#002 時給は十五分刻み



 閉店後、実際にレジに入っている金額を確かめる。おつりや買い取りのために最初から入っていた二十五万円を含めて、計百六十三万五千九百八十三円。(ウィンドウズ98の)パソコンに表示された金額とぴったり一致する。今日は新作ソフトの販売日だから、なかなかの売り上げを叩き出していた。もっとも、大金が集まったというだけで、新品のソフトは大量に売れても大して儲からない。

 「いやあ、悪いね。」後ろめたさなど微塵もなく、真滉まひろさん(名目上は昼番のトップであるが、夜のシフトにも度々たびたび出る)は私の隣(監視カメラに映らない位置)で、ゆったりと煙草をふかしていた。閉店後の実況パワフルプロ野球で負けてしまったので、今日のレジ締めは私がひとりでやる。「なんか連戦連勝で。ハンデ増やす?」通算成績は私の二勝十一敗一分、目下もっか六連敗。「オール・セントラルと西武ライオンズで試合してて、変化球も制限してもらってるのに、これ以上は要らないでしょう。」負け犬にも、なけなしのプライドというものがある。「そう? 俺はらくだからいいけど。」「優秀な後輩に感謝はしてくださいね。」次に珂雪かゆきと会う時は、パワプロの特訓に付き合わせよう。「実際、感謝してるんだなこれが。優秀ってとこね、」甘い匂いの紫煙が漂う。バニラだ。煙草の煙は特別嫌いじゃないが、このフレーバーは苦手。「他のやつだったらこんなことできないよ。こっそりゲームしてレジ締めも任せてたら、四十六分も回っちゃうよ。篤芽あつめちゃんだから、これだけ回り道しても三十一分にタイムカードが切れる。」閉店は二十三時。時給は十五分刻み。終業が遅くなると店長が気にするので、店締めは三十分少々で終わらせるのがベスト。

 「ま、そんな優秀な篤芽ちゃんだから、こんなとこでフリーアルバイターしてるのはもったいないな、ってのはあるけど。」有名私大に進んだとして、そこでは私の人生が無駄に消費されることはないのだろうか。「つまり、使命なんですよ。」シールを貼るのも、真滉さんとの勝負に負けるのも、きっと使命だ。「俺に尽くすことが使命?」「この小銭全部投げつけていいですか。」投げて当たって痛い等よりも、全ての硬貨を拾わないとお金の計算がずれることが大問題。

 「勘弁。篤芽ちゃんって、ひとり暮らしだっけ?」真滉さんには、少しだけ家の話をしたように覚えている。「飲んで終電がなくなっても泊めませんよ。」「それ、俺が地元の人間だって知ってて牽制してる?」「かもしれません。」真滉さんの家が、この店から徒歩二分の位置にあることはもちろん知っている。

 「篤芽ちゃんさ、」「身の危険とかより何より、酔っ払いの相手するのは嫌なんですよ。」偽りのない本音だった。「何をそんなに焦ってるの?」

 いきなり切り出されて、息を呑んだ。

 理屈が追いつくより先に、正鵠なのだろうと感じた。

 「そういうふうに見えます?」私の苦悩は、決して面には出さなかった。「見えないから聞いてるんでしょ。状況証拠から推測して、ちょっと鎌かけてみただけ。」真滉さんは吸い終えた煙草を灰皿で揉み消し、すぐに二本目を取り出した。「真滉さんって地味に性格悪いですよね。」すっかり陥穽かんせいの中というわけだ。「性格については認めるけど、篤芽ちゃんほどじゃない。」私は真滉さんの中でどういう評価を得ているのだろう。はなはだ心外である。

 しかし、認めてもらったことなら、たとえ性格の悪さと言えど期待に応えたくなる。「来てもいいですよ。」「どこに、」「私の家、徹夜でゲームをするというなら、来てもいいです。」これが口実であることくらい、真滉さんなら確信の域で察せられるだろう。二、三年前までは、かなり遊んでいたそうだし。

 「それって、パワプロの猛特訓するって意味? まずは縦変化を確実に打つ、」「その解釈は都合良すぎです。プレイするゲームはボードゲームに限ります。」「ああ、得意なゲームで俺をぼこぼこにしようって趣旨だ。」口実ではあるものの、ゲームをしたくないわけではない。自分の得意なゲームでさを晴らしたい。「桃鉄なら七割、人生ゲームなら九割九分、狙った目を出せますので。」はっきり言って、ボードゲームは負け知らずだ。

 真滉さんはため息混じりで煙を吐き出した。甘ったるい香気かざが漂う。「俺がここで断れないのわかってて、この話を持ちかけてるよね。」「かもしれません。ああ、そうだ。うちで煙草を吸うなら、マイルドセブンあたりにしてもらえませんか。」



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 藤ノ木ふじのき篤芽は(私は)、本来いるべき文芸部の部室に姿を見せてはいなかった。井芹いせり珂雪は、多く集まった原稿をよそに、目をうつろにして肩で息をしていた。虫が大の苦手である彼女にとって、部室へ飛び込んできた蝉を追い出すことは、荷が勝つ役目であったと言える。篤芽がここにいれば、と、珂雪は悪戦苦闘する中で何度も思ったが、彼女は冷房の効いたコンピューター室にいて、到底、部室に顔を出せる状態ではなかった。

 夏の熱気が部室内で膨張していく。珂雪は恐れから、いったん閉めたドアと窓を再び開けられずにいた。開けたなら、また蝉の闖入ちんにゅうを許すかもしれないのだ。珂雪がまんじりとしたまま、肺を出入りする空気が熱を得ていくのを感じていると、不意に音がして、ドアが遠慮なくいっぺんに開け放たれた。「何やってんの? 閉めきって。サウナ?」そこにいたのは、珂雪や篤芽と同じく文芸部員である、桐野きりの凜々香りりかだ。その瞬間に限っては、珂雪には凜々香が神の使いのように見えた。

 もともと、凜々香が今日ここに来る予定はなかった。文化祭にあたって出される冊子の編集作業は、珂雪と篤芽のふたりで行うことになっていた。「凜々香先輩、どうしたんですか。」珂雪は、白地に水玉のハンカチで額の汗を拭いながら聞いた。「いやまあ、部長としては気になって。あっちゃんだからさ、」篤芽は、部内では“あっちゃん”という愛称で呼ばれることが多い。「どうせ彼女、〆切を過ぎても原稿を書いてるんだろうなと思って。今日は木曜日だし。」「全面的にその通りです。」珂雪は深く嘆息したが、親友に甘い彼女は、篤芽がどうしても書くというものを止められなかった。加えて、篤芽が良い作品を書くことを望んでもいるのだった。

 彼女たちが所属する県立逢館おうだて高校の文芸部では、月曜日と木曜日の週二回、放課後にコンピューター室を借りて執筆に励むことになっている。家で文を書く環境が十分に整っていない部員もいるためであるし、文を書く習慣をつけるためでもある。

 ただし今日は〆切当日のため、編集作業に携わる部員以外は部活に出ずに帰宅する。編集は切り貼りする作業があるので、コンピューター室を散らかすわけにもいかず、いかに暑くとも寒くとも、通例、部室で行われていた。

 凜々香は鞄を置き、ちゃぶ台を挟んだ珂雪の向かいに腰を下ろした。「手伝うよ。」「そんな。先輩は今回は担当じゃないですし、」編集作業はひとりでできないこともない。凜々香は部員だが、受験生でもある。珂雪は固辞するつもりだったが、凜々香が「なんか、あたしのせいだって気もするしね。」と漏らしたので、考えていた断りの文句をするっと見失った。「あっちゃんの才能に頼りきりで、しっかりした施策を打てないぼんくら部長のせいだって気が、ね、」珂雪はひどく驚いた。そんなこと、部員の誰ひとりとして、露ほども思っていないだろう。篤芽の書く作品が欠かせないものとなっていることが、どれほど事実だとしても。

 凜々香は先回りをして言った。「気にしすぎだってのはわかるよ。みんながあたしを認めてくれてることも。ただまあ、こうしないと自分で納得できなくてね。」そう言われては、珂雪にはもう拒むことはできなかった。

 珂雪は知っている。

 篤芽のことをずっと隣で見てきたから、わかる。

 秀でた才能というものは、その本人だけでなく、周りの者さえ、たやすく乱してしまうことを。

 時として、その才能自体が自覚しないまま、何かを壊すことさえもあると。

 珂雪はそれについて、こう考えている。

 もしそれを、才能が持つ罪だとするならば、その贖罪をせねばならないのならば、その方法とは、唯一、これからも書き続けていくことしかないのではないかと。立ち止まり、あるいは引き返すことで、誰かが報われたりはしないと。

 才能は裏切らない。ひたすらに歩めばそれでいい。

 では、逆はどうだ?

 才能とは、裏切ることができるものなのか?

 珂雪は事あるごとに、そんな自問を繰り返す。彼女もまた、篤芽の才能に乱されている。



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