#007 これで遊び紙も入れられる



 八月末日、秋を先取りしたような涼しい昼下がりに、私は部室棟の金属剥き出しの階段を上っていた。ここ、逢館おうだて高校には制服という物がなく、皆が私服で通う。こうして卒業生が紛れ込んでも気づかれないので、誰に見咎められるでもない。

 文芸部の部室に入ると、朔良さくらちゃんが、「あっちゃん先輩、ちわーっす。」と満面の笑みで迎えてくれた。私もそれに合わせて、「ちわっす。」と返す。ソフトボール部にも入っている朔良ちゃんは、びっくりするくらいに日に焼けていた。ちなみに、三番・ライトが定位置とのこと。

 部室はきっちりと整理整頓がなされ、私や珂雪かゆきが在学していた頃と比べて、見違えるほどの落ち着いた雰囲気をこれでもかと放っていた。これも、朔良ちゃんの部長としての手腕によるものだろう。置かれた鞄はひとつだけで、今日ここに来ているのは朔良ちゃんひとりのようだ。

 「いやー、あっちゃん先輩が乗ってくれて、ほんとありがたいったらないです。採算分岐点に届くか、ギリギリのラインだったので。」朔良ちゃんの笑顔はいつも眩しい。日に焼けたはずの肌なのに艶がある。「採算分岐点って?」「要するに、黒字になるか、ならないか。」相変わらず、朔良ちゃんは商魂たくましいようだった。去年の文化祭も、当時は会計だった朔良ちゃんが辣腕らつわんを振るってくれたおかげで、めでたく黒字となっていた(と、言っても、収益分は文化祭実行委員会に納めることになる)。「二三年生にはあっちゃん先輩の信者が多数いますからね。レジェンドの復活となれば食いつきますよ。」「信者って、レジェンドって、」そんな大仰な言い方をしなくても。「そう言うしかないんだから、仕方ありません。」朔良ちゃんはにやけている。商人として笑みが止まらないということなのだろうか。

 さて、と朔良ちゃんは腰を下ろし、ちゃぶ台に置かれたノートを広げた。「あっちゃん先輩、どのくらい書きます?」ペンを持ち、朔良ちゃんは尋ねてくる。冊子を作る際、前もって各自どれくらいの分量を書くか、申し合わせておく。実際に原稿が集まった時に、ページ数が極端に多かったり少なかったりしては困るからだ。「原稿用紙三十枚くらい。載せる余裕ある?」「どうとでもします。むしろ少なすぎるくらいです。」頼もしいのだけれど、どこかそら恐ろしさも感じてしまう。

 朔良ちゃんは、必要なことをノートに書きつけながら、「そういえば、誰と組むんです?」と、聞いてきた。「私の十一学年上の先輩なんだけど、」まさか、匿名希望と言うわけにもいかないし、もとより隠すことでもない。「マヒロさんですか。」「うぇ、」いきなり名前を先取りされたので、変な声が漏れた。「珂雪先輩が言ってました。マヒロに私の篤芽あつめを取られた、って。」私が珂雪のものだったことは一度もないのだけど。一応、後でフォローのメールを送っておこう。

 「うん、その真滉まひろさん。」私は素直に認める。「ラブラブですか。」「あ、はい。そうです。」これも素直に認める。それを聞いて、朔良ちゃんはあからさまににやついた。「よし、暴露はしないまでも、それとなく匂わせておこう。これで遊び紙も入れられる。」つまり、ゴシップで売り上げアップが期待できるから、冊子の装丁を凝ることができるということだろう。

 ノートを閉じて、立ち上がった朔良ちゃんは、「あっちゃん先輩、今ちょっと時間あります?」と出し抜けに言った。「十八時からSHAABシャーブだから、それまでなら。」「シャーブ?」スウィートハニー甘々バイトタイム。「あえてぼかして言うと、お金を稼げる逢瀬おうせ。」「犯罪の臭いしかしませんけど。」私もそう思う。


 朔良ちゃんに誘われるままにしていたら、気がつけば神社の手水舎ちょうずやで手を清めていた。木々に囲まれ、木漏れ日とともに、蝉時雨せみしぐれが降り注いでくる。「何で神社なの。」「困った時の神頼みってやつです。」そう言う朔良ちゃんの表情は少しも深刻そうには見えない。「文化祭の準備は順調そうに見えたけど。」たとえ少々の困難があっても、朔良ちゃんならものともせずに進むだろう。

 朔良ちゃんは首を横に振った。「あたしじゃないです。あっちゃん先輩のこと。小説が書けなくなってるって聞きました。」私がそのことを漏らした相手は、たったひとりだ。「珂雪ってほんとお喋りだよね。そのくせ、何か隠し事をされるとねる。」「あっちゃん先輩が好きなんですよ。」私のことをおもんぱかった愛の形を、どうにか実現してもらえないだろうか。

 朔良ちゃんは手のみならず、頭にも水をかけて、「ひゃー、気持ちいい。」と言った。短い黒髪に散った水滴をきらめかせながら、こちらに振り向く。「書けないのに、どうして企画に乗ってくれたんです?」「それは、」どう言ったらいいものだろうか。「原稿が上がらないことを心配してるわけじゃないです。純粋な後輩の疑問。」朔良ちゃんが私を見る視線は、真っ直ぐだった。「その方がよっぽどごまかせない。」「狙って言いました。あは。」朔良ちゃんは朔良ちゃんで、人が悪い。

 「なかったの。」真滉さんの前では言わなかったこと。「なかったって、」「真滉さんの家に、本が一冊もなかったの。」「本?」私が不自然に思ったことは、真滉さんも気付いていただろう。「そのままの意味。小説も何もかも、どこにもなかった。ゲームを借りる時に収納も見たけど、そこにもない。ゲームばっかり。というか、バーチャルボーイはいいとして、なんでリンクスまで持ってるの?」「はあ、」リンクスはアメリカの携帯ゲーム機。単三のアルカリ乾電池六本で、実動がせいぜい三時間というモンスターマシンである。「理由はあるんだろうけど、やっぱりそれは寂しいなって思ってて、」「それはまあ、確かに。」本が家になくたって、誰に責められることでもない。けれどそれは本当に、真滉さんが望んだあり方なのだろうか。「もともとは、他の誰かと組むことを考えてみてたけど、ピンとこなかった。ふと、真滉さんも逢館の卒業生なんだって思い出した時、全てが繋がった。」

 真滉さんには伝えなかった、私の願い。「あの家に、たった一冊だけでも、私と真滉さんの小説が載った冊子だけでも、置いていてほしい。」確かに、再び真滉さんに小説を書いてほしい、書き続けてほしい、という気持ちはある。けれど、そこまでは私が望むべきことじゃないと思う。

 私の話を聞いた朔良ちゃんは、これ以上ないほど、にやついていた。私は何かおかしなことを言っただろうか。「それなら、その冊子に他の人たちの作品が載っているというのは、いささか野暮じゃありませんか。」「野暮って、」もともと、みんなのコラボ作品を載せるという趣旨の冊子なはず。

 朔良ちゃんは、びしっと右手の人差し指を立てた。「原稿用紙三十枚って言ってましたけど、百枚以上書く気ないですか。」百枚、を指で示しているのだろう。「あ、うん。もともと、どうせ書くならそのくらいのがいいね、って話をしてた。」話をしてみると、私も真滉さんも短編が得意なタイプではなかった。むしろ逆。「はい、言質げんちいただきました。」「言質って、」朔良ちゃんは右手はそのままに、左手の指を三本立てた。「百枚以上三百枚以内でお願いします。データ入稿で。一太郎でしたっけ?」私は普段、一太郎というソフトを使って執筆している。「一太郎だけど、いったい何がどう進もうとしているの?」「まあまあ、細かいことを気にしてたら、無情の憂き世を渡っていけないですよ。」朔良ちゃんはにやつくばかりで、答えを教えてくれる気配はない。「細かいかな、これ。」どんなに迫ってもはぐらかされるだろう。ここで何のお守りを買って帰るか考えているほうが、よっぽど有意義に思えた。

 恋愛は成就したから、商売繁盛、あるいは、安産?



 シャッターを降ろして、鍵をかけて、ゲームステーション・かぐや堂の本日の業務は無事に終了となった。街灯の連なりを望みながら、夜が、さらにその色を深めていこうとしている。これから、私と真滉さんは同じ家に帰る。

 「言っておきますけど、淫らなことは控えめに。」下心を優先しがちな人だから、これについては念を押しておこう。「本当にやるわけ。」ちなみに向かうのは私の家。真滉さんの家だとゲームに逃げそうだから。「だって、もとから書けないふたりが一週間で二百枚書こうと思ったら、合宿ぐらい決行して然りだと思いませんか。」真滉さんはお手上げのポーズをした。「一分の隙もない完璧な論理展開だね。」「ですよね。」真滉さんには自宅にあるノートパソコンを持ってきてもらった。帰りがけにコンビニで食料やらドリンク剤やらを買っていこう。「一日何回まで?」真滉さんは煙草に火を付けながら聞いてきた。どうやら念押しが足りなかったらしい。「せめて一日一回にしてください。」そして私は真滉さんに甘い。



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