第三十一幕 本所墨田堤の休日
二月の二十二日のこと、春のポカポカ陽気が江戸を包んでいる頃合の天気の良い日の事であった。
江戸の通人は梅を好み、俗人は桜を好むと言われる時代とはいえ、やはり桜を好む俗人の方が江戸には多い。そして桜をただ愛でる俗人よりも、ただただどんちゃん騒ぎをしたいがために桜の木の下で呑み集まる者の方がなお一般的である。
足音を立てつつ江戸に歩み寄ってきた春の神様は、今現在この江戸の町に堂々と
昼近くに、深紫色の着物を着たすずさんは手習い所の子供達を引き連れて、本所の北、向島の大川沿いにある
徳三郎さんとおあきちゃんは小舟に乗って川の上から桜を見物すると言っていた。
少し離れた所にある
お花見をするために数え切れぬほどの江戸の民が、祭りであるハレの日を楽しんでいる。
紺色の着物を着た俺は
桜並木の下には大勢の人が行き交い、堤の近くには多くの屋台が並んでいる。
この広場には、おそらくは江戸中から人が来ているのだろう。大勢の人たちが地面に
まさに、どんちゃん騒ぎと呼ぶに
川沿いに長く伸びる春草萌ゆる野原にて、
ここ、
チャンチャン ドンドンドン ベンベンベン
様々な所から、三味線をかき鳴らしているような弦楽器の音、小太鼓を打ち鳴らす打楽器の音、
そんな乱雑な交響楽団の音色の中で、俺の隣に座っているすずさんはというと、子供達に囲まれながら酒を大きな
すずさんが俺に
俺が酒を勧めてくるすずさんを避けるため「ちょっとその辺、歩いてきます」と言って場を離れたのはごく自然なことであっただろう。
どんちゃん、どんちゃんと騒がしい音を脇に歩き、俺は
遠くに見える桜も緑も多い山は、上野の山だろうか。寺が多い山がずっと向こうに鎮座していた。
すずさんに聞いたところによると、上野の山にも二十一世紀と同様に桜の名所はあるが、
俳句を詠んだりして静かに上品に桜を楽しみたい人たちが集まるのが、上野の山の桜並木の下で行われる
対照的に今俺がいるこの
アスファルトやコンクリートで舗装されていない、土でむき出しの道となっている
身長155センチメートルくらいの、少し釣り目がちの猫っぽい女性であった。そして、肩に回した紐で仕事道具の
俺は声をかける。
「こんにちは、お美代さん。お花見ですか?」
雪積もる冬の本所の町で、ちょっとした行き違いで一戦交えたことのある、猫又の女性であった。
「あら、
この花見をビジネスチャンスと捉えている江戸の民はわりと多く、屋台だけでなく
俺は、お美代さんに言葉を返す。
「そうですか。お父さんはお元気で?」
「お父っつぁんは元気だよ。今日も料亭で仕事で、帰りにあたしが迎えにいくのさ。あの
「ええ、子供に囲まれて酒とか呑んでますよ」
そんなことを話しながら二人で桜の花が咲き誇る
「あれ!? あの枝に子供が登っているねぇ! おーい、降りられないのかい!?」
お美代さんが、桜の木の上の方に視線を向けるので俺も向ける。頭の上には花のような飾りを調え、豪華に着飾った裕福そうな十歳くらいの女の子が、一人桜の枝に登っている。どうやら明らかに降りられないようであった。
高さは4メートルくらい。落ちたとして、当たり所が悪かったら充分死ぬくらいの高さである。しかも花飾りの
俺は、大声で女の子に問いかける。
「降りられないの!? 大丈夫!?」
しかし、不思議なことに女の子は声を出そうとしなかった。口をつぐんだまま枝につかまり、頭をぶんぶんと横に振るだけであった。
俺は、お美代さんに告げる。
「怖くて声が出ないのかもしれませんね。俺が登って助けます」
「ふぅん? じゃあ
お美代さんの言葉を背中に受け、俺は桜の幹に手を回す。
威勢の良い事を言ったものの、俺も木登りの経験なぞ生まれてから数えるほどしかない。
なんとかかんとか、幹を登ってから女の子のしがみついている枝に掴まり、手を伸ばす。
俺は、女の子に声をかける。
「落ち着いて、手を伸ばして掴まって」
俺の声に、女の子が枝を掴んでいた手を離し、俺の手を握ろうとする。
しかし次の瞬間、女の子は掴まっていた方の手を枝から滑らせ、大きくバランスを崩してしまった。女の子の重心は桜の枝から外れ、吸い込まれるように地面への落下運動をするように滑って行く。
「危ない!」
俺は叫んで身を跳ねさせ、女の子の手を掴む。そして女の子を引き寄せつつ、体ごと地面に引き寄せられる。
――落ちる!
俺と女の子の体が、一体となって4メートルほどの高さから墜落するコースに突入する。
女の子を空中で引き寄せて抱きかかえた俺の体は落下して、背中から地面に激突する直前に、音もなく空中停止した。
――あの高さから落下したのに、ほとんど痛くなかった。
俺の視界の端では、お美代さんが俺たちを見てにんまりと笑っていた。おそらくはお美代さんが
女の子の着物は一目でわかるほど流麗な文様に彩られ、光沢を持っている。どうやら絹でできている相当に高級な着物であるらしい。
地面に腰をついた俺は、助けた女の子に話しかける。
「大丈夫? 桜の木なんかに登っちゃ危ないよ?」
すると、女の子は少し放心していたようであったが、すぐに気を取り直して俺から離れる。
その女の子の頭は見事な
そして明瞭な声で俺に礼を告げ、礼をしてくる。
「
まだ十歳かそこらだというのに、随分としっかりしている口調であるという印象を持った。やはりこの時代の子供は精神年齢が高い。
お美代さんが俺たちに近づき、声をかける。
「あんた、何で声を出さなかったんだい? 叫べば
すると、女の子は何かを言いかけたが、口ごもったようになってしまった。
その小さい体に
もしかしたら、どこぞの大名家の娘かもしれない。
この江戸時代には、地方大名の奥さんと子供は皆、江戸に住んでいたって聞いたことあるし。
俺はお美代さんとお
お
――
あと、なぜかお
俺がお
花見をしている人や物売りたちを指差して「あれは何?」「あの
色々話をしてみたところ、お
俺は、お
「お父さんを心配させちゃいけないよ。
すると、お
「ひょっとしたら、
すると、お
「それは困ります!」
俺は、その言葉を聞いてお
「じゃあ、なおさら帰ったほうがいいんじゃない? そもそも武士は上野の山とかで花見をするって聞いたけど、何でこんな庶民が集まるような所に来たの?」
するとお
「この場所は、
どんな迷いか気になった俺は尋ねる。
「迷いって何?」
「
――思ったより深刻だった。
俺はその少女に声をかける。
「その年齢で
すると、女の子が顔を引き締めて俺に返す。
「いいえ! お相手に不満がある訳ではございません! お相手は齢も近く、石高も高く、
するとお美代さんが察したのか、難しい顔をして告げる。
「なるほどねぇ。おっ
そんな事を話しつつ、俺たち三人は
そして、すずさんや手習い所の子供たちが集まっている場所に戻ってきた。
既に、徳三郎さんとおあきちゃんも舟での物見から戻ってきて、すずさんの近くに座っている。
やや頬を染めた顔をしたすずさんは、俺たち三人を見るなり、こう言った。
「あれ? りょうぞう、いつの間に所帯持ったんだい?」
「いや、違いますよ。お美代さんですよ、忘れたんですか?」
俺がそう言うと、お美代さんは不遜な笑みを浮かべた。
「あらあら、酒に酔った
すずさんも、負けじと応える。
「
なんか、お美代さんとすずさんが睨みあってその中間点に火花を散らしている様相であったので、俺は二人をなだめて取り繕った。
「落ち着いてください。今日は花見で
そして、おあきちゃんが尋ねかけてくる。
「そっちの女の子は誰?」
「ああ、この子はお
俺がそう言うと、お
すずさんが、お美代さんに対して
「その三味線は飾りかい!? 吊ってるだけの
「あらあら、この三味線は飾りなんかじゃなくて大事な商売道具さ。弾いてもらいたいんなら、銭を寄越しな。前払いだよ?」
そんな感じで、すずさんとお美代さんの間に
お
必然的に女の子だけがこの
なんだかんだで、お美代さんは銭を受け取らないまま三味線を弾いてくれて、その旋律に合わせて女の子たちが歌を唄っている
俺は、隣に座っているおあきちゃんの向こうにいるお
「お
すると、
「いえいえ、ひっく。
その様子に驚いた俺は、向こう側にいるすずさんに顔を向けて叫ぶ。
「ちょっとすずさん!? お酒呑ませたんですか!?」
「ん? しょうがないだろ? 甘酒が尽きちまったんだからさ。それにさ、聞いたところによると、
すずさんの
「
「嘘ぉ!? あたしと同じくらいの齢なのに!?」
「相手はどんな人?」
「
「お金持ち!?」
お
そんな中、酒で若干酔った様子のお
話を総合すると、お
多少盛ってるかもしれない。いや、おそらくは盛大に盛っているのだろう。いくら大名家のお姫さまだったとしても、縁談相手が百万石の領地のお殿様って、そんな馬鹿な。
手習い所の女の子達も、お
――まぁ今日は
俺がそう思ったところ、お
「おすずさま、ひっく。
すると、すずさんが得意げな顔で応える。
「ああ、そりゃあさ、とっておきの方策があるけど、聞きたいかい?」
すずさんのしたり顔に対して、手習い所の女の子達が「聞きたい!」「聞きたい!」と繰り返す。
そして、すずさんは豪語する。
「男ってのは、なんだかんだで抜けてるところがあるからねぇ。
手習い所の女の子たちは、突如始まったお師匠さまの恋愛講座を嬉々として聴いている。
すずさんは、言葉を続ける。
「男ってのは面目を重んじるもんだよ。共にいて
それを聞いて、お
「それ、身をもって学んだことかい? ただの耳年増が唱える
「この身で知ってることだよ! あたいに今男がいないとでも思ってんのかい!?」
すずさんが大声で返すと、手習い所の女の子達の目の色が変わる。
「ええー!? 誰? 誰?」
「まさか、そこにいる、りょうやさん? 違う?」
「どんな人なんですか!? 所帯は持たないんですか?」
女子たちが生まれながらに持つ
俺は、その光景に既視感を覚えた。小学校の女の先生が、児童に先生の恋人のことを根掘り葉掘り聞かれているあの光景だ。これは、お美代さんの計算通りと言わざるを得ない。
すずさんが困り顔をしつつ何とかかんとか誤魔化しているのを眺めつつ、俺は隣に座っているおあきちゃんに尋ねる。
「おあきちゃん? 花見っていつもだいたいこんな感じなの?」
「まぁ、毎年いつもこんな感じかな」
おあきちゃんの言葉に、俺は苦笑いをした。
お
自分は好きで堅苦しい家に生まれたわけじゃないことや、別の家の友達がもっと欲しかったこと、母親が強欲であることにうんざりしているけど文句を言えないことなどを愚痴っていた。
女の子たちは女の子たちで、お
「わかるわかる!」
「あたしも、おっ
「お
おあきちゃんを含めた六歳から十二歳くらいまでの女の子たちは、女子力を
すずさんはというと、お美代さんと向かい合い
すると、どこか遠いところから時の鐘の捨て鐘が聞こえてきた。もう昼八つ(午後二時ごろ)になったのだろう。
一人しかいない男性である俺は、後ろに気配を感じたので振り返る。
すると、そこには徳三郎さんが立っていた。そして、その後ろには立派な
その、
「
「
「おい!
三人とも汗まみれで、ものすごく必死で探していたことが伝わってきた。
すると、
「ええぇー?
すると、お侍さまは困り顔で哀願する。
「
すると、お
「
その言葉に、
そして、お美代さんが、わざとらしい大声で侍たちに話しかける。
「あらあら、
その言葉に、
そして、財布を取り出してその財布から小判で七枚、つまり七両のお金を取り出して近くにいる徳三郎さんに渡そうとする。
「神主さま、この
徳三郎さんが「いや、礼にはおよば……」と受け取りを拒もうとしたところ、後ろから近寄ったすずさんが素早く七枚の小判をすらりと抜くように受け取った。
「はいさ、ここにはお姫様なんていなかったし、百万石のお殿様との縁談も、ただの
すずさんが、後ろを振り向いて女の子たちに言うと、女の子たちも了承の言葉を口々に叫ぶ。
そして、お美代さんがすずさんの後ろから近寄り、その七枚の小判のうち三枚を抜き取った。
「じゃあ、これはあたしの取り分だね」
「ちょっと、
すずさんが文句を言うも、お美代さんは笑いながら返す。
「何いってんのさ? お
「一席で三両って、強欲過ぎやしないかい!?」
「どの口が言うのさ、神主さまが断ろうとした金を貰っておいてさ」
そう言うお美代さんの顔にすずさんが顔を近づけ、至近距離で睨みつける。その間には再び火花がバチバチと散らされているように感じる。
俺は立ち上がり、二人の間に入り、まぁまぁとなだめる。
すると、お
「うふっ! うふふふ、うふふふ! あはははは!」
その様子を間近で見た、おあきちゃんが尋ねる。
「どうしたの? どうして笑っているの?」
すると、お
「
周りの女の子たちは、お姫さまの言葉を興味深く聞いている。
そして、お
「
その言葉を聞いて、俺は近くにいる徳三郎さんに小声で尋ねる。
「徳三郎さん? この
「ああ、桜を植え始めたのは四代目の将軍様(
「じゃあ、その子孫であるお
「まぁ、おそらくは当代の将軍様(
徳三郎さんから小声で聞いた俺は、驚きの視線をお
つまり、あの女の子は地方の有力大名の娘どころか、天下人たる徳川将軍の娘で、正真正銘のプリンセスだったということだ。
そして、
お
「では、
酒気をおびて頬を朱色に染めた徳川のお姫さまは、そう言ってから深く頭を下げて礼をし、気品溢れる仕草で草履を手に取って
お
「良いお嫁さんになりなよ!」
その言葉にお
そして、花見客騒がしい喧騒の中を、御付のお侍たちと共にどこかに去ってしまった。
あの
そして、小判を三枚すずさんから
すずさんは辺りを見渡し「あぁんの
満開の桜が水際立つ、春の音が風に吹きわたる、どんちゃんどんちゃんと騒がしい、とある休日のことであった。
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