#009 晩夏の匂いだけがする



 私の住むアパートの最寄り駅、西逢館駅にしおうだてえきから二駅のところに、神手湖駅こうでこえきはある。宇潮神手線うしおこうでせんの終着駅であるここへは、隣接していた遊園地が盛況だった頃はよく訪れたが、閉園してしまってからは来なくなって久しい。すっかり寂れてしまっていて、四番線まであるホームも今ではひとつしか使われておらず、かつての面影は容易には見てとれない。遊園地の施設ももはやなく、跡地は一部がチューリップの花畑になったのみで、残りはただ緑地となっている。この駅の近くの墓地に、水渓みずたに結花ゆうかが眠っているのだという。

 「真滉さん、自分から言うと信憑性しんぴょうせいに欠けるかもしれませんが、私、妬いたり束縛したりするタイプじゃありませんよ。」そう言いながら、改札機にパスネットを通して外へ出た。ワンピースにじわりと汗がしみるのがわかった。昨日の涼しさが嘘のように、外気は熱を帯びている。駅舎の外に出るなり、真滉さんは煙草に火をつけた。落ち着かないのかもしれない。「わかってる。」と、つい昨夜(日付としては今日!)まで私が尽くす女だと気付いていなかった真滉さんは言った。「いい加減、水渓結花さんと真滉まひろさんの関係性を教えてくれてもいいでしょう。」名前しか知らない人の墓参りに行っても、冥福の祈りようがない。

 「ないんだ。」と、煙を吐き出すついでのように真滉さんは言った。「ない、って、」「関係性。ないんだよ。水渓結花と俺は全くの無関係。赤の他人なんだ。」そう言う真滉さんは、どこか残念そうにも見えたし、そのことに安堵しているようにも見えた。「でも、こうして墓参りには行くわけですよね。」もともとは真滉さんがひとりで来るはずだったここへ、真滉さんの願いで私も共に来た。こうなったからには、知って欲しい、そう言っていた。

 アスファルトが照り返す熱を浴びながら、私たちは歩き出す。辺りに人気ひとけはなく、晩夏の匂いだけがする。「加害妄想と言うべきなのかな。水渓結花は、俺が殺したって、そう思うんだ。」「もし本当に真滉さんが殺人を犯しても、出てくるまで待っててあげますから、自首なり出頭なりしてくださいね。」話がちっとも見えてこないので、こんな返し方しかできなかった。「ひょっとして、篤芽あつめってすごく一途?」本当に、この人はいったい私の何を見て抱こうと思ったのだろう。「真滉さん、私がシールを貼る姿にときめいたとかじゃないですよね。」嫌な予感がした。「え、ときめいたけど。」聞きたくなかった。


 このあたりには墓地が点在している。私たちが辿り着いたのは、小高い山の中腹にひっそりとある、さして大きくもない一画だった。ここから神手湖こうでこ逢館市おうだてし水瓶みずがめとなっている人造湖)を見下ろすことができる。かまびすしい蝉の鳴き声も、光をたたえる湖面を見ながら聞けば風流に思えてくる。道中で買った花と線香を手に、真滉さんは区画の奥へ進んだ。

 水渓家の墓は奥まったところにあったが、真滉さんは迷わずに辿り着いた。「こういう時の作法って、そういえば知らないです。」墓を前にして怖じ気づいた私だったが、「人と人との付き合いなんだから、適宜てきぎよろしくやればいいでしょ。」と、真滉さんはあっさりしたもので、ためらわずに花を挿した。「俺なんかに来られても嬉しくないと思うけど、花に罪はないから、それで勘弁してよ。」と言い添えた。

 「生前の結花さんに、何があったんですか。」詮索する趣味はないが、これは聞くべきだと思った。真滉さんは、「後で話すよ。ここで話して、彼女に嫌なことを思い出させたら悪い。」と言って、線香の包みを開けていた。


 神手湖駅のホームを訪れる四両編成の車両は、三十分に一度しか来ない。タイミング悪く改札を通ってしまった私たちは、あと二十数分、ホームのベンチで座っている必要があった。日陰ではあるものの、風通しが悪く、服の中に熱気がもる。「さっきの話だけど、」と、何でもないことのように真滉さんは切り出した。

 「水渓結花は、三年前の夏に亡くなった。殺されたんだ。同じ高校の男子生徒にね。ニュースでもずいぶん騒がれた。」言われて思い出す。三年前、隣の市で、高校生が高校生を刺し殺す事件が確かに起きていた。「篤芽の記憶力なら、細かく覚えてると思うけど、」確か殺害動機は、無理心中をしようとした、ということだったはず。「どうしてそれが、真滉さんに加害意識を持たせることになるんですか。」縁もゆかりもないふたりの問題のはずだろう。

 「本があったわけ。」「本?」真滉さんの目は、駅舎の合間に覗く中空を向いている。「加害者の男子生徒の本棚にさ、俺の本が並んでたんだよ。ご丁寧に三冊ずつ。知られていないはずの、別名義で書いたものも含めて、全部ね。熱心なファンだったということなんだろうな。」それは、本来なら喜ばしいことだったのかもしれないけれど。「そのことを人づてに聞いて、思い出した。俺のデビュー作って、無理心中を美化して書いた悲恋だったなって。」「それは、」文学性をかもすという点では、ひどく間違った題材だとは言い難い。「実際に、その男子生徒の部屋に、無理言って入らせてもらったけどさ、俺のサイン本が四冊ほど飾られてたよ。もちろん、デビュー作のも含めて。」

 真滉さんの視線は今、過去に向いているのだろう。「こういう言い方が正しいかはわからないけど、見習っちまったんだろうな。」真滉さんは、ズボンのポケットに無意識で伸ばしたらしい手を止めた。ここは駅の中で、煙草を吸うことはできない。「その場で土下座した。男子生徒のご両親にね。それしかできなかった。」そう言ってから、真滉さんはベンチに深くもたれた。「もちろん、俺には何の罪もない。けれど、どう言いつくろったところで、水渓結花の死の背景には、俺の作品があるんだ。」私の記憶力は、私が望まずとも情報を引っぱり出してきてしまう。無理心中を文学的に書き上げて賞を取った作家がいた。一時いっとき文壇ぶんだんをリードしたその作家は、約三年前から名を見なくなっていた。その作家の処女作は、私の本棚にも並んでいる。

 「理屈じゃわかる。包丁と同じで、男子生徒は使い方を間違えただけなんだって。正しく使えば、包丁が多くの人を幸福にしているように、俺の小説だって、誰かを幸せにできるって。でも、それがわかってたからって、結局どうにもできなかったね。」真滉さんは今、ゲームショップの店員をしていて、作家というのは過去の仕事だ。「俺が何を書いても、どこかで誰かが死んでしまうような気がする。それはある意味で正しいんだ。絶対に安全な包丁が、この世のどこにもないように。」私は、真滉さんの処女作を読んだ時に感動のあまり泣いたことを、はっきりと覚えている。無理心中が、つまり殺人がどれほど愚かなしきことであるか、重々承知でいながら。

 「はっきりと書けなくなったんだ。何かを書こうとすればするほど、もがけばもがくほど。やがて、満足に眠ることすらできなくなっていった。昨夜ゆうべみたいにね。」私は、自分の軽率な願いのために、真滉さんを狂瀾きょうらんの中へ引き戻そうとしているのか。



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