#018 『雪映りの雪』より抜粋 下編



 冬がある、と。

 きみは思った。来春までは小学生でいられるきみは、明かりにごく乏しい畦道あぜみちを軽快な調子で歩みながら、ここにあるものは冬なのだ、と。

 当然の、それでいて理の通らないこと。確かに冬そのものだ、夜中であれば尚更に募る、けれどきみは分かる、季節に対して、ある、ない、を用いるのはおかしい。

 夏がある、夏がない、例を浮かべてみて、やっぱり変だと、そう思う。高校生の兄には、まだまだ子供だと馬鹿にされるが、それぐらいのことがわからないではないと、きみは少しばかり得意げになる。

 きみの住む家の周りにあるものは、だいたいが田圃たんぼか雑木林か小山こやまで、きみはそのうちから山を選び取った。行きつけの山頂までの道筋を頭に浮かべ、きみはそれをなぞって進む。少し遠回りになるのは致し方ない。小学生が深夜に自由を味わおうと思えば、たとえ数軒でも、民家を避けて歩むほうが賢明だ。戸建ての造りとあてがわれた部屋の配置に助けられ、家族が寝静まった後に家を抜け出してくることは、いつも容易だった。

 洋服箪笥ようふくだんすのある部屋では両親が寝ている。慎重なきみは、その部屋に寄らないから、こうして近所を旅する時、いつも身支度を十全に整えることができない。それでも、できる限りのことはしてきた。兄のお下がりの黒いジャケットと、母親が編んだだいだいの毛糸の手袋は前もって部屋に置いておいたし、洗う前のセーターとトレーナーを洗濯籠から拝借した。今夜は母親のマフラーも見つけられたが、毛糸が首をちくちく刺すのを嫌がって、きみは手に取らなかった。寝間着の上に着込むのは、どうにも間抜けに思えたが、誰に会うのでもないからと、それですっかり納得できた。

 今夜は山だ、きみがそう考えたのは、頭上に雲一つない夜空が広がるゆえだ。毎回、決まった行程があるでなく、きみはいくつもの行き先を使い分けていた。同じ行き先であっても、道筋を捻ってみることもしばしばだった。きみは空を仰ぐ、ここでも星は見えるが、どうしてか山の上の方が眺めていて気分がいい、そのことに疑いなく、きみは左手に握った懐中電灯のスイッチを試しに入れてみて、灯るのを確認してからすぐに消した。納屋の奥に忘れ去られていた懐中電灯を、きみは首尾良く自分の物としたが、それは、切れた電池を買い換えるには、自分の財布を痛めなければならないことを意味した。わずかな無駄遣いも大いに好ましくない。

 きみは程なくして山に入り、知らず渋い顔を浮かべてから、観念して懐中電灯を灯し、一条ひとすじの明かりに頼った。やはり冬だ。この山は枯れ木ばかりになる。月明かりが届きやすく、歩みの一助になることは幸いだった。枯れ木も山の賑わい、国語の授業でいつか担任が教えた言葉を思い出す。どこが賑やかなものか、禿げ山になれとは思わないが、そう言えばこそ未練がましい、きみはそんなことを心中に浮かべ、教わったことにはすの方から異を唱える。やはりまだ小僧こぞうだと、聞けば兄は笑って評しただろう。

 手元にあるのは大型の懐中電灯ではなく、その光量は心許ないが、今のきみにとっては頼もしい相棒だった。何より、きみの手指しゅしで握るには、他のどれより良く馴染んだ。あまり明かりが強くては居場所が知れる、扱いやすい方がきっと事故が減る、未熟と成長の合間で、もっともなことを思いもした。切実な問題ではあった。居場所が知れないことは無論、ベッドで寝ていたはずの者が翌朝怪我をしていては、いかにも不自然だ。昼間でも、山で転んで怪我をした学友はいくらでもいたし、きみも身に覚えがあった。

 山のいただきまでの道は、ただ明るさに欠けるというだけのことで、ずいぶんと装いを変えていた。並んでいるのは、枯れ木と言うよりは影だ。さして距離があるではない、迷うとは思わなかったし、登り続けていればいつかは着く。崖のたぐいはないと知っている。不安はないにせよ、自分の考える現在地が本当に正しいか、どうにも断言し難いところがあった。

 周りは影ばかり、結果、踏み出す足の裏、地に意識が向いた。地面の角度がちゃんと上を向いているか、それを計りたいゆえだった。足下、きみに踏まれた枝が、ぱきりぱきりと音を立てて折れ、それを殊更ことさらに強く感じることになった。

 やはり冬だ。夏ではない。夏ならばこの枝はしなるだけで、折れたりなどしない。

 きみは、冬がある、その表現が、あながち間違いとも言いきれないような気がしてきた。確かにここにある。夏にはないもの。冬だからあるもの。子供の体重が加わっただけで容易たやすく折れてしまうものが、ある。確かにそれは枯れ枝なのだろうけれど、冬でもあるのではないだろうか。もし、冬としていいのならば、こうして足下に転がっている枝を、ある、以外に、どう言い表せばいいのか。

 いつのまにか、道の傾斜を気にすることを忘れ、懐中電灯が足下を照らすことが多くなり、きみは、あえて枯れ枝を踏み付けながら歩いた。折れる。ぱきりと。その枝も、立てる音も、踏めば踏むほど、どうしても冬に思えて仕方がなくなる。

 そうこうするうち、視界が開けて、きみは現在地が断言できるようになった。頂上に達していた。視界に広がる夜空を望む前に、電池を惜しんで懐中電灯を切る前に、きみの持つ光は、学友を照らすことになった。

 先客がいた。ずっと意識の外にあった、きちんと身支度ができているとは言い難いことが、ふわと、思考の上方じょうほうに浮かんできた。きみのすぐ向かいには、コートを着て、マフラーを巻き、おまけにイヤーマフまで備えた、きちんとした冬の夜の身なりがあった。

 このままでは自分が不審者になると、きみは懐中電灯を灯したまま、すぐに自分に向けた。馴染みのある顔をそこに見て、向かいの先客はひとつ安心した様子だった。会話の邪魔になると思ったのか、顔馴染みである先客は、ためらいなくイヤーマフを外した。きみは、懐中電灯を切る頃合いを見失った。

 頼りない明かりのもとでも、よく見ていたいと、きみは思った。何を見たいと思ったか、それは、彼女の顔に違いなかった。きみはそうと認めはしなかっただろう。学年一と評されるかわいい学友を見ていたかったのではなく、他の、もっと別の、言い表せない何かを見たいがためだったから。それを、誰も理解してくれないと思ってしまうから。

 お互いにすぐ相手を察し、穏便な対応を期待できると分かったゆえに、ふたりとも、何か厄介を招くとは、ちらとも考えなかった。

 先客として座り込んでいたのは、いつもなぜかクラスが離れてしまう、学友の白瀬しらせ淡雪あわゆきだ。隣の教室で本を読んでいる姿をよく目にする。互いに多くは知らない、それでも、四十人を少し超えるだけの狭い一学年、どちらも問題を大きくするようなタイプでないことは十分にわかる。

 それでもやはり、淡雪は尋ねた。

 ――あ、ごめん。わたし、邪魔かな。

 淡雪は慌てて立ち上がる。なぜ謝られたのか、なぜ邪魔と思うのか、きみにはわからない。ここがきみの所有する山だなどと、淡雪は思ってはいないはずだ、いくら何でも。きみの家は、この地域にしては珍しく、田のひとつも持っていないと、それはよく知れている。

 きみは明かりの一条ひとすじをさまよわせ、その流れの中に紛らせ、わずか、淡雪を照らし、また光を逸らす。そして、ふと思う。

 冬というものは、ある、だけではないのかもしれない。

 ある、が許されるなら、いる、でもいいのではないだろうか。

 少しく触れた光の中でさえ、あるいは、だからこそなのか、きみの瞳に、淡雪は季節として焼き付いた。きみには、淡雪がまるで冬に見えて仕方なかったのだ。根拠は見つけられない。しかし、枯れ枝よりもよっぽど簡単に、そして無惨に、淡雪は折れてしまいそうだと、そう思えてならなかった。

 邪魔じゃない、きみはそう言って、淡雪の隣に立った。だから座れよと、手振りも交えて促したが、淡雪はそれには従わなかった。子供心のうちに、胸の奥で跳ねるものがあった。ふたりで並んで立ち、星を見る格好になっている。かわいいと評判の淡雪、憧れている男子は多い。けれど、このほのめいた高鳴りは、連中のそれとは違うと、きみは思える。

 きみは、見るべきものを、もう十分過ぎるほどに見たと、そう感じていた。心残りはない、スイッチを切らないままに、きみは懐中電灯を淡雪の手に握らせた。

 何も持ってないみたいだから、まずそれだけを口にしたが、遠回しに過ぎると思えて、帰り道、何もないと危ないだろ、使えよ、と、言い足した。僕は慣れてるから大丈夫、いつも来てるんだ、と、本当と嘘の入り交じった言い分も加えた。

 ――えっと、借りたい、かな。実は、ここに来る時に転んで、膝をすりむいて、ううん、それは大したことないんだけど、でも、帰り道、ちょっと怖かったの。

 淡雪の家の位置からすれば、きみとは逆の方向へ下りていくことになる。大袈裟に言うほどではないが、どちらかと言えば、そちらの道筋の方が危ない。きみはそれを承知しているから、どうにも不安を覚え、質問という形で表に出た。

 明かりもなしに、どうしてこんな所まで、きみは尋ねる。互いのどちらかと言うならば、やはり、懐中電灯を持っているのは淡雪であるべきだった。行きも帰りも。

 淡雪はそっと、星空を仰いだ。

 電灯は地を向き、淡雪は月明かりにこそ照らされ、きみは知った。

 冬がいる、その表現は正しいと。

 ――雪。雪が降るのを、ここで待ってた。

 淡雪がそう言うのを聞いて、きみも同様に空を見上げた。晴れ渡っていて、雲の一つもない。だからこそ、きみはここに来た。月明かりが、あるいは星明かりも、淡雪を照らしてまないのは、空を覆うものが何もないから。何もない。雪を生み、育むもの、空を満たし、落とすもの、一切がない。それでもきみは、もう正しさを知っていた。

 理屈を並べる必要などなく、明白で簡潔な真実に過ぎなかった。頭の中でうまく整理されるよりも、ずっと先に、きみは言っていた。

「降るかもしれない。今にも降りそうだ」

 そう口にしてからも、きみは疑念を抱かなかった。透き通るまでの夜空を見つめながらも。

 本当なら面食らっていたはずのきみが冷静で、逆に、不自然なことを言ったはずの淡雪の方が、きょとんと、少し呆けた。やがて淡雪に困惑と狼狽が滲み、ないしは脅えた。それは恐怖を抱いたからではなく、きみの考えはそこまで及ばなかったけれど、考えもしなかった奇跡を前にして、臆病になったゆえ。

 ――どうして、どうしてそう思うの。変だって、そう思わないの。

 きみは言いたかった。

 ここに、こんなにも冬がいるのに、雪が降らないなんてあるか。それこそおかしいじゃないか。この空のどこだって、今すぐにでも雪を零しそうだ。きみが隣にいるから、僕には降るんだ。雪が降るんだ。

 きみは、ついに言えなかった。

 淡雪は、変だと思われることを覚悟して、思うままを言ったのに、きみは、ささいな恥ずかしさに負けて、心からそうだと思ったことを言えなかった。

 知らなかったから。

 きみと淡雪がここにいる。

 ふたりの心、互いの主観を重ねて、共に望みさえすれば、いつ、どこであっても、きみの世界だけでなく、きみたちふたりの世界に雪が降るのだと。

 あるいはきみたちは、あの冬の教室にいてさえ、懐中電灯に守られた星空の山頂に、純白の雪を降らせたかもしれない。

 きみたちは見るだろう。純白の雪を。きみたちの世界でしか降りようのない、本当に、何の混じり気もない雪を。

 まだ、きみは知らなかった。

 いつしか、きみは知っていたはずだった。

 淡雪は、きみにとって冬であると同時に、混じり気のない雪そのものでもあるのだと。

 それは、山のいただきできみが秘めてしまった言葉に付き従うように、ついに口にされなかった。

 きみたちから生まれた、真実の雪映りの雪は、きみたちの真実の中にしかないと、それが唯一の答えだった。雪映りの雪は初めからそこにあった。きみたちに。

 きみが淡雪を、冬で、純白の雪だと信じ、そして淡雪が、きみにとっての雪であると自分を信ずるならば、望むままにあふれたはずだった。

 雪が降るだろう。

 それを、淡雪は見るだろう。

 きみの信じる、白雪しらゆきの瞳に、雪が映る。

 混じり気のない雪に、混じり気のない雪が映る。

 雪映りの雪を、きみが見る。

 淡雪は知らないままだった。

 自分自身が、きみにとっての純白なのだとは。

 冬の教室で発された言葉は、淡雪にとっても、きみにとっても、間違っていた。雪映りの雪を見てみたいと、雪映りの雪である淡雪本人が言うはずはないから。

 微笑みと共に、言っていたのかもしれない。

 ――わたし、雪映りの雪を、きみに見せてあげたいよ。

 きみが本当に言い損ねた言葉は、好きだという、そのひと言ではなくて。




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