#011 ラップを巻くところとか特に



 なぜか苦しくなり、声を絞り出すようになった。「いるわけないじゃないですか。」私は、フローリングを見ていた。真滉まひろさんを直視して言えなかった。「いるわけないって、」「真滉さんの代わりなんて、世界中のどこを探してもいません。真滉さんは、いいえ、烏海ううみ奈尋なひろは――天才です。」それは私の中で、一切の疑いのないことだった。「そうだね。あの時はそういう褒め言葉もずいぶんと頂戴した。」真滉さんは、一瞬だけ、どこか遠いところを見た。「謙遜しないところ、烏海奈尋らしいですね。」そういえば、インタビュー記事も、どこか少し鼻につく雰囲気だった気がする。「せっかく認めてくれてるのに、いちいち否定するのも失礼でしょ。」それは、ごもっとも、だ。

 「正直に言えば、烏海奈尋と合作できるんだとしたら、夢のようです。」「うん、まあ、そう言われて悪い気はしないけどさ、対等に立とうよ。」私は首を振った。真滉さんの申し出を拒む意味ではなかった。「けれど、私には烏海奈尋よりも烏野うの真滉の方が大切なんです。真滉さんを壊しちゃうかもしれないようなこと、できるわけがありません。」私は非常に深刻かつ真剣だったのだが、「たくあんが食べたいな。冷蔵庫にある?」と、間の抜けた(話の脈絡を完全に無視した)問いが、返す言葉の代わりに投げられた。

 一応、冷蔵庫のラインナップを思い浮かべてみるが、ない物はない。「何をいきなり。ないですけど。」「じゃあ、たくあん買いにスーパーへ行かない?」真滉さんは無邪気な笑顔で言った。ときめくけど腹も立つ。「どうしてそうなるんですか。」「昔、物書きで行き詰まった時、こう、かりかりと食べてたわけ。ふと、今も食べたくなって。」執筆作業のお供に、ということなのか。

 「小説、書くってことですか。」「そうなるね。」翻意ほんいしてくれる気はないらしい。「どうして、」「まだ夜までは時間がある。まずチャレンジしてみてもばちは当たらない。ダメそうなら、寝る前に諦めれば、俺はちゃんと眠れるんだからさ。」そう言われてしまうと、妥当な反対材料が浮かんでこない。真滉さんが大丈夫というものを、頭から疑う気にもなれないし。

 「たくあんだけ、そのまま食べるんですか。」結局、話がそれた。「昔はそうだったね。」「信じられないです。」ご飯と一緒だったとしても、私は漬物があまり得意じゃない。「嫌でもこれから目の前で見ることになるけど。」正直、見たくない。「というか、たくあんだけ食べるって、健康に悪くないですか。塩分的に。」「実際、あまり良くはないだろうから、篤芽あつめと結婚することになったら控えるよ。」それは脊髄反射に近かった。「真滉さん、私と結婚してください。」言ってしまった。私が言ってもらいたかったのに、自分で言ってしまった。「いいけど。」あっ、成立した。「こんなシチュエーションでプロポーズさせられる方の身にもなってくれませんか。」私は全力で真滉さんを睨む。「俺の好みで言えば、わりと理想的な形だったけど。」真滉さんは物好きだ。それはもう間違いない。

 何とも形容しがたい気持ちで、私は深いため息を吐いた。プロポーズをOKされてため息を吐くというのも、そうそうある話じゃないだろう。「スーパーに行くのはいいですけど、こういうわけですから、たくあんは遠慮してください。」「うん。行く意味ないな。書こう。」気付けば、スーパー行きそのものが中止になっていた。「そんなにたくあんが好きですか。」「烏海奈尋の代わりがこの世に存在しないように、たくあんの代わりも存在しないのだよ。」全くうまいこと言えてませんが。

 「一日ふた切れまでなら妥協します。」そして、やっぱり私は真滉さんに甘い。そもそも、喫煙に文句をつけていないのだから、たくあんだけ厳しく取り締まってもあまり意味がないように思われる。「それ、プロポーズが取り消されたりしない?」「しません。」ふと思ったんだけど、この人、プロポーズされたいと言うより、自分から言うのが面倒なだけなんじゃないかな。「よし、スーパーに行こうか。」「どれだけたくあんが好きなんですか。」真滉さんは、また、無邪気に笑った。「篤芽の次に。あるいは、篤芽と、ものを書くことの次に。」腹立つ。


 買い物かごを持った真滉さんの隣に並び、私はスーパーの店内を物色していた。本当にたくあんのためだけに行くのもしゃくだったので、入り用な物もひととおり買っていくことにした(真滉さんは、本気でたくあんだけ買って帰るつもりだったみたいだけど)。客の入りはそこそこだが、だだっ広いスーパーなので、混雑している雰囲気はない。

 私が指定する品物をかごに入れながら、「なんかカップルでスーパーに来てると、所帯って感じするね。」心なしか昂揚した様子で、真滉さんは言った。こういうの、慣れてそうなものだけど。生活感を伴う交際は少なかったのだろうか。「さっき勢いで婚約してしまいましたしね。」「流れで言わせたこと、根に持ってる?」一生持つと思います。「ちっとも。」「やっぱ時にはロマンスも必要かぁ。」当たり前です。

 「具体的にどうする。合作のやり方。」「やっぱりもう引き返せませんか。」一緒に書きたい気持ちは、確かにあるのだけれど。「少なくとも今夜、寝る時までは引き返せないね。何か書こうとして悶々としてる時に、体に異常が出るわけじゃないから。」「あえるソース、らくなんですよね。」私は、パスタソースの棚から、商品を手に取った。「篤芽のものぐさも相当だよね。出来合いのパスタソースをレンジで温める手間も面倒ってことでしょ。」あえるソースは、その名の通りえるだけ。一切の調理不要。「実際、面倒ですけど。」ラップを巻くところとか特に。

 「でも別に料理は苦手じゃないみたいだから不思議。」真滉さんには、何度か手料理を振る舞った。「あえるソースだけじゃ、倒れちゃいますしね。栄養的に問題がなければ三食全部あえるソースでもいいんですけど。」あと二十年くらい経った頃、SF的な、完全な栄養価のインスタント食品が作り出されないだろうか。「食の好みよりも簡便性が優先されるところ、篤芽らしくていいと思う。」真滉さんのお墨付きが得られたので、これからも(少なくとも私が母親になるまでは)自分らしく生きよう。

 「真滉さんが原作に回るってのはないと思います。烏海奈尋の文章は、美しいのひと言ですから。」真滉さんが文章を書かずに終わるだなんて、到底考えられない。「文学史を紐解けば、もっとうまい人、ごろごろいるけどね。」「仮にそうだとしても、うまいと美しいは違うんです。」どれだけ技術があっても、芸術性が伴わないこともあるだろう。「そういうものかな。」「そういうものです。」第一、私自身が真滉さんの文章を読みたいのだ。ここは譲らない。

 「でも、それを言ったら、篤芽の文章が表に出ないのももったいない。」「どう考えても見劣りしますけど。」いったい何を言い出すのか。「するものか。去年の文化祭の文芸部の冊子、俺は読んでるからね。」え、「あの時、悪のりして、叔父と姪の禁断の恋愛ものを書いてしまった自分を今すごく抹殺したいです。」珂雪かゆきが絶賛してくれた、『錆朱さびしゅ涓滴けんてき』を闇に葬るのは忍びないし、物書きとしてあるまじき願望だと自覚してはいるが、その前に私はひとりの(十代の!)女なのだ。恥ずかしいものは恥ずかしい。「やめてよ。俺の嫁を殺すのは。」「気が早すぎます。」そう言いつつ、心臓の高鳴りが抑えられない自分がいる。真滉さんの嫁。こんなに甘美な響きを持つ言葉はそうそうあるまい。

 「どちらの文章も出すとなると、視点切り替えとかですか。」「無難にリレー形式の路線かなぁ。凝ったことをする時間的余裕はないし。」確かに、視点切り替えを効果的に扱うための、綿密なプロットを組む余裕はないだろう。「それも悪くはないですが、少し物足りないような。」交代で書いていくというのは、結局は別々に書き進めているだけという感がある。

 「うん。単にリレーじゃ合作っぽくないから、少し工夫する。」「と、言いますと、」「役割分担を変えるだけにして、お互いが全シーンに関われるようにするんだ。第一パートでは、俺が原作、篤芽が執筆だったとすると、第二パートでは、篤芽が原作、俺が執筆に切り替わる。」なるほど。少し工夫すれば、リレーというのでも面白い。「いいですね。良い意味で自分の裁量が少なくなって。」できれば全シーン、私と真滉さんが協力して書きました、と、胸を張れる方が良い。

 「ま、せっかくの合作だから、むしろ自由はない方がいいよね。あれ、サトウのごはん、買わないの。」「買いませんよ。」なぜ買うと思われたのか。「レンジでチンしてご飯が炊ける。簡便性という点では、他の追随を許さないと思うけど。」それは否定しないけれど。「お米は日本人の命ですから、ちゃんと炊きます。」「そういう局所的なこだわり、篤芽らしくていいと思う。」あくまで、たくあんが好きなのであって、共に食べるはずの白米には興味がないんだな。


 換気扇の隙間から、夕陽せきようが漏れていた。私が冷蔵庫に買った物を入れている後ろで、早くも真滉さんはたくあんをかりかり噛んでいる。執筆のお供ではなかったのだろうか。待ちきれなかったのか。「これ、後々の展開をろくに考えずに、行き当たりばったりで書くやつだよね。」だいたいにおいて、リレー小説というのは、先を決めずに進む。「リレー形式と言うからには、そうでしょう。」しっかりしたプロットを組み立ててる時間もないし、曖昧なプロットでの合作は逆に迷子になりかねない。

 「なんとなくテーマというか、キーワードみたいなやつはあった方が良さそうだね。ぶれぶれになりそう。」そう言われて、私の脳裏にすぐ閃いた言葉があった。「時雨心地しぐれごこち、」「え、」「物語のキーワード、時雨心地っていうのはどうですか。」私としては、それ以外は考えられなかった。

 「それ、今の時期を考えると、時雨しぐれが降りそうな空模様ってことじゃなくて、転じた意味の方で言ってるよね。」時雨というのは、秋の終わりから冬の初めにかけてのもの。まだ時期としては早い。「まあ、あえて季節外れの話を書く意味はありませんしね。」ここで採用する時雨心地の意味は、涙が出そうな心持ち、というもの。私が、ずっと抱えている気持ち。「悪くないね。よし、キーワードは時雨心地で、ひとつ挑戦してみようか。」真滉さんは、ふた切れ目のたくあんを噛んだ。まだ一文字も書いてないのに。



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