てたいらげる頃にはもう夜遅い時間。子供はもちろん、大人も床につかなければ明日に支障が出る、そんな時間だ。

 それに倣い、僕もシュカもベッドに入っていた。

 ――ただ一つの違和感を抱えて。


 台所でチーズの焦げ付いた鍋を、ようやく洗い終わった辺りの事だ。

 シュカはベッドに腰かけ、長い銀髪をじっくりじっくり手入れしていた。ブラシを使って上下左右。どの方向に梳いても、川の流れのようにさらりとブラシは通る。

 別に見とれていたわけじゃないが、そこではたと気づく。

「……そういえば、この部屋ベッド一つしかないよな」

 ブラシを止めたシュカが、何を今更といった風に、

「私一人しか住んでないんだから当然でしょ」

 と答える。確かに当然の話なのだが。

「っていうことは僕は……」

「あんたの寝床なんて用意してるわけないでしょ。居候なんだから床よ床」

 場所はそこね、との如くベッドから薄いタオルケットが1枚放り投げられた。スペースとしてはまぁ十分寝転がることができるくらいにはある。

「だよな……はは」

 ちょっとは期待したものの、勝手についてきている身分、そう強く言えるはずもない。

 黙って薄いシートの上に寝転がる。ひんやりとした冷たさが背中からじわじわと伝わってきた。

「痛っつ……」

 冷たい上に硬い。肩は止血しているが傷口が完全に塞がったわけじゃない。硬い床で寝がえりを打つと、痛みが走った。

「……ねぇ」

「うん? どうした?」

 既にベッドに入っているシュカからの声を、横たわったまま耳だけで聞く。大分疲れているようだ、体が重い。

「肩、痛むの?」

「まぁ銃で撃たれてるわけだしな」

 あの向かってくる黒点を忘れられるわけがない。急速に自分に向かって死が迫る瞬間だ。1フレームごとに分けて絵に描いてみろと言われたってできる気がする。それだけ鮮烈な映像と痛み。それを受けて寝たきりどころか走り回れるんだから人体は侮れない。

 などと体の丈夫さについて無駄な感心をしていると、ふと柑橘系の香りがふわ、と漂った。

 うすら目を開ければ、視界にはシュカが座っていた。なぜか正座。長い銀細工みたいな、ややカールされた髪を床に垂らし、両手は腿の上。

「その……こ、こんなこと言うのは不本意だけど……っ。あんたが怪我してるから言うんだからね! 普通なら絶対絶対絶っっ対、思いもしないし最大限譲歩して、だけど!」

「? な、なんだよ」

 凄い剣幕。顔が真っ赤になっている。

「だだっ、だから! ……使ってもいい、って」

「え?」

「ベッド! 一緒に使ってもいいって! 言ってるの!」


 ……そんな急展開があって、僕ら二人、互いに背を向けて小さいベッドの上、横になっていた。

 狭い。とにかく狭い。

 縦幅はまだしも、横幅は僕の片腕分プラス少し余る程度にしかない。あまり幅を寄せると背中越しに容赦ない足技が飛んでくるから、僕は半身でなるだけスペースを確保できるようにする。それでも二人が重ならないように寝るには無理がある。ときおり肩と肩がぶつかって、柔らかい、女の子特有の感触が残った。

 枕はタオルを丸めたもので代用したけれど毛布は一枚で共有。この時期に空調も無しで風邪をひくことことなんてありえない気温だし、毛布は別に良いと言ったら、

「怪我人は黙って」

 と無理やり毛布を被せられたのだ。だが、その分どうしても密着せざるをえないし、どこかが触れるたび、何かと緊張してしまう。

「……いやらしいこと考えてたでしょ」

「かっ、考えてない」

「嘘つき。これだから男って」

 そういいつつそんな男を自分のベッドに上げたのは君です。

 だけど僕もそういう疚しい気持ちがまったくないと言えば嘘だ。だって、女の子と同じ布団に包まって何も思わない方がどうかしてる。それに、後ろ姿で見ても、窓からの月灯りに反射する白く透き通った肌と銀の髪は、惹かれずにはいられない。人間離れした容姿を間近で見るだけで、心臓が高鳴るのはそうおかしいことじゃない……と思う。

「ん……」

 するりと背中になにか当たる感覚。

「……背中、広いのね。なんかむかつく」

「別に腹は立たないだろ……」

「あんたみたいな軟弱で軟弱で軟らかくて弱いやつが自分より背中広いってだけでむかつく」

「なんでだよ――うひぃっ!」

 何か冷たいものが背筋を通っていった……まるで氷をシャツの襟の所から入れられたような。

「くすっ、なにその声。ちょっと指で撫でただけじゃない」

「撫でただけって、それが問題じゃ」

「あ、もうこっち向くなぁ! ……ただでさえ狭いんだから」

 反撃してやろうと体を反転させようとしたら怒られた。自分は僕の方を向いてるのにか。なんて自分勝手な。

 それからもなお、ぺたぺたと背中を触ってくる。

「……セクハラで訴えるぞ?」

「なによ。年端もいかない女の子と同じベッドで呑気に寝てる少女趣味を棚に上げる気? 逆に訴え返してやるから」

 ふふん、とシュカが鼻で笑った。くそ、反論の余地が無いのが腹立たしい。実際、知り合いにこんなとこ写真に収められでもしたら僕の人生谷底へまっしぐらだ。

「や、やっぱ僕床で寝るよ――」

「ダーメ」

「うあっ」

 起き上がろうとして、腕に抱きつかれた。しかも怪我している方の腕だ、むやみに動かせば傷が開くかもしれない。なんと姑息な。

「意外と腕も太いのね……ごつごつしてる」

「訓練してるからな……」

 もう諦めて、黙って腕を弄ばれることにした。つんつんされても気にしない。すーっと、手から肩へなぞられても気にしない。気にしないぞ……。

 

 数分後、攻撃は止んだ(攻撃というにはいささか幼稚で、裏腹に精神的なダメージをもたらすものだったけど)。その代わりに小さく細かい息遣いが、すぅすぅと聞こえてきた。

「寝た、のか?」

 反応はない。今なら抵抗もないはず。こっそりと、床に戻ろう。

 ……という僕の作戦は1秒で掻き消えた。なぜだか腕が動かない。

 横目で確認すると、ちょうど僕の腕の横に、シュカの整った寝顔があって、そのシュカの両腕によって捕捉されていた。

「こうして黙ってると、ただの可愛い女の子なんだけどな……」

 見た目からして、フランとそんなに変わらない。彼女がいつからこんな生活を送っているのかは知らない。だけども、もし彼女が普通の人間と同じ生活ができていたのならば――

 きっと、学校に通い、友達を作って、思いっきり遊び、笑う、そんな日常にありふれていたかも、しれない。

 ラインハルト大将から、赤紙を貰った日に言われたことを思い出した。

「もしリトルプレイヤーそのものが、誰かによって操られているだけの存在なら、騎士は剣を振るわなくてもよくなる、か……」

 言われた時はまったく意味が分からなかった。今だって、判然としないところは多くある。

 けれど、それが分かった時は、シュカ達は日常に戻っていけるんだろうか。

 それが叶うなら、僕は――。


 夕方からずっと振り続いていた雨はいつのまにか止んでいた。部屋の中は、シュカの寝息だけを響かせていて、他にはなにもなかった。静かな空間だけが、それを包み込むようにして見守っていた。

 僕はそのシュカの寝息をメトロノームのようにして……いつしか眠りに落ちた。


 ***

 <In the dream phase 3>


 とある野原。

 幼い僕と少女は、温かい日差しの中。風に揺れる柔らかそうな芝生に腰かけ、二人座っていた。周りは、特になにもない。その野原は高い所に位置しているのか……遠くには小さい街並みが見える。

 ここ1カ月で、僕が見る夢はパターンを増した。

 自分に記憶が一部無くなっていることを気付いた日から数年の間見続けた夢は、いつも見知らぬ少女に腕を抉られ、足を撃ち抜かれ、体中からトマトよりも赤い赤い体液をだらだらと情けなく流して、これまた見知らぬ不愉快な男に単身向かって行く直前までのもの。

 それが変わったのはいつからだ。よく覚えていない。

 二つ目のパターンは確か、黒ずんだ、破壊された町で、一つ目の夢の少女とよく似た幼い女の子と会話しているやつだ。

 そして今日のは、そのどちらでもない。今までの二つは何か悲壮感漂う景色だった。それだけで何かが違うと推察する。ましてや僕は、幼少時代の僕を視点とした夢以外は見たことが無い。それは良く言えば嫌な教官から追い立てられたりあるいは猛烈に叱られたりするような悪夢を見ずにすむと言うことなんだけども、食堂がいくら最高級の味を誇っていたって毎食ビーフカレーでは飽きる。それと一緒で、夢だってたまには他のものを見たい。

 と、そう願った所で夢は止められない。

 録画された映像を再生する時に、一時停止機能や早送りや巻き戻しが無いかのような理不尽。叩き起こされでもされない限り、一方通行の映像を僕は見続ける。時に空中から眺め。時には少年からの視点で眺め。今日は、前者だ。僕は中に浮きながら、その映像を夢に見る。

 

 僕の隣の少女は、前に見た破壊の夢の女の子のようだった。若干成長したのか面影がやや大人っぽくなってはいるけど多分同一人物。

 もしそうでなければ僕は短い間にとっかえひっかえをする軽い男だということになってしまう。それは今の自分の性格から見て認めたくはない事実だ……。


「また、長い間ここ空けないといけないかもしれない」

 幼い僕は神妙そうな顔でそう言った。

「私も一緒に……」

「ダメだ」

「やっぱり。いつもそんなこと言って連れてってくれないんだもん」

 ぷう、と少女は頬を膨らませる。

「それは危ないから……」

「本当に? もしかして誰か他の女の子に会いに行ってるとかじゃないの。む、浮気の香りがする」

「してないよ!」

「じゃあ証拠は?」

「それは……ない、けど、さ」

 僕は口どもった。それを見逃さなかった少女は、ニカッと太陽のような笑顔を綻ばせた。

「――じゃあ! 私と、浮気しない誓い立てよ!」

 僕の顔を覗き込む。かなり近い。

「誓い……って、どうすればいいのさ」

「方法は簡単。口を閉じて、ちょっと顎を引いて……で、目をつぶって」

「こ、こう……?」

「そのまま30秒くらい動かないでね。絶対」

「う、うん」

 目を閉じた。数瞬。少女の輪郭が、少年のものと重なる。

 キスだ、と一瞬で理解した。少年の目が、驚きに見開いた。

 少女は気にせず続ける。少年に寄りかかり、草原の上に押し倒した。

 やがて行為が終わって、少女は少年を解放する。いたずらっぽい目つき。けらけらと、嬉しそうに笑った。一方の少年は、どこかバツの悪そうな表情で、恥ずかしいのか頬を薄い紅に染めていた。

「ふふー。これでもう浮気なんてできないからね。***は私のもの。私は***のもの。何が起きたって、離れないから」

「……浮気なんてしないのに」

「こういうのは心がまえがじゅーよー、なの。まだ誓いは終わってないよ? さ、言ってよ」

「何を?」

 少年はきょとんとしていた。それに、少女がポカリと頭を叩く。

「痛いよ」

「ほんとでりかしーないんだから。誓いって言ったら、『愛してる』でしょ?」

 少年を見つめて、少女が言う。

 その瞳には、微かに不安が踊っているようだった。

「ねぇ、言ってよ」

「……してるよ」

「聞こえなーい!」

「愛してるよ! ***!」

「よくできました」

 ニッコリと、少女は笑った。少年の頭を撫でながら。

 それを少年は、「やめろよー」と言いながらも、手をどけることはしない。


 本当に幸せな空間があったのだ、と思った。

 空の彼方……向こう奥には、黒い黒い雷雲が迫っているのが見えていた。今は快晴だがもしかすると、雨が降りだすかもしれない。強い風を伴うかもしれない。雷が二人の間に落ちるかもしれない。

 そんなことを思わせる、不吉な雲が迫っていた。

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