#015 書くことに恐れはなかった
ワンルームの壁際に置かれた小さめの本棚、その下段から抜かれた冊子は、去年の初冬、私が三年生として
そこには、ある。
冊子を借りる際、真滉さんは言った。
少なくともこれを超えるのでなければ、話にならない、と。
超えられるか、勝てるか、絶対の確信を持っていない者の言葉であり、そして、真剣に、本気で、私に勝とうとするがゆえの言葉だ。意味がないんだ。劣ることが明白な作品であれば、全く意味がない。書く必要さえない。
全く同じことが、私にも言える。
本棚の中段、本の並びの中に収まっている二冊の文庫本を、私は見ている。真滉さんが
二冊のうちの一冊は処女作だ。烏海奈尋という才能が世に知られ、後に、真滉さんが精神的に追い詰められる遠因となった作品、当時の私が涙をこらえられなかった物語、『血は空から降らない』と題されたそれ、けれど、私はもう、まるで見ていない。隣に並びながらも、視界に入らない。
わからない。
私が見つめているのは、もう一冊だ。『
烏海奈尋の極致は、小説というものの極致に、ひどく近しい。
わからない。わかりやしない。
同じことが言える。
私ははっきりと言ったのだから。必ず勝ってみせる、と。
ならば、同じだ。
これを超えるのでなければ、話にならない。
どうやって超えようがある? 超えようとするならば、
物書きとしてのプライドだけの問題であれば、もうとっくに諦めている。どうあがいても、今の時点では敵わない、足下にも及ばない、そう断じて、いつか、堂々と伍することができるようにと、努力を続ければいい。
そんなこと、もはや、できるわけがない。物書きとしての勝利は放り投げられるとしても、真滉さんへの愛は棄てようがない。今、まさに今、私がこれを超える作品を書き上げなければ、真滉さんは私に勝ちようがないじゃないか。不戦敗と不戦勝、それを否定したのは、私自身じゃないか。
書くしかない。
そして、書ける。
スランプの原因探しは、後でやればいい。今の私は、書ける。間違いなく小説が書ける。意志も灯っている。わかりようがない。超えようがない。けれど信じられる。書くことができると。私ならば、超えることができると。烏海奈尋に挑むことができると!
書くことに、決して、恐れはなかった。
私は、震える手で、取り落としそうになりながらも、ちゃぶ台に置かれていた携帯を掴み、やはり震える指でキーを押し、電話をかけた。
〈
「ねえ、珂雪、」世間話を交える余裕はなかった。珂雪に対しては、遠慮をすることがむしろ失礼というもので、それに甘える形で、本当の、大事なところをすぐに言った。「私、書けるよ。書くことができるよ。できるし、ちっとも怖くない。」私が不安定になっていると、すぐに察したのだろう。電話の向こうにいる珂雪は穏やかで、けれど、それでも私の震えは増すばかりで、指などで収まりきらず、四肢にまで広がっていた。
「こんなの、初めてだよ。今はただ、読むことが怖い。でも、やっぱり、読まなくちゃね。」珂雪にしてみれば、ちっとも話の見えないことを言われているだろう。それでも、文句を言われるではなかった。うん、うん、と、ただゆっくり、頷きを返してくれた。
読まないではいられない。真滉さんは間違いなく読む。私の到達点を。そして私も読む。真滉さんの到達点を。それには違いない。けれど恐ろしい。ひとりの読者としてではなく、競う相手としてそれを読んだ時、何がどう優れていて、真滉さんは何をどう成し遂げているのか、きっとこれまでとは全く違うものが見えてくるだろう。
知るのが怖い。
それは、自分が超えなければならない壁の高さ、強靱さを正しく計ることだ。
読めば読むほどに、それは高くなりこそすれ、強くなりこそすれ、決して低められることはないだろう。
『あーあ、私も彼氏つくろうかなぁ。』と、突然、珂雪は流れを無視したことを言った。『篤芽がそんだけ強くなれたのも、そんでもって、弱くなれたのも、顔は良い方だけど甲斐性なしの彼氏のおかげだよねぇ、悔しいけど。』わざわざここで甲斐性のなさを持ち出す嫉妬深さ、ちょっと心配になるんだけど。『たぶん、それ、私にはできないことだから、感謝しないと。私ずっと、篤芽をそんなふうに、弱くしてあげたかったよ。』
言われたことの意味が掴めなかった。「私が弱くなると、珂雪って嬉しいの?」『程度にもよるけどね。でもね、弱くなれないと、誰かに頼って、支えられて、人と関わって、そんなふうに生きていくことができなくなるんだよ。だから、私は嬉しい。もし最強で完璧な人がいたら、孤独なまま、たったひとりで生きていくことになるよ。』
記憶が心を裂くように、よぎる。
兄貴は優れ過ぎてて、競い合うのに値する相手がいなかった、と。
烏海奈尋は、真滉さんは、弱くあれなかったのか?
書く限り、烏海奈尋であろうとする限り。
誰が?
いったい誰が、天才作家、烏海奈尋を弱くできる?
なればこそ、救いを求められずに苦しみ、自らで、私の才能に縋ったと?
結果、筆を折り、弱くいられる、甲斐性のない自分を得たと?
違ったんだ。
真滉さんが書けなくなったのは、不幸が起きたゆえじゃない。救いが必要だった時に、そこに手を伸ばせる人が誰もいなかったからだ。
知らなきゃいけないんだ。
どんなに怖くとも、違う、怖いからこそ、恐ろしくてたまらない高みだからこそ。
烏海奈尋が、たったひとりで、孤独な魂だけで、どんな深海に棲みながら言葉を繰り、どれだけの高さを持つ
私が、私こそが、知らなきゃいけない。
もうこれ以上、たった一歩でも、真滉さんをひとりで歩かせないために。
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