#013 撒き餌じゃなかったとでも?



「誤解のないように言っとくが、あんたを憎む気持ちは確かにあるにせよ、感謝の気持ちのほうが大きいんだ。」ふっと、睦人くんの瞳から怒りの色が消え失せて、そこに深い優しさが滲む。なるほど、睦人くんがなぜ女性に好かれるのか、ちょっとわかった気がする。この眼は卑怯だ。もちろん、少々理解したというだけのことで、私は真滉さん一筋。

 「あの頃の兄貴は、ひどかったからな。死んだって聞かされても、そうそう驚けないくらいには。そりゃ、致死率百パーセントじゃなかったさ。けど、無視はできない確率で、それは存在していた。」昔話として聞くだけでも、心が疼き、突かれ、凍える。「それがわかってたって、俺からは、書くことをやめちまえ、とは、どうしても言えなかった。やめれば兄貴はらくになれるって、そんなの、知れたことだったのにな。」理屈ひとつでどうにかなるほど、簡単なことではなかっただろう。それを言えば、睦人くんは、情愛を受ける所以ゆえんを失うのだから。「だから、感謝してる。俺からはどうしても言えなかった。あんたがいたから、あんたの小説があったから、兄貴の致死率ってやつは、ゼロに近くなった。無視できる数値になった。」優しさの宿る瞳はそのままに、けれど口元で、自嘲の混じった笑みが浮かんだ。「兄貴が死んじまったら、何もかもだめになっちまうのに、俺がそれに気づけたのは、兄貴があんたの小説を読んだ後だったんだ。兄貴のこととしても、俺個人のこととしても、感謝してんだ。」睦人くんからの感謝にどう応えればいいのか、まだわからない。私は何も知らないままだ。

 以前、私は言った。真滉さんが話したくなるまで待つと。そうでないうちは話さないでくれと。そのうえで、今ここで、この話が出るかもしれないと承知で、睦人くんと引き合わせたというなら、それは――

 「真滉さんは、話したいんだと思う。そのことを。だから聞いてくる。」いつの間にか、嫉妬なんて感じなくなっていた。自分の凍えた心を、そして、真滉さんの凍えた心を、共に温めなくては、何をどうできるでもなかった。「そう。そいつがいい。俺はただの緩衝材。兄貴が話をするための。」睦人くんは湖のほうへ向き直り、煙草に火をつけた。私と共には帰らず、ひとりでここに残るつもりなのだろう。私に背を向けたままで、睦人くんは言った。「あんたのためのワンクッションじゃなくて、兄貴が自分のために用意したやつさ。きっとな。あの人、あれでいて、ずいぶん臆病だから。そういうの、ずっと近くで見てきたから。」これ、わかってて言ってるんだろうな。嫉妬なんて感じないでいる。それは嘘じゃない。通り越して憎い。湖に突き落としてやりたい。



 家に帰ってみれば、案の定と言うべきか、真滉さんはそこで待っていた。ちゃぶ台を挟んで向かい合っている、とは言い切れず、真滉さんの目線は、ちゃぶ台の上に置かれた金槌と(一寸くらいの)釘が入ったプラケースに注がれている。「これ、何?」「帰りがけ、コンビニに寄ったら見つけてしまったので、買ってきました。」さすがに五寸釘は売っておらず、当然ながら、藁人形もなかった。「日曜大工でも始めるの?」「真滉さん、これが今から自分に打ち込まれるのだとは、どうしても思えませんか。」そう言って迫っても、「あ、やっぱり怒ってる? 打ち込む場所、腕だけは勘弁してね。」戯けられてかわされるのだけれど、たぶんこの人、腕以外なら打ち込まれてもかまわないと、本当に思ってる。ここにきて、そういうのすごくよくわかる。「怒ってますけど、今は別のことに怒ってます。私が真滉さんを傷つけるようなこと、できるわけないじゃないですか。」けれどいつか、寝ている時に頬をつねる。それとこれとは話が別だ。「そういう、彼氏を試すような撒き餌の質問、よく思いつくね。」私を睦人くんと引き合わせたのは、撒き餌じゃなかったとでも?

 もうこれ以上、嫉妬も怒りも、片付けようとは思わない。

 知りたい。

 「どうしてですか。」

 向かいで足を崩している、真滉さんの顔に、瞳に、そして心に、はっきりとまっすぐに眼差しを向ければ、その気配を察してもらえて、すぐに視線はぶつかった。強く、互いに互いでないものの一切は、目に映らないだろうほどに、見つめ合う。言える。聞ける。尋ねることが、もう許されている。

 私はただ、ひたすらに知りたい。

 「どうして、私の小説を読むことで、烏海ううみ奈尋なひろは、書くことをやめられたんですか。」

 私の声音も、瞳の光も、怒りを含むところはなかった。けれど強かったと、芯で猛る果敢さがあったと、それが自分自身でわかった。

 その自覚は、自惚れではなかったのだろう。怯むところはないにせよ、真滉さんは瞳のうちに濃く悲愴を満たし、その凄切をもって、私を見つめ返した。

 「間違いなく、怒らせる。どう言っても。」真滉さんの声、言葉、どこをどう切り取っても哀哭は微塵もなく、何らの喪失も、何らの涙も、そこには存在しないのだろう。たとえ死んでも驚くことはなかったと、それだけの荷を下ろした話でありながらなお、あるのはきっと、恥なのだ。「だから、せめて偽りなく、ありのままを言う。」そして、特に私に対してこそ、恥ずべきことと、真滉さんは思っている。

 息を整えてから、真滉さんは言葉を繋ぎ、「文化祭で買った冊子で、篤芽あつめの小説を読んだ。」そしてさらに継がれた言葉で、私は息ができなくなった。

 「藤ノ木ふじのき篤芽は、俺を超える天才だと思った。だから、俺はもう書かなくていい、この子がいる。そう考えた。」

 何?

 いったい何を?

 私は今、いったい何を言われている?

 烏海奈尋が、語と語の連なりに過ぎないものを無二の宝玉に変え、雲上をほしいままにする天才が、あの烏海奈尋が!

 自らと伍するどころか、それを超える才を、自分の書く小説が不要だと思えるほどの才を、あろうことか、ただの高校生に見出したと?

 それが、私のうちにあると?

 何だ?

 もしこれがたちの悪い冗談でないのなら、いったい何なんだ?

 「未来の旦那さんのこと、疑いたくないです。私、これでいて、従順な妻が理想なので。でも、だって、でも! でも!」信じられるか、信じなければならないか。「真滉さん、本気ですか。本気でそれを言っているんですか?」認められるか、認めなければならないか。

 私の顔から生気が失われていくのとは反対に、ほんの少しだけ、どこか、真滉さんの顔に色が戻ったような気がした。

 「婚約解消されてないのは素直にありがたいけど、本気でそう思ったから、そして、今もそう思っているから、俺はそれ以来、何も書いていない。」

 一瞬の気の迷いでは、ない。

 私への評価が揺らいでいたなら、真滉さんはその時点で、書くことを再開していなければおかしい。

 ずっと?

 私はその時からずっと、真滉さんの中で、真滉さんを超え続けていた。「何も、何もわかりません。」烏海奈尋は、とうの昔に、藤ノ木篤芽に屈していた。「ちっとも、です。」たった今もまた同じく、変わらぬまま、藤ノ木篤芽は、雲上のさらに上に君臨している。

 それで?

 納得できるわけがない!

 「勝手に見つけて、断りなく物差しに使って、筆を折って、怒るのも無理はないと思う。」真滉さんはそんなことを真剣にのたまうのであるから、そのことについてこそ、本当に怒りたかった。ちまたに転がっているような女心と同じように推し量られたくなかった。あらゆる意味での藤ノ木篤芽を。

 「違います。」

 つきつめて言えば、ひとつどころに集約される不満だ。

 「知らないうちに戦って、烏海奈尋に勝っても、超えても、藤ノ木篤芽はちっとも嬉しくないと、そういう話をしています。」





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