#019 犯人としては間違いなく黒



 『雪映ゆきうつりの雪』を読みきってのち、眠りに落ちたのは明け方だった。午前十時にセットした目覚まし時計で起きて、今、ちらと時計を見てみれば、十時四十二分であるらしい。ベッドで目覚めて仰向くまま、天井をぼうっと見つめているうちに、四十分余りが過ぎたことになる。

 何か考え事にふけっていたかと言えば、そうじゃない。

 ただ、思い知っていただけだ。

 烏海ううみ奈尋なひろは、ただ文章が美しいだけの作家じゃない、そんなことは最初から知っていた。けれど、そんな言い方では、何も表せない、何ら足るところがない。それを知り尽くすため、反芻はんすうするためだけの四十分だった。

 当たり前と言えば、やはり、そうだ。他に言い表しようがないから、人は彼を“天才”と称える。

 私は、それでは許されない。

 言い表さなくちゃいけない。

 そうでなければ、私はいったい何に勝つのか。実体のない、幽霊のような、そんな“天才”が相手では、どう殴ったって拳は空を切る、私の放つ言葉はすり抜けてしまって、勝負にならない。

 そして、触れられない。

 幽霊とは、手をつなぐことができない。

 共に歩めない。

 ただ、勝ちの光明については、薄く浮かぶのだ。

 自分でどうかとも思う、けれど、しかし、あるいは、

 私は、私自身、藤ノ木ふじのき篤芽あつめというものを、過小評価していた?

 私が烏海奈尋に幽霊じみた何かを見たように、逢館おうだて高校にいた誰かも、藤ノ木篤芽に、まるで幽霊のような何かを見たんだろうか。他に言い表しようがなく、“伝説”と、そう称するしかないような、何かを。

 あるいは、かつて、真滉まひろさんもそれを見たということなのか。その幽霊に屈する形で、筆を折ったと? 実体のある、言い表せる何かならば、天才、烏海奈尋は、勝ちへの筋を見出すのではないか? ならば、もしかしたら、真滉さんもまた同じく、藤ノ木篤芽に見る何かを、どうにか言い表そうとしている?

 天井の木目、視界にそれを入れながら、自嘲が漏れた。「私、馬鹿だな。」どうして疑ってしまったのか。「馬鹿。将来の妻なのに。」烏海奈尋が、その魂から作家である真滉さんが、小説に嘘を吐くことなど、決してあり得ない。勝ちの筋が見えながら、それを放棄することも同様にない。

 なら、見たんだ。本当に。

 真滉さんがうちの店で働き始めた時期から考えれば、おそらくは二年前、その時点での藤ノ木篤芽にさえ、真滉さんは幽霊を見た。いずれ烏海奈尋を凌ぐ、そう思える幽霊を。

 やはり天井を見ながら、くすりと笑えた。それなら、本当に今、私と同じように悩んでいるのかもしれない。藤ノ木篤芽の高校生活最後の作品は、二年前、そして去年の文化祭で載せた作品、その線上にはない。もっと別の幽霊がいるから。「自業自得です。将来の旦那さん。」冬の終わりに、今の店でバイトを始めて、そして、私の恋心が始まった。でも、冬の始まり、最後の作品を書く頃には、今の店で働こうと、そう決めていた。あなたという人を知ったから、そして、もっとよく知りたいと思ったから。

 あなたを知ってからの幽霊は、あなたを知る前の幽霊よりも、きっと、ずっと手強い。

 なんてロマンにひたっていたのだけれど、それは、ぴんぽーん、という間の抜けたチャイムの音で断ち切られた。続けざま、ぴんぽんぴんぽんぴんぽんと、何度もチャイムが押される。いくら珂雪かゆきだって、こんなに無作法なことはしない。

 犯人の目星はつくので、私はベッドから起き上がり、寝間着代わりのタンクトップとショートパンツのまま、玄関へ向かった。不審なのはその容疑者が、この時間は学校にいるはずだということ。もしかして見当違いの疑いなのか、そう思った矢先、ドアの外から、「あっちゃん先輩! あたしです朔良さくらです、訪問販売じゃないですよー!」と、威勢のいい声が聞こえてきた。つまり、悪徳セールスではないにせよ、犯人としては間違いなく黒。大当たり。


 部屋に入るなり、朔良ちゃんはドンキのロゴの入ったレジ袋をちゃぶ台に置いた。「これ、陣中見舞いです。あたしからはドリンク剤、睦人むつとさんからは、外付けのMOドライブと、MOのディスクを三枚。」「え?」今、誰の口から誰の名前が出た?「バックアップは常に取っとけってことらしいですよ。MOは耐久性が抜群なんだとか。」「じゃなくて、」確かに睦人くんは、性格的にも書き物のプロとしてもそういうことを言いそうだけど。「いやぁ、実家暮らしの社会人の経済力って、怖いですねー。」「じゃなくて、」高校を卒業したばかりだし、まだ実家なんだな、じゃなくて。

 朔良ちゃんはちゃぶ台の前、私の用意したクッションに座ってから、こちらを向いて恥ずかしそうに笑った。「あは、昨日、ベッドの上で、睦人さんに服を着ろって言われたの、あたしなんです。」なるほど、もう何から何までをどういう順番で口にしたらいいのかわからない。

 それでも私は何かを言おうとしたが、「えーっと、」やっぱり形にならない。「いいえいいえ、みなまで言わなくていいんです。わかってます。睦人さんがそういう人だってことは、わかりすぎるほどわかってますから。あたしが四番目だってことも!」具体的に数字を出されると、余計に何を言ったらいいかわからない。「いや、その、どちらかと言うと、昨日、睦人くんをさらっていっちゃったことを謝りたい気持ちが先なんだけど。」まあ、当人同士が納得ずくだというなら、外野がうるさく言うことではないのだろう。たぶん。

 話が長くなりそうなので、私はプラのカップをふたつ持ってきて、そこに麦茶をいだ。「あざっす。」簡潔な感謝の言葉は、ソフトボール部に所属してもいる朔良ちゃんらしい。ひと口飲んでから、朔良ちゃんは話を続けた。「でもそれ、呼び出したの、あっちゃん先輩じゃなくて、睦人さんの言うところのじゃないですか。」「それはそうなんだけど、何というか、連帯責任みたいなの、感じる。」真滉さんは、私のためという名目で睦人くんを無理に呼んだわけで。

 朔良ちゃんに苦笑いが浮かんだ。「それそれ、びっくりしましたよ。知らなかったんですもん。睦人さんの言うが、あっちゃん先輩の彼氏、マヒロさんなんだってこと。」「そうなの? えーと、えっと、四番目だと、兄貴分の本名も隠される程の扱いとか、そういう、」後輩を前に、邪推にも近い心配をしてしまうのだが、杞憂であり失礼だった。「全然違いますって。むしろ、特別扱いです。」朔良ちゃんの笑みから、苦いものが消える。

 「あたしだけみたいなんですけど、教えてくれてるんです。が、烏海奈尋なんだって、そのことを。だったら、大人気作家の本名なんて、おいそれと教えられるわけないじゃないですか。」十分、納得できるものだった。女癖は悪いのかもしれないけれど、芯の悪い人ではない、睦人くんはそういう人だと、もう知っているはずだった。「うん。ごめん。変なことを聞いて。」

 少し、悩むそぶりみたいなふうで、朔良ちゃんは、「でもまあ、聞いてもらえるのは、今回、ありがたいというか。」と言った。自分に勢いをつけるように、朔良ちゃんは麦茶をぐいぐいとあおってから、続けた。「陣中見舞いってのも確かにあるんですけど、」そして、光のこもった瞳でこちらを見つめた。「でもあたし本当は、睦人さんのこと、もっとちゃんと知ってもらいたくて来たんです。」朔良ちゃんだけに烏海奈尋のことを教える、なんだかそれももっともらしく思えた。睦人くんの瞳の色が深い優しさならば、朔良ちゃんの瞳の色は真実を求める強さだ。

 朔良ちゃんは、私から目をそらさない。「昨日のこと、気にしないでください。あの後、あたしまた睦人さんに呼ばれたんです。だから、本当に、それはいいんです。ただ、」私は、そんな朔良ちゃんから目をそらせない。

 「一緒に、陣中見舞いの買い物をして、それからホテルに行って、でも、睦人さん、ベッドでずっと泣いてました。悔しい、って。」朔良ちゃんの瞳が、我がことのように、潤む。「あっちゃん先輩を責めたいんじゃなくて、ただ、知ってほしいんです。」




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る