第三十三幕 芝居を観た帰り途
三月十八日の、太陽がやっと昇ってきたという頃合いであった。
紺色の着物を着た俺は小三郎とおしのさんと一緒に、
この建物は、色々な人たちが
その場所はだいたい京橋と新大橋の間にある、将来の東京では日本橋人形町と呼ばれる地名の
ただ、目の前にある大きな建物は俺が平成の世で見たことがある
朝ぼらけの白みの中でも、かなり大勢の人が
俺は、隣にいるおしのさんに話しかける。
「おしのさんは、
すると、おしのさんがにこやかに応える。
「はい。弟の亀吉は
おしのさんを挟んで俺の反対側にいる小三郎が口を開く。
「いやぁ、そこまで喜んでもらえると俺も、
おしのさんは、小三郎の方にも笑顔を向ける。
「うふふ、小三郎さんにも感謝しておりますよ。しかも
そのおしのさんの笑顔に、小三郎はにへらあと顔を崩した。
俺はそんな小三郎の
俺は、おしのさんに尋ねる。
「あの
すると、おしのさんはにこにこ笑いながら俺に教えてくれた。
「はい。
そんな説明に、俺は納得してこんなことを呟く。
「ああそっか、つまり
おしのさんが若干頬を染めつつ微笑んで口を開く。
「もし
すると、
「俺はなんだろうな。さしずめ座長あたりかな」
「
俺が思う限り、おしのさんの返しはどう受け取っていいのかわからない微妙な返しだった。
そんなこんなで
何でも、お
だから
熱心な
――この国って昔っからこんなんだったんだな。
幕はまだ閉じられており
舞台や花道から一段下がったところには、座布団が置かれている土間席が四角い
以前に相撲を見物していたときのような誰かが喧嘩をしている怒鳴り声の混じった
そして始まりの笛が鳴り響き、黒子の手により幕が横に開き、口が閉じられた大勢の観客の目の前で待望のお芝居が始まった。
武士などは、低俗な
芝居の演目内容というと、題はよくわからないが、正義の主人公が悪に踏みにじられて苦しみを持つも、様々な情け深い人たちに支えられて助けられ、悪を討つという
お芝居は朝から夕方までたっぷり六時間から八時間は続けられ、途中にて何度も
昼には長い休憩があり、この
つまり、これが『
正義の主人公は、悪の組織に酷い事をされて、悔しさを背負う。
そして、大勢の人に助けられて立ち上がる。
女性を
主役はその格好良さを示すようなあまりにも大げさなポーズをとって、それと同時に紙ふぶきが吹き舞い散る。
戦いのシーンでは、まず悪の手下たちが主役と闘い大立ち回りを見せ、最後に
そして、ハッピーエンドで大団円。
芝居が終わり、幕が閉じたところで俺は小声で
「変身ヒーローものと、全く一緒だった……」
俺が小学生の時に、毎週日曜日の朝に欠かさず見ていたテレビ番組とそっくりであった。
隣を見ると、おしのさんが目に涙を浮かべている。その向こうでは、小三郎も劇に見入っている。
――そうか、俺たちがよく知っている日本文化は、こんなところから既に始まっていたんだ。
俺は、おしのさんと小三郎と共に
小三郎も笑顔でおしのさんと歓談している。きっと、小三郎にとっても最良の日になっただろう。
俺がそう思ったところ、俺の着ている紺色の着物の
俺が振り向くと、そこには二歳くらいの小さな男の子がその小さな手で俺の着物を掴んでいた。
子供は泣きそうな声で叫ぶ。
「おっ
――え?
焦った俺は、おしのさんと小三郎を見る。
おしのさんは、両手を顔に当てて、なんだか目を潤ませている。
小三郎は、なんだかにやにやしている。
――いや違うから。俺はこの子の父親じゃないから。
すると、俺の着物の
「ちげぇ! おっ
俺はしゃがんで、泣いている男の子をあやそうとする。
「どうしたの? お
すると、誤解の解けたおしのさんも腰を落として目線を坊やに合わせて、問いかける。
「帰れないの? 道はわかる?」
すると、二歳くらいの小さな男の子は涙声で応える。
「
どうやら、
俺は、子供の頃に初恋のお姉さんに優しくあやされた時のことを思い出し、告げる。
「
すると、
おしのさんが、
「お
すると、
「おっ
すると、小三郎が俺たちに話しかける。
「
おお、なるほど。江戸の男たちより抜きん出て背の高い俺がこの子を肩車してあげれば、お父さんお母さんが見つけてくれるかもしれない。
俺は
「たけぇ! おっ
「
俺の叫び声に大勢の人たちが俺の方に視線を向けるも、その中にこの子の両親はいないようだった。俺の叫び声など、夕方の繁華街の中では無残にかき消されてしまうのである。
俺が歩く隣では、おしのさんも小三郎も、
そこで、俺は一つの案を思いついた。
以前に相撲を観に行ったときに、ガラの悪い男たちに殺されかけた反省から、おしのさんを無事送り届けなければならないという使命感から、持ってきたものがあったのだ。
俺は着物の
そして、その取り出した勾玉のような形の笛を、頭上にいる
俺は、
「
すると、
「これ、なんだべ?」
「ホイッスルっていう、西洋の笛なんだ。吹いてみて。かなり大きな音が出るから」
ホイッスルを受け取った
ピ――――!! ピ――――!!
耳を
隣にいるおしのさんと小三郎は、耳を塞ぐ仕草をした。
おしのさんは耳を塞ぎつつ、片目を瞑って俺に伝える。
「
小三郎も、しかめっ面で俺に告げる。
「五町(約545メートル)くれぇ向こうまで
そんなことを聞きつつ、俺は自分の耳の近くで鳴り響く音を我慢していた。
ピ――――!! ピ――――!!
しばらくすると、人ごみの中からあからさまに
その男は、こう叫んでいる。
「
――ああ、良かった。
三十代半ばくらいの男が俺たちの傍に駆け寄ろうとしている。身長は180センチをゆうに超えていて肩幅も広く、相撲取りかと見まごうほどの堂々たる巨漢であった。すぐ後ろには、十八歳くらいの若い女の人が小走りでついてきているようであった。
そう思ったところで、俺の肩に乗っかったままの
「おっ
抱っこされた
そして、
赤い夕刻の町の中にて、俺たち三人は赤い布のかけられた縁台に座り、
今俺が座っているこちらの縁台には俺と
色々話を聞いてみると、
なんでもそこでは、
俺が「故郷を離れて、不安はないんですか?」と訊くと、
「不安なんざ、ねぇわけねぇべ。だけんど、あの村を立て直せるのはオラしかいねぇんだべ。だから、オラがやんなきゃなんねぇんだべ」
その態度に、俺は
ひょっとしたら俺の持っている悩みに対してこの人ならば答えを出してくれるかもしれない。そう直感的に感じた俺は、
「
「そりゃぁ、ほぼ全ての者が抱く悩みだべ。
「そっか……そうですよね」
俺の声のトーンが若干沈んだ様子を見て、
「人ってのは皆、芝居の役者だべ。
その言葉に、俺の頭の中に思いが巡る。
俺が、この江戸に、東京から江戸に飛ばされたのが天の神様が俺に命じた
――教えて欲しい。教えて欲しい。
そんな俺の
「だけんど、天ってのは意地が
そう言って、
俺が思うに、この人も相当苦労して来たのだろう。だから、こんなにも人に優しくできるんだ。
俺がこの江戸に来たことにも、想い人である葉月と離れ離れになったことにも、何か意味があるとすれば。
意地の悪い、天の神様の采配だとすれば。
――俺は、それを見つけたい。
――この江戸に来た意味を知りたい。
そう思い、俺は
小三郎は、俺に告げる。
「
俺は返す。
「まぁ、この年頃なら大抵が迷ってるんじゃないかな?」
すると、小三郎が応える。
「俺もよぅ、良い話聞かせてもらったぜ。
「
俺が返すと、小三郎が俺の方を向く。
そして告げる。
「
「ああ……まぁ、多分ね」
俺が応えると、小三郎が両手を合わせて俺に頼み込む格好をとる。
「その爺さんに、今度会わせてくれ! 俺はやっぱり絵で身を立てぇんだ! おしのにもきっぱりと俺の気持ちを伝えるぜ! そんで、はっきりと答えを聞く! 俺は、おしのと一緒に芝居を見に行けて、互いに笑いながら話ができたってだけで一生やってけるからよぅ!」
その言葉に、俺は
「わかったよ。今度必ず伝えとく」
すると、小三郎が明朗な顔つきになる。
「おう! 約束だぜ! 男と男の約束だ! 破んなよ!?」
そう言って小三郎が拳を突き出したので、俺はその拳に自分の拳を突き出し重ねる。
「わかった。友達として約束するよ。その代わり小三郎も、ちゃんとおしのさんに想いを伝えてよ」
夕日照らされる京橋の町にて、俺たちは拳を付き合わせていた。
俺は、この江戸にて大勢の知り合いや、友達ができた。
俺にどんな運命が待っているか、どんな天命が与えられているかは、まだわからない。
――しかしどうあっても、一度できてしまった人と人との縁は大切にしよう。
心の内を照らしているかのような赤い光のある夕刻の空の下で、俺は固くそう誓った。
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