夕晴れの歌うたいと館長さんのお話





  夜へ溶ける落日

  風にさらわれる花びら

  泡と消える吐息

  あの子はそんなキレイなものでできていた

  キレイだから、いなくなってしまったの









 なだらかな平地を見下ろす唯一の高台で、何をするでもなくただ佇んでいる少女がいました。整った顔立ちでしたが、その雰囲気は儚いというよりも、仄暗いと形容するほうが似合っている気がします。


 「何を見ているんだ」


 そう声をかけると、興味なさそうに一瞥しただけで、どこかへ歩き去ってしまいました。


 「そんなに顔が恐かったか? ……いや、」


 微笑みすら浮かべるのが苦手な女性は、まず自分の顔を指でなぞりました。

 色を失った白い髪に、切れ長の紫の瞳。女性にしては上背もあり、素人目にも分かる鍛えられた体とあれば、お世辞にも親しみやすいとは言えないでしょう。


 ですが、すぐにそれは違うなと思い直しました。


 (たんに話したくなかったんだろう。厭世的という言葉に肉体を与えたら、きっとあの娘のようになる)


 短く息を吐くと、女性は少女のあとを追って歩き出しました。


 「死んでもなお生きるのを嫌うとは、変わった我侭だ」



 女性は、名をカリオン・シュラークと言いました。元は腕の立つ傭兵として知られ、現在はビブリオドールの契約者として共に世界を巡っています。

 ビブリオドールとは、世界中の全てに忘れられた友だちの神さまに造られた人形のこと。その役目は、死んでもなお死にきれずに世界を彷徨う魂を天の園へることでした。


 代々ビブリオドールから「館長さん」と呼ばれる契約者は、ビブリオドールの身を守り、その務めの手伝いをしています。ちなみにカリオンは、古い言葉で「書物」という意味を持つセシェという名でビブリオドールを呼んでいます。

 人ならざるビブリオドールと一緒に過ごすせいか、契約者もまた、やがて普通の人には見えないはずの彷徨う魂を見ることができるようになるのでした。



 少女は急ぐでもなく、けれどアテがあるわけでもないようで、フラフラと頼りない足取りで町へ下りていきました。だからカリオンも早足で追いつこうなどとはせず、彼女を見失わない程度の速さと距離を保って、後ろをついていきました。


 やがて、小さな噴水のある広場が見えてきました。ずいぶん年季の入った噴水のようで、元は白かっただろう石は薄汚れ、ひび割れて苔も生え始めています。

 灰色の雲がやや多い空模様ですが、昼下がりとあって、周囲のベンチには子どもを連れたお母さんやお年寄りたちが座って、穏やかな時間を過ごしていました。


 どっと笑い声がしたので探してみれば、道を挟んで向かいのレストランでした。揃いの刺青を腕に入れた若い男性が数人、料理とお酒を囲んで盛り上がっているようです。


 (窓枠だけでガラスが入っていない? 変わったデザイン……か、あるいは)


 そこでカリオンの推察は止まりました。


 不意に足を止めた少女の、ほっそりとした白い喉から歌われた古い民謡に耳を奪われたからです。

 それは世界的にも知られた名曲でしたから、珍しさに惹かれたわけではありません。ただその歌声が、


 (美しいな……)


 水よりも澄んで、そよ風よりも柔らかく、世界へとけていく。祝福の光すら彼女に降り注いでいるよう。

 こんなにも素晴らしい歌声を聞いているのが、カリオンだけとは、なんともったいないことでしょう。


 少女が歌い終えたとき、カリオンの手は自然と拍手をしていました。ところが、


 『いらねえ』


 他でもない少女自身に止められてしまいました。


 『賞賛なんか欲しくねえんだよ。気持ちわりい』


 さっきまでの、美しいだけの印象を覆すほどの口の悪さでした。


 「ごあいさつだな。特に下心をこめたつもりはないが」

 『関係あるか。百歩譲って、アタシの好きな人たちならいいけどよ。やっぱ嬉しいし。けど、それ以外の奴がアタシを見てんじゃねえよ。路傍の石、有象無象の影、通り過ぎる風だと思え』

 「……究極の我侭だな」


 一周回って、カリオンは感心してしまいました。

 人が人の社会で生きていくためには、自分の好きな人とも自分の嫌いな人とも、自分が興味ない人とでも、うまく関わっていかなければなりません。



 世界が私の好きなものだけでできていたらいいのに。



 そんなことは、誰もが一度は願い、そして叶わぬ夢だと諦めるものです。

 なのに、それを衆目を集める天賦の歌声を持つ少女が強く求めるのですから、我侭と言わずしてなんと言うのでしょう。


 「お前がフラフラと彷徨っているのは、それが理由か? アタシを見ていいのは、アタシの好きな人たちだけ……つまり、望んでいるのはその好きな人たちとの再会か?」

 『はあ? べつにそんなこと思ってねーけど』

 「……」


 彷徨う魂となるのは、この世に強い未練や執着がある場合がほとんどです。だからこの少女もそうなのかと思ったのですが、言っていることが理解できないという顔で切り捨てられてしまいました。

 くるりとスカートの裾を広げて回ってみせた少女は、無愛想ながらも晴れ晴れとした表情で言いました。


 『細けえこと考えなきゃいけなかったり、誰かに気使わなきゃいけなかったり、そういう煩わしくて面倒なことしなくていいんだぜ? 見たいものしか見なくていいし、聞きたくなかったことは聞かなかったことにしていいし、今アタシは最っ高に気分がいいんだ。あの人たちはカンケーねーよ』


 そして、またどこかへと歩いていってしまいました。

 カリオンもまたそのあとを追いかけつつ、内心で頭を抱えました。


 (死んで喜んでいる人間をどうおくれと言うんだ……)




 少女のは、それから何時間も続きました。


 ステンドグラスの窓だけが奇跡的に残された教会。

 町を横切る大きな川に架かる錆の浮いた橋。

 色んなものが捨てられたままの湿った路地の前。

 人々が足早に駆け抜けていく商店街。

 相変わらず頼りのない歩みでしたが、すぐに消えてしまいそうだからこそ、少女はどんな風景にも不思議と馴染んでいました。



  誰かが置き忘れていった小さな絵本

  温かな夢が綴られたそれが

  いつの間にか色褪せていくように

  この町も朽ちていく

  私も血も涙もない花になれたら……



 スカートの裾をひるがえして、大きな袖をふくらませて、少女は踊っていました。

 誰かに聞かせるつもりもなく、ただ歌いたいように、少女は歌っていました。



 そうして揺らめく落日の光が町に差し込む頃になって、ようやく少女は最初にいた高台へと戻ってきました。

 昼間にカリオンが訪れたときは人影ひとつなく、寂しさをより強く感じさせましたが、今は頬に傷のある金髪の青年が一人立っていました。


 『ンだよ、また来てんのかアイツ』


 呆れたと言いたげな口ぶりと眼差しでしたが、どこか嬉しそうな、弾んだ声に聞こえたのはカリオンの思い込みでしょうか。


 『いーかげんカノジョの一人でもつくれって、アニキにも言われてんのになあ』


 青年は当然何の反応も返しませんでしたが、少女はかまわず隣に寄って青年を見上げました。


 そのとき、青年が顔を上げました。


 剣呑な目で睨んだ先は、カリオンです。


 「……ンだ、テメエ」

 「ただの旅の者だ。そう警戒するな」

 「ンなことは見りゃ分かんだよ。オレは、なんでこんなとこにいんのかって聞いてんだ。ここは


 ──────墓地だぞ」


 少しひんやりとした風が、全員の髪を乱していきました。

 町を一望できる高台。そこには、この町で生まれ育った全ての人が埋葬されていました。


 「知っている。だが、美しく歴史のある町並みを堪能するのに、最適な場所だと宿の主人に聞いたんでな」

 「ケッ。陰気でカビくさい町の間違いだろ」

 「この町が嫌いなのか?」


 顔をしかめて吐き捨てられたので、カリオンがそう尋ねれば、青年は一瞬考え込みました。少女も、青年の答えを興味深そうな表情で待っています。


 「……そりゃこの年まで生きてきてんだから、まったく愛着がないわけじゃねえけど。でも好きとは言えねえし、他人に自慢するなんてもっと無理だね」


 そして、カリオンが羽織った薄手の上着で隠していた護身用の細い剣を指差しました。


 「アンタも散々絡まれただろ」

 「まあ、な」


 この町に限ったことではありませんが、剣を持っているというだけで無駄に敵意を向けられたり、逆にならず者の興味をひいてしまったりします。さらに、カリオンが町に着いたとき横にはビブリオドールという美しい容姿の少女がいましたから、人さらいにも何度か狙われています。

 子どもが一人で出歩けないような物騒な町であれば、たしかに自慢の町とは言いづらいでしょう。


 「そういえば、さっき噴水がある広場へ行ったが、近くのレストランの窓が割られていたな」

 「あー、あそこな。メシに虫が入ってるっつって騒いだバカと、あの店を贔屓にしてるチンピラどもが派手に殴り合ったらしいぜ」


 青年はタバコに火をつけて、昨日の夕食のメニューを言うように、怒りも恐怖も嘆きもなく、淡々とした口調でそう言いました。


 「ま、そんなもんはかわいいほうだな。女に入れ込んだ男が相手や周りの人間を刺し殺したり、逆もあったり」

 『肩がぶつかっただけで半殺しにしたとかされたとか』

 「金欲しさにガキ共が暴れて返り討ちにされたとか」

 『スープの一滴どころか、皿すらなめ尽くすレベルの意地汚さで舞台俳優のアラ探しするすげー奴もいるよな』

 「物乞い同士の縄張り争いとかもな。よくある、よくある」


 お互いの声は聞こえていないはずなのに、二人の掛け合いは自然で、軽妙で、仲が良かったことをうかがわせます。


 (私もよくあることだと思う……が、どうりでセシェが一人で行ってこいと言うわけだ)


 宿の部屋からカリオンを見送ってくれたときの、申し訳なさと悲しさを滲ませた表情を思い出しました。


 「わたしではきっと、話を聞いてもらえないでしょうから」


 そう。カリオンは二人に共感できます。そんな理不尽や異常に出会わないでいられる人は、きっと幸運の星の下に生まれたのだろう、とすら思えます。


 一方のビブリオドールは、世界も人も美しいと謳い、全てを愛し慈しみたいのです。彼女はこんなとき、美しく造られた顔を曇らせるのでしょう。

 そんな表情を見た少女と青年はきっと、冷ややかに笑って、嘲りの目を向け、立ち去ってしまう。そんな光景が、簡単に想像できました。


 「はじらえ純情、嗤えよ正義、俺たちは死ぬために今生きている、ってなあ。こいつがよく言ってたぜ」


 なんて後ろ向きで捻くれたセリフでしょうか。詩の一節のようでありながら、誰もが鼻白むような言い回しです。

 けれど青年は、懐かしそうに目を細めるばかりでした。

 なんと返せばいいか分からず、カリオンは青年がじっと見つめていた少女の墓に目をやりました。


 「ずいぶん花が多いな」

 「まあ、花がよく似合う奴だったからな」

 「惚れてたのか?」

 「ちっげーよ! みんなそう言うけど、オレたちはそんなんじゃなかったっつーの! ただのダチっ‼」


 男女のことですから、カリオンがそう尋ねてみると、間髪入れず青年は噛みついてきました。それは煙も草も全て撒き散らすような勢いで、今までにどれだけからかわれてきたのかが、よく分かります。


 『たしかに、よく言われたよな。そんなつもり全然なかったのに』

 「そうか」


 カリオンにそれ以上追及する気がないと分かると、青年は大きなため息をついて、二本目のタバコに火をつけました。


 「……まー、そう思ってたのはオレだけだろーけどな」

 「そうなのか?」


 先ほどの息の合いようを聞いていた身としては、とてもそうは思えませんでした。


 『? まだアタシのことダチだって言うのか? そんな温かい血が通ったような関係じゃねえって言っただろ』


 驚いたのは、少女も同じだったようです。驚きの方向性は正反対でしたが。


 『そりゃまあ、お前と一緒にいて嫌になったことはねえけど。でも友だちとは……なんかこう……違うだろ』


 友だちという関係性を特別視し、自分には縁遠いものだと思って疑わない少女の気持ちが、カリオンには少し分かりました。


 カリオンにも、友だちと呼べるような人はいないからです。

 故郷では、厳格な父親のもとで剣の技術だけを磨き続けていて遠巻きにされていましたし、流れの旅を始めてからは言うまでもありません。


 ただ、傭兵時代に出会った人たちのことは、なんと呼べばいいのか迷うことはあります。共に戦場を駆け、ブラックジョークを飛ばし合い、次もし会えたら一杯付き合えよと、声をかけれるような人たちを、ただの知り合いと呼ぶと素っ気なさすぎる気がするし、仲間と言うと少し濃すぎる気がします。


 なんともままならないことですが、きっと少女にとって青年は、そういう名前をつけにくい関係だったのでしょう。


 (こんな荒んだ町では、友だちという関係を築くのにも勇気がいるか。だが、友だちだと思われていないのを知っていて、友だちとして付き合いを続けていたとは、我慢強いのか、お人好しなだけか、あるいは相当に甘いのか……)


 やっぱり本当は惚れていたんじゃないのかと、ぼんやり宙を眺めている青年と、うまく言い表せないもどかしさに眉を寄せている少女を見比べて、そう思いました。


 「……彼女と友だちになりたかったのか?」

 「いや、もうそこは諦めてたよ。なんで友だちだって言ってくんなかったのかよく分かんねえままだけど、アイツはそういう奴なんだってな。……オレは、それよりも、アイツの生きる理由になりたかった」

 『…………は?』


 鳩が豆鉄砲をくらったような顔、というには可愛らしさが少し足りないかもしれません。それだけ青年の言葉は重く、少女に衝撃を与えたのでした。


 「そりゃ生きる理由なんて人それぞれだろうし、なんならないって奴もいるだろうけど、友達は理由の一つになり得るもんだろ。


 野いちごの食い過ぎで腹壊したとか、星を見に秋も終わりの山に入って風邪引いたとか。ジジイ秘蔵の酒を盗もうとしてはりきって計画立てたはいいが、肝心の金庫の鍵が開かなくて「夜の間に逃げれたらオレらの勝ち!」っつー訳わかんねーことで盛り上がったりとかさ。


 オレはなあ、楽しかったんだよ。クッソくだんねーことだけど、いちいち覚えてねえようなことだけど、それでもオレはみんなと、アイツと、一緒に笑い合ったことを覚えてる。理屈なんか知らねー。ただ、楽しかった。


 生きる理由にはならなくても、死を躊躇うぐらいの重さがあるんだよ。オレにとってこの「」には」


 また一つ、強い風が吹いて、パッと花びらが宙を舞いました。


 「……お前にもそうであってほしかった。オレもあいつらも、みんなお前とずっと真面目にバカやって、ずっと笑い合っていたかったんだぜ。トニア」


 青年が長く、長く、上に向かって吐き出した息に乗って、細い白煙が柔らかなオレンジ色の空に昇っていって、あっという間に風に吹き散らされていきました。

 少女は傷ついたような、呆然としたような、そんな複雑な眼差しで、涙の代わりのようなそれを見送っていました。


 「……って、オレはなにを初対面の相手に一人語りしてんだってな」


 煙草をくわえ直した青年は、もうさっきと変わらない様子に戻っていました。


 「悪ぃな、ダセェとこ見せた。忘れてくれ」


 肩をすくめて、青年はそのままカリオンの横を通り過ぎていこうとしました。


 「そうまで言わせるとは、よほど素敵な女性だったのだろうな」


 背中にそう声をかけてみれば、青年は顔だけ振り返って肩をすくめました。


 「いや? わりと陰気で卑屈でめんどくさい奴だったぜ」

 『おい!』


 青年の告白を聞いて、何か考え込んでいたような少女でしたが、さすがにこれは無視できなかったようです。


 「でもお前は好きだったんだろ? 人として」

 「まーな。面白いし、いい奴だったし」

 「陰気で卑屈で、面白くていい奴だったのか。それはたしかにめんどくさそうだ」

 「だろ?」


 青年は初めて笑顔を見せて、そして町へと帰っていきました。



 『……この町にもさ。学校はあって、アタシらも一応通ってたんだよ』


 青年の背中が完全に見えなくなって、それでもまだ去っていったほうをぼんやりと見ていた少女が、ぽつりと言いました。


 「そうか。それは感心なことだ」

 『それでさ。ある日伝統のデザートっつーのが昼飯で出たんだけど、生の草の味しかしなくて、アイツが、ライトが、くっそまっっずい! っつって窓から投げ捨てたんだよ。で、次の年の担任が、「去年おろしたての服で歩いてたら、どっからかデザートが降ってきて大変な目に遭った」って言うんだよ。どー考えてもお前じゃねーかって爆笑した』

 「……素晴らしい偶然だな」

 『だよな』


 少し、間がありました。


 『肉とか菓子とか持ち寄って、夏の河原で酒盛りしたこともあったな。恋バナしたり相撲とったり……そのうち、河原の草花火で燃やして絵描こうぜってバカ言い出して』

 「可愛げがあるのかないのか……。それに最後のやつは、一歩間違えたら大惨事じゃないか」

 『ああ。何人か服燃やして大穴空けたし、描いた絵はまともな形になってなくてただ草燃やしただけになったし。そういや、せめて画伯っつって笑いが取れるぐらいにはなりたいって再挑戦してた奴もいたな』

 「しかも一度だけじゃないのか。怒られはしなかったのか?」

 『はっ。今さらその程度でビビるような奴はいねーよ。ただ、服をダメにした罰だっつって母親やら姉貴やらにかわいい刺繍をされてたのには笑ったけど……ンフッ』

 「母親たちのほうが一枚上手だったな」


 また少し、間がありました。

 今度の間は、さっきよりも長いものでした。


 『………………楽しかったんだ』


 俯いた少女の、掠れた囁きは本当に小さくて、カリオンは危うく聞き逃すところでした。


 『…………ああ、そうだよな。……アタシも、楽しかったんだよな……』


 痛みをこらえるような、苦しみに耐えるような、そんな表情でした。


 「まるで、今気がついたような口ぶりだな」

 『……ああ。今気づいたんだよ。ははっ、バカはどっちだって話だな』


 わずかな自嘲を漏らした少女は、顔を上げて茜色に染まる町を見渡しました。

 雲は、いつの間にか晴れていました。


 『アタシには、五つ上の姉ちゃんがいたんだ。でも、姉ちゃんは抗争で死んだカレシの仇討ちで死んだ。アタシは二人とも大好きだった。家が壊れたことよりも、自分が怪我したことよりも、二人が死んだことのほうが堪えた……。だからかな。アタシは、いつかきっと誰かに殺されると思っていた。べつになんか予兆があったとか、身の危険を感じていたとか、特にそんなことはなかったんだけど。そう、思い込んで生きていた』


 それは気のせいだよ、と言った人がいたかもしれません。

 なら町を出よう、と言った人もいたかもしれません。

 他にもきっと、色々声をかけてくれた人はいたでしょう。


 『だから全部どうでもよかった。だから、自分の好きなことしかしなかったし、他人と関わり合いになんてなりたくなかった。いつ何があっても辛くないように。死んでも悲しくないように』


 でも、どれも信じられなかった。選べなかった。

 だって子どもの世界は狭くて、強固で、夢見心地でできているのですから。


 『冷めてたな──

 ませてたな──

 悲劇のヒロインぶって──

 自分に酔って──

 本当は楽しかったのに──

 本当はみんな好きだったのに──

 全然気づかないとか──

 いや、気にもしてなかったとか──

 マジでバカだろ。アホっ、ボケっ! ……ふざけんなッッ!』


 振り乱した少女の髪にまぎれて、小さな雫が宙に散りました。

 けれどカリオンが何も言わずにいると、少女は今日一番の強さでカリオンを睨みつけました。


 『自業自得のくせに何泣いてんだって思ってんだろ』

 「思うものか。他人の目にどれだけ滑稽に映っても、本人はそう思っていないことなど、よくある」


 分かったような口を利く、と少女は苛立ちましたが、カリオンの眼差しが郷愁を追っているように見えたので、結局言葉にはせず、口を閉じました。

 日が沈むにつれ、空の赤は濃く、風は冷たさを増していきます。

 そういえば、わざわざこんな時を選んでこともありました。


 「楽しそうな顔をしているな?」

 『なんかそういう気分になったから、ライトたちと警備隊にケンカ売って町中鬼ごっこしたことを思い出した』

 「また迷惑なことを……」

 『刹那的で破滅的なことのほうが面白いときってあんだろ』


 もしかしたら、そういう考え方だったことも、生きることに積極的になれなかった理由の一つかもしれません。


 「……卑屈で陰気だと言われた理由がよく分かる」

 『は?』

 「いいや、なんでもない。……否定はしないでおいてやるが、私には理解できん感覚だな」

 『そりゃー残念』


 風が吹き、木々が大きくざわめきました。あのときは、走り回って、叫んで、暴れて、興奮して火照った体に、冷たい風が心地良かったものです。

 少女はもう二度と、その感覚を味わうことはありません。

 そこまで至って初めて、少女は惜しくなりました。


 『……アタシは、もっと生きていたかったのかな』


 自分の命が、惜しくなりました。


 「お前はどうやって死んだんだ」

 『……事故か、ケンカか……何かに巻き込まれた、はず。こっちからケンカ売ったのではなかった……と思う』

 「曖昧だな」

 「ほらみろって思って、どうでもよかったから。すぐ忘れっちまった。……けど、もしまだあいつらと一緒にいたいって思えてたら、踏ん張れたのかな。この世界を惜しいと思うことができていたら……』


 呟くような最後は、タバコの煙と同じように風に吹き散らされて、誰の耳にも届きませんでした。


 『……ハハッ、たらればとからしくねえな。ダッサ。……いや、それも今さらか』


 少女の体が淡く光を帯び始めました。彷徨う魂たちが、正しく天の園へ還る前触れです。


 『……なあ、アンタはアタシをちゃんと死なせるために来たんだろ?』

 「私たちは、天の園へおくるという言い方をする」

 『あっそ』


 それから、深呼吸というには短く、速い呼吸を繰り返し、少女は意を決して問いました。



 『次はもっと、生きていられるかな。もっと、生きる勇気を持てるかな』



 難しい質問です。この疑り深い少女には、どんな言葉が相応しいでしょうか。



 「大丈夫だろ。お前は、くだらないことでも楽しいと、もう知っているんだからな」



 少女はきょとんとしていました。今度は、可愛げのある驚き顔でした。


 「この世界で笑っていたことも思い出した。だから、心配することはないだろう」

 『……なんか。当たり前だろとか、お前次第とか、がんばればいけるとかって言われると思った』

 「お前、そういうのまったく聞く耳持たないタイプだろ。天の邪鬼なクソガキはそうだと、相場が決まっている」

 『……これ、バカにすんじゃねえって怒るとこ?』

 「図星か?」

 『ケッ!』


 不機嫌そうに顔を背けましたが、すぐに表情を緩めてカリオンに向き直りました。


 『でも……そうか。フフッ、そんな気がしてくんな。変なの』


 儚げな、けれど温かみのある微笑みは、まるでこの夕空のようでした。


 「……そうやって笑っていれば、いくらか可愛らしく見えるな」

 『うわ、キモい。無理』

 「……」


 思わず、カリオンの口から長い溜息が漏れました。この歯に衣着せぬ正直さは、生きる上で多少遠慮したほうがいいかもしれません。そう指摘する前に、


 『けどま、ありがとうとは言っとくよ。旅のオネーサン』


 そして少女はひらりと踊るように、空へと消えていきました。



  薄くて小さな日記帳

  どこかに置き忘れて

  もう取りに帰れはしないけど

  もう色褪せて読めないだろうけど

  ねえ、きっと私たち覚えてる

  聞かせてよ、話そうよ

  私たちきっと永遠に楽しむから……



 そんな歌を残して。

 「どういたしまして。お前の次なる目覚めにも、光があるように祈っているよ」




 こうして、無事に少女を見送ったカリオンは、一番星に見守られながらビブリオドールのもとへと帰ったのでした。



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唄うビブリオドール 霧ヶ原 悠 @haruka-k

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