Secret Csat 楽園の真実

 猫妖精の森はいつも静かだ。それもそのはずで、ケットシーの道楽でやっている喫茶店に来たがる人間なんていない。だからミミコは、いつもソウタと1日中お茶を飲んでまったりと過ごすのが習慣になっていた。

 その習慣も、ソウタがいなくなって出来なくなる。

「嬉しい、はずなんだけどな……」

 カウンターに座るミミコは、硝子のティーカップを眺めながら呟いていた。ティーカップには薄紅色の水色をしたアイスティーが入っている。ほんのりと桜の香りがするそのアイスティーには、桜の花びらが浮かべられていた。

 学園から帰って来たソウタが、持ってきてくれたものだ。ソウタは、毎日のようにその日の出来事を話してくれる。

 ティーセットを持っていったら先生に怒られたこと。学園にあったフットボールを全て壊してしまいみんなに気味悪がられたが、ハイが庇ってくれたこと。チャコが歌をうたいたいハルのために、合唱部を立ち上げたこと。

 難しくてわからない勉強を、ハルが優しく教えてくれること。ハルが、毎日笑って楽しそうなことを。

 ネコミミを弾ませながらソウタは楽しそうに学園のことを話す。ミミコも愛らしい義弟の様子に思わす笑みを零してしまう。

 その笑顔を見ていると、妙に寂しい気持ちになってしまうのが最近の悩みだ。

「もうすぐあなたが生まれてくるのに、私ってば困ったママよねぇ」

 腹部に手を宛て、ミミコはそこに宿る命に優しく声をかける。その声に応えるように、かすかな心音が腹部から返ってきた。

「慰めてくれるの?」

 そっとミミコは自身の腹を撫でる。そのときだ、カランとドアベルの音が静かな店内に響き渡ったのは。

 思わずミミコは、ネコミミをびくりと立ち上げていた。とっさに扉へと顔を向ける。そこにいた人物を見て、ミミコは安堵に顔を綻ばせていた。

 制服に身を包んだチャコが、じっとこちらを見つめている。

「あら、チャコちゃんいらっしゃいっ」

 義弟の友人を、ミミコは笑顔で出迎えていた。だが、チャコはじっとミミコを見つめたまま、動こうとしない。

「チャコ……ちゃん?」

 不思議に思ったミミコは立ち上がり、チャコへと近づいていた。びくりとチャコが怯えるようにネコミミを震わせる。大きく眼を見開くチャコを見て、ミミコは立ち止まった。

「チャコ……ちゃん?」

「これ……リズ姉の形見の中にあったって……。ハインツお兄ちゃんが……」

 そっとミミコから顔を逸らし、チャコは何かを差し出してくる。

 りんと玲瓏な音を奏でるそれを見て、ミミコは眼を見開いていた。

 それは、鎖のついた銀の鈴だった。

 その鈴に共鳴するように、ミミコの左ネコミミについた鈴が鳴る。ケットシーの証である鈴と同じ形をしたそれは、特別な役割を持つ者たちに与えられるものだ。

 この箱庭02地区トウキョウを守る『守人』たちに与えられるもの。

「ハイも同じもの持ってるんです……。ハインツお兄ちゃんにきいたら、これはもともと私のものだって……。これが、真実だって……」

 ぎゅっと鈴を両手で握り締め、チャコは俯く。扉窓から差し込む夕光が、彼女の顔に暗い影を落としていく。

「私は、ケットシーなんですか……?」

「どうして私にそんなことを?」

「あなたが、女教皇さまだからですっ!」

 顔を上げ、チャコはミミコをまっすぐ見つめてきた。その真摯な眼から、ミミコは視線を逸らすことができない。

 深緑の眼を静かに見開き、ミミコは言葉を発していた。

「それを……どこで……」

「会ったときから……。ずっと、そうだって思ってました。それに、ソウタくんは……。私、ソウちゃんのことは、ソウちゃんだって思いたいけど……」

 チャコが上擦った声をあげる。それ以上言葉を続けることなく、彼女は顔を両手で覆ってしまった。

「ソウタが灰猫に見えちゃうの?」

 ミミコの言葉に、チャコは静かに頷く。そっと彼女は顔から手をはなし、ミミコを見上げた。目尻に溜まった涙を拭い、彼女は言葉を続ける。

「大人は何を隠してるんですか? ハイは……私たちは一体なんなんですか?」

 彼女は、ネコミミを震わせながらも言葉を続ける。チャコの潤んだ眼は、ミミコをしっかりと捉えていた。

「ごめんさない……話せないの……。話しちゃ――」

「私は、真実を知りたい!!」

 小さなミミコの声は、チャコの大きな声にかき消される。彼女は胸に手を宛て、言葉を続けた。

「もう、何も知らないのは嫌なの! ハイが苦しむのを見るだけ何て嫌なの! 私は真実を知りたい!! ハイを助けたい!」

 自身の願いを叫ぶ少女を、ミミコはただ見つめることしかできない。叫び終えたチャコは、荒い息を吐きながら胸からだらりと手を放す。

「お願い……ハイを、もう苦しめないで……」

 大粒の涙を流しながら、チャコはミミコに告げる。すっとミミコはネコミミを鋭くたちあげ、彼女に声をかけていた。

「あなたは、受け止められるの。真実を。この世界の、本当の姿を」

 ミミコの言葉にチャコは、力強く頷く。深緑の眼を鋭く細め、ミミコは彼女に告げていた。

「女教皇の名のもとに、あなたに真実を教えます。守人チャコ……」














 













 























































 

































 どうして自分は、こんなに弱い子猫なのだろうか。

 疑問を頭の中で反芻させながら、ハイは深い後悔に囚われていた。

 チャコを、手放すことができなかった。それが何を意味しているのか、自分自身が1番良く知っているはずなのに。

「ボクは、チャコを殺したいのかな……」

 呟きは周囲の生暖かな空気に溶けていく。

「チャコちゃんがそれを望んだ……」

 慰めるように、後方にいるカルマが声をかけてくれる。ハイは彼へと振り返っていた。いつもたたえている微笑みは彼の顔にはなく、暗い表情をカルマは浮かべている。

まるで、周囲に広がる闇のようだ。そして、その闇の中央にいる存在にカルマは、怯えているようにも見えた。

「それとも、私たちの母さんがそれを望んだのかもしれない」

 ひゅっと光の線を描いて、カルマの眼が前方へと向けられる。輝くカルマの眼は、まるで前方にいる存在を睨みつけているようだ。

 空気のゆらぎを感じ、ハイも前方へと顔を向けていた。

 そこには、ハイたちの『ママ』がいた。

 ぽっかりと穿たれた地下空間に、蒼い泉が広がっている。その中央に、それは生えているのだ。

 女性の姿を象った、桜の巨大樹が。

 それは巨大樹と呼ぶにはあまりにも異質だった。巨大な幹は女の裸体を形作っている。幹から伸びる2本の枝は腕を思わせ、その枝の先を白い花が彩っていた。

 舞い落ちる花びらは、泉に小さな波紋を形作っていく。その波紋が生じる水面の奥に、無数に蠢く球体があった。

 透明な膜で包まれたそれは、濁った白い体と、心臓と、血管がくっきりと浮き上がっている無数の胎児たちだった。球体の形をした膜からは太い血管が張り巡らされている。その血管は泉の中央に生える大木の根元へと続いているのだ。

 心音とともに胎児たちが小刻みに動く。その動きに合わせて、大木の幹も不気味な脈動を繰り返している。

 人工子宮『マブ』。

 ハイたちチェンジリングを生み出し、世に送り出す生体コンピューター。

 そして――

「ボクたちは、ママの一部なんだよね……」

 ぽつりと、ママを見つめながらハイは呟く。

「そうだよ。マブはただの人工子宮じゃない。文明崩壊以前、ミミナシたちの追害からキャットイヤーウイルスのキャリアたちを守るために、自らの体を生体コンピューターに作り替えたケットシーの女性がいた」

 ハイの言葉を受け、カルマが重い口を開く。

「彼女は、同じ感染者たちを守るために全世界のインターネットシステムを乗っ取り、それによって管理されていたあらゆる兵器を駆使して人類の文明を終焉に導いた。そして、この島で生体実験を受けていた仲間を、13人の子供たちの遺伝情報を自らの中に取り込み、端末である私たちチェンジリングを生み出したんだ……」

 カルマの言葉を受け、マブが自らの体を激しく震わせる。ぽっかりと幹に穿たれた唇を開き、彼女は咆哮をあげた。

 うぉぉおおぉぉ。

 びりびりと、その咆哮はハイのネコミミに響き渡る。悲しげなその叫び声を聴いて、ハイは口を開いていた。

「ママは……何が悲しいの?」

 閉じられていたマブの巨大な瞼が見開かれる。その瞼の下にある双眼を見て、ハイはぞわりとネコミミの毛を膨らませていた。

 透明な膜で覆われた眼の中には、ネコミミを生やした女性の頭部が浮かんでいる。ネコミミについた黒ブチ柄を見て、ハイはそれが誰だか容易に想像することができた。

 うっすらと蒼い眼を開け、その首は悲しげにハイを見つめてくる。

「サツキ・ハイバラ……」

「前にも話したよね。彼女は生贄なんだよ。私たちチェンジリングからの膨大な情報により自我崩壊を起こす寸前のマブを暴走させないための……。そのマブを守り暴走を防ぐために、君とチャコちゃんは作られた……」

 カルマの声が、かすかに震えている。ハイはカルマを見上げる。彼は悲しげに眼を歪め、サツキ・ハイバラの首を見つめていた。

ハイはじっとマブの眼に宿るサツキ・ハイバラを見上げる。

 蒼い彼女の眼は、悲しげにハイを見つめるばかりだ。

 リズに母親のように慕われ、チャコとハイに名前をくれた女性。

 親友であるソウタの、母親だった女性。

 彼女は、箱庭地区を治めていた先代の女教皇でもあった。女教皇を務める女性たちは絶大な権力を与えられる見返りに、マブの人柱になることを要求される。

 ハイたちチェンジリングは、人口減少を食い止めるために人工的に作られた命なのではない。その実態は、マブの耳目となって外界の情報を絶えず集める高度な端末に過ぎないのだ。

 この世界に存在するキャットイヤーウイルスは全てマブの管理下にある。ウイルスに感染すれば最後、その感染者はマブの耳目と成り果てるのだ。

 マブに逆らえるのは、自らの意思でキャットイヤーウイルスを一時的に制御できるケットシーのみ。ケットシーの中に潜伏するウイルスは、マブからの指示を受け彼らを常に殺そうとしている。

 第2のマブを生み出し、新たなる驚異を作らないために。

「そして僕らは、マブの驚異を殺すために造られた……」

 ハイが口を開く。サツキ・ハイバラが苦しげに眼を歪めている。ハイはしゅんとネコミミをたらしながらも、言葉を続けた。

「ボクとチャコは、ママを監視し……守るために造られた防御プログラム。ボクたちはママの意識を乗っ取って……ママのプログラムを自由に使うことができる……。ママはミミナシどもを殺せない……だから、ボクたちがやるしかない……」

 すっと眼を鋭く細め、ハイは言い放つ。

「だって……あいつらは……ボクらを殺しに来るから……」

 すっとハイはネコミミを逸らす。りんと鈴の音があたりに響き渡る。ハイの右ネコミミについた鈴が鳴ったのだ。

 その音を合図に、泉の水が淡く輝く。ハイが泉を覗き込むと羊膜に包まれた胎児たちの体が、蒼く明滅を繰り返していた。

「ねぇ、先生……。ボクの今日のパートナーは、誰?」

 泉から巨大な気泡がわきあがってくる。その気泡を見つめながら、ハイは後方のカルマに尋ねていた。

 ハイは、チャコが人殺しになることを望んでいない。

チャコがハイを守るためにミミナシたちを殺したあのときから、ハイは誓ったのだ。

 チャコを守ると。

 だから、チャコと自分に養子の話が来たときはとても嬉しかった。箱庭02地区トウキョウを出れば、マブの影響は格段に落ちる。キャットイヤーウイルスを支配している存在であっても、強い影響力を持つのはこの箱庭02地区のみだ。

 守人として覚醒している自分を、大人たちが手放すはずがない。だからハイは、チャコを守人にしないことを条件に、ミミナシたちを殺してきた。

 チャコの代わりを務める、ケットシーの女性たちとともに。

 マブをハッキングし、そのシステムの一部を運用する守人にかかる負担は重い。パートナーの1人であったリズも、その負担に耐え切れず命を落としたのだ。

 でも、ハイは後悔していない。

 自分をあのとき守ってくれたチャコ。血まみれになりながら笑っていたチャコ。

 人を殺しすぎて心が壊れてしまったチャコ。

 もう、あのときみたいにチャコが壊れてしまうのは嫌だ。

 泉から透明な球体があがってくる。球体には無数の血管が張り巡らされ、血管の先は泉の底へと伸びていた。

 守人たちが制御システムを運用するために使用する、特別な羊膜だ。あの中に、今日のパートナーが取り込まれている。

「ハイくん……。後悔しないかい?」

 カルマの震える声が聞こえる。ハイは浮いてくる羊膜を見つめながら、言葉を返していた。

「何で……? もう、何人殺しても……一緒なのに……」

 恐くて、何も知らないチャコに縋りついたこともあった。でも、これからはそんな弱さも切り捨てていかなくては行かない。

 リズがいなくなったぶんの不足を、大人たちはチャコで補おうとするだろう。キャリコが急にチャコを養子にすることを断ったのだって、大人たちの思惑の一部かもしれないのだ。

 大人は嘘をつく。優しい嘘を。

 その嘘に騙され、子供たちはこの箱庭地区を楽園だと信じて疑わない。一歩壁の外へ出れば、そこに広がっているのは地獄だというのに。

 せりあがってくる羊膜には、長い茶髪の少女が入っていた。細く白い裸体が、蒼い燐光により淡く照らされている。

 その羊膜が近づくにつれ、ハイは眼を見開いていた。ぞわりとハイの背筋を悪寒が過る。見たくないのに、ハイは羊膜の中にいる少女から眼が離せなかった。

「チャコ……?」

 ここにいるはずのない姉の名前を、思わず口にしてしまう。

水面を突き破り、羊膜が水しぶきをあげながらハイの眼前へと姿を現す。その羊膜の中に入っていたのは、紛れもないチャコだった。

 羊水の中に浮かぶチャコの体には、透明な壁から伸びる細い血管が取りつけられている。彼女の細い体は、羊水を漂う長い髪で覆われていた。

「いやあああぁああああああぁあ!!!」

 ハイが叫ぶ。その叫びは眼前の羊膜を小さく震わせた。

「あぁ……。あぁ……」

 引きつった声が、喉から漏れてくる。力なく石畳の床に膝をつき。ハイは顔を両手で覆う。

「あぁあああああああぁあああ!!」

 指の間から羊膜が見える。涙に濡れた視界の中で、たゆたうチャコがうっすらと眼を開けた。

「チャコ……チャコっ!」

 床を這いずりながら、ハイはチャコのもとへと向かっていく。ぶよぶよとした羊膜の壁に触れ、ハイは眼を開けたチャコを見つめた。

 そっとハイに顔を向け、チャコが弱々しく微笑む。彼女は口を動かし、ハイに何かを伝えようとしていた。

「ごめんなさい……」

 ハイは震える声で、チャコが伝えようとした言葉を口にする。

「どうして……? なんでだよ……チャコ」

 涙が止まらない。ハイは顔を伏せ、泣き出していた。

「チャコちゃんは自分の運命を受け入れたんだよ」

 嗚咽するハイの後方から、冷たいカルマの声がした。ハイは後方へと顔を向ける。

「君を守るためにね……」

 爛々と輝く眼をハイに向け、カルマは抑揚のない言葉を続ける。その言葉に、ハイはかっと眼を見開いていた。

「ちくしょぉおおおお!!」

 立ち上がり、ハイはカルマへと駆けていく。彼の胸元に飛びつき、なんども拳で彼の体を叩いた。

「何だでよ!? 何でだよ!? 何でだよ!! ボクはこんなの望んでない!! ボクは――」

 叫ぶハイの両拳を、カルマは両手で制する。びくりとハイはネコミミを震わせ、カルマを見上げた。

「これは、チャコちゃんの意志だ。君は、それを受け入れなくちゃいけない……」

「嫌だ……」

 ゆっくりと首をふるハイに、カルマは冷たく言葉を重ねる。

「君たちは壊れるその瞬間まで、私たちのために殺し続けなければいけないんだよ」

 カルマが嗤う。悪意に満ちたその微笑に、ハイは体を震わせていた。

「ハイくん。今日もいっぱい、ミミナシどもを殺そうね」

「やだ……。やめて……」

 眼を細めカルマは笑みを深めてみせる。震えるハイの体を引き寄せ、そっと彼はハイのネコミミに口を近づけた。

「嫌っ!」

 ハイは首を振り暴れだした。

りんりんとネコミミの鈴がうるさく頭蓋に響き渡る。ハイの能力は、催眠療法によって普段抑えられている状態にある。その状態を解除できるのは、カルマのみ。

 ある言葉を聞くことにより、ハイは本来の能力を引き出すことができる。

 でも、それは――

「嫌だっ! ボクは、ボクはもう、殺したくない!! 殺したくない!!」

 喉が焼けつくように痛い。それでもハイは、力の限り叫んでいた。

「ネコミミクラスタシステム……起動……」

 カルマの声がネコミミに突き刺さる。言葉を聞いた瞬間、ハイの視界はぐらりとゆれた。急速に眠気が襲ってきて、意識が遠くなっていく。

「ごめんね、ハイくん……」

 眼が閉じていく。

暗くなっていく世界の中で、ハイはカルマの泣き声を聞いた気がした。




 





 闇に覆われた空を、切り裂く光があった。閃光は絶えず海原を照らしていく。その海原に、1艘のボートが浮かんでいた。

 ボートにハインツが佇んでいる。そのボート目指し、海原に降り立つ影があった。

 ハインツは、手に持っていたランタンを振ってみせる。ランタンの光に引き寄せられるように影はハインツの側へとやってくる。

「姉さん……」

 甘えるようにハインツは、近づいてくる影に声をかけていた。その声に応え、影が光を放つ。

 暗い影が取り払われ、光の中央に大きな翼を生やした女性が浮いていた。女性には薄い茶トラの猫耳が生えている。彼女は柔らかな癖毛を海風に弄ばれていた。その髪を手で抑え、彼女はハインツに微笑みかけてみせた。

「マブに還らずに、翼猫になってくれたんだね……」

 ハインツは夜空に浮かぶリズに、縋るように手を差し伸べる。リズは、優しくその手に触れた。

「ずっと、ずっと姉さんに会いたかった……。でも、姉さんは俺を置いて行っちゃうんだよね……。あの空に行っちゃうんだよね……」

 ハインツは、明滅する夜空を見上げる。ウィルオーウィルプスが美しく咲き誇る空では、今まさに戦いが繰り広げられているのだ。

 そしてリズは、その戦場へと向かおうとしている。

 生を終えたチェンジリングには、2つの道がある。

1つは、マブに体を吸収されマブのもとに還ること。そしてもう1つは、外の敵と戦うために翼猫に生まれ変わること。

チェンジリングとしての生を終えたリズは、翼猫に生まれ変わることを選んだのだ。

「姉さん……」

 ただ独りの姉を、ハインツは呼ぶ。その声に応えるように、リズは微笑んでみせる。褐色の翼をはためかせ、リズはボートに佇むハインツを抱きしめてみせた。ハインツも、そんなリズを離すまいとしっかりと彼女の体を抱きしめ返す。

「でも、行くんだよね姉さんは……。俺たちのために」

リズの肩に顔を埋め、ハインツはリズに囁いていた。彼女の顔を覗き込むと、リズは悲しげに眼をゆらしてみせる。

「眼、見えるようになったんだ……」

彼女を慰めようと、ハインツは微笑みを浮かべていた。リズは再び眼を細め、ハインツに微笑むかけてくれる。

そっと、彼女の腕がハインツの体から解かれる。ハインツは、思わず彼女の腕を掴んでいた。掴まれた腕を、リズは驚いた様子で見つめる。

「もう、行っちゃうんだね……」

 震えた声が喉から出てしまう。このままリズを行かせたくない、その思いをぐっとこらえハインツはリズの腕を静かに放した。

「行ってらっしゃい。姉さん……」

 じんわりと視界が歪む。潤んだ眼に笑みを浮かべ、ハインツは姉に餞別の言葉を送る。リズは弱々しく微笑んで、翼を小刻みに動かし始める。

 翼を大きく翻し、彼女は光り輝く空へと旅立っていった。







 



 歌が聴こえる。可憐な少女の歌声が。

 そっと、窓からウィルオーウィルプスを眺めていたミミコは、黒いネコミミを小さく動かしていた。その反動で、左ネコミミについた鈴が可憐な音をたてる。

 鈴音は、まるで歌声のメロディのようだ。

「綺麗な歌声……」

 ぽつりとミミコは呟き、窓から顔を逸らしていた。移動した視界の先には、部屋の壁に描かれた壁画が映り込む。

 義弟のソウタが、友達と描いたものだ。

 満開の桜の木下に、灰猫と白猫が仲良く寄り添っている。その2匹を取り囲むように、11匹の猫が描かれていた。

 そっとミミコはその中の1匹を見つめていた。

 ブチ柄の蒼い眼の猫を。

「義母さん……」

 そっとミミコはブチ猫を指でなぞっていた。義母であったサツキは、ブチ猫のチェンジリングだった。サツキと同じ蒼い眼を持つこの猫が、ミミコにはサツキ自身に思えてしまうのだ。

「私たちは、これでいいのかしら……」

 そっとブチ猫を撫で、ミミコは言葉を続ける。その言葉に応えるように、外のウィルオーウィルプスが美しい輝きを放った。

 思い出すのは、自分のもとにやってきた少女のことばかりだ。

 ――ハイを救いたいんです。だから、私に力を下さい!!

何度も、ミミコは少女の言葉を脳裏で反芻する。

 ――ミミコさん。いいえ、女教皇さまっ!

「チャコちゃんは、どこで私の正体に気がついたのかしらね……」

 深緑の眼を細め、ミミコは自嘲する。無垢だと思っていた少女は、全てを見透かし悟っていたのだ。自分が、大切な者のために何をすべきかを。

「義母さん、私はこれで良いのかな?」

 壁画のぶち猫にミミコは尋ねる。答えが返ってこないと分かっていても、きかずにはいられなかった。

「ソウタは、これで幸せになれるのかな?」

 震えるミミコの声は、外の波音にかき消されていく。その波音を伴奏に、美しい少女の歌声が部屋に響き続けていた。









「綺麗だね、ウィルオーウィルプス……」

 隣にいるハルに、ソウタは声をかける。小さなソウタの声に、ハルは歌うことをやめていた。

 そっとソウタは、ハルを見つめる。白く浮かび上げる桜花を背景に、彼女はソウタに微笑みかけていた。

その笑顔を見て、ソウタはハルを連れ出してよかったと改めて思った。

灰猫の桜の木の上に2人はいる。夜中に突如始まった見事なウィルオーウィルプスを目撃したソウタは、一目散にハルの屋敷へと向かっていた。

この美しい光のイリュージョンを、どうしても彼女と見たかったのだ。

幸いハルは起きていて、ソウタと一緒に屋敷を抜け出すことを快諾してくれた。ハルを横抱きしに、ソウタはこの町を一望できる円卓公園へとハルを連れてきたのだった。

そしてハルは、鮮やかに明滅するウィルオーウィルプスをスポットライトに歌を奏でた。

悲しい、鎮魂歌を。

「どうして、そんな悲しい歌ばっかりうたうの?」

 歌を奏でるハルにソウタは問いかける。

 亡くなったリズのためにハルは鎮魂歌を歌ったばかりだ。

ウィルオーウィルプスは吉兆の証と言われている。だったら、ハルはもう少し明るい歌をうたってもいい。

「ごめん、ソウタくん。歌えないの……」

 りんとネコミミの鈴を鳴らし、ハルは顔を俯かせる。

「どうして?」

「ウィルオーウィルプスの音を聴いていると、悲しくなるから……」

 悲しげなハルの眼が、空へと向けられる。

 空では、美しくウィルオーウィルプスが煌めいていた。

 

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