#016 『雪映りの雪』より抜粋 上編



 ――――烏海ううみ奈尋なひろ雪映ゆきうつりの雪』より抜粋ばっすい




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 夏空なつぞらに弧を描き、太陽はきみの頭上に迫ろうとする。自転車を夜通し漕いで、体の軋みが増すことを是とし、走った距離の分だけ得たはずの尊厳が、昼光ちゅうこうに冒され、今や打ち砕かれようとしている。暑熱がきみを害するからでは、無論ない。ありのままの世界が強く照らされ、きみの瞳に映るからだ。駆け抜けた夜深よぶかの街路は、何らの聖域でもなかったと、なおもペダルを踏み付けながら、きみは思い知る。

 どうして、どうして思えるだろう、これとは違ったと、どうして思わずにいられるだろう、間違いなく、ここに、眼前に在る景色と同質のものが、今までの道程みちのりの全てにあったはずだと。瞳に映さずにいられただけ、きみは夜陰に甘え、見ようとせず、認めることを拒んだ。ていを、実態のままの世界を。

 とうに汗に沈んでいた、白のタンクトップと黒のハーフパンツ、今さら何を吸えるでもなく、変わりようのない服の重さが、きみの体感のうえで増し、動きが鈍る。よすがであったはずの主観さえ、きみの行程を半ばで止めようと試みる。気持ちの重みにこそ、疑念が載る。

 そもそも、何故なにゆえに来たのか。

 何を求め、得るべくして?

 その問いかけは、きみの脚を止めるには至らない。しかし、答えられもしない。明確な解を持てぬまま自転車を漕ぎ続けるために、きみの不調和は注ぎ、積もる。どうして、胸中の痛痒は、目の前の景色を直視するほど、どうして、どうして、と、確かな痛みに変わる。昨夜のきみが抱いた願いが、烈日を浴びて消えていく。痛い、照り返す光の一粒だけでも、こんなにも痛い。

 どうして?

 何故に?

 少なくとも、疎外感をねぶりたかったわけではないはずだ。

 炎夏えんかに喘ぐ街が在る。

 人々の息づき、命と暮らし、連なる何もかもが、間違いのない姿で、ここに在る。

 今さら、自分の心を、その感じ方を、捨てることなどできない。それが全てだったと、気付くのが遅すぎたと、きみは心魂に染み込ませてしまっている。ゆえに殉じる、殉じたいと願う。自らの主観の導くところに。

 見えている、けれど遠すぎる。そばにあるから痛いのに、遠い。

 どうしてこんなにも離れているのか、確かにきみは、間違いなく思っている。眼前にあるはずの息づきから彼方かなたに離れ、まるで自分だけ、別な世界にいるようだ、と。

 なぜか、息づきのうちにある者たちが、無風の中で、蒸暑じょうしょ粘度ねんどに縛られていると見下すゆえ、きみがきみの命を全うしていると驕るゆえ、あるいは、自らの生が、日々の惰力だりょくからついに脱したと酔えるがため、いずれも、違う。炎天のもと、きみはもはや、露塵つゆちりほどもそれらを描けない。

 しかし、やはり、きみの脚は止まることを忘れてしまっている。

 動く。ペダルは漕がれてしまう。チェーンを滑らかに巡らせ、横溢おういつする湿気を身で切るほど、晒された肌を息詰まる光が焼いていくほど、段差のひとつ、またひとつで揺れるたび、焦げた路面、葉洩はも綾取あやどられた歩道のタイル、年月を経たうえの罅割ひびわれ、それらを細いタイヤで踏みつけ、小遣いとお年玉を合わせることで買った自慢のクロスバイクに乗り、先途せんどの明らかではない行路を往くごとに、きみは自らで、正答を手繰り寄せてしまう。有り体を、心奥に叩きつけられる。

 違う、そうじゃない、求めていたはずのものは、と、ここじゃない、ここにはない、と、正答を撥ね除けたいがために、胸裏きょうりで繰り返さなければならない。それなら、ここではないのならば?

 とうに知っているはずだ。きみが望む何らかのものは、どこにもない、と。

 横目にしては過ぎゆく。命、暮らし、息づきに連なる全て。ありのままの世界。遠くに思うのではない、きみは思っていたい。ここではない自分を思い、旅路の続きを守りたい、そんなきみが行き過ぐ。

 行くほどに見える。

 その瞳に映る。

 感じてさえいるはずだろう。

 きみは自転車を走らせ、人と人のを抜ける。道が続いているから進む。赤信号を前にして、止まる。きみは打ちのめされる。実態が主観を裏切る。きみの望みを焼き消して、裏切る。何ひとつ、途切れてなどいない。何ら離れてはいない。

 きみは彼らと同じ道にいて、同一の連なりの中に在る。きみはただ、息づきに連なるもの、そのうちのひとつに過ぎない。裏切られた主観が、きみの世界においてだけ、さらにきみをひとりにする。

 噴く汗と、盛る夏の匂いに塗れ、塗れすぎて、頼りにしていた蝉声せんせいは、耳の中で飽和してそれとわからぬものとなり、必要だったはずの季節、夏さえ、その輪郭を失っていく。これほどまでに暑い。雪映りの雪とは対極たる隔たりがあるからこその、今日ではなかったか、昨日ではなかったのか。

 道筋の先に請うものが、決して、雪映りの雪でだけはあってはならない、それを唯一の確たるものとして、季節の隔たりのうえで、きみは発った。

 きみはふと、羨ましいと思う。

 すれ違う人の耳には、おそらく、夏蝉なつぜみの声として届いているものがある。きみが頼りにしていた、今は欲する、もう姿形が、きみにとってはぼやけてしまったものが。違うように聞いている。だから憎くもなる。ようの世界が、きみだけの主観を肯定するなど。

 きみは腿に力を込め、ペダルを踏み付ける。信号が青に変わったゆえに。はめたグローブの内側、ハンドルを掴む握力に、怒りに似たものが混和して、すぐ、どちらなのかわからなくなる。

 何故に、何を求めて、得ようとしているか、きみは最初から、答えられはしなかった。もはや、得られるとも思わない。それでもきみは喘ぐ。夏の街よりも重い深度で喘ぎ続ける。雪映りの雪を求めるよりは余程ましだ、そう思うことさえ、次第に難しくなりながらも。

 どこまで走れば、きっと無理だ。どこに辿り着いても、雪映りの雪を求めずにいることは、無理だ。今、きみがはっきりと答えられるとすれば、そのことだけだ。

 本当はわかっていたはずだ。走り出す前から、きみならば。

 受け入れていたはずだろう。それこそ、有り体として。

 何故に、もしそれに、無理に解を与えるならば、きみはただ、逃げたかった。

 きみは知っている。

 今年の冬、来年の冬、その先も、あるいは春と秋、そして夏でさえ、雪映りの雪を求め、探して、けれど何も手にできずにいる自分がそこにいることを。雪映りの雪を欲さずにいることも、また、それを手にすることも、ない、と。

 いつまでも、きみは墓前に花を捧げることしかできない。

 熱に浮かされるまま、こんなに遠くまで来てしまって。きみが先途に請うことがなくとも、もしかしたら、あるのかもしれない。きみの世界に、たとえ夏の最中さなかだとしても、雪が、真っ白な雪が舞い落ちる場所が、もしかしたら、この先にあるのかもしれない。

 しかし、そのどこかは、きみに、もっとも残酷な有り様を教える。

 その時、その場所、きみの隣に淡雪はいない。




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