第三十二幕 笑い般若との戦い



 月が変わって三月の五日になってのことであった。


 竹蔵さんとおいとさんは、一月に産まれたばかりの息子である恵吉ゑきちくんの夜鳴きが酷い、ということで恵吉ゑきちくんを稲荷社いなりやしろに連れてきて、徳三郎さんとすずさんに見てもらった。


 そして、すずさんがあやかしの目で恵吉ゑきちくんの体を見てみたところ、人の目には見えない朱色の数字のしるしが描かれているのを見つけたのだという。


 その数字のしるしは、何らかの妖怪が恵吉ゑきちくんを連れ去るためにつけた印であるらしい。


 すずさんの話によると、性質たちの悪い妖怪の中には生まれたばかりの赤子を好んで食べる者もおり、その際には所有物であることを主張するための印をつけるのだという。


 その日は、すずさんの用いている例の膏薬を恵吉ゑきちくんの額に塗りつけることでなんとかカンの虫は治まったが、このままにしていて良い訳がない。


 徳三郎さんは、竹蔵さんとおいとさんに恵吉ゑきちくんを御祓いすることで邪気を遠ざける必要がある事を伝え、俺たちも妖怪退治の準備に取り掛かった。






 三月の九日から日付の変わった深夜のことであった。既に日付は三月十日になっている。


 半月から少し膨らんだ月は、既に西の空に沈みかけていた。


 俺とすずさんとおあきちゃんの三人は、竹蔵さんたちの住む蒟蒻こんにゃく長屋の近くにて獲物を待っていた。夜風はまだまだ冷たい。


 恵吉ゑきちくんの体に塗りつけられていた数字のしるしによれば、この日の未明に現れるはずであった。


 深夜であるので人の声はまったくしない。ごみごみと並び立つ長屋の間には夜の風が通り抜け、どこからともなく野犬のいななく声が聞こえてくる。


「わおーん! わおーん!」


 犬の何処からか聞こえてくる吠え音に、白衣袴を身に付けた俺はすずさんに尋ねる。

「すずさん、どんな妖怪かはわかりますか?」


 すると、巫女装束を身に付けたすずさんが応える。

「それはまだわかんないけどねぇ。でも、数のしるしを付けたってことは、筆を持てるような手を持ってるだろうさ。人の形をしているかもしれないよ? りょうぞうはそういうの、斬り付けることができるかい?」


 すずさんが、挑発しているような面持ちを見せたので、俺も強がって返す。

「赤ん坊を食べるような妖怪には、躊躇ちゅうちょしませんよ」


 俺はそう口では言ったものの、内心ではすこし狼狽していた。


――本当に人間と見分けが付かない妖怪などだったら、殺すことで心の傷にならないとも限らない。


 こないだ、人の形をした妖怪であるお美代さんと闘ったときは、頭を撃ち抜くのに当初は戸惑ってしまった。


 だが、竹蔵さんとおいとさんの子供である恵吉ゑきちくんを食おうとしている妖怪ならば、俺も退治しない訳にはいかない。


 俺は、すぐ目下にいるおあきちゃんを見る。


――もし、おあきちゃんみたいな見目だったら、多分無理だ。


 そんな事を考えながら待っていると、月影がもう長屋の影に隠れそうになったところで、すずさんが声を発した。

「来たよ。ありゃぁ、わら般若はんにゃだね」


 すずさんの言葉に、俺は闇の向こう側を見る。月の光がほとんどないので相当に見づらいが、すずさんの背丈と同じくらいの人影が長屋の重なる路地に現れたのを見ることができた。


 その者は、裾がぼろぼろの着物を着ていて、襟元からは膨らんだ胸の様子が見えていた。どうやら女性の妖怪であるらしい。


 下半身の裾がいやにだらりと開いていて、膝がちらちら見えるくらいの脚線美を見せていた。足にはぼろぼろの草履ぞうりを履き、並々ならぬ怪しい雰囲気を醸し出している。


 しかし、特筆すべきはその顔であった。口と目元は般若はんにゃと呼ぶに相応しく大きく醜く歪み、しわの全てが深く刻まれていた。


 笑っているようにも見えるが、悲しんでいるようにも見えるように、ぐにゃりと表情が歪んだまま固定されている。そして、明らかに人ならぬものの特徴として、頭には一対二本の角が生えており、ぼさぼさの髪の上に突き出ている。少なくとも、普通の人間には見えない。


 長屋と長屋に挟まれた路地の向こう、五メートルくらい向こうにて、その妖怪が立ち止まる。


 そして、わら般若はんにゃと呼ばれた妖怪が、能楽のうがくのようなたかこえ口調くちょうで俺たちに語りかける。

汝等なんじら何故なにゆえわれはばむか。やがてこみちとおせ」


 すると、すずさんがそれに応え尋ねる。

「おまいさん、あの赤ん坊をどうする気だい? それをまず聞かせてもらうかねぇ」


 すると、わら般若はんにゃは顔を歪めたまま応える。

れたことわれ赤子あかご御身おんみ御魂みたまらふはらにあり。われ赤子あかご食らふ物怪もののけにして、それことわりなり。などかわれそをまんや。そのことりなば、かえるべし」


 すると、すずさんがわら般若はんにゃをきっとにらみつける。

「問答無用だね? いい覚悟だよ」


 すずさんが舌をなめずって、白衣しらぎぬたもとの影から出した薙刀なぎなたを構える。同時に、俺は手を繋いでいるおあきちゃんと顔を見合わせお互いにうなずきあう。そして次の瞬間には俺の手には日本刀が握られていた。


 ここは長屋が密集する狭い路地なので、銃撃戦をすることはできない。長屋の薄い壁を流れ弾が貫通したら、寝ている住民に当たる可能性があるからだ。更には火事になる危険性があるため、炎の妖術も使えない。


 日本刀を構えた俺と、薙刀なぎなたを握りしめ構えたすずさんは、幅2メートルもない狭い路地にて斜めに並んで足をって殺気をたたえる。


 わら般若はんにゃは右手を頭上に掲げた。すると、その掲げた手のそれぞれの指先から長さ一尺(約30センチメートル)はあろうかという長い爪を全部で五本伸ばした。


 わら般若はんにゃの能楽のような金きり声が、どす黒い心を現すかのように低く変調する。


「食わすべし。食わしむべし。なんじわれ赤子あかご食わさすべし。さもなくばなんじ、ことごとくえね。えて生きざらん」


 古語混じりの言葉はよくわからなかったが、俺たちを皆殺しにするという鏖殺心おうさつしんは伝わってくる。


 わら般若はんにゃは口をかっと開き、一対の鋭い牙を現した。


 そして、わら般若はんにゃは言葉を発した。

ものあいなし。やれゆくりなくとどまれ」


 すると、薙刀を構えつつ足を滑らしていたすずさんがいきなり「ぐっ!」と叫んで固まってしまった。


 俺は叫ぶ。

「すずさん!? どうしたんですか!?」


 すると、すずさんが口から声を絞り出す。

「……言霊ことだま使いだよ……! りょうぞう……おまいさんが……!」


 その言葉に、俺は目の前にいるわら般若はんにゃがどういう妖術を使うのか理解した。この妖怪は、口から発した言葉通りの事柄ことがらを起こすことができるのだ。


 俺は、日本刀を構えて叫びながら、すずさんの脇を追い越し、駆け抜ける。


「うおおおおおおお!!」

 日本刀を両手で持ったまま、咆哮して突っ込む。


 わら般若はんにゃは掲げた右手を突き出し、長い爪を五本宙に掲げる。


 ガッキーン!!

 金属と生体である爪がぶつかる音が路地に響いた。


 わら般若はんにゃは口を歪めたまま、己の爪で肉厚の日本刀の斬撃ざんげきを受け止めていた。


 俺は、両方の腕に力を込めて押し込もうとする。ぎりぎりと歯をきしませて力を込めるも、わら般若はんにゃは片手だけで刀を押し留めている。


 わら般若はんにゃは左手の指先を俺の手元に向けた。


――まずい!


 しゅっ、という風きり音と共に、般若はんにゃの左手から爪が伸びる。俺は手に傷を負うところを、すんでのところでかわすことができた。


 そして、身を引いたタイミングでもう一度体ごと突っ込み、今度は横から薙ぎ払う。


 ガン! ガン! ガキン!


 俺は、何度も何度も日本刀を振りぐ。そして、その度にわら般若はんにゃの両手から伸びた爪で払われる。


 しかし、何度斬りつけても、何度斬りつけても払われるとはいえ、少しずつ般若はんにゃの挙動がわかってきた。俺がどう刀を運んだら、相手はどういうふうに身をかわし、爪で防御するのかの感覚が俺の中に降り積もって行く。


――男谷おだにさんにつけてもらった稽古の成果だ!


 そんな殺陣たてのような攻防をしていると、わら般若はんにゃが一瞬だけ向かって右側の首筋に隙を見せた。


――いける!


 俺が、右側からの斬撃を喰らわせようとしたところ、今まで黙っていたわら般若はんにゃがその牙の生えた口から声を発した。

をのこれ!」


 その言葉と共に、斬り付けようとした俺の体は後ろに吹っ飛び、長屋の壁板に勢いよく背中から激突した。


「ぐっ!」


 俺が、壁に背をすり土に尻をつけたところで、わら般若はんにゃは爪を伸ばしたまま爛々らんらんとした笑顔で突っ込んできた。


――殺される!


 ザグリ!


 次の瞬間には、脇から伸びたすずさんの薙刀なぎなたやいばが、わら般若はんにゃ横腹よこばらに突き刺さっていた。


 肉を切り裂く鈍い音と共に腹を割かれたわら般若はんにゃは、横っ腹から勢いよく血を噴き出しつつ後ずさる。


「りょうぞう! 大事ないかい!?」

「平気です!」


 俺はおあきちゃんの化けた日本刀を持ったまま立ち上がり、すずさんの傍に移動する。


 わら般若はんにゃはわき腹から赤色の血をどくどくとにじませており、普通の人間ならば三分も持たないであろう大出血の様相を見せていた。


 俺たちから離れたわら般若はんにゃは、再び声を発する。

よ、なおれ」


 すると、さっきまで深くえぐれていた傷は瞬く間に修復されていった。


 その様子を見て、すずさんが俺に伝えるかのように叫ぶ。

「どうやら、殺すには首をねないといけないようだねぇ!」


 そして俺も、気付いた事を口にする。

「一度に一つの言霊ことだましか使えないようですね。効き目があるのは一度に一人だけで、いきなり死ねとかも使えないみたいですね」


「そうだね。まずは相手の口をふさがないとさ」

 と、すずさんが言ったところで俺はある策を考え付いた。俺の影の中には未来から持ってきたスポーツバッグが潜ませてあり、あの中に入っていたものを使えば相手の言霊ことだまを封じることができるはずだ。


「すずさん! 一旦隠れましょう!」

「あいよ!」


 すずさんが俺の言葉を聞いて速やかに俺の袖口そでぐちをつかみ、二つの体をずぶりと長屋に沈みこませる。


 そして、長屋の反対側に出た所で俺はすずさんに伝える。

「すずさん! 俺の荷物を影から出してください! 相手の口をふさぐ道具を出します!」


 その言葉に承知がいったという顔をしたすずさんは、持ってきたスポーツバッグをにゅるりと影から出した。


 俺が、日本刀を脇に置いてスポーツバッグをまさぐっていると、すずさんが叫んだ。

「近づいてきたよ! 早くしな!」

 バッグを探していた俺は、目当てのもの二つを見つけて右手と左手でそれぞれ掴む。


――これさえあれば!


 俺がそう思ったところ、すずさんが唐突とうとつげきを発した。

あぶないよ!」

 その言葉と共に、すずさんが俺を蹴飛ばす。


 ザクリ


 長屋の屋根から飛び降りたわら般若はんにゃが、さっきまで俺がいた地面にその長い爪を突き立てた。


 そして、地面から爪を抜いてゆらりと立ち上がり、こう言う。

「おのれ小癪こしゃくな。なんじほふらるるべし。こころづきなきものども、いとどねたし」


 すずさんに蹴飛ばされた俺は、両手に物を持ったままわら般若はんにゃから離れる。


 爪を伸ばしたわら般若はんにゃは歪めた表情で俺とすずさんを見比べる。


 そして、俺はすずさんに対して叫ぶ。

「受け取ってください!」


 スポーツバッグから取り出した二つのスプレー缶、コールドスプレーと日焼け止めスプレーのうちの片方、コールドスプレーをわら般若はんにゃの頭上で弧を描くように投げ渡す。薙刀を片手で支えたすずさんは、実に綺麗な仕草でその缶を受け取った。


 そして、わら般若はんにゃは俺たちに挟まれているというのに、少しも慌てずこう言った。

りょうもの、そのとどまれ」


 その言葉に、俺の体が動かなくなった。

「ぐっ!」


 俺は声を上げる。体中を見えないくさりしばられたようにまったく動けなくなった。


 向こうを見ると、わら般若はんにゃを挟んで反対側にいるすずさんも「くっ!」とうめいている。すずさんもまた動けないようであった。


――しまった、言霊ことだまは一人にしか効かないわけじゃなかったんだ。


 俺は自分の浅はかな推察すいさつ悔恨かいこんした。


 そして、わら般若はんにゃはその長い爪をちゃきちゃきと鳴らし、俺たちをどう料理しようか見定めるかのような視線を配る。


――られる!


 俺がそう思った瞬間、わら般若はんにゃの足元にある日本刀が柴犬の姿になり、わら般若はんにゃの足元にがぶりと噛み付いた。


「ぎっ!」

 わら般若はんにゃうめごえを上げ、叫ぶ。


いぬよ、ね!」

 笑い般若はそう叫ぶと、おあきちゃんの化けた犬をおもいっきり蹴飛ばした。蹴飛ばされて地面に転がった柴犬は、少し離れた地面で気絶したおあきちゃんの姿に戻る。


「おあきちゃん!」

「おあき!」


 俺とすずさんが同時に叫ぶ。言霊ことだまが更新されて動けるようになった俺とすずさんは目配せをして、すずさんがおあきちゃんの元へ、俺はスプレー缶を構えてわら般若はんにゃの元へ突撃する。


 すずさんがおあきちゃんに駆け寄る。俺はわら般若はんにゃの元へ突進する。そして俺は、日焼け止めのスプレー缶の噴射口をわら般若はんにゃの顔にある一点に向ける。


 シュー!


 勢いよく噴き出した日焼け止めスプレーの噴射剤が、わら般若はんにゃの口元に吹き付けられる。


 わら般若はんにゃは「ごほ! ごほ!」と大きく咳き込んだ。


「おのれ……ごほっ! ごほっ!」

 咳き込み、言霊ことだまをまともに使えなくなった。


 俺が一瞬喜んだところ、スプレー缶を構え突き出した俺の右手首の存在する空間を、わら般若はんにゃの長い爪がすらりと通り抜けた。


 ぽとり。


 俺の右手首から上の部分が、スプレー缶を握り締めたまま、地面に落ちる。


「ぐっ!」

 俺がうめき声をあげるとすぐに、切断面から血潮ちしおが心臓の拍動に合わせて、何度も何度も噴き出す。


「がぁぁぁぁ!」

 激痛に、俺は無くなった右手首の近くを左手で支える。すると、その左手首のある領域を再び笑い般若の長い爪が通過する。


 ぽとり。びしゃ。


 左手が骨芯の入った薄い肉片と共に、土埃つちぼこり立つ地面に落ちる。


 脳に与えられたのは、激痛という概念を抽象化した結晶であるかのような信号だった。


 しかし、俺は気を失わなかった。


――痛いものか、おあきちゃんが蹴飛ばされた痛さに比べればこんなもの痛いものか。


 目の前では、激昂したわら般若はんにゃが俺の喉を掻ききろうと爪を振りかぶった。


 すると、わら般若はんにゃの横顔を熱量を持った緋色の炎が照らした。


 ボワァ! ボワァ!


 コールドスプレー缶の噴射口の直近に狐火を浮かべ、LPガスを噴射しつつ向かってくるすずさんが目のはしに入った。俺と同様に、わら般若はんにゃもそちらを向く。


 わら般若はんにゃは、いきなり燃え上がった緋色の炎に油断したのだろう。


 ガスッ!!


 次の瞬間には笑い般若は、広がった炎を分け入って全速力で向かってきたすずさんの薙刀なぎなたの刃を、わき腹に受けていた。


 スプレー缶を投げ捨て、薙刀なぎなたから手を離したすずさんは、その薙刀なぎなたの柄に足をかける。そして、薙刀なぎなたの刃と柄で繋がったわら般若はんにゃのバランスを大きく崩させ、距離をつめる。


 がしり。


 すずさんが、わら般若はんにゃのぼさぼさの乱れた髪をむんずと掴み、白衣しらぎぬの右のたもとの影の中から短刀を取り出しを握り、その刃をまるで草を刈り取るように首筋に当てる。


 わら般若はんにゃみながら、小鳥の鳴くような声を絞り出す。

「ごほっ! や……やめたま……」


「聞こえないねぇ!」

 すずさんはそう叫ぶと頑然がんぜんと小刀に力をこめ、ぶちっ! ぶちっ! という音と共にのどにくから頚椎けいついほねへと一刀両断いっとうりょうだんとしてしまった。


 切断された体の方からは、高さ四尺(約121センチメートル)ほどの血が噴き出し、その場にどさりとたおれる。たおれたからだからはびしゃ、びしゃ、と血流が噴き出し弱まっていく。


 すずさんが、その持っていた首をぽいっと投げ捨て、俺の元に駆け寄る。

「りょうぞう、血が出てるよ。今すぐにしばってやるから待ちな」


 俺が手元を見ると、右手も左手も手首の先から切り落とされて、血が定間隔に噴き出している。すずさんが人型の妖怪の首をねたという衝撃的な光景に、一瞬だけ痛みを忘れていた。


 すずさんは、自分の頭の後ろに手を回すと、いつも自分の髪をまとめている布を破き、前に持ってくる。そして、布でまとめていたすずさんの長い黒髪は、ばさりと地面に向かって垂れる。


 その時、そう、その時だった。


 俺の胸の中にある和太鼓わだいこの音が、激しく鳴り響いた。


 すずさんは四角い布切れになったそれを更にき、細長い長方形の布切れ二つにして俺に近づく。そしてその手に持つ布切れを、俺の無くなった手の切断面からの血を止めるために手首付近に固く縛り付けてくれた。滑らかな肌触りから木綿もめんではないことがわかる。いわゆるうすぎぬと呼ばれるようなきぬでできた高級な布だ。


 俺は問いかける。

「あの、いいんですか? 大事な布じゃないんですか?」


「何いってんだよ。りょうぞうの命より大事な布なんてある訳ないだろさ」

 その言葉に、俺の心臓が再び鼓動を強める。そして、すずさんは言葉を続ける。

「すまないねぇ。おあきを早く起こして、りょうぞうの傷を治させてやるからさ」


 俺は今、両方の手首から先が無い状態になっている。それはすぐにおあきちゃんが治してくれるから、さして問題ではない。


 それよりも、その姿、その雰囲気、その容貌。


 その、つやのある長い黒髪を垂らした姿はまさに――


 俺は自分の中にある気持ちの芽吹きを否定する。


――違う、俺が好きなのは葉月だ。俺のクラスメイトの葉月だ。決して違う。決して、決して。


 すずさんは、おあきちゃんを介抱しようとおあきちゃんに駆け寄る。地面にたおれたわら般若はん.にゃの体と首からは、命のともしび揮発油きはつゆのように盛んに蒸発している。


 おあきちゃんが起きると、こちらに大急ぎで駆け寄ってくる。俺がおあきちゃんに手をかざしてもらったところ、俺の右と左の両手は、最初から何も攻撃を受けなかったかのようにしゅるりと元に戻った。地面に落ちていた俺のオリジナルの両手は、虚空に掻き消えてしまった。


 そして、すずさんはわら般若はんにゃに向かい、手繰たぐるような仕草をする。間もなくわら般若はんにゃむくろから、一際ひときわ大きな光点がしゅっと飛び出す。切り離された頭と胴体の二つのむくろは夜の露と消えてしまった。


 そして、すずさんは胸元から和紙を取り出し、その光点をうやうやしく折り畳んだ。すずさんの顔が、わら般若はんにゃ御魂みたまあかりにて、すずさんの垂れ下がった長い黒髪と共に幻想的に照らされる。


 おあきちゃんの治療の妖術を受けている間も、俺の心臓は力強く拍動を続けたままだった。


 そして感懐かんかいが湧き起こる。


――なんで、すずさんを見ていると初恋のお姉さんを思い出すんだ。


――俺は、俺は、何故だ。


 あのとき、おあきちゃんに赤ちゃんがどうやったらできるのかという困った質問をされた日に、夕日を二人で見たときに、すずさんに好きな男がいたと告げられたときに心の中で引っ掛かった違和感の正体がやっとわかった。


 もしかして俺は――


――すずさんに、恋をしている?

 


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