#003 正確に言うと注がれたのはお湯



 それで何か大きく世界のありようが変わるのかと思っていたけれど、実際のところそんなことはなく、いつものように蝉はすだき始めるし、それに妙な感慨を抱いたりもしない。そんなことより何より、この手狭てぜまなワンルームで、目覚めた後すぐに誰かの瞳を見られるということが、震えるほどの素敵なことだ。

 私はほのかに眠気の残った指で紙コップを差し出した。コップにがれたのはホットのインスタントコーヒー(正確に言うと注がれたのはお湯)、ちなみにネスカフェ。「紙コップですみません。うち、食器置いてないんです。」コップを受け取りながら、真滉まひろさんは意味を掴みかねたふうで「置いてないって?」と尋ねてきた。「そのままの意味です。食器洗うの、面倒臭いんですよね。紙皿とか紙コップとかを使って、その後はポイです。ごめんなさい、良妻にはなれないですね。」などと返してみる。「篤芽ちゃん、すごく気が早いけど冗談だよね? というより、俺にしてみても、二十九歳フリーターの甲斐性無しだからね。」それは知ってる。他に仕事なんか持てないほどシフトに出ている(あるいはゲームをしている)し、うちの店の社員になる話はずっと断ってるみたいだし。

 「真滉さんって、うちの店で働く前は何をしてたんですか、」「篤芽あつめちゃんって、小説書いてるんだよね?」な、「なんで話の脈絡を無視して人の正鵠せいこくをいきなり貫いてくるんですか。」また状況証拠による推理なのだろうか。うちにあるそれらしいものなんて、本棚くらいのものだと思うのだけれど。その本棚にしても、さして大きくはない。

 「篤芽ちゃんの小説、読ませてよ。」真滉さんは気安い調子で言ってくる。これは私が真滉さんに近づけた証だと、そう解釈してもいいのだろうか。「嫌ですよ。恥ずかしいじゃないですか。」他人ならともかく。「篤芽ちゃんって、普段は大人びてすごく落ち着いてるのに、まれにいきなり初心うぶな乙女になるよね。」はなはだ遺憾である。「そこに血まみれのシーツが畳まれてるの見えますよね。そういうことなんですけど。」

 ちゃぶ台を挟んでコーヒーを飲みながら、お互いがなんとなく視線をさまよわせたのは、昨夜のことを思い返したからだろう。「かなり凄惨なことになってたよね。今さらだけど、俺でよかったの?」口実としてのゲームはとても楽しんだ(トリプルスコアで圧勝した)けれど、結局それはいざないに過ぎないわけで。「自分でしておきながら。真滉さんがよかったって言ってほしいですか?」ネスカフェのコーヒーは今日も美味しい。「いや、いくら乙女だからって、そこまで媚びる必要は、」甚だ遺憾である。「真滉さんじゃなきゃ嫌だったんです。これ本当です。」

 真滉さんはひどく驚いたふうで、口をぱくぱくさせて「まじで。」と言った。「コーヒーぶっかけていいですか。」私をいったい何だと思っているのだろう。「付き合い始めたばかりの彼氏を火傷やけどさせたいなら、どうぞ。」と、言われて、今度は私が酸素の足りない金魚みたいになった。「か、彼氏って。」「違う?」そんなことを爽やかな笑みで問われても困る。自分の顔がこれ以上なく火照っているのがわかった。

 「しかし、まいったな。」と言って、真滉さんは残りのコーヒーをあおった。「そこまで正直に話してくれたとなると、俺もはぐらかすわけにはいかない。」そう言って、真滉さんは腕を組む。「はぐらかすって、実は俺もずっと前からお前のことが、みたいな少女漫画みたいなやつですか。」まあ、望んでいないと言えば嘘だ。「ううん、残念ながらそれはない。」「今すごくコーヒーかけたいです。」文脈からして違うとは思っていたけど。

 真滉さんは頭を軽く掻きながら、「俺、篤芽ちゃんと同じで、逢館おうだて高校の文芸部にいたんだよ。」と言った。「えっ。」そんなことはちっとも知らなかった。「これ、店長にもごまかして話したから、店の誰も知らないんだけど、つまり、さっき、俺が以前に何をしてたか聞いたよね?」はぐらかすとは、やっぱりそのことか。

 真滉さんは穏やかな調子で、「俺が今の店で働く前にしていた仕事は、分類で言えば自由業、誤解を恐れずありていに言うなら、作家。」と、言った。文章を書くことを生業なりわいにしていた人が、目の前にいた。



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 烏野うの真滉は(俺は)、よどんだ渦の中に居た。掻き乱されるままにしていれば、いずれ六骸ろくがいをもぎられるという確信があったが、助けを求めて伸ばそうとする腕は、すでに腐っている。参ったな、これではキーを叩けない、そう思ったところで跳ね起きた。

 デザインを優先して買った寝室のカーテンは、たけがわずかに足りず、窓の外にある街灯の光芒こうぼうを漏らしている。細やかな光に照らし出されたベッドは、もはや寝具の役を果たしているとは言い難かった。酷い寝汗に沈み続けたそれは、湿り気を手放そうとはしない。ここ三ヶ月の間で四回、布団一式を買い直していたが、最後に替えてからはしばらく経つ。

 真滉は眠りに就くごとに多種多様な悪夢を見る。その全てを記録できたなら一冊の本をものする事もできたかもしれないが、生憎と、悪夢の記憶は穿うがたれたように断片的だった。

 こうして跳ね起きると、真滉は例外なく自分の体がぐっしょりと濡れていることに気づく。それは、おびただしい寝汗によるものだ。入眠後、せいぜいが一時間半の間に目が覚め、その時には全身が、酷いと言うことさえはばかられる程の寝汗にまみれている。そのたびにシーツを変えても何も好転はしなかったので、真滉は服だけを着替えて侵された寝床に戻る。近くに置かれたかごには、長袖のTシャツとジャージが積まれていた。ひと晩眠るだけでも、四五回は着替える羽目はめになる。目下もっかのところ、入眠剤も抗精神病薬メジャートランキライザーも、解決の端緒たんしょにすらなっていない。

 真滉には分かっている。寝具を変えても、薬を増やしても、何ら事態は好くならないだろう事を。そして、真滉は気付いている。書くことを止めさえすれば、この苦しみから逃れられるのだと。




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