等身大おまもり
神湊 一乃
第1話 前日
視界の端に、黒い
見てはいけない。誰かにそう教わった覚えがなくても、それくらいは幼い頭でもすぐに理解できた。
「……ぁ…………ぅ………………」
それが時折たてる音──それを声と認めてしまえば、そこから意味を感じとってしまいそうだから──が聞こえる度に、耳をふさぎたくなる衝動に駆られる。しかし、ここで耳を塞いでしまえば、それに「お前の音が聞こえているよ」と教えるようなものではないか。
今すぐ走り出して、一刻も早くここから遠ざかりたい。もし走り出したらあれは付いてくるのだろうか。逃げても子供の足ではすぐに追いつかれてしまうのでないか。その考えが足取りを重くして、いたずらに時間ばかりが過ぎていく。
(あと少し、あと少しであれの視界から外れる)
焦れば焦るほど、
「……ぁ」
(今のはあれの音じゃない、自分の声だ)
スローモーションの様にゆっくりと崩れていく視界の端に、自分の足と、それをつかむ黒い靄のようのなものが見えた。
***
障子越しの柔らかな春の日差しの暖かさが何とも眠気を誘う。それを打ち破るかのように、ドタバタと騒がしい足音が廊下の向こうから断続的に聞こえてくる。
普段ならじっとしていると自分の鼓動が聞こえるくらいしんと静まり返っているはずの
「やっぱり出直してきた方が良かったかしら?」
隣に座っている婆ちゃんが不安げにつぶやく。座敷に通されてまだ10分弱、この台詞が出てくるのは5回目くらいだろうか。
檍先生は昼下がりに訪れた俺たちを慌ただしく座敷に案内した後、ちょっと待っててねと言い残したまま奥に引っ込んだっきりだ。いつもなら住み込みのお手伝いさんがすぐにやってきてお茶を出してくれるのだが、今日はその姿も見当たらない。
俺も随分と暇を持て余し、
「しかし改めてみるとすごいわねえ、そのおまもり」
「……うん」
婆ちゃんが俺の膝の上の『それ』を見てつぶやく。
それは御守りというにはあまりにも大きすぎた。大きく(A4サイズ)、分厚く(3cmくらい)、重く(多分2kgは余裕である)、そして質素な帆布でできた袋には大雑把に「おまもり」と(おそらく油性マジックペンで)ひらがなで書かれている。
普段は通学用バッグの中に入れて持ち歩いているので、婆ちゃんがこれを見るのは久しぶりだ。複雑な表情をしながらも、懐かしげにおまもりをじっと見ている。
「
婆ちゃんが親指と人差し指で作った長さは約5cm、ごく一般的な御守りのサイズだ。確かに、俺が小さかった頃に持っていたおまもりのサイズはそれくらいだったはず。もちろん厚さではなく高さが、だ。そんな頃もあったな、と昔を思い出し少ししんみりした空気を、屋敷の奥から響く騒々しい足音が容赦なくぶち壊す。
「俺、ちょっと様子みてきた方が良い?」
「駄目よ、
「だよね」
俺はずっしりと重い『それ』を座卓の上に置き直し、少ししびれてきた足をそっと崩した。
***
『七也くん、君が
あれは多分俺が5歳の頃。初めて檍先生と呼ばれる年配の女性の家に連れて行かれて、最初のおまもりを貰った日の事だ。
その頃の事は頭の中に霞がかかったようにぼんやりとしていてうまく思い出せないのだけど、母さんや婆ちゃんが言うには変なものがいる、と
『流石にこれでは、お金は頂けないね』
そういって檍先生が何故か苦笑いしたのは、おまもりの効果に自信が無かったからではないことは確かだ。その後俺の原因不明の夜泣きはぴたりと止み、おまもりを肌身離さず持つという点を除いては再びごく普通の生活を送ることが出来るようになったからだ。
俺が檍先生の苦笑いをもう一度見ることになるのは、それから数年後の話。
小袋の中身は定期的に新しいものに取り替える必要があるとのことで、毎年3月の春休み中に檍先生の家に新しいおまもりを取りに行くことになっていた。
俺が中学に上がる年の春休み。いつものように古いおまもりを持って婆ちゃんと一緒に檍先生の家に行くと、出迎えた先生の顔にはあの苦笑いが張り付いていた。
『……これはまいった』
『?』
客間に通された後「しばらく待っていて欲しい」と先生は奥に引っ込んでしまい、その後小一時間ほど待たされることになる。
その年からおまもりはA4サイズになった。
***
「今年は、どんなものかねえ」
婆ちゃんがおまもりを眺めながら不安げにつぶやく。
おまもりの巨大化に前兆がまったく無かったわけではない。俺が小学校高学年になる頃には既に、一般的な御守りよりはふた周りほど大きいサイズのものを渡されるようになっていた。ただギリギリ御守りといえなくはない大きさであったし、その位なら肌身離さず持つのにそんなに支障はなかったから敢えて何も言わなかっただけだったのだ。
ともかく、中学進学に合わせておまもりが一気にサイズアップしたことは、かなりの衝撃だったのは確かだ。
そして俺は今年の4月から高校1年生になる。
去年一昨年はかろうじてA4サイズのままではあったものの、その厚みは1cm単位で確実に増えていった。今年貰えるおまもりがA4サイズである保障は、ない。
「これ以上厚くなったら、ちょっとした辞書だよ」
「高校の
「え、縁起でもないこと言うなよ婆ちゃん」
その時、奥から聞こえていた騒がしい足音が一瞬止まり、続いて何かが派手に割れる音が二回、いや三回。
「七也、やっぱり見てきて頂戴」
「……わかった」
この家には普段なら檍先生とお手伝いさんしかいない。片付けに男手が必要かもしれないでしょう、と婆ちゃんに促され、俺はしびれが残る足を引きずりながら座敷を後にした。
広い屋敷とはいえ、音の発生源は座敷と反対側の台所方面だということは察しがついた。そこには檍先生の作業場も隣接している。以前は人形師をしており、先生と呼ばれるのもお弟子さんを取って仕事をしていた頃の名残だと聞く。今は一番弟子に跡目を譲り、住み込みのお手伝いさんとひっそり隠居生活をしている、はずだった。
滑らないよう小走りで廊下を奥に進み、曲がる。
すると視界に飛び込んできたのは、息を切らしたみつきさん──このお屋敷の住み込みのお手伝いさんと、天井や壁を覆いつくすほどの、無数の植物の蔓、蔓、蔓。廊下の先は幾重もの蔓のカーテンに遮られて見えないほどだ。
一瞬勝手口から外に出てしまったのかと思ったが、蔓の隙間からわずかに見える壁や天井は屋内のものに違いない。
「だ、大丈夫ですか?」
自分でも間抜けな質問だと思うが、とっさにかける言葉が思いつかなかった。みつきさんは俺に気づくと、着物の衿を正し遅れ毛をなでつけながら照れくさそうに振り返った。
「ああ、ごめんね七也くん。ちょっと取り乱しちゃって」
「これがちょっと、なのかいみつき!」
蔓のカーテンの奥から檍先生の怒鳴り声が聞こえる。いつもは温和な先生がこんなに怒るなんてまた珍しい。そういえば、いつもは洋服にエプロン姿のみつきさんが和装なのも珍しい。いや違う突っ込みどころはそこじゃない。
「あのこれ、この蔓は……」
蔓、という言葉にみつきさんが反応する。
「しまった、七也くんも見えるんだっけ」
「え?」
「いやね、意地汚い子ザルが山から下りてきて台所を荒らしてたもんだから、つい」
そう言ってみつきさんが視線を向けると、廊下を塞いでいた分厚い蔓のカーテンがいずこへともなくずるずると退いていく。その向こうにいたのは腹をすかせた子ザル、ではなく──
「っ誰が……子ザル……」
蔓に絡まり乱れた長い黒髪。
胴からつま先まで蔓でぐるぐる巻きにされて息が苦しいのか、上気した頬と潤んだ黒目がちの瞳。
透き通るように白い足に食い込むように巻き付いている少し赤みがかった蔓は、先ほどまでまるで蛇のように勝手に動いてたことの理不尽さなど吹っ飛ばしてこちらの思考を完全に停止させる。
「いい加減にしなさい二人とも!お客様の前で見苦しいっ!」
檍先生の二度目の怒鳴り声と共に、廊下の天井や壁を覆いつくしていた蔓はまるで溶けるように虚空に消えた。そして蔓でぐるぐる巻きにされたままの少女と檍先生、みつきさんだけがその場に残る。いつの間にか婆ちゃんも来ていて、俺の後ろからおそるおそる様子を伺っていた。
「あら禾野さん、大変失礼しました。すぐにお茶をお持ちしますね」
みつきさんは婆ちゃんに向かってにっこり微笑むと、何事もなかったかのように台所へと消えていった。呆気に取られていると、ぐるぐる巻きの少女が恨めし気にこちらを睨んでいることに気づく。
「あ、あの……」
「ああ七也くん、待たせて悪かったわね。その子が、今年のおまもりだよ」
婆ちゃん、どうやら今年からは、人間サイズのようです。
***
「まずはじめに、七也くんには謝らないといけなくて」
座敷に戻った後、少し遅れて檍先生はぐるぐる巻きの少女を肩に担いでやってきた。小柄で年齢も初老にさしかかっているはずの先生のどこにそんな力があるのかは謎だが、こちらからあれこれ聞くよりも先生の方から順序立てて説明してもらった方がこの場合良いのだろう。
ぐるぐる巻きのまま床に転がされた少女の方は、ふてくされた表情で黙り込んでしまっている。
「今までおまもりって言って君に渡してたのは、実はいわゆる御守りや護符と呼ばれるものとはまったく違う、むしろ全く逆の性質のモノだったんだ」
「え?」
思わず膝の上に乗せていたおまもりの袋をとり落としそうになる。これが御守りではないとしたら、俺は十年あまり、一体何を肌身離さず持たされていたというのか。
「禾野さん達、というか七也くんの婆ちゃんやお母さんにはちゃんと最初に説明しておいたんだけど、君はまだ小さかったからね。説明するといろいろややこしいから今日まで御守りっていうことにしておいたの」
「じゃあこれは一体?」
「それの中身は呪物。七也くんの『目』を封じるための
「の、呪い?」
膝の上でおまもりの袋が微かに動いたような気がして、嫌な汗が背中を伝う。
「第六感──虫の知らせと言われることもあるけど、五感以外の何か別のモノを感じ取る力のことは聞いたことがあるよね?」
「はい、一応。霊感、とは違うんですか?」
「うーん、それを霊感と呼ぶ人も多いけど、第六感で感じ取ることができるのはいわゆる霊魂、魂魄だけではないから、私はあまりその言葉は使いたくないな」
「なるほど……」
檍先生が「霊能力者」と呼ばれるのをひどく嫌っている理由はそのあたりにあるのかもしれない。
「七也くんの場合はその第六感が、ある日突然日常生活に支障が出るレベルの強さで発現してしまったのが問題だったのね」
「日常生活に支障、ですか?」
「人間の脳っていうのは、個人差もあるけど、一度に処理できる情報の量ってそんなに多くないのね。何らかの原因である日突然感覚が鋭くなってしまうと、脳に入ってくる大量の情報を処理しきれずに頭がオーバーヒートしてしまうの」
「わかるような、わからないような……」
「例えばの話ね。ある日突然百メートル離れた場所のひそひそ話まではっきり聞こえてしまう程耳が良くなってしまった人がいたとします。その人が休日の渋谷スクランブル交差点のど真ん中に放り込まれたりしたら、一体どうなると思う?」
「聖徳太子でもお手上げですね」
その解答に満足がいったのか、檍先生がニコリと微笑む。
「そういう場合は耳栓をして一定のボリューム以下の音を遮断することで、脳に送られる情報を減らすことができる、と」
「このおまもりが俺にとっての耳栓、というわけなんですね」
「そういうこと」
婆ちゃん達の話によると、当時俺は他の人には見えない「変なもの」が見えるといって泣いては大人を困らせていたらしい。ということは、その「変なもの」はおまもりの呪いで単に見えなくなっていただけで、今もそこら中にいるということになるのではないだろうか。
そのことに気づいた途端、何ともいえない不安に襲われる。たまらずあたりをきょろきょろと見回すと、見透かしたように檍先生はくすりと笑った。
「君の場合は異常に『目』が良くなりすぎたせいで、害のないものまで何でもかんでも見えてしまうようになったのが良くなかったの。生まれつき『目』が良い子供で害のないものも見えるケースはたまにあるんだけど、後天的に見えるようになった子でそこまで『目』が良い子ってのは聞いたことがなくって」
「後天的に見えるようになる子供もいるにはいるんですね」
「ええ、ただし自分に害を及ぼすような力の強いモノの気配に刺激されて、一時的に『目』が良くなるパターンがほとんどだけどね。七也くんの場合、周囲にそんな凶悪なモノがうろついていた気配もないし、色々調べてはみたんだけど当時は原因が全くわからなかったの」
「七也の『目』が治るまでは、檍先生のお宅で預かってもらうっていう話もあったんだけどねえ」
それまで黙って茶を啜っていた婆ちゃんが、懐かしそうに眼を細めてつぶやく。
強すぎる第六感を持つ子供は大抵そういう血筋の家系に生まれるので、事情に通じた大人が子供をサポートするのが常なのだという。
俺の場合は一般家庭の生まれであること、生まれつき見えていたわけではなく何らかの後天的な原因である日突然見えるようになったということもあり、先生の判断で呪いで第六感を無理やり封じるという緊急避難に近いやり方を取ることになったのだそうだ。
「君の場合は生まれつきではなく一時的に力が発現しただけのようだったし、外的要因も特に見つからなかったから遅くとも十歳くらいまでには収まると思っていたのよ。それまで呪いで力を抑えておけば良いと高を括ってたんだけど、つくづく見通しが甘かったわ……」
「おまもり──これがどんどん巨大化していったのは、どんどん第六感が強くなっていったということなんですか?」
「いや、第六感自体が強くなったというより、毎日強力な呪いの札を肌身離さず持ち歩いた結果、呪いに対する抵抗力がついたから、かな。多分今の七也くんに対して丑の刻参りをしても、一切効かないはずよ」
「は、はぁ……」
ありがたいようなありがたくないような。
「それでその、今年のおまもりの事なんですが」
畳の上に無造作に転がされたままのぐるぐる巻き少女をちらりと見る。
檍先生の今までの話を総合すると、呪いに対する抵抗力がついてしまったせいで今までのようなお札タイプのおまもり──呪物では第六感を抑えることができなくなってきた。その代わりにこの女の子がおまもりの代わりをつとめるということは、この子自身が強力な呪いをかける、もしくは強力な呪いそのものということなんだろうか。
「ああ、そういえば本題がまだだったね」
「おばあ、話長い」
少女がぼそりと毒つく。檍先生のことをそう呼ぶということは、先生のお孫さんなんだろうか。
「七也くんには今後、『見える』世界に戻ってもらうことになります」
檍先生は少し改まってそういった。
「四月からもう高校生なんだし、それだけ呪い耐性が付いたならちょっとやそっとの事じゃ『あちら側』に引きずられることもないだろうと判断した上で、禾野さん──君の保護者さん達とも相談して既にご了承いただいてます」
「え、婆ちゃんいつの間に?」
婆ちゃんは何も言わずにこにこしたまま茶を啜っている。
「戻るっていっても、俺『見えて』いた頃のことなんてほとんど覚えていないし……」
「他に道はないわ七也くん。これ以上強力な呪物は私じゃ作れないのよ。仮に作ることが出来たとしても、いつまでもこのままって訳にもいかないでしょう。力を持つ人はその力で自分自身を滅することがないよう、使い方を身に着ける必要があるのよ」
「でも……」
「もちろんすぐに慣れろっていうのも大変だから、徐々に慣らしていく感じにはするわ。幸い春休み中だし、時間はたっぷりあるもの」
檍先生の有無を言わさぬ笑顔にたじろぎ、隣の婆ちゃんに助けを求めるように視線を向けてみるが婆ちゃんは婆ちゃんで嬉しそうにうんうんと頷くばかり。
「その間はこの子が七也くんのおまもり代わりになるわ。変なのに絡まれてもどーんと構えていれば大丈夫!」
「へ、変なのに絡まれることがあるんですか!?」
「念のためよ念のため。さっきも言ったけど、それだけ呪い耐性が強いと、絡まれてもよほどのことがない限りきっと大丈夫だから」
「やっぱり絡まれるんですよね!?」
「……ヘタレ」
どさくさにまぎれて少女がまたぼそりと毒つく。
「ああ忘れてた、ちゃんとした紹介がまだだったわね。この子は私の
そういえば蔓でぐるぐる巻きにされていたので気づかなかったが、彼女が着ているのは俺が進学予定の高校の女子の制服だ。入学式前にだいぶしわくちゃになってしまったようだが。
檍先生がぽんぽんと手を叩くと、少女──刹那をぐるぐる巻きにしていた蔓が解ける。気怠そうに起き上がった彼女の左頬には、畳の跡がくっきりとついていた。
「ほら刹那、ご挨拶なさい」
「あおきせつな、です」
消え入りそうな声でぼそりと言い、目を合わせないまま首だけでぺこりと礼をする。こちらも一応姿勢を正し、型通りの挨拶を返した。
「禾野七也です、はじめまして」
「あら七也、はじめましてじゃないわよ。ねえ刹那ちゃん」
ふいに婆ちゃんが口をはさむ。もしかしてさっき会ったから今更はじめましてというのは変だったんだろうか。すると檍先生が驚いたような、嬉しそうな声をあげた。
「あら禾野さん、よく刹那のこと覚えてましたね」
「やだ先生、私まだそこまで
「いえいえ刹那が小さいころに一回会ったきりでしょうし、あの時はバタバタしていてろくに紹介もできてなかったと思いまして」
「だってこんな可愛らしいお嬢さん、一度会えば覚えちゃうわよねえ刹那ちゃん。ほんと大きくなって」
婆ちゃんに褒められてまんざらでもないのか、刹那は頬を赤くしてうつむいてしまう。確かに毒ついたりしなければ可愛い部類には入るのだろうけど、あいにく俺はこの子に会った覚えが全くない。
「多分まだ当時のことはあまり思い出せないんじゃないの、七也くんは」
「そうねえ、せっかく再会できたのに思い出せないなんてねえ。ごめんなさいね刹那ちゃん」
「私は……別に構わないけど」
口ぶりからすると、相手は俺のことを覚えているようだ。小さい頃に一度会っていて、婆ちゃんが覚えてるのに俺の記憶にないということは、初めておまもりを作ってもらった頃のことなんだろうか。
「刹那は今までずっと両親と一緒に山籠もりしていてね。高校進学を期に山を下りてうちに居候することになったの」
「別に私はお山にいてもよかったのに」
「そういうわけにもいかないでしょう」
ふてくされる刹那を檍先生がたしなめる。
「刹那はお山──檍の本家がある山奥の村で生まれ育ったから、あんまり街での暮らしに慣れていないのよ。それで……」
「おばあ、だから私は」
「お前は黙ってなさい。それで交換条件というわけじゃないんだけど、七也くんにいろいろと街での暮らしの常識みたいなものを、この子に教えて欲しいのよ」
「常識?俺が、ですか?」
「そんな大げさに考えなくてもいいのよ、ただ私が教えるより、同じ歳の七也くんの方が適任かと思って。七也くんはお婆ちゃん子でお行儀もいいしっかりした子だし」
「……ヘタレだけど」
俺がヘタレだという謂れもない非難を受けている件について、檍先生からも婆ちゃんからも一切フォローが入らないのがつらい。
「じゃあそういうわけで、七也くんは明日からうちに泊まり込みで特訓開始ね」
「あ、明日から!?」
「大丈夫、入学式には間に合うようスパルタ方式でいくから」
「えええ……」
さっき徐々に慣らしていけばいいって言っていたのは何だったのか。それに泊まり込みといってもこの屋敷は檍先生とお手伝いのみつきさんと──
「?」
──同じ歳の男子が泊まりにくるというのに特に何のリアクションもない女子高生(予定)の女三人所帯だ。うん、何の心配もないだろう。
「では檍先生、刹那ちゃん、明日から七也のことよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします。七也くん、そのおまもり今日は忘れずに持って帰ってね。ちょっと重いけど」
「はい、重いのは慣れてるので大丈夫です」
忘れないうちにバックパックにおまもりをしまおうとすると、その手元をじっと見ている刹那の視線に気づく。まあ普通、見るよな。中学の時も学校側に事情を説明済だったとはいえ、クラス替えの度に事情を知らないクラスメイトに見つかってドン引きされるのはしょっちゅうだったし。なぜかいじめにあわなかったのが不幸中の幸いというか。それももしかしたら、おまもりの副作用で付いた強力な呪い耐性のお陰なのかもしれないが。
「それ、去年の?」
「あ、うん。中身だけ入れ替えてもらってるから、袋は中一になる年に作り直してもらったやつかな」
「……そう」
聞くだけ聞くと、刹那はふいと座敷を出て行ってしまった。何かまた毒を吐かれるのではないかと身構えていたので、こちらとしてはちょっと拍子抜けだ。
日も傾いてきたのでそのまま檍先生のお宅を辞することになり、婆ちゃんと二人で来た道をとぼとぼ戻る。
「婆ちゃんもさ、知ってたなら事前に教えてくれればよかったのに」
「私は檍先生みたいに詳しくないから、変に話して七也に誤解させちゃうかもしれないでしょう」
「それもそうだけど……」
「七也が中学に上がる頃には、もう今の方針はほぼ決まっていたのよ。このまま『目』が治らないようなら、いずれは『見える』事に慣れなきゃいけないって」
俺が中学に上がる頃といえば、ちょうどおまもりがA4サイズになった頃だ。
「それならあんなでかいおまもりにする前に、『見る』ための訓練に切り替えれてくれれば良かったのに」
「そういう話もなかったわけじゃないんだけど、先生がね……」
婆ちゃんが言うには、おまもり──呪物を持ち続けることで俺の呪いに対する抵抗力が馬鹿みたいに上がっていくということに先生が確証を持てたのがちょうどその頃だったのだという。このまま目が治らずにいずれ『見る』ことを選択せざるを得ない時がくるのであれば、いっそ強力な呪いをかけ続けることでその時までに呪い耐性を限界まで引き上げてしまおうということになった結果が、あのA4サイズのおまもりだったのだ。
「じゃあ、単に『見えなく』するだけなら、普通のサイズのおまもりでよかった、と?」
「そうみたいだねえ」
どうやら先生のスパルタ特訓は、三年前から既に始まっていたようだ。
等身大おまもり 神湊 一乃 @Kazuno_Kaminato
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