#017 『雪映りの雪』より抜粋 中編



 ここには今、ふたり分の呼吸しかない、どうしてか、きみにはそう思えてならなかった。吐く息の白さを見るにつけ、その思いを強めた。

 ストーブが切られ、熱を失い続ける放課後の教室で、あちこちに粉の残る黒板を見やり、あるいは眼前、机にある傷をふたつみっつと数える。淡雪と示し合わせて、色違いにしたダッフルコート、きみの布地は濃いグレーだ、制服の上から着たそれに、つと指で触れる。

 冬の乾きと匂いは、せそうなほど満ちていた。真昼でさえ心許ない陽光は、落暉らっきとして果てようとしていて、よう潤朱うるみしゅを漂わせた。四つしかない運動部の四つともが、校庭で熱心に体を動かし、伴う掛け声や笛の音は、もちろんきみまで届いていた。三つだけの文化部、うち一つ、他はどうか知れないが、吹奏楽部は練習に励んでいると、正しい旋律を往々にして取り落とす管楽器の音色が、きみに教えた。

 それでも、それでも、だ。

 やはりここには、自分と、そして、本来ならば隣の教室にいるはずの、白瀬しらせ淡雪あわゆきの呼吸しか取り残されてはいないのだと、きみは、今この時をそんなふうに信じた。

 きみの隣、窓際の席に座るのは、白の布地を選んだ淡雪だ。夕映えを受けて、コートが色めく。文庫本の見開きに落ちていたはずの、彼女の目線が、いつしか浮いていた。

 ――ねえ、わたし、邪魔かな。

 瞳がきみに据えられ、吐息のかすみに声が乗る。問いかけられて、答えは明白であるのに、きみは寸時すんじ、戸惑う。わからないのだ。

 邪魔なんかじゃないと、本心から断言したとしても、淡雪の胸奥きょうおうに棲み続ける得体の曖昧な負い目は、何ら減ずることがないと、きみは自己に憤りを覚える程、ずっと、いつも同じ結果を確認するばかりだったから。淡雪の心の奥処おくかまでを澄ませてやれる言葉を、一片ひとひらさえ見つけられず、それで尚、彼女の隣にいることに甘んじていたから。

 今もまた、きみはそれを見つけられない。

 邪魔なもんか、僕はちっとも嫌じゃないし、隣のクラスで本を読んで、何が悪い。きみの言葉に、何ひとつ嘘はない。それでもきみは自分の声を、自らで、白々しいものとして聞く。きみの声を聞いて、淡雪は微笑む。本当に、心から、嬉しいと。

 ――そっか。よかった。わたし、きみの隣で本を読みたいから。

 きみは、きみだけは、淡雪が帯びる全てに純白を見る。

 きみの本棚と淡雪の本棚は、今となっては、ほとんど共有されていると言ってよかった。淡雪が読み終えた本よりも、きみが読み終えた本の方が少ない、ただそれだけで、どちらの本棚に置かれているか、それは問題ではなかった。本の貸し借りという体裁で、蔵書は自由に行き来した。体裁のうえで、貸した本が戻ってこなくとも、内実のところでは、置き場所が変わったことを意味するだけだ。

 ――一度読んだ本でも、きみの隣でまた読むと、違って感じるの。

 淡雪がきみを、中学生なりに、男として好きでいると、人伝ひとづてではあれど、きみは間違いのないものとして聞いている。また淡雪も、人伝ながら確かなものとして、きみが淡雪を好きでいると聞いている。そして、自分の恋情を相手に知られていることも、とうに、きみも淡雪も。

 学校で唯一の二クラスを持つ、それがきみの学年だが、その二クラスにしても、合計で四十四人を数えるに過ぎない。狭い群れの中で好意を隠さずにいれば、誰しも思うようになる、きみたちふたりは恋人同士なのだと。そんな輪の中心で、きみと淡雪だけは違うことを思っている。

 僕たちは、わたしたちは、恋人同士ではない、と。

 どう認識するのが適切か、それに重点はない。きみたちは、同じものを隠し持っていたかった。きみも、そして淡雪も、誰に問われても答えなかった。好意はあらわにしながらも、関係性については、肯定も否定も、決して口にしない。皆、交際は明言したくないのだろう、そのように捉えたが、違う。

 きみたちは、恋人同士ではないという、その秘密をこそ共有していたのだから。申し合わせなく、無言のうちに、きみたちはそれを成し遂げていた。

 掛け声と笛の響き、管楽器の調子外れな音符、その合間、閉まった窓が風に打たれて音を立てた。きみにはどうしてか、聞けない。どうしても。いずれの音も、この教室に在るものとして聞けない。

 けれど、読書の音色は別だった。淡雪はきみから瞳を外し、落としてから、乾いた音を立ててページをめくる。それだけは、きみの耳に確かな実在を伴って届いた。

 今さっき、ここにはふたりの呼吸しかなかった。それに、紙のだけが織り交ぜられた。きみはそう確信できた。おかしな話だと思いながらも。真実だった。きみの隣に淡雪がいる限り、きみの主観は、実態に裏切られることがない。違って感じる、直前に言われた淡雪の言葉は、何もかも納得できた。隣にいるのが淡雪でない誰かならば、こんなふうに感じることは決してないと、きみはもう十分過ぎる程に知っていた。

 淡雪も同様だった。だからこその、先の言葉だったはずだ。きみたちは、本棚だけでなく、秘密だけでなく、主観を混ぜ合い、自らにしか映らないはずの世界を溶け合わせていた。

 ページをっただけ、その音。寂しい音色だ、心細い音色だ、きみは口に出さなかった。自分が勝手に感じているだけだから、それは結局、踏み込む勇気に欠ける言い訳だっただろう、無力を思い知りたくないがためだっただろう。

 同時に淡雪もまた、聞いていたはずだからだ。寂しいのか、心細いのか、それはわからなくても、少なくとも、ただ紙をめくる音として聞いていたはずがないからだ。きみが隣にいる限り、淡雪の主観は実態に裏切られない。聞いていた。本当なら成り得ない、きみたちだけの世界でしか生きられない、か弱い真実の音として、聞いていた。

 真実にしかなりようがなかった。

 雪映りの雪でさえも。

 それ以外の何かになろうか。きみと淡雪がふたりでここにいる。実態は役目を奪われ、溶け合わされたふたりの主観だけが、ただひとつきりの、ふたつのものとして取り残された、冬の教室にあって。

 だから、きみは信じた。

 疑う余地も、また、意味もなかった。

 ――ねえ、わたし、雪映りの雪を見てみたいんだ。

 出し抜けに言われた、馴染みのない言葉、きみはそれを、調和のうちにあるものとして受け止めた。北極の話をしている時に、オーロラを見てみたいと言われた、あるいは北極熊を、そのようなものとして、在るものとして。

 ――いつだったかな、聞いたことがあるの。真っ白な雪に降る、純白の雪、混じり気のない雪に、やっぱり混じり気のない雪が映ること。だから、雪映りの雪。おかしいよね。白に白なんて、映るわけないのに。でも、自分の名前のせいなのかな、いつか見てみたいって、ずっと思ってる。

 きみがその時に何を考えたのか、いずれ訪れる夏には思い出せなくなる。あえて問うならば、何かを考える必要など、本当にあっただろうか。何もかも真実でありながら。互いの世界が溶け合うことこそ、きみたちの全てだったのに?

 僕も見てみたいな、探してみるよ、と、きみが言えば淡雪は微笑む。そうだな、雪映りの雪を引っ提げて行くよ、いざ観念して、好きな人に告白する時にはさ、もちろん、雪映りの雪を見たがってる人だ、と、付け加えれば淡雪は喜びと共に頬を赤らめる。きみは、淡雪がそう反応してくれると知っていたし、だから、実際にそう言った。

 言えなくなった。

 いずれ訪れる夏、いきれの中で喘ぐように生きて、実態に裏切られ、真実であったはずのものが、きみはひとり、それを失い、取り戻せずに、それゆえに。

 言えない。

 きみは、淡雪に、好きだと、ただの一度も言えないままでいる。

 雪映りの雪が、そこにないから。

 約束を破ってもいいかと、もう、聞くことができないから。





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