第4話 魔棋

 いつもとは違う扉を無理やりくぐらされた私の意識は何も見えない暗闇の中に潜り込み、微かに(このまま元の世界に戻れないだろうか)と期待したんだけど、男の声がその希望を打ち砕いた。

「いいかげん目を開けたらどうだ」

 恐る恐る瞼を開けると、そこに広がっている風景はわたしの部屋とは全然違っていて、

「すごい」

 違った意味で裏切られ、思わず驚きの声が口からこぼれてしまった。

 わたしたちが立っているのは大理石造りの大広間の中央で、足元には赤い絨毯が引かれ、見上げればドーム状になった天井にびっしりと彫刻が施されており、あたりの壁には彫像が立ち並んでいる。そして大きく開け放たれた窓に目をやると、そこから見える風景に思わず駆け寄ってしまった。部屋の外には色とりどりの花が咲き乱れる美しい庭園が広がっていて、真冬で雪まみれだったわたしの世界の風景とはまるで違う。

 さらに、いま見えているこの世界が私の世界とまったく違うことを確信させたのが、空を羽ばたく異形の存在だった。

 わたしの隣まで歩いてきた彼に、

「あれはなに?」

 と指差して聞いた。小型のジェット機ほどもある生き物が雲の隙間を縫って飛んでいる。

「あれは飛竜。危険そうに見えるが、滅多に人を襲ったりはしない。どうだ、私が貴様の知り合いだという疑いは晴れたか?」

 彼の問いに、わたしはうんうんと力強くうなずいた。あの部屋を抜けるとこんな世界が広がっているんだ。眼に入るものすべてが珍しくて見とれていると、今度は二本脚で歩く竜が庭園の中を通る石畳の道を歩いてきた。

「じゃああれは?」

「あれはラクテアだ。ちょうどいい、紹介しよう」

 そう言って広間を抜けて庭園を出ていこうとしたので、わたしもあとをついていった。


 ラクテアと呼ばれた竜は、わたしたちのすぐそばまでやってきて長い首を折り曲げて顔を近づけてきた。彼はその頭をよしよしと撫でている。

 かじられてはたまらない、とわたしが尻込みしていると彼が、

「大丈夫、噛み付いたりしないよ」

 というのでおそるおそる手をのばしたら、そいつはいきなり口を大きく開いて噛み付こうとしてきた。

「きゃっ!」

 びっくりして尻もちをつくと、ラクテアは口を上に開けて「ゲッゲッゲ」と奇怪な鳴き声を発した。もしかして、笑われてる?

「おいラクテア、客人にいたずらはよせ」

 男がピシリと注意すると、竜はみるみる姿を変えて女性の姿になった。

「失礼いたしました、ライム様」

 深々と頭を下げるその人の顔を見て、地面にへたり込んだままさらに驚いた。え! 銀河さんなの? それに、こっちの男の人の名前はライム? 来島四段の名前も来夢だ。一体これはどういうこと?

「ところで、こちらの女性は一体?」

 二人の顔を交互に見ては目を白黒させているわたしのことを冷たく見下ろして、ラクテアという名の銀河さんにそっくりの女性が言った。

「本人が言うには、こことは違う別の世界から来たということだ。わたしにもよく分からん」

 よく分からないのはこっちの方だ。自分の身の回りにいる人が二人も現れるなんて、これが壮大なドッキリ企画である可能性もなきにしもあらずだけど、竜が銀河さんに変わったりだとか、石が美人のメイドさんに変わったりだとか、現実だとしてもありえないことが多すぎる。

 夢の中のできごとなのかもしれないと思って試しに自分の頬を力いっぱいつねってみたけれど、単に痛いだけだった。

「別の世界ですって? 一体どこからお連れになったのですか」

「ふん、”学びの間”に勝手に入ってきよったのよ」

「そんなことありえない! 誰にも知られずに魔棋の研究をするために作られた部屋に、招かれざる者が進入するなんて」

「もちろん。幾重にも張り巡らされた結界をかいくぐる術があるとは聞いたことがない」

「ではこの娘、他国からのスパイ!?」

「ははは、騎竜に驚いて尻餅をつくような娘が、結界を破って侵入できるほどの魔導師に見えるか」

「しかし…」

「我々の知っている方法では無理だからこそ、この娘の言うことを信じようと思うのだ。おい、いつまでそうしているつもりだ」

来島四段、ではなかった、ライムはこちらを向いてそう言って、地面にへたり込んだままのわたしに向かって手を伸ばした。わたしはその手を取って立ち上がり、おしりについた土埃を払った。

「私の名はライム、こっちは弟子のラクテアだ。娘よ、貴様はなんと申す」

「わたしの名前ですか? わたしは香子、成田香子といいます」

「ふむ、カオルコと申すのか。なあカオルコよ、ひとつ頼みがあるのだが」

「頼み、ですか?」

 訝しみながら聞き返した。頼まれる前に、早く家に返してほしいって頼みたいところなんですが。そんなわたしの心の声を知ってか知らずか、ライムはとんでもないことを言い出した。

「このラクテアと魔棋で勝負して欲しいのだ」

「この娘と勝負!? ライム様、正気ですか?」

 わたしが口を開く前にラクテアが、ライムに掴みかからんばかりの勢いで言った。

「もちろん正気だとも。このカオルコと申す娘、魔法も使えないくせに魔棋を扱えると申してな」

「まさかそんなこと! 魔棋は大地を流れる魔力の道筋を自在に操り、その力を自らのものにして極限魔法を発動させる、高位の魔導師にしか扱えない究極の奥義。それをこんな魔法も使えない小娘に扱えるはずなど…」

「ところがな、この私が敗れたのだよ。魔法も使えぬ小娘に、だ」

「あのー、お取り込み中のところ申し訳ないんですけど」

 すっかり蚊帳の外になってしまった“魔法も使えない小娘”ことわたしは、おずおずと手を上げて二人の会話に割り込んだ。

「そもそも最初は、わたしがライムさんに勝ったら元の世界に戻してくれるという約束だったと思うんですが」

「まあ良いではないか。すぐに終わる」

「でも…」

 ライムは、「すぐに終わるとはどういうことですか!」と食って掛かるラクテアを手で制しながら、返事を渋るわたしに奥の手を出してきた。

「今まで勝手に私の部屋を使っていただろう? その使用料だと思って付き合ってくれないか」

 それを言われると弱い。というか、今後もあの部屋を使うことはできるんだろうか。あれが無くなってしまったら、どうしたらいいだろう。

 しかたなくうなずいて、陰鬱な気持ちのまま二人のあとをついて、庭園の高台にある東屋あずまやへと進んだ。

 ライムはわたしたち二人を向かい合わせにテーブルにつかせると、懐から例の石を取り出してメイドさんの姿に変化させた。二人のメイドさんにお茶の用意をするように申し付けると、今度は羽の生えた巨漢の戦士と、首から上が竜の顔をした半人半竜の戦士を出現させて、その二人に何やら耳打ちして上空へと羽ばたかせた。

 ラクテアは懐から自分の小袋を取り出し、その中身の石をテーブルの上にバラバラと開けた。石はラクテアの合図に従って小さな兵士へと変化し、おのおのが勝手に歩いて初期位置についた。

 将棋と違って全自動だから便利でいいなあ、などとのんきなことを考えていると、ラクテアが厳しい口調で言った。

「どんな手段を使ってライム様に勝ったか知らないけれど、わたしはそうはいかないわよ」

「そんな…、わたしは普通に指しただけで」

「ふん、言い訳はあとで聞いてあげるわ。さっさと始めなさい!」

 顔は銀河さんと瓜二つでも、性格の方は正反対みたいだ。

 わたしはポケットからエーテルの枝を取り出して、角の斜め前の歩兵を前に進めさせて、とりあえず普通に進めてみた。何手か進んでみるとやっぱり玉や金銀をぐいぐいと中央に進ませて来るので、ラクテアもライムと同様、盤面を使って魔法陣を作る作戦だと分かった。やがて魔法陣が完成したらしく、ラクテアはドヤ顔でこちらを見た。

「口程にもないわね。わたしの勝ちよ!」

「お、おう」

 とまどうわたしをよそに、大げさな身振りで最後の一コマを配置につけた。

「星冥の彼方より来たりて押しつぶせ! 暗黒星雲よりの使者!」

 呪文も違うし、出来上がりの形が微妙に違う。盤と駒がきらめいて魔法陣が現れ、そして消えた。

「なるほどね」

 と言ってわたしは次の手を動かした。

「何やってんの、あなた負けたのよ」

「負けてない。わたしの王はまだ生きてる」

「違う。あなたが死んだの」

「死んでない」

「あのね、この魔法は、わたしたちが今いる星から遥か遠くかなたにある暗黒星雲から彗星を呼び寄せて相手を押しつぶす、『天』の系統の魔法の中でも最上級難易度の魔法なのよ。そんじょそこらの魔導師ならもちろん、あなたのような魔法も使えない小娘なんて、髪の毛よりも薄くペラッペラに潰されるんだから」

 わたしは大きくため息をついた。負けてない将棋を一方的な理屈で負けたと言われるのは、腸がぐっつぐつに煮えくり返るぐらい腹立たしい。だけどきっと、どうやったって彼女が言い分を覆すことはないだろう。この人たちは、わたしたちの世界の将棋と使う道具や動かし方が一緒でも、全然違うルールの中で戦っている。

 さっきラクテアは『大地を流れる魔力の道筋』と言っていた。駒を動かすことで盤上に魔法陣を描いて魔法を使うことが勝敗の条件になっているのなら、さっきライムと対局した時のようにそれを無視して進めたとしても、きっとこの人は負けを認めてくれないだろう。

「わかった。あなたの勝ち」

「ふん、だから言ったのよ。魔法も使えない小娘に魔棋なんて無理だって。魔力の流れも見えない、込められた魔力の大きさも分からない一般人にはね」

 ラクテアはそう言って、メイドが運んできたお茶を満足そうに口にした。

「ライム様も、このようなド素人相手に負けてさしあげるなんてご冗談がすぎますわ」

「いや、先程はこの後も進んでだな、おいカオルコ、今回は随分諦めがいいようだがどうしたんだ。もうちょっと続けてみないか」

「いえ、今回はわたしの負けでいいです。その代わり、もう一局指してもらえませんか」

 わたしはそう言って、ラクテアに向かって頭を下げた。

「あら、まだやろうっていうの? 往生際が悪いわね。まあいいわ。お茶の時間が終わるまで付き合ってあげる」

 その余裕の態度もいつまで続くかな。下を向いたまま、わたしはニヤリと笑った。


 次の対局が始まって、最初のうちは先ほどとおなじく相手の駒がどんどん前に出てくるのを見守りながら着々と攻撃態勢を整えた。そして駒組みが飽和状態に達した時、わたしはいきなり、騎竜にまたがった騎兵こと桂馬を跳ねて、相手の歩兵をなぎ倒した。倒された歩兵は石となってわたしの手元に飛んでくる。ラクテアはギリッと歯噛みして二刀流の剣士こと銀将で桂馬を切り倒した。さらにその銀将に向かって、半竜半人の戦士を飛びかからせる。

 これは明らかに無理攻め、駒と駒をお互いに交換して行ったら相手の方が得をしてしまう無謀な攻め方だ。だけど今のラクテアの表情を見るに、良い駒を手に入れることよりも魔法陣を予定通り完成させる方が大事であるのは確実だと分かった。わたしは駒損を承知で次から次に駒を交換し、相手の王様の周りの駒を剥がしていった。

「こんな汚いやり方がッ!」

 完成間際の魔法陣は見る影もなく崩壊し、ラクテアは口汚くののしりながら持ち駒を投入して陣を復活させようと試みるけれど、わたしは歩兵を並べてそれを牽制し、じりじりと敵陣に押し戻した。相手陣に侵入したわたしの歩兵は次々に重装歩兵へと進化し、ラクテアの陣地を蹂躙し、やがて彼女の王様を盤の隅へと追い詰めた。そして、

「わたしの勝ちよ」

 そう言って、わたしは彼女の王様の目の前に、自分の持ち駒から重装歩兵を出現させた。いわゆる『頭金』の形で、逃げ場所もないし、金将を取れば他の駒に王様が取られてしまうので取るわけにもいかない。完璧な詰み形だ。

「こんな、こんなの、魔棋じゃない!」

 絞りだすような声でラクテアは言った。

「そうよ、これは将棋。魔棋じゃない」

 険悪な雰囲気のわたしたちとは対称的に、ライムは興味深そうにうなずいたり独り言をいったりして、実に楽しそうだ。

「相手に魔法陣を作らせないために妨害に出るというやり方は、確か東の連中が得意としていたはずだが、まさか全く魔法陣を作らない、魔法を使わない前提で勝とうという考え方があったとはな…」

「それじゃわたし、帰らせてもらってよろしいでしょうか」

「待ちなさい! あなた、これで帰ろうとしているの?」

 ラクテアはテーブルをバン!と叩いて立ち上がった。

「でも、そもそも一局だけで終わる約束だったはずじゃ」

「何を勝手なことを言ってるの。今回はあなたがリクエストしたから受けて立ってあげたのよ! だから次はわたしの番。もう一回よ。次はこうはいかないんだから」

わたしはため息をついた。半分涙目になりながら詰め寄ってくる彼女の顔を見たら、無下に断ってはいけない気持ちになったからだ。

「わかりました。ではもう一局だけ」

「言っておくけどまだ一勝一敗ですからね。次が本当の勝負よ」

「はいはい」


 続けざまに三局目が始まった。さっきは魔法陣を作ろうとしたのをわたしに潰されたから、今度はもっと早めに決めてくるか、中央に出すぎてしまわないように気をつけてくることが予想された。なので大駒を使って積極的に攻めていこうと思ったんだけど、幕切れはあっという間にやってきた。

「はい、わたしの勝ち」

 そう言ってラクテアが兵士を動かすと、魔法陣が完成して小さく光った。

「え、もう?」

 まだ10手も動かしていないのに。

「そうよ。終わり」

 そう吐き捨てるとラクテアは、素早く兵士たちを石へと戻し、片付けはじめようとした。なんかだまし討みたいで、卑怯だしもやもやするし消化不良だけど、そっちが納得するならそれでいいやと思った。だけどここにひとり、納得できない人がここにいた。

「おいラクテア、それはないだろう」

 ライムは不機嫌そうに抗議の声を上げた。余計なことをしなくてもいいのに。

「あらライム様、今回は紛れも無くわたしの勝ちですわ。たとえ最下級の魔法、魔獣をひるませることしかできないような初歩中の初歩の魔法であっても、この小娘程度なら赤子の手をひねるようなもの」

「理屈は分かる。だがそれでは困るのだ」

「困る、とは?」

 ライムは舌打ちをして、イライラとした様子でわたしたちの周りを回りだした。それを見たラクテアは石を片付けるのをやめてしまった。わたしも、帰らせてくれとはとても言い出せない雰囲気だと感じて黙っていた。

 しばらく考えて、ライムが口を開いた。

「そうだ。実戦で試してみよう。ふたりとも、これから闘技場へ行くぞ」

「実際に魔法を使うということですか? しかしライム様、先程から申し上げておりますとおり、ただの人間ではどんな低級の法にだって耐えられません」

「だから私がカオルコとペアを組む。わたしの魔力で魔法を防げば戦えるだろう」

「ライム様は魔棋を使わず、この小娘の指示に従う、ということですか」

「そうだ。それならラクテア、君にも勝ち目があるだろう?」

「魔棋同士の戦いではライム様の足元にも及ぶべくもありませんが、その条件では負ける気がいたしませぬ」

「カオルコはどうだ? 勝てる自信は?」

「わたしですか? さっきみたいにいきなり負けるようなことがなければ、大丈夫だと思いますが…」

「よし、決まりだ。闘技場へ行こう」

 そう言ってライムは東屋あずまやを出て屋敷の方に向かって歩き始めた。




「付きあわせてしまって悪いなカオルコ。次で最後にするから」

あんまり悪いと思ってい無さそうな口調でライムは言った。

「わたしもさっきの勝負は納得いかなかったので、いいですよ」

「そう言ってもらえると助かる。そうだ、あいつらを呼び戻さないと」

 ライムはそう言って上空にむかって合図をした。すると、さきほど飛び立った二人の戦士がライムの両脇に降り立った。彼らからなにやら報告を受けて、満足そうにうなずいて石へと戻した。

「カオルコがスパイじゃないかどうか、彼らに見張らせていたんだよ。怪しい者が監視していないかどうかをね」

「魔棋をやっているところを見られるとまずいんですか?」

「もちろん。魔棋の技は秘中の秘、魔導師の命に等しいものだ」

「じゃあ、他の人の戦っているところは見られないんですか?」

「見ることができるのは魔棋を戦ったお互いだけだ。誰かに見られてしまえば、次にその相手と戦った時に負けるのは自分だ」

「そうなんですか…」

 ライムの言葉にわたしは考えこんだ。

 わたしがいる世界では、将棋はとてもオープンなものになっている。今現在戦われている対局の様子はインターネット中継でリアルタイムに観戦できるし、新しく生み出された画期的な一手も、よってたかって研究が進められて明日になれば対策ができていたりすることも珍しくない。

 でも、一局の戦いに命がかかってしまうのであれば話は別になる。戦う前に手の内を知られれば死につながるとなれば、棋譜を公開するどころか他人と研究するなんてもってのほかだ。魔法であることを別にしても、ルールが同じなのにこの世界で将棋の技術が進歩していないのはそのせいなのかもしれない。

 そんなことを考えながらライムの後をついて屋敷の中に入った。さきほどの広間を抜けて中庭に出ると家ぐらいの大きさの半球形の建物があった。きっちりと組み上げられた石でできていて、窓ひとつない。ライムが近くによって手をかざすと壁面の一部がぽっかりと開き、さらにその中に入ることになった。

「え、なにここ」

 建物に入ったわたしは、思わず驚きの声を上げた。

 広さがおかしい。外から見た時は家一軒ぐらいに見えたのに、この中は野球のグラウンドがすっぽり入ってしまうぐらいの大きさだ。そして屋根もない。上空には星空が広がっている。地面は荒れ果てた土と石だらけで、さっきまでいたライムの屋敷の庭園とは何もかもが違っている。

「ここも”学びの間”と同様、魔力で作られた空間だ。外でやると街一つぐらい壊しかねないからな」

 驚いているわたしに、ライムが面白そうに笑いながら言った。個人的には全然面白くない。街一つぐらい壊しちゃうって?

 怖気づいているわたしを引っ張るようにして、ライムはわたしたちのすぐ隣にそびえ立つ石造りの塔に登り始めた。塔の外周にある階段はところどころ崩れていたり、鉄でできた手すりが何か物凄い熱で溶けた跡が残っていたりして、不安な気持ちばかり湧き上がってくる。

 階段を登り終えると、塔の頂上には10m四方ぐらいのスペースしか無く、うっかり下を覗き込んでしまって、

(魔法とかの前に、ここから落ちて死んじゃいそう)

 と思って足がすくんだ。強い風が吹いていて寒いし、パチパチと音を立てて燃える篝火の火の粉は飛んでくるし、さっきまでの美しい庭園でメイドさんにお茶を淹れてもらっていた優雅な時間が嘘みたいだった。

 100mぐらい離れた先にももう一つ塔があって、そこにも人影が見えた。多分あれはラクテアだろう、長いローブが風に煽られてバタバタとしている。

「それでは始めようか」

 ライムはそう言い、杖を高々と掲げて宣言した。

「獄炎の魔導師ライム・フットゥーロの名のもとにおいて、天空の魔導師ラクテア・ミリアイアとの魔棋を執り行う!」

 その声に呼応するかのように大地が震えだし、目の前の地面に9×9の光のマス目が現れた。続いて懐から魔具が入った小袋を取り出し、それぞれの陣地に兵士たちを出現させた。練習の時とは彼らの姿も少し違う。ラクテア側の兵士はどれも女性で、顔つきも彼女に似ているような気がする。




「まずはどうする、カオルコ。こちらは君の指示通りに動かすぞ」

「わたしは魔法を使えないから、最短手数で勝たなければならないのよね。とすると、石田流かな。まずは角道を開けて。角の斜め右前の歩を一歩前に進めるのよ」

「角? ああ、ドラグニュートのことか」

 そう言ってライムは、杖を振って7六の地点に兵士を動かした。兵士が移動すると、周りのマスや他の兵士が呼応するように光を放つ。

「あの光が見えるかい? 魔棋ではひとつひとつの魔具の動かし方、位置関係によって魔力が増幅されたり性質が変わったりするんだ。それを扱う魔導師の特性によってもそのパターンは違ってくる。無限の中から正しい手順を見つけないと、魔法を使うことはできないんだよ」

 お互いに一手ずつ駒を動かしながら、ライムは魔棋の基礎知識について説明してくれた。

 将棋でもこの宇宙にある粒子の数と同じくらいの盤面が存在するというのに、それが一人ひとりについて違うなんて! 将棋は覚えられても、わたしには魔棋の法則は理解できそうもないなあ。

 だけどそんな魔法音痴なわたしでも、ラクテアの魔力が、局面が進むに連れてどんどん充実してきているのは分かった。相手側の兵士たちが発する光が強くなり、波打ちうねり、さまざまな色を発して輝きだしてきているからだ。

「次、来るぞ」

 こちらの兵士を移動させた直後、ライムがわたしに警告した。ラクテアが杖を掲げ、一度5五に飛び出した角を7三に戻した途端、魔力のオーラが危険なぐらいに明るく輝きだした。

「星冥の彼方より来たりて押しつぶせ、暗黒星雲よりの使者!」

 これは最初の対局で彼女が繰り出した魔法だ。あの時は盤面に魔法陣が現れて終わりだったけれど、今回は魔法陣から放たれた光がひと束になって空を突き刺した。

 次の瞬間、すさまじい暴風がわたしたちを襲う。吹き飛ばされそうになったわたしはライムの手によって引き寄せられ、強く抱きかかえられた。背中に彼の体温を感じてドキドキする間もなく、ライムは天の先を指差した。

「あそこを見るんだ」

 さっきまで空には無数の星々が輝いていたのに、魔法陣からの光が突き刺した場所を中心に星がない部分があった。その黒い部分は少しずつ大きくなっていく。

「あれは、黒い円盤?」

 わたしの問いにライムは首を横に振った。

「あれは宇宙の彼方に存在する暗黒星雲を構成する、ありとあらゆる光を通さず封じ込める闇の物質だ」

 説明の言葉が終わるまでの間にもさらに大きさを増していき、上空が視界いっぱい闇に覆われてしまうほどになった。これだけの大きさでもまだ何万メートルも上空にあるようだ。もしかしたらこの闇の物質って惑星サイズ、この地球と変わらないぐらいの大きさなんじゃないの?

 そう思った刹那、黒い塊が一瞬にして消え失せた。いや、

「頭を下げろ!」

 鋭い声に、反射的に身を縮こませる。次の瞬間、この世が終わるのではないかという大轟音が響き渡った。

 見上げるとライムが必死の形相で杖を掲げ、その先端から魔力を放出して上空から落ちてきた黒い塊を受け止めていた。漆黒の闇をさらに深くして禍々しい稲光を放つ物体。

 惑星サイズだった塊が、いまや自動車一台ほどのサイズに凝縮されている。その密度たるや、あの物質のほんのかけら、砂粒一つぐらいの大きさでも、きっとわたし一人分よりも重いに違いない。

「カオルコ、早く次の手を!」

 ライムは絞りだすような声で叫んだ。たとえ自分の弟子とはいえ、魔棋の力によって増幅されたラクテアの魔法を、魔棋の力を借りず自分自身だけの魔力で受け止めるのはさすがに限界があるらしい。

「それじゃ、飛車で相手の桂馬を取って成るのよ!」

 これで相手の玉は『詰めろ』になった。相手が何か受けの手を指さなければ、次のわたしの手番で相手の玉を詰ませることができる。

 ここで誤算だったのが、ラクテアが全く詰めろを受けてくれなかったこと。普通に将棋を指す人ならば自玉の危険を感じて受ける手を選ぶはずだから、そこからわたしの攻めるターンが始まる予定だった。

 だけど彼女が指したのは、さらに魔法を発動させる一手だった。

「星の瞬きをこの手に、明滅する鬼火!」

 ラクテアは中央に大きな魔法陣を作りながら、第二弾として隅の方に小さな魔法陣を用意していたのだ。彼女が呪文を唱えると、わたしとライムの周りをキラキラとした明かりが取り巻いた。その輝きに目を奪われて思わず手を伸ばすと、バシッという音ともにはじけ飛んだ。

「痛い!」

 寒い日にドアノブをつかんだ時の静電気のような痛み。指先を見たけれど血が出たり傷がついたりしているほどではなかった。でもそれが、

「キャッ」

今度は背中に当たって弾けた。痛いだけで実害はないのかもしれないけど、こうやって不定期のタイミングで痛みに襲われるのはものすごく嫌だ。

 もちろんわたしだけじゃなくてライムの体にもぶつかってバチバチとはじけている。そのたびに彼は苦痛に顔を歪め、さらに集中をそがれるたびに頭上の闇の球体と魔力の壁の均衡が崩れ、グラリグラリと大きく揺れながらわたしたちを押しつぶさんと圧力を強めてくる。このままではふたりとも押しつぶされてしまう!

「ライム、大丈夫?」

「私のことはいい、次の、手を」

「わかった。それじゃ、相手の玉の後ろに金を打って!」

 これで、詰む。

 その手を見たラクテアは、しばらく考えてから高笑いをした。

「ふ、苦し紛れか。その金将エスクワイヤ玉将ウィザードで取ったなら、そこにいる飛車ドラグーンで仕留めようと言う作戦だろう。そんな見え透いた作戦に乗る私ではない!」

 そして得意げな顔で杖を振り、玉を横へと逃がした。矢継ぎ早にわたしは叫んだ。

「ライム、玉を金で追って!」

 逃げた玉を追いかけて、その真後ろに金を寄せた。

「なにを無駄なことを、その手は通じぬと言っただろう」

 逃げるラクテアの玉と、追いかけるわたしの金。永遠に続くかと思われたレースは、主に彼女にとって意外な形で終わりを迎えた。

「な、に…!? 行き止まりだと」

 そう、将棋のマスは9×9しかないので、いつまでも逃げ続けることはできないのだ。上に逃げるのにも自分の駒が邪魔をしてしまっている。

「だが、また行って戻れば永遠に勝負がつかないではないか!」

 そう叫びながら玉を逆サイドに動かしたラクテアに、わたしは死亡宣告をした。

「ライム、竜王を玉の後ろに移動させて」

 金は真後ろにしか進めないから横に逃げられるけれど、竜王は真後ろと斜め後ろにもすすむことができる。これで玉は逃げ道を失った。

 次の瞬間、ラクテアの兵士たちはすべて光を失って石へと戻り、魔法陣も、わたしたちの頭上を脅かしていた闇の球体もすべてが雲散霧消した。

「なんだ、これは。なにをされたんだ私は」

茫然自失としているラクテアにわたしは告げた。

「今のは『すそがりの金』よ!」

「すそがりの、金…」

それを聞いて、彼女の体は糸が切れた人形のようにグラリと崩れ落ちた。




 ライムは?

 振り返って見ると、勝利したはずの彼が片膝をついて、ぜいぜいと肩で息をしている。無理もない、あんな凄まじい魔法を一人で受け止めたのだ。

「よくやったな。思った、とおりだ」

「こんな? こんなひどい目にあっても思ったとおりなの?」

「ああ、”ショーギ”の力だけでラクテアに勝てるだけの実力があること、それを証明できた」

「わたしには分かりません。一歩間違えば死んでしまうようなことをどうして…」

「魔棋に負けることは、命を失うことに等しいのだよ」

「命を…」

「わたしはこの街の守護魔導師をしている。いわば領主のようなものだな。その地位は魔棋によって先代の守護魔導師から勝ち得たものだ。挑戦があればわたしも先代のようにそれを受けなければならないし、負ければ全てを失うことになる」

 そう言ってライムは杖を頼りに立ち上がろうとするが、足元がふらついて倒れそうになった。

「危ない!」

 駆け寄って支えようとしたら、抱きとめるような形になってしまった。慌てて距離を取ろうとするけれど、両肩をがっしりと捕まえられてしまった。

「カオルコ、私には君が必要だ」

「え、ええ!?」

「私も守護魔導師としてこれまで研鑽を積んできた。魔力の腕だけならば王都にいる評議員たちにも引けをとらないつもりだ。だが、君のような発想を持つものが現れたら手も足も出ないだろう。私には君の力、”ショーギ”の力が必要なんだ」

「ああ、将棋のほうか」

 ちょっと拍子抜けしてしまった自分の気持ちに驚いた。何を期待していたんだわたしは。

「いいよ。今度来た時、将棋を教えてあげる」

 わたしの答えを聞いて、彼は安心したような笑顔を見せた。

「それを聞けてよかった。それじゃここを出よう」

 それからライムは魔棋に並べられた兵士たちを手元の袋に戻し、それからメイドさんに変えて呼び出して、ラクテアを連れてくるように命じた。彼自身もメイドさんに肩を借りて一歩ずつ塔を降りていく。

「その石って、いろんなことに使えるのね。あの兵士たちもそのメイドさんも同じものなの?」

「そうだ。逆に今回のように魔棋のために使うほうが稀だな。こうやって召喚したり、魔具を組み合わせて魔法を使うことの方が一般的な使い方だよ」

 塔を降りて、ぐったりとしたラクテアを抱えたメイドさんと合流したライムは、小袋からいくつかの石を取り出した。それは宙に浮いて魔法陣となり、目の前に扉を出現させた。

「さあ、ここを通れば”学びの間”に戻れる。今日は長いこと付きあわせてしまってすまなかった」

「ちょっと怖かったけど、今まで見たことがないものばかりだったから楽しかったよ」

「そう言ってもらえて良かった。また近いうちに来てくれるかい?」

「うん、また来るね」

「ありがとう。約束だよ」

 そう言って手を差し出したライムと握手をしてから扉をくぐり、”学びの間”を抜けてわたしの意識は現実の世界へと戻ってきた。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 現実の世界に戻ってきても、わたしの右手にはまだ、彼の手の感触がしっかりと残っていた。夢のなかの出来事とは思えない、確かな手触り。

 って、そうじゃない。そんな余韻にふけっている場合じゃない!

 わたしの記憶は一気に遡って、そもそも何のために向こうの世界に入ったのかを思い出した。窓の外を見ると、さっきはまだ薄ぼんやりと明るかった空が真っ暗になっていた。完全に真夜中だ。

(なんで?)

 今までは何時間あの部屋にいたってこちらの世界では数分しか経っていなかったのに。もしかしたら、ライムがいる世界に抜けたから?

 いつの間にか体の上にかかっていた毛布をはねのけて飛び起きて、枕元においてあったスマホを手にとった。うわ、25日になってる!

 案の定、桂太からのメールが沢山届いていた。


 17時30分には<これから出てこれる?>


 18時には<いま着いたよ>


 18時10分には<今日は無理?>


 19時には<無理そうなので帰ります>


 そして20時ころには<ゆっくり休んでね>という件名で、昨日は緊張して疲れてたよね、みたいな、わたしのことを気遣ってくれる内容だった。

(なんて返事をしよう)

 そう思った次の瞬間、わたしのおなかが鳴って、自分がひどい空腹であることに気づいた。

(とりあえず、何か食べてからにしよう)

 クリスマスケーキ、まだ残ってるかな。

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