#008 背を向けていてよかった
夢の中。
私は紫色の原野を
かりそめの夜が、
切り株になってしまった老樹に腰かけて、
視界はぼやけ、世界のありようが掴めなくなっていく。
決して泣いてはいないのに。
そして私は、
手にじっとりと汗が滲んでいる。見ていた夢の記憶はない。悪夢でも見ていたのだろうかと思っていたのはわずかのこと。すぐにおかしなことに気づいた。右手は一切、汗をかいていない。
「真滉さん、」そっと声をかけると、返ってきたのは静かなうめき声だった。「真滉さん?」様子がおかしいと思い、枕元の電気スタンドをつけ、布団を剥がすと、私は目の前の光景に色を失った。
真滉さんの四肢は震え、手だけではなく、全身に異常なほどの発汗がある。何も着ないまま寝ていたので、汗の滴りがシーツに染みこんでいく。食いしばられた歯の奥から、苦しげな呻きが漏れる。「真滉さん、真滉さん!」名前を呼ぶが、明瞭な返事は返ってこない。
軽く頬を叩き、さらに名前を呼ぶが、はっきりとした反応はない。「一一九番しますね。」救急車を呼ぶ必要があると思い、私は裸のままベッドから這い出る。デスクの上にある携帯電話の充電スタンドまで手が伸びたところで、真滉さんから、やっと言葉らしい言葉が返ってきた。「待った、大丈夫、救急車を、呼ぶようなものじゃない、から。」目覚めた真滉さんが、半身を起こそうとしていた。
「真滉さん、大丈夫なんですか。」真滉さんはベッドの
真滉さんの体をタオルで
空になった紙コップをちゃぶ台に置くと、真滉さんは「
「俺ってもしかして果報者かな。もう一杯飲みたい。」と、真滉さんが言うので、私は素直に「はい。」と、頷き、キッチンへ。電子ケトルに水を注ぎながら、キッチンから部屋へ、背中を向けたままで続けた。「尽くしてくれるすっごく美人な婚約者がいれば、十二分に果報者です。」つい
「そういう切り返ししますか。」「あと、確かに篤芽は美人だけど、すっごくと強調するほどではないね。」それは残念ながら、疑いの余地のない事実だろう。けれど、今この場で真滉さんの口から発せられるべきものじゃないはずだ。私の知るデリカシーの意味が間違っていないなら!「私の愛を試してるんですか。」部屋に戻ると、真滉さんは薄く笑っていた。「自分の幸せを試してるんだよ。」真顔で言われるよりずっと腹立たしかった。「真滉さんの幸せって私からの愛とイコールですよね。」「残念ながら、俺の幸せは篤芽の愛だけってわけじゃないね。」そりゃまあ、新作ゲームとかレトロゲームとかトレーディングカードゲームとか(これについても真滉さんの家の収納に山と積まれていた)、いろいろあるんでしょうけど。「やっぱり試してるのは私の愛ですよね。」間違いない。
軽口の応酬をして、私は胸をなでおろす。「落ち着いたみたいですね。心配しました。」とにかく、真滉さんが無事でいてくれてよかった。私はいくぶん機嫌を良くして、電気ケトルをセットしてスイッチを入れた。「もう平気になってるんじゃないかって、ちょっと期待してたんだけど、」そう言う真滉さんの声は、どこか自嘲的な雰囲気を含んでいた。「よくあった、って言ってましたけど、持病か何かあるんですか。」パートナーとして、健康に関することは把握しておかなければ。「持病、と言うのはちょっとニュアンスが違うね。」「つまり、何かはあるんですよね。」どうも濁されてしまう。今すぐにというのが望めなくても、
真滉さんは、視線をそこにやらないまま、指だけを差した。「あれ、本棚。」「本棚?」示された先には、私の本棚がある。さして大きくもない。特にお気に入りの本だけを収めて実家から持ってきたものだ。並んでいる本は全部で百冊もないだろう。「あそこにさ、俺の書いた本があった。」「えっ、」真滉さんが作家として書いた本を、私はすでに読んでいるということ?「それで意識しちゃったのもあるんだろうな。」「意識って、」何を思ったというのだろう。
真滉さんは詳しい説明をするでなく、話題を逸らした。「篤芽、明日ってバイトなかったよね。」「ええ。真滉さんは朝からですよね。」真滉さんのシフトは全て覚えている。「それ、昨日のうちに
真滉さんは罪を告白するかのように、ぽそりと言った。「言う気なかった。ひとりで、こっそりと行きたいところがあったから。」「他の女のところとか。」あまりしんみりしてもいけないと、やはり戯けてみたのだが、「あながち間違いでもないな。」と、言われてしまってはさすがに笑えない。「愛を試すにも、もう少しやり方ってものがありませんか。」さすがにハードモードではありませんか。
「墓参りに行きたかったんだ。」「お墓?」真滉さんの視線は、どこか遠くを求めてさまよっている。「篤芽、」「はい。」呼びかけとともに私の目を捉えてくれたので、私は素直に返事をした。「篤芽の愛を試していい?」今さら?「今までのは試したうちに入らないとでも言うつもりですか。」私が意外と尽くす系だと真滉さんが気付いたように、真滉さんが意外と横暴だと私も気付き、断ずるべきなのだろうか。
真滉さんは無邪気な顔で、「寝たくないんだ。どうせまた同じようなことになるから。朝までゲームに付き合ってくれない?」と言ったので、私は煮えくりかえるやらときめくやらで忙しく、「ドカポンでもやりますか。」という返事しかできなかった。私の大得意なボードゲームだ。「なんで弱ってる彼氏にさらに追い打ちをかけようとするわけ。」真滉さんは遺憾だとばかりに表情を曇らせたのだが、その表情は私こそが浮かべたい。「いただきストリートでもいいですよ。」そう言うのが精一杯だった。「ああ、つまり、怒ってるんでしょ。」「全然!」やっと気付いた。
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