#005 というか好きです



 「ひとつ、いいですか。」と、私は反射的に口にしていた。そして、その補足を加えた。「私、わかってて調子に乗ってて、そのはずだったのに、本当にしちゃいけない、聞いちゃいけないんだろうってことを、わかってなくて、そのことを謝らなきゃいけないんです。でも一方で、私はたぶん退いちゃいけなくて、それは今じゃなくても、真滉まひろさんの持つ何かを知らなくちゃいけないんだと思います。たぶん、順序で言うと、そっちが先です。だけど、」「謝ることは何もないし、知らなくちゃいけないって義務もないけど、続きをどうぞ。」優しい声で、突き放した言い方をしないで。「そのことよりも、何よりも、ひとつお願いをさせてください。」「俺にできることなら、前向きに検討するよ。」検討じゃだめ。

 「泣かないでください。」

 私は、自分でも意味が通らないことがわかってて、そう言った。

 「ご覧の通り、泣いてないんだけど。」真滉さんは言いながら、煙草を取り出し、火を付けた。「それは見ればわかります。」真滉さんはあの日から、マイルドセブンを吸うようになった。「でも、真滉さんは泣いてます。絶対、泣いてる。それはすごく嫌なことです。だから、私が真滉さんを守ります。守らせてください。」おこがましい。重々承知だった。私はそれでも啖呵を切り、約束しなければならなかった。

 「お願いはひとつじゃなかったの。」たぶん、真滉さんは望んでいないことなんだろう。「はぐらかさないでください。」それが悲しい。「守るって?」真滉さんは、闇に溶けていく煙草の煙をなんとはなしに見ている。私はそんな真滉さんから目を逸らさない。

 「どこかに、真滉さんを泣かせるものがあるのならば、私がそれを潰します。」

 真滉さんは、煙草の灰を落としながら、「物騒だね。」と言った。「もっとおしとやかな彼女が良かったですか。」仮にそうだとしても、真滉さんが許す限りは、私はこの場所を誰にも譲らない。「もし、もしもだよ、その泣かせてるものが篤芽あつめちゃん本人だったらどうするの?」「私が消えます。」悩む必要はなかった。ごく当然の帰結だった。

 「それは困るね。」煙を吐きながら、真滉さんは走る車を目で追っている。「不都合ないじゃないですか。」真滉さんを泣かせる私なら要らない。「もちろん、俺は篤芽ちゃんに泣かされてるんじゃないけど、俺は、たとえ泣き喚くことになっても、篤芽ちゃんの彼氏でいたいと思うよ。」どうして、「こんな話をしてる時に、さらに惚れさせてくるって、卑怯じゃないですか。」どうしてこの人は私の心臓を鷲掴みにするのだろう。

 あれは冬の終わり、高校卒業に先がけて、今の店でバイトを始めて間もない頃。何もかもが始まった瞬間もそうだった。

 私をこんなにしておいて、真滉さんは澄ましたままだ。「篤芽に消えられちゃ困るよって話。」心臓が跳ねた。「なんでいきなり呼び捨てなんですか。」「いや、もういいかなと思って。嫌なら戻すけど。」そんなこと、想像したくもない。「馬鹿言わないでください。呼び捨ての方が良いに決まってるじゃないですか。幸せ過ぎます。」「睨みながら言われてもなあ。」こんなになって、今、どんな顔で真滉さんと向き合えばいいかわからない。

 「そこのおふたりさん、この狭い歩道で、立ち止まって別れ話はやめてくんない?」不意に後ろから声がかかった。確かにこの道の歩道は狭い。カップルが立ち止まって話し込んでいたら邪魔になる。「あ、」真滉さんが何かを言おうとした。ただ私はそれを聞くよりも先に、ひとつ断っておきたいことがあった。「すみません。すぐに退きます。でも別れ話じゃありませんからご心配なく。いちゃいちゃ幸せラブラブですから。」こればかりは否定しておかないと寝覚めが悪いに決まってる。

 「あちゃー、」真滉さんが急に天を仰いだ。深刻そうな感じではないけど。「真滉さん、どうかしました?」「そこにいるの誰か、よく見てよ。」いぶかしみながら、私は振り向く。「篤芽ちゃんがねぇ。何か変だと思ってたけど、そういうこと。」そこにいたのは、バイト先の先輩(真滉さんにとっては後輩)、さっき別れたはずの人だった。「カゴちゃん先輩っ。」「ちゃんやめれ。」職場から離れると、なんとなくを付けたくなる。が、今はふさわしくなかっただろう。

 「どうしてここに、だって、」電車で店に通っているカゴ先輩は、確かに駅の方に向かったはずだった。「あー、店を出て駅に向かったんじゃなくて、同じ方向にある嫁さんの実家に向かったわけね。用があったからさ。そんで、終電なくなったら困るから、今日は車で来てて、その車を駐めた駐車場に向かってるとこ。」そういえば、奥さんはもともと店の近くで暮らしていたと聞いた気がする。

 しかし、これは由々ゆゆしき事態だ。「あ、あの、どうかこのことはご内密に、」店長に知れれば、私のスウィートハニー甘々バイトタイム(仮称)が儚く散る(ちなみに私は英語が得意じゃない)。「そりゃそうするさ。ヒロ兄に恨まれたくないもんよ。」「ヒロ兄?」ヒロ兄とは誰を指すのだろう。「お前、それは、」「つーか、俺も篤芽ちゃんのこと、どうこう言えた立場じゃないから。この場合、一番罪が重いのはヒロ兄だし。」

 もしかして、「ヒロ兄のって、真滉さんのですか?」ふと、そう思った。「そうだよ。言っていいよねヒロ兄。っていうか言うけど。篤芽ちゃんがヒロ兄と付き合うんなら、隠しとくのもおかしいでしょ。」「好きにしてくれ。」真滉さんは吸い殻を携帯灰皿に押し込むと、二本目を口にくわえた。「結局、どういうことなんですか。」「俺とヒロ兄、つまり烏野うのっちはね、兄弟なわけ。父親は違うけどね。だから、ヒロ兄ってこと。」兄弟であることを隠して同じ店で働いていたから、人のことは言えない、ということか。いや、それどころじゃない。兄弟って、つまり、真滉さんが兄? 

 「な、なんでそんな羨ましいポジションにいて黙ってるんですか。」想像しただけで心が歓喜に震える。「羨ましいなんて冗談じゃない。弟なんて立場、替われるものなら替わりたいって。」「是非。」私は即答していた。「やめてって。篤芽が弟になったら抱けないっしょ。」真滉さんが慌てて話に割り込んでくる。「下心を優先する真滉さんも嫌いじゃないです。」というか好きです。「そういう話じゃなくて。」

 柔らかくなりかけた空気をすっと断ち切って、カゴ先輩が真滉さんを睨んだ。「ヒロ兄、いい加減、猫被りすんのやめたら。篤芽ちゃんの前でだけ、さりげなくジェントルになってるの、俺は気付いてるからね。この人道外くそ兄貴。」「なっ、私の前で真滉さんの悪口は、」いくらカゴ先輩でも、弟でも、聞き捨てならないことはある。「いいよ、篤芽。事実だから。」「事実って、」いくら真滉さん本人が認めても、私には認められない。

 「篤芽ちゃん、べた惚れじゃん。ややこしい関係になってんね。だって、ヒロ兄のよく言うって、篤芽ちゃんでしょ。」「えっ、」あの人って。それよりも、真滉さんがよく私の話をしていたということ?「そうだよね。そうじゃなきゃ、ヒロ兄が篤芽ちゃんを特別扱いするわけがないもんね。」「かもしれないな。」真滉さんは否定しなかった。

 カゴ先輩が、険のある表情で、「篤芽ちゃん、ひとつ覚えといて。まあ俺はヒロ兄がどうにかなったって、別にかまいやしないんだけど、篤芽ちゃんはそうじゃないでしょ。」と、私に向かって言った。「当たり前です。」真滉さんがどうにかなってしまったら、私はそれ以上にどうにかなる自信がある。

 「ヒロ兄ね、篤芽ちゃんが本気で死ねって言ったら、絶対にすぐ死ぬから。」

 「え、」

 言っていることが、にわかには(と言うよりは、ちっとも)理解できなかった。

 「言動には気をつけてねってこと。」「それは、もちろん、そうしますけど、」さっきも聞いてはいけないことを聞いてしまったし、今後は気をつけたいけれど、でも、カゴ先輩が言っているのは、そういうことじゃないはずだ。

 「じゃ、邪魔者は去るよ。子供を嫁さんと母さんばかりに任せてらんないし。」奥さんとお子さんは、カゴ先輩の実家で暮らしていると以前に聞いた。「はい。すみません、時間を取らせてしまったみたいで、」時間は深夜に足を踏み入れている。明日も平日だし、カゴ先輩に時間を使わせるべきじゃない。

 「よかったね。ヒロ兄。どういう運命の気紛れか知らないけど、こうなれて。篤芽ちゃんは命の恩人だもんね。」恩人って、「えっ、私、そんなことは何も、」真滉さんを命の危機から救ったなんて誇らしいこと、一切記憶にない。

 「篤芽ちゃんがいたから、書くことをめられたんだもんね?」

 「え、っ、」

 何?

 今、何て言った?

 私が、いたから、

 書くことを、やめた?

 「お幸せに。」

 カゴ先輩は私と真滉さんの間をすり抜けて道を行き、すぐに交差点で曲がって見えなくなった。

 「真滉さん、今、カゴ先輩が言ったこと、どういうことですか。」真滉さんを直視できなかった。怖かった。私は俯きながら問いかけた。「篤芽がそれを本当に知りたいと思うなら、全て話すよ。」それは、そこには、真滉さんの意志がない。さっき言われた。私が死ねと言えば、本当に――

 いけない。真滉さんだって、カゴ先輩との話で何も思わなかったわけじゃないはずだ。私は真滉さんを泣かせたくない。守りたい。強くなりたい。さっきは失敗してしまった。今度こそ、私の気持ちばかりじゃなく、真滉さんの気持ちを見つめたい。「聞きたいですけど、真滉さんが話したくなるまで待ちます。そうでないうちは絶対に話さないでください。」紛れもない、真滉さん自身の意志で、私はその話を聞きたかった。「じゃあ、そうさせてもらうよ。」真滉さんはどこか安心したようになって、二本目の煙草を携帯灰皿に押し込んだ。

 「でも、ずるいですけど、ひとつだけ聞かせてください。」どうしても、これだけは確かめたいということがあった。「何なりと。」真滉さんは、嫌がる素振りを見せない。「私が死ねって言ったら真滉さんは死ぬんだって、カゴ先輩は言ってましたよね。」「確かに言ってたね。」内容について、否定がない。カゴ先輩が言っていたことは、少なくとも全てが嘘というわけではないのだろう。

 「私が真滉さんと付き合いたいと思ったから、こうして付き合ってくれてるんですか。恋人になって、そして、恋人にしてくれたんですか。」これだけは確かめたかった。「そうだったなら、どうするの。」さすがに、真滉さんは三本目に火を付けることはないようだった。「どうもしませんよ。今さら、真滉さんと別れたいだなんて、どうやって思えばいいんですか。」

 「抱きたかったから。」

 「え、」いきなりなぜそういう話になるのか。

 「あの夜、篤芽が抱かれたいと思ってたからじゃなくて、俺が抱きたかったから抱いた。そういうこと。」確かに抱かれたいと思ってはいたけれど、その言い方はちょっと気になる。

 けれど、よかった。私は深く安堵する。何であれ、真滉さんは私の大切な恋人のままだ。与えられた役柄を演じているわけじゃない。そういう意味の言葉だ。

 灰色になりかけた世界が、再び色彩に富んでいく思いだった。

 私は真滉さんの指に、自分の指を絡める。ゲームで遊びたい。買ったばかりのソフトで。

 「下心で言い訳する真滉さんのこと、嫌いじゃないです。」というか好きです。



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