第4話 泡沫の残灯
(一)
「それにしても、貴方よくあの人と上手くやれるわね」
『慶さんの事ですか?』
お昼ご飯を百合さんと食べていると、彼女が不思議そうに私を見つめる。
彼女と慶さんは犬猿の仲なのだ。
「そうです慶一郎サン。なんでも以前は女癖が悪かったそうじゃないですの。鈴さん、貴方は大丈夫?」
大丈夫とはどういう事だろう。
首を傾げると、百合さんが言いにくそうに小声で続けた。
「何か、その、風紀の乱れた事をされたりとかは・・・・・」
彼女の言わんとしている事がわかってしまい、顔が熱くなる。私は急いで弁解した。
『慶さん、いつもガキに手を出すほど女に困ってないと言っていますから大丈夫じゃないでしょうか』
「それは多分、馬鹿にされてるのだと思いますわ」
百合さんに憐れんだ顔をされ、私は肩を落とす。
『きっと慶さんは、私の事を年端もいかない子供だと思っているんです』
だから百合さんが心配するような事は、絶対に起こり得ない。
安心してくださいと笑うと、彼女は確かにと頷いた 。
「傍から貴方達を見ていると、兄妹のようですものね」
兄妹・・・・・?
慶さんが私をからかったり、心配してくれるのは、私の事を妹のようだと思っているからなのだろうか。
そうだとしたら嬉しいけれど、少し複雑だ。
対等に扱って貰えない事に寂しさを感じてしまう。
会話の終わりを告げるように、予鈴が鳴る。
「ああ、もうこんな時間ですのね。では鈴さん、ごきげんよう」
優雅に礼をする百合さんと別れ、複雑な気持ちを抱えながら、私は教室へ向かった
教室に入ると、なぜだか生徒達が浮足だっている。
授業前は静かに先生を待つはずなのだが、今日はコソコソと話し合うような声が聞こえる。
午後の最初の授業は図画。
今日も、彼女がいつも通り顔を見せるのだと思っていた。
「失礼するよ」
教室の扉が勢いよく開く。
そこには下妻先生の姿はなく、学長先生である六条さんと、見たことのない、背の高い眼鏡をかけた男性が入ってきた。
「知っている者も多いと思うが、下妻先生が体調を崩してしまってね。急ではあるが、今日から下妻先生が復帰するまでの間、
六条さんに紹介されると、人懐こい笑みを浮かべ、彼は自己紹介を始めた。
「東京藝術大学を卒業し、画家として生計を立てている、三井と言います。大学時代の恩師である下妻先生からの依頼で、図画を担当する事になりました。よろしくお願いします」
深々と礼をする三井先生に、女生徒が黄色い声を上げた。
学校に、若い男性職員はほとんどいない。
物腰の柔らかい三井先生のようなタイプは、女生徒にとって憧れの存在なのかもしれない。
私は周囲の反応をぼんやりと覗いながら、静寂を求めるように窓の空を見上げた。
「おかえり、鈴」
修三さんの元に駆け寄ると、髪をくしゃくしゃと撫でられた。
「今日はどんな日だった?」
『百合さんとお昼ご飯を一緒に食べました!それと今日病欠の先生の代理でやってきた三井先生が、女生徒に大人気だったんですよ』
「ん?百合っていうと、あの一悶着あったっていう嬢ちゃんか?」
百合さんとの間にあった出来事を聞いたらしい修三さんが、意外そうに私を見た。
「鈴はお人よしだなぁ。いいように利用されてたのに、そいつと友達になるなんて」
『いいんです。今、百合さんと仲良くなれて嬉しいから』
鞄を店の奥に置き、本棚の整理に取り掛かる。定期的に整頓しないと、本が傷んでしまうのだ。
「・・・・・?」
本棚に手を伸ばすと、違和感に気が付いた。
棚に入っている本が、減っている。
いつもこのくらい本棚に空きがでると、修三さんは仕入れの旅に出るはずなのに。
『修三さん、そろそろ本の仕入れに出かけますか?』
「いや、今回はもう少し帝都にいるつもりだ」
開いた口が塞がらず、ついまじまじと修三さんを見つめてしまう。
修三さんはこの棚を常に埋めていないと、落ち着かない人なのに。
「そんなに驚くなよ。俺もいい歳だし、最近ちと無理しすぎた。ここいらで休憩しようと思ってさ」
『体調が悪いとかじゃないですよね?』
修三さんの顔を覗き込む。
特に熱っぽい様子はないけれど、油断は禁物だ。
「違う違う。体は大丈夫だよ」
そう言いながら、修三さんは腕を捲り、力こぶを作って見せた。
私の考えすぎなのだろうか?
『そうですか。あの、今日は慶さんは?』
「今日も出かけたぞ、夕飯はいらないらしい」
『最近、ずっとそうですよね』
慶さんは二週間前から、滅多に家に帰ってこなくなっていた。
時々酷く疲れた様子で帰ってきたと思うと、すぐに睡眠だけとりまた出かけてしまう。
一体どこへ出かけているのだろう。本人にその事を聞いても、はぐらかされてしまうのだ。
『修三さんは慶さんがどこに出かけているのか、知っていますか?』
「すまねぇな、俺も詳しくはわからねぇんだ」
『もしかして恋人さんのところとか?』
「あいつに限ってそれはない。慶が一人の女に執着している所なんて、想像できない」
実の息子に酷い言い方だ。そう笑うと、時計は夕飯の準備の時間を指していた。
私は修三さんに断り、食事の準備に取りかかる。
今日は、山菜の天麩羅とお吸い物にしよう。
いつも通り三人分の食事を用意しながら、私は慶さんの帰りを待っていた。
(二)
結局、夕食に慶さんが戻ってくることは無かった。
部屋に戻り、ベッドに寝転がりながら考えるのは、彼の事だ。
最後に会ったのは五日前、いったい彼は、どこで何をしているのだろうか・・・・・?
修三さんも知らないのなら、南雲堂の事で出かけているのではないだろうし、家出にしては不定期に帰ってきている。
頭を捻るが、何も思い当らない。
少し、頭を冷やそう。
私は羽織を肩に掛け、着物姿で庭へ出た。
今日の空は、星がよく見える。
目が覚めるような風を受け、もう秋なのだと感慨深くなってしまう。
あと三ヶ月もすれば、帝都に来て一年が経つ。
とても早く季節が過ぎた。きっと修三さんや慶さんと一緒に過ごしたからだろう。
一年の節目に、何かお礼が出来たらいいのだけれど・・・・・
彼らの好きなものを思い浮かべていると、一匹の猫が目の前を通り過ぎた。
不自然に数歩歩き、小さく鳴きながら蹲る。
普通ではないその姿に近づくと、猫の足からは血が流れていた。
右目に切り付けられたような跡もある。
これは、人に付けられた傷だ
警戒しているのか、猫はひときわ甲高い声を上げ、家の外に出て行ってしまう。
待って・・・・・!
駆けていく猫を追いかける為、気づいた時にはもう走り出していた。
暗い銀座の街を、猫は覚束ない足で歩いていた。
私はやっと猫に追いつくが、威嚇されてしまい傍に行くことを許されない。
途方に暮れていたその時だった。私の名前が夜の街に響いたのだ。
「鈴!」
振り返ると、久しぶりに見る彼の、慶さんの姿があった。
「お前、どうしてここにいる!」
怒鳴りつけられ、体が跳ねる。
怖い顔をして歩いてくる慶さんから距離を取るが、あっという間に追いつかれてしまった。
「しかもその恰好、襲ってくれと言ってるもんじゃねぇか。ただでさえそういう時期なのに、無用心にもほどがある」
そういう時期・・・・・?
首を傾げると、慶さんは口に出すのも嫌だと言うように、眉間に皺を寄せた。
「とにかく家に戻るぞ。説教はその後だ」
待ってください!
私の腕を取り、早足で歩きだした慶さんに力を振り絞って抵抗する。
これでは何のために家を出てきたのかわからない。
「なんだよ?」
訝しげな慶さんの腕から抜け出し、近くで蹲っている猫を指差した。
「なるほど。呆れるくらいお前らしい理由だな」
理解したくないと慶さんは深い溜息を吐いた。それでも、最期には私の言い分を聞き入れてくれる。
「そいつも手当てしてやるから、帰るぞ鈴」
南雲堂に戻ると、そのまま和室に連れて行かれた。
もう一時間は経っているだろう。それでも慶さんのお説教は終わる兆しがない。
そして私は今、勢いよく襲ってくる足の痺れと戦っている。
「鈴、この時期帝都で起きる連続殺人事件を知らねえわけじゃねぇだろ?」
『帝都連続無差別殺人事件』
その事件なら、私の田舎町にまで噂は届いていた。
三年前から一年に一度、初秋に女性一人が殺されるこの事件を「帝都連続無差別殺人事件」とそう呼ぶ。
最初の被害者は娼婦、次の被害者はカフェーの店員、そして一年前は女学校に通う生徒が被害者だ。
その犯行は残虐を極め、過去三人の被害者は同様に目を抉られ、遺体はゴミ箱に捨てられていた。
世間を震撼させているこの事件の犯人は未だ捕まっていない。
「毎年必ずこの時期に事件は起こってる。気を付けるならともかく、なんでお前は夜中外にでるんだよ。自分は大丈夫だとでも思ってるのか?」
髪をかきあげながら彼は私を睨む。
何も考えずに外へ出たのは、慶さんの言う通り軽率な行動だったかもしれない。
でも、と私の傍で毛づくろいしている猫を見る。
目に残る傷と足のケガは痛々しいが、帰ってきてすぐに手当てをしたのでとりあえず安心だ。
この子の手当てが出来たのだから、それでいいんじゃないかとも思うのだけれど。
ため息を吐くと、慶さんが私の額を指ではじいた。
「・・・・・っ!」
「お前その猫と自分の命どっちが大切なんだよ」
足が痺れていることをわかっていながら、彼は私の足を崩しにかかる。
体を動かすだけで、足だけではなく全身が痛い。
おでこと足を抑えながら抗議するが、慶さんから「足もう一度組みなおせ」と血も涙もないことを言われた。
「頼むから自衛してくれよ。夜に外に出るなんて言語道断だ」
そう言う彼の表情は苦しそうだった。
心配、してくれたのだろうか。
私はそばに置いてあるノートとペンを引き寄せた。
『慶さん、すみません』
「まったくだ」
『でも、猫を手当てしてくれて有難う御座いました』
「・・・・・あのなぁ」
なんだかまた慶さんの怒りに火が付きそうだったので、私は急いで話題を変えた。
『あの!そういえばこの猫の瞳、私と同じ瞳の色をしてますね』
「ああ、確かに・・・・・」
青い二つの瞳が、こちらを見つめる。
私の膝に身を寄せるその姿に、愛着が湧いてきてしまう。
『そうだ名前をつけましょう。青い瞳のオス猫なので青太とかどうですか?』
「驚くほど名前つける才能がないな。というかこの猫飼う気かよ」
やはり難しいだろうか。
手当てしたとはいえ、この状態の猫を外に放り出したくないのだ。
『怪我が治るまでの間だけ、このこを置いてもらえませんか?』
「親父に聞け。俺はどうでもいいよ」
すると猫が慶さんの近くにすり寄った。彼の手を小さな舌で舐めている。
どうやら慶さんが気に入ったらしい。
「なに笑ってんだよ、鈴」
『猫は人の気持ちが分かるって、本当の話かもしれないと思って』
「なんだそれ?」
『慶さんはこの猫を無理やり追い出したりしないじゃないですか。猫は人の気持ちがわかるから、優しい人に懐くんですよ』
にゃぁお、と私の言葉に返事をするように猫が鳴く。
ほら、やっぱり。
そう慶さんの顔を覗くと、彼は苦虫を噛み潰したように顔を歪めていた。
遠くを見つめ、何か考え込む姿に不安を覚える。
『慶さん?』
「もういい。馬鹿な事言ってねぇで寝ろ」
そう言いながら出て行く彼をただ見つめる。
追いかけたいのに、そうする理由が見つからなかった。
(三)
修三さんに昨日の出来事を話し終えると、怪我が治るまでの間、猫は南雲堂で面倒をみていい事になった。
「だが猫が本を破いたり、本に粗相をしたら容赦なく追い出す」
修三さんは本気だ。早急に猫に躾をしなければならない。
だが声を出さずに躾をするというのは可能なのだろうか?以心伝心は、さすがに猫が相手だと難しいだろうし。
頭を捻りながら銀座の街を歩いていると、後ろから声をかけられた。
「鈴、学校は?こんな所でなにしてんの?」
振り返ると、玄さんの八百屋で働いている龍之介君がそこにいた。
彼が住み込みで働くようになってから、もう半年になる。
最初は慣れない仕事に苦労していたみたいだけど、今では売り物の仕入れも任されているらしい。
初めて会った時よりも背が高くなり、声が変わり始めた彼は、少年から青年に変わりつつあるのかもしれない。
私は鞄からノートを取り出し、龍之介くんに知恵を求めた。
『猫の躾って声が出せなくても出来ると思う?』
「は・・・・・?なんで猫?」
事情を説明すると、龍之介くんは納得したように頷いた。
「ふぅん。じゃあ猫が悪さをしようとしたら、餌を抜きにすればいいよ。そうやっていい事と悪い事を覚えさせるんだ」
『さすが龍之介くん!』
玄さんの八百屋にも猫が居ついている。だから龍之介くんも猫の世話には慣れているのだろう。
帰ったら早速実践する為ノートに助言を書き留めると、今度は龍之介君に尋ねられた。
「そういえば最近、慶さん見ないけどどーしたの?」
『私もわからないの。どこかに出かけているのは確かなんだけど』
困りながらそう答えると、龍之介君はなぜかにやりと笑い、私を見た。
「へぇー。鈴、寂しいの?」
『うん、ご飯とか一緒に食べられないから寂しい』
慶さんは細身なのによく食べる。だから食事の作り甲斐があるのだ。
「慶さん恋人が出来たんじゃないの?。帰ってこないくらい、惚れた女が出来たんだって。だとしたら鈴は、嫉妬の一つもしないわけ?」
『もし慶さんに恋人が出来たのなら、それは良い事じゃないの?』
そう伝えると、龍之介くんは口をぽかんと開けたまま、石のように固まった。一体どうしたのだろうか?
「あのさ、まさか鈴と慶さん、同じ家に住んでて何もないわけ?」
『ご飯食べたり、筆談でだけど話したりしてるよ』
「ああ、噛み合わない!同じ家に暮らしてて、なにも起きないなんてあるわけ?」
そんな風に奇怪なものを見たような表情をしなくても。
彼の言葉の意味を掴めずにいると、龍之介くんはさらに続けた。
「オレが住んでた遊郭では、若い男女が同じ部屋に存在したら、それは関係を持つって意味だったんだよ」
『関係って・・・・・』
「だからてっきり慶さんと鈴ってそういう関係なんだと思ってたけど、違ったんだ」
私はようやく龍之介くんの言葉を理解し、顔に熱が集まってくるのを自覚した。
なんだか最近同じような事を聞かれた気がする。
『違うよ。慶さんと私の関係に名前を付けるとするなら、兄妹のような関係って言うのが近いと思う』
百合さんに言われたことを思い出し、龍之介くんに彼女の言葉をそのまま伝える。
しかし彼は首を捻り、そうかなぁと呟いた。
「妹みたいなんて思うあの人、想像出来ないんだけど。そもそも女の子を気に掛ける事自体、らしくない。鈴と慶さんって、何がきっかけでそんなに仲良くなったの?」
何が、と聞かれて思い出すのは初めて出会った時の事だ。
まともに会話をしたのはあの日。
南雲堂の土地を奪おうとしてる人がいると伝えた日だ。
事情を話すうちに、私は彼に「過去が視える」ことを話した。
そしてその日から、少しずつ慶さんに声を掛けてもらうようになったのだ。
「まぁ慶さんにとって鈴と過ごす事は、身体の関係を持つ以外の魅力があるって事なんだろうけどね」
『魅力って?』
「だって慶さん、自分にとって利益の無い事はしない主義っぽいし」
魅力・・・・・?
そんな物、自分にあるとは思えない。
容姿は人と違うし、言葉も話せない。その上奇妙な力まである。
『慶さんが魅力に思うようなもの、私には何もないと思うけど・・・・・・』
「そんなに難しい顔しないでよ・・・・・」
慶さんみたいに眉間に皺が寄っていると指摘され、私は慌てて顔を元に戻した。
「そろそろオレ、店に帰らなきゃ。今度鈴が世話してる猫に会わせてよ」
話を切り上げ足早に去っていく龍之介くんを見送るが、彼の言葉はいつまでも胸に引っかかっていた。
(四)
重い足取りで教室の扉を開くと、画材の独特な匂いが鼻についた。
今日最後の授業は「図画」。
周りの生徒達がざわざわと三井先生に注目している。
なんでも個人的に絵を習いたいという生徒もいるらしく、着任早々大人気だ。
「それではみなさん、課題の風景画に各自取り組んでください」
「先生、わからないことがあれば質問してもいいんですの?」
「ええ、もちろん。僕でよければ喜んで」
先生がにこり、と笑うと周りの生徒が一斉に歓声を上げる。
そんな中、私はじっと課題が描かれたキャンバスを見つめ、絶望的な気持ちになっていた。
通いなれた銀座の街を描いたつもりだった。しかし、目の前にはなんとも形容しがたい街が広がっている。
建物はすべて蒟蒻のような不思議な構造をしていて、草花もそう言われなければわからない姿をしている。
もういっそ絵画に関する論文を書きたい。その方が何倍も楽なのに。
三井先生に課題変更の交渉してみようかと考えていると、生徒の進捗を一通り確認し終えた彼に声をかけられた。
「進んでいますか?初野さん」
三井先生が私の絵を覗き込む。
慌ててキャンバスを手で隠すが、時すでに遅しだ。
三井先生は絵を見つめたまま固まってしまっていた。
「これは・・・・・?」
ふ、風景画です。
「この道を歩いてるお饅頭みたいなものは・・・・・?」
猫です・・・・・
慶さんのように笑い飛ばしてくれた方が気が楽かもしれない。
悪意のない感想にいたたまれなくなっていると、なんとか気を取り直した三井先生から思ってもいない提案をされた。
「初野さん、この授業の後お時間はありますか?」
私が頷くと、彼はそれならばと手を叩く。
「風景画の描き方を教えて差し上げたいのですが、いかがでしょうか?空間を掴む事が出来れば、絵はどんどん上達するはずです」
周りの生徒はもう絵に色を塗っている段階で、私だけがまだ下書きの状態なのだ。
三井先生の提案はとても有難かった。
「すみませんね、居残りなんてさせてしまって」
授業が終わり、生徒達が次々と教室から出ていく。
三井先生に残って教わりたいという生徒達もいたが、やんわりと彼は断ってくれた。
貴重な時間を補習に付き合わせてしまい恐縮していると、彼は私の瞳を見つめ、気にしないで下さいと微笑んだ。
「これが僕の仕事ですから。さぁ、早速始めましょうか」
そう言われるが、あまりに酷い状態でどこから直したらいいものかわからない。
ちらりと先生を見ると、彼は考えながら指でキャンバスをなぞった。
「まず、空と地面に線を引いてください。そこから建物や植物を書き足せばいいのです」
言われた通り描かれていた建物を消し、代わりに空と地面に線を引く。
その後建物を書き足すと、先程とは全く違う風景が浮かんできた。
完成した絵を見ると、まるで別人が描いたようだと信じられないような気持ちになる。
『有難う御座います。三井先生に教えて貰えなかったら、きっとまた補習でした』
「僕はコツを教えただけですよ、初野さんの飲み込みがいいんです。それより疲れたでしょう、休憩にしましょうか」
彼は部屋を出て、職員室からお茶を持ってきてくれた。
二人でお茶を飲んでいると、三井先生にじっと顔を見つめられる。
『あの、私の顔に何かついてますか?』
「すみません、つい見とれてしまっていました。実は私、鑑賞癖があるもので」
『かんしょうへき?』
「美しい物をずっと飽きることなく見てしまうんです。君の青い瞳と黒い髪はとても神秘的で、つい観察してしまう」
彼の言葉に私は驚いてしまった。
普段気味が悪いと逸らされるこの瞳が、神秘的?
『そんな事、初めて言われました』
「事実ですよ。あの、もし迷惑でなければ、私に初野さんの絵を描かせてもらえませんか?」
「・・・・・!」
私ですか?と顔に指を当てると、熱心に頼み込まれる。
「時間は取らせません。私のモデルになってください」
補習に付き合ってくれた先生の頼みを断る事も出来ず、日が暮れる前までなら、と私はモデルを引き受けることにした。
「その椅子に座って、背筋を伸ばして。ああ、有難う。あと手袋は外して欲しいのだけれど」
『わかりました』
落ち着いた静寂の中、紙が捲られる音と、鉛筆を走らせる音だけが教室に響く。
ふと、龍之介くんの言葉が思い浮かんだ。
『慶さんにとって鈴と過ごす事は、身体の関係を持つ以外の魅力があるって事なんだろうけどね』
考えてみても、やはり慶さんが惹かれる何かが私にあるとは思えない。
ただ慶さんは、面倒見がいいから。
傍にいてくれる理由も、案外私が不甲斐ないからというだけかもしれない。
いくら考えたところで、真実は慶さんしかわからないのだけれど。
ため息を吐き、時計を確認したその時だった。
ガタンッ
大きく音を立てながら椅子が倒れていく。
思わず三井先生を見ると、彼は倒した椅子の事など気にすることなく、その場に立ち竦んでいた。
様子がおかしい。
彼は私の瞳に目を向けたまま、ゆっくりと近づいて来た。
「・・・・!」
理屈ではない。頭の中で警鐘が鳴り出した。
逃げなくちゃ!
走りだそうと足に力を込めたその時。
「・・・・・っ」
力強く腕を引かれ、掌をそっと撫でられる。
手袋をしていない事を後悔する間もなく、瞳の奥から彼の記憶が映し出された。
バチンッ
バチンッ
次々と入れ替わっていく映像に、頭が付いていかない。
息が苦しい。
理解、しちゃいけない
早く、早く、早く、とにかくここから逃げなくちゃ・・・・・
はっと映像が途切れた瞬間、渾身の力を込めて彼に体当たりする。
ふいを付かれた彼は私の手を放し、蹲った。
今のうちに早く外へ。
走り出したその時、足がふらふらと宙に浮いているような感覚に襲われる。
眩暈がする、瞼が重い
なんでこんな時に・・・・・?
力が入らない身体を引きずるようにして、入り口の扉に手をかけた。
でも・・・・・
「ああ、まだ動けるのですね」
彼の声が、すぐ近くに聞こえる。
その平坦な声色に、ひっと喉から息が漏れた。
怖い、怖い、怖い・・・・・っ
嫌だ、私はあの場所に行きたくない
ガタガタと震えながら、扉に触れる両手に力を込める。
お願い・・・・・誰か・・・・・!
夕陽が廊下に差し込むのを目にした瞬間、私はぷつんと意識が無くなった。
(五)
一人の女性が、目を開き、やがて呼吸をしなくなる。
次の彼女は涙を流し抵抗しながら意識を失った。
そして最後に視た彼女は、何か言葉を呟いて、笑ってそれを受け入れた。
次々と場面が切り替わり、その度真っ白なキャンバスに真っ赤な鮮血が飛ぶ。
たくさん、たくさん、彼女達が生きていたと主張するようにそれは飛ぶ。
彼は彼女達に触れながら、血に塗れたキャンバスに向かい筆を走らせた。
その光景はあまりにも、異常だ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ
もう視たくないと顔に手を当て蹲る。
しかし私の感情とは反対に、再び目の奥が光った。
バチンッ
・・・・・暗い部屋。
窓もなく、扉が一つあるだけの質素な部屋を見渡す。床には無数の陶磁器で作られた人形、いわゆる「ビスクドール」や「ポーセリンドール」と呼ばれているものが乱雑に置かれていた。
独特の雰囲気を持つ部屋の奥には、硝子の箱が三つ置かれている。
特別だという様に並んで保管された硝子の箱の中には、やはり陶磁器の人形が一体ずつ保存されていた。
でも、これは・・・・・・
その顔を覗きこんだ瞬間、途端に吐き気に襲われる。
あまりにも、普通の人形とは違う。
これは「眼球だけ人間のもの」なのだ
ちぐはぐな人形達。
横を見ると、いつの間にか部屋に入っていた彼が、愛おし気に人形を抱きしめ、恍惚とした表情でなにか囁いていた。
(六)
バチンッ
真っ白な部屋、薬品の匂いがするこの部屋は保健室だろうか?
映像が途切れ、意識を取り戻すと、目の前には心配気な彼女の顔があった。
「よかった、目が覚めましたのね!美術室に貴方を探しに行ったら、いきなり私の目の前で倒れるんですもの。驚きましましたわ」
美術、室・・・・・
私は放課後、課題を教えてもらっていたはずだ。
「このまま目を覚まさなければどうしようかと思いました」
その声に、全身が冷たくなる。
寝ているベッドの横で、三井先生が私の右手をしっかりと掴んでいたのだ。
「・・・・・っ!」
反射的に彼の手を振り払う。
私の意志とは関係なく、その手は小さく震えていた。
「どうかしましたの?三井先生は貴方を心配して、ここまでついてきてくれましたのよ?」
「手を取っていた僕が失礼だったよ。女性に不躾なまねをしてしまった、すまなかったね」
私の行動を気にした様子も無く、先生はいつものように柔らかい表情を浮かべた。
それに答える余裕はない。
あれは。あの夢、は・・・・・
彼の記憶、だったのだ。
胃の中がひっくり返るような吐き気に襲われる。
震える身体を抑え、顔を伏せたその時、彼の声が聞こえた。
「鈴!」
「ノックもせずいきなり入ってくるなんて、常識が無い方ね」
「お前が急げって言ったんだろうが」
「鈴さんはさっき起きたばかりですのよ。静かにしてもらえません?」
重たい顔を上げ、力が抜けそうになった。
慶さんがいる。
多分、情けないような顔になっていたんだろう。
彼は私を見るなり怪訝そうに眉を顰め、百合さんと三井先生に頭を下げた。
「俺はこいつ連れて帰るから、そこのお嬢様とそっちの人は帰っていいぞ。手間取らせて悪かった」
そう言うと慶さんは二人をあっという間に部屋から追い出してしまう。
私達しかいなくなった部屋で、慶さんは私の右手に手袋が無いことを確認する。察したように彼の掌が頬に触れた。
「何か、視たんだろ」
その言葉を聞いたらだめだった。
怖かった、と口を動かす
本当に、怖かったのだ。
涙で息苦しくなっていると、大きな両手に体が包まれた。
「落ち着け、大丈夫だから」
慶さんが私の背中をゆっくり叩く。
子供をあやすようにゆっくり、ゆっくり、一定の速さを保ちながら優しく叩く。
その暖かさにまた涙が零れると、さらに引き寄せられ、慶さんがまた近くなった。
視たもの全てに目を背け、今だけは目の前にある彼の暖かさに身を任せた。
頭が痛くなるくらい泣いて少し落ち着くと、彼は私の様子を窺いながら切り出した。
「何があった」
彼に聞かなくてはいけない事がある。
時間をかけて文字を綴り、覚悟を決めてノートを渡した。
『慶さんの過去を視た時の女性が、事件に巻き込まれていますよね』
事件、それも殺人事件に・・・・・。
それ以上続けることを躊躇う程、慶さんの顔からは血の気が引いていた。
その表情が、答えなのだろうか。
「鈴、お前・・・・・何を視た?」
全てを漏らすことなくノートに綴る。
『これが、私が視た三井先生の記憶です』
それを読み終えた彼は、耐えるようにきつく目を閉じ、ノートを持つ手に力を込めた。
「やっと見つけた」
そう言って部屋を出て行こうとする彼の袖を、必死に掴んだ。
「鈴、離せ」
『何処に行くんですか』
「鈴」
『一緒に帰りましょう、南雲堂に』
祈るように慶さんを見ると、彼は小さな声で呟いた
「もう、お前の役目は終わったんだよ」
『どういう意味ですか』
「俺がお前に求めた役割はもう終わった。だからもう構うな」
『役割って・・・・・』
「あいつを殺した犯人の過去を視る役割。お前のその力を知った時から、俺はずっとそれを求めていた。だから俺は、お前にとって都合のいい人間でいたんだよ」
ペンを持つ手が動かなくなる。
彼の言葉の続きを聞くのが怖かった。
『慶さん』
それに応えるように、彼は袖を掴んでいる手袋をしていない私の手に触れた。
まるで、記憶を視られても構わないと言っているみたいに。
「悪いな、鈴」
バチンッ
瞳の奥が強い光に包まれる。
慶さん・・・・・!
押し寄せてくる記憶の断片を受け止めながら、届くはずのない彼の名前を叫ぶ。
光が弱まり目を開くと、慶さんの姿はもう無かった。
掌に僅かに残る慶さんの体温だけが、彼がここにいたのだと証明していた。
(七)
「そうか、そいつが・・・・・」
南雲堂に戻ると、修三さんに三井先生の事を全て話した。
きっと、修三さんにも関係がある事だ。
『教えてください。慶さんの記憶にいた少女は、誰なんですか』
黒髪で制服姿の少女。
彼らに近い人物だったはずだ。
修三さんの言葉を待っていると、彼は困ったように笑う。
「・・・・・娘なんだ」
感情を押し殺した声を聞きながら、後悔する。
どうして気がつかなかったのだろう。
彼女は慶さんに、とてもよく似ていたはずなのに。
「名前は椿。鈴より一つ年上の、オレの一人娘」
(八)
妻を早くに亡くした為、オレは慶一郎と椿を男手一つで育ててきた。その事に、誇りを持っている。
「お父さんさぁ、ちょっと休んだら?」
「おお、椿。帰ったのか」
「ただいま。この前仕入れから戻ってきたばかりでしょ、働きすぎだよ。慶にぃちゃんに店番なんて任せればいいのに」
怒ったように頬を膨らませる椿は、年を取る度妻に似てきた。
綺麗になっていく彼女を見ると、嬉しい反面、嫁に出す事を考えて切なくもなる。
我ながら贅沢な悩みだと笑っていると、椿が笑い事じゃないとむくれた。
「慶にぃちゃんは、また有琳館(ゆうりんかん)で本読んでるか世間話してるか、もしくは一威さんと飲んでるかでしょ」
「残念、どれも不正解」
椿の後ろから、慶一郎が不機嫌そうに顔を覗かせた。
どうやら買い出しに出かけていたようだ。買い物袋から野菜がはみ出している。
驚いている椿の額を指ではじきながら、慶一郎は机に野菜をこれみよがしに置いた。
「け、慶にぃちゃん」
「お前が今朝野菜の買い出しに行けって言ったんだろうが」
「あ・・・・あはは。そうだったね」
「おかえり、慶一郎」
慶一郎には、オレが本の仕入れに行っている間、店番を任せている。
将来の道がたくさんあった慶一郎を、南雲堂に留めているのは俺だ。
椿に怒られてしまうが、オレが帝都にいる時くらい、あいつを自由にさせてやりたい。罪滅ぼしにもならないが、そうせずにはいられなかった。
「行ってきまーす」
部屋に戻った十分後、再び出かけようとした椿の襟を慶一郎が掴んだ。
「ぐぇ、苦しい!何なの慶にぃちゃん!」
首が締まったんだけど、と抗議する椿を無視して、慶一郎は問い詰める。
「もう陽が暮れるってのにどこに行く気だよ」
「ちょっと頼まれごと引き受けちゃってさ」
「頼まれごとだぁ?」
よく似た二人が睨み合い、互いに目を逸らそうとしない。
どうやって二人を落ち着かせるべきかと迷っていると、慶一郎が先に痺れを切らせた。
「この時期に毎年、物騒な事件が続いてるってお前も知ってるだろ」
「なに?慶にぃちゃん心配してるわけ?」
「一応お前も女だからな。オレが用ってやつに付いていってもいいんだぞ」
慶一郎の言葉に大げさだと椿が手を振った。
「心配してくれるのは有難いけどさ、大丈夫だよ」
「どうしても今日出かけなければいけないのかい?」
今の時期の帝都は、日が暮れてから治安がいいとは言えない。
親として外に出したくないというのが本音だ。
しかし椿はすぐに戻って来ると、俺達の心配を笑った。
「絵画のモデルをやってる友達が、体調崩してさ。代わりにモデルを引き受けてくれないかって頼まれたんだよ」
遠い場所に行くわけじゃないし、暗くなる前に帰ってくるという椿に、俺達はこれ以上食い下がる事が出来なかった。
「モデルって、いかがわしいモデル?」
「ちゃんとした画家の先生のモデルだよ!制服のままでいいって話だし、頼みを引き受けたからには無責任な事は出来ないの」
「仕方がない。人通りが多い場所を歩くんだぞ、何かあったら危ないからな」
「わかってるってお父さん」
「まぁせいぜい恥かかねぇようにな」
「もう、慶兄ちゃんは意地が悪い!」
椿は慶一郎の肩を軽く叩き、それからいつものように、南雲堂の扉から出て行く。
「行ってきます!」
大きく手を振る彼女に、オレと慶一郎もつられて手を振る。
いつもの日常の、見慣れた仕草。
いつも通り、のはずだった。
その日、椿は帰ってこなかった。
オレと慶一郎は、帰ったら椿に説教だと言いながら、帝都中を探し回った。
頭によぎる最悪の想像を考えずに探し回った翌日、椿は見つかる。
上野にある、廃棄物の溜まり場に彼女は捨てられていた。
無機質な廃棄物の中に倒れている彼女の体には、無数の傷。
そして目が、抉り取られたように無くなっていた。
俺と慶一郎は声を出して嘆くことも、泣く事も出来なかった。
そうする事を忘れてしまった。
椿の葬式を終え、俺達は彼女の持ち物を処分する事に決めた。
椿が買ったばかりだと自慢していた赤い髪留めは慶一郎に、俺は椿が気に入っていた財布を形見にして、それ以外はすべて捨てた。
「多分俺達は、普通に戻りたかったんだ」
椿の事はお互い口に出さない。それが、俺達が立ち直る為に必要な事だった。
「しかし上手くいかねぇものでさ。椿が死んだ後、俺はこの場所から逃げるように本の収集に没頭した。慶一郎は、対人関係が派手になった」
どこかで椿が死んだことを認めたくない気持ちがあったのだ。
一日一日が、まるで永遠であるかのように長く感じ、檻の中にいるようだった。
表向き、気丈に振る舞う事はたやすい。
だが気が付くと考えてしまうのだ。
どうして、なぜ、誰があの子を殺した・・・・・?
犯人が憎い、殺してやりたい。何度も姿の見えない犯人を頭の中で殺した。
「そんな時に、俺達はお前と出会った。鈴がここで暮らすようになってから、俺達は変わったんだよ」
鈴を見ると、その深く青い瞳から涙が伝っていた。
不謹慎だが、それはとても綺麗なもののように感じてしまう。
『修三さんは、これからどうしますか?』
鈴の言葉に声が詰まる。
オレはこれから何をするべきか。どうすれば、椿の為になるのだろうか
『慶さんは、何をしようとしているんですか』
慶一郎。あいつの考えている事は想像がつく。その為に、ずっと準備をしていたはずだ。
『教えて下さい、修三さん』
窓に雨粒が当たる音がする。
迷いと不安を助長するように、せわしない雨音がいつまでも耳に残っていた。
(九)
「鈴、店じまいの準備を手伝ってくれ」
あれから慶さんが南雲堂に戻る事はなかった。
修三さんは事件の事、慶さんの事に触れない。
どうするべきか迷ってる、そんな風にも見えた。
疲れた表情の修三さんに休んでもらおうと思っていた矢先、鈴の音が鳴り、南雲堂の扉が開く。
「一威」
「久しぶりですね修三さん」
入り口に立っていたのは慶さんの幼馴染、
「慶一郎はいるかい?」
「あいつならここ数日帰ってきてねぇよ」
残念だったなと答える修三さんに、下柳さんは真っ直ぐ視線を向けた。
「修三さん、僕がここに来た理由、わかっていますよね?」
「さぁ、見当もつかねぇよ」
「なにか掴んだみたいじゃないですか、慶一郎は」
いつもの柔らかな雰囲気はない。
下柳さんは透き通るような声で、事実のみ伝えた。
「単刀直入に言います。今朝、軍所有の銃が一丁盗まれました。僕は慶一郎が盗んだと思ってる」
重い沈黙が店内を包む。
慶さんが、銃を盗んだ・・・・・?
理由は、考えなくてもわかってしまった。
「軍に出入りする慶一郎の姿を見た人間が、複数います。あいつが今更あそこに戻る理由は一つしかない」
「一度軍に席を置いてた慶一郎なら、簡単に拳銃くらい盗めるって言いたいわけか」
「ええ、あいつは椿ちゃんを殺害した犯人を突き止めた。だから犯人を殺すつもりでいる。違いますか?」
「止めるのか、一威」
「僕は友人を殺人犯にするつもりはない。修三さん、あいつの居場所を教えてくれ」
今ならまだ、止められる。
そう言うと下柳さんは自分の立場を捨て、修三さんに頭を下げた。
でも修三さんは・・・・・
「悪いな、一威」
何も話す事は無いと言う修三さんに、下柳さんは表情を凍らせた。
「貴方は、慶一郎に復讐させる事を望みますか」
「オレは流れに身を任せるだけさ」
『三井先生の罪を下柳さんに伝えれば、犯人を捕まえてくれるかもしれません』
下柳さんが帰った後、私は修三さんに問いかけた。
そうすれば慶さんは先生を撃たずに済む。正しく犯人を裁けるはずだと思ったのだ。
『修三さんは慶さんを止めないんですか?』
「止めるのは正しい事だと思ってるよ」
『だったらどうして』
その時、本棚が大きく揺れた。
行き場のない感情を全てぶつけたように、修三さんが壁を殴ったのだ。
「一威は正しい、でもそれだけだ。俺と慶一郎とは決定的に違うんだよ」
『違うって・・・・・?』
「俺は慶一郎の気持ちの方がわかるんだ。だからあいつを止められない、止めたくない」
修三さんは吐き出すようにそう言うと、きつく目を閉じた。
『そう、ですか』
私には、修三さんの感情を否定することが出来ない。
彼の瞳から流れる涙を見つめながら、私はただ立ちつくしていた。
(十)
膝を抱え、壁に寄りかかる。
慶さんは私の役割は終わったのだと、そう言った。
私は何もせずに、時間が過ぎるのを待つ事しか出来ないのだろうか。
もしも、と目を瞑る。
もしも、父を轢き殺した犯人が、今私の目の前に現れたら。
私は恨まずにいられるだろうか。家族を滅茶苦茶にした犯人を殺したいと、慶さんや修三さんと同じ気持ちにならないと言えるだろうか。
考えにふけっていると、にゃぁおと後ろから鳴き声がした。
足を引きずりながら、猫は私に寄り添う。
体を起こし窓の外を見ると、もう陽が落ちかかっていた。
今日が、終わってしまう。
もしかしたら、慶さんが犯人を撃つのは今日かもしれない。
私はいてもたってもいられず、修三さんへ書き置きだけ残し、外へ飛び出した。
「おや、どうしたんだい?」
誰もいない廊下を駆け抜けて、学長室の扉を叩く。
そこには六条さんがゆったりとソファーに座っていた。
『すみません、突然』
荒い息を整え、一息つく。
流れる汗を拭いながら、私はノートを開いて見せた。
「どうした、鈴ちゃん?」
『もし、父を轢き殺した犯人を私が殺したいと言ったら、六条さんはどうしますか』
突拍子もない事を言っているのはわかっている。
でもどうしても、母から離れる事を許してくれた六条さんの意見が聞きたかった。
彼だったら、私の進むべき道のヒントをくれるような、そんな気がした。
唐突な私の質問に彼はじっと考えこみ、腕を組む。
やがて沈黙を破るように、彼は断言した。
「止めるだろうね」
『止める事は、それする側の自己満足じゃないですか?』
人を殺める事はどんな理由があれ、行ってはいけない。そう、私は彼らに言えなかった。
復讐する事でしか救われない想いがある事を、何より私自身が知っているからかもしれない。
俯き顔を伏せると、六条さんは意外にも私の言葉を肯定してみせた。
「その通り、私は自己満足の為に止める。殺人を犯し捕まれば、君は世間から隔離された生活を送る事になる。私はこうして君に会うことも出来なくなる。それが嫌だから止めるんだ」
『復讐を止められることを私が望んでいなくても、止めるんですか』
「止めるよ。私が生きていく中で君が必要だからね。罪を犯して捕まって、私から離れていく君を許さない」
はっと、私は息を呑む。
朧げだが、やるべき事が視えたような気がした。
『有難う御座います、六条さん。私、行ってきます』
「君、危険な事に足をつっこんでいるんじゃないだろうね?」
その言葉に思わず背筋が伸びる。
六条さんと目を合わせられずにいると、大きなため息が聞こえてきた。
「まぁいいさ。後悔しないように行っておいで」
無茶だけはしないようにと念を押された私は、学長室を出る。
向かう先はただ一つ。
慶さんより先に彼に会わなければいけない。
煩く鳴る心臓の音を聞こえないふりをして、私はゆっくりと階段を駆け上がった。
美術室を開くと、三井先生がキャンバスを見つめていた。
よかった、まだ慶さんは彼と会っていない。「具合はどうですか?初野さん」
彼は知らない。
私が彼の犯した罪を知っているということを。
だから何もなかったような顔が出来るのだ。
「先日は驚きましたよ、突然倒れてしまうのですから」
頬に三井先生の手が伸びる。
触れられることを回避するように一歩下がると、あらかじめ用意していたノートを彼の前に掲げた。
『自首してください』
足をピタリと止め、彼はノートに書かれた文字を見つめる。
「自首、とは?」
『身に覚えがあるはずです』
睨みつけると、彼はおや?という風に首を傾けた。
誤魔化すようなその仕草に、頭に血が上っていく。
『帝都無差別殺人事件の犯人は、三井先生なんですよね』
もう逃げ場はないのだと、そう伝えたはずなのに、彼はまるで悪戯を見つけられた子供のように笑っていた。
「おかしいですね、どこでそれを知りました?」
「・・・・・!」
「そうですよ、僕が殺した」
言い訳するでもなく、簡単に罪を認めた三井先生が不気味に思えた。
『自首をして、罪を償ってください。被害者と、その家族の為にも』
「罪?」
わからないなぁと言いながら、彼は首を捻る。
そんな彼の様子に愕然としていると、隙をついたように距離を詰められた。
いけない・・・・・!
折れるような力で、肩を強く掴まれる。
「・・・・・っ」
「僕は彼女達に生を与えただけですよ」
抑揚のない彼の言葉。
生を、与えた?
どういう意味だと睨むと、彼が大きく腕を振り上げた。
頭に衝撃を受け、身体が傾いていく。
「貴方にもわかりますよ」
彼が、私の瞳をじっと見つめている。
薄れる意識の中で、彼の瞳が焼き付いて離れなかった。
(十一)
幼い頃から、ずっと彼女達と共にいた。
「ああ、今日もとても綺麗だ」
母の部屋で彼女達の髪に櫛を通す。
それが、一日の始まり。
母は、私が幼い頃に他界した。
死因は、なんだったか。心臓が弱い人だったからきっとそれが原因なのだろう。
寂しい幼少時代だったかと聞かれると、そうではない。
私には母の残骸が残っていたから、寂しいという感覚はなかった。
「今日は学校で、僕の描いた絵が認められたんだよ」
今日もまた母の部屋で、母の残した彼女達に話しかける。そうする事が私の存在理由だった。
「気味が悪いから捨ててしまえ。死んだ者の遺品をいつまで持っている気だ」
大学を卒業してすぐ、父にそう言われた時は耳を疑った。
どうして母が大切にしていた彼女たちの事を、そんな風に言えるのだろう。
ああ、そうか。
二十年という月日が父をそうさせてしまったのだ。
僕はお母さんを忘れる事など出来ないのに。
気が付くと、一面赤い絵の具が撒かれたような、笑ってしまうくらいの赤が広がっていた。
横たわる父に、何の感情もわかない。
ただ、これで母を想う人間は一人になってしまったという虚無感だけが広がった。
そんな時に出会ったのがあの女だった。
「ほら、好きな女を選べ」
「ええと僕は・・・・・」
「お前、顔がいいから女なんて選びたい放題じゃないか」
そう言われ、僕は店の中にいる女達に目を向ける。
その時、時間が止まった。
母によく似た女が、そこに居たのだ。
私は女に近づき、しばらくするとその関係性に「恋人」という名前が付いた。
でも彼女を部屋に招いた時、私はとても失望してしまったのだ。
「なぁに、この部屋」
母が残した彼女達を女に見せる。
きっと喜んでもらえると思ったのだが、女は居心地悪そうに私を見た。
「この人形の数、気味が悪いわ」
「え・・・・・」
彼女達を歓迎してくれないのだろうか。母に似たお前なら、当然受け入れてくれるはずだ。
なのになぜ・・・・・
「この数は異常よ、捨てた方がいいんじゃない?ほら、これとか」
ガシャンと一人、床に転がった。
「これも、これも、これも。みんな汚いわ、ガラクタじゃない」
ガシャンガシャンガシャンと、彼女達が落ちていく。
我慢ならなかった。
一瞬でも、この女を母のようだと思った事を後悔した。
だから、殺した。
「ああ、汚いなぁ。本当に汚い」
彼女達が見ている中で、女だったものをどうしようかと考える。
息をしなくなってしまったので、どこかに捨てなければいけない。
瞳が開いたままの女に辟易しながら、私は洗面台で汚れを落としていく。
流れる赤をぼんやり見ていると、ふと思いついた。
とても有効な女の使い方を。
「これで君たちを人形だなんて言わせない」
部屋に戻り、母が特に気に入っていた彼女を抱える。
「ごめんね、痛いよね、ごめんね」
陶器の瞳を果物ナイフで抉る。
ボロボロと彼女の目が空洞になっていく。
少しの辛抱だ。
彼女の髪を撫でた後、今度は転がっている女の瞳をこじ開け、取り出した。
たくさん液体が飛び散ってしまったので、眼球にかかったそれを丁寧に拭く。
彼女にあげる物なのだから、綺麗にしなければ。
瞳を彼女にはめ込む事は、とても神聖な儀式のようだった。
「ああ、とても・・・・・綺麗だ」
生まれ変わった彼女は、今まで見てきたどのモデルよりも美しい。
精巧な作りの彼女に、生きた瞳が入っている。
感動と、興奮が混ざり合う。
母さん、生きてるよ。
もし貴方が生きていたら、この感動を共有出来たのに。
(十二)
目が覚めると、見覚えのある部屋にいた。
暗く、窓も何もない狭い部屋。
辺り一面には、陶磁器の人形が並んでいる。
胸がざわざわと騒いだ。
まさか、ここは・・・・・
「起きたのですね」
「・・・・・!」
「失礼ながら、君を私の部屋に運ばせていただきました」
彼の声を聞いた瞬間、逃げようと立ち上がった、つもりだった。
だが手足が紐で縛られていて、逃げる事が叶わない。
「あまり逃げようとすると傷がついてしまいますよ」
それは困ると言いながら近づかれ、逃れるように身をよじる。
殺される、ここで・・・・・あの人達と同じように
頭が真っ白になる。
結局、私は何も出来なかった。
「貴方に自主しろと言われた時は、驚きましたよ」
ナイフが首元に当たる。
なにも答えられない。その顔を睨むが、彼は気にした様子なく続けた。
「まぁどうでもいいですけどね。美しい青い瞳を手に出来るんですから。どうぞ、気を楽にして下さい」
ナイフが鼻先をかすめた。
助けを呼ぶこともできない。
こんな時でも、私の声は出ないのだ。
「さようなら」
これから起きる事に耐え切れず目を閉じた。
その時だった。
ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン
「・・・・・!?」
銃声の音。
ナイフがぎりぎりのところで止まった。
「一体何ですか」
三井先生が振り向いたその時、派手に音を立てながら扉が吹き飛んだ。
扉を蹴破った人物の影が見える。
硝煙が落ち着き目を凝らすと、そこには彼が立っていた。
「邪魔するぞ」
「貴方は・・・・・?」
「んなもんどうだっていいだろ。お前、死ぬんだから」
そう言い終わらないうちに、彼は銃口を三井先生に向ける。
慶さん、だ。
しばらく見ない彼の姿がそこにあった。
「鈴・・・・・」
彼は私の顔を見るなり、目を見開く。
三井先生は、そんな慶さんを興味深そうに見つめていた。
「似ているなぁ」
部屋の一番端にある、黒髪の人形の前で足を止め、彼は思い出したように声を上げた。
硝子の箱から人形を丁寧に取り出す。
慶さんによく見えるように、三井先生はそれを持ち上げた。
「彼女に瞳をくれた女の顔と、よく似ているんですよ、君は」
「お前・・・・・」
「この瞳の持ち主はね、とても気丈な子でした。気が強く、それでいて最後まで泣きもしない。殺すのが惜しいくらいでしたよ」
「・・・・めろ」
「しかもその子、死ぬ時笑ったんですよ。珍しいでしょう?」
「やめろって言ってんだろ!」
先生の横を銃弾がかすめる。
この状況でも、三井先生は笑ったままだった。
「ああ、もしかして君はあの子の家族か何かかい?それは失礼した。あの子には、僕の家族を生かす手伝いをしてもらいました」
「その趣味のわりぃ人形が生きるだと、笑わせんな」
「酷いですよ、こんなに表情が豊かな彼女達に、そんな言い方するなんて」
彼は人形に頬擦りをする。
本当に生きているのだと、私達が間違っているのだと言うように。
「趣味がわりぃんだよ。その人形も、お前の殺し方も、何もかも」
「母が亡くなったこの時期は、特に物足りなくなるんです。だから毎年、母が愛していた彼女達に命を宿してあげる」
「さっさお前が死んで、母親の所に行けばいいだろ」
「それは困ります。素敵なフランス人形を、今から生かそうと思っているので」
「・・・・・っ」
ナイフが首元に当てられる。
冷たい感触が、死を連想させた。
「君もここで見ているといい。そうすればきっと、僕の気持ちがわかるはずだ」
全身の血の気が引いていくのがわかった。
身動きが出来ないでいると、慶さんは引き金をぐっと引く。
銃口は、先生の頭を狙っていた。
「それ以上してみろ。今すぐ撃つ」
「君が引き金を引くのと私が喉を切り裂くの、どちらが早いと思います?」
このままだと、慶さんは先生を殺してしまう。
私は喉に、ありったけの力を込めた。
「・・・っ・・・・・っう」
今、慶さんに言葉を伝えられるのなら、喉が千切れたって良い。血を吐いたっていい。
祈るように喉に力を込めた、その時だった。
「だ・・・・・め、で・・・・す・・・・・け・・・・さ・・・・・ん」
「鈴!」
「撃ったら・・・・・だめ、です」
彼は眉間に皺を寄せ、銃を構え直す。
その手は少しだけ、震えているようにも見えた。
「この状況、わかってんのかよお前」
「私は大丈夫、です・・・・から。慶さんは絶対に、撃たない・・・でください」
撃ってしまったら、私は今まで信じてきた彼に、会えなくなってしまう。
そんなのは嫌だ。
「別れの言葉は済みましたか?」
その言葉と同時に、首に鋭い痛みが走った。
「鈴!」
つぅ・・・・・と赤い線が入り、制服に血が滴る。
「教師として、貴方が話せるようになったこと、嬉しく思いますよ」
最後だというように、先生が無表情にそう告げる。
慶さんが、こちらに駆けてきてくれる。
でももう、間に合わない。
だってナイフは振りかざされているのだから・・・・・
「鈴・・・・・!」
慶さんの顔を見ることが出来ない
瞳を閉じると、真っ暗な闇が広がる。
幻灯機のように過去を映した私の瞳は、その役目を終える。
私はじっと、来るべき時を待っていた。
「まだ諦めてはだめだよ、お嬢さん」
「・・・・・っ」
パンッ
短い銃声の後、首に触れていたはずのナイフの感触が消える。
振り向くと三井先生は後ろに倒れ、その肩からは血が流れていた。
状況がまるで掴めない中、慶さんが身体の拘束を解いてくれる。
「一威」
「どうやら間に合ったようだねお嬢さん」
軍服姿の一威さんは、部屋に詰めかけた部下に指示を飛ばす。
「転がっている男をすぐに連行しろ、死んではいないだろうからね。その趣味の悪い人形達は、すべて軍へ持っていけ」
無駄な動きなく、彼らは指示通りに動いていく。
数分のうちに、部屋の中は空っぽになってしまった。
任務を完了した軍人さん達が出て行く中、一威さんだけが最後に残った。
「さて、僕も行かなくては」
「一威、お前どうしてここに」
「修三さんに感謝するのだね、慶一郎。お前を心配して出て行ったお嬢さんに気づき、彼は僕にすべて話してくれたのだから」
そう言い残し、一威さんは振り向く事無く部屋を出て行く。
ガランとした無機質な部屋に、私と慶さんが取り残された。
部屋を見回すと、改めて背筋が凍る。
ああ、ここで被害者の女性たちは殺されたのか。
私も、殺されるはずだったのだ。
部屋の温度が下がったような気がして、身震いすると慶さんが羽織を肩にかけてくれた。
「ありがとう、ございます」
彼の視線が私の掌に向けられた。
「どうしてここにいた」
「三井先生に自首を頼むつもりが、そのまま気絶させられてたんです」
「余計な事を・・・・お前には関係ないだろ」
「だって、三井先生が自主してくれれば、慶さんが彼を殺す事は無い。復讐する事はないと思ったから」
「それが余計なお世話なんだよ。お前には関係ないだろ」
「慶さん、私は・・・・・っ」
「死ぬところだったんだぞ!」
彼の怒鳴り声に肩が跳ねる。
悲しいような、苦しいような表情をしながら彼は続けた。
「俺はお前を利用してたんだよ。そんな相手に、なんでお前そこまですんだよ」
その言葉に耐えられず、私は彼の頬を叩いた。
「馬鹿なのは慶さんです」
「鈴・・・・?」
「自分の為に人を殺したら、もう殺す前の慶さんには戻れないんです。慶さんまで、罪に問われるんです。誰も同情なんてしない、隔離された世界で生きる事になるんです」
慶さんにとって迷惑な行動を、私はしたのだろう。
だけど、私には彼が必要なのだ。
「私は嫌です、慶さんと離れるのは嫌なんです」
「買いかぶりすぎだ」
「そんな事ありません。慶さんが私を家族って言ってくれた時、嬉しかった」
「だからそれは・・・・・」
「全部が全部、嘘だという訳じゃないでしょう?」
不意を突かれたように彼が言葉に詰まる。
私は嬉しくなって微笑んだ。
「図星、ですね」
「この、お人よし・・・・・」
いつか彼がしてくれたように、私は規則正しい音で彼の背中を撫でる。そうしていると、突然腕を引かれた。
「・・・・・!」
鈍い音と共に、慶さんの胸に顔を押し付けられる。
彼は私の肩に顔を埋め、ため息を吐いた。
「けい、さん?」
「・・・・・殺すつもりだった」
くぐもった声で、彼は言葉を紡ぐ。何かに耐えるように、ゆっくり声を出しているようだった。
「ええ、わかっています」
「お前の事も、利用するつもりで傍に置いていただけだ」
「・・・・・はい」
「それなのに、お前に撃つなと言われた時、戸惑いが生まれた。情なんて持つつもり、なかったのにな」
「私、慶さんは悪人になれない人だと思うんです」
慶さんは自分で気づいていないけど、優しい人だから。
否定されるかと思ったが、彼は私の言葉を受け入れた。
「お前が言うなら、そうなのかもな」
その声は震えていた。いっそ、感情を吐き出してしまえば楽になるのに
「慶さん、泣いたっていいんですよ」
「・・・・・嫌だよ」
子供じゃあるまいし、と彼は隠すように顔を埋めた。
彼を抱きしめながら、考える。
前に進む為に必要な事は何なのだろうと。
その答えは・・・・・・
「慶さん」
過去を受け入れる為には、過去思い出にするしかないのかもしれない。
私は、慶さんと視線を合わせた。
「南雲堂に、一緒に帰りましょう」
そうすれば、私達は思い出を作っていけるはずだから。
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