#008 背を向けていてよかった



 夢の中。

 私は紫色の原野をく。言葉に誘われるまま、盲目的に、前へ。前へ。

 花魁鳥おいらんどりがさえずるのは、語彙ごいと語彙の駆け引き。愛の歌。凱歌がいかと鎮魂歌。

 かりそめの夜が、羽撃はうつ音に擾乱じょうらんされて、朝暉ちょうきに焦がれる蛇が尻尾しっぽを呑む。

 切り株になってしまった老樹に腰かけて、う糸を探すけれど、涕涙ているいが滲む視界ではちっともおぼつかない。

 視界はぼやけ、世界のありようが掴めなくなっていく。

 決して泣いてはいないのに。

 時雨心地しぐれごこちのままなのに。


 そして私は、うめき声を聞いて目を覚ます。


 手にじっとりと汗が滲んでいる。見ていた夢の記憶はない。悪夢でも見ていたのだろうかと思っていたのはわずかのこと。すぐにおかしなことに気づいた。右手は一切、汗をかいていない。真滉まひろさんの手を握った左手だけが汗にまみれている。すぐにわかった。これは真滉さんのものだ。

 「真滉さん、」そっと声をかけると、返ってきたのは静かなうめき声だった。「真滉さん?」様子がおかしいと思い、枕元の電気スタンドをつけ、布団を剥がすと、私は目の前の光景に色を失った。

 真滉さんの四肢は震え、手だけではなく、全身に異常なほどの発汗がある。何も着ないまま寝ていたので、汗の滴りがシーツに染みこんでいく。食いしばられた歯の奥から、苦しげな呻きが漏れる。「真滉さん、真滉さん!」名前を呼ぶが、明瞭な返事は返ってこない。

 軽く頬を叩き、さらに名前を呼ぶが、はっきりとした反応はない。「一一九番しますね。」救急車を呼ぶ必要があると思い、私は裸のままベッドから這い出る。デスクの上にある携帯電話の充電スタンドまで手が伸びたところで、真滉さんから、やっと言葉らしい言葉が返ってきた。「待った、大丈夫、救急車を、呼ぶようなものじゃない、から。」目覚めた真滉さんが、半身を起こそうとしていた。

 「真滉さん、大丈夫なんですか。」真滉さんはベッドのきわの壁に背を預け、息を整えてから答えた。「大丈夫。よくある、と言うよりは、よくあったことなんだ。命に関わるものじゃないし、病院に行ったところで、何か処置ができるものでもない。」真滉さんは無惨にも思えるほどに汗だくだった。「タオル、用意しますね。」「助かるよ。」時計を見る。寝入ってから一時間半ほどだろうか。真滉さんはひどく困憊こんぱいしている様子だ。この短い間に何があったというのだろう。


 真滉さんの体をタオルでぬぐってから、私はシーツを取り替え、夏用の掛け布団の代わりとしてタオルケットをロフトから引っぱり出した。シーツも布団もすっかり湿ってしまっていて、そのまま寝直すことはできなかったからだ。その間、真滉さんにはホットココアを飲んでいてもらった(ちなみに真滉さんはボクサーブリーフだけ。私もショーツだけ)。

 空になった紙コップをちゃぶ台に置くと、真滉さんは「篤芽あつめって、尽くす系?」と、出し抜けに聞いてきた。「今頃気付いたんですか。」これもやっと知ったとなると、この人は私の何を気に入って付き合うことにしたのだろう。物好きなのか。「もっと自由な気風の人かと思ってた。」「方々ほうぼうに親切にして回ってるわけじゃありませんしね。」博愛主義というわけではない。とは言え、真滉さん以外はシャットアウトってわけでもないのだけど。

 「俺ってもしかして果報者かな。もう一杯飲みたい。」と、真滉さんが言うので、私は素直に「はい。」と、頷き、キッチンへ。電子ケトルに水を注ぎながら、キッチンから部屋へ、背中を向けたままで続けた。「尽くしてくれるすっごく美人な婚約者がいれば、十二分に果報者です。」ついおどけて大げさに言ってしまったのだが、「俺たちいつ婚約したっけ。まだ責任を取りたくはないんだけど。」と、真滉さんはつれない限り。背を向けていてよかった。それを真顔で言うところを見ていたら、水をかけていただろう。

 「そういう切り返ししますか。」「あと、確かに篤芽は美人だけど、と強調するほどではないね。」それは残念ながら、疑いの余地のない事実だろう。けれど、今この場で真滉さんの口から発せられるべきものじゃないはずだ。私の知るデリカシーの意味が間違っていないなら!「私の愛を試してるんですか。」部屋に戻ると、真滉さんは薄く笑っていた。「自分の幸せを試してるんだよ。」真顔で言われるよりずっと腹立たしかった。「真滉さんの幸せって私からの愛とイコールですよね。」「残念ながら、俺の幸せは篤芽の愛だけってわけじゃないね。」そりゃまあ、新作ゲームとかレトロゲームとかトレーディングカードゲームとか(これについても真滉さんの家の収納に山と積まれていた)、いろいろあるんでしょうけど。「やっぱり試してるのは私の愛ですよね。」間違いない。

 軽口の応酬をして、私は胸をなでおろす。「落ち着いたみたいですね。心配しました。」とにかく、真滉さんが無事でいてくれてよかった。私はいくぶん機嫌を良くして、電気ケトルをセットしてスイッチを入れた。「もう平気になってるんじゃないかって、ちょっと期待してたんだけど、」そう言う真滉さんの声は、どこか自嘲的な雰囲気を含んでいた。「よくあった、って言ってましたけど、持病か何かあるんですか。」パートナーとして、健康に関することは把握しておかなければ。「持病、と言うのはちょっとニュアンスが違うね。」「つまり、何かはあるんですよね。」どうも濁されてしまう。今すぐにというのが望めなくても、近々きんきんのうちに知っておきたいことだ。

 真滉さんは、視線をそこにやらないまま、指だけを差した。「あれ、本棚。」「本棚?」示された先には、私の本棚がある。さして大きくもない。特にお気に入りの本だけを収めて実家から持ってきたものだ。並んでいる本は全部で百冊もないだろう。「あそこにさ、俺の書いた本があった。」「えっ、」真滉さんが作家として書いた本を、私はすでに読んでいるということ?「それで意識しちゃったのもあるんだろうな。」「意識って、」何を思ったというのだろう。

 真滉さんは詳しい説明をするでなく、話題を逸らした。「篤芽、明日ってバイトなかったよね。」「ええ。真滉さんは朝からですよね。」真滉さんのシフトは全て覚えている。「それ、昨日のうちに羚士れいじに代わってもらった。」「えっ、そういうの早く言ってください。」真滉さんとカゴちゃん先輩は仲がいいのか悪いのか、いまいちよくわからない。

 真滉さんは罪を告白するかのように、ぽそりと言った。「言う気なかった。ひとりで、こっそりと行きたいところがあったから。」「他の女のところとか。」あまりしんみりしてもいけないと、やはり戯けてみたのだが、「あながち間違いでもないな。」と、言われてしまってはさすがに笑えない。「愛を試すにも、もう少しやり方ってものがありませんか。」さすがにハードモードではありませんか。

 「墓参りに行きたかったんだ。」「お墓?」真滉さんの視線は、どこか遠くを求めてさまよっている。「篤芽、」「はい。」呼びかけとともに私の目を捉えてくれたので、私は素直に返事をした。「篤芽の愛を試していい?」今さら?「今までのは試したうちに入らないとでも言うつもりですか。」私が意外と尽くす系だと真滉さんが気付いたように、真滉さんが意外と横暴だと私も気付き、断ずるべきなのだろうか。

 真滉さんは無邪気な顔で、「寝たくないんだ。どうせまた同じようなことになるから。朝までゲームに付き合ってくれない?」と言ったので、私は煮えくりかえるやらときめくやらで忙しく、「ドカポンでもやりますか。」という返事しかできなかった。私の大得意なボードゲームだ。「なんで弱ってる彼氏にさらに追い打ちをかけようとするわけ。」真滉さんは遺憾だとばかりに表情を曇らせたのだが、その表情は私こそが浮かべたい。「いただきストリートでもいいですよ。」そう言うのが精一杯だった。「ああ、つまり、怒ってるんでしょ。」「全然!」やっと気付いた。



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