未来辿る恋人たちとビブリオドールのお話
失くしたことがウソだったなら
帰れないことがユメだったなら
凍りついた想い出の中
泣き涸れた虚ろな目を閉じて祈った
崩れかけた古い絵画のように
全てぼやけて忘れてしまえたらいいのに
だけど世界は平等に時を重ね
いつか止まったままの時計の針を動かし始める
温かなその光の指は
きっと絶望の闇を和らげてくれるから
「あ、あの、すみません! 今、ちょっとお時間いいですか?」
伸びる影が長くなる頃、大きな川に架かる橋の上で、二人の旅人を男性がそう呼び止めました。
「それはわたしたちのことですか?」
振り返った二人のうち、豪奢なドレスを着た少女のほうが自分を指差して首をかしげました。もう一人の腰に剣を下げた背の高い女性は、不審そうな目で男性を見ています。
「あ……突然すみません。オレ、この町の警備隊に所属している者です。お年寄りともよく交流があって、それで……その、もしかしてお二人は、あのビブリオドールと契約者の方なのではないかと……」
緊張で声が少しうわずっていましたが、淡い藤色の瞳はとても真剣なものでした。
「ええ、そうですよ。はじめまして」
「! や、やっぱり! それじゃあお願いです、オレの恋人に会って、彼女をもう一度家族に会わせてやってください!」
「え?」
少女の青い目が二度、三度と瞬きを繰り返しました。
「家族に会わせてほしい」ではなく、「家族に会わせてあげてほしい」というのは、永く生きているビブリオドールでもめったに頼まれることではありません。
ビブリオドールとは、かつて世界中の全てから忘れられた神さまに造られた、世界でただ一つの人形のことでした。荒れる精霊を鎮めるため、あるいは、死んでもなお人の地上を彷徨う魂を救うために。
そんな彼女に付き従い、共に世界を巡るのが契約者です。ビブリオドールから「館長さん」と呼ばれるその者は、今はカリオン・シュラークという名の元傭兵の女性が務めていました。
「彼女は、この町の劇場で歌手をしているんです。すごく胸を打たれる歌声だとか、全身に染み込んでいくようなきれいな歌声だって言われて、近隣の町にもその名が知られてるぐらい有名な歌手なんです。あとすごい美人!」
まさに鼻高々といった様子で愛する彼女のことを話していた彼の顔に、ふと影が差しました。
「……でもそれは、彼女が誰よりも悲しみを知っているから。癒えぬ傷を抱えている彼女は、この世で最も美しくて尊い「愛」を体現することができる。そんな彼女の歌声が、人の心に響かないわけがないんだ」
「察するところ、その癒えぬ傷というのが家族を亡くしたことなのですね」
「ああ……」
彼はぐっと奥歯を噛みしめて、悔しさと哀れみとほんのわずかな恐怖を滲ませました。
「……彼女は昔、家族を目の前でひどい殺され方をしたんです。本当にひどい……同じ人間のやることとは思えないほど、それは恐ろしくておぞましい光景でした。
幸い、その後引き取ってくれた遠縁の人たちは優しかったらしく、よい友人たちにも恵まれたようで、彼女は今は笑顔も浮かべてくれるし、自分の足で立って生きています。
でも、どこか虚ろなんです! 他の人とは何かが欠けてしまっている。時々誰もいない遠くを見つめる彼女に、オレは何もしてやれないんだ!」
彼が血を吐くような思いでいるだろうことは分かっていましたが、あえてカリオンは尋ねました。
「ちょっと待て。伝聞の位置がおかしくないか? お前はいつ彼女と出会ったんだ」
すると彼はああ、と微苦笑を浮かべました。肩の力も少し抜けたようです。
「実はオレ、彼女の家族が殺された現場にたまたま友人と居合わせたんです。ここで彼女を助けたって言えたらカッコよかったんですけど、オレは彼女を抱えてこけながら逃げてただけ。犯人に立ち向かったのは友人のほうです。
大騒ぎになってたんで、すぐに警備隊も来てくれて犯人は取り押さえられ、友人に大きな怪我はありませんでした。
オレは震えてるだけの情けない奴だったんですけど……大人になってから再会したとき、彼女はオレのことを覚えてくれていました。それからまあ色々あって、今付き合っているんですけど……」
そして深く頭を下げて、彼は声を張り上げました。
「お願いです! オレ一人でできることなら、何でもします! だから彼女をもう一度家族に会わせてあげてください!
オレは彼女を愛しています。どんなファンが現れたって、オレのほうが、オレが世界一彼女を愛してるって言えます。でも、幸せにできるとは言えないんです!
だから、どうか、彼女の心の隙間が少しでも埋まるようにもう一度っ……!」
どう答えたものか、ビブリオドールとカリオンが結論を出す前に、柔らかな声が投げ掛けられました。
「やっぱり自分のことは考えてくれないのね。いつも私のことばかり」
男性が弾かれたように振り返りました。
「えっ、オリティア⁉ な、なんで……」
「なんでって、全然待ち合わせ場所に来てくれないから」
「あ゛。ご、ごめん……」
「それに、
「ゔ……」
黙ってしまった彼氏をくすくす笑ってから、少しスカートを持ち上げてビブリオドールとカリオンに一礼しました。
「はじめまして、ビブリオドールと契約者のお方。私の愛する人が無茶を言ったみたいでごめんなさい」
「それは……。でもオレは、君に……!」
そっと彼女は自分の腕を彼の腕に絡ませて、たくましいその肩に頭を預けました。
「私はそんな奇跡望んでない。それにどうして私の家族なの? 君だって自分の両親を殺されてるのに」
「っ……」
男性は何かを言おうとして、結局何も言えずに口を閉じました。
代わりに女性が二人に説明してくれました。
「この人もずっと幼い頃に、両親を知人に殺されてるそうなんです。それも些細な諍いが原因で」
「そうでしたか。同じ痛みを知っているからこそ、お二人は優しく、互いを想いあえるのですね」
「ええ、だから私はこの人を選んだんです。勇敢な彼の友人でもなく、気さくな私の友人でもなく。だってこの人は、私が欲しいときに、欲しい言葉をくれたから」
あの日、血だまりに倒れている大好きな家族を見た瞬間、何も考えられなくなりました。体を動かすことも、叫ぶことも、涙を流すことさえできませんでした。
頭がようやく起こったことを理解したのは、犯人が取り押さえられたときでした。そこでようやく泣き叫ぶことができたのです。自分の全身が、奈落の絶望へ落ちていくような幻とともに。
どうして父さんと母さんと妹は死んだの。なんで殺されたの。何か悪いことをしたの。どうして私の家族だったの。なんで誰も助けられなかったの。どうして。なんで。
誰にも答えられるはずがない疑問です。そして何を言われても、きっとあのときの彼女は納得しなかったでしょう。
『本当に……どうしてだろうね。どうして僕たちの大切な人は、誰かに奪われなきゃいけないんだろうね……』
けれど、彼はそう言ってくれました。彼女と同じくらい震えながら、決して彼女の体を手放さず、ただ強く抱きしめて、そう言ってくれました。
「慰めでもなく、励ましでもなく、そうだねっていう同意。そう思ってもいいんだって分かって、少し呼吸ができるようになったんです。もっとも、自覚したのはずっとあとのことでしたけど」
「オリティア……」
愛する人にこうも言ってもらえて、誇らしさはあったでしょう。ですが、自分の力では彼女を本当の意味で救ってやれない無力さと悔しさが、彼女を見つめるまなざしには込められていました。
それが分かったからこそ、彼女は正面から彼に向き合いました。
「ねえルーくん。私の妹は殺されるとき、逃げてと言った。助けてじゃなかった。私は一緒に死んでほしいじゃなくて、一人でもいいから生きてほしいと願われたの。だからたとえこの世界を二度と好きになれなくても、絶対生きると決めた。
その私が、今こうして君や友人たちと笑いあって穏やかに過ごしているのは、君がくれた言葉があったからだよ」
「え?」
彼も初めて聞くことだったのか、きょとんとした顔で整った彼女の顔を見下ろしていました。
「『今は辛くて悲しくて、何も考えられないし、何も感じられないかもしれない。けど、新しい出会いと新しい思い出を重ねていけば、いつか絶対もう一度笑えるようになるから! 家族のことを懐かしく思える日が来るから!
だからどうか、ヤケにならないで。自分が好きだと思ったことを取りこぼさないで。……人の心って、案外前を向けるようになってるんだよ』って」
「…………よく覚えてるね。ご家族の葬儀のときだったから、オレの言葉なんか聞こえてないと思ってた」
夕日ではない赤色に耳まで染まりながら、彼は口元を覆ってそっと目を逸らしました。
「ふふっ。あのときは返事もできなくてごめんね? ……君の言うことは本当だった。今はもう、家族との思い出を笑顔で話せるよ」
そして彼女は彼の背中に手を回し、その鼓動を確かめるように、自分の全てを任せるように、彼の胸に顔を寄せました。
「私の大好きな人。私はもう大丈夫よ。だから奇跡に縋るんじゃなくて、ゆっくりでいいから私と明日をずっと生きてくれる?」
「……ああ、もちろんだよ、オレの愛しい人。オレは君の大丈夫って言葉を信じきれてなかったみたいだ。でも君が望むなら、二度と言わない。君との今を、明日を、未来を、ひとつずつ大切に重ねていくと誓うよ」
強く抱き合う二人に、これ以上は馬に蹴られろというやつでしょう。ビブリオドールは小さな笑い声を漏らして、カリオンは肩をすくめて顔を見合わせました。
「では、わたしたちはここで失礼します。未来辿るお二人に幸多からんことを」
「あ゛っ⁉ いや、あの、えっと、えっと……その……!」
「ありがとうございます。お二人の旅のご無事をお祈りいたします」
我に返った男性が真っ赤な顔であたふたとしましたが、女性はさらりと一礼して彼の手を引いて来た道を戻っていきました。
「幸せのお裾分けというやつか。腹が一杯で夕飯も食う気が失せた」
「ではひとまず宿に戻りましょうか」
日は既に半分ほど水平線の下へと沈んでおり、紫色の空には一番星が輝いていました。町の通りにも家の窓にも明かりが灯り始めています。
「あの二人のそばには、彷徨う魂はいなかった。どちらにせよ、あの男の望みは叶えられなかったわけだ」
「ええ、そうですね。ですが、せめてよい夢を」
ビブリオドールはそう言って胸の前で両手を組みました。
──明け方の微睡みに、今はもう動かない時計たちの音が溶けるように
ワンフレーズの囁きが終わるとともに、何かの気配が二人を追うように橋の向こうへと飛んでいきました。
(彷徨う魂ほどははっきりしない、天の園へ渡った魂たちが落としていったひとかけらの思念か)
振り返れば、まだ恋人たちの姿はぎりぎり見えていました。
女性が何かを言うと、男性が焦ったように何かを返して、笑いあっていました。二人の繋がれた手は幸せの強さを示すように、しっかりと絡み合っていました。
「どうかしましたか?」
「……いや。ただ、名は体を表すというように、眩しい二人だったなと思っただけだ」
自らの手を血に染めながら世界中を探しまわった果てに、弟がとうの昔に死んでいたことを知った過去がカリオンにはあります。
そして生きるも死ぬも決められず、ビブリオドールの求めに応じるまま契約者となりました。自分の意志と足で絶望の穴から立ち上がり、歩き出した二人とは違い、カリオンはビブリオドールに生かされているだけなのです。
彼女はまだ、絶望の縁に座り込んでいる。
「名は体を表す、ですか?」
「ああ。私はお前に古い言葉で『書物』という意味がある『セシェ』という呼び名を付けたが、あの二人の名も同じく、『
「……いつかは眩しくなくなりますよ。人の心は、案外前を向けるようにできているそうですから」
「……ああ、そうだったな」
そうして二人は宿で簡単な食事をとると、翌朝にはまた旅立っていました。
悲しみ苦しんでいる人や彷徨う魂だって、この世界にはたくさんいるのですから。
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