帝都幻灯カレイド 

靺月梢

第1話 華と果実

 赤い海に身体が沈む。

 捨てられるように彼女が浮かんでいた。

 必死で手を伸ばし、体を引き寄せると、その顔が苦痛に歪む。


「タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ」


 抉られ、空洞になった瞳。

 空っぽのその場所から、赤い涙が伝う。


「タスケテ、オ、ニイ、チャ・・・・」


「・・・・・っ」

 映像が途切れ、目を開くと徐々に暗闇が広がる。心臓が早鐘を打ち、荒くなっていく呼吸を、胸に手を当てて落ち着かせた。

 夢を見た、あの日の夢を。

 どれだけ日常を取り戻したつもりだろうと、忘れるな。そう警告しているみたいに。


「夢にまで現れなくても、お前のかたきはとってやるよ」


 誰にも届かないその言葉は暗闇に飲みこまれていった。


「華と果実」


(一)

 時は大正、明治五年に発生した大火から復興した銀座の煉瓦街は、今日も多くの人が行き交い、賑わいをみせている。

 街鉄の通る大通りから少し外れた場所に店を構える「南雲堂なぐもどう」は創業三十年の老舗本屋だ。

 古書や純文学、大衆小説はもちろん専門書や洋書まで多くの本を取り扱うこの店は、店主の並々ならぬ本へのこだわりで溢れている。

 東西南北すべて回り、本をかき集めている店主の執念は、彼の息子から言わせると「なにかに憑かれてるに違いない」とのことらしい。

 そんな南雲堂に居候しているのが私、初野鈴はつのすず今日も朝の日課、外掃除の最中である。

「休日の朝からよくやるなぁ」

 振り向くと南雲堂の息子、けいさんこと南雲慶一郎なぐもけいいちろうさんが、長い髪を赤い紐で一つにしながらやってきた。

 着流し姿の彼は寝起きらしく、眉を寄せながら欠伸をしている。

 昨晩飲み屋から帰って来るのが遅かったせいかお酒の匂いも漂ってきた。

 すんすんと匂いを嗅いでいると慶さんに犬っころみてぇだと笑われる。

 動物扱いされたことへの抗議を目で訴えるが、なお笑い続けるだけで聞き入れてくれる様子はない。

 仕方が無い。そう割り切る事にして掃き掃除を再開すると、朝には不釣り合いな大声が響いた。

「お、探したぜ慶!」

「朝っぱらから野郎の声なんざ聞たくねぇ」

 誰かと思ったら八百屋のげんさんだ。たまに腐るか腐らないか瀬戸際の野菜と果物をくれる、気のいいおじさん。その彼が大股で歩いてこちらに近づいてくる。

「いいから聞いてくれって。こちとら困ったことになってんだ」

「それなら警官にでも言えよ」

 聞く気もないと煙管きせるを取り出し、ゆっくり口に運んでいく。その仕草が絵になるのが慶さんだ。

「あいつらに相談しても取り合ってもらえなかった。だからここに来たんだろうが」

「そりゃ災難だ。じゃ、俺はここで」

 素っ気無く立ち去ろうとする慶さんを、慌てて玄さんが両手を広げて留めた。玄さんの顔はとても緊張していて、本当に困っているのだと判る。 


 少しくらい、話を聞いてあげてもいいんじゃないかな。


 普段、私達の食卓を支えているのは玄さんのお店の野菜や果物だ。

 いつもおまけだといって他のお客さんより多く野菜をくれる。慶さんの好物の南瓜の煮付けだって、玄さんのおかげで食べられると言ってもいい。

 そう慶さんに主張するべく彼の右袖をしっかりと掴むと、慶さんは少し驚いたように切れ長の瞳を大きくさせた。

「そんなに頬膨らませてると、旦那の貰い手なくなるぞ」

 彼の左手が、私の頬に溜まった空気をぷしゅうと抜く。

 はぐらかされまい。

「慶さんの好きな南瓜の危機かもしれないんですよ」という思いを込めて彼を見続けていると、とうとう慶さんが折れてくれた。

「話くらい聞いてやれ、ってか?」

 よかった。言いたいことが伝わったらしい。彼の言葉を肯定するべく首を下げると、ため息が髪にかかった。

「とりあえず中に入れば。寒いし」

 そう言いながら、彼は面倒くさそうに店の中に入っていった。

 

 お店の奥にある小さな部屋に玄さんを案内し、用意したお茶を二人に出す。

「ありがとよ、鈴」

 玄さんの言葉に頷いた後、途中だった掃除を再開する為に立ち上がった。だが、すぐに慶さんに肩を掴まれ、身動きが取れなくなってしまう。

 これは一体、どういう事なのだろう。

 狼狽える私を見ながら、彼は意地悪そうに微笑んだ。

「お前が厄介ごと持ち込んだんだ。ここにいろよ」

 どうやら私にも話を聞かせてくれるらしい。

 大人しく慶さんの隣に座ると、玄さんはお茶を一口含み、切羽詰った表情で話し始めた。


(二)

 親父の代から続くこの八百屋は地域に根付く自慢の店だ。

 売り上げもまずまず。これは息子の代も安泰だと思っていた矢先、最近奇妙なこ

とが続いている。


 店の果物が消えるのだ


 まず始めは、林檎が消えた。

 仕入れたはずの林檎が消えている。

 夜、店の倉庫の中に確かに置いたはずなのに、どこを探しても見当たらない。

 きっと泥棒にでも盗まれたのだろう、とその時は考えた。だから馴染みの鍵屋に頼み、倉庫に頑丈な錠をかけたのだ。

 これで安心だ。そう思っていた三日後、俺は自分の目を疑った。

 今度は舶来品のバナナがすべて無くなっていたのだ。

 鍵のかかった蔵からどうやって盗むというのだろうか。

 外から侵入できる場所は二つしかない。

 一つは子供一人が通れるか通れないかという大きさの出窓、もう一つは普段出入り口として使っている扉。

 出窓から果物を持って出入りできるとは考えられず、おそらく普段俺たちが使っている扉から盗まれたのだろう。そう容易に考えられるのだが、妙な事が一つある。

 鍵屋に頼んで掛けた頑丈な錠が、壊されてないのだ。

 最初に林檎を盗まれた時、蔵に施錠していなかった。それで盗まれるのは理解できるが、扉に錠をかけた後にまた盗まれるというのはどういうことだろう。

 考えても埒があかない。

 そう思いバナナが盗まれた翌日、警察に赴き被害の相談をした。

「寝ぼけてもう売っちまったものを盗まれたって言ってんじゃねぇのか?」

 警官は初めこそ同情的だったが、店の蔵を見るなり、俺のせいで余計な時間を取ったとばかりの態度に変わった。

「なんだ、鍵も壊れていないじゃないか。あのなぁ、普通盗みを働く奴ってのはこんな安っぽい扉なんぞ壊して入るんだよ。それがここはどうだ。壁一つ壊されてないじゃないか。盗みなんて嘘じゃねぇのか」

「嘘なんて吐くかよ。ほんとに売り物が無くなったんだ!」

「嘘じゃねぇならボケだな。いい歳なんだから、早く息子に家業を譲ってやれや。ボケがこれ以上酷くならないうちにな」

 そう言いながら、俺の靴に唾を吐き捨て去っていった。

 これだから、警察ってのはいけすかねぇ。

 行き場のない怒りを抱えながら、俺は馴染みの本屋に鬱憤を吐き出す為、歩き出したのだ。


「そんな経緯で俺はここまで来た。慶よ、これをどう思う」

 足を崩しながら座っている慶に、愚痴を混ぜつつ事情の説明を終える。

 駆け足で話をしたせいか、喉が酷く渇いていた。それに気づいたらしい鈴が急ぎ足で熱いお茶を持ってきてくれた。

 礼を言いながら、しみじみ気の利く娘だと思う。

 鈴が南雲堂にやってきて、もう三ヶ月程経つだろうか。

 南雲堂の主人である南雲修蔵なぐもしゅうぞうが、鈴にこの場所で暮らすよう、半ば強引に勧めたらしい。

 初めて俺が修三に鈴を紹介された時、それはもう驚いた。       

 一番驚いたのはその瞳。

 海みてぇな青色の瞳に、俺は言葉を失った。

 黒髪から覗く青い瞳に見つめられると、彼女から底知れないものを感じたのだ。

 初めのうちは互いにぎこちなかったが、言葉を交わしていく内に、鈴は俺に笑顔を向けてくれるようになった。

 今では何事にも一生懸命な鈴の事を、俺はけっこう気に入っているのだ。


 お茶と一緒に貰った饅頭に手を伸ばしながら思いに耽っていると、慶一郎が面倒くさそうに口を開いた。

「夜に果物が取られるってんなら、見張りでも立てておけばいいじゃねぇか」

「一つ問題がある」

 鈴が不思議そうに首を傾げている。

 ここからが一勝負だ。なんとしてでも慶一郎を納得させなくちゃならねぇ。

「俺は見ての通り、老体だ。見張りくれぇならともかく盗人を捕まえるこたぁできねぇよ」

「できねぇと思うからできねぇんだよ。気合い入れりゃなんとかなる。安心しな、骨くらい拾ってやるから」

 しれっと話の腰を折る野郎だ。限界まで体を酷使しろってか。

「お前が枝豆くらい小さかった頃から知ってる俺に、よくそんな口が聞けたもんだな」

「人を酒のつまみに例える相手に気を使う義理はないね。玄さんが無理ならあんたの息子にでも見張りをさせれゃいい」

「あいつは生憎、野菜の買い付けであと五日は帰ってこねぇよ」

 ため息を吐いてみせると、慶は眉をぐっと寄せた。どうやら俺の言いたいことを察したらしい。

「俺に一晩中見張りをして欲しいって言いたいわけ?この寒空の下で、しかも真夜中に?」

「お、察しがよくて助かるねぇ。よっ!色男!よっ!日本一!」

「あからさまに持ち上げんな気色悪りぃ。どうせ最初から俺に見張りを押し付けるつもりだったんだろうが」

長々と愚痴に付き合わされた挙句にこれかよ。そう言い放つ慶一郎に頭を下げる。

「慶」

「あぁ?」

「後生だ、夜見張りに付き合ってくれ。家には息子の嫁さんと、二つになる孫しかいねぇ。盗っ人が近くにいるような状況で、あいつらに何かあったらと思うと夜も眠れねぇんだ」

 被害が店の売り物の内はまだいい。だが、もし家族にまで被害が出たら。そう思うと背筋がぞっと、寒くなる。

 こんなことを頼めるのは、慶一郎しか思いつかなかった。

「頼む」

 床に頭を付けながらそう言うと、鋭い声で制された。

「その格好、止めてくれ。らしくない」

 何も言えずにいる俺を横目に、慶一郎は顎に手を置き、数秒考える仕草をした。 

「年代物の純米大吟醸、それで手を打つ」

「慶・・・・・!」

「この前手に入ったって言ってただろ?それで引き受けてやるよ」

 

 さっそく今夜から蔵の見張りをすることに決まった。店に戻ろうと出口に向かっていると、パタパタと鈴が駆け寄って来る。

 次の瞬間、鈴は俺の腕を引き、玄関に向かって勢いよく指を突き付けた。

「どうした?鈴」

 声が出せない鈴と意思疎通を図るのは難しい。

 大抵のことは今のような身振りで判るようになってきたが、こんな風に戸惑うことも多い。

 紙とペンでも持ってきてやろうとしたその時、まだ居たのかと言いながら慶がやってきた。

「慶、鈴が何か伝えたいらしいんだが、紙とペンはあるか?」

 慶は申し訳なさそうな表情をしている鈴をじっと見つめ、それから言う。

「鈴、もう一度伝えてみろ」

 鈴は何か考えるように目を閉じ、そして先程話していた奥の部屋まで小走りで駆け出した。

 鈴が戻ってきた時、彼女の手には意外なものが握られていたのだ。

「林檎?」

 俺がその林檎に触れると、嬉しそうに鈴が頷く。

 それは一体何を意味するものなのだろうか?

 林檎をじっと見つめる鈴。その様子に俺が戸惑っていると、慶が閃いたように手を叩いた。

「お前、蔵の見張りに付いていきたいわけ?」

 ぱっと顔を輝かせ、慶の言葉に鈴は大きく頷いた。

「玄さんどうする?」

「どうするって・・・・・。いいか鈴、もしも盗人が刀なんぞ持ってたら危ないだろ?大人しくここで留守番してくれると嬉しいんだが」

 気を使ってくれることは嬉しいが、年頃の女を危険な目に合わせるのは気が引ける。気持ちだけ受け取ると伝えると、鈴は首を横に振った。

 なんとしても付いていきたい、そう言っているようだった。

 彼女の頑固さに頭を抱え、思わず慶を見ると彼は案の定眉を寄せていた。

「しょうがねぇ奴」

「しょうがねぇって、どうするつもりだよ慶」

「連れていく」

「しょ、正気かお前?」

 思わず慶に掴みかかると、男に触られる趣味は無いと無理やり引き剥がされる。

「玄さんは知らねぇだろうがな、こいつは一度決めたら頑固なんだよ。ここで俺達が止めても、鈴は黙って俺達の後を追うだけだ」

 そうだろ?と慶が鈴に声を掛けると、彼女は大きく頷いた。これではもう止めても無駄か。

「あーもう分かったよ。連れてってやるよ」

 ただし無茶だけはするなと鈴に念を押し、俺は今度こそ南雲堂を後にした。

 ここ数日悩んでいたことが今夜解決する。そう思うと気持ちが随分と楽になったようだった。


(三)

 そうだ、残ったものでおうどんにしよう。

 あと半刻もすれば昼時になってしまう。慌てて台所に立ち、野菜を切っていく。

 三人前のうどんを茹でている途中で、修三さんの事がふと頭に浮かんだ。

 店主の修三さんは、書物発掘の旅と称してここ七日ほど帰って来ていない。

 行き先も告げずに毎回出て行く為、今どこにいるかさえ分からないが、突然帰ってきてもいいように多めに食事を作っておこう。もし余っても慶さんが食べてくれるから心配する必要はないだろう。

 そこまで考えた後、唇から溜息が漏れた。

 食事の用意は楽しい。今まで私の作った料理を食べてくれる人は家族しかいなかったから、修三さんや慶さんに美味しいと言ってもらえると嬉しいのだ。

 でも、今日は楽しいはずの料理がいつもより集中出来ない。

 今夜のことを考えると背筋がピンっと伸びてしまうのだ。

 醤油と昆布でキノコ、生姜、鳥肉を煮付けたつけ汁に、茹で上がったばかりのうどんを入れる。

 いつも通り、いつも通りと心で唱えると、少し落ち着いてきた。

 出来上がりと同時に、ドンっと午砲が響く。慶さんを呼んでこよう。


「うん、うまい」

 お店を一旦閉め、慶さんと一緒にご飯を食べ始めて十分(じゅっぷん)。

 私が半分のうどんを食べる間に、慶さんの器に入ってるうどんはみるみるうちに無くなっていった。 

 いつもの事ながら、なにか幻術でも使っているような食べっぷりだ。

 器に入っているうどんを食べ終え、慶さんが言う。

「ごちそうさん。お前が料理得意で助かる」

 思わぬ感想にありがとうございます、とお辞儀をしながら、ついつい頬が緩んでしまう。

「声が出なくても十分わかりやすいよなぁ、お前」

 考えてることがそのまま顔に出てると指摘され、慌てて顔に手を当てる。

 言葉を出すことが出来なくなって、もうどれくらいだろう。

 それほど月日は経っていないのに、声を発さない生活が染みついてしまった。

 こんな風に、慶さんが私に向かって話してくれたり、表情を読み取ってくれると声を出して話してみたくなる。

 そう思うくせに、いざ声を出そうとする度何かが喉に引っかかり、舌も口内も、痺れたように動かなくなるのだ。

 声の出し方を忘れてしまった。

 まるで私の意志とは関係なく、身体が拒否反応を起こしているみたいだ。


(四)

 食事を終え、店の本棚を整理していると、大きな声が店中に響いた。

「慶、大変だ!」

 朝話したばかりの玄さんが、頭に鉢巻を巻いたまま店に飛び込んで来たのだ。

慶さんはうんざりした表情を隠しもしなかった。

「これから昼寝だっての」

 安眠妨害もいいところだと怒鳴る慶さんに目もくれず、玄さんは焦ったように捲くし立てた。

「で、出たんだよ!」

「出たってなんだよ。この時分に幽霊でも見たのか?寝言は寝てから言え」

「冗談言ってる場合か馬鹿!、例の盗人ぬすっとが出たんだ!」

「この真昼間に?」

「ああ。あの野郎、わざわざ買い付けに行った山梨県産のぶどうを盗みやがった。なかなかいい目利きしてやがる」

 敵ながらあっぱれな選択だと玄さんが息巻く。その盗人さんはなかなかお目が高いらしい。

「大胆なのか、ただの馬鹿なのか。ま、今回は盗んだ奴の顔も当然見てんだろ?」

 だったら警察に人相話してさっさと捕まえてもらえ。慶さんが促すが、そう簡単な話ではないらしい。

「それが、盗人が現れたのは孫と一緒に店番してる時だったんだ。俺が店の奥に忘れたそろばんを取りにいってる間、してやられた」

「つまり、玄さんは盗人の顔を見てないと」

「ああ。店から目を離したのは一分ほどの時間だ。まさか昼に盗みを働かれるとは思わなかった。完全に気が抜けてた」

 拳をテーブルに打ち付ける玄さんは悔しそうで、かける言葉が見つからない。

「悔やんでいたって盗られたもんは返らねぇよ」

「お前なぁ、傷心中の俺にもっとかける言葉があるだろうが」

 血も涙もない野郎だと玄さんは食ってかかるが、慶さんは素知らぬ顔だ。

 慶さんは玄さんの話を聞いているのかいないのか、気のない返事をしていると、突然伏せていた目を開いた。

「あ・・・・・」

「あぁ?なんだよ」

「なぁ・・・・・玄さんが店の奥に行ってる間、晴一はどうしてた?」

「はぁ?そんな事どうして知りてぇんだよ?」

 怪訝な顔をした玄さんに向かって、慶さんは真剣な顔つきで言い募る。

「いいから答えろ。どうなんだ」

「孫は店に残してた。実際盗人の顔を見たのは孫の晴一せいいちだけだがな、あいつはまだ言葉を話せねぇ。まさか晴一を頼りにするわけにいかねぇだろ」

「玄さんより十分頼りになるじゃねぇか」

 椅子から立ち上がり、慶さんが『本日臨時休業』の看板を取り出すと、玄さんが意味がわからねぇと呟いた。

「お前、何する気だよ」

「何かするのは俺じゃねぇ」

「はぁ・・・・・何言ってんだお前?」

 玄さんの言葉を無視しながら、慶さんは肩に羽織をかけ、帽子を深く被る。

 外に出かける用意ができた彼は、私に向かってコートを投げた。

「外は冷えるから着とけ鈴。あれ、頼めるか?」

 その言葉にはっとする。そうか、そういうことか。

 うまくいく事は少ないけれど、やってみる価値はある。

 慶さんからコートを有難く受け取ると、彼を追うように外へ出た。

 覚悟を決めなきゃならないな。

 手に着けている手袋を、私は決意を込めてギュッと握り締めた。


 慶さんを追いかけ、速足で銀座の街を歩くと、数分で玄さんの営む八百屋へ到着した。

「あら、久しぶりじゃないか」

 しおりさんと、その息子である晴一くんに声を掛けられた慶さんは、適当な返事をしながら遠慮なく店の中に入っていく。その様子に栞さんは呆れたように肩を竦めた。

「慶さん、こんな時間からさぼたーじゅってやつかい?」

「まさか、俺は真面目な働き者だからな」

「街で見かける度、仕事抜け出して女をとっかえひっかえしてた男が何を言うのかねぇ。最近はさすがに控えてるみたいだけど、年頃の鈴を預かってるんだ。しゃんとしなさいな」

 慶さんの背中を叩きながら栞さんは私に笑いかけてくれる。

「鈴ちゃん、この男が悪さしたらお姉さんに言いなさい」

 悪さって、どんな事だろう。

 不思議に思い慶さんを伺うと、額を指で弾かれた。

「俺だって相手は選ぶっての。そんな事より本題だ。栞さん、ちょっと晴一借りるぞ。重要な目撃者だ」

 店先に居ついた猫と遊んでいる晴一くんを抱きかかえ、慶さんは店の奥に進んでいく。

 事情を知らない栞さんは、何が起こっているのかと玄さんに問いかけた。

「晴一が目撃者?どういうことだいお義父さん」

「いや、俺にもさっぱりなんだが・・・・・慶、まさかお前、晴一に盗人の面を聞く気かよ?」

「ご名答。鈴、来い」

 慶さんに名前を呼ばれ、店の奥に進んでいく。すると、不思議そうな表情をしている晴一くんと目が合った。

 晴一くんを安心させるように笑いかけ、私はゆっくり手袋を外す。

 この瞬間が、緊張するのだ。

「一体何が始まるんだ?」

 栞さんに店番を任せた玄さんが怪訝そうに私達の動向を気にすると、慶さんが嫌そうに顔を歪めた。

「玄さんは来なくていいんだけど。鈴、外野は気にすんな。落ち着け」

 わかりました。そう頷きながらさっそく晴一くんの手を取り、瞳を閉じる。

 その数秒後・・・・・


 バチンッと瞳の奥が弾けるように光った。

―来る

 活動写真のようにパラパラと、晴一くんの過去が投影される。

 これは、この記憶は・・・・・

バチンッ

 大きな音と共に映像が途絶え、瞳を開く。

 今、見てしまった映像を思い出すと、顔に熱が集まってくるのがわかった。

「・・・・・っ」

 な、なんて場面を視てしまったんだろう。よりによって、あんな・・・・・

「どうした?鈴」

 慶さんの言葉に上手く反応できない。

「なんだなんだ?鈴、お前いきなりどうした?顔真っ赤じゃねぇか」

 玄さんの声を聴いた途端、体が飛び上がり、めいいっぱい距離を置いてしまう。

「おい鈴。ほんとにどうしたんだよ。熱でもあるんじゃねぇか?」

 心配されているのが分かるが、今は玄さんの声を聴くだけで、視たものを思い出してしまう。

 どうしようかと途方に暮れている私に、慶さんは帳面と筆を差し出してくれた。

「落ち着け。何を視たのか、ちゃんとここに書いてみろ」

 慶さんに撫でられた背中が暖かい。

 そうだ、落ち着こう。ただ視たものを、簡潔に書けばいいんだ。

 一息ついて私は筆を取り、ありのままの事実を書き上げて見せた。

『銭湯で、玄さんは晴一くんを抱いて入浴していました。そしてお湯から上がる時、つまずいて頭から転んでいたのが視えたんです』

 恥ずかしくて目が合わせられない。

 しばらく経っても何も言わない二人が気になり、ちらりと様子を窺うと、玄さんが最初に口を開いた。

「こりゃ・・・・・どういうことだ?」

 狐にでも包まれたような顔とはこんな顔の事を言うのかもしれない。呆気に取られてる玄さんに、慶さんが事情を説明してくれる。

「鈴はたんだよ」

「み、視たって、何をだ?鈴が銭湯で俺を覗いてたとでも言う気か?確かに、俺は一昨日晴一と行った銭湯で転んだ。今でもその時のたんこぶがあるくれぇだが、なんで鈴がその事を知ってんだ?」

「だから、そのままの意味だ。鈴は素手で人の肌に触れると、そいつの過去を視ることが出来るんだよ」

 そう、これは生まれつきのものなのだ。

 小さな頃から素手で誰かの肌に触れると、色々な情景が流れてきた。

 それが人の過去の記憶だと知ったのは、物心ついてからの事だ。

「過去の一部が活動写真のように流れてくるらしい。視たい記憶を選んで視る事は出来ない。とにかくそういう事だ」

「う、嘘だろ!」

 騙されねぇぞ、と玄さんは慶さんに言い募る。半信半疑という感じだ。

「嘘も何も、今話したことが全てだよ。鈴が晴一に触れれば、盗人に会った時の記憶が視えるかと期待したが、玄さんの残念な姿を視ただけか。鈴、こんなどうでもいい記憶はすぐ忘れるに限るぞ」

 すぐ忘れろと言われたって、なかなか忘れられるものではない。男の人の裸を、嫁入り前に図らずも見てしまったのだ。

 普段は他人の記憶を覗き視ないよう、手袋をして気をつけているが、視たいものが視れないというのもまたもどかしい。

「お、俺は年頃の娘になんてものを!」 

 突然大声を上げ、頭を抱えた玄さんが私を見るなり土下座する。

「確かに、鈴が銭湯を覗くなんて考えられねぇ。慶が言っていた事を信じるなら俺は、なんて事を・・・・!」

 繰り返し玄さんに謝られ、申し訳ない気持ちになりながら、私は帳面に文字を書き足した。

『顔を上げて下さい玄さん!私も、勝手に記憶を視てしまってごめんなさい』

「いや、俺こそ疑ったりしてすまねぇ・・・・」

「玄さんさぁ、粗末なもんうちの居候に見せないで欲しいね」

「慶、お前言わせておけば・・・・・!」

 わいわいと、いつものように言い合う二人の声が聞こえ、やっと肩から力が抜けるのが分かった。

 よかった、玄さんに「気持ち悪い」と言われなくて。

 過去が視えてしまう力は、人を不快にさせてしまうものだ。

 今まで何度も嫌悪されてきた力を玄さんは受け入れてくれた。

 そう、ほっとしていたその時・・・・・。

「ねんね」

 膝に頭を乗せた晴一くんが私の右手を取る。

 そして手袋を外したままの右手に頬を寄せ、悪戯したと言うように微笑んだ。

 しまった・・・・・!

 そう思った時にはもう遅く、私は流れる映像に身を任せるしかなかった。 


バチンッ

 一人でお店にいる晴一くんが、瞼の裏に映し出される

 これはいつの記憶だろうか・・・・・

 玄さんがお店の奥に入ると、見計らったかのように一人の少年が店の前に現れた。 

 ぼろぼろの着物、そこから伸びる腕は痣だらけ。

 銀座では珍しい風貌の彼は晴一君を睨みつけた後、ぶどうの入った籠を持ち去った。

 この記憶は、もしかして・・・・・!


バチンッ

 はっと目を開けた時、すやすやと膝で眠っている晴一くんに脱力する。 

 でも、欲しかった光景を視る事が出来た。

 今度こそ手袋を着けることを忘れずに、私は急いで帳面と筆を取った。


「よくやった!」

 先ほどの光景を二人に伝え終えると、玄さんが拳を上に突き上げていた。

「お手柄だな鈴。なるほど、ガキなら蔵の小せぇ出窓から侵入して、売り物に手を出せるか」

「倉庫の出窓は立て付けが悪くて鍵が掛かってねぇんだ、コツさえ掴めばすぐに開いちまう。結局、いくら扉に錠を掛けても意味がなかったんだな」

 まったく、許せねぇガキだよな。そんな風に玄さんに同意を求められ、私は何故か複雑な気分だった。

 許されない事をしたあの少年に、同情しているのだろうか。

 少年の身体に残されたいくつもの火傷の跡。無数の切り傷が、頭から離れてくれない。

「ああそうだ!」

 少年について考えを巡らせていると、何か思いついたと言う玄さんの声が聞こえてきた。

「鈴、お前この半紙にそのガキの人相を描いてくれよ」

「・・・・・!」

「人相書きがあれば、探しやすいだろ?」

 それは確かにそうだ。人相書きを街中に配れば、有益な情報が入るかもしれない。

 善は急げと差し出された半紙を受け取り、どんな人相だったのか思い出す為、私はゆっくりと瞳を閉じた。


 こんなはずじゃなかった・・・・・

 時間をかけて完成した人相書き。これを人相書きと言っていいのだろうか。とにかく完成したものから私は顔を背ける。

 お茶を飲んでいる二人の顔をちらりと窺うと、慶さんに描けたのかと聞かれたので、慌てて首を振った。

「のんびり待っててやるから、ゆっくり描け」

 貴重な慶さんの優しさが今は辛い!

 まさかこんな風になるなんて思わなかった。まさかここまで私に美的感覚が無いと思わなかった。

 描き直しをさせてもらおうかとも思ったが、描き直したところで上手く出来る保障は無い。

 諦めた私は、二人に半紙を差し出した。

 半紙を受け取った二人は、鳩が豆鉄砲をくらったような顔で呟く。

「・・・・・人か、これ?」

「なんで上半身と下半身がかろうじて繋がっってんだ?」

「人間がこんな体勢でいる場面に出くわしたことが無いが、お前が視たのってもしかして幽霊か何かか?」

 湯水のように湧き出る率直な感想が辛い。

 そうではないと必死に首を振ると、やがて慶さんがお腹を抱えて笑い始めた。

「お前、絵の才能はまるで無いんだな」

 そうです、その通りですがそんなに笑う事ないじゃないですか。

 思わず彼を睨むと、怖い顔すんなとまた笑われる。

「失礼だぞ慶!この絵はちょっと、いやかなり化け物じみてはいるが、いい味出てるじゃねぇか」

 うう、玄さんの優しさが痛い。

 いつのまにか晴一くんも起き、落ち込んでいる私を慰めてくれる。

 居たたまれずにいると、玄さんが仕切り直したようにこう言った。

「人相書きは、とりあえず一回忘れよう。世の中には忘れた方がいいこともあるんだ」

 私の人相書きは見たら呪われる類の物なのだろうか。再び落ち込みそうになると、慶さんが快活な口調で話し始めた。

「安心しろ、鈴。人相描きなんかに頼らなくても、ガキを捕まえるいい方法がある」

「どういうことだよ慶」

「あのなぁ、ガキに何日も時間を使うほど、俺は暇じゃない。玄さんだってそうだろう?だったら今夜にでも捕まえちまうのが得策だ」

「何か考えがあるって面だな。その考え、聞かせてみろ」

 慶さんは不敵な笑みを浮かべると、私達に計画を教えてくれる。

今夜、あの少年に会えるのだ。

長い夜になるかもしれない。私はどこかでそう確信していた。


(五)

 とっぷりと日が暮れた後、私たちは蔵の物陰に三人でひっそりと身を寄せていた。

 栞さんの作ったお鍋を食べたばかりなのでお腹はまだポカポカと暖かいが、吹き付ける冷たい風が身体に襲いかかる。

「さ、さみぃなぁ!」

「大声出すなよ玄さん、気づかれたら面倒くさい。ガキだと思ってなめてたら痛い目見るぞ」 

「悪い悪い」 

 しかし寒いとまた繰り返す玄さんの気持ちはすごくわかる。本当にこの寒い中、あの少年は来るのだろうか。

 慶さんが教えてくれた計画はこうだ。

 八百屋に『本日より三日間、諸事情により休みとする』と紙を張り、今日の午後は店を閉める。店が休みとあの少年が知れば、早ければ今夜にでも蔵へ盗みに入るだろう。そう考えたのだ。

 

 もうどのくらい時間が過ぎただろうか。木々が唸るような音を立てるので驚くと、からかうような声が聞こえる。

「なんだ、怖いのか?」

 馬鹿にされるのが悔しくて、驚いただけだと目で訴えると、慶さんが肩を竦めた。

「そこは怖がってた方が得だと思うけどな」

得・・・・・?何がお得なのだろう。不思議に思っていると慶さんが続ける。

「女っつーのはな、例えそう思って無くても怖い、助けてくれって言うもんだ」

「・・・・・?」

「つまり男ってのは単純だからさ、助けてって言われるとそうしたくなるもんなんだよ」

 そういうものなのだろうか、と納得しかけるが、世間一般の男性はそうでも、慶さんは違うんじゃないかなと思う。

「何?」

 袖を引っ張り、私が怖がる仕草をすると、言いたい事が伝わったらしい。慶さんは私の疑問に答えてくれた。

「ああ、俺は女に助けてって言われても助けないだろって言いたいわけね」

 私はその言葉に大きく頷く。

 だって、南雲堂に慶さんを頼って訪ねる女性が来た時も、慶さんは大抵相手にしないじゃないか。

「なるほど、酷い言われようだな」

 でも思い当たる事がある、と納得したようだ。

「確かに女なら誰でも助けるほど、俺はお人良しじゃない」

 そうでしょう、と私が頷いていると、彼は少し考えた後、言葉を続けた。

「でもお前が助けてって言えば、助けてやってもいいよ」 

 慶さんらしくないその言葉に、思わず口をぽかんと開けてしまう。

 それはどういう意味ですか?

 そう聞きたいのに、ぐっと秘密を話すように距離を詰められ、それどころではない。

 慶さんの顔が近い。その端正な顔の、どこまでも見透かしてしまいそうな黒い瞳を意識すると、途端に頭の中が混乱する。

 場違いにも、慶さんは嫌な気分にならないのかと不安になる。

 手袋をしているにせよ、私は変な力を持っているのに。

 色々な感情が渦巻き、百面相している私に気づいたのだろう。慶さんは私から距離を置き、心底可笑しそうに笑い始めた。

「大概、初心うぶだねお前も」

「・・・・・!」

 からかわれていたのだと、今更気づいた。

 悔しいような、悲しいような気持ちになったその時、玄さんが私達に向かって緊張した声を上げた。

「おい、見てみろよあれ。どうやら作戦は成功したらしいぜ」

 はっと蔵の先を見つめると、晴一くんの記憶で視た少年が、蔵の出窓に手をかけている所だった。彼は手こずりながらも、蔵の中に入っていってしまう。

「どうする、慶」

「焦るなよ玄さん。あのガキが出てきたら捕まえる。そうすりゃ言い逃れも出来ねぇだろ」

 

 木陰に隠れ、少年を待つこと数分。

 着物の中に盗んだ物を入れているのだろうか?再び姿を現した彼は、たもとをぱんぱんに膨らませ、嬉しそうにしていた。

 彼が辺りを見回しながら立ち去ろうとしたその時、玄さんが声を上げる

「おいてめぇ!今日こそは逃がさねぇぞ」

 そのまま少年の前に飛び出すと、彼は玄さんと逆の方向に駆けだしてしまう。

 玄さんは後を追いかけるが、少年との距離は開くばかり。

 逃がしてしまうのかという程距離が開いたその時、大きな音が響いた。

 作戦成功の音だ。

「え・・・・・?」

 戸惑ったような少年の声を聞きながら、私と慶さんはその場所へと向かった。

 

 突然地面が崩れ、穴に落ちた事が信じられない。そんな男の子の顔を見下ろしながら、慶さんは話しかけた。

「どうだ悪ガキ、このおっさんが時間を費やして掘った、渾身の落とし穴の居心地は」

 私たちが栞さんの用意してくれたお鍋を食べている間も、頑張ってスコップで地面を掘っていた玄さんの努力がやっと報われた。

「随分といい姿じゃねぇか」 

「ちくしょう、ちくしょうちくしょう!」

 悔しそうに叫ぶ男の子の横に、檸檬が落ちている。 

 落とし穴から少年を引っ張り上げ、逃げないよう手首を縄で拘束すると、玄さんが彼の前に腰を下ろした。

「おいクソガキ、お前名前は?」

「うっせぇよおっさん」

「てめぇよくもそんな口が聞けたもんだな。今すぐに警察に預けて、しょっぴいてもらおうか?」

「上等だよ、どこにでも連れて行けばいいだろ!」

 目を合わせようともせず、自暴自棄になっている少年をどうしたらいいのだろうか。私達は三人で顔を見合わせる。

 このまま、何も話してくれなかったら。

「鈴、待った」

 方法はこれしか無いような気がした。手袋を外し、少年の手に触れる直前、慶さんに腕を引っ張られる。

「それは視なくていい」

 驚いていると、慶さんは少年の前にしゃがみ込んだ。

「お前、親にろくに育てて貰えなかったんだな」

「・・・・・!」

「大方、母親がお前を勝手に産んで、まともに育てずに捨てたってとこだろ。ここの蔵の管理が甘かったら、そりゃ果物の一つや二つ盗みたくなるだろうな」

 うんうんと頷きながら、慶さんは男の子の頭を撫でる。

「ガキの不始末は親の不始末。恨むなら、出来の悪いお前の母親を恨むんだな」

「かあちゃんを、馬鹿にするな!」

 腕を拘束されているにも関わらず、少年は慶さんに掴み掛ろうとする。顔を真っ赤にしながら、叫んでいた。

「母ちゃんは、オレの母ちゃんは立派で優しい、日本一の花魁なんだ!」


(六)

 いくら四民平等なんて叫んでいても、世の中は不公平で成り立っている。平等なんて言葉も、吉原という檻の中では綺麗事で、虚しいだけだ。

「私は花魁だから、誰よりも綺麗に着飾り、粋でいなければならないのよ」

 譫言うわごとのようにそう口にする母ちゃんに与えられた部屋は、粗末な物置部屋よりも小さな部屋だった。 

 オレが遊郭の裏方うらかたを始めて一年。きっかけは「母親が病気で役に立たないなら代わりに働け」と店の番台に言われたからだ。

 裏方の仕事は決して楽なものではなく、失敗すると容赦なく叩かれ、煙草を押し付けられ、罵声を浴びせられた。寒い冬も水仕事をして、遊女たちの情事の跡、床の片づけをする。

 何度逃げ出そうと考えたことか、数えるの事も忘れた。

 なぜ逃げないのか。

 だって、部屋に戻ったら母ちゃんがいるから。

 それだけが、支えだからだ。

 

 遊女の姉さんたちと仲良くなったある日、こんな事を聞いた。

「お前は知らないだろうがね、昔はあの人もここら辺では有名な花魁だったんだ」

 今は病が進行し、ろくに客も取れなくなった母ちゃん。たまに番頭に呼ばれ、客を選ぶこともできずに抱かれる。母ちゃんが今のようになったのは、オレが生まれてからだという。

 オレさえ生まなきゃ母ちゃんはまだ人気の花魁で、今よりずっと生活は楽だっただろう。でも母ちゃんは恨み言一つ、オレに向かって言う事は無かった。


「頼むよ、医者を呼んでくれよ」

 母ちゃんの容体が目に見えて悪化し、もう客も取れなくなった頃、俺は番頭に何度も頭を下げた。

「商品の価値が無いこの女を置いてやってるだけでいいと思え」

 返って来る答えはいつも同じ。番頭はろくな薬も、食べ物も与えてくれない。

 医者を呼ぶ金も、薬を買う金も無い。

 それでもせめて精の付く物を食べて欲しくて。だからあの日、時間を見計らって遊郭を抜け出した。

銀座になら何だって売っているだろう。大通りを歩いていると、一軒の八百屋が目に入る。

 店には宝石みたいな果物が並んでいて、その美しさに言葉を失う。装飾品や女たちは嫌という程見ているが、自然に美しいと思えるものを長い間見てなかった。

 オレはどうしようもなく、果物に魅せられていた。すると誰も居なかった店先から、誰かが出てくる気配がする。

 思わず店の影に隠れると、子供を抱いた女の人が現れた。

「あーあーあー」

「どうしたの晴一、お腹すいたの?」

「まんま、まんま」

「しょうがないわねぇ、今おやつを作るから、ちょっと我慢してね」

 彼女はもう一度店の奥に入り、子供の父親らしき人物に店番を頼む。

 その光景を見たオレは、途端に自分が恥ずかしくなった。

 ボロボロの着物。痣だらけの身体で、握りしめた小銭を大事に持っている自分。

 なんで、こんなに違うんだ。

 母親に甘やかされ、微笑んでいる子供との差を認めてしまうと、途端にやりようのない感情が生まれた。

 オレは悔しいのか、悲しいのか、妬ましいのか。

 

 どれくらいの時間が過ぎたのだろう。

 気が付いたら辺りが暗くなっていて、周りの店も八百屋も店仕舞いしていた。このまま手ぶらで帰るなんて、何をしに銀座まで来たのか分らない。

 八百屋の店先に人は居ない。悪いとは思ったが店員を探す為、勝手に店の裏側に回り、外の柵をよじ登る。

 地面に足を付けた先で見つけたのは、大きな蔵だった。

 きっとここが売り物を保管している場所なのだろう。遊郭にある似たような蔵でも、食料の保管をしてある蔵というのはこの大きさのものだ。 

 人を探そうと思っていたのに、何故かオレの腕は蔵の扉を開けようとした。

 案の定開かない。

 それならば、と他に入れそうな場所を探す。

 蔵をぐるりと一周すると、小さな出窓を見つけた。

 あそこならオレ一人、なんとか通れそうだ。

 出窓に近づき、力任せにこじ開けると音を立てながらも何とか窓が開く。

 これは幸運だ。そう思いながら蔵の中に入ると、赤くみずみずしい林檎を見つけた。

 その林檎を何個か掴み、懐に入る分だけ入れていく。

 心のどこかで止めろ、と叫ぶ声がした。

 同時に、店先で見た子供はあんなに幸せそうなんだ。そいつより不幸なオレが盗みをしたって罰は当たらない。そんな声も聞こえた。


 逃げるように八百屋から去り、母ちゃんの所へ戻る。

 母ちゃんは酷い熱で食欲も無かったけれど、オレが給料で買ったんだと言った林檎だけは食べてくれた。

「母ちゃん、うまいか?」

「ああ、こんなに甘い林檎は久しぶりに食べた。お前が買ってきてくれたおかげさ、有難う」

「そっか、そっかぁ!いっぱいあるからさ、どんどん食べてよ」

「ふふ、そんなにいっぱいは食べられないよ。お前もお上がり」

 そう言いながら笑った母ちゃんは、いつもより綺麗だ。

 やっぱり母ちゃんは花魁で、それも日本一綺麗な花魁なのだ。オレはそんな女の人の息子なのだと思うと嬉しくなった。

 林檎を盗んだ数日後、オレはまた果物を母ちゃんに持っていく為、八百屋の蔵の前に立っていた。

 盗みに入った事がわかったのか、出入り口の扉には以前は無かった大きな錠が掛っている。

 馬鹿だな、そんな所から入らないのに。

 そう思いながら出窓を開け、今度はバナナを盗んだ。 

 どこかの国から来たというバナナは希少で、滅多に食べられないと聞く。林檎なんかより母ちゃんは喜ぶだろう。

 持って帰ったら予想通り、母ちゃんは目を丸くした後、おいしそうにバナナを食べていた。


 その翌日、店の使いで銀座を訪れた帰り道、あの八百屋が目に入る。

 物騒な事に子供が一人で留守番をしていた。

 そしてその能天気な顔を見た瞬間、オレは思わず近くにあった葡萄を手に取っていた。

 どうにも、いけ好かない。あの幸せな風景を、幸せと感じないまま暮らしてるあの子供が、どうしても許せない。

 オレとあの子供の何が違うんだ。オレの帰る場所はあんなにも暗いのに。

 急いで遊郭へ戻る帰り道、あいつの何も知らないような顔がいつまでも脳にこびりついて離れなかった。

 無性に腹が立ち、盗んだ葡萄は店に着く前に近くの川へ捨ててしまった。

 でも、こんなことになるなら葡萄を捨てず、ちゃんと母ちゃんに渡しておけばよかった。

 そうしたらもう一度、オレがここに来ることもなかったのに。


 母ちゃんの容体が急変したのは今夜だ。

 突然意識を失い、呼吸も荒くなってきた。

 番頭に頼み込み医者に診てもらうと、今日がヤマだろうと、感情の無い声でそう言われた。


 今日が、ヤマ。今日で、オレは一人になるのか。

 そう思ったら、あの蔵へ向かう足を止める事が出来なかった。

 どうしてだろう、と思う。今更、果物を渡したって母ちゃんが死んでしまうのは変わらない。それなのに何故、オレはあの場所に行こうとしているのだろう。

 蔵に向かう道中で、唐突にその答えに行きついた。

 母ちゃんに、また笑って欲しいからだ。

 果物を渡すと母ちゃんは笑って喜んでくれる。

 ああ、そうだ。最後に母ちゃんの、綺麗に笑った顔が見たいから、だからオレはあの場所に行くのだ。


 店の前に着くと、休暇を取ると書かれた紙が貼られていた。

 人目を気にせず、思う存分盗ってやろうと意気込んでいた矢先に、まさか捕まってしまうなんて思ってもいなかった。

 こんなこと、してる場合じゃないのに。こうしてる間にも、母ちゃんは死んでしまうかもしれないのに。


(七)

 慶さんに促され、少年は盗んだ理由をぽつぽつと、途切れながら説明し終えた。

 静かに涙を流す彼を見つめながら、最初に口を開いたのは玄さんだ。

「お前、名前は?」

「なんでそんなこと聞くんだよ」

「いいから教えろ。じゃないと、勝手に名付けて呼ぶぞ」

「・・・・・龍之介。立花龍之介たちばなりゅうのすけ

「立派な名前じゃねぇか。なぁ慶一郎」

「ふーん、芥川先生と同じ名前か。確かにいい名前だ」

「名前なんてどうでもいいだろ。早く警察にでもなんでも連れていけよ」

「母ちゃんの事はいいのかよ?」

 玄さんの言葉を諦めたように聞きながら、龍之介くんはため息を吐いた。

「もう、いい」

「あ?どういうことだ」

「どうもこうもないよ。何もかも今更だ。俺が行っても行かなくても、どうせ母ちゃんは死んじまう。母ちゃんに笑って欲しいなんて、オレはどこかでまだ夢みてただけなんだ。だからもう、どうだって・・・・」

「甘えてんじゃねぇよクソガキ」

 龍之介くんが言い終わらないうちに、鈍い音が響く。

 玄さんが龍之介くんの頬を殴ったのだ。

 玄さんは顔を真っ赤にしながら、彼に掴みかかる。

「最後の最後まで、何があるのかなんて誰にもわかんねぇんだよ。てめぇが先に諦めてんじゃねぇ!」

 玄さんが龍之介くんを縛っていた紐を解き、転がっていた檸檬を彼に一つ渡す。

「はやく行け、盗人」

「ば、馬鹿じゃねぇの。同情でもしてんのか?」

「馬鹿はお前だ。これは同情じゃなくて心配だよ。ガキは大人に心配される義務があんだ」

 訝しそうに玄さんを見つめ、中々立ち上がらない龍之介くんを、慶さんが無理やり立たせた。

「お前、これからどうする?」

「え?」

「一生遊郭の裏方でもやる気?」

「・・・・・母ちゃんの借金があるから。あそこからは出られないよ」

 今までも、これからもそれは変わらないと彼は言う。

 しばらく何か考えていた慶さんは、玄さんを横目で見た後、仕方ないなとため息を吐いた。

「龍之介、遊郭から出て自由になるその時が来たら、またこのおっさんに会いに来な。悪いようにはしない」

「だから自由になんてなれないって!」

「いいから覚えとけ」

「・・・・・なんだよ、それ 」

「そのうちわかる。いいな?」

 少し考えた後頷いた龍之介くんは、振り返らずにこの場から立ち去る。

 どんどん小さくなる背中が消えるまで、私はその姿を焼き付けた。

 彼にまた、会える日は来るのだろうか。

 できればその時は、笑っていて欲しい。

 祈るような気持ちで、満天の星が光る空を見上げると、玄さんが慶さんの肩をおもいきり叩いた。

「じゃ、任せたぜ慶一郎。お前のお友達によろしくな」

「あいつに頼むと後が面倒くさいの、玄さん知ってるだろ」

「そう言うな、悪いようにはしないって慶が言ったんだ」

「俺にそう頼むつもりだったんだろ、白々しい」

「・・・・・?」

 悪いようにはしないとはどういう事なのだろう。

 私は慶さんの袖を引き、説明を求めた。

「ああ。龍之介が働いてる遊郭に、あいつを辞めさせるよう、話しをつけるつもりなんだよ」

 そんな事が出来るのだろうか。龍之介くんが遊郭の裏方を辞めるという事は、彼の母親の借金を返すという事。遊郭の借金なんて、そうそう返せる額じゃないだろうに。

 不思議に思っていると、彼は言いたい事はわかっていると続けた。

「そっち方面に顔が効く奴がいるんだよ。安心しろ、龍之介は悪いようにならない」

 信じろ、と口にする慶さんに私は頷いた。

 龍之介くんに、また会えるんですよね。

 そう唇を動かすと、慶さんに頭を撫でられた。 

 今日が悲しくても、彼が笑える明日が一日でも早く来ればいい。

 そう願いながら、私たちは帰路に就いた。


(八)

「鈴、今帰ったのか」

 学校が終わり南雲堂へ帰ると、丁度慶さんが店から出て来る所だった。

 私を見るなりお財布を投げるので、慌ててそれを掴む。

 何事かと戸惑っていると、手間が省けたとばかりに彼は言う。

「肉屋で鶏肉、それと八百屋で白菜」

 どうやら彼は買い物に出るつもりだったらしい。

 じゃあよろしくと頼まれ、特にこの後用事もない私はお使いを引き受ける事にしたのだ。


 制服のまま店を出ると、四月の暖かい日差しに包まれる。

 故郷には無かった、広く整備された大通り。そこを歩くと、いつも新しい発見がある。見渡すと、桜が咲き始めていた。あと少しすれば満開だろう。

 春の始まりを感じつつ、ふと出かけ際の慶さんの言葉が過る。

「鈴、八百屋は今日新入りがいるから会計に時間がかかる。最後に寄れ」

 慶さんらしくない細かい指示に首を傾げるが、彼はその意図を教えてくれなかった。

 慶さんの指示通りお肉屋さんで鶏肉を買い終え、八百屋へ向かう道中、一ヶ月前の出来事を思い出す。

 龍之介くんは今頃どうしているのだろう。

 あの痣だらけの腕は、綺麗になっているだろうか。

 そんな風に考え事をしながら歩いていると、玄さんの店の前で声を掛けられた。

「いらっしゃい!」

 まだ声変わりしていない、高い声。

 玄さんでも、その息子さんでもない声の主を辿ると、そこには想像していなかった人物がいた。

 そうか、慶さんの言っていた新入りって、彼の事だったんだ。

 まるで夢のようで、その顔をまじまじと見てしまう。

「なんだ、あんたか」

 あの時の傷だらけの少年の姿はもうない。

 一回り成長した彼が、笑いながら立っていた。

「おい、龍之介。仕入れの事だが・・・・・って鈴、来てたのか」

 奥から出てきた玄さんに頭を下げると、彼は龍之介くんの背中を叩きながら口角を上げる。

「今日から入った新人だ。色々と慣れねぇ事もあるが、贔屓にしてやってくれ」

ようやく彼は自由になれたのだと、ここで確信する。

 慶さん。確かに慶さんの言う通り、今日の買い物には時間がかかりそうです。


 季節は出会いの春、新たな出会いと共に、新しい始まりを、確かに感じた。


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