愛・反間・苦肉
当時の韓信は未だ人の愛を知らぬ若者であり、本人も意識していないところでそれを欲していた。が、これはひとりの人間として大きな弱点であった。魏蘭は、韓信のその弱点を上手く突いて自身の立場を強化することに成功する。二人の関係は、そのような魏蘭の打算によって導かれたものであった。しかし、人の心は常に変化するものである。当初は打算に過ぎぬものがいつしか真の愛に変わっていったとしても不思議ではなかろう。まして人間の愛情というものは、他の感情に比して外部からの干渉を受けにくいものである。たとえ魏蘭の心に打算があったとしても、好きでもない男に心や体を許すという判断はできなかったに違いない。よって、彼女の行為は批判されるべき筋合いのものではない。
一
蒯通が韓信について感じていることは、独立独歩の人だということであった。態度が穏やかなので表には出ないが、基本的には他人を信用できない性格のように見える。
蒯通の目から見るに、韓信の軍はそれほど軍規が厳しくない。それでも軍が秩序を保っているのは、韓信が常勝将軍だからで、決して韓信が部下の教育に熱心だったからではないように思えた。
かつて蒯通はこのことについて韓信に尋ねたことがある。
「士卒には、各々の良心に従って行動しろ、と常々言っている」
そのときの韓信の答えがそれであった。それが韓信の信念だと言えばそれまでだが、これは韓信には信念などなく、自分の考えを他者に押し付けてまで従わせることを嫌っていることをあらわしている。
しかし韓信は物事を言わねばならないと思うときには言う男で、決して主張が少ないとか、気弱な男ではないと思われた。蒯通が思うに韓信は人と必要以上に関わるのが面倒なだけなのである。軍規が緩やかなのに部下が従順なのは、さしあたってそのような者ばかりを登用しているからに過ぎない。カムジンという、あの常に韓信の傍にいる楼煩の男などは、そのいい例だった。これとは逆に、反抗的だが正論を吐く、うるさい者は韓信の周辺には存在しない。
しかし、考えてみればそのような者は必要なかった。こと軍事に関しては、韓信の判断は常に正しかったからである。
だが、あくまでもそれは軍事に限ったことであり、政略的なことは、韓信はあまり考えていない。いや、考えないようにしていると言った方がいい。
韓信は他人を信用してはいないが、自分は信用されたがっている。劉邦が自分を信用して、将来も粗末に扱わないことを願っているのだ。
これらのことを考え、蒯通は以下のように結論づけた。
――韓信は甘い。現状の立場を必死に守ってさえいれば、誰からも尊重されると思っている節がある。人の世は、それほど慈愛に満ちたものではないのだ。わしが、彼の立場を強化してやらねばならぬ。
「失礼ながら将軍、いいえ、丞相は、せっかくの私の言を用いませんでしたな」
蒯通は韓信に対して、思い切ってそう述べた。
「呼び名は将軍のままでよい。蒯先生、先にも言ったが、私には魏蘭を政争に巻き込むつもりはなかった。魏の地を征して王となる気もさらさらない。そのため平陽は曹参にくれてやったのだ」
「くれてやった、と言うからには、本来魏の地は将軍が領有するべきである、と自分で思っているからに違いありません。私もそう思いますし、他の誰に聞いてもそう言うでしょう」
韓信は痛いところをつかれた。だが認めるわけにはいかない。
「……曹参は古参の将で、漢王に対する貢献は新参者の私以上である。いずれ私にも食邑は漢王から与えられるであろう。それを思えば、第一に魏の地を与えられるべきは、やはり曹参である」
やや自身の律儀さにかたくなな態度を示す韓信を、蒯通は話題を変えて攻めようとした。
「将軍、知っておられますかな? 漢王は六(地名)の九江王黥布に使いを出し、漢に迎え入れたことを?」
「黥布を? ……初耳だな。本当か」
「黥布はご承知の通り、天下に名を知られた猛将であり、漢王の側に立って戦えば、その貢献の度合いは将軍と肩を並べるか、上回るかもしれません」
「何が言いたいのだ」
「このままでは、漢王は将軍に与えるべき食邑を黥布に与えることになりましょう。将軍はそれで満足なさりますか?」
「黥布には黥布の、私には私の食邑が与えられるだろう。何を気にすることがあるのか」
「私もくわしくは存じませんが……黥布はその身ひとつで漢に身を寄せたものの、ゆくゆくは
「何を馬鹿な! 私よりよほど黥布の方が恐ろしい男だ。あの男の新安での行動……二十万の秦兵を一度に穴埋めにした男だぞ。義帝を弑したのも黥布だと聞く……私がそんな黥布より漢王の信頼度において……劣るはずがない!」
「では、賭けましょう」
「賭けだと?」
「そう、賭けです。将軍は代・趙への出征を理由に漢王に増兵を要請する……そうですな、三万ほどでよろしいでしょう。漢王が素直に兵を送ってよこしたら将軍の勝ち、なにかと理由をつけて少なくよこしたり、まったく兵をよこさなければ私の勝ちです。どうですか?」
「……いいだろう、付き合おう。何を賭ける?」
「運命を。私が勝てば、将軍は王への道を進み、将軍が勝てば、私はもう何も申すまい。こうして将軍にうるさがれながら、差し出口をはさむことはもうやめ、それこそ黥布のもとにでも参ります」
「そうか? しかし、私は君が黥布のもとに行くことを望んでいるわけではない」
韓信は蒯通の提示した条件を拒否し、かわりにうまい酒を供与することを条件とした。韓信はそれほど酒が好きなわけではなかったが、他に特別欲しいものが思いつかなかったのである。
二
劉邦のもとより返答の使者が送られてきたのはそれから十日ほど経ってからであった。
「漢王は左丞相韓信どのに三万の兵を送ることを、お決めになりました。つきましては丞相には代・趙の攻略をつつがなく実行してもらいたい、との仰せです。なお、三万の兵を統率してこちらに送り届けるのは張耳どのが担当されます。丞相は張耳どのをそのまま留め置き、趙攻略に際しての補佐をさせよ、とのご命令です」
――見たか! 賭けは、私の勝ちだ!
韓信は魏を滅ぼした際に、捕らえた魏兵を自軍に編入させ、兵力を増強させることに成功している。それを考えれば、あらたな三万の増兵はどうしても必要というわけではなく、送ってもらえればありがたい、という程度でしかなかった。蒯通が賭けを持ちかけてきたために、万が一劉邦が兵をよこさなくても損はない、と考えて話に乗ったのである。
しかし実際に劉邦が三万の兵を送ることを聞いて、韓信は心底安心した。
自分の要求どおり、劉邦が兵をよこしてくれることは、劉邦が自分を信用していることに他ならないと思え、言いようもなく心が安らいでいくのを感じた。
とりわけ心強かったのは重鎮である張耳の派遣を決めてくれたことである。なんといっても張耳は趙の建国に中心的に携わった男で、そのような人物と行動をともにできることは、心強いことこの上ない。かつての朋友の陳余と雌雄を決しなければならないことを思えば気の毒ではあるが……しかし、それは韓信にはどうすることもできない問題であった。
――賭け自体はくだらないものではあったが、漢王のお気持ちを確認できたことは、有意義であった。
韓信はそう思い、さらに、
――漢王に、私の真心が通じたのだ。
とさえ思った。連戦連勝の漢の総大将としては無邪気すぎるような感はあるが、それだけにこのときの韓信の喜びがひとしおであった、ということがわかる。
ひとり悦にいった様子で居室で安らぐ韓信に、室外の衛士が来客の旨を告げた。
「蒯通さまからのお届けものをお持ちしました」
そう言って入室してきたのは、軍装を解いた姿の蘭であった。白の長衣に幅の狭い帯を巻いただけの簡素な平服であったが、いつもと違うだけに新鮮に見える。韓信は思わず目を細めた。
しかし蘭はそれに気付かない風を装って話し始めた。
「私にはこれがどういう意味をもつのかよくわかりませんが……蒯通さまは私に将軍のもとへ行き、この酒を届けよ、と申されました」
韓信もあえて普段どおりの態度を保ちながら、応じた。
「そうか……。まあ、座るがいい。せっかくの届け物だから、飲むことにする。君にも付き合ってもらおう」
「はい。……
「ほう、弾けるのか? さすがに良家の娘だな。しかし、それは次の機会に。今は、話がしたい」
「はい」
酒器が用意され、青銅の瓶から酒が注がれる。この時代の酒は香りが強い反面酒精分は少なく、相当に飲まなければ酔うことはない。また、成分は穀物を原料にしており、色は薄黄色である。しかし年代物になると容器である青銅の成分が混入し、趣味の悪い青みがかった色となる。よって、この時代の人々は、いわゆる古酒を好まなかった。身分の高い者ほど新しい物を好み、古酒を飲む者は、貧しい者とされたのである。
このとき魏蘭が持参した酒は新しく、器に注がれたそれは室内の明かりに反射して、黄金色に輝いていた。
「……この酒の届け主である蒯先生は、私に王として立つことを使嗾し続けている」
韓信は黄金色に輝くその酒を一息に飲み干すと、そう口にした。
「え?」
察しのいい蘭は話の内容が危険なことに、すぐ気が付いた。
「蒯先生は漢王が私のことを内心で恐れていると……だから要請しても兵を送ることはないと……しかし漢王は私の要請どおり、兵を送って下さった。この酒は、私が賭けに勝った証なのだ」
韓信は危険な話をしているが、表情は明るい。どうやら賭けに勝って安堵し、単純に喜んでいるらしい。蘭にはそう思えた。
「蒯通さまは私に、結果はまだわからないと伝えてほしいと申しておりましたが……。私も内容はよく存じませんが、いま聞いた限りでは安心するのはまだ早いかと存じます」
蘭は二杯めを注ぎながら言った。それを口につけようとした韓信の手が止まる。
「……どういうことだ」
「将軍は、頭の良いお方でございます。本当はご自分でもお気づきになっているのに、考えたくないに違いありません。それゆえ、気付かないふりをしているのでございましょう。いま、兵三万が増強されることは、私も聞き及んでおります。将軍はそれを漢王との信頼関係の証だと考えておられるようですが、これはやはり漢王が将軍のご機嫌を損なうことを恐れている、と考えた方が自然のように思われます」
「そうなのか? 人はやはり……そのように思うものなのか。しかし私は軍を漢に向けたりすることは考えていない。漢王もそう思ったからこそ兵を私に貸し与えたのだろう。私が離反することはないと……。叛逆して自立をするかもしれない将に、王が兵を与えたりするものだろうか?」
「そこは、漢王とて確信がないからでございましょう。要するに将軍は試されているのです。将軍が漢王の気持ちを賭けで確かめたのと同じです。私の個人的な考えでは……漢王はそのうち、兵を返せと言ってくるでしょう。そのとき将軍がなにかと理由をつけて返さなければ、将軍に叛意あり、と考えるに違いありません」
韓信は二杯めを飲み干した。すでにその表情から安堵の色は消え去っていた。
「使嗾されて不安な気持ちを催されるのであれば……蒯通さまを遠ざけてはいかがですか?」
「そうしたところで漢王の気持ちが変わるわけでもあるまい。蒯先生は……あれはあれで私のことを高く買っているところがあってな……。無下に扱うのは申し訳がないのだ。子供っぽい言い方かもしれぬが……彼ほど私を褒めてくれる人物は、実はそうそういない」
「私は、将軍を高く評価することにかけては、蒯通さま以上です」
「……蒯先生がそう言え、と言ったのだろう。それとも君も私に叛逆を勧め、王となれと使嗾したいのか」
「違います。私はただ将軍のことを……お慕い申し上げます、と言いたいのです」
「……からかっているのか」
「そんな……本気です」
「…………」
二人の間にしばしの間、沈黙の空気が流れた。
三
「……私は作戦行動中は、あまり自己を甘やかさないように心がけている。食事は簡素に、睡眠も短くとり、よほどのことがない限り、酒も飲まない」
「そうでしょう。私も将軍がお酒を嗜むお姿を見るのは、今日が初めてです」
「もともとそれほど酒が好きなわけではない。いま目の前にしているこの酒にしても、いいものであることには違いないのだろうが……実を言うと私には酒の味など、よくわからない。多く飲めば酩酊する、それだけだ。私は、それを嫌う」
「なぜ?」
「……かつて上官だった項梁は、酒に酔って正確な状況判断ができず、そのおかげで私の目の前で章邯に惨敗し、死んだ。あのときの衝撃は、忘れられない……それゆえ私は常に正気でありたい、と望んでいる。女は……男にとって酒と同じようなものだ。深くのめり込みすぎると、正気を失う」
「将軍がそのように自己を律しておられることは、素晴らしいことだと思います。……ですが、将軍……酒の味も知らず、女も知らずでは、人生の半分しか知らないのと同じでございます。深くのめり込まず、適度に味わえば、酒も女も人生を彩るものとなるのです」
「……だから君のことを適度に味わえと……そう君は言っているのか?」
「! ……将軍。そのような言い方は、いやらしゅうございます」
「すまぬ。自分でもわかっているのだ。私は過度に自己を押し殺し、そのためかたまに耐えきれなくなり、はち切れるようになることがある。若い頃、私は自分で生活することができず、よく人の世話になった。……私は彼らの好意に感謝しつつも、自分自身が情けなく、それに我慢しきれなかった。思うに私にはいい意味での厚顔さが足りないのだろう。人の好意に触れるたび、私はそれを恥に思い、常に自分から絶交を持ちかけたものだ」
「…………」
「かつて旧友の鍾離眛は、楚の項梁のもとに参じる際に、私を誘った。私は意地を張り、それを断った。しかしそれでいながら私は……結局項梁のもとへ参じたのだ。そのとき眛はそれを咎めもせず、推挙してやる、とまで言ってくれた。だが私はそれも断り……いまとなってはお互いに殺し合うような仲と成り果てている。私が素直に眛の誘いに従っていれば避けられた悲劇だ。いったい誰を責められよう、すべて私の責任にほかならないのだ」
「…………」
「蘭、君の好意も私は素直に受け入れられないでいる。軍服姿の君は、凛々しく魅力的だ。それにもまして今宵の君は、まったく違う印象で……やはり美しい。しかし駄目だ。私の手は、敵兵の血で汚れている。君はもう人質ではないのだから、私のもとを離れ、もっと清廉潔白な男を見つけてどこか平和な地で暮らすといい」
「……将軍は、父を死に至らしめた章邯を廃丘に追い込み、そしてこのたびは魏豹を……。将軍は私にとって英雄なのです。どうかお近くに置いてください。そしてわがままを申すならば、私は将軍のいちばんお近くに居たいのです」
「そうすれば君が私の人生の半分を教えてくれる、というのか。君がそばに居ることで、私の人生が彩られる、というのか?」
「そうありたい、と思っています。どうです? 私は将軍と違い、自分の気持ちに素直でしょう?」
「……ふむ。どうすれば、そのように素直になれるのだ?」
「さしあたっては、私の身を将軍に捧げます。将軍はなにも言わず、それをお受け取りくださいませ」
「私に、君を抱けと言っているのか?」
「……将軍、私は、なにも言わずに、と申しました」
蘭の態度に媚びる様子はなかった。彼女は私を抱いてください、と韓信に懇願しているのではなく、私を抱きなさい、と言っているのだった。
四
室内に射し込む月の薄明かりによって、魏蘭の姿はより幻想的に見えた。
どちらかというと細身の蘭であったが、衣服を脱いだその姿は充分に成熟した女性らしく、韓信は目のやり場に困った。しかし、目を離さずにはいられない。
ひしと抱き合い、蘭の胸や腹に顔をうずめると、確かに自分は人生の半分しか知らなかったと自覚せざるを得ない。韓信は世の中にこれほど柔らかなものがあることを知らなかった。
彼は自分が未知の快楽に溺れることを恐れ、戸惑った。しかし、手は蘭の体を触らずにはいられない。胸の小高いふくらみを揉み、すべすべとした腰をまさぐる。柔らかな臀部を抱え、やがてしっとりとした秘所をなでた。そうすると蘭は控えめな吐息を漏らし、両足で韓信の体を抱え込んだ。
――なんと……男まさりと言われた蘭が……。
韓信はそう思わずにはいられない。
「将軍……」
その声はいつもより高い音域で、小刻みに震えながら発せられた。
韓信はもうなにも考えられなくなり、まるで貪るかのように蘭の体の中へ飛び込んでいった。
その体に口づけをしても、甘い味がするわけでもない。それでも口づけをしようと望むのは、それをするたびに蘭が息を漏らすからだった。
韓信がそれにある種の征服感を持ったのは、確かである。
戦場で敵兵を討ち殺す征服感と別のそれは、よほど平和的なものであり、征服する側もされる側も満足できるものだったのだ。
「蘭、君には感謝しなければならない」
蘭はすでにまどろんでいるようだったが、韓信は興奮が冷めないのか、寝付く気にならない。蘭は眠気を抑えて、話に付き合わねばならなかった。
「……何を、でございますか?」
「私に、気付かせてくれたことだ。私は戦いの中に身を置くこと久しいが、なぜ自分が戦うのか、考えたことはなかった。たとえ考えても答えは出なかっただろう」
「未来の……漢王の国家樹立のために尽力してきた……のでは?」
「建前は確かにそうだ。しかし、事実がそうであるかどうかは、我ながら怪しい。おそらく、いままでの私は戦うこと自体が、人生の主題だった。戦争でどれだけ自分の能力を発揮できるか……競技のようなものだ。私の救い難いところは、自分だけではなく、他人もそのような目的で戦っていると信じていたことだ。しかし……いまとなっては、自分は愚かだったと思う。他の者たちは大きな目的を持って戦っていたのだ。私などより、よほど高尚な目的だ」
「その目的とは、何でしょう?」
「当たり前のことだろうが……大事なものを守ることだ。どうだ、とんだお笑いぐさだろう? 私はその当たり前のことが、わからなかったのだ。ところがいま私は君を抱き、遅まきながら人生の何たるかを知った」
「将軍は……大げさに考え過ぎでございます。男女が愛し合うことは、普通のことです。市井の若者でさえもすることではないですか」
「その通りだ。だが私は、女を抱けば自分が弱くなるものと思い込み、その結果、なんの目的もなく戦ってきた。そんな私が幾千、幾万もの人命を奪ってきたとは……。人生の意味を知らぬ大将。世の中で何がもっとも大事か知らぬ丞相……。それがこれまでの私の正体であった」
「では……人が自らの命を捨ててまで戦うのは、愛のため……ということですか?」
「ううむ……確かにそうに違いないが……私としては軽々しくその言葉を口にしたくはない。おそらく私には、それを語る資格がないのだ。なぜかと言えば、人殺しの私が愛を建前に戦うというのは矛盾した行為だからだ。……だが、今はその矛盾さえも受け入れることができる。いま私は……死んでも君を失いたくない。それでいて、できることなら死にたくはないのだ。君を守り通せても私が死んでしまえば、君と居る幸福を味わうことができない。……きっと人が戦う理由とは、そんなところだろう」
韓信は蘭を抱き、精神的な安定を得た。多少の矛盾にも動じない心の余裕ができたのである。そしてそれは彼の態度にも表れたように見えた。
韓信は自分の信用度をはかるためだけに得た三万の兵のかわりに、新たに得た魏兵のなかから精兵を選び、やはり三万を劉邦のもとへ送り返したのだった。
韓信と蒯通の賭けは、結局勝敗が曖昧なまま終わった。
五
このころ、滎陽の漢軍は窮地に立たされている。
漢は滎陽から秦時代からの穀物倉である敖倉につながる
「やはり当初の構想どおり、滎陽以東は楚にくれてやるのが得策かもしれぬ。誰が何と言おうと、和睦じゃ。それ以外どうしようもない」
劉邦はそう弱音を吐いたが、張良を始めとする諸将は諦めがつかない。
いま、韓信は西魏を降し、趙・代を降すに違いない。さらに燕・斉を降すことができれば大陸の北半分は漢の勢力圏となるのである。
これに加えて、南には新たに参じた黥布を淮南に派遣し、楚の後背を突く計画を立てている。これが成功すれば、楚を完全に封じ込める包囲網が完成するはずであった。
さらには彭城と滎陽の中間に位置する梁(かつての首都大梁などの魏の中心地域)周辺では、彭越が神出鬼没的に兵を率いて出没し、楚の補給路を断っている。
ここで劉邦率いる本隊が和睦を結んでしまっては、せっかくの彼らの活躍もまったく無意味なものになってしまうのだった。
「誰かいないか? わしのかわりに全軍を指揮する者は?」
その漢王劉邦の痛切なる願いに応えたのが、新参の護軍中尉、陳平であった。
陳平は劉邦の前に進み寄り、奏上した。
「私の腹づもりでは、項王は情にもろいお方、こちらが頭を下げ、和睦を請う形をとれば必ずや了承します。しかし強硬派の亜父范増などは反対いたしましょう。そこにつけいる隙が生じるかと存じます」
「項羽の性格……あれは情にもろいというのだろうか? わしが思うに、やつは暴虐だ」
劉邦は疑問を呈してみせた。
「暴虐なのは、敵に対してのみです。項王は自分に敵対する相手を無条件に憎むことができますが、逆に味方に対しては愛情をもって臨みます。これは項王が愛憎のみで動く人物であることを示しています。これを逆手に取れば……はっきり言って、項王に取り入るのは簡単です」
「しかしわしはかつて鴻門で項羽に頭を下げ、それから態度を翻すかのようにして今に至っている。それでもやつは和睦を承諾するのか」
「するでしょう。しかし、先ほども言った通り、項王が承諾しても范増が反対します。和睦は結局成立しません。そこで私は策を弄し、彼らを切り離そうと思います」
劉邦は陳平に軍資金として黄金四万斤を与え、それを自由に使わせて工作に当たらせた。それは、
劉邦は陳平がどのように金を使おうと文句を言わず、出納に関しては報告の義務なし、としたという。
それをいいことに陳平は、漢の軍中から数名を選び出して楚軍に寝返らせて、これを反間としたのである。もちろん、後の厚遇を約束してのことであった。
もともと陳平は楚で項羽の配下にあった男なので、楚軍中の事情には詳しい。彼は楚軍を内部から切り崩すために具体的な標的となる人物を定め、彼らに不利益な流言をばらまかせた。
そのうえで陳平は項羽に和睦を申し込んだ。項羽はこれを受けようと考えたが、諸将が必死になってこれを止めにかかった結果、この時点での和睦は流れた。しかし、これは陳平の予測の範囲内であった。
陳平は和睦がならないと知ると、ここで反間に命じ、噂が項羽その人の耳に入るよう工作をした。
その噂は次のようなものである。
「将軍鍾離眛は功が多く、項王に珍重されてはいるが、それでも未だ王侯とはなれず、自らの土地も持たない。このため彼は漢に寝返ろうとしている」
この種の噂は鍾離眛のみならず、范増を始めとする他の楚将に対しても同様に流された。項羽が部下に恩賞を施すにあたって吝嗇だとされている噂を利用したのである。
感情が多く、根が単純な項羽は、これで部下を信用しなくなった。
鍾離眛は前線から戻され、後方に待機を命じられた。范増はしきりに総攻撃を主張するが、項羽は范増に裏の意図があることを疑い、いうことを素直に聞かなかった。
ついに項羽は使者を漢に送り、独断で和睦を前提とした交渉を行うに至る。
漢軍の陣中に至った項羽の使者たちの目にしたものは、歓待の渦であった。
「このような厚いおもてなしを……項王がこれを知ったら、きっと漢王を厚遇いたしましょう」
使者の一人がそう口にした途端、劉邦、陳平を始めとする漢軍の誰もが白けた表情を見せた。
「項王……? 我々はみな、てっきり君たちのことを亜父范増の使者かと思っていたのだが……勘違いのようでしたな。なるほど、項王の使者か……いや、失礼申した」
あっという間に豪勢な食事の類いはすべて片付けられ、かわりに粗末なものが提供された。使者たちが驚愕したことは言うまでもない。
――これは……范増が漢に通じているということだ!
使者たちはそう確信し、帰ってその旨をつぶさに項羽に報告した。これによって項羽は范増の裏切りを信じたのである。
六
「漢が韓信を使って北の諸国を討伐しているのは憂慮すべき事態だが、これは逆に絶好の機会でもある。つまり、本隊の守備に韓信はおらず、漢を降すにいまより好機はないのだ! 和睦などもってのほか。今すぐ士卒に命令なさって滎陽を陥とすのです」
范増は口から唾を飛ばしながら、力説した。しかし項羽はすでに范増を疑い、その言葉に従う気はない。
項羽は言った。
「亜父、我々の敵は漢のみにあらず、後方に斉もいる。いまわしが滎陽を本気で陥とそうとして自ら出撃したら、彭城は斉に奪われるだろう。……それとも亜父はそれを見通してわしに献策なさるのか?」
范増は目を剥いた。項羽が自分に対してこのような口の聞き方をしたのは初めてである。
「なにを言っておられるのか。滎陽を獲ればよいのだ。彭城がその隙に奪われることがあっても、あとから奪い返せばよい。王にとって先に潰す相手は、斉より漢だ。なにを迷われるのか」
「……亜父、貴公を亜父などと呼ぶのは今日でやめにして、他の武将と同列に扱うことにする。以後は後方へ下がれ。それが不満ならば劉邦のもとに馳せ参じるがよかろう。本来漢に通じていることなど許されない大罪ではあるが、貴公のこれまでの功績をかんがみて、特別に不問に付す」
范増は耳を疑った。
「大罪? 不問? なんのことだ。王はわしが漢に内通でもしていると言っているのか? 王よ、気でも狂ったのか?」
「黙れ! 貴公の裏切りはすでに明らかだ。殺されないだけでもましだと思え」
項羽はついに怒気を発した。范増はいたたまれなくなり、退出せざるを得なかった。
――いったいどういうことか?
范増は身に覚えのない疑いをかけられ、その原因を探った。
それは間もなく明らかとなったが、漢の詭計に陥った項羽に落胆した范増は、自らにかけられた疑いを晴らそうとはしなかったという。
「天下はだいたいおさまったことだし、あとは王自ら治められますよう。わしのような老将はもはや必要ありますまい……骸骨を乞い(一身を捧げてきたが、骨だけは返してもらいたい、という意。辞職を申し出ること)、故郷に帰らせていただこうと存じます」
項羽はこれを許し、范増はひとり彭城に向かったが、その途上で背中に悪性の腫瘍ができ、それがもとで死んだ。
范増の死は病気が原因ではあったが、憤死といって差し支えなかろう。
項羽が真相を知ったのは、范増の死後間もなくである。漢による詭計だと判明した結果、鍾離眛など諸将はその地位を回復したが、范増はすでに亡く、取り返しがつかなかった。そのため項羽は劉邦を激しく憎み、いっそう滎陽の囲みを強化した。
漢・楚の対立は激しさを伴い、続いていく。
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