第8話 王都

 エレベータの上りのボタンを押しても、なかなかやってこない。早く早く!

 ようやくやってきたエレベータに乗り込むと次から次に人が乗ってきて違う階のボタンを押されて、各駅停車みたいになってしまった。もう、急いでいる時に。


 今日は女流龍神戦の一斉予選。だというのに、飛行機が遅れて遅刻してしまったのだ。廊下を走って扉を開けて、大ホールに飛び込んだ。

「遅れてすいませんでした」

 シーンとした会場内に、わたしの声が響いた。あとはただ、駒が盤を叩くバシっという音しか聞こえない。

 広いホールにいくつもテーブルと椅子がセッティングされていて、すでにどこでも対局が始まっている。あたりを見回していると、腕にスタッフの腕章をつけたスーツの男性が駆け寄ってきた。

「成田さんですね。大丈夫です。遅れたことは聞いてますから」

「あ、すいません」

 係の人に小声で謝って、それから自分の席に案内してもらった。もちろん相手はすでに座って待っていた。

「ごめんなさい。飛行機が遅れてしまって」

「いいわよ。気にしないで。それより、いい将棋を指しましょうね」

 対局相手の竹村女流三段は、そう言って微笑んでくれた。

「はい。すいません」

「では現在14時21分ですので、規定により持ち時間から21分引いて、成田アマの持ち時間は39分となります」

 スタッフの言葉に「わかりました」と答えた。これだから冬の飛行機は困る。予定ならお昼前にここに着いているはずだったのに。でも飛んだだけ良かった。

 それにもしただの遅刻だったら、21分の3倍の63分を引かれて持ち時間はマイナス。戦う前から負けているところだった。


 竹村女流が駒箱を開いて王将を手にとり、続いてわたしも玉将を取って、お互いに駒を並べた。

「お願いします」

「よろしくお願いします」

 先手はわたし。持ち時間が少ないのであまり考えずにガンガンいける戦法でいきたい。そう考えて初手に5六歩と、玉将の真ん前の歩を進めた。中飛車戦法だ。

 飛車を中央に転回して、そこから銀を進出させて攻めて攻めて攻めまくる。もちろんそれだけで勝てるほど将棋は簡単なものじゃないけれど、とにかく今の時点で持ち時間が少ないというハンデがあるので、序盤のうちはあまり考えなくていい作戦を選ぶことにしたのだ。

 後手番の竹村女流は飛車先を突いて居飛車を宣言。振飛車対居飛車の対抗形になった。

(よし、これならいける)

 そう思ったのもつかの間、わずか数手後に驚愕の一手が飛び出した。

(△3二銀?)

 角の後ろにいる銀を、まっすぐ上に進ませた。普通は銀をこんな風には動かさない。なぜならこの状況では、『角に紐がついていない』からだ。つまり、なにかの拍子に角を取られても、角を取った駒を取り返すことができないということ。

 このままでは△3四歩と進めて角を使うことができない。もし角道を開けたら、その途端にわたしの角に取られてしまう。

(ということは、もしかして…)

 様子見で玉を一歩囲いに近づけると、竹村女流は△3一角と、銀がいた場所に角を引いて使った。これは引き角戦法だ。

 引き角戦法とは対振飛車戦法の一つで、角道を開けずに角を引いて戦う戦法のこと。居飛車側の玉は通常、最初に角がいた位置に陣取ることになる。ところが玉を入場させるために7六歩(または3四歩)と突いてしまうと、玉の斜め上ががら空きになってしまう。自分の角がいた場所ということは相手の角のラインに入っているということでもあるので、玉は常に相手の角から狙われ続けてしまう。

 ところがこの引き角戦法だと、その弱点を歩でがっちりとカバーしているので、スナイパーのような角にいきなりこめかみを撃ちぬかれること無く、固く守って戦うことができる。

 と、いうぐらいの基礎知識はさすがにわたしも持っているけれど、きっちり研究したことも無かった。これは焦る。銀をどんどん前に出して圧力をかけていくけれど、竹村女流の角はスルスルと上下に動いて掴みどころがない。

「成田アマ、残り10分です」

「はい」

 秒読みの声にさらに焦り始めた。

 まずい。時間がない。ここは”あの部屋”に入って長考をしないと。


 そう思って目を閉じた瞬間、桂太の顔が思い出された。正月に彼と指した時の、あの顔。(それが使えるのは香子だけじゃない)とでもいいたげな表情。


 全身にゾクっと悪寒が走って、たまらず目を開けた。ダメだ。あの部屋には行けない。

 別にルールブックにダメだと書いてあるわけじゃない。誰にも分かることじゃない。だけど、それが不正だって言われたら。

 わたしは、力ない手で一度進ませた銀を囲いに引き寄せた。

 辛い。分からない。辛い。時間がない。まるで息がつまるようだ。

 攻めに自信がないから受けに回ってみたけれど、ここから先はもう全然ダメだった。ボロボロと大駒を取られて、相手の玉に迫る手段もなく、間もなくわたしは投了を告げた。




 会場を出たわたしは廊下にある長椅子にへたり込んだ。完全に惨敗だった。今から思えば、あそこでも、あそこでも、あの局面でも他にいい手があった。全く見えていないなんて、ひどすぎる。

 大きくため息をついて頭を抱えていると、誰かが隣に座った。

「ナ・リ・コちゃん」

「あ、銀河さん」

「負けたねー」

「はい。散々でした」

 うなだれるわたしの頭を、銀河さんはぽんぽんと叩いた。

「今日は全然冴えてなかったよね。遅れてきたから焦っちゃった?」

「いえ、そんなことは無かったんですけど」

「でもなんか、すごく苦しそうだったよ」

「え、見てたんですか!? 銀河さんも対局でしたよね」

「うん。途中でナリコちゃんが入ってきた時から、ずっと見てたのよ」

「そんなあ。対局に集中してくださいよ。結果はどうでした」

「へへへ。勝ったわよ」

「そうだったんですか。おめでとうございます」

「おめでとうじゃないわよ。これでまた、ナリコちゃんと対局できる機会がなくなっちゃったんだもん」

「あ、今日勝てば次で当たっていたんでしたよね」

「そうよ。公式戦でリベンジしてやろうと思って楽しみにしてたんだから」

「すいません…」

「…ねえ、ナリコちゃん、来週ヒマ?」

「え? はい。来週はまだ冬休みなので、特に予定もないですけど」

「あのさ、鳳将戦の第一局、ナリコちゃんの家の近くであるじゃない?」

 近く…。確かに同じ県内だけど、200kmぐらい離れてるのを近いというかな。でもまあ、わたしの親や親戚はその程度の距離なら日帰りで往復しちゃったりするので、遠いというほどでもない。どう答えるべきか迷っているわたしの返答が出てくるのを待たずに、銀河さんは話を続けた。

「でさ、わたし、大盤解説会の聞き手で呼ばれているんだけど、ナリコちゃんも飛び入りで参加しない?」

「わ、わたしがですか!? でもわたし、解説とかしたことありませんよ」

「大丈夫、役に立たなくても」

 はっきり言うなあ!

「会場のお客さんは、地元出身の女子高生棋士、しかも男性プロ棋士を相手に怒涛の快進撃を続ける今をときめく注目の女の子が来たとなれば、それだけで盛り上がるのよ」

「女の人だったら銀河さんが一人いれば十分ですよ」

「そう思う? いやまあわたしもそのとおりだと思ったんだけどさ」

 そう言いながらわたしの肩をバシバシと叩き、

「この前師匠から連絡があってね、せっかく地元なんだから声かけてみたらどうかって。タイトル戦の解説会って、結構地元の棋士が飛び入りで来たりするのよ。だからアシスタントのアシスタントぐらいの気持ちで、気軽に来たらいいのよ」

「そうですか……。それなら、やってみようかな」

「そうした方がいいよ。タダで温泉も入れるし。いい気分転換にもなるんじゃない?」

「気分転換…ですね。銀河さん、ありがとうございます」

「いいのよ。じゃあ詳しい日程はあとでメールするね」

 そう言って銀河さんは立ち上がり、わたしに手を振って会場に戻っていった。


 スタッフの人に「帰りの便があるから」と伝え、遅刻したことをもう一度謝ってから早めに会場を後にした。

 昨日のうちに東京入りしていれば遅刻しなかったのになあ。冬は予定通りに交通機関が動くと思ったらダメだ。

 だけど、遅刻していなかったら果たして勝てていたのか、と考えたらそれはそれで疑問で、自分の実力の無さを痛感させられた。


 帰りの便の時間が近いというのは本当は嘘で、単に会場にいたくなかっただけ。新幹線が出るまでの時間はまだ何時間もあるので、わたしは一人駅の待合席に座って、頭のなかで今日の将棋を振り返っていた。

 将棋盤を思い浮かべて、一手一手進めていく。進むたびにため息が出た。ここでも、あそこでも勝つチャンスはあった。今から思えば、なんでこんな手を指してしまったのか分からないような指し手ばかりで辛い。

 このまま考えていても気持ちが沈んでいくだけなので、向こうの世界に行ってみることにした。目を閉じて、瞼の奥にある扉を目指す。




 扉を開くといつもと変わらない部屋があって、わたしはため息をついた。こんなに簡単に来れるのに、使いたい時に使えないなんて。

 制服を脱いでローブに着替えて、ライムにもらった首飾りを身につけた。首飾りの中央にある赤い宝石に触れて意識を集中させると、目の前に光のゲートが現れた。この首飾りは、彼がこの部屋にいない時でも向こうの世界に行き来できるようにと作ってくれたものだ。

 ゲートをくぐって出た先の部屋でライムが待っていた。

「どうだい?簡易ゲートの調子は?」

「うん、大丈夫」

「それは良かった。しかしこうして見ると、カオルコもいっぱしの魔法使いみたいに見えるね」

「そうかな。普段はこういう格好しないから慣れなくて」

「いや、ずいぶん似合っているよ。せっかく王都に来ているんだ。これから魔導学院に行くんだけど、そのついでに街を案内するよ」

「そっか。いつの間にか王都まで来てたんだ」

 わたしは部屋の中を見回した。壁紙は青を貴重としたすっきりとした色合いで、金色の額に入った肖像画が並んでいる。ソファーは赤い布地に金色の刺繍が施されていて、テーブルの足はサンゴで作られていた。見上げると天井は漆喰で波のようにうねった模様が作られていて、まるで海の底のように思えた。これは、5つ星級?

「ここはホテルの部屋?それにしては立派すぎる気がするんだけど…」

まじまじと調度品を値踏みしているわたしにライムは、

「ここは、王宮の隣にある迎賓館だよ」

 と言った。迎賓館!

「それって!もしかして!貴族とか王様とかが踊ったりするという!」

「踊ったりするかどうかは知らないけれど、ここに泊まっている人には偉い人がたくさんいるから、失礼がないようにね」

 にわかに興奮し始めたわたしを諌めるようにライムは言った。

「失礼がないようにって、無礼なことをしないようにってこと?」

「それもあるけど、異世界の人を連れて魔導大会に出ることが知られたら何を言われるかわからないからね。一応、カオルコのことは私の弟子だということにしているから、余計なことをしゃべってボロを出さないように」

「は~い」

 そう答えてわたしは、フードを目深にかぶった。


 豪華すぎる部屋から廊下に出ると、廊下というか、これを廊下といってもいいんだろうかと思うような造りに驚かされた。

 床にはふっかふかのじゅうたんが敷き詰められていて、端正な顔立ちの彫像が立ち並び、柱の一本一本にはきらびやかな螺鈿細工が施されている。そして、アーチ型をした天井には、びっしりと絵画が描かれている。

「この絵はなに?」

「これは、このセト王国の景勝地を描いたもので、いかにこの国が広い地域を治めているのかを、ここに来た外国からの訪問者に知らしめるものだ」

「すごーい。いろんな地方があるのね。砂漠もあるし、雪国もあるんだ」

「あ、危ない!」

「うわ!」


 ドスン!


 絵に夢中になって前を見ずに歩いていたわたしは、誰かにぶつかって尻もちをついてしまった。

「申し訳ありません!ドラッケン伯爵閣下」

 すぐにライムが駆け寄ってきて、わたしがぶつかってしまった人に謝っている。

「ははは。まあよい。お嬢さん、怪我はないかね」

 笑いながらわたしに手を差し出した伯爵は、龍の刺繍が施された黒いマントを羽織った、見るからに身分の高そうな人だった。でも顔つきは精悍で、浅黒い肌に短く顎鬚を生やしていて、貴族というより軍人のような雰囲気の持ち主だった。

「ありがとうございます。ぶつかってしまって申し訳ありませんでした」

 ドラッケン公の手を借りて立ち上がったわたしは、目深にかぶっていたフードを外して頭を下げた。

 公爵と目があった瞬間、それまで優しそうだった眼差しがギラリと光り,

「似ている…? いや,気のせいか」

 といぶかしげにつぶやいた。

 だけどこちらがその表情の変化に驚く間もなく、すぐに公爵の顔は元の微笑みに戻った。

「次からは前をよく見て歩くようにな。ところでライム殿、このお嬢さんを見るのは始めてだが、今回は一番弟子のラクテアを連れて来なかったのだな」

「は、私のもとに最近弟子入りした者ですが、後学のために連れてまいりました」

「ふむ。魔導師の名誉をかけた戦いに新入りを連れてくるとは、ずいぶんと余裕だな」

「めっそうもございません。田舎ゆえ人材に事欠くありさまで」

「ふふふ。まあ良い。我が麾下の魔導師たちは、貴殿と手合わせするのを心待ちにしておるぞ。彼らの期待を裏切らぬよう頼む」

「はっ、ありがたきお言葉」

それから伯爵はわたしの顔をチラリと一瞥し、立ち去って行った。


「今の人は?」

「東方のエントラーダ地方を治めるドラッケン伯爵だ。人望篤く領民から愛される名君であるが、野心家との噂も絶えない。油断のならない方だ」

「そういえば眼光が鋭かった。貴族って、もっとのほほんとしているものだと思ってたけど」

「まあ、それは人によるかな」

 そう言ってライムは苦笑した。

「さて、それじゃあ街に出ようか。ここよりもさらに珍しいものがあると思うから、迷子にならないよう気をつけるようにな」

「こ、こどもじゃないんだからね!」




 王都の街並みはライムたちが住んでいるフランメの街とは比べ物にならないぐらい壮麗で、わたしはひと目で心を奪われていた。

 オレンジの屋根に白い石造りの建物がズラリと立ち並ぶ様子は、昔買ってもらった人形の家の世界そのものだった。

 それらの建物の1階部分は商店になっており、それぞれの店は個人経営なのだろうか、3mくらいしかない間口の、通りに面した陳列棚にはその店で扱っている商品がズラリと美しくディスプレイしてあって、わずか1坪ほどの空間に商店主たちの世界観が表現されていた。

 アクセサリに骨董品、金銀細工の精緻なミニチュアや、魔法で動くからくり細工などなど。わたしの心はそれらの小宇宙にすっかり魅了されてしまい、通りの左から右、右から左へと花の蜜を求める蝶のようにふらふらと店先を行ったり来たりしていた。


 そんなわたしの様子を楽しそうに見ていたライムは、最初のうちこそ一緒に選んでしてくれていたんだけど、そのうちに飽きてしまったのか、先に魔導学院に行くと言い残して、わたしに財布を渡してどこかに行ってしまった。

 通りをしばらくさまよい歩いてようやく「これだ!」というものを見つけることができた。魔法じかけのオルゴールで、フタを開けると小さなかわいらしい女の子が現れ、美しい音色でバイオリンを奏でるというものだった。

 値札に書いてある価格は文字が読めなかったけど、お店の人に聞いてみようと思って、意を決してショーウィンドウの横にある扉を開けた。


(カランコロンカラン)


 乾いた音でベルがなると、薄暗かった店内に魔法の明かりが灯った。

 表通りの喧騒が嘘のようにひっそりとした店内には、ところ狭しとオルゴールや小さな人形が並んでいる。これらにもきっと魔法の力が込められているのだろう。

 白いレースのドレスを着た人形の可愛らしい顔に目を留めて、もっとよく見ようと手をのばしたら、まるで本物の人間のような滑らかな動きで踊り始めた。わたしが人形の踊りに見入っていると、

「いらっしゃい。その人形がお気に入りかい?」

「わわっ!」

 地の底から響いてくるようなしゃがれ声で背後から急に声をかけられ、驚いてしまった。

「ひっひっひ。驚かせてしまったかの?」

 振り返って見ると、カウンターの向こう側に上品そうな服を着たしわくちゃの顔の老婆が、その顔をさらに皺だらけにして微笑んでいた。

「ご、ごめんなさい。あの、表に飾ってあるのが気になって…」

「ああそうかい。どれがいいのかな」

「この、金髪の女の子がバイオリンを弾くのが欲しいんですが」

「ほうほうこれかい。この子を気に入るなんて、お嬢さんお目が高い」

「いえ、なんとなくこの子がいいかなあなんて思ったんですが」

「そうかいそうかい。欲しいものを選ぶコツは男を選ぶのとおんなじでね、直感で決めるのが一番いいのさ。ただこれは、最北の街グレイシアの工房で作られた一点ものでね、あそこは一年の大半が道を雪で閉ざされているだろう、そのせいで値段が張るんだよねえ」

 そう言っておばあさんが、まるでわたしを値踏みするように、頭の上からつま先までを舐めるように見回した。

「お金ならここにあります」

 そう言って、わたしは懐から小袋を取り出した。

「最近こちらに来たばかりで、お金の価値がよくわからないんですが…」

 手のひらの上に小袋をひっくり返すと、金貨や銀貨がジャラリとこぼれた。それを見て、おばあさんの皺だらけの顔の、皺の中に隠れてしまっている目がギラリと光ったような気がした。

 それからすぐに笑顔に戻って、

「こんなにはいらないねえ。これだけでいいよ」

 と言って、金貨を5、6枚と、銀貨を何枚かつまみとった。

「ありがとうねえ。それじゃあ今包むからちょっと待ってね」

 と言ってカウンターの裏側に入ると、オルゴールが壊れるといけないからと、おがくずが詰まった木箱を持ってきてくれた。そのせいで手のひらサイズのオルゴールが、両手に抱えるぐらいの大荷物になってしまった。それをさらに、バラの模様が描かれた真っ赤な包み紙で包んでくれた。

「ありがとうございます」

 お礼を言うと、おばあさんはほとんど歯がない口を、にやぁーっと大きく開けて、

「こちらこそありがとう。また来ておくれよ」

 と笑った。荷物が大きくなったおかげで、ドアをおばあさんに開けてもらってようやく外へと出ることができた。


 店を出て一息ついて、確かライムは、この通りを抜けた先に魔導学院があるって言っていたはず。

 大荷物を抱えて人混みの中をかき分けながら通りを進むと、前からやってきた人が強い力でわたしにぶつかってきた。

「いたっ!」

 木箱に額をぶつけて目から火花が出る。

 さっきのオルゴールは大丈夫かな。おばあさんがたくさんおがくずを入れてくれたから、なんともないよね。

 そう思った瞬間、背筋がぞっと冷えるような感覚がした。

(ない…?)

 さっきまで首からかかっていた、小袋の重みがない。あわてて革紐を引っ張るとその先には何もなく、刃物で切られたような鋭利な切り口だけが残っていた。

(盗まれたんだ!)

 さっきの人!と思って振り返った時には、もはや人の群れに隠れてしまって影も形もない。とはいっても大きな荷物のせいで盗人の服装も顔つきも覚えていないから、見つけようもないんだけど。

「どうしよう…」

 ライムから預かっていたお金を取られてしまった。不安と後悔で胸が締め付けられるようで、涙がにじんでくる。両手で木箱をギュッと抱きかかえて、その場に座り込んでしまいそうになったその時、

「ぎゃああ!痛い痛い!なんだこりゃ!離せ!」

 人混みの向こうから野太い叫び声が聞こえてきた。


 何事かとそちらに駆け寄ると、無精髭の男が右腕を抑えてもがいている。何が起こっているんだろう。

 よく見ると、右腕に何か噛み付いているような…。

「あ、その袋!」

 なんと、さっきまでわたしの懐にあった小袋が、多分わたしからそれを奪ったであろう男の右手に噛み付いていたのだ。それを見てわたしは一瞬で逆上して、人混みを押し分けて男のそばまで駆け寄った。

「返してよ!それ、わたしのよ!」

「なにを言ってやがる、イテテ。こいつはオレのものだ」

 シラを切りながらも、袋を引き剥がそうと苦労している。

「返して!」

「何すんだ、このガキ!」

 わたしが無我夢中で袋に掴みかかると、男はわたしの首根っこを掴んで投げ飛ばそうとする。だけど絶対にこの手を離すわけにはいかない。

 わたしが必死にしがみついていると、

「何をしている!」

 厳しい声で呼び止められた。声に聞き覚えはある。だけどライムじゃない。これは誰…?

「何だ貴様は、邪魔すんな!」

 無精髭の男は、標的をわたしからその邪魔者に変えて掴みかかろうとしたけれど、

「いてて!やめろ、やめてくれ」

 逆に腕を捻り上げられてしまった。

「この財布は所有者以外の者が手を入れると噛み付くような魔法がかけられている。お前が泥棒であるのは、我々魔導師から見たら一目瞭然だ」

 そう言って、魔導師を名乗る男は泥棒から財布を取り上げた。右腕が自由になった泥棒は「畜生!」と捨て台詞を残して走り去っていった。


「お嬢さん、この財布は君のものかい?」

「は、はい。ありがとうご…」

 そこまで言ってからようやく、わたしを助けてくれた男の人を見た。真っ白なローブは表面がつややかに輝いており、金の刺繍で鷲の紋章が施されていて、ひと目で高貴な身分な人だと分かる。

 髪はくせっ毛で、背はそれほど高くなくて、鼻が丸くて色白で…。

「え!あなた、垂井!?」

「タル…?どこかでお会いしたことがあったかな?」

 ついうっかり、わたしの世界の方の名前を呼んでしまった。あの垂井がこっちの世界ではゴージャスな紳士とは! 白い服似合わないな~。

 いやいや、ここでは恩人だ。わたしは、どうにか笑いをこらえながらお礼を言った。

「もうしわけありません。知人に似ていたもので」

「そうであったか。ところでこの財布を返す前に確認したいのだが、これは君の持ち物でまちがいないかな?」

「はい、そうです」

「そうか。いやな、君がこの魔法を財布にかけられるほどの魔導師であれば、さっきの泥棒ごときに遅れは取らないだろうと思ったのだが…」

「あ、実はその財布は師匠のライム様から預かったものでして」

その名前を聞いて、いぶかしげな表情が一気に明るくなった。

「もしかして、それは獄炎の魔導師ライム・フットゥーロのことかい?いやあ懐かしい名前だ。君は彼の弟子か何か?」

「はい。まあ弟子的な…。名前はカオルコともうします。あなたはライム様のお知り合いですか?」

「これは失礼、私の名前はタルージャ・ダングリン。ライム殿とは魔導学院の同窓でね」

 そう言いながら財布をわたしの手に返し、

「彼も魔導大会に出るのだろう。久しぶりにお会いしたいのだが、今どちらへ?」

 と尋ねた。わたしは受け取った財布を、今度こそ盗まれないように懐深くに押し込んで、

「確か、学院に顔を出すとかおっしゃっていましたが…」

 と答えると、タルージャはニッコリと笑った。

「ちょうど僕も向かうところだったんだ。それじゃあ、学院までわたしがエスコートしましょう。ぼくが一緒なら悪い奴らに狙われることもないでしょうから」

 と言ってウィンクしてみせた。垂井に優しくされても正直全然嬉しくないんだけど、そこは社交辞令として笑顔を見せることにしておいた。

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