時雨心地がぬぐえない

香鳴裕人

#001 シールを貼り続けているのは



 たわいない不調和と不条理をはらみながらも、安穏とした日々が過ぎていく。

 けれど、どうしてだろう。

 時雨心地しぐれごこちがぬぐえない。



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 私がひたすらシールを貼り続けているのは、なまじっか文才があるせいなのだろう。

 ゲームソフトが入れられているプラスチックのケースに、“広告の品”と赤地に白抜きの文字で書かれたシールを、黙々と貼り続けていた。この店では見本を陳列してバックヤードに商品を置くことはせず、商品をそのまま陳列している。つまり、私たちは広告が打たれる日の前日になると、広告に載った商品の在庫全てにシールを貼りつけなければならない。もちろん広告に合わせた準備はそれだけではないので、スタッフ全員が集まっててんやわんやだ。

 私は閑散とした(客よりも店員の人数の方が多い)店内の什器じゅうきの間を足早にすり抜けて、リストに書かれた商品に次々にシールを貼っていくが、まだリストの中ほどに到達したあたりだった。

 「篤芽あつめちゃん、相変わらず速いよね。シール。」背中で声をかけてきたのは、昼番のトップである真滉まひろさんだった。手慣れた仕事とばかりに、ゲームボーイアドバンスのソフトにさらさらとシールを貼りつけていく。ちなみに私が今、作業をしている向かいの棚はワンダースワン。「どっちがですか。どうして三枚いっぺんにシールを貼ることができるんですか。どう見ても真滉さんのほうが速いでしょう。」私は真滉さんの方を見ないまま話を返した。見たとしても見惚れるだけで何も起きない。

 私が一枚一枚、シールを台紙からはがし、やはり一枚一枚貼っていくのに対して、真滉さんは三枚一気にはがし、それを見る間に三つの在庫に貼りつけてしまう。端数として余ったシールはエプロン(なぜか真滉さんだけが着ている、店の制服としてのエプロンではなく、セガのロゴマークがプリントされたそれ)に貼りつけるのが、真滉さんのいつものやり方だ。そのシールは別の棚で使われる。

 「確かに貼るのは俺のが速いんだけど、篤芽ちゃんって、品を見つけるのがマッハなんだよね。もうほとんどノールックでさ、」「どういう表現ですか、ノールックって。」ちょっと新しいかもしれない。一応、覚えておこう。ノールック。「サッカーで言うところのノールックパス的な? やー、日韓ワールドカップ以来、ちょっとハマっちゃって。」私にはよくわからないお祭り騒ぎからおよそ二ヶ月、サッカーの話題を耳にすることは増えた。「まあ、それは比較的興味が乏しい傾向ですけど。」「冷たいね。」「って、はっきり言ったほうがよかったですか?」「優しいね。」「結局、ノールックって?」私たちはこうしている間もシールを貼り続けている。

 ここでやっと真滉さんは振り向いて、座り込んで棚の一番下の段に手を伸ばす私の隣に立った。アドバンスについては貼り終えたのか。「篤芽ちゃん、品を探す時に、全くと言っていいほど迷わないんだよね。品の場所を覚えてて、探す時間のロスがないから速い。」なるほど。確かに、客が勝手に変なところに品物を移したのでもない限りは、およそ探すことはないかもしれない。いつからだろう。

 「私、記憶力はいいみたいです。高校の社会のテストとか、そういえば百点がデフォルトでした。」自慢話でしかないのだが、事実そうなのだ。「それ、どうして大学行かなかったわけ?」真滉さんの疑問は、当然起こるものだと言えるだろう。「うーん、どうも私、シールを貼らなきゃいけないみたいなんですよね。」答えになっていないのだが、本来答えるべき実状としての理由は、あまり人気のない(けれど私は愛好している)ワンダースワンのソフトとにらめっこしながらは話したくはないことだった。幸い、真滉さんは気が利かない人ではないので、「ふうん。そういう使命感、イイと思うよ。」とだけ返してくれた。

 そんなこんなで、私は今日も今日とて、ゲームショップでフリーターとして忙しなく働いている。



 スプリングが妙に強いベッドの上にうつぶせになり、電気スタンドの明かりでゲームに興じていた。小学生の頃から愛用しているアナログの目覚まし時計は、時刻が深夜二時を回ったことを示していたが、まだしばらく眠る気はない。明日は夜番として出勤する日だから、たとえ夜が明けてから眠ってもさしたる問題はなかった。

 去年の十二月、発売日に買ったワンダースワン版のロマンシング・サ・ガも、はや三周目となっていた。初回は冥府、二回目はオールドキャッスルに行ったから、次は最終試練に行こう。四回目をする気になったら、その全てに行ってやろう。そんなことばかり前向きになる。原稿の進みは、全く動きが見られない。ゲームが楽しすぎて、というわけではないだろう。

 いい加減にきちんと動かなければ。急に強い焦燥感に駆られ、慌ててセーブをしてゲームを切る。電源が切れたのを確認してから跳ね起きるのはいいが、次の瞬間にはすっかり醒めてしまっている。つい、枕元に散らばるゲームソフトから、SDガンダムのギャザービートを拾い上げたくなった。いっそ本当に手に取ってしまおうか。ばかばかしい。

 私は今すぐパソコンに向かい、たとえ一行の駄文さえ、ものすることができなくても、ひたすらに呻吟しんぎんしているべきだ。さまよっているべきだ。

 どういうわけなのか、さしたる理由が浮かぶでもない。ただ、疑いのない現実だけがここにある。

 高校を卒業して、いざ本格的に、職業としての物書きを目指そうという段になって、私の文才は全く生きなくなった。



 珂雪かゆきはあからさまなため息を吐いた。ドリンクバーのメロンソーダをストローでひと吸いしてから、もう一度ため息を吐いた。明け方近くのファミレスは客もまばらで、特に私たちのいる禁煙席には、私たちの他に客はいない。

 こうも情けない思いを噛み締めさせられては、食も進まないというもので、私が注文したパンケーキは四分の一が放られ、バターの油が深く染みていた。「つまり、フリーターをしながら熱心に文筆家を目指すはずが、ちっとも何も書けなくて、純然たる主目的としてのフリーターになっちゃったのね。」そして珂雪は、もう一度ため息を吐いた。沈んだ吐息が行き場なくテーブルの上に澱んでいくような気がした。

 「もう、五ヶ月か。」「うん、五ヶ月。」気づけば、高校を出てからそれだけの月日が流れていた。八月下旬、もう少しすれば夏とも言えなくなる。

 「切ないというか、やるかたないというか、なんというか、」これは私の問題であるのだが、珂雪のふせられた目を見るに、あるいは私より落ち込んでいるのではないかとも思われた。「なんだかなぁ。篤芽は、うちの文芸部が初めて輩出する作家になるんだって、半ば確信していただけにね、」珂雪は、まぐろたたき丼を食べた後の箸を、指先でくるくるともてあそび始める。行儀が悪いが、今はそれを咎める気にはなれない。「なんだかなぁ。」繰り返されたその台詞が、珂雪の気持ちをはっきり示すものであるのだろう。

 私はぽそりと呟く。「なんだか、ずっと、時雨心地。」地元の小学校の、六年三組からの付き合いである珂雪に対しては、胸裏きょうりに気持ちを押し込める必要はない。「時雨心地?」これは、言葉の意味を聞かれたのだろう。「泣けちゃいそうな気持ち、ってこと。」私は高校を卒業した時からずっと、果たされることのないそれを持て余している。




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