#007 これで遊び紙も入れられる
八月末日、秋を先取りしたような涼しい昼下がりに、私は部室棟の金属剥き出しの階段を上っていた。ここ、
文芸部の部室に入ると、
部室はきっちりと整理整頓がなされ、私や
「いやー、あっちゃん先輩が乗ってくれて、ほんとありがたいったらないです。採算分岐点に届くか、ギリギリのラインだったので。」朔良ちゃんの笑顔はいつも眩しい。日に焼けたはずの肌なのに艶がある。「採算分岐点って?」「要するに、黒字になるか、ならないか。」相変わらず、朔良ちゃんは商魂たくましいようだった。去年の文化祭も、当時は会計だった朔良ちゃんが
さて、と朔良ちゃんは腰を下ろし、ちゃぶ台に置かれたノートを広げた。「あっちゃん先輩、どのくらい書きます?」ペンを持ち、朔良ちゃんは尋ねてくる。冊子を作る際、前もって各自どれくらいの分量を書くか、申し合わせておく。実際に原稿が集まった時に、ページ数が極端に多かったり少なかったりしては困るからだ。「原稿用紙三十枚くらい。載せる余裕ある?」「どうとでもします。むしろ少なすぎるくらいです。」頼もしいのだけれど、どこかそら恐ろしさも感じてしまう。
朔良ちゃんは、必要なことをノートに書きつけながら、「そういえば、誰と組むんです?」と、聞いてきた。「私の十一学年上の先輩なんだけど、」まさか、匿名希望と言うわけにもいかないし、もとより隠すことでもない。「マヒロさんですか。」「うぇ、」いきなり名前を先取りされたので、変な声が漏れた。「珂雪先輩が言ってました。マヒロに私の
「うん、その
ノートを閉じて、立ち上がった朔良ちゃんは、「あっちゃん先輩、今ちょっと時間あります?」と出し抜けに言った。「十八時から
朔良ちゃんに誘われるままにしていたら、気がつけば神社の
朔良ちゃんは首を横に振った。「あたしじゃないです。あっちゃん先輩のこと。小説が書けなくなってるって聞きました。」私がそのことを漏らした相手は、たったひとりだ。「珂雪ってほんとお喋りだよね。そのくせ、何か隠し事をされると
朔良ちゃんは手のみならず、頭にも水をかけて、「ひゃー、気持ちいい。」と言った。短い黒髪に散った水滴をきらめかせながら、こちらに振り向く。「書けないのに、どうして企画に乗ってくれたんです?」「それは、」どう言ったらいいものだろうか。「原稿が上がらないことを心配してるわけじゃないです。純粋な後輩の疑問。」朔良ちゃんが私を見る視線は、真っ直ぐだった。「その方がよっぽどごまかせない。」「狙って言いました。あは。」朔良ちゃんは朔良ちゃんで、人が悪い。
「なかったの。」真滉さんの前では言わなかったこと。「なかったって、」「真滉さんの家に、本が一冊もなかったの。」「本?」私が不自然に思ったことは、真滉さんも気付いていただろう。「そのままの意味。小説も何もかも、どこにもなかった。ゲームを借りる時に収納も見たけど、そこにもない。ゲームばっかり。というか、バーチャルボーイはいいとして、なんでリンクスまで持ってるの?」「はあ、」リンクスはアメリカの携帯ゲーム機。単三のアルカリ乾電池六本で、実動がせいぜい三時間というモンスターマシンである。「理由はあるんだろうけど、やっぱりそれは寂しいなって思ってて、」「それはまあ、確かに。」本が家になくたって、誰に責められることでもない。けれどそれは本当に、真滉さんが望んだあり方なのだろうか。「もともとは、他の誰かと組むことを考えてみてたけど、ピンとこなかった。ふと、真滉さんも逢館の卒業生なんだって思い出した時、全てが繋がった。」
真滉さんには伝えなかった、私の願い。「あの家に、たった一冊だけでも、私と真滉さんの小説が載った冊子だけでも、置いていてほしい。」確かに、再び真滉さんに小説を書いてほしい、書き続けてほしい、という気持ちはある。けれど、そこまでは私が望むべきことじゃないと思う。
私の話を聞いた朔良ちゃんは、これ以上ないほど、にやついていた。私は何かおかしなことを言っただろうか。「それなら、その冊子に他の人たちの作品が載っているというのは、いささか野暮じゃありませんか。」「野暮って、」もともと、みんなのコラボ作品を載せるという趣旨の冊子なはず。
朔良ちゃんは、びしっと右手の人差し指を立てた。「原稿用紙三十枚って言ってましたけど、百枚以上書く気ないですか。」百枚、を指で示しているのだろう。「あ、うん。もともと、どうせ書くならそのくらいのがいいね、って話をしてた。」話をしてみると、私も真滉さんも短編が得意なタイプではなかった。むしろ逆。「はい、
恋愛は成就したから、商売繁盛、あるいは、安産?
シャッターを降ろして、鍵をかけて、ゲームステーション・かぐや堂の本日の業務は無事に終了となった。街灯の連なりを望みながら、夜が、さらにその色を深めていこうとしている。これから、私と真滉さんは同じ家に帰る。
「言っておきますけど、淫らなことは控えめに。」下心を優先しがちな人だから、これについては念を押しておこう。「本当にやるわけ。」ちなみに向かうのは私の家。真滉さんの家だとゲームに逃げそうだから。「だって、もとから書けないふたりが一週間で二百枚書こうと思ったら、合宿ぐらい決行して然りだと思いませんか。」真滉さんはお手上げのポーズをした。「一分の隙もない完璧な論理展開だね。」「ですよね。」真滉さんには自宅にあるノートパソコンを持ってきてもらった。帰りがけにコンビニで食料やらドリンク剤やらを買っていこう。「一日何回まで?」真滉さんは煙草に火を付けながら聞いてきた。どうやら念押しが足りなかったらしい。「せめて一日一回にしてください。」そして私は真滉さんに甘い。
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