#018 『雪映りの雪』より抜粋 下編
冬がある、と。
きみは思った。来春までは小学生でいられるきみは、明かりにごく乏しい
当然の、それでいて理の通らないこと。確かに冬そのものだ、夜中であれば尚更に募る、けれどきみは分かる、季節に対して、ある、ない、を用いるのはおかしい。
夏がある、夏がない、例を浮かべてみて、やっぱり変だと、そう思う。高校生の兄には、まだまだ子供だと馬鹿にされるが、それぐらいのことがわからないではないと、きみは少しばかり得意げになる。
きみの住む家の周りにあるものは、だいたいが
今夜は山だ、きみがそう考えたのは、頭上に雲一つない夜空が広がるゆえだ。毎回、決まった行程があるでなく、きみはいくつもの行き先を使い分けていた。同じ行き先であっても、道筋を捻ってみることもしばしばだった。きみは空を仰ぐ、ここでも星は見えるが、どうしてか山の上の方が眺めていて気分がいい、そのことに疑いなく、きみは左手に握った懐中電灯のスイッチを試しに入れてみて、灯るのを確認してからすぐに消した。納屋の奥に忘れ去られていた懐中電灯を、きみは首尾良く自分の物としたが、それは、切れた電池を買い換えるには、自分の財布を痛めなければならないことを意味した。わずかな無駄遣いも大いに好ましくない。
きみは程なくして山に入り、知らず渋い顔を浮かべてから、観念して懐中電灯を灯し、
手元にあるのは大型の懐中電灯ではなく、その光量は心許ないが、今のきみにとっては頼もしい相棒だった。何より、きみの
山の
周りは影ばかり、結果、踏み出す足の裏、地に意識が向いた。地面の角度がちゃんと上を向いているか、それを計りたいゆえだった。足下、きみに踏まれた枝が、ぱきりぱきりと音を立てて折れ、それを
やはり冬だ。夏ではない。夏ならばこの枝は
きみは、冬がある、その表現が、あながち間違いとも言いきれないような気がしてきた。確かにここにある。夏にはないもの。冬だからあるもの。子供の体重が加わっただけで
いつのまにか、道の傾斜を気にすることを忘れ、懐中電灯が足下を照らすことが多くなり、きみは、あえて枯れ枝を踏み付けながら歩いた。折れる。ぱきりと。その枝も、立てる音も、踏めば踏むほど、どうしても冬に思えて仕方がなくなる。
そうこうするうち、視界が開けて、きみは現在地が断言できるようになった。頂上に達していた。視界に広がる夜空を望む前に、電池を惜しんで懐中電灯を切る前に、きみの持つ光は、学友を照らすことになった。
先客がいた。ずっと意識の外にあった、きちんと身支度ができているとは言い難いことが、ふわと、思考の
このままでは自分が不審者になると、きみは懐中電灯を灯したまま、すぐに自分に向けた。馴染みのある顔をそこに見て、向かいの先客はひとつ安心した様子だった。会話の邪魔になると思ったのか、顔馴染みである先客は、ためらいなくイヤーマフを外した。きみは、懐中電灯を切る頃合いを見失った。
頼りない明かりのもとでも、よく見ていたいと、きみは思った。何を見たいと思ったか、それは、彼女の顔に違いなかった。きみはそうと認めはしなかっただろう。学年一と評されるかわいい学友を見ていたかったのではなく、他の、もっと別の、言い表せない何かを見たいがためだったから。それを、誰も理解してくれないと思ってしまうから。
お互いにすぐ相手を察し、穏便な対応を期待できると分かったゆえに、ふたりとも、何か厄介を招くとは、ちらとも考えなかった。
先客として座り込んでいたのは、いつもなぜかクラスが離れてしまう、学友の
それでもやはり、淡雪は尋ねた。
――あ、ごめん。わたし、邪魔かな。
淡雪は慌てて立ち上がる。なぜ謝られたのか、なぜ邪魔と思うのか、きみにはわからない。ここがきみの所有する山だなどと、淡雪は思ってはいないはずだ、いくら何でも。きみの家は、この地域にしては珍しく、田のひとつも持っていないと、それはよく知れている。
きみは明かりの
冬というものは、ある、だけではないのかもしれない。
ある、が許されるなら、いる、でもいいのではないだろうか。
少しく触れた光の中でさえ、あるいは、だからこそなのか、きみの瞳に、淡雪は季節として焼き付いた。きみには、淡雪がまるで冬に見えて仕方なかったのだ。根拠は見つけられない。しかし、枯れ枝よりもよっぽど簡単に、そして無惨に、淡雪は折れてしまいそうだと、そう思えてならなかった。
邪魔じゃない、きみはそう言って、淡雪の隣に立った。だから座れよと、手振りも交えて促したが、淡雪はそれには従わなかった。子供心のうちに、胸の奥で跳ねるものがあった。ふたりで並んで立ち、星を見る格好になっている。かわいいと評判の淡雪、憧れている男子は多い。けれど、この
きみは、見るべきものを、もう十分過ぎるほどに見たと、そう感じていた。心残りはない、スイッチを切らないままに、きみは懐中電灯を淡雪の手に握らせた。
何も持ってないみたいだから、まずそれだけを口にしたが、遠回しに過ぎると思えて、帰り道、何もないと危ないだろ、使えよ、と、言い足した。僕は慣れてるから大丈夫、いつも来てるんだ、と、本当と嘘の入り交じった言い分も加えた。
――えっと、借りたい、かな。実は、ここに来る時に転んで、膝をすりむいて、ううん、それは大したことないんだけど、でも、帰り道、ちょっと怖かったの。
淡雪の家の位置からすれば、きみとは逆の方向へ下りていくことになる。大袈裟に言うほどではないが、どちらかと言えば、そちらの道筋の方が危ない。きみはそれを承知しているから、どうにも不安を覚え、質問という形で表に出た。
明かりもなしに、どうしてこんな所まで、きみは尋ねる。互いのどちらかと言うならば、やはり、懐中電灯を持っているのは淡雪であるべきだった。行きも帰りも。
淡雪はそっと、星空を仰いだ。
電灯は地を向き、淡雪は月明かりにこそ照らされ、きみは知った。
冬がいる、その表現は正しいと。
――雪。雪が降るのを、ここで待ってた。
淡雪がそう言うのを聞いて、きみも同様に空を見上げた。晴れ渡っていて、雲の一つもない。だからこそ、きみはここに来た。月明かりが、あるいは星明かりも、淡雪を照らして
理屈を並べる必要などなく、明白で簡潔な真実に過ぎなかった。頭の中でうまく整理されるよりも、ずっと先に、きみは言っていた。
「降るかもしれない。今にも降りそうだ」
そう口にしてからも、きみは疑念を抱かなかった。透き通るまでの夜空を見つめながらも。
本当なら面食らっていたはずのきみが冷静で、逆に、不自然なことを言ったはずの淡雪の方が、きょとんと、少し呆けた。やがて淡雪に困惑と狼狽が滲み、ないしは脅えた。それは恐怖を抱いたからではなく、きみの考えはそこまで及ばなかったけれど、考えもしなかった奇跡を前にして、臆病になったゆえ。
――どうして、どうしてそう思うの。変だって、そう思わないの。
きみは言いたかった。
ここに、こんなにも冬がいるのに、雪が降らないなんてあるか。それこそおかしいじゃないか。この空のどこだって、今すぐにでも雪を零しそうだ。きみが隣にいるから、僕には降るんだ。雪が降るんだ。
きみは、ついに言えなかった。
淡雪は、変だと思われることを覚悟して、思うままを言ったのに、きみは、ささいな恥ずかしさに負けて、心からそうだと思ったことを言えなかった。
知らなかったから。
きみと淡雪がここにいる。
ふたりの心、互いの主観を重ねて、共に望みさえすれば、いつ、どこであっても、きみの世界だけでなく、きみたちふたりの世界に雪が降るのだと。
あるいはきみたちは、あの冬の教室にいてさえ、懐中電灯に守られた星空の山頂に、純白の雪を降らせたかもしれない。
きみたちは見るだろう。純白の雪を。きみたちの世界でしか降りようのない、本当に、何の混じり気もない雪を。
まだ、きみは知らなかった。
いつしか、きみは知っていたはずだった。
淡雪は、きみにとって冬であると同時に、混じり気のない雪そのものでもあるのだと。
それは、山の
きみたちから生まれた、真実の雪映りの雪は、きみたちの真実の中にしかないと、それが唯一の答えだった。雪映りの雪は初めからそこにあった。きみたちに。
きみが淡雪を、冬で、純白の雪だと信じ、そして淡雪が、きみにとっての雪であると自分を信ずるならば、望むままにあふれたはずだった。
雪が降るだろう。
それを、淡雪は見るだろう。
きみの信じる、
混じり気のない雪に、混じり気のない雪が映る。
雪映りの雪を、きみが見る。
淡雪は知らないままだった。
自分自身が、きみにとっての純白なのだとは。
冬の教室で発された言葉は、淡雪にとっても、きみにとっても、間違っていた。雪映りの雪を見てみたいと、雪映りの雪である淡雪本人が言うはずはないから。
微笑みと共に、言っていたのかもしれない。
――わたし、雪映りの雪を、きみに見せてあげたいよ。
きみが本当に言い損ねた言葉は、好きだという、そのひと言ではなくて。
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