#010 肺呼吸をできないのと同じ



 器に張った水に、白糸しらいと柚子ゆずの血と僕の血をそれぞれ垂らし、ふたりの血が混ざるか混ざらないか、彼女と僕が本当に血縁関係にはないのかを確かめてみたい。もし彼女が、白糸柚子としてではなく、例えば僕の姉としてそこに存在していたのなら、あるいは、僕のいびつな思慕は露ほどの正当性を得られたかもしれない。もっとも、それは僕にとっての慰みになるのみで、起きる事象にさしたる変化はなかろうし、殉情じゅんじょうに過ぎる僕は、その正当性すらもいとい、かなぐり捨てるかもしれない。

 流れていたのはロッカバラードだった。勤勉に揺れるスピーカーの膜をからかうように、雨滴が出窓に打ち付け、八分の十二拍子を無遠慮に踊らせてしまう。早朝にかけて、さらに雨量は増えるそうだ。もとより街灯の明かりは、この部屋にはろくに届かないが、窓もカーテンも閉め切っていた。デスクと画材と高級コンポだけが置かれた、この殺風景な部屋に這入はいり込んでくる雨音を、とてもじゃないが、許してやろうという気にはなれなかった。ただでさえ、最近はペン先が婀娜あだやかに走ってくれないというのに。

 雨は嫌いだ。

 世界は、いつまで経っても血を生みはしないから。それを重ねて確認させられるばかりだから。

 血は泉に湧かない、血は潮と共に満ちない、血は大地から噴かない。

 それは、薄い皮の下、僕らの筋とあぶらと骨の合間を縫って、駆け巡っている。

 彼女を傷つけなければ、その血汐ちしおに触れることはできない。



 ・ ・ ・ ・ ・ ・



「ノイローゼでしょ。そういうの、ノイローゼって言うんだよ」

 僕の話を聞いて、担当の塚根氏は、デニーズのロゴがプリントされたガラスの灰皿に、煙草の灰を落としながら言った。煙草と言うと誤解を招く。塚根氏の好むキャプテン・ブラックは、バニラフレーバーが用いられたリトルシガーであり、要は葉巻だ。

「医学的な分類で言うと、どうなんでしょうかねえ」

 僕は心胆の奥処おくかまで塚根氏に打ち明けたわけではない。雑談のついでに表層に触れたまでのことであるから、これでノイローゼであるなら、僕はとっくに病棟の中だろう。もちろんながら、白糸柚子の名は出さなかった。

「僕らは医学書の中に生きてるわけじゃないんだしさ、一般人の感覚的にはそういうノリでしょ。に、しても、アキちゃんの奴さあ、ノイローゼ悪化させるようなことばかりするんだから。『堕天使、悪魔、妖魔の大軍』って、シナリオだと一行で済むけど、これ見開きで書くとしてどんだけかかるんだって話よ。ほんと、自分の書く物語しか見えてねえの」

 渡されたシナリオには、そういう指定があった。クライマックスの始まりを告げる印象的なものであるから、原作者としてはどうしても欲するシーンであるだろう。

「僕ってたいがいマゾですから、その一行を読んで震えましたけど。良い意味で」

 被虐趣味を持つことは事実だが、僕がその一文を読んで打ち震えたのは、性的興奮によるものではなく、脳内に広がった物語のイメージに魂を持って行かれそうになったからだ。

「ノイローゼに加えて性的倒錯かあ。救い難いなぁ」

「救われようと思ってたら、漫画家なんてやってませんよ」

 僕はこれでいい。彼女が望むのであれば、どんな場面でも描いてみせる。それが、少なからず画才を持ち、彼女の才能に心酔している者としての喜びだ。盲目的な奴隷でかまわない。彼女が、白糸柚子がかなえ暁月あきづきという筆名で紡ぎ出す世界のいしずえとなれるのなら。




 ――――烏海ううみ奈尋なひろ『血は空から降らない』より抜粋ばっすい




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 家に着くなり、真滉まひろさんは、「さあて、合作の構想を練ろうか!」とむやみに明るく言った。

 「ちょっ、ちょっと待ってください。正気ですか。」「正気ですよ。」敬語で話してくる真滉さんというのも新鮮だな。そうじゃない。「だって、どう考えても私が浅はかだったって話じゃないですか、これ。」「人の彼女のことを、安易にけなさないでくれる?」真滉さんは真顔だった。私が私をおとしめると、真滉さんの彼女が悪く言われたことになるのか。「だって、私が考えなしで。真滉さんがあんなに苦しいことになって、理由も聞いて、それで、」「俺は、篤芽あつめに話を持ちかけられて、一緒に書くと言った。そうだよね。」即断ではなかったが、真滉さんは深く迷い悩むこともなく、書くと言った。「それは、でも、」真滉さんは、私が書いて欲しいと言えば、きっと――

 私の言葉を遮るように、おどけて、やれやれという仕草をしてから、「何か誤解してないかな。俺だって、何でも言うことを聞くわけじゃない。篤芽の願いを拒むもののひとつやひとつあるよ。」と、真滉さんは言った。「ひとつしかないじゃないですか。」「別れてくれ、って言われたら全力で拒む。」やはり真滉さんは真顔だ。

 「私からそれを言うことは物理的にあり得ないので、実質的に何でもお願いを聞いてくれることになりますけど。」別れて欲しいなんて言えるわけがない。魚が肺呼吸をできないのと同じだ。「勢いでプロポーズでもしてみる?」「今、私、言いましたよね。別れてくれって言うことはあり得ないって。」それを聞いて、真滉さんは得心とくしんいったとでも言うように頷いた。「ああ。じゃあ、そういうことなら、これからは、」「こんなどさくさに紛れた婚約成立は御免ごめんこうむります。」結婚式でこんなエピソードを語りたくはない。「今さら、俺たちにロマンスとかそういうの必要かな。」私がまだ十代の女だってこと、忘れてませんか。それに、私たちが付き合い始めてから二週間も経ってませんが。真滉さんに私と結婚する意思があることは絶対に忘れまい。

 「まあ、落ち着いて。よく冷えた麦茶でも飲もう。」と、真滉さんがクッションに座ったので(つまり、私が麦茶を用意するしかなくなったので)、私は素直に「あ、はい。」と頷いた。この人、私の扱い方を心得てきた気がする。いいことなのだろうか。私はエアコンのスイッチを入れてから、玄関(及びキッチン)へ引き返した。


 ホットの飲み物はべて紙コップに注ぐが、コールドの飲み物は半透明なプラスチックカップに注ぐ。ものぐさにも美意識というものはある。真滉さんはそのカップで、二杯目の麦茶を美味しそうに飲み干した。

 「単刀直入に聞くよ。今回の企画は受けてしまって、もう断れないとして、今から俺の代役を立てるとしよう。親友か先輩か後輩かはわからないけど、他にタッグの相手を求めたとして、それでいいの?」「いいも何も、それしか、」カップの外側を、水滴が滑る。

 「藤ノ木ふじのき篤芽の才能は、それで満足できるの?」

 私はもう、かつて真滉さんがどんな作品を書いていたかを知っている。

 烏海奈尋の代役なんて、どこにも存在しない。



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