第2話 虚像の絢爛
(一)
数週間前には咲き誇っていた桜もすっかり散り、若葉が風に揺れている。
夏用の制服を、そろそろ準備した方がいいのかもしれない。
私の通う女学校、「
亡き父のような教師になる為入学した学校にも少しずつ慣れ、専門的な学問を学ぶ事はとても楽しい。
不安があるとすればそれは・・・・・
扉を開くと教室の生徒達の視線が私に集まり、逸らされる。
おはようと挨拶をする友人が私には居ない。一緒に勉強したり、学校帰りに出かけたり。そういった何気無い生活を共にする友人がいないのだ。
私に問題がある事は分かっている。
私は友達に憧れながらも、自分から彼女達に近づく事をためらっているのだ。これでは友達が出来るわけがない。
中々勇気が出せない自分に情けなくなりながら席に着くと、周りの様子がどこかおかしい。
いつもなら目を逸らされて一日が始まるのに、今日は私に話しかけようとして、躊躇うような視線を感じる。
もしかしたら友達になるきっかけを、みんなも探してくれたのかも。
そんな期待に胸を膨らませながらそわそわしていると、学級委員である
「初野さん、ちょっとよろしいかしら?」
緊張したような表情の彼女につられ、私まで緊張してきてしまう。
この様子だと、どうやら友達になってくれるという嬉しい話題ではなさそうだ。
「あなた、よくここに来れたわね」
鏑木さんは私を睨みつけると、吐き捨てるように言った。
戸惑っていると、彼女は忌々し気に言葉を続ける。
「何も知らないような顔をしても今更よ。生徒全員から集めた学費を盗んだ癖に、どうして飄々としていられるのかしら。面の皮が厚いにも程があるわ」
学費を盗んだ、私が?。
『鏑木さんがなんのお話をしているのか分らないのですが、説明してもらえないででしょうか?』
私なりに言葉を選んで聞いたつもりだったが、その思いとは裏腹に捲し立てられる。
「説明もなにもないわ。昨日の放課後、生徒から集めた学費が盗まれたのよ。貴方の学費以外、全員分ね。私には、貴方が盗んだとしか考えられません」
想像していなかった事に、目が点になる。
「授業を筆談で受け、会話もろくに出来ない人が学校に通うなんて、最初から妙だと思っていたの。いくら貴方の父親が学校長先生の御友人でも、こんなことをして、退学じゃすまされないと思った方がいいわ」
広がっていく誤解をなんとかして解かなければ。
ノートに再び言葉を綴ろうとすると、鏑木さんは苛立ったように私の机を叩いた。
「これだから異人の方の入学には反対だったのよ。私達日本人の黒髪を持ちながら目の色が青いなんて、気味が悪いわ。貴方の母上はきっと異人に誑かされたのね」
「・・・・・!」
その言葉を聞いて、私は頭が真っ白になる。
目の前で起こっていることが、まるで他人事のようにゆっくりと流れていった。
他人の過去を視るような、まるで活動写真が流れているような感覚。
気が付くと鏑木さんの身体が後ろに倒れ、教室中から悲鳴が聞こえてきた。
手袋の中にしまわれた掌が、じんじんと熱くなる
ああ、人を殴るって、自分も痛いのか。
(二)
「また君は派手にやったね」
学校長先生の部屋に呼び出されると、開口一番に
「手を出すという行為は、物事において圧倒的に不利になる。やっていない事を肯定すると同じ意味があるんだ」
やれやれと言いながら、彼は自分で入れた緑茶を啜った。
「君は父親のジャンにそっくりだ。あいつが生きていた時、大人しい癖に時々思い切った行動に出る奴だと思っていたが、君はその気質を受け継いだようだね」
お父さんと友人だった六条さんは、懐かしそうに目を細めた。
彼の話を聞きながら、ようやく昂っていた気持ちが落ち着いてくる。
私は六条さんのおかげで、学校に通えるのに。
恩を仇で返すような行動だったと、今更後悔が襲ってきた。
「今回の学費盗難騒動は、君のせいじゃないと少し考えれば判る。君はいい意味でも悪い意味でも、目立っているからね。盗んだ人物が犯人に仕立て上げやすかったんだろう」
しかし困ったねと深いため息を吐きながら、六条さんは続けた。
「君が女子生徒に暴力を振った事で、一部の生徒に不信感を与えてしまった。学校としては君に処分を与えなければ、他の生徒に示しがつかない。それはわかってるね?」
もしかしたら退学処分かもしれない。
六条さんが口添えしてくれて、ようやくこの学校に入る事が出来たのに、自分からその立場を危うくした。なんて情けないんだろう。
それでも、自分が招いた結果だ。
どんな処分でも受け止めようと顔を上げると、彼の空気が柔らかいものに変わった。
「君を一週間の停学処分とする。また、謹慎後に反省文を五十枚提出すること。以上だ」
「・・・・・!」
想像より軽い処分内容に驚いていると、彼は暴力を振った事は、反省しなさいと念を押す。
「次はもっと、上手く立ち回るように。身内を馬鹿にされて、怒らない人間はいない。思わず手をあげてしまう気持ちも分る。だが、そうした所で殴られた人間は考えを改めるわけじゃない。自分が痛いだけ、そうだろう?」
六条さんの気遣いを感じながら、もう一度深く頭を下げる。
今の私には、それしか出来なかった。
(三)
学校のあるこの時間、一人で佇むというのも変な感じだ。
六条さんに停学を言い渡された後、私は南雲堂ではなく、日比谷公園へ向かった。
一人になって、頭を整理したかったのだ。
公園のベンチに腰を下ろし、ため息が漏れる。
停学後、学校中からの疑いの視線に耐えられる自信がない。可能ならば学費を盗んだ犯人を捕まえ、無実を証明し、堂々と学校に行きたい。
その為に、私が出来る事は・・・・・・?
同じ女学校の学生が集まる場所に行けば、今回件の手掛かりが得られるかもしれない。
噂でもいいから、今回の騒動の事をもっと知りたかった。
思いつきだったが、何も行動しないよりましだ。学生が集まりそうな場所を探す為、一歩足を踏み出したその時、珍しい人物の声が聞こえてきた。
「おや?君は慶一郎の所の」
「・・・・・!」
「可愛らしい青い瞳のお嬢さん?こんなところで何をしているんだい?」
肩を叩かれ振り向くと、ふわふわとした栗色の髪をなびかせた、軍服姿のその人物が微笑んでいた。
慶さんの友人、伯爵家「下柳家」の当主、
彼と昼間からこんな場所で会うなんて思わなかった。
「おや、お嬢さんは明星女子師範学校に通っているんだよね?授業は休みかい?」
彼は不思議そうな顔で私を見る。
居心地が悪くなり、私は俯きながら否定すると、下柳さんは続ける。
「学校はある、けれど君はここにいる。慶一郎のサボタージュ癖が君にも移ったのかな?」
その言葉にも私は首を振り、学校から持ってきたノートに文字を綴った。
『色々な事情で、学校に行けなくて』
彼はその文字を読み上げ、首を捻った。色々な事情とは?と不思議そうな顔をしている。
なんと説明しようか。戸惑っていると、下柳さんに手を差し出された。
「そうだお嬢さん、この後何かご予定は?」
首を横に振ると、にこりと彼が微笑む。
「では僕とデエトしていただけませんか?」
差し出された彼の右手。そこに私の手を重ねるようにということだろうか。視線を彷徨わせながら迷っていると、彼に「お手をどうぞ」と促される。
散々迷った後手袋を確認し、私は彼の手を取った。
「下柳様、ようこそおこし下さいました」
扉を開けると一斉に女給の方々が私達に向かって頭を下げる。
「せっかくの午後のティータイムだ。優雅に過ごそうじゃないか」
彼に手を引かれやって来たのは、最近銀座で噂のミルクホール。
店内は薄暗く、ステンドグラスから差し込む光がきらきらと輝いている。
レコードから流れる音楽を聴くと、なんだか異国にいるような、不思議な気分になった。
「さぁ、何を御所望かな?」
初めて訪れた場所に緊張していると、下柳さんからメニュウを渡された。
悩んだ末にミルクホールに来たからにはと、ミルクの文字を指差す。
「それだけでいいのかい?」
手持ちもないので頷くと、彼は慣れた所作で注文を頼んでくれる。
しばらくすると、牛乳と珈琲と共にやってきたお菓子がテーブルに置かれた。そのお皿に乗るお菓子を、私はついまじまじと見つめてしまう。
初めて見るお菓子だ。
「ああ、これはシベリアと言って、カステラに羊羹を挟んだ西洋風の菓子だよ。牛乳にも合うから食べてみるといい」
シベリアが乗ったお皿が差し出され、頭を下げてから一口頂く。
わぁ、と口元が緩むのがわかった。
小豆とカステラの組み合わせがこんなに合うなんて!
ついつい食べる手が止まらなくなってしまう。
「うんうん、そんなに幸せそうに食べてくれると僕も嬉しいよ」
私が感激していると、下柳さんは珈琲を一口含み言葉を続けた。
「それで、何故君は学校に行けないのだい?その様子だと、君自身が行きたくないというわけではなさそうだが」
笑顔で顔を覗かれ、迷ってしまう。
ここで下柳さんに事情を話してもいいのだろうか。迷惑になってしまわないだろうか。
「僕としては、ご婦人が辛そうにしているのは気になる。無理にとは言わないが、君さえ良ければ、ここに事情を書いてごらん」
彼が私の考えを読み取ったように一冊のノートと万年筆を取り出した。
「さぁ、遠慮などしなくていいのだよ」
柔らかくそう言われると、張りつめていた気持ちが楽になる。
今は好意に甘えさせてもらおう。そう思い、私はゆっくりと万年筆を取った。
下柳さんがシベリアを食べ終わる頃、ようやく私は今日の出来事を書き終えた。
ノートを受け取った彼はふむ、とページをパラパラと捲る。
「今日は君にとって、大変な一日だったわけだ」
その言葉に、私は小さく頷く。
「慶一郎や修三さんに、この事を伝えなくていいのかい?本来なら、彼らに真っ先に相談するべきだと思うが」
本当は、慶一郎さんや修三さんに相談したい。でも、それは自分勝手な事のようで、どうしても躊躇してしまう。
『南雲堂に居候させてもらっているのに、迷惑をかけるようなこと、持ち込みたくないんです』
私は怖いのだ。面倒な事を相談して、彼らに嫌われるのが怖い。
ぎゅっと目を瞑ると、下柳さんが肩を竦める。
「君は一人でこの問題を解決する気なのかい?」
『はい。謹慎中に学費を盗んだ誤解だけでも解きたいのですが、なかなかいい案が浮かばなくて』
「ふぅん。君はずいぶんと芯の強い女性だね。元来の気質なのか、君に流れる
珈琲を飲み干しながら、下柳さんは店内を見渡した。
着物にエプロン姿の店員さんを窺う彼は、そうだ、と目を輝かせる。
「一つ、いい提案がある」
(四)
翌朝、私はいつものように学生服に身を包み、南雲堂を後にする。
いつものようにと言うが、今日は荷物の量がとても多い。あまりに荷物が多いので、出かける間際「夜逃げでもするのか?」と言われてしまった。
到着した先は、昨日下柳さんと訪れたミルクホール。
従業員口の扉を叩くと、この店を取り仕切る店長さんが顔を出した。
真っ赤な紅を塗った唇から紡ぐ声に、店内は活気づく。
「ああ、来たね。仕事の説明するから入んな入んな!」
彼女の後に続き店の中に入ると、何人かの女給さんが並んでいる。
珍しいものを見るような視線に思わず萎縮していると、店長さんが一喝した。
「下柳様の客人を奇異なものを見るような目で見るんじゃないよ!挨拶は後、これあんたの制服。着替えてきな」
急かされるように着替え部屋に案内され、制服に袖を通す。
エプロンの結び方はこれでいいだろうか?
もう一度リボンに手をかけていると、店長さんが部屋に入ってきた。
「こりゃ驚いた。仏蘭西人がこの服を着ると、まるで人形のようだ。ここいらに住んでしばらく経つが、金髪の外人が着物を着るところなんて初めて見たよ」
改めて鏡に映る自分の姿を見ると、自分ではない他人がそこにいる気がした。
鏡に映るのは金髪に青い目をした女。
今の私はどこからどうみても仏蘭西人なのだ。
なぜこのような姿になっているか、それは昨日の下柳さんの一言がきっかけだった。
「知ってるかい?このミルクホールは放課後になると、君の通う学校の学生をよく見かける」
学校からミルクホールは割合近い。この店のモダンな雰囲気も、甘いお菓子も、彼女達には魅力的だろう。お友達とここに来られたら楽しいだろうなぁと思っていると、下柳さんが続けた。
「女学生たちは噂話に花を咲かせているのだよ」
噂話?不思議に思っていると、彼はそうだとも、と私の反応を見て満足そうに頷く。
「女学生に限った事ではない。ご婦人方は往々にして噂好きだ。近所の噂、友の噂、時には旦那の浮気相手の噂を何処からか仕入れてきては、話の種にする。この場所で噂話を嬉々としてするのだ。彼女達にとってそれらの噂は本当か嘘かなんて関係が無く、その場が盛り上がりさえすればいい。一種の消耗品なのだろうがね」
秘密の話をするように、下柳さんは口元へ指を当てた。
「しかし噂話というのは、時には真実を含んでいる事がある。ここは噂の集まる場所。今の君には、噂程度の情報も貴重なのではないかな?」
その言葉にはっと気が付く。
つまり下柳さんは、ここに来る女学生の噂の中に、学費盗難騒動の話題があれば、それを聞く事が一番だと言いたいのだろうか。
確かに、それが今の私に出来る、無実を証明する為の唯一の方法のような気がした。
でも、と一番の問題に頭を抱える。
現実的に考えて一日中ミルクホールに居たら、お金がすぐに無くなってしまう。それにお店の人にも、不審に思われてしまうだろう。
どうすれば不審に思われず、ここに居られるだろうか?
考えを巡らせていると、下柳さんがさらりと言う。
「ここで君が働きながら、情報を集めるというのはどうだろう。お嬢さんが望むのなら、僕から店長に頼むことは出来る」
驚いて瞬きをすると、下柳さんはミルクホールが開店する際、この店に資金提供をしたパトロンなのだと教えてくれた。
だから多少の無理は通せる。彼のその言葉を受け、私は決心した。
なんとしてでも、誤解を解きたい
下柳さんに深く頭を下げると、彼は私の髪を指で梳き、満足そうに微笑んだ。
「僕に任せたまえ」
下柳さんの行動は早かった。
その日の内に下柳家で招いた仏蘭西人の客が、日本で職業体験を希望していると店長さんに相談してくれたのだ。
「客人に安心して働いてもらえる場所は、ここしか思いつかなくてね。安心してくれ、彼女は日本語こそ話せないが、言葉の理解はできる、充分店の役に立つだろう」
「言葉が通じるのなら、配膳作業は出来るでしょうし・・・・・わかりました、その方に明日から働いていただきたいですわ」。
話がまとまると、すぐに下柳さんは準備をしてくれた。
今朝ここへ来る前、下柳さんの家にお邪魔し、仏蘭西人に見えるよう金色のカツラ(西洋ではウィッグというらしい)を貰う。下柳家の客人として恥ずかしくないよう、高価な洋服も貸してもらった。
ここまで協力してくれた下柳さんに、必ずお礼をしなければ。そんな事を考えていると、店長に再び声をかけられた。
「さぁ、店の連中に挨拶して、いよいよ開店するよ。あんたは注文の品を客に運んでくれればいいから、気楽にやんな」
声が出せないので注文を直接受ける事は難しい。だけどせめて、お店の役に立てるよう頑張ろう。
よし、と頬を叩いて気合を入れながら、私は仕事に向かった。
(五)
働き始めて二日、ミルクホールには学校帰りの女学生たちが多く集まり、談笑している。
「デパートで新しいお洋服を・・・・・」
「私縁談で・・・・・」
「この前雑誌で帝都連続殺人の・・・・・」
「まぁ、怖い。聞いたかしら?なんでも痴情の・・・・・」
注文を運びながら彼女たちの会話に耳を傾ける。その内容は世間で話題になっている事だったり、気になる殿方の事だったり様々だ。残念ながらまだ学費盗難事件の話は聞こえてこない。
そう簡単に欲しい情報は手に入らないか。
残念に思いつつ、気を取り直して掃除を続けていると、声を掛けられた。
「マリー、あそこの客を見たかい?」
マリーとは下柳さんが付けた私の偽名だ。
振り向くと、仕事を教えてくれる教育係の梅さんが立っていた。
顔に満面の笑みを浮かべながら、一番奥の席に座る、ハンチングを深く被った白いシャツにベスト姿の男性を指さした。
彼女がいつもより高い、はしゃいだ声を上げる。
「もしかして気づいてなかったのかい?」
いつの間にか座っていたお客様だったので、入店した事に気が付かなかった。そう頷くと、彼女はもったいないと耳打ちする。
「下柳様も綺麗な顔をしているが、あの客人もなかなかいい男だったよ。キネマの役者さんみたいだ」
あんたも一目見てきなよ。梅さんはそう言うが、お客様が雑誌を読んでいる所に視線を送るのは気が引ける。
どうしようかと思っていると、店長さんに呼びかけられた。
「マリー、ミルクとカステラ三人分、あそこの女学生の注文だから運んでちょうだいな」
梅さんに断りを入れお盆を持つと、彼女達の一段大きな声が聞こえてきた。
「え!盗んだ犯人を見た人がいるの?」
「そうらしいわよ。学費の入った袋を持って先生方の部屋から出てきた生徒を、二年の高原様が見たって」
「一年の初野さんが犯人だって噂、本当かしら?」
「なんでも高原様が見た生徒って初野さんだったみたいよ?学校長先生が事実かどうか、高原様に事情を聞いているらしいわ」
「初野さんと言えば、学級委員の鏑木さんを叩いて停学中らしいわね。なんでも鏑木さんが学費を盗んだのか問いただしたら、逆上したって」
「庶民の方は怖いわね。でも彼女確か、学校長先生のお気に入りでしょう。流石の学校長先生も、今回の件は庇えないわね」
違う!
今すぐにでも彼女達にそう言いたいのに、足が竦んで動けない。
私が学費を盗むのを見た人がいる・・・・・?
もしかしたら学校に戻れないかもしれない?
それが事実なら、私はどうすればいい?
お盆を支えている手に、力が入らなくなる。
「きゃあ!?」
彼女達の叫ぶ声が響き、運ぶはずだった飲物が音を立てて崩れてた。
気づいた時には グラスは割れ、液体が床一面に広がっていた。
「大変失礼致しました」
音を聞きつけ、店長さんが駆けつけてくれる。
すぐに新しいものを運ぶが、彼女達が私と目を合わせたのは一瞬で、私の失敗なんて無かったかのように、また談笑に戻っていった。
それがなんだか、私なんか居なくても同じと言われているようで酷く切ない。
トゲが刺さったような感覚を持て余していると、ソファーで談笑していた 短髪と坊主頭の軍人さんに声を掛けられた。
「さっきは災難だったなぁ金髪の嬢ちゃん」
彼らは休憩中なのだろうか。軍服を緩め、くつろいだ様子で私をまじまじと見ていた。
もしかしたらグラスを割ってしまった事で、彼らの休憩の邪魔をしてしまったのかもしれない。
非礼を詫びる為顔を下げると、彼らは声を上げて笑い始めた。
「・・・・・?」
「こいつぁ傑作だ。この女、日本人みてぇに丁寧にお辞儀するもんだ」
「留学生かなにかかい嬢ちゃん?」
頷くと彼らはそうかと納得し、次の瞬間二人の腕が私の腕に伸びる。
突然の事に驚きながら間一髪で彼らの手を避けると、二人の態度が一変した。
「なんだなんだぁ、異人様は俺らみたいな日本人に触れられたくないってか。傷つくねぇ」
坊主頭の男性が立ち上がり、私を見下ろしながら下卑た表情を浮かべる。
「しっかしこんな場所で、どうして嬢ちゃんみたいな異人が働いてるのかねぇ。金に困ってんなら、もっと稼げる場所を紹介してやってもいいぜ?」
じりじりと距離を詰められ、思わず店長さんに助けを求めるが、相手が軍人さんだからか迂闊に話しかけられないみたいだ。
逃げた方がいいのだろうか?
しかし逃げてしまえば、逆上した彼らが店に迷惑をかけてしまうかもしれない。
どうしたものかと考えていると、坊主頭の軍人さんが痺れを切らしたように私を羽交い絞めにした。
「大人しくしろよ」
この体格差が憎らしい。
抵抗の甲斐なく店の出入り口まで引きずられ、不安になったその時。
私は自分の目を疑った。
ここにいるはずのない、彼の姿が見えたのだ。
「なぁ、いつからここは女を持ち帰りする店になったんだ?」
白いシャツにベスト姿の彼は、ハンチングをソファーに投げ、近づいて来る。
「お前はこっち」
私を掴んでいた二人の手を簡単に振り払い、軍人さんから隠すように彼の背中に庇われた。
どうしてこんな場所に?
状況が理解できず混乱していると、軍人さんは揃って声を荒げた。
「おい!公務妨害でしょっぴかれたくなければ、その娘を渡せ!」
「はっ欲求不満な雄の顔したあんたらが、よく公務妨害なんて言葉知ってたもんだ」
「なんだと!馬鹿にするのも大概にするのだな。命が惜しければ、さっさとこの場から去れ!」
軍人さんたちを覗くと、彼らは唾を吐き捨て、サーベルを同時に抜いた。
「きゃぁああ!」
店内から悲鳴が上がる。しかし目の前の彼は動じもせず、呆れたようにため息を吐いた。
「あいつはこいつらに何を教育してるんだか」
「何をごちゃごちゃと言っている、命乞いでもしておるのか?」
短髪の軍人さんが抜いたサーベルが、彼の胸元に突き付けられる。
「見ず知らずの女の為に余計な事をしたと、後悔するのだな」
「・・・・・っ」
危ない!
短髪の軍人さんの注意を引こうと前に出るが、強い力で押し留められた。
自分はどうなってもいい。そういう風に。
「見ず知らずの女の為、ねぇ。そんな素性も知らねぇ奴の為にこんな面倒な事するかよ」
「その女の知り合いとでも言う気か?」
「家族だよ、家族」
「馬鹿にしよって、もっと良い言い訳があるだろうに」
刃の切っ先が、さらに彼に近づく。
このままじゃだめだ、彼らが何をするか分らない。
軍人さんに物を投げ、気を取られている隙に、彼には逃げてもらおうか。
我ながら名案だ。さっそく投げられそうな物が近くにないか探していると、突然場違いに華やかな声が聞こえてきた。
「随分と賑やかではないか」
軍人さん達の真後ろにいる声の主は、その声色とは反対に目つきを鋭くさせ、サーベルを手にして立っていた。
「何をしている。僕は公衆の面前でサーベルを抜けと、お前達に指導した覚えはないのだが?」
「し、下柳中将!なぜ、ここに」
「御託はいい、それを納めろ。さもないと僕が君の首を刎ねる」
冷え冷えとした笑顔が、この場を凍らせる。彼のこんな表情を初めて見た。
「君たちは知らないだろうが、ここは僕がパトロンを務める店でね」
「そ、そうでありましたか!そうとは知らず失礼を・・・・・」
「ああ、謝罪は結構。君たちの謝罪など何の価値もないし、聞くだけ無駄だ」
そうだろう?と冷たい声で言い放つ。
「お前達には追って処分を言い渡す。金輪際、ここには立ち入らないでもらおうか」
「しかし中将!元を言えばこの男が我々に無礼を・・・・・」
私を庇ってくれている彼を指さしながら、坊主頭の軍人さんが主張する。しかし下柳さんは反論する隙を与えなかった。
「聞こえなかったのかい?僕はここに立ち入るな、と命令したのだが」
彼らはその言葉に声を詰まらせる。そして先程までの勢いが嘘のように、店から出ていった。
最悪の状況が去り胸を撫で下ろすと、下柳さんが息を吐き、私達に声をかけた。
「まったく無茶をするね。慶一郎もお嬢さんも」
店内には再び活気が戻りつつあるが、私の頭の中では未だ、警鐘が鳴り響いていた。
なぜ、慶さんがここにいるのだろう。
しかも和装ではなく、洋装の姿で。
横目で彼を窺うが、その表情からは何も読み取る事が出来ない。
もし慶さんが私に気づいていないとしたら、まだ誤魔化せるかもしれない
学校にも行かず、ここで働いているとが知れると、迷惑がかかる。そしてお説教も免れない。
出来れば・・・・・いや、絶対に見破られたくない。是が非でも誤魔化したい。
「マリー、とか言ったっけ?」
「ああ、僕の客人でね。可愛らしいレディだろう?」
その言葉に精一杯微笑むが、慶さんは、胡散臭そうに私を見ていた。
「うちの居候によく似て、行動が突拍子もないみたいだけどな」
「・・・・・・!」
これはもしかして、気づかれているのではないだろうか。思わず慶さんから顔を背けると、下柳さんが話を逸らしてくれた。
「慶、こんな場所で立ち話もないだろう?折角会えたのだから、僕の屋敷に招待しようではないか」
「それは構わねぇけど」
今のうちに慶さんから離れよう。
私が彼らに背を向けた時だった。
「鈴」
「・・・・・!」
はっきりと名前を呼ばれ、恐る恐る振り向く。
そこには目の奥が笑っていない慶さんが、腕を組みながら私を見据えていた。
「お前、いい度胸してるじゃねぇか」
腰に手を回され、逃げる事も許されない。
ああ、観念するしかないみたいだ。
(六)
モダンな西洋造りの一軒家。
下柳家のお屋敷は、周囲の建物と一線を画している。
下柳さんはサンルームに私達を案内すると、早速話を切り出した。
「まさかこんなに早く慶一郎に見破られてしまうとはね」
「金色のカツラ被せて化粧したところで、気づかないわけねぇだろ。それで、どうしてお前はそんな恰好してるわけ」
不機嫌そうにお茶を飲んでいる彼から紙とペンを渡される。
これを使って説明しろ、という事だろうか。
「お嬢さんがミルクホールで働くまでの経緯なら、僕が話そう」
そう言うと、下柳さんは今までの経緯を詳細に話してくれた。
「鈴、お前さ」
下柳さんが説明を終えると、感情の読めない声色で慶さんに問われる。
「どうして俺に黙ってた?」
『迷惑をかけてしまうので』
「迷惑って誰にだよ」
『慶さんと修三さんに』
そう書き終えると彼の右腕が頭に直撃する。
わっ!
頭を押さえながら衝撃に耐えていると、眉を吊り上げた慶さんと目が合った。
「ったく、結局迷惑かけてるんだから同じ事じゃねぇか」
『はい・・・・・』
「なぁお前本当に分ってるか?」
結局迷惑をかけるなら、黙っていようがいまいが同じ事。
本当に、慶さんの言う通りだ。
一歩間違えれば大事になっていたかもしれない、そう考えると恐ろしくなる。
『ごめんなさい』
慶さんに呆れられてしまった。
どう考えても私が悪いのに、勝手に目頭が熱くなる。
泣いたらだめだ。
せめて一人になるまで零れないように、ぐっと力を込める。
早く南雲堂を出て行く準備をしなければ。
私は立ち上がり、顔を上げながら玄関を目指した。
「ちょっと待て!やっぱりお前わかってねぇ」
「慶一郎の言い方が悪いからこうなる」
震える指で扉に手をかけた瞬間、慶さんが阻むようにそれを抑えつけた。
「泣くな」
「・・・・・」
泣いてないです、まだ。
それなのに、優しく話しかけないで欲しい。
「こっち向け、話は最後まで聞け」
「お嬢さんにも否はあるが、誤解されるような言い方をした慶一郎が悪いのだよ」
はい、と下柳さんから紙とペンを渡される。
「言いたいことは伝えなければ意味が無い。君は、どうしたいんだい?」
『慶さんや修三さんに迷惑をかけるなら、出ていこうと思います』
正直な気持ちを書くと、慶さんが脱力したように肩を落とした。
「あのなぁ、家族なんだから、迷惑をかけるのは当たり前だろ」
『家族?私が、ですか?』
だって私は居候で、家族だなんて、そんな風に言ってもらえる資格はないのに。
「毎日顔合わせて、同じメシ食って、同じ家で寝てんだろうが。血が繋がってようがなかろうが、そういう関係を家族って言うだよ」
真っ直ぐに離してくれないその瞳は、私が顔を背ける事を許してくれない。
「家族ってのは迷惑をかけ合うもんだ。それをお前、理解してないだろ」
家族。そんな風に、思ってもいいのだろうか。
他人から気味悪く思われること、それが私の日常で、当たり前の事。
だから困る。こんな風に言われることに慣れてない。嬉しいと伝えたいのに、どんな顔をしたらいいのか分からない。
南雲堂に来てから、私はどんどん欲張りになってる。一緒に暮らす彼らがあまりにも暖かくて、彼らの周りにいる人たちが優しすぎて、それに甘えたくなってしまう。
「・・・・だから、泣くなって」
暖かい手がゆっくりと頬に触れる。
耐え切れず伝う涙を今度は止める事が出来なかった。
サンルームに戻ると、ミルクホールで情報収集した結果を彼らに伝えた。
話が一段落すると、私はずっと気になっていた事を聞いてみる。
『そういえば、どうして慶さんはミルクホールに居たんですか?』
店番をサボタージュすることは多々あるが、大抵は近所の喫茶店にいる事が多い慶さん。カフェーやミルクホールに居ることは珍しいのだ。
「どうしてって、尾行してたから」
『尾行って・・・・・?』
「最近お前、帰って来る度に煙草の匂いさせてたんだよ。何かあったと考える方が普通だろ。お前、隠し事向いてないよな」
自分では上手に隠せていると思っていたが、彼から言わせると爪が甘かったらしい。
結局、空回りだったのだ。
「だから今朝出ていくお前の後を追ったんだ。変装してミルクホールで働いてるなんて予想は、さすがにしてなかったけどな」
「それにしても、あの時は部下が迷惑をかけてすまなかったねお嬢さん」
あの軍人さん達は下柳さんの部下だったらしい。
自分の監督不行き届きだと頭を下げる下柳さんに、慌てて顔を上げてくれるよう頼む。
私がグラスを割らなければ、話しかけられることは無かったのだ。
『上手く軍人さんの相手を出来なかった、私が悪いんです』
「君のせいではない。彼らに軽率で野蛮な行動をとらせてしまったのは、上司である僕の責任だ」
「ああいう腕しか取柄のない連中は、お前にしっかり手綱を引いてて欲しいもんだよ」
「すまないね。なんせああいった輩は軍に一人や二人ではないのだ。手綱の方が切れてしまうよ」
常に完璧に見える彼にも、こんな風に手を焼く事があるのか。
なんだか意外だと伝えると、困ったように笑われた。
「謝罪するつもりが、つい愚痴になってしまったね」
『いえ。愚痴なんて、私でよければいつでも聞きます。といっても、気の利いた事はあまり返せないと思いますが・・・・・・』
今回お世話になった下柳さんに、今度は私が何か返せればいい。そう思って紙を見せると、彼はぱっと目を輝かせた。
「君はいい子だね、慶一郎が可愛がる気持ちがわかるなぁ」
「・・・・・!」
そう言うと突然大きく手を広げられ、抱きしめられる。
下柳さんの突然の行動にされるがままになっていると、不意に身体が後ろに引かれた。
「部下が部下なら上司も上司だな」
「失敬な。お嬢さんがあまりに嬉しいことを言ってくれるものだから、西洋風の感謝をしなければと思っただけじゃないか」
あぁ、なるほど。
そういえばお父さんもお母さんをよく抱きしめていたっけ。
下柳さんは留学の経験があると聞いたことがある。外国で暮らしていた時の癖がまだ抜けないのかもしれない。抱擁の意味を理解すると、慶さんに額を容赦なく弾かれた。
「なに納得してんだ。おい一威、少しは自分の立場を考えて行動しろよ」
「可愛らしいものがあれば存分に愛でる、それが僕の信条でね」
「それが迷惑だって言ってんだよ」
面倒くさい奴、と口にしながら慶さんは立ち上がり、この部屋を出ようとする。
「慶一郎、何処へ行く気だい?」
「事情を知ってそうなやつに会いに行く。これ以上、事を長引かせると面倒な事になりそうだ」
(七)
最近まで通っていたはずなのに、今は何故か懐かしい。
明星女子師範学校、学長室の扉を見つめ、大きく深呼吸をする。
いくら放課後だといっても、停学中の私がここへ来るのはまずいのではないか。
そんな心配をよそに慶さんが扉を叩いた。
「邪魔するぜ、六条さん」
「これは、珍しいお客様方だ。慶一郎くんに下柳さん、それに停学中の鈴ちゃんか」
「随分と厄介な事態になっているみたいだな」
「・・・・・どこまで知ってる?」
「鈴が学費を盗んだと、そう主張する奴にあんたが話を聞いたようだって所までかな。事実なのか?」
「一体どこからそんな情報を仕入れてきたんだか」
それは、慶さんの言葉を肯定しているような声色だった。
「なるほど、君たちは事情を聞く為に私の所まで来たという事か」
「さすが、話が早い」
「どこから聞いたのか知らないが、それは事実だ。学費を盗んだ彼女の姿を目撃した生徒がいる」
違う、私は盗んでいないんです。
鈴が首を横に振ると、六条さんは分かっていると苦笑した。
「もちろんその話を鵜呑みにした訳では無い。だが私の紹介で入った君を快く思わない生徒もいるからね。そういう生徒や親から君を退学させろと、声が上がっているのだよ」
覚悟していた事とはいえ、いざ事実だと突き付けられると焦燥感が広がる。
もし、私が彼女たちと信頼関係を作れていたなら、今回のような事にはならなかったかもしれない。
彼女達から距離を取って、逃げてきたツケが回ってきたのだ。
「それで、鈴を退学にさせるつもりか?六条さんらしくないな」
「いや、僕の希望で彼女に入学して貰ったんだ。そう簡単に退学なんてさせないよ」
父の意思を引き継いで、私を学校に入学させてくれた六条さんには、本当に感謝している。
でも彼の立場を危険にしてまで、無理をして欲しくない。
大丈夫。もし学校を退学になっても、働いてまた、お母さんと一緒に暮らせるように頑張ればいい。
六条さんにこれ以上負担をかけられない。そう伝えようとノートに手を伸ばしたその時、慶さんにノートを取り上げられた。
「六条さん、頼みがある」
「僕に聞けることなら聞こう」
「鈴を見たって奴の情報をなんでもいい、教えてくれ」
頼む、と慶さんは静かに頭を下げた。
私はその姿を、ただ唖然と見つめることしか出来なかった。
(八)
「鈴ちゃんの姿を見たというのは、二年の
六条さんからそう教えてもらい、私達は高原子爵の家へ向かっている。するとふと、下柳さんが面白そうに目を細めた。
「それにしても、慶一郎が人に頭を下げるとはね。珍しいものを見た」
「うるせぇよ。なんで一威までついて来るんだよ」
「一度乗りかかった船だ。最後まで付き合おうではないか。それに、高原家に行くなら僕がいた方が話が早いだろう」
彼女の家は下柳さんの家と同じくらい立派で、贅を凝らした造りをしていた。
下柳さんが慣れた仕草で玄関の扉を叩くと、しばらくして高原家の女給さんが顔を出す。
「どちら様でしょうか」
「遅い時間にすまないね。高原百合さんはいらっしゃるかな?」
「お嬢様ですか?まだお帰りになっておりませんが、どのようなご用件でしょうか」
いきなり妙齢の男性二人と一人の女学生が現れ、不審げな顔をしている女給さんを、下柳さんは人懐っこい笑顔で言いくるめる。
「僕は下柳、下柳一威だ。知人が百合さんと話をしたいと言うのでね。僭越ながら高原家当主と面識のある僕が仲介をと思って」
「し、下柳伯爵の御子息様でございましたか。失礼致しました、ただいまご案内させていただきます。お嬢様が帰られるまでお待ちいただいても?」
「ああもちろんだ。いきなり訪ねてきたのは僕の方だからね。申し訳ないが待たせていただくよ」
動転している女給さんの案内で、私達はすぐに来賓室へと案内される。
よかった。下柳さんのおかげでなんとか高原さんと会うことが出来そうだ。
「それにしても、高原子爵の趣味がわかる部屋だね」
来賓室に飾られた大きな絵や骨董品を眺めながら、下柳さんは難しい顔をしている。
「高原子爵は絵画やアンティークを海外から集めるのが趣味らしい。噂だが、珍しい作品を手に入れる為に金策までしているとか」
「金策してまで欲しい物?金持ちの考える事は理解に苦しむな」
「まぁ、金を使って権力を誇示する必要はない、とは言わないがね。身の丈に合った物を置くべきだよ。でないと宝の持ち腐れになってしまう」
華族の社会とは、なかなか庶民にはわからない苦労が多いのかもしれない。
そんな風に思いながら周りを見回すと、少し離れた場所にひっそりと置かれた写真立てが目に入った。
家族写真だろうか?
真ん中に小さな女の子、その隣には女の子と年の離れた男の子。後ろに母親と父親らしい人物が笑いあっている。
あの女の子は、高原百合さんなのだろう。
きっと、仲のいい家族なのだ。そんな風に考えていると、扉を叩く音が聞こえてきた。
一人の少女が恭しく礼をしながら部屋に現れる。
「お待たせして申し訳ありません、下柳様。私が高原百合でございます」
凛とした制服姿の彼女は、笑っている写真の少女とは違い、愁いを帯びた表情をしていた。
百合さんと一瞬目が合うも、声を掛けられることなく視線を逸らされてしまう。
「はじめまして。君のお父上とは、よく鹿鳴館でお会いするよ」
「父からお話を聞いております、下柳様」
挨拶を交わし終えると、下柳さんは私と慶さんを彼女に紹介する。
「彼女は初野鈴さん。君はお嬢さんと同じ学校だから紹介するまでもないね。そしてこの無愛想な男は僕の友人で、お嬢さんの家族の慶一郎」
「彼女の家族、ですか?」
「腑に落ちねぇって顔だな」
「彼女とは血が繋がっていないのに、家族という言葉を使うのですね」
張りつめたような、他者を拒絶したような声が響く。その声を聞きながら、慶さんは呆れたように彼女と向き合った。
「そんなに大切なものか?それ」
「同じ血が流れているからこそ、家族とは尊いものであり、繋がりが濃いものですのよ」
「乳臭いガキがわかったように言うじゃねぇか」
一触即発の雰囲気に飲まれていると、下柳さんが二人の間に入る。
「少しは大人になりたまえ、慶一郎」
悪かったねと下柳さんが百合さんに謝罪すると、その場が少し柔らかくなった。
下柳さんが居てくれてよかった。私一人じゃ、二人の間に入る事も出来なかったに違いない。
「今日は、お嬢さんが学費を盗んだという噂を確かめる為に、話を聞きにきたのだよ」
「そちらの彼女は下柳様のお知り合いですの?」
「ああ。可愛い妹のようなものさ。そんな彼女の疑いを晴らそうと、事情を聞いて回っているのだよ」
「そうでしたか・・・・・・。私が話せる事でしたら、協力しますわ」
姿勢を正すと、彼女は下柳さんに身体を向ける。どうやら私と慶さんは視界に入れないつもりらしい。
「ありがとう。聞く所によれば、君はお嬢さんが学費を盗んだ場面に出くわしたそうではないか」
下柳さんの言葉を受け、彼女がちらりと私に目線を向ける。
そして言い淀むことなく答えた。
「ええ、間違いありませんわ」
淡々と、事実を述べているというように彼女の言葉が紡がれる。
「彼女が学費を集めた袋を職員室から持ち出すのを、私見てしまいましたもの。下柳様、僭越ながらそちらの彼女と関わらないことをお勧めしますわ。野蛮な庶民の方々と関わると、お家の名に傷がついてしまいます」
「ふぅん。その学費を入れた袋、というのはどんなものだったのかな。生徒全員の学費を入れるのだ、相当な大きさの物だろう?」
下柳さんが彼女に同調するように会話を進める。
彼女はそれに満足しているようで、慶さんとの会話では考えられない程、饒舌に話していた。
「確か革製で、茶色の袋でしたわね。学費は、各学年の学級委員長が麻の袋で集めるのですが、すべての学年の徴収分を集め終えると、先生方が革の袋に学費を入れ替えるんですの」
「なるほど、さすが学級委員長を務めているだけある。とても事情に詳しい」
「いえ、下柳様のお役に立てれば光栄ですわ」
「十分だよ。君は想像通りの答えをくれた。やはり六条さんの言っていた通りだな、慶一郎」
「ったく聞き方が遠回りなんだよお前は」
「お嬢さんを陥れた張本人であっても、レディには優しくするべきだからね」
「・・・・・下柳様?」
二人の会話に何か感じ取ったのか、百合さんは訝し気な表情になる。
そんな彼女に、慶さんが席を立ち詰め寄った。
「生徒全員分の学費は、全て集まり次第、副校長が責任をもって革袋へ学費を入れるんだってな」
「・・・・・そうらしいですわね」
彼女はあからさまに眉を顰めた。それが何か?と言いたげな表情だ。
「六条さんは言ってたよ。盗難防止の為に、革袋に学費を入れることは職員しか知らないってな。それは学級委員であっても知らないはずの事なんだそうだ」
「え・・・・・」
彼女の顔からさっと血が引く。
「なぁ、なんでお前がその革袋の存在を知ってるんだ?」
まるで調べたみたいに詳細に、と続ける慶さんを、百合さんが睨みつける。その指はカタカタと震え、そして耐え切れぬように、彼女は慶さんから逃げ出した。
「おい・・・・・!」
百合さんがテーブルに置かれた写真立てを手に取り、そのまま思い切り床に叩きつける。
硝子がぶつかり合い、高い音が部屋中に響いた。
危ない!
私は気がついたら、走り出していた。夢中で彼女に思い切り腕を伸ばす。
家族が、音を立てながらバラバラになる。
百合さんは床に散らばったガラスを一つ手に取ると、ゆっくり自身の首にガラス片を振り下ろそうとしていた。
「鈴!」
「お嬢さん!」
遠くから、慶さんと下柳さんの声が聞こえる。
「あ、あなた何を・・・・・」
すぐ傍に、百合さんの顔がある。その首元を恐る恐る窺うと、そこに傷は無かった。
なんとか間に合ったみたいだ。
ほっとして座り込んだ私を、苛立ったように慶さんが立ち上がらせた。
「何やってんだこの馬鹿」
「お嬢さん、傷が・・・・・」
下柳さんの言葉に自分の掌を見つめる。
手袋は破け、そこから覗く素手はガラスでぱっくりと切れていた。
私の手を取ろうとする慶さんから慌てて距離を取ると、彼は眉間に皺を寄せた。
「今そんな事気にしてる場合か。いいからこっち来い」
そんなのはダメだ。
慶さんが私に触れれば、私は彼の過去を視ることになってしまう。
彼は視られたくないはずだ。
初めて慶さんと出会った時を思い出し、首を横に振る。
もし、慶さんにとって忘れたい記憶がまた流れてきたら。そう思うと、怖い。
私は慶さんのあんな顔、視たくはない。
頑なに拒む私に、慶さんは深くため息を吐いた。
「一威、お前手袋持ってるか?」
「手袋?ああ、持っているが」
下柳さんが投げた手袋を、慶さんがはめる。これでいいだろうと、彼は有無を言わさずに強い力で私を引っ張った。
「放っておいたらまずいってお前、わかってるだろ。ちっとは大人しくしてろ馬鹿」
彼の手が傷に触れる。
手袋越しの体温に、私はなぜだか少し、泣きたくなったのだ。
一通り手当てを終えると、下柳さんが改めて彼女に切り出した。
「学費は君が盗んだ、そうだろう?」
「・・・・・はい」
茫然としながらも、彼女がそう答える。
その姿はもう、すべてどうでもいい言っているように見えた。
「私が、学費を盗みましたの。先生方が部屋を空けた時を見計らって」
「どうしてお嬢さんの学費だけ盗まなかった?なぜ彼女を犯人と思わせるような事を・・・・・」
「そんなの、下柳様はおわかりになるんじゃなくって?」
わかっているのに言わせるなんて、と彼女は乾いた笑みを浮かべた。
「彼女は私達とは異なります。庶民の家柄、異人の姿をした容姿、そのすべてが生徒達の注目を集めている」
「そんな彼女なら、盗みを働いたとしても誰も疑わないと?」
「ええ、それに彼女は声が出せない。犯人に仕立てるのに、これ以上都合のいい人材は他におりませんわ」
微笑みながら百合さんは顔を伏せた。
なぜだろう。その口調とは裏腹に、彼女の表情は穏やかに見える。
「彼女が下柳様の知り合いだとは思いませんでした。もう少しで、私の思うようになりましたのに」
「誰の差し金だ」
「誰とは?」
慶さんは、どこか確信したように百合さんへ言葉を投げる。
「お前の意思で盗んだとはどうにも思えねぇんだよ。父親か?母親か?それともお前の兄か?どいつに言われて盗んだ」
「・・・・・何をおっしゃっていますの?」
壊れてしまった写真立てに入っていた、柔らかな時間が流れているあの写真。
彼女の家族は、変わってしまったのだろうか。
そう思うと床に散った写真は、どこか作り物のように見えた。
「盗みを強要したのは君の父上だろう?」
「そんな事・・・・・!」
「君の家は、借金にまみれ壊れかかっている。社交界では有名な話だ」
下柳さんは彼女に一歩近づき、その顔を指で持ち上げながら見下ろす。
しかし彼女は、毅然として言い切った。
「そんなこと、ありませんわ。代々続く高原家が壊れるなんてそんなこと」
「誰よりも、君が知っているはずだ。金策も尽き、君自身が借金の糧にされようとしているのだから」
借金の、糧。それはつまり・・・・・
「そんなこと、ありえませんわ」
彼女は叫んだ。顔を歪ませて、私達を睨みつける。
「あの学費があれば、心配ありませんもの。私を縁談に出さずに済むと。父はそう、約束してくれましたもの」
そうか。彼女は望まない結婚を避ける為、あんなことをしたのか。
「娘を騙して盗みをさせる、ね。随分立派な父親もいたものだ」
「そんな額ですべての借金が返せるわけでもあるまい。盗んだ金は、父親に渡したのかい?」
「・・・・・父は本日出張から帰ってくる予定です。お金はまだ、私の部屋ですわ」
それを聞いてほっと胸を撫で下ろす。
生徒全員分の学費だ、お金が返ってこなければ、盗んだ人物がわかっても生徒たちの不満は爆発してしまう。
あと少し、ここへ来るのが遅ければすべて手遅れになってしまう所だった。
「その父親が帰って来る前に、盗んだ金を渡してもらおうか」
慶さんが座り込んだままの彼女を起き上がらせ、部屋を出て行こうとしたその時、慶さんが手をかけるより早く扉が開いた。
「これはこれは、下柳様」
現れたのは恰幅のいい男性だった。笑顔を浮かべながら、私達に近づいて来る。
「お父様!」
彼は百合さんに目もくれず、下柳さんの隣へ立つと挨拶を始めた。
「久しぶりですな。なんでも我が娘に会いに来たと」
「ええ、まぁ」
下柳さんが言葉を選ぶように答えると、彼は満足げに口を緩めた。
「百合を気に入っていただけるようでしたら、ぜひ下柳様の妻の候補としてお考え下さい。いつでも嫁に出す準備は出来ておるものですから」
「そして婚姻の暁には、借金を返せるくらいの金を一威から貰おうってわけね」
「誰だね、君は」
「貴族様に名乗る程の者じゃねぇよ」
高原子爵は怪訝な顔を向けるが、慶さんは肩を竦めるだけだった。
その様子に、高原子爵が腹を立てるのがわかる。
彼は慶さんに下柳さんとの会話を遮られて、酷く不機嫌になっていた。
下柳さんは、そんな彼に笑みを浮かべる。
「高原子爵、貴方は何か勘違いされている」
「どういう事ですかな?」
「せっかくだがその提案は丁重に断る。娘を脅して、盗みを働かせる貴方のような父を、僕は義理だとしても父とは呼びたくないのでね」
「な、まさかお前裏切ったのか!」
百合さんに近づいた子爵は、容赦なく彼女の頬に殴りかかろうと腕を振り上げる。
しかしその直前、慶さんがその腕を抑えつけた。
「どこまでも身勝手な奴だな」
「お父様、違いますわ。私は裏切ってなんて・・・・・」
「黙れ!お前は親の顔に泥を塗る気か!」
興奮している高原子爵の声と、百合さんの悲痛な声を遮るように、突然パンっと大きな破裂音が響いた。
「・・・・・!」
興奮した彼女達を抑える為、下柳さんが両手を思い切り叩き合わせたのだ。
水を打ったようにしんっとした空気が、辺りを包み込んだ。
「落ち着き給えよ子爵。いや、もうすぐ貴方は子爵ではなくなるのか」
「何を、言って・・・・・・」
顔を青くしながら動揺する高原子爵に、下柳さんは落ち着きを払った声で言い放つ。
「高原子爵、速やかに爵位剥奪の手続きを。貴方に華族を名乗る資格などない」
(九)
百合さんから学費を返され、私達は再び学校を訪れた。
「やはり、彼女が盗んでいたのだね」
「ああ、六条さんの読み通りだ」
「そうか・・・・・」
私達が高原家に足を運ぶ前から、六条さんは百合さんが学費を盗んだ事に気づいているようだった。
彼女の家に借金がある事、学費の回収方法に革の鞄を使う事、それらを教えてくれたのは六条さんなのだ。
『百合さんは、どうなるのでしょうか』
父親の爵位が無くなった後、彼女はどうなるのだろう。この学校に通うことはもうないのだろうか。
そうだとすれば少し、やりきれない。
そんな私の考えを見通したように、六条さんは断言した。
「彼女には学校に残ってもらうよ。家がどうだろうと関係ない、私の大事な生徒だからね」
「金を盗むような人間に手を差し伸べるってか」
「生徒を更生させるのも学校の役目だよ、慶一郎君。鈴ちゃん、君は納得してくれるかい?」
もちろんだ、と私は頷く。
すると六条さんは安心したように息を吐いた。
「まずは学費盗難騒動を収束させないとね。高原さんには鈴ちゃんが学費を盗んだという報告を撤回するよう、私から話をしておこう」
「あいつ、そう素直に撤回するか?」
「撤回しなければ事実を公表する。そう言えば彼女は喜んで条件を飲むだろう」
『でも、そうしてしまうと今度は百合さんが非難されるかもしれません』
「学費は先生方の部屋から見つかった。最初から奪われたのではなく、紛失していた事にしよう。多少無理のある言い訳だが、学費はすべて戻って来た。誰も文句はないだろう」
速やかに収束させるのが私の仕事だと言う六条さんの言葉に、肩の力が抜ける。
『私、百合さんとお友達になりたいんです』
「突然どうしたんだい?鈴ちゃん」
慶さんと下柳さんは驚いているが、私はここに来るまでずっと、考えていたのだ。
私が学校の人達に少しでも受け入れてもらえていれば、今回の件はこんな大事にならなかったのではないかと。
『私は、学校の人達に自分を理解してもらう事を諦めていました。いつか仲良くなれたらいい、そんな事を思ってた。でも、受け身のままじゃ、いつまでも変わらない。まず、私から人を理解したい。だから百合さんと仲良くなりたいんです』
「だからってお前を利用した張本人と仲良くなるとか・・・・・馬鹿なの?」
『これでも特待生です』
馬鹿馬鹿と言われているが、勉強には少しだけ自信がある。失礼ですよと胸を張ると、慶さんに呆れられた。
「簡単じゃないと思うけど。まぁ、程々に頑張れ」
確かに彼の言うように簡単ではないのだろう。
それでも少しずつ、彼女の本心を知りたい。
華族という檻から出た彼女と、私はどれだけ向き合えるか。
少しの不安と楽しみを想像しながら、私は停学後の生活に胸を躍らせた。
(十)
六条さんの部屋を出た後、そのまま南雲堂へ戻る。
買い物をしたいという一威にしつこく頼まれ、鈴が夕飯の準備をしている間だけ店を開けることにしたのだ。
「そういえば悪い、手袋だめにしちまった」
一威から借りた手袋を見ると、鈴を止血した時の血が所々に飛んでいた。
「構わない。どうせ消耗品なのだから」
処分しておいてくれという言葉に頷くと、一威は本心がわからないような笑みを浮かべた。
「それにしても、今日は珍しいものを見た」。
「珍しい?」
「出会って半年もしない彼女の為に、君がここまで必死になるとは思わなかったよ」
反射的に一威を睨む。だが、俺の視線を受け入れ、なお真っ直ぐに見つめられた。
「お嬢さんを気に入っているからなのか、それとも別に、目的があるからなのか」
「何が言いたい」
「お嬢さんを気に掛けるのと、椿ちゃんの件は関係あるのか、とどうしても気になってしまうのだよ。君は見返りもなく人助けをする性格ではないしね」
「考えすぎだろ。椿の件だって、軍から情報がもらえれば楽なんだけどな」
「慶一郎」
俺を見る一威の目がすっと細められる。
その瞳に映る感情は同情か、怒りか。
まぁどちらだって構わない。
「椿ちゃんの事を忘れろ、とは言わない。あんな最期だったんだ、忘れられるはずがない」
そう、忘れられるはずがない。あの日の事は今でも鮮明に思い出せる。
だから俺はどんな手を使ってでも、あいつを殺した犯人を・・・・・
「犯人に怒りを覚える。お前に同情もしてる。でも僕は、復讐をしようとしているお前に手を貸そうとは思わない。わかっているだろう?」
こいつはいつだって正しくあろうと生きている。
時々憎らしくなる程に、それは徹底している。
「もしお嬢さんを利用しようとしているのなら、彼女とはすぐに距離を置け」
「その理由は?」
「過去を過去とする為、必要な事だからさ。生きているものは先に進む事が死者に対して悼む事と同義だ。復讐に囚われると、君が前へ進めない」
先に進む。そんなもん、とっくに諦めてる。
「俺は、自分のしたい事を貫く。例え誰にどう思われようと、誰を裏切ろうと」
一威の言う通り、俺はあいつを利用しようとしている。
最初から、それが目的で傍に置いている。恨まれる覚悟はもう出来ている。
黙る俺に、一威はそれ以上追及する事は無かった。
俺は初夏の暑さに舌打ちしながら、ゆっくりと目を閉じた。
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