第三十一幕 本所墨田堤の休日



 二月の二十二日のこと、春のポカポカ陽気が江戸を包んでいる頃合の天気の良い日の事であった。


 江戸の通人は梅を好み、俗人は桜を好むと言われる時代とはいえ、やはり桜を好む俗人の方が江戸には多い。そして桜をただ愛でる俗人よりも、ただただどんちゃん騒ぎをしたいがために桜の木の下で呑み集まる者の方がなお一般的である。


 足音を立てつつ江戸に歩み寄ってきた春の神様は、今現在この江戸の町に堂々と胡坐あぐらをかいている。そして、江戸の民がそうであるかのように惚け声を出しているかのようであった。


 


 昼近くに、深紫色の着物を着たすずさんは手習い所の子供達を引き連れて、本所の北、向島の大川沿いにある墨田堤すみだつつみの近くにて遠足とおあしがてらのお花見をしていた。無論、俺も荷物持ちのためについてきている。


 徳三郎さんとおあきちゃんは小舟に乗って川の上から桜を見物すると言っていた。


 少し離れた所にある墨田すみだつつみには桜の花びらが見目鮮やかに乱舞し、木の枝にその華麗な花をき誇らせている。


 お花見をするために数え切れぬほどの江戸の民が、祭りであるハレの日を楽しんでいる。


 紺色の着物を着た俺は墨田堤すみだつつみの近くの広場から、満開の桜が並んでいるつつみを見る。


 桜並木の下には大勢の人が行き交い、堤の近くには多くの屋台が並んでいる。


 この広場には、おそらくは江戸中から人が来ているのだろう。大勢の人たちが地面に茣蓙ござを敷き、弁当の豪華にしつらえた料理を食べ、酒を呑んでいる。いろんな所から様々な楽器の音色や酒に浮かされた人たちの唄声うたごえが聞こえる。食器を打ち鳴らすような音や、手を叩く音などもしきりに聞こえてくる。


 まさに、どんちゃん騒ぎと呼ぶに相応ふさわしい喧騒けんそうだ。


 川沿いに長く伸びる春草萌ゆる野原にて、うたげもよおしている人の数はどれくらいかというと、千や二千ではきかないだろう。立ち上がって見渡すだけで、一万人を超えているかもしれない人たちを見ることができる。


 ここ、向島むこうじま墨田堤すみだつつみにある桜並木は庶民が桜のお花見をする際の定番スポットであるらしい。あるところには、忠臣蔵の四十七士だろうか、コスプレをした集団が鐘や太鼓を打ち鳴らしながら歩いていた。


 チャンチャン ドンドンドン ベンベンベン


 様々な所から、三味線をかき鳴らしているような弦楽器の音、小太鼓を打ち鳴らす打楽器の音、篳篥ひちりきのような吹奏楽器の音などが聞こえる。江戸時代の流行り歌を吟じている人も大勢いる。言葉といえないおはやしの声は数多あまたの楽器の音と混ざり合い、ごちゃまぜの音を響かせている。


 そんな乱雑な交響楽団の音色の中で、俺の隣に座っているすずさんはというと、子供達に囲まれながら酒を大きな瓢箪ひょうたんから酒枡さかますに注いでは呑み、ほろ酔いとなっている。子供達に囲まれて酒を呑む教育者の姿なぞ、未来ではまずありえない光景だ。


 茣蓙ござの上に座っている子供達は、それぞれが親から手渡された弁当を広げて食べている。甘酒を飲みつつ、子供同士でおかずを交換したりもしている。更には稲荷社いなりやしろで用意した大きな重箱の中に入った卵焼きや蒲鉾かまぼこなどの豪勢なおかずを楽しんだりもして、小学校の年中行事のようにはしゃいでいる。


 すずさんが俺に酒枡さかますを手渡そうとして呑ませようとしたが、俺はまだ二十歳になっていないので呑むことは遠慮した。子供達に野暮だとからかわれたが、俺は自分の信念を通した。






 俺が酒を勧めてくるすずさんを避けるため「ちょっとその辺、歩いてきます」と言って場を離れたのはごく自然なことであっただろう。


 茣蓙ござがそこらへんに敷かれ、その上では漏れなく大勢の人が酒宴を開いている。あるところは長屋の仲間達、あるところは商店の一団と思しき人たちが集まり酒を呑んでいた。


 どんちゃん、どんちゃんと騒がしい音を脇に歩き、俺はつつみの上に登った。


 つつみから見たはるうらら大川おおかわは、どこまでも美しかった。多くの舟が川の上を優雅に行き交い、対岸もまた桜並木が彩られていた。


 遠くに見える桜も緑も多い山は、上野の山だろうか。寺が多い山がずっと向こうに鎮座していた。


 すずさんに聞いたところによると、上野の山にも二十一世紀と同様に桜の名所はあるが、もの(楽器)を鳴らすことさえ禁止されているらしい。


 俳句を詠んだりして静かに上品に桜を楽しみたい人たちが集まるのが、上野の山の桜並木の下で行われるおごそかな花見であるらしい。武士も多くは上野の山で花見を楽しむのだとか。


 対照的に今俺がいるこの墨田堤すみだつつみは、もの詩吟しぎんさけ仮装かそう、なんでもござれの騒乱じみた桜の名所であり、庶民が乱稚気騒らんちきさわぎをするにはもってこいの場所なのである。


 墨田堤すみだつつみには半里(約2キロメートル)に渡って桜の木が植えられており、大勢の江戸の庶民に『千本桜』の名で親しまれている。


 アスファルトやコンクリートで舗装されていない、土でむき出しの道となっているつつみを俺一人で歩いていると、見覚えがある姿が視界に入った。


 身長155センチメートルくらいの、少し釣り目がちの猫っぽい女性であった。そして、肩に回した紐で仕事道具の三味線しゃみせんを下げ、何やら笹包みを紐で手にぶら下げている。


 俺は声をかける。

「こんにちは、お美代さん。お花見ですか?」


 雪積もる冬の本所の町で、ちょっとした行き違いで一戦交えたことのある、猫又の女性であった。


「あら、きつねの使いの坊やじゃないかい。あたしは仕事だよ。花見客で銭払ってでも三味線しゃみせんを弾いてもらいたいってのが大勢いるからね」


 この花見をビジネスチャンスと捉えている江戸の民はわりと多く、屋台だけでなく茣蓙ござの貸し出し、たるに入れたさけはかり、サツマイモを油で揚げたお菓子の売り歩きなど、商魂たくましい人たちをその辺りで大勢見かけることができる。


 俺は、お美代さんに言葉を返す。

「そうですか。お父さんはお元気で?」


「お父っつぁんは元気だよ。今日も料亭で仕事で、帰りにあたしが迎えにいくのさ。あの女狐めぎつねは相変わらずかい?」

「ええ、子供に囲まれて酒とか呑んでますよ」


 そんなことを話しながら二人で桜の花が咲き誇る墨堤ぼくていを歩いていると、お美代さんがいきなり上を見上げた。

「あれ!? あの枝に子供が登っているねぇ! おーい、降りられないのかい!?」


 お美代さんが、桜の木の上の方に視線を向けるので俺も向ける。頭の上には花のような飾りを調え、豪華に着飾った裕福そうな十歳くらいの女の子が、一人桜の枝に登っている。どうやら明らかに降りられないようであった。


 高さは4メートルくらい。落ちたとして、当たり所が悪かったら充分死ぬくらいの高さである。しかも花飾りのかんざしを何本も頭に挿しているので、落ちて一本でも体に刺さったとしたら致命傷になるということは存分に考えられた。


 俺は、大声で女の子に問いかける。

「降りられないの!? 大丈夫!?」


 しかし、不思議なことに女の子は声を出そうとしなかった。口をつぐんだまま枝につかまり、頭をぶんぶんと横に振るだけであった。


 俺は、お美代さんに告げる。

「怖くて声が出ないのかもしれませんね。俺が登って助けます」

「ふぅん? じゃあめやしないけどさ。滑り落ちないようにはしときなよ?」


 お美代さんの言葉を背中に受け、俺は桜の幹に手を回す。


 威勢の良い事を言ったものの、俺も木登りの経験なぞ生まれてから数えるほどしかない。


 なんとかかんとか、幹を登ってから女の子のしがみついている枝に掴まり、手を伸ばす。


 俺は、女の子に声をかける。

「落ち着いて、手を伸ばして掴まって」


 俺の声に、女の子が枝を掴んでいた手を離し、俺の手を握ろうとする。


 しかし次の瞬間、女の子は掴まっていた方の手を枝から滑らせ、大きくバランスを崩してしまった。女の子の重心は桜の枝から外れ、吸い込まれるように地面への落下運動をするように滑って行く。


「危ない!」

 俺は叫んで身を跳ねさせ、女の子の手を掴む。そして女の子を引き寄せつつ、体ごと地面に引き寄せられる。


――落ちる!


 俺と女の子の体が、一体となって4メートルほどの高さから墜落するコースに突入する。


 女の子を空中で引き寄せて抱きかかえた俺の体は落下して、背中から地面に激突する直前に、音もなく空中停止した。


 一拍いっぱくの時間を挟んで、俺の体はどさりと地面に落ちた。


――あの高さから落下したのに、ほとんど痛くなかった。


 俺の視界の端では、お美代さんが俺たちを見てにんまりと笑っていた。おそらくはお美代さんがしかばねを操る妖術で、俺の木綿の着物を操って落下を止め、なんとか怪我を防いでくれたのであろう。


 女の子の着物は一目でわかるほど流麗な文様に彩られ、光沢を持っている。どうやら絹でできている相当に高級な着物であるらしい。


 地面に腰をついた俺は、助けた女の子に話しかける。

「大丈夫? 桜の木なんかに登っちゃ危ないよ?」


 すると、女の子は少し放心していたようであったが、すぐに気を取り直して俺から離れる。


 その女の子の頭は見事な造花つくりばなかんざしにて飾られ、結い髪の両サイドにあるびんと呼ばれる箇所からは、一対の長いつやのある垂髪たれかみが伸びている。どの方角から見ても相当に顔立ちの整った八面玲瓏はちめんれいろうな女の子であった。


 そして明瞭な声で俺に礼を告げ、礼をしてくる。

わたくしめには大事ございません。有り難うございます」


 まだ十歳かそこらだというのに、随分としっかりしている口調であるという印象を持った。やはりこの時代の子供は精神年齢が高い。


 お美代さんが俺たちに近づき、声をかける。

「あんた、何で声を出さなかったんだい? 叫べば梯子はしごなりなんなり、持って来る男とかもいただろうにさ」


 すると、女の子は何かを言いかけたが、口ごもったようになってしまった。





 その小さい体に気位きぐらいたたえた女の子は、自分の名をやすと名乗った。大川の向こうに住む武士の娘で、今年の正月に数え年で十一歳となったらしい。今日は本当は御付おつきの人たちと一緒に来ていたのだが、逃げ出してきて桜に登って隠れていたのだという。


 御付おつきの人たちがいるってことは、身分の高いお嬢さまなのではないかと思ったのだが、おやすちゃんは明言を避けて言葉を濁した。だけど、絹の着物を着て、繊細な装飾の彩どられたかんざしを幾つも髪に飾っている時点で、相当なお金持ちの武士の子女であることは予想できる。


 もしかしたら、どこぞの大名家の娘かもしれない。

 この江戸時代には、地方大名の奥さんと子供は皆、江戸に住んでいたって聞いたことあるし。


 俺はお美代さんとおやすちゃんと一緒に、お美代さんが席料代わりに貰ったという笹包みを開け、墨堤ぼくてい名物の桜餅さくらもちを食べた。


 おやすちゃんは「このようなもの、生まれて初めて食べました」と言っていた。


――桜餅さくらもちすら食べたことがなかったって、どんな生活をしていたのだろうか。


 あと、なぜかお美代みよさんになついていた。美代みよという名前に、特に親しみがあるのだという。


 俺がお美代みよさんと一緒に、おやすちゃんを連れて歩いていると、おやすちゃんが色々と尋ねてくる。


 花見をしている人や物売りたちを指差して「あれは何?」「あの恰好かっこうは何?」「あの人は何故、裸で踊ってるの?」といった塩梅あんばいであった。俺はこの時代の事にはあまり詳しくないので、答えるのはもっぱらお美代みよさんにまかせた。


 色々話をしてみたところ、おやすちゃんは大川を渡って本所に来ること自体が初めてであり、父親に無理を言って御付おつきを従えることを条件に、この墨田堤すみだつつみに来させてもらったらしい。


 俺は、おやすちゃんに話しかける。

「お父さんを心配させちゃいけないよ。御付おつきの人だって上に仕える武士なんでしょ? おやすちゃんがいなくなって今頃、血眼ちまなこになって探していると思うよ?」


 すると、お美代みよさんが笑みを浮かべながら告げる。

「ひょっとしたら、切腹せっぷくものかもしれないねぇ。あんたが逃げたことでさ」


 すると、おやすちゃんが大声を張り上げる。

「それは困ります!」


 俺は、その言葉を聞いておやすちゃんをさとす。

「じゃあ、なおさら帰ったほうがいいんじゃない? そもそも武士は上野の山とかで花見をするって聞いたけど、何でこんな庶民が集まるような所に来たの?」


 するとおやすちゃんは、十歳くらいの女の子には似つかわしくないようなうれがおを見せて、俺たちに告げる。

「この場所は、わたくしめの高祖父こうそふ様が下々しもじもたみのために力を注いだ場所だとお聞きしたのでございます。ここに来れば、高祖父こうそふ様がわたくしめの迷いを払ってくれるのではないかと思ったのでございます」


 高祖父こうそふという言葉が何を意味するのかは俺も聞いた事がある。祖父そふ祖父そふ、つまりひいひいお祖父じいちゃんのことだ。


 どんな迷いか気になった俺は尋ねる。

「迷いって何?」

縁談えんだんでございます」


――思ったより深刻だった。


 俺はその少女に声をかける。

「その年齢で縁談えんだんって……武士じゃ当たり前とか? 確かにその齢で結婚とかするとなると、相手がどうかわからないし迷うだろうね」


 すると、女の子が顔を引き締めて俺に返す。

「いいえ! お相手に不満がある訳ではございません! お相手は齢も近く、石高も高く、気位きぐらいも高くて……わたくしめに充分にあたいするお方でございますが……わたくしめの御母上おははうえが少し……ごうの深いお方でございまして……お相手さまのご迷惑にならないか心配で……」


 するとお美代さんが察したのか、難しい顔をして告げる。

「なるほどねぇ。おっさんが欲深よくぶかで、金遣かねづかいが荒くて、更に相手の殿方がお金持ちってとこだね? よくある話だねぇ。おやすちゃんも、おっさんを無碍むげにもできないからねぇ。困った話だよ」


 そんな事を話しつつ、俺たち三人はつつみを降り、大勢の花見客で賑わう宴会場となってる野原に足を運ぶ。


 そして、すずさんや手習い所の子供たちが集まっている場所に戻ってきた。


 既に、徳三郎さんとおあきちゃんも舟での物見から戻ってきて、すずさんの近くに座っている。


 やや頬を染めた顔をしたすずさんは、俺たち三人を見るなり、こう言った。

「あれ? りょうぞう、いつの間に所帯持ったんだい?」

「いや、違いますよ。お美代さんですよ、忘れたんですか?」

 俺がそう言うと、お美代さんは不遜な笑みを浮かべた。


「あらあら、酒に酔った女狐めぎつねさん。その子供たちはめに食らう酒のさかなかい?」


 すずさんも、負けじと応える。

化猫ばけねこさんこそ、なにいけしゃぁしゃぁとうちの小僧をたぶらかしてんのさ。ご丁寧に子供まで連れちゃってさ」


 なんか、お美代さんとすずさんが睨みあってその中間点に火花を散らしている様相であったので、俺は二人をなだめて取り繕った。


「落ち着いてください。今日は花見でうたげの席なんですから、喧嘩はやめてください」


 そして、おあきちゃんが尋ねかけてくる。

「そっちの女の子は誰?」


「ああ、この子はおやすちゃんっていって単なる迷子だよ。ちょっと一緒にいてあげて」

 俺がそう言うと、おやすちゃんは軽く一礼して草履を脱ぎ、おあきちゃんの隣に座った。


 すずさんが、お美代さんに対して酒枡さけますを掲げ、要求する。

「その三味線は飾りかい!? 吊ってるだけの張子はりこじゃないだろうねぇ!? 何か弾いてみなよ!?」

「あらあら、この三味線は飾りなんかじゃなくて大事な商売道具さ。弾いてもらいたいんなら、銭を寄越しな。前払いだよ?」


 そんな感じで、すずさんとお美代さんの間に丁々発止ちょうしょうはっしの言い合いが繰り広げられるも、なんやかんやで楽しい花見の宴となった。





 おやすちゃんが宴に加わってから、半刻はんとき(一時間ほど)ばかり経っただろうか。昼飯を食べ終わった子供のうち男の子たちは、そこらへんに広がっている向島むこうじまの野原に虫を取りに駆けて行ってしまった。


 必然的に女の子だけがこの茣蓙ござの上に残され、男性は俺だけとなってしまった。徳三郎さんはおやすちゃんのお供を探すと言って、どこかに行ってしまった。


 なんだかんだで、お美代さんは銭を受け取らないまま三味線を弾いてくれて、その旋律に合わせて女の子たちが歌を唄っているさまは小学校のイベントみたいで微笑ましかった。


 俺は、隣に座っているおあきちゃんの向こうにいるおやすちゃんに話しかける。

「おやすちゃん? 武士の子にはちょっと騒がしいんじゃないかな?」

 

 すると、酒枡さかますを両手で持ったおやすちゃんが、顔を赤らめながら返してきた。

「いえいえ、ひっく。わたくしめは兄弟姉妹が多いので、これくらいの騒がしさは慣れております、ひっく」


 その様子に驚いた俺は、向こう側にいるすずさんに顔を向けて叫ぶ。

「ちょっとすずさん!? お酒呑ませたんですか!?」

「ん? しょうがないだろ? 甘酒が尽きちまったんだからさ。それにさ、聞いたところによると、縁談えんだんがまとまりかけてるらしいじゃないかい。だったらもう立派な大人だよ」


 すずさんの縁談えんだんという言葉に、手習い所の女の子たちが一斉におやすちゃんに視線を向ける。


縁談えんだんん!?」

「嘘ぉ!? あたしと同じくらいの齢なのに!?」

「相手はどんな人?」

見目みめい!?」

「お金持ち!?」


 おやすちゃんは、小学生くらいの年頃の女の子たちの問いかけの集中砲火を浴びていた。


 そんな中、酒で若干酔った様子のおやすちゃんは、律儀に答えていた。


 話を総合すると、おやすちゃんのお相手は二歳年上の十三歳の若殿わかとのさまで、既に当主となり百万石の領地を治めているらしい。顔は知らないが、ふみはよくわしているのだという。


 多少盛ってるかもしれない。いや、おそらくは盛大に盛っているのだろう。いくら大名家のお姫さまだったとしても、縁談相手が百万石の領地のお殿様って、そんな馬鹿な。


 手習い所の女の子達も、おやすちゃんが法螺ほらをふいているのをわかっているのか、えて話に乗って楽しんでいるようであった。


――まぁ今日はうたげの席だし、そういうのも楽しいからいいかな。


 俺がそう思ったところ、おやすちゃんは赤ら顔をすずさんに向けて問いかける。

「おすずさま、ひっく。殿方とのがた仲睦なかむつまじくなるという秘訣ひけつは、ひっく。どういったものなのでございましょうか? ひっく」


 すると、すずさんが得意げな顔で応える。

「ああ、そりゃあさ、とっておきの方策があるけど、聞きたいかい?」


 すずさんのしたり顔に対して、手習い所の女の子達が「聞きたい!」「聞きたい!」と繰り返す。


 そして、すずさんは豪語する。

「男ってのは、なんだかんだで抜けてるところがあるからねぇ。かなめは、馬に乗るお侍のように手綱たづなをしかと握ることだよ。そのためにようするのは、男をどれだけ立てられるかってことさ」


 手習い所の女の子たちは、突如始まったお師匠さまの恋愛講座を嬉々として聴いている。


 すずさんは、言葉を続ける。

「男ってのは面目を重んじるもんだよ。共にいてつかれさせちゃぁいけなくて、男のいやしにならなくちゃぁいけないのさ。その為には、男を試さずに素直すなおに己の心を伝えて、甲斐甲斐かいがいしくてておだててめてそやして、いい気にさせりゃいいのさ。そして、男の方から離れられなくなったら女が手綱たづなをしかと握るのさ。そうすれば、男なんて早馬のように懸命に女のために走ってくれるよ」


 それを聞いて、おやすちゃんがふむふむとしきりに頷いていた。すると、お美代さんが茶化す。

「それ、身をもって学んだことかい? ただの耳年増が唱える空念仏からねんぶつで聞きかじりの陸水練おかずいれんじゃあるまいね?」


「この身で知ってることだよ! あたいに今男がいないとでも思ってんのかい!?」

 すずさんが大声で返すと、手習い所の女の子達の目の色が変わる。


「ええー!? 誰? 誰?」

「まさか、そこにいる、りょうやさん? 違う?」

「どんな人なんですか!? 所帯は持たないんですか?」


 女子たちが生まれながらに持つ機関銃マシンガンの銃口の向きが、瞭然りょうぜんとすずさんに集中した。そして、お美代さんはしてやったりという面持ちで口元をにやりと歪めた。


 俺は、その光景に既視感を覚えた。小学校の女の先生が、児童に先生の恋人のことを根掘り葉掘り聞かれているあの光景だ。これは、お美代さんの計算通りと言わざるを得ない。


 すずさんが困り顔をしつつ何とかかんとか誤魔化しているのを眺めつつ、俺は隣に座っているおあきちゃんに尋ねる。

「おあきちゃん? 花見っていつもだいたいこんな感じなの?」


「まぁ、毎年いつもこんな感じかな」

 おあきちゃんの言葉に、俺は苦笑いをした。





 おやすちゃんもすっかり手習い所の女の子たちやおあきちゃんと打ち解けて、色々な愚痴を聞いてもらっていた。


 自分は好きで堅苦しい家に生まれたわけじゃないことや、別の家の友達がもっと欲しかったこと、母親が強欲であることにうんざりしているけど文句を言えないことなどを愚痴っていた。


 女の子たちは女の子たちで、おやすちゃんと楽しくお喋りしていた。


「わかるわかる!」

「あたしも、おっさんが銭に細かくってさ!」

「お武家ぶけさまも同じなんだねー!」


 おあきちゃんを含めた六歳から十二歳くらいまでの女の子たちは、女子力を如何いかんなく発揮し、ガールズトークを繰り広げている。


 すずさんはというと、お美代さんと向かい合い口喧嘩くちげんかを交わしつつ、一人顔を赤らめながら酒を飲んでいる。案外良い友達になれそうじゃないかこの二人。


 すると、どこか遠いところから時の鐘の捨て鐘が聞こえてきた。もう昼八つ(午後二時ごろ)になったのだろう。


 一人しかいない男性である俺は、後ろに気配を感じたので振り返る。


 すると、そこには徳三郎さんが立っていた。そして、その後ろには立派なかみしもを身に付けた、格の高そうな中年のおさむらいさまが三人、ぜぇぜぇと息を切らして肩を上下させていた。


 その、かみしもを身に付けたおさむらいさまたちがおやすちゃんの顔を見て口々に叫ぶ。

姫様ひめさま! ようやく見つけましたぞ!」

うございました! もしさらわれでもしたら、身共みども一同腹を切らねばならぬところでございました!」

「おい! 駕籠かごだ! 今すぐ駕籠かごをここへ呼んで参れ!」


 三人とも汗まみれで、ものすごく必死で探していたことが伝わってきた。


 すると、茣蓙ござに座っていたおやすちゃんは、近くに座っていたおあきちゃんの着物を掴む。


「ええぇー? わたくしめはもう少し、町の衆と花見を楽しみとうございます、ひっく」


 すると、お侍さまは困り顔で哀願する。

我侭わがままを言わないでくださいませ。嫁入り前の御大事おんだいじな身でございますぞ。このような賤女しずのめどもと共にいてはいけませぬ」


 すると、おやすちゃんは声を張り上げる。

賤女しずのめなどと無礼な事を言わないでくださいまし! この方々はわたくしめのお友達にございますよ! ひっく」


 その言葉に、かみしもを着た侍たちは困り顔を更に引きつらせた。


 そして、お美代さんが、わざとらしい大声で侍たちに話しかける。

「あらあら、法螺ほらかと思ってたらまことに身分の高いお姫さまだったんだねぇ。じゃあ、百万石の大名と縁談がまとまりかけてるってのも、まことの事だったんだねぇ」


 その言葉に、さむらいたちはぎくりとし、冷や汗をあからさまに顔ににじませた。


 そして、財布を取り出してその財布から小判で七枚、つまり七両のお金を取り出して近くにいる徳三郎さんに渡そうとする。


「神主さま、このたびのことはどうか、どうか御内密ごないみつに。こちらは御姫おんひめさまを御世話おんせわしていただいた礼にございます。どうか、どうか何卒なにとぞ何卒なにとぞ御内密ごないみつにお願い致します」


 徳三郎さんが「いや、礼にはおよば……」と受け取りを拒もうとしたところ、後ろから近寄ったすずさんが素早く七枚の小判をすらりと抜くように受け取った。


「はいさ、ここにはお姫様なんていなかったし、百万石のお殿様との縁談も、ただの法螺ほら話だね。みんなもいいねぇ!? この事はここにいる女だけの内緒だよ!?」


 すずさんが、後ろを振り向いて女の子たちに言うと、女の子たちも了承の言葉を口々に叫ぶ。


 そして、お美代さんがすずさんの後ろから近寄り、その七枚の小判のうち三枚を抜き取った。


「じゃあ、これはあたしの取り分だね」

「ちょっと、化猫ばけねこ! なにかすってんのさ!?」


 すずさんが文句を言うも、お美代さんは笑いながら返す。

「何いってんのさ? おやすちゃんを見つけてここに連れてきたのはあたしだよ? それに、桜の木から落ちたそこの坊やを助けてやったしさ。まぁ、三味線弾いたおしろだと思っときなよ」


「一席で三両って、強欲過ぎやしないかい!?」

「どの口が言うのさ、神主さまが断ろうとした金を貰っておいてさ」


 そう言うお美代さんの顔にすずさんが顔を近づけ、至近距離で睨みつける。その間には再び火花がバチバチと散らされているように感じる。


 俺は立ち上がり、二人の間に入り、まぁまぁとなだめる。


 すると、おやすちゃんがいきなり噴き出し、朗らかに笑い出した。

「うふっ! うふふふ、うふふふ! あはははは!」


 その様子を間近で見た、おあきちゃんが尋ねる。

「どうしたの? どうして笑っているの?」


 すると、おやすちゃんがにこにこ笑いながら応える。

わたくしめ、このように楽しきうたげは初めてにございます。ようやくにして、高祖父こうそふ様が何故なにゆえに、このような騒がしい場所を作ったのかがわかりました」


 周りの女の子たちは、お姫さまの言葉を興味深く聞いている。


 そして、おやすちゃんは言葉を続ける。

下々しもじも民草たみぐさわたくしめらと何ら変わりございません。様々な迷いを持ち、それゆえさくらでながら皆で楽しみ、みをもってさをらすのでございますね。わたくしめの高祖父こうそふ様は、ひとえしょ方々かたがたに心の底からんで欲しかったのだと存じます、ひっく」


 その言葉を聞いて、俺は近くにいる徳三郎さんに小声で尋ねる。

「徳三郎さん? この墨田堤すみだつつみを作ったのって誰なんですか?」

「ああ、桜を植え始めたのは四代目の将軍様(家綱公いえつなこう)かららしい。だが、腰を入れて桜を植えつけ堤を整えるのに取り掛かかったのは百年ほど前、八代目の将軍様(吉宗公よしむねこう)からだな」


「じゃあ、その子孫であるおやすちゃんって、一体何ものなんですか?」

「まぁ、おそらくは当代の将軍様(家斉公いえなりこう)の御息女といったところであろうな」


 徳三郎さんから小声で聞いた俺は、驚きの視線をおやすちゃんに向ける。


 つまり、あの女の子は地方の有力大名の娘どころか、天下人たる徳川将軍の娘で、正真正銘のプリンセスだったということだ。


 そして、つつみの上から現れた駕籠かごかきがくろうるし塗りの豪奢ごうしゃ駕籠かごを持ってきて茣蓙ござかたわらに降ろしたところで、周囲の視線が集まる。


 おやすちゃんは立ち上がり、先ほどまで和気藹々わきあいあいとお喋りを楽しんでいた女の子たちに別れの挨拶をかける。


「では、わたくしめはこれで帰らせていただきます。多分に、これは高祖父こうそふ様のお引き合わせだったのでございましょう。皆様今日は有り難うございました、ひっく」


 酒気をおびて頬を朱色に染めた徳川のお姫さまは、そう言ってから深く頭を下げて礼をし、気品溢れる仕草で草履を手に取って駕籠かごに乗り込んだ。


 おやすちゃんが駕籠かごの中に座り、御簾みす代わりの引き戸を閉じる前に、すずさんが言い放つ。

「良いお嫁さんになりなよ!」


 その言葉におやすちゃんはにっこりと微笑みうなずき返し、引き戸を閉じた。


 そして、花見客騒がしい喧騒の中を、御付のお侍たちと共にどこかに去ってしまった。


 あの楚々そそとしたお姫さまは、爛漫らんまんき誇る桜の花びらのように、風と共に消えていってしまった。


 そして、小判を三枚すずさんからかすったお美代さんもどこかに消えてしまっていた。


 すずさんは辺りを見渡し「あぁんの泥良猫どらねこぉ!」と叫んでお美代さんを探すために走り去っていった。


 茣蓙ござの上に残された女の子たちは、呵呵大笑かかたいしょうの様相を見せた。


 満開の桜が水際立つ、春の音が風に吹きわたる、どんちゃんどんちゃんと騒がしい、とある休日のことであった。


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