#015 書くことに恐れはなかった



 真滉まひろさんに、文芸部の発行した冊子で借りたいものがあると言われ、私は望まれるままにそれを渡した。たった一冊、真滉さんはそれを手にしてから、荷物を軽くまとめて自分の家へと帰った。戦う相手と同じ部屋で執筆をしたのでは、とても真剣勝負とは言えない。

 ワンルームの壁際に置かれた小さめの本棚、その下段から抜かれた冊子は、去年の初冬、私が三年生として逢館おうだて高校の文芸部に在籍していた時に発行したもの。真滉さんが文化祭で買って読むことができなかったもの。

 そこには、ある。

 藤ノ木ふじのき篤芽あつめが、部活の引退に際して書き上げた作品が、藤ノ木篤芽の現在の到達点がある。私は知っている。朔良さくらちゃんのように評判に敏感ではなくとも、その作品によって、確固たるものとして、私は逢館高校文芸部の伝説になったのだと、知っている。

 冊子を借りる際、真滉さんは言った。

 少なくともこれを超えるのでなければ、話にならない、と。

 超えられるか、勝てるか、絶対の確信を持っていない者の言葉であり、そして、真剣に、本気で、私に勝とうとするがゆえの言葉だ。意味がないんだ。劣ることが明白な作品であれば、全く意味がない。書く必要さえない。

 全く同じことが、私にも言える。

 本棚の中段、本の並びの中に収まっている二冊の文庫本を、私は見ている。真滉さんが烏海ううみ奈尋なひろとして世に出した本、そのうちの二冊。そしていつしか、うち一冊のほうにしか、瞳が向かなくなっている。

 二冊のうちの一冊は処女作だ。烏海奈尋という才能が世に知られ、後に、真滉さんが精神的に追い詰められる遠因となった作品、当時の私が涙をこらえられなかった物語、『血は空から降らない』と題されたそれ、けれど、私はもう、まるで見ていない。隣に並びながらも、視界に入らない。

 わからない。

 私が見つめているのは、もう一冊だ。『雪映ゆきうつりの雪』と題された、今の時点での、烏海奈尋の最後の作品、到達点。処女作の時点で、すでに天才と評されていた烏海奈尋が、その進化を止めることなく行き着いたところ。純然たる、疑いのない、極致。

 烏海奈尋の極致は、小説というものの極致に、ひどく近しい。

 わからない。わかりやしない。

 同じことが言える。

 私ははっきりと言ったのだから。必ず勝ってみせる、と。

 ならば、同じだ。

 これを超えるのでなければ、話にならない。

 どうやって超えようがある? 超えようとするならば、まさろうと思えば、それは、小説というものの極致にそのまま挑むことを意味する。どうやって?

 物書きとしてのプライドだけの問題であれば、もうとっくに諦めている。どうあがいても、今の時点では敵わない、足下にも及ばない、そう断じて、いつか、堂々と伍することができるようにと、努力を続ければいい。

 そんなこと、もはや、できるわけがない。物書きとしての勝利は放り投げられるとしても、真滉さんへの愛は棄てようがない。今、まさに今、私がこれを超える作品を書き上げなければ、真滉さんは私に勝ちようがないじゃないか。不戦敗と不戦勝、それを否定したのは、私自身じゃないか。

 書くしかない。

 そして、書ける。

 スランプの原因探しは、後でやればいい。今の私は、書ける。間違いなく小説が書ける。意志も灯っている。わかりようがない。超えようがない。けれど信じられる。書くことができると。私ならば、超えることができると。烏海奈尋に挑むことができると!

 書くことに、決して、恐れはなかった。

 私は、震える手で、取り落としそうになりながらも、ちゃぶ台に置かれていた携帯を掴み、やはり震える指でキーを押し、電話をかけた。

 〈井芹いせり珂雪かゆき〉、そう表示された名前の下部にあった〈呼び出し中〉の文字は、すぐ、〈通話中〉に取って代わった。

 「ねえ、珂雪、」世間話を交える余裕はなかった。珂雪に対しては、遠慮をすることがむしろ失礼というもので、それに甘える形で、本当の、大事なところをすぐに言った。「私、書けるよ。書くことができるよ。できるし、ちっとも怖くない。」私が不安定になっていると、すぐに察したのだろう。電話の向こうにいる珂雪は穏やかで、けれど、それでも私の震えは増すばかりで、指などで収まりきらず、四肢にまで広がっていた。

 「こんなの、初めてだよ。今はただ、読むことが怖い。でも、やっぱり、読まなくちゃね。」珂雪にしてみれば、ちっとも話の見えないことを言われているだろう。それでも、文句を言われるではなかった。うん、うん、と、ただゆっくり、頷きを返してくれた。

 読まないではいられない。真滉さんは間違いなく読む。私の到達点を。そして私も読む。真滉さんの到達点を。それには違いない。けれど恐ろしい。ひとりの読者としてではなく、競う相手としてそれを読んだ時、何がどう優れていて、真滉さんは何をどう成し遂げているのか、きっとこれまでとは全く違うものが見えてくるだろう。

 知るのが怖い。

 それは、自分が超えなければならない壁の高さ、強靱さを正しく計ることだ。

 読めば読むほどに、それは高くなりこそすれ、強くなりこそすれ、決して低められることはないだろう。

 『あーあ、私も彼氏つくろうかなぁ。』と、突然、珂雪は流れを無視したことを言った。『篤芽がそんだけ強くなれたのも、そんでもって、弱くなれたのも、顔は良い方だけど甲斐性なしの彼氏のおかげだよねぇ、悔しいけど。』わざわざここで甲斐性のなさを持ち出す嫉妬深さ、ちょっと心配になるんだけど。『たぶん、それ、私にはできないことだから、感謝しないと。私ずっと、篤芽をそんなふうに、弱くしてあげたかったよ。』

 言われたことの意味が掴めなかった。「私が弱くなると、珂雪って嬉しいの?」『程度にもよるけどね。でもね、弱くなれないと、誰かに頼って、支えられて、人と関わって、そんなふうに生きていくことができなくなるんだよ。だから、私は嬉しい。もし最強で完璧な人がいたら、孤独なまま、たったひとりで生きていくことになるよ。』

 記憶が心を裂くように、よぎる。

 睦人むつとくんは言っていた。

 兄貴は優れ過ぎてて、競い合うのに値する相手がいなかった、と。

 烏海奈尋は、真滉さんは、弱くあれなかったのか?

 書く限り、烏海奈尋であろうとする限り。

 誰が?

 いったい誰が、天才作家、烏海奈尋を弱くできる?

 なればこそ、救いを求められずに苦しみ、自らで、私の才能に縋ったと?

 結果、筆を折り、弱くいられる、甲斐性のない自分を得たと?

 違ったんだ。

 真滉さんが書けなくなったのは、不幸が起きたゆえじゃない。救いが必要だった時に、そこに手を伸ばせる人が誰もいなかったからだ。

 知らなきゃいけないんだ。

 どんなに怖くとも、違う、怖いからこそ、恐ろしくてたまらない高みだからこそ。

 烏海奈尋が、たったひとりで、孤独な魂だけで、どんな深海に棲みながら言葉を繰り、どれだけの高さを持つ山巓さんてんで息をしていたのか。ひとりで、ひとりきりで、語と語を継ぎ、物語を編むためだけの成層圏から、何を見ていたのか。

 私が、私こそが、知らなきゃいけない。

 もうこれ以上、たった一歩でも、真滉さんをひとりで歩かせないために。




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