第3話 追想ノスタルジィ
(一)
太陽の日差しがヒリヒリと肌を焼く。
店先で水撒きをしても、何事もなかったように地面はすぐ元通り乾いてしまうのだ。
これでは埒が明かない。私は額から首筋へ流れる汗を拭いながら、店の中へ避難した。
「帰って来るの早くねぇか?水撒きしてくるって張り切ってたじゃねぇか」
慶さんの意地の悪い声に顔を逸らす。
だって仕方が無いじゃないですか。涼しくなるどころか、暑さを実感しただけなんですから。
「お前の故郷に比べれば、この帝都は地獄のような暑さだろうけどな。今から参っているようじゃ、真夏はどう乗り切るつもりだよ」
これ以上の暑さなんて想像出来ない。考えるだけで気が重い。
なんで慶さんはこの暑い中、汗一つかかず平気そうな顔をしてるんだろう。
釈然としない気持ちでいると、カランっと店の扉が開いた。
今日初めてのお客様だ。
出迎えようと振り向くと、意外な人物が、変わらない姿で笑顔を浮かべている。
「ただいま、二人とも」
黒い短髪で日焼けした肌。慶さんによく似た黒い瞳。
顔を見るのは二ヶ月ぶりだ。
私は気が付くと、彼の元へ走り出していた。
「・・・・・!」
「ただいま鈴。元気にしていたか?」
思い切り頷くと、彼に身体を持ち上げられる。
「オレがいない間の鈴の話、聞かせてくれ」
久しぶりに彼、修三さんに会えた事を喜んでいると、「感動の再会中に悪いが」と慶さんが声を上げる。
「親父、毎度言ってるが、帰ってくるなら連絡しろよ」
「それどころじゃなかったんだよ」
被っていた帽子を机に置き、修三さんは大きな袋を取り出した。
彼は子供のように瞳を輝かせながら、丁寧に今回の戦利品を見せてくれる。
「珍しい西洋料理の書物や東洋の医学書が手に入った。わざわざ長崎まで足を延ばした甲斐があるってもんだ」
ぐっと親指を立てる修三さんに、慶さんは眉をピクリと動かす。
「ところで親父、本の置き場が限られてるって事、当然わかってるよな?」
慶さんが怒りを露わにしながら店の本棚を指さす。そこには棚いっぱいに本が詰められていて、とてもじゃないが修三さんの仕入れた本、全部は入りそうにない。
しかし修三さんも、そこは譲れないみたいだ。
「狂ってんのか慶一郎。この宝の本を売らずにどうするんだよ!」
「狂ってんのはてめぇだ親父。毎度毎度、なにかに憑かれたように本を仕入れてきやがって。仕入れる量くらい考えろよ」
『落ち着いてください!とりあえずお茶でも飲みませんか?』
あぁ、懐かしい景色が戻ってきた。二人のこんなやり取りを聞くのも久しぶりだ。
懐かしい声を聴きながら、私は三人分の冷茶を用意する。
こうしてお茶を持っていくと、二人はいつも言い争いを止めてくれるのだ。
ここへ来た当初は言い争いを聞く度に動揺していたが、今ではこのやり取りにすっかり慣れてしまった。この半年で彼らとの距離が近くなった、それが嬉しいのだ。
「はぁーうまい!生き返る」
「あーあ。呑気なもんだな」
修三さんが帰ってきたので私たちは南雲堂の開店時間を遅らせることにした。
奥の部屋でお茶を飲み、窓から入ってくる風に身を任せる。
頬を緩ませながら二人の会話を聞いていると、修三さんが懐かしそうに目を細めた。
「鈴がここに来てから、また南雲堂も華やかになったな」
「・・・・・?」
「やはり女の子がいるといいね、家が明るくなる。なぁ、慶一郎」
「・・・・・そうだな」
彼の表情が一瞬、凍り付く。
どうしたのだろうか、と慶さんの肩を叩くと、彼は何でもないとすぐにいつもの表情に戻ってしまった。
「鈴との出会いは衝撃的だったな。まさに小説のような出会い方だった」
「親父が無理やり連れて来たんだろ」
ここに来た時は、こんな風に三人でお茶を飲める日が来るなんて思っていなかった。
故郷を出て、帝都に辿り着いた最初の日、私は彼らと出会った。
あの日の私は不安と戦いながら、この街を歩いていたのだ。
(二)
夏は涼しく、冬になると一面雪景色が広がる場所で、私は生まれ育った。
仏蘭西人の父は大学で語学を教えている。この地で教員をする前は帝都で教職に就いていたらしい。そしてその時、母に出会った。
父と母はとても仲が良かった。父は仕事に行く前、必ず母に接吻し、愛を囁く。 私はそんな二人を見るのが好きだったのだ。
「おとうさん、おかえりなさい!」
「鈴、ただいま。今日はどんな楽しいことがあったのか教えてくれるかい?」
父は帰ってくると必ずそう聞き、私は一日の出来事を詳細に話した。
母とお菓子を作ったこと、父の本棚にある外国の絵本を読めるようになった事。
その日に起こったすべての出来事を、父は笑顔で聞いてくれるのだ。
「きょうはね、がいこくのもじをかけるようになったの!」
「本当かい?君はお母さんに似て聡明だ」
「そうめい?」
「賢いという事さ。鈴、君は将来何になりたいんだい?」
「すず、おとうさんとおなじせんせいになりたいの!だから、いまからいっぱいおべんきょうするの」
胸を張りながらそう答える私を見て、父は困ったように笑った。
「・・・・・驚いたな、いつからこんなことを言うようになったんだい?」
「ふふ、つい最近よ。あなた、とても嬉しそうね?」
「嬉しいに決まってるさ。ああ、今日は一段と素晴らしい日だ。思わず涙が出てしまうくらいにね」
少し涙もろい父と、優しい母。私達三人の暮らしはとても穏やかだった。
幼い私はこの充分すぎるほど幸せな生活が、いつまでも続くと思っていたのだ
しかし、日常が非日常に変わるその時は、前触れもなく唐突にやってきた。
その日は、私の十五歳の誕生日だった。
「ただいま、帰ったよ」
「おかえりなさい、お父さん!わぁっ」
「今日はどんな日だったかな?鈴」
「もう、すぐに抱きしめるんだから。いつまでも子供扱いしてさ、今日で私十五歳なのに」
「愛しいおまえが生まれた日の事は今でもすぐに思い出せるよ。いくつになっても、鈴は僕たちの子供さ」
「そうじゃなくて、鈴は大人扱いして欲しいのよねぇ」
「そうだよ、もう子供じゃなくて大人なんだから!」
「それはすまない。今日からレディの扱いをするべきかな」
父は帰って来るなり部屋に戻ると、一枚の封筒を持ち、出かける準備をしていた。
「あら、出かけるの?もうすぐ夕飯なのに」
「すぐに戻るよ。この手紙を出し忘れていたのでね」
「私も一緒に行こうかな」
「郵便局に行ってくるだけさ。今日は鈴の誕生日だ、主役はゆっくりここで座っていなさい」
そう言うと、父は足早に家を出て行った。
食卓に置かれた大きな時計の針がカチリ、カチリと音を立てる。
その日はその音が酷く耳障りだった。
「ご飯、食べたいなぁ」
「お父さんが帰ってきてからね。せっかくあなたの誕生日なんだもの、みんなでお祝いしましょう」
「お父さん遅いね、郵便局混んでるのかなぁ」
お父さんが出て行って随分時間が経っていた。なにかあったのだろうか?
そんな不安を後押しするように、玄関の扉が大きく叩かれる。
思わずびくりと背筋が伸びた。
「初野さん!初野さん!」
焦っているような声に驚きながら、母が玄関を開けると、そこには父の学校に通う生徒の母親が立っていた。
「どうかされたんですか?」
「どうしたもこうしたも!先生が、あんたの旦那が事故にあったって!」
「事故・・・・・?」
「なんでも自動車に轢かれて、病院に運ばれたらしい」
「しゅ・・・・主人は大丈夫なんですよね?」
「あたしはわからない。早く病院へ行ってやんな」
母はその言葉を聞き、私を連れ父が運ばれた病院へ向かった。
突然の出来事に驚きはしたが、私は心のどこかで、父は大丈夫だと信じていた。
お父さんはきっと大丈夫だ。だってさっきまで笑って、抱きしめてくれた。誕生日をお祝いしてくれるって言ってたもの。
私はまるで現実味のないこの状況を、どこかで夢のように思っていたのかもしれない。
病院に到着し、母が父の名前を告げると、すぐに個室へ案内された。
ああ、やっぱりお父さんは無事だったんだ。この扉を開ければきっと私達に笑いかけてくれる。
「心配させないでよ。無事でよかった」
私がほっとしながらそう言うと、僕は君達の傍から簡単にいなくならないよと返される。
こんないつものやり取りが出来ると、そう思っていた。
父の顔を見るその瞬間までは。
「ジャン!」
母が、父のベッドに崩れるように倒れこむ。
「残念ですが、運ばれてきた時にはもう」
ベッドに横たわる父の顔に、身体に無数の傷がある。
静かに白いシーツに横たわって、目を閉じていた。
「お父さん・・・・・?」
「どうして、どうしてこんなっ」
母の目から涙がこぼれる。
言葉にならない声を漏らす母を落ち着かせながら、医者は歯切れ悪く答えた。
「スピードを出していた自動車に、巻き込まれたそうです」
「誰が、ジャンを・・・・・っ」
「それが、その・・・・・自動車の運転手はご主人を巻き込んだ後、逃げ出したそうで。今警察が運転手を探しているのですが」
「ジャン、ジャン、ジャン」
「・・・・・を・・・・・大変残念で・・・・・」
「きょう、は・・・・・遺体は、・・・・・」
「嘘・・・・・あああああ、・・・・・ジャン・・・・・」
ここからは何故か断片的にしか覚えていない。
どうやって家に帰ったのだろう。警察が訪ねてきたような気もするけど、何を話したのかまったく思い出せない。
豪華な夕飯がテーブルに置かれている。それを見た瞬間に、涙が止まらなかった事だけは、今でもぼんやりと覚えている。
結局、何日過ぎても事故を起こした運転手は見つからなかった。
母は、日に日にやつれていった。食事もせず、お風呂にも入らず、父の遺体の傍にいた。
「お母さん。近所の人がね、お父さんをお墓に入れた方がいいって」
「・・・・・」
「あのね、このままだとお父さん腐っちゃうんだって。そんなの、可哀想だよ」
父がいなくなってから、母は目を合わせてくれない。
「ねぇ、お母さん!」
私がどんなに泣いても、叫んでも、母は振り返らない。
でもこの日は、何かを期待したような瞳で母は私を見つめていた。
「そうだ、鈴。貴方その手袋を外して、ジャンの手を取りなさい」
「え?」
「いいから手を出しなさい!ジャンの記憶を視て、ジャンを轢き殺した奴の顔を視てよ!」
母が、私の手袋を無理やり引き下ろす。
それは私が人の記憶を視てしまわないようにと、成長する度に母が作ってくれた手袋なのに。
「殺してやる。ジャンを殺した人間を私が殺してやる」
壊れてしまったように、何度も何度も同じ言葉を繰り返す。
そんな母に圧され、私は父の冷たい手を取った。
ゆっくりと目を閉じ、流れてくるはずの映像をじっと待つ。
バチンッ
バチンッ
バチンッ
「どうして・・・・・?」
いつもならそうして、私の意思と関係なく記憶が流れてくるはずなのに、今日はただ暗い闇が広がるだけだ。
そんなはずはないと、何度も何度も繰り返し父の手を取るが、何も視えない。
信じられないような気持ちで私は瞼をゆっくり開き、父の顔を見た。
ああ、と嗚咽のような声が出る
私は、理解してしまった。
そうか。記憶は生きているから、視えるのか・・・・・
「何も、視えないよお母さん」
「視えない?どうして、どうして視えないのよ!」
「お、お父さんは生きていないから。私、生きてる人間の記憶しか視れないみた・・・・・」
最後まで言葉を続ける事は出来なかった。
頬が痛くなる。母の掌が、私の頬を叩いたのだ。
唖然としていると、母が耐え切れないように叫んだ
「そんな気味の悪い力、こんな時くらいしか役に立たないくせに・・・・・!」
「ご、ごめんなさい。ごめんねお母さん」
「謝らないでよっ!気味の悪い力があるあなたが居たから、私とジャンは帝都から出て、ここで暮らしていたのよ」
「・・・・・おかあさん」
「あんたなんていなければよかった。そうすれば、私とジャンはまだ帝都にいて、ジャンは生きていたはずなのに」
だからあんたのせいだ。あんたがジャンを殺したんだ。吐き捨てるように、母は私を睨んだ。
母は混乱してる。父がいなくなってどうしたらいいのかわからないのだ。
正気ではない、そんなのわかってる。
「私がいなければ、お父さんが亡くなる事はなかった」
あんたなんていなければよかったと叫ぶ母の声が、いつまでたっても消えてくれない。
その日を境に、私は声が出せなくなってしまった。
(三)
父が亡くなって一ヶ月。母と私の関係は、日に日にぎこちなく、おかしくなっていった。
優しく笑いかけてくれたり、美味しいご飯を作ってくれていた事がまるで幻だったかのように、母は変わってしまった。そして私も同じように、変わってしまったのだと思う。
母の前に、ご飯を置く。手際よく出来ないけれど、それでもなんとか料理の本を見ながら作った。
「鈴、食事が出来たならそう言いなさい」
声が出せないのだと首を振ると、母は苛立ったように顔を歪めた。
気まずい雰囲気に家が包まれる。
もしかしたら全て夢だったのかもしれないと、食事をしながら逃避する。
父がいたことも、母が笑いかけてくれたことも、全部優しい夢だったんじゃないか。その夢が覚めただけだ。
そう思うと、少し楽になる気がした。そんな自分が嫌だった。
無言で食事を進めていると、コンコンと玄関から控えめな音が聞こえた。
私は席を立ち玄関に向かう。
来客を確認するように扉を開くと、父と同じような年齢の、スーツ姿の男性が立っていた。
深くお辞儀をする姿に戸惑っていると、彼はゆっくりと顔を上げる。
「・・・・・?」
その顔には、涙が伝っていた。
彼は六条昌晴さん。父が帝都で暮らしていた時に出会った友人らしい。
父が亡くなった事を聞きつけ、わざわざ帝都から離れたこの場所まで来てくれたのだ。
「ジャンが亡くなったなんて、ここに来るまでは信じられなかった」
「・・・・・」
「でもここへ来て、君の顔を見てやっと実感したよ。あいつ、本当にいないんだな」
遠い目をしながら、六条さんは私の言葉を待っていた。
声を出して、お父さんの話をしたい。そう思うのに言葉が出ない。
私は近くにあったノートとペンを手に取った。
『父の為にここまで来てくださって、有難う御座います』
「ああ。ところで君はなぜ筆談を・・・・・?」
『すみません。数日前から声が出せなくなってしまいまして』
「失礼、そうだったのだね」
六条さんは話せない私を特に気にした様子なく、普通に接してくれる。私はほっと胸を撫で下ろした。
六条さんを部屋に通した後、彼は母に視線を向ける。
そして私は、六条さんに小声で耳打ちされた。
「ところで君の母君は、ずっとあの様子なのかい?」
母は六条さんが来た事を理解していないのか、それとも関心がないのか目を合わせようとしない。
食事にも手を付けず、どこか遠くを見つめていた。
『すみません。母は、父が亡くなってからずっとあの様子で』
「いや、私の事は気にしないでくれ。そうか、ジャンと
『母の事、御存じなんですか?』
「もちろん。ジャンが帝都で暮らしていた頃、あいつが彼女に恋をしている所を僕は見ていたからね。ジャンは帝都から離れてしまったが、私には定期的に近況を報告してくれていた。琴子さんとの生活の事、もちろん君の事もね」
『初めて聞きました』
そう答えると彼は話を中断し、何か考えるように口を閉ざした。
『六条さん?』
「鈴ちゃん、君は将来何になりたいんだい?」
将来の夢。それは小さい時から変わらない。
大好きな父と同じ、父が喜んでくれた私の夢。
『学校の先生になりたいです』
「そうか、それなら私の学校に来ないかい?」
『学校って・・・・・?』
「私は帝都で師範女学校の学長を務めている。そこなら、学校に通っていなかった君を入学させる事が出来る。君はジャンに勉強を教わっていて、かなり優秀なのだろう?」
六条さんの言う通り、私は父にずっと勉強を教えてもらっていた。
父亡き今、六条さんの言葉はとても有難い。
教職に就くには、どちらにせよ師範学校の卒業は必須なのだから。
けれど今、六条さんの学校に・・・・・帝都に私が行ったら母はどうなるのだろうか。
『私は、母を一人に出来ません』
気が付くと、自然にそう答えていた。
父がいなくなった事実を受け入れられない母。
私がいないと身の回りの事すべてが出来ない母を、一人になんてできない。
六条さんの申し出を断った事を、後悔していないと言ったら嘘になる。
それでも、私はこうするしかない。
「鈴ちゃん、私の知り合いに琴子さんを任せてはくれないだろうか?」
「・・・・・?」
「実は知り合いの女性教師が、今度この地域に赴任するらしくてね。住む場所を探しているのだ。君さえ良ければここに彼女を居候させて貰えないだろうか。彼女なら、琴子さんとも上手くやれるだろうから」
六条さんの言葉に、私は揺れた。
母は私の顔を見るよりも、違う環境で違う人と暮らした方がいいのかもしれないと思ったのだ。
「どうだろう。迷惑だろうか」
『いいえ。その方さえ迷惑でなければ、大歓迎です。私と一緒にいても、母は苛立つだけですし』
自分の不甲斐なさに情けなくなる。
それでもどうしようもないくらい、今は母にどう接したらいいのかわからないのだ。
「家族とは、難しいものだ。近すぎる関係ゆえに容赦がなくなる。お互いに甘えてしまうからね」
『私はこれから、どうすればいいんでしょうか』
わからないのだ、自分が今何をするのが正しいのか。
そんな不安を六条さんは読み取ったように断言した。
「君と琴子さんは、距離を置いて暮らす時間が必要だ。そうでないと、お互い傷つけあってしまうだろうからね」
『でも、母を置いていくのは無責任なような気がして』
「きっとジャンも、君達が距離を置くことに反対はしない。前に進む為に必要な事だよと言うだろう」
ああ、そうか・・・・・と私は彼の言葉をゆっくり受け入れた。
悲しいし、辛いけど、そうしなければきっと今を乗り切れないのだろう。
それならば、私のするべき事は一つしかない。
『六条さん、私を学校に通わせて下さい。お願いします』
六条さんの好意に甘え、頭を下げると彼は喜んでくれた。
「もちろん、喜んで歓迎するよ」
『有難う御座います。あの、六条さんはどうして、私に親身になってくれるんですか』
こんな風に世話をしてくれるのは、六条さんが父の友人だからだろうか?
彼は帰り支度をしていた手を止め、鞄から一通の手紙を取り出した。
「彼が亡くなった日の消印で、私に手紙が届いたんだ」
私は六条さんから手紙を受け取り、父の筆跡を指で辿る。
『愛しい娘が今日十五歳になった。六条、僕は彼女の教師になりたいという夢を叶えてやりたい。近いうち、彼女の進路について相談させてくれ』
これは私の勝手なんだと、六条さんは続ける。
「僕は、彼の最後の言葉を聞きたかった。それだけだ」
私は最後まで六条さんの言葉を聞き取れなかった。
お父さん、お父さん・・・・・!
何度も何度も父の事を呼んだ。声にはならなかったけど、それでも父の名前を叫んだ。
感情が昂ぶり、頭がぐしゃぐしゃになる。
どうして、ここにお父さんはいないの。お父さんに抱きしめられながら、ありがとうって、言いたいのに。
それなのに、どうして・・・・・
やるせなくて、でもどうしようもなく愛おしい気持ちが溢れた。
ぽたぽたと手紙に落ちる雫を見つめ、強く思う。
教師になろう。お父さんみたいな、優しい教師になりたい。
そうしたら、お母さんともう一度暮らせるだろうか。もう一度、お父さんの話を一緒に出来るだろうか。
(三)
電車に揺られ、一日かけて到着した銀座は、まるで異国のようだった。
道は整備され、電灯が街を彩る。
道行く人々はなんだかモダンな装いをしていて、気後れしてしまう。
しばらくして、六条さんから手紙が届いた。
入学手続きをする為、一月には帝都に来るように。そう書かれてあった。
私は六条さんの知り合いである女性に母を頼み、故郷を離れたのだ。
母は最後まで私と目を合わせてくれなかった。会話らしい会話もできず、故郷を離れてしまった事が心残りだ。
でも今は、目の前の事に集中しなければならない。
帝都に到着したら、まず学校を訪ねるようにと手紙には書かれていた。
地図を広げ、現在地を確認すると、ここからは路面電車を使った方が速く着きそうだ。
それにしても、道に線路が引かれているというのは不思議な感じがする。
急いで電車に乗り込むと、チンチンとベルが音を立て、電車が動き出した。
車内は所々席が空いていた。
運転席に近い椅子に座り、周りを観察していると、落ち着かない気持ちになる。
どう考えても、私は今目立っている気がする。
パーティに行くようなドレスを着ている人なんて、窓の外を見ても私以外いないのだ。
どこかに身を隠したいくらい恥ずかしい。
こんな恰好をしている理由があるんです!と聞かれてもいないのに言い回りたくなる。
帝都という場所は毎夜毎夜、宴が開催されていて、街中の人は常にドレス姿で歩いているのだと父から聞いた事があった。
だから一張羅のドレスを着て上京してきたのに。
どうやらあれは父の冗談だったらしい。
どうしようかと車内を見渡すと、真横に座っている二人組が目に入る。
帽子を被った着物姿のおじさんと、所々ほつれたような洋服を着ている若い男性。
おじさんが寝ている横から、若い男性の手が伸びていた。
その手が、おじさんのポケットから財布を抜き取る。
あれは、もしかして・・・・・
唖然としていると、若い男性と目が合ってしまう。
「ちっ見てんじゃねぇよ!」
彼は電車が減速したと同時に、外へ飛び降りた。
待って・・・・・!
私は電車賃を急いで支払い、すぐに彼の後を追う。
「なっなんでついてくんだよ!」
あなたがお財布を盗んだからです!そう叫びたかった。
走っていると、ドレスの裾がすごく邪魔だ。
「しつこいな!」
彼が突然立ち止まり、振り向きながら私を見据える。
その視線を受けながら、私はじりじりと彼に近づく。
盗んだお財布、返してください。
そう主張するように、私は彼の前に右手を差し出す。
睨み合う状態がどれらい続いただろう。
ドレス姿の私と彼との間に流れる不穏な空気を妙に思ったのか、周りにはどんどん人が集まってきた。
「くっそ・・・・・!」
その様子を見た彼は、驚いたように肩を強張らせる。
集まってきた人の中に、警察官がいたのだ。
彼は名残惜しそうに、盗んだ財布を私に向かって投げつけた。
「しつこいんだよ!」
彼が雑踏の中に消えていく。
あまりの素早さに気を取られてしまうが、手の中にあるお財布を見てはっとした。
このお財布を、持ち主に返さなければ。
来た道を戻ろうと足を踏み出した時、私は気付いてしまった。
ここ、どこだろう・・・・・?
夢中で走ってきたせいで、現在地がわからない。
私は荷物の中に入っていたノートを取り出し、夢中でペンを走らせた。
『道に迷ってしまったのですが、ここはどこでしょうか?』
ノートを道行く人に見せるも、私の顔を見ると皆、怪訝な顔をして通り過ぎて行ってしまう。
外国人を見慣れているはずの帝都の人にも故郷の人達と同じような反応をされ落ち込むが、今は落ち込んでいる場合ではない。
まさに万事休す、だ。
一体どうすればいいのかと途方に暮れていると、後ろから呼びかけられた。
「おーい、お嬢さん!おーい」
振り返ると、電車でお財布を盗まれたおじさんがそこにいた。
「おお、君だ君!やっと追いついた」
「・・・・・!」
「君、オレの財布を盗んだ奴を追いかけてくれたんだって?」
話を聞くと、おじさんは乗り合わせていた乗客に一部始終を聞き、スリを追いかけてきたらしい。
額には汗が流れている。必死に走ってきたのだろう。
私がおじさんにお財布を返すと、彼は驚いたように目を瞬いた。
「君、取り返してくれたのかい?」
彼は心配気に眉を寄せる。
「怪我などしていないか?無茶させたな」
大丈夫です、と頷くと、彼はようやく肩の力を抜いた。
「実はこの財布は中身よりも財布そのものが大切でね。取り返してくれた君には本当に感謝してる」
頭を深々と下げられ恐縮していると、彼はお礼をさせてくれと私の手を取った。
手袋越しだが手に触れられ、緊張しているうちに、彼はそのまま歩き出したのだった。
(四)
連れられてきた先は「南雲堂」と書かれた大きな本屋さんだった。
足を踏み入れると右も左も本、本、本。
雑多に本が積み上げられている。
こんなに大きな本屋さんは見た事がなくて、思わず私は店内を見回す。すると、一つの棚に色々な本が混在している事に気づいた。
かろうじて洋書と和書には分けられているが、本棚には婦人雑誌と学術書が同じ棚に並べられたりしている。
これは本を選ぶ時、宝探しをしているような気分になるだろうな。
魅力的な本の数々に夢中になっていると、おじさんが店の奥にある小さな部屋に案内してくれる。
「オレはここで店を営んでる、南雲修三だ。嬢ちゃんには世話になったからな。礼だ、どんどん食べてくれ!」
修三さんはそう言って緑茶とお饅頭を勧めてくれた。
有難くお饅頭を一口頂くと、ふんわりと口の中に甘さが広がり、疲れが取れた気がした。
「それにしても嬢ちゃん、すごい格好だなあ。これからあれか?鹿鳴館あたりで舞踏会か?」
「・・・・・!」
すっかり自分の恰好を忘れていた。
誤解だと手を振ると、修三さんは私の青い瞳を覗き込みながら、不思議そうに首を傾げる。
「嬢ちゃん、さっきから一言もしゃべらねぇが、日本語が話せねぇのか?」
『私、声が出せないんです』
筆談に会話を切り替えると、修三さんは合点がいったように頷いた。
「気づかなくて悪かった」
『すみません・・・・・』
「謝る事はねぇよ。ところで嬢ちゃん、あんたどこから来た?ここらへんじゃ見ない顔だな」
『東北から、女学校に通う為に帝都に来ました。今日初めて来たんです』
「ほぉー、そりゃすげぇな。頭いいのか、お嬢ちゃん」
それはいいことを聞いたと、修三さんは店の洋書を一冊手に取り、私に差し出した。
『白雪姫、ですか』
「お前さん読めんのか!これ、何語で書かれてんだ?」
『父が外国語の教師だったので。これは
「独逸!ほぉ・・・・・実はこれ、商人から買い取ったもんでよ。買い取ったはいいがまるっきり読めなくてなぁ。一体どんな話なんだ?」
好奇心が止まらない、という様子の修三さんに尋ねられ、返答に困ってしまう。
『あんまり気持ちのいいお話ではないのですが』
「いいっていいって!聞かせてくれや」
そこまで言うなら、と私は物語を思い出す。始まりはおなじみのこの言葉からだ。
『昔、あるところに美しい少女がおりました。その少女は年を重ねるごとに美しくなっていきます。しかしある時、国中で一番の美貌を持つ少女に嫉妬したお妃様が、少女に毒林檎を食べさせたのです。お妃様が国で一番美しい女性となる為に』
「ど、毒林檎。装丁の割にはえげつねぇ話だな」
修三さんがうわぁと本をめくる。しかし、本番はここからだ。
『毒林檎を食べた少女は死んでしまいます。しかし、少女を探しにやってきた王子様の接吻で、再び彼女は目を覚ますのです。そして』
「そして?」
『少女と王子は結ばれます。少女は王子との結婚式にお妃様を招き、お妃様に一度履いたら一生脱げない焼けた靴を履かせる。そして死ぬまで踊り続けさせるのです』
「・・・・・!」
ぼとっと修三さんは食べていたお饅頭を落とした。
その気持ちはよくわかる。
『これがシュネーヴィトヒェン。白雪姫のお話です』
装丁とは全く印象の違うお話で、私も初めてこの話を読んだ日は、眠ることが出来なかった。
「おっかねぇ話だな・・・・・!」
修三さんが右手をガタガタと震わせている。大丈夫だろうかと心配していると、後ろから若い男性の声が聞こえてきた。
「勝手に店閉めてんじゃねぇよ親父」
「うぉ!お、驚かせんなよ!」
「ん、誰だこいつ」
藍色の着物を着流し、長い黒髪を赤い紐で束ねた男性が、部屋の入り口に立っている。
黒い切れ長の瞳を私に向け、怪訝そうにしていた。
「親父、連れ込み?一威呼ぼうか?」
「犯罪者扱いは止めろ」
「犯罪者にされたくなきゃ説明して欲しいんだけど」
腰を下ろしお茶を飲む彼の横顔は、修三さんと少し似ている。
もしかしたら彼は・・・・・
「ああ、お嬢さんすまねぇな。こいつはオレの息子、慶一郎だ。慶一郎、このお嬢さんはオレの恩人だ」
「恩人?」
修三さんはそう言うと、今日の出来事を慶一郎さんに説明した。
修三さんは浅草へ知人に会いに行こうとしていた時、スリにあったらしい。
「不用心にも程があるんじゃねぇの?」
「大事にはならなかったんだ、いいじゃねぇか。お嬢さんのおかげでな」
修三さんが「ありがとう」と言ってくれるので、照れてしまう。
うまく修三さんの顔を見る事が出来ず、視線を彷徨わせていると、壁に掛った時計が目に入る。
その針は四時を指していた。
長居しすぎてしまったかもしれない。
『すみません、私そろそろ行かないと』
「お前さん今日帝都に来たばかりだろう。どこに行く気だ?あと泊まる所なんかはあるのか?」
『泊まる所はまだ決めてませんが、学校に挨拶をしに行かないと』
「決まってないって。じゃあ今日はどうすんだ?」
『安い宿でも探そうかなと』
そう伝えると、途端に修三さんが目を開く。そんなに変な事を言っただろうか。
「ぶ、物騒にも程があるぞ」
「・・・・・?」
どういうことだろう。首を傾げると、田舎から出てきたんじゃわからねぇか、と修三さんは続けた。
「安い宿ってのは扉の鍵がかからない事をいいことに、不貞を働く輩も多い。お嬢ちゃんみてぇな年頃の娘が泊まるには不向きだ」
『そ、そうなんですね・・・・・』
宿と言うなら防犯はしっかりしていると思ってた。どうやら帝都という場所は、故郷とは勝手が違うらしい。
しかしそうなると困った。手持ちがそれほどあるわけではない。あまり値がはる宿には泊まれないのだ。
最悪野宿を覚悟したその時。修三さんがオレに任せろと立ち上がった。
「お嬢ちゃんさえ良ければ、うちに下宿すればいい」
『下宿、ですか?』
「おい、親父」
「丁度この店の裏に、オレ達が生活している家がある。部屋が一つ空いてるから、お嬢ちゃんはそこを使ってくれ」
『そんな、私の事なら気にしないでください』
「今日の恩を返させてくれよ。部屋なら余ってる、お嬢ちゃんが使ってくれないともったいないだろ?」
『でも・・・・・』
「何を勝手な。年頃の娘が野郎二人と居候するなんてどうかしてる」
「手でも出すのか?慶一郎」
「出さねぇよこんなガキに」
じろり、と慶一郎さんに睨まれる。
その視線にたじろいでいると、修三さんが提案を続けた。
「お嬢さんは、こんなじじいと暮らすのは嫌か?」
『違います』
嫌なわけではない。すごく有難いけれど、申し訳ないのだ。
私が首を横に振ると、彼はそうか、と言って笑った。
「気が引けるって言うんなら、家事を手伝ってもらえると助かる。なんせ男所帯だ。最近ろくなものを食べてねぇ」
それで貸し借り無しってことでどうだ?と気遣ってくれる修三さんの優しさが、とても嬉しかった。
『本当に、いいんですか?』
「ああ、賑やか方がオレは嬉しいからな」
賑やかな生活。そんな生活はしばらくこないだろうと、私は諦めていた。
もう一度、賑やかで温かい暮らしができるのだろうか・・・・・
気が付いたら、私は修三さんの言葉に頷いていた。
(五)
「この味噌汁うまいなぁ、慶一郎」
「味が薄い」
「小姑かお前。んなこと言ってそれ五杯目だぞ。行動と言動が一致してねぇよ」
「朝だから腹減ってんだよ。食えりゃなんでもいい」
慶一郎さんがあっという間にもう一杯、と味噌汁をおかわりする。
一体その細い体のどこに入っているんだろう。見ていると、こちらがお腹いっぱいになってしまうような食欲に、毎朝の事だが驚いてしまう。
「悪いな鈴。こいつの言葉は真に受けないでくれ」
申し訳ないと言う修三さんに、私は首を横に振った。
二人に美味しいと言ってもらえるような食事を作れるよう頑張ろう。夜にお味噌汁を作る時には、だしを濃く取った方がいいかもしれない
そう反省しながら私も一口お味噌汁を飲む。
慶一郎さんは、きっと私がここに住むことに反対なのだろう。
一週間南雲堂で暮らしていて、それを痛いくらい実感している。
慶一郎さんとは食事こそ同じ時間に食べているが、それ以外では目も合わせてもらえない。
話をしようと何度か試みたが、忙しいからと断られてしまっているのが現状だ。
なんでも、修三さんはふらりと南雲堂を出て、日本各地を本の収集の為に飛び回る事があるらしい。そうなれば慶一郎さんと二人でここに住む事になる。だから今のうちに、彼と交流を深めておきたいのだけれど、上手くいかないものだ。
慶一郎さんと話すきっかけを探していると、一つの案が思い浮かんだ。
私はさっそく食事の後、修三さんに思い切って聞いてみることにする。
『修三さん、慶一郎さんの好きな食べ物を教えてもらえませんか?』
「どうした急に?」
『慶一郎さんの好きなものを作れば、お話しする機会が増えるかなと思って』
「ちょっと待て、お前あいつとまだ話もしてねぇの?」
『はい。慶一郎さん、忙しいみたいで』
彼に避けられているとは言えず、誤魔化してしまう。
するとしょうがねぇなぁ、と修三さんは呆れながらも、慶一郎さんの好物を教えてくれた。
「あいつ、南瓜の煮付けが好物だぞ。甘く煮たやつ」
『南瓜ですか!お店のお掃除が終わったら、玄さんの八百屋さんに行ってきます』
「おお、そうしろ。・・・・なぁ、鈴」
修三さんは少し迷ったように、口を開いた。
「慶一郎は口が悪いし愛想もねぇ。だが悪い奴じゃねぇんだ。親の欲目かもしれねぇけどさ。今はちっと荒れてるが、本当は面倒見のいい男なんだよ」
『慶一郎さんを悪い人だなんて、一度も思った事ありませんよ?』
修三さんが悲しそうな顔をするので、私は彼に伝わるようにペンを走らせる
『だって私、慶一郎さんから一度だってここを出て行けと言われていません。本当は私が居候することに賛成していないはずなのに』
慶一郎さんが出て行けと言わないのは、きっと修三さんの意思を尊重しているからだ。
そんな人を悪い人だなんて思うはずがない。
『だからそんな顔しないで下さい』
「有難う、鈴。お前がいい子だってことを、早く慶一郎は認めちまえばいいのにな」
髪をくしゃくしゃに掻き回される。ふと見上げると、修三さんに笑顔が戻っていた。
修三さんの為にも、私は慶一郎さんときちんと話をしよう。私はそう決意を新たにした。
お店の掃除を終え、私は修三さんに紹介してもらった八百屋さんを訪ねる。
八百屋の主人である玄さんは、私を見るなり挨拶をしてくれ、売り物の中でとびきり質のいい南瓜を渡してくれた。
「あとこれ、おまけだ。売り物にしちゃ見栄えが悪いもんで店頭には出せないが、食べる分には問題ねぇよ」
そう言いながら胡瓜もおまけしてくれる。
もらった胡瓜は漬物にしよう。
夕飯の品が一つ増えたなと、軽い足取りで銀座の街を歩いていく。
大きな百貨店やカフェーが並び、モダンな服装に身を包んだ人々が往来するこの銀座。
私は自分がこの場所に住んでいると、未だに実感出来ずにいる。
この暮しに慣れる日は来るのだろうか。そんな事を考えながら歩いていると、聞きなれた声が耳に届いた。
振り向くとそこには・・・・・
「もぅ、聞いてるの?」
「いや、全然」
「相変わらずつれないんだから。まぁ、そこがいいんだけどね」
「そりゃどうも」
体の線がはっきりと見える服装をした女性が、彼の手に自分の指を絡ませている。
そしてそっと寄り添うように身体を寄せた。
「ねぇ、時間があるなら待合にいきましょうよ」
「気分じゃねぇ。好きだね、お前も」
「んもう、誘うのも慶一郎さんだからに決まってるじゃない」
「よく言うよ」
私は思わず近くの路地に隠れて様子を窺う。
あの人は、慶一郎さんの恋人だろうか?
考えるまでもない、きっとそうなのだろう。慶一郎さん、今日は一日彼女と過ごすのだろうか。
ふと、手に持っている野菜が目に入る。
今日の献立を考え直した方がいいのかもしれない。そう思案していると、慶一郎さんはあっという間に女性を置いて、立ち去ってしまった。
「ちょっちょっとぉ!慶一郎さん!」
女性の声だけが、銀座に響く。
どうしたんだろう・・・・・?
再び大通りに戻り、慶一郎さんを探すが見当たらない。
不思議に思いながら南雲堂に戻ろうとしたその時、先程慶一郎さんと一緒にいた女性は別の男性となにやら話していた。
「まったくもう、自分勝手な男!」
長い髪をかき上げながら、彼女は男性を睨みつける。
後から現れたのは派手な装飾品を身に着けた、慶一郎さんとは違う風貌の男性だった。
「顔だけ良くてもあれじゃあだめね。腹が立つったら」
「お前があの土地を手に入れるまでの辛抱じゃねぇか」
「まぁ、ねぇ。あの土地はあんなしけた本屋を営むよりも、よっぽどいい使い道があるわ」
「それであの男は落とせそうなのか?」
「任せなさいよ。男なんて一度連れ込んでしまえばこっちのもの。すぐに騙せるわ、そうでしょう?」
「悪い女だねぇ」
この街に不似合な笑い声が響いている。
私は、その場から動けなくなった。
あの男とは慶一郎さんの事だろうか。
この二人は南雲堂の土地を狙っている?
二人の会話を聞く限り、そういうことなのだろう。
でも、と疑問が次々と頭の中に浮かぶ
どうして彼女達は南雲堂を手に入れたいのだろう。慶一郎さんをなぜ騙すというのだろう。
動揺する私を置いて、彼女達はどこかに移動するようだ。
このまま見失うわけにはいかない。
私は夢中で手袋をはずし、ハンカチを握りしめながら彼女達を追いかけた。
「なに?」
二人に追いつき、女性の肩を叩く。彼女は驚いたような顔で私を見た。
「知り合いか?」
「知らないわよ。外人の知り合いなんていないわ」
そう言う彼女に、私はハンカチを差し出した。
なるべく自然に。怪しまれないように。
「なに、それ?」
何も知らない彼女はハンカチへ手を伸ばす。その手がハンカチに触れた瞬間、私はそっと、素手で彼女に触れた。
閉じた目の奥で映像が映し出される。
バチンッ
バチンッ
短い断片的な映像が続く。
「・・・・・なんなのこの子?ハンカチならあたし、落としてないわよ。そんな貧乏くさいハンカチを私が持ってるわけないじゃない」
不可解そうに私を見つめる女性の視線で、はっと意識が戻る。
私は慌てて頭を下げ、急いでその場を駆けだした。
早く。早く慶一郎さんに知らせなければ。
頬に痛いくらい風が切りつける。
私は夢中で彼を追いかけた。
「どうしたんだ鈴?」
息を切らしながら南雲堂に戻ると、修三さんが駆け寄ってきてくれる。
私は震える腕で、何とかノートを取り出した。
『慶一郎さん帰ってきていますか?』
「いや、俺が銀座にいる時はあいつ店番しないからな。どうせいつもの所にでも行ってんだろうけど、それがどうした?」
『いつもの所って何処ですか?』
「
『その場所を教えてもらえませんか?』
慶一郎さんと早く話をしなければ。気持ちが焦り、思わず修三さんに詰め寄ると、彼は何か考えるように呻いた。
「でもあいつ、一人の時間を邪魔されるの嫌いなんだよ。突然鈴が来たらなんて言われるか・・・・・」
修三さんの言葉に、不機嫌そうな慶一郎さんの顔が浮かぶ。
ただでさえ迷惑がられているのに、さらに好感度を下げに行くなんて自殺行為だろう。
それでも、と覚悟を決める。
『慶一郎さんにどうしても今、伝えたい事があるんです。お願いします、その喫茶店の場所を教えてください』
私は頭を深く下げ、修三さんの返事を待つ。
ここで引き下がるわけにはいかないのだ。
「しょうがねぇなぁ」
修三さんは諦めたようにそう言いながら、私からノートとペンを取り上げる。そして喫茶店までの地図を詳細に描いてくれた。
「慶一郎になんか言われたら、我慢せずに俺に言うんだぞ」
これも持っていけ、と大量の紙束が投げられた。
「・・・・・!」
「こんだけありゃ、会話もできるだろ」
『はい、行ってきます!』
修三さんには、いくら感謝しても足りない。
私は紙束を抱え、有琳館へ向かって走りだした。
(六)
修三さんの地図を見ながら辿り着いた場所は、銀座の表通りから外れた路地の中にあった。
『有琳館』と木で書かれた看板が無ければ、きっと通り過ぎてしまっていただろう。
蔦が絡まり、壁も所々汚れた廃墟のようなその建物と、修三さんの地図を交互に見る。
どうやらここで間違いないらしい。
思い切って扉を開くと、カランとベルの音が店内に響いた。
足を踏み入れると、店員さんらしい初老の男性と一人のお客さんが目に入る。
いた!
「げ・・・・・」
私が近づこうとする前に彼は振り向き、不快そうに眉を顰め、再び顔を元の位置に戻した。
どうやら私を見なかった事にしたらしい。
覚悟していた事だ。それよりもお客さんが慶一郎さんしかいない事を好都合だと思おう。
意を決し、私は彼の正面に座りノートを広げて見せた。
『こんにちは、慶一郎さん。私に少し慶一郎さんの時間を貰えないでしょうか?』
お父さんの言葉を思い出す。
「母さんをお茶に誘う時は必ず、貴方の時間を少し私にもらえないでしょうか?と言って誘ったものだ」
「紳士的にそう誘われると断りにくいのよ。この人なら付いていってもいいかしら?と思ってしまうしね」
「鈴もそう言って誘われる日が来るのかなぁ」
「お父さん、気が早すぎるよ」
そう、その時は思わなかったのだ。まさか私自身がお父さん直伝の誘い文句を使う時が来るなんて。
「丁重にお断りするね」
普通の誘い方では慶一郎さんに通用しない。そう思って勇気を出して言ってみたものの、きっぱりと断られた。
こうも潔く断られると、とっておきの誘い文句だったのにと恨み言の一つでも言いたくなってしまう。
慶一郎さんはそんな私をよそに立ちあがり、帰り支度を始めた。
ちょっと待ってください、と思わず彼の腕を掴む。しかしこの状態だとノートに文字が書けない事に気が付いた。
「・・・・・なに?」
どうしようかと慌てていると、彼は大げさにため息を吐く。
「お前、俺に好かれてるとは思ってないよな?」
思わず素直に頷くと、慶一郎さんがだったら、と続ける。
「なんでこんな所まで来るんだよ。俺はお前の顔も見たくねぇの、わかる?」
面と向かって拒絶されるのは慣れている。
私は慶一郎さんの腕に力を入れ直した。
「あの家は親父の物だ、他人を住まわせることには何も言わねぇ。ただ俺は、お前に関わる気ないから」
それは、わかっている。
でも慶一郎さんがいくら私に近づいて欲しくなくても、そうしないといけない理由があるのだ。
「わかったならその手話せ・・・・・ってなに」
確かに、慶一郎さんにとって私は迷惑な存在なのだと思う。
でも私は知ってしまったから、当事者である彼に伝えなくてはいけないのだ。
『南雲堂を、奪おうとしている人がいます』
「嘘ならもっとましな嘘を吐けよ」
『嘘じゃないです。慶一郎さんとお昼に一緒にいた女の人。あの人が南雲堂の土地を手に入れて、自分の店を開こうとしている』
慶一郎さんが、私を睨む。
嘘か本当か、真実を見極めるような視線を、正面から受け止めた。
沈黙が続き、先にそれを破ったのは彼だった。
「・・・・・説明しろ」
帰り支度を止め、彼はもう一度席に着く。
「お前は何を知ってる?」
『私、玄さんの八百屋さんで買い物をした後、百貨店近くで慶一郎さんと慶一郎さんの恋人さんを見かけたんです』
「別にあんなの恋人じゃねぇけど」
恋人じゃないのにあんなに密着していたのだろうか。
不可解に思っていると、慶一郎さんにいいから続けろと急かされた。
「で、それがどうしたんだよ」
気を取り直し、彼が女性と別れた後の話を詳細に伝える。
『彼女は慶一郎さんが去った後に現れた男性と、貴方を落として南雲堂の土地を自分たちの物にすると言っていた』
「ずいぶん安く見られたもんだな」
自嘲気味な笑みを浮かべながら、慶一郎さんはカップに残っていた珈琲を飲み干した。
「俺を身体で落として、南雲堂に入り込むつもりか。あの土地は銀座の一等地、欲しがる奴は多いが」
でも、と慶一郎さんは続ける。
「あの程度の女が俺を落とそうなんざ、百年早えんだよ」
まるで活動写真に出てくる俳優さんのようだと思っていると、慶一郎さんが腹立たし気に煙を吐き出した。
「このままあの女と会わなけりゃ万事解決する話だろうが、それだけじゃ気が収まらねぇな。売られた喧嘩は買わないと」
子供じゃないんですから、とノートに書きたい衝動を、必死で抑える。
そんな私の心情を知ってか知らずか、慶一郎さんは独り言のように呟いた。
「せめてその女が詐欺の常習でもあれば、一威あたりに任せられるんだが・・・・・」
『彼女、慶一郎さんの他にも男性を騙して土地やお金を奪っていますよ。あの人は男性を騙して生計を立てています』
複数の男性と関係を持ち、金品や土地を奪っている彼女を、私は視たのだ。
南雲堂が狙われている事を伝えるのに精一杯だったからか、今さら頭の隅に置いていた事を思い出す。
彼女が金品を奪い、質屋に売り飛ばす光景。
土地の契約書を貰い、高額で売り飛ばす様子。
生々しい男女の営みの上に、それら全てが成り立っていた。
映像が脳裏に浮かび、吐き気がする。
「顔色悪い」
慶さんの言葉に大丈夫だと、運ばれてきた水を飲み干す。
冷たい水が喉を通り、少しすっきりした。
話を続ける為に再びペンを持つと、遮るように慶一郎さんに問われる。
「お前、その女の仲間だったりするわけ。立ち聞きにしてはそいつの事を知りすぎてる。詐欺の内容なんざ銀座の往来で立ち話出来るもんじゃねぇだろ」
『違います!』
「じゃあどうしてそこまで事情を知っている?」
嘘を吐くことは許さない、と彼は体を乗り出し私の肩を掴む。
容赦のない力を込められ、逃げられそうにもない。
私は覚悟を決め、打ち明ける事にした。
『私はその女性と仲間なんかじゃありません。信じて貰えないかもしれませんが、事情を知っているのは、彼女の過去を視たからです』
「・・・・・はぁ?」
『私は素手で人の肌に触れると、その人の過去の記憶が視える。彼女の手に触れた時視えた映像が、男性と関係をもって金銭や土地を奪うものだった。だから私は慶一郎さんを探していたんです』
結局、私が心配する事はなかったみたいだけれど。それでも心配だったし嫌だった。
修三さんが大切にしている店が、あの女の人のせいで無くなるのは許せなかったのだ。
きっと慶一郎さんは信じてくれない。信じてくれたとしても、気味が悪いだろう。
怒って帰ってしまうかもしれないと思ったが、彼は想定外の行動に出た。
「俺は占いの類に興味も無いし、信じてもいねぇ。そういう宗教じみた事は嫌いでね」
『それであの、その手は?』
目の前に差し出される彼の両手。その意味を尋ねると、彼は当然のように私の手袋に目線を移した。
「俺の過去の記憶ってのを視てみろよ。そうしたら信じる」
『むやみに人の記憶を視たくないんですが』
「俺がいいって言ってんだ。やれ」
うわぁ、この人強引。
初めてまともに話したが、有無を言わせないその口調に、否定の言葉を出しずらい。
戸惑っていると、彼は両手をさらに近づけてきた。
「ほら、早くしろ」
「・・・・・」
多分、私が視るまで引き下がってくれないのだろう。
気が進まないながらも諦めて手袋を外し、彼の掌に自分の掌を重ねた。
人によって、過去の視え方はそれぞれ違う。
色々な記憶が混在して交互に映し出される場合もあれば、一つの記憶がずっと流れる時もある。
この記憶は・・・・・
バチンッ
光が途切れ、瞼の裏に暗闇が広がる。
記憶が鮮明なうちに、急いで視たものを綴った。
『慶一郎さんと修三さん、あと制服を着た黒髪の女の人が南雲堂にいる所を視ました。女の人は、慶一郎さんが髪を束ねているその紐によく似た赤い紐で、髪を一つに結んだ人』
そう言えば、彼女は慶一郎さんの雰囲気に似ている人だった。
切れ長で黒い瞳、姿勢がよく、背筋がピンと伸びた少女。少しきつい印象だったけれど、笑った顔がとても美しかった。
『慶一郎さん達がその女の人と何か言葉を交わした後、その人は慶一郎さんを軽く叩いて、手を振りながら店を出て行った。そこで映像は途切れました』
書き終えると、ありえないものを見るように慶一郎さんの瞳が大きく開く。
「お前・・・・・」
彼は突き動かされるように、拳を机にぶつける。
あまりに大きい音に驚いていると、彼が声を一段低くする。
「忘れろ」
『視られたくない、過去だったんでしょうか』
「忘れろって言ってるだろ」
舌打ちしながら私に向けた言葉に、頭に血が上っていく。
気が付いたら、右手が勝手に言葉を綴っていた。
『慶一郎さん、勝手です。自分の思い通りにならないからって私に当たらないで下さい』
「勝手ってなんだよ」
『記憶を特定して視る事は不可能です。強引に視ろと言いながら、都合の悪い過去を視ると怒るなんて理不尽です』
本当に勝手だ。こっちの気も知らないで、自分勝手に振り回しておいて、この仕打ちはないと思う。
『私、先に南雲堂に戻ります。邪魔してすみませんでした』
席を立ち、彼に背を向ける。
扉に向かって歩き始めようとしたその時だった。
「悪かった」
腕を引かれ、身動きが出来ない。
驚いて振り向くと、慶一郎さんは決まり悪そうに続けた。
「確かにお前の言う事は正しい」
冷たくしたり、強引だったり、怒ったり。そうかと思えばこんな風に謝ってくれる
慶一郎さんは、よくわからない人だ。
『私にはわかりません、慶一郎さんがどうしてそこまで怒るのか、理由を言ってもらえないと貴方に謝れもしない』
私の言葉に、彼は辛そうに顔を歪めた。そして私の言葉に応えることなく席を立つ。
「行くぞ」
『行くって、どこに』
「決まってんだろ、帰るんだよ」
『私、一緒に帰ってもいいんですか?』
「襲われたいんじゃ別だけど、そうじゃないなら付いてこい」
窓の外を覗くと、陽がとっぷりと暮れていた。
いつのまにか随分と時間が経ってしまったようだ。
先に歩いてしまう慶一郎さんを追いかけながら、私は彼と向き合った。
『慶一郎さん』
「なんだよ」
『今日の夕飯は南瓜の煮付けですよ』
私の顔をじっと見ながら、彼は少しだけ口角を上げた、ような気がした。
「そりゃ楽しみだ」
夜の銀座を、慶一郎さんと歩く。私を待ちながら歩くその姿に、少しだけ彼との距離が縮んだ気がした。
(七)
「半年前の出会いからを考えると、慶一郎と鈴は随分打ち解けたな。最初の頃はお前ら険悪で、どうなることかと思ったぞ」
「・・・・・そうだっけな」
『初めて会った時の慶さんは横暴で、何を考えているのかわかりませんでしたから』
「鈴、お前な」
でも、あの日からだろうか。慶さんは少しずつ、私に話しかけてくれるようになった。
横暴に見えて、人の事をよく見ている人。ぶっきらぼうだけど、本当は優しい人。
慶さんの印象は、私の中で大きく変わっていったのだ。
「まぁ俺は、お前らが仲良くなってくれて嬉しい限りだよ」
修三さんの言葉に、私は大きく頷く。
湯呑に手を伸ばすと、いつの間にかお茶がぬるくなっていた。
もう一度お茶を入れ直そうと立ち上がると、慶さんに呼び止められる。
「なに、お茶持ってくるつもり?」
頷くと、彼は店の様子を見に行くついでだと言い、湯呑を持って出て行った。代りにお茶を持ってきてくれるらしい。
慶一郎さんが部屋を出て行くと、修三さんは改まったように姿勢を正した。
「ありがとうな、鈴」
「・・・・・?」
「お前が来てから慶一郎は変わったよ。昔に戻ったような気がする」
『昔って、私がここに来る前という事ですか?』
「そうだ。お前が来たばかりの時あいつは、自暴自棄だったから。そのせいで迷惑かけた」
『慶さんが自暴自棄になったきっかけは、なんだったんでしょうか』
それは私がずっと気になっていた事だった。
時々、慶さんは何か睨むように考え事をしている。
なぜそんな顔をするのだろう。
その疑問は口にしてはいけないような気がして、私は彼の真意を聞けずにいる。
「半年前の事だ。俺と慶一郎にとって大切な人間を、他人に奪われた」
修三さんの言葉に一瞬、彼女が頭に浮かんだ。
修三さんと慶さんにとって大切な人、それはもしかしてあの時視た・・・・・・?
思い当たる彼女の事を修三さんに尋ねようとしたその時だった。慶さんがお茶を抱えながら戻ってきてしまう。
「お、慶一郎。ご苦労ご苦労」
「ほら、あんまり一気に飲んで腹壊すなよ」
冷たいグラスが渡され、手袋越しに、ひんやりと冷たさが広がる。
結局、修三さんに話を聞くきっかけを見失ってしまった。
でも、私はこの時無理にでも修三さんに話を聞くべきだったのだ。
私は過去を視る事は出来るのに、未来を視ることは出来ない。
その事を後悔する日が、迫っていた。
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