西魏王の娘

 戦国時代では、林立する国同士が互いに安全保障を結ぶ必要上、人質のやり取りが多くなされた。人質というと「国のための捨て駒」という印象を持たれやすいが、実際はそうではない。人質はその性質上、殺されても惜しくないような身分の軽い者を送るわけにはいかず、送る側にとっての重要人物にしか、その価値を認められない。このため人質の多くは、世継ぎの男子であった。一方女子は、他国と姻戚関係を結ぶ際に利用されることが多い。つまり、嫁に出されるのである。人質に比べると、こちらの方がより穏健な手段とも思われるが、これも実際はそうではない。人質には帰還後に王座が用意されているが、嫁には帰還さえも許されていないのが通例なのである。

 このとき魏の王が漢に差し出したのは、娘であった。しかしその立場は「人質」である。その特異な例が、事態をやや複雑にした。


 一


 魏豹ぎひょうという男は魏咎ぎきゅうの従弟で、その名が示す通り、魏の王族の末裔である。魏咎は陳勝・呉広の乱の際に自立して王を称したが、章邯に攻められ、降伏した後に焼身自殺をしたことは先に述べた通りである。

 このとき難を逃れた魏豹は、章邯が項羽に降伏したことを知ると、魏咎の跡を継ぐ形で魏王を称した。しかしやがて項羽の天下になると領地は削り取られ、河東郡の平陽付近一帯を支配する西魏王に立場は留まった。

 これは項羽自身が魏の東部・梁といわれる地帯(旧首都の大梁付近)を直接支配したかったからだといわれている。


 この項羽の処置に魏豹が不満を持ったかどうかまではわからない。しかし漢が韓信の策にしたがって関中の地を平定したとたんに漢の側に立ったということを考えると、そのような気持ちを持っていたことは充分に想像できる。

 しかし関中から魏豹の居城である平陽までは近く、遠くの楚より近くの漢と結んだ方が身の安全をはかれると単純に考えた結果が、漢への鞍替えの実情と言ったほうがよさそうである。


 その魏豹が京・索での一戦を終え、楚軍の追撃が止んだときに漢に対していとまごいをした。

「老母の容態が悪く、看病したい」

 という理由で平陽へ帰る、というのである。

 いかにもとってつけたような理由だが、この時代では「孝」の精神が限りなく尊重されているので、親の看病を理由にされては無理に引き留めることはできない。しかしこのときの漢の首脳部には、魏豹の申し出は、趙の陳余の一件もあり、体よく離反するためのかこつけだと思われた。


 魏豹はそれを察し、自身の帰国に関してもうひと言付け加えている。

「私は帰参するつもりでいますが、いくら私自身が帰ると言ったところで、漢王は信じないでしょう。つきましては私の娘を漢に置いていきます。人質と思っていただいて結構ですが、なにせ男勝りな性格の娘なので、前線にでも置いて使ってくださってもよろしいかと。凡庸な男子よりはよほど気構えがしっかりしております」

 できれば男子を人質にしたいというのが本心であったが、劉邦はこれを受け、魏豹の帰国を許した。


 人質の女子は名を蘭といい、このとき二十二歳であった。当然ながら姓は魏なので、この人物の姓名は魏蘭である。れっきとした西魏の公女の身分であったが、このときの彼女のいでたちは皮革製の胴当てや肩当てを身に付け、足には軍靴を履いており、男子の兵士と変わらぬそれであった。


 漢の首脳部の面々は、みなその姿を見て驚いた。また、兜を外した蘭の素顔が若々しく、きりりとした目元がとても美しいことに、揃いも揃って不安を覚えた。

 このような妙齢の、しかも美しい女を前にして、好色な劉邦が手をつけぬはずがないと考えたのであった。

「大王ならば魏蘭が人質であることを忘れ、夜ごと愛撫しようとなさるに違いないが、それははなはだまずい……。娘の蘭が大王に愛されることは、父の豹の立場を高めてやることにつながる。豹は全幅の信頼のおけない人物であり、そのような事態は許されないのだ。まして王妃の呂夫人は楚に囚われの身であり、どういう扱いを受けているのか見当もつかない状況である。このようなときに大王に背徳の種を残すわけにはいかない」

 これが、首脳部の共通の意識であった。


 かくして魏蘭は張良の進言により、韓信のもとに送られた。父、魏豹の望みどおりに前線に身を置くこととなったのである。

 この決定を聞いた劉邦は張良にむかって毒づくのだった。

「女というものは男に愛されてこそ幸せなのだ。韓信のような女の扱いも知らぬ奴のところに送っては、かの娘が可哀想ではないか。子房よ、君は女心がわからんのか」

 立場上、張良は次元が低いこのような話題にも真摯に付き合わねばならない。

「大王……魏蘭は武装しておりました」

「今さらなにを言う。そこが印象的だったのだ」

「おそれながら、大王は武装した女と寝所をともにできますか。ああいう女に気を許すと、寝首をかかれる可能性が大でございます。魏蘭のような女を御していくのには韓信のような堅物の男が最適でございましょう」

 このころの劉邦は若いときよりも保身に敏感になっている。目の前の美女よりも優先すべきは、自分の身の安泰であった。それは漢の命脈を保つためか、老いによって生じる生への執着のためかは、劉邦自身にもはっきりしない。

 いずれにしても、彼は諦めるしかなかった。


 二


「蘭にございます」

 韓信の前で深々と頭を下げた魏蘭の姿は、印象的なものだった。

 目は細くはないが、目尻がはっきりとしており、それがきりりとした印象を相手に与える。

 髪はおろしていたが、それでも肩にかかるくらいの長さでしかなく、この時代の女性としては極端に短い。

 口は大きくなく、真一文字に結ばれている。

 肌は白く、背筋はぴんと伸び、胸を張っている。立場は人質だが、にもかかわらず態度は堂々としており、全体的に凛とした雰囲気を醸し出していた。


 韓信も確かに蘭の姿に感じるものがあった。一度見たら忘れられない女というのはこういう女に違いない、と内心で思ったくらいである。

 しかし口に出しては、単刀直入にこう言った。

「君はどうしてそのような格好をしているのか」

 魏蘭は表情を変えずに話し始めた。

「きっかけは臨済で章邯に襲われたときです。あのときは一族もろとも逃亡したのですが、私は父から男装していた方が目立たないと言われ、このような姿で臨済を脱出したのです」


 韓信はふうむ、と相づちを打ち、さらに聞いた。

「臨済を章邯が襲った、というのは、斉の田儋が討ち死にしたときのことだな。あのとき魏王咎は民衆の安全を確保したのち焼身自殺した、と聞いている。……しかしそれからすでに相当の歳月が経っているな。にもかかわらず君が今もってその格好をしているのはなぜだ」

「父が許さないからです。臨済を脱出し、さし迫った危機を乗り越えたとはいっても、乱世の中では女は生きにくいものだし、父も安心できないと……。私もぞろぞろした宮女のような格好よりは、このほうが気に入っております」


 韓信は話の内容に納得したような表情をしたが、口に出して言ったことはそれと正反対であった。

「ふむ、そうか。……では今後、君が陣中をそのような格好をして歩くことを禁ずる」

 このとき、はじめて魏蘭の表情が変わった。つかの間であったが、眼を見開き、驚きを表したのである。

「理由を……お聞かせ願いますでしょうか?」


 韓信は別になんでもないとでも言いたそうな素振りを見せて、答えた。

「理由は簡単なことだ。君のような妙齢の女子がいると、陣中の兵士が落ち着かない。兵たちの多くは家族を引き連れて各地に出征しているので、君はその中に混じって、軍装を解き、女として暮らせ。髪もゆるゆると伸ばすがいい」

「嫌です!」

 急に感情をあらわにした魏蘭に、今度は韓信の方が驚いた。


「……わかっていないな。これは君のためでもあるのだ」

「どういうことですか……」

「私の見たところ、君の軍装は格好だけだ。実際に戦場で敵を殺したことはない。どうだ、違うか?」

「…………」

「そのような未熟な、しかも女を戦地に立たせることはできない。まして君は大事な人質なのだ。私としても、無駄に死なせるわけにはいかない」


 魏蘭は唇を噛み、韓信を睨みつけた。

「たとえ将軍のおっしゃる通り、私の軍装は格好だけだったとしても……誰しも初陣というものがあるはずでしょう? 私は女だからという理由でそれさえも許されないのでしょうか」

「無理に戦場に立つ必要はない、と言っているのだ。君の態度はおかしく、怪しいな。ひょっとしたら魏豹の命を受けて、私なり漢王なりを暗殺するつもりではなかろうな?」

「それは、ございません。私は漢の側に立って戦いたいのです。将軍のもとで……お疑いだとしても証明するものは何もございませぬが……」


 韓信には、蘭がどうしてこれほど戦地に立ちたがるのかが、よくわからない。対処に困った韓信であったが、そのとき急を告げる伝令が現れ、彼らの会話を遮断した。

「申し上げます。西魏王豹は蒲津ほしんの関を塞ぎ、漢に敵対する構えを見せております!」


 韓信は驚かなかった。やはり来たか、という思いで眼前の蘭に視線を投げ掛ける。しかし当の蘭に動揺した様子はなかった。

「……魏王豹は人質である娘を見捨てる覚悟らしいな。いわば、君は捨て駒というわけだ」

「…………」

「蒲津は黄河の渡し場である。ここを塞いだということは漢は滎陽周辺に閉じ込められた形となり、いずれ機が訪れれば、楚、趙、魏の三国から攻められ、包囲されるであろう」

「…………」

「君はこうなることを予測して、人質となることを了承したのか。事態がこうなったからには、君はいつ斬られてもおかしくない。魏豹とて、それをわかっていたはずだ……。君は娘として父親に愛されていないらしいな」


 韓信はそう言ったものの、返答を期待したわけではない。烈士というものは男女を問わず、こういうものなのであろう。やりきれない思いを抱いたが、それを隠し、傍らの衛士にむかって命令を発した。

「人質としては、もはや無用の長物である……この者を斬れ」


 三


 衛士たちが、処刑の準備を始めた。魏蘭は両手を後ろに縛られ、足には枷をはめられた。目隠しをしたのは韓信の情けである。しかし同時にそれは自分のためでもあった。決心を固めたとはいえ、やはり女性を斬殺するのは気が引けた。せめて死ぬ間際の表情は見ないでおきたかったのである。


「将軍……お聞きください……」

 蘭は静かに語り始めた。韓信は心が揺れた。

「発言を許可する。ただし、ひと言だけだ。しかしそれによって私が決断を覆すことはないぞ」

 韓信はいつも以上にかたくなになっていた。ほんの一瞬も魏蘭の姿に心を動かすことがなかった、と言えば嘘になる。韓信としては女にたぶらかされたという思いがあったに違いない。

「私は……魏を討ちたいのです」

「人質の身分で馬鹿なことを! ふざけているのか」


 やれ、と合図を出しかけたときだった。

 韓信の前に一人の老人が現れたのである。

「待たれよ。将軍の采配は勇猛なる無数の敵に対して振られるもの。このようなたったひとり、しかも女に対して振られるものではない」

 その声の主は酈食其であった。

「酈生……。しかし、この女のおかげで魏はまんまと離反し、漢は孤立しようとしているのです。私としては、女だからこそ、そのような芸当が可能なのだと考えます。生かしておくべきではありません!」

 酈生は韓信の態度に驚きを禁じ得ない。自分の知っている韓信は、もっと柔軟な男で、戦時といえども安易に人を殺すことを考えない男であった。

 ――戦陣を重ねるにつれて、感覚が鈍ってきているのか……いや、相手が女だからこそ、自分が意志の固いところを見せようとしているのかもしれん。……要するに、意地を張っているのだ。


 酈生はそう思い、韓信をなだめようとした。

「将軍、事態がこうなったからには今さらその女を殺したところで何も解決せぬ。それに今の段階でその女を殺すことは、はなはだまずい。漢王には魏を討つ気が今のところないらしい。王は、わしに魏豹の説得を命じられた。だが人質が死んだとあっては、説得できない」

 韓信は、はっとした。

 ――私は、てっきり魏を討つものだと……。これでは、ただ戦いを欲するだけの蛮勇と変わらない。女を前にして冷静な判断ができなくなるとは……。どうしたというのだ、私は……


「落ち着いてきたようじゃな。そう、大王は楚と敵対しており、このうえ魏と対立することは欲していない。そのためわしに命令を下された。『おい、おしゃべり! 行って豹を連れてこい。それができたら一万戸の領地をやろう』と、いつもの調子だ。将軍は少なくともわしが魏豹と接触している間、その女を生かしておかねばならぬ。でなければわしの一万戸の領地の件もなくなってしまうからな」

「説得は、できましょうか?」

「……正直、難しいじゃろう。説得できねば、討つしかない。そのときまで、せいぜいあの女を飼いならしておくことだな。魏豹の彼女に対する仕打ちを思えば、今後は漢のために働いてくれるかもしれん」


 酈生はそう言って去っていった。韓信は前言を取り消し、

「……女を解放しろ」

 と周囲の者に命令したが、自分が正しい判断を下せなかったことに気恥ずかしさを感じ、近侍の者すべてを退出させた。一人になりたかったのである。


 四


 自らも屋敷の奥へ退き戻ろうとする韓信を、解放された魏蘭は呼び止めた。

「将軍。お話の続きを……私は、魏を討ちたいのです。その心に偽りはございません」

「もういい。君は自由の身だとは言えないが、大切な人質だ。もう殺そうとしたりはしないから安心しろ。宿舎は今日の夜までには用意させる」

 韓信は魏蘭を顧みようとはしなかった。しかし魏蘭はなおも食い下がった。

「将軍、せめてお話を。言い方を変えますから。私は魏豹を討ちたいのです」

「……! 君たち親子は、そういう仲か。いったい何があったというのか……いやいや、聞くまい。それは君の家庭内の問題だ。個人的な怨恨を持ち込むと全体の作戦行動に支障が出る。聞かないでおこう」

「将軍のお心の中だけにでも……たとえ思いが達せられないとしても、誰かに聞いてもらいたいのです」

 思ったよりしつこい女だ、と感じて振り返った韓信は、魏蘭がうっすらと涙を浮かべていることに驚き、結局室内に入れてしまった。


「最初に言っておくが」

 韓信はいつも以上に威厳を保とうと努力している。籠絡されまいとしているのかもしれないし、女の前で単に格好をつけているだけなのかは自分にもよくわからなかった。

「誰が誰のことを愛し、捨てられた者がどうした、などという話なら、よそでやってくれ。私はそのような男女の愛憎劇のような話題を好まない」

 魏蘭は室内に足を踏み入れると涙に濡れた頬を手で拭い、居ずまいをただして席に座った。そうすると、すでにもとの凛とした表情に戻るのである。

 ――変わった女だ。やはり私は籠絡されるのではないか。


 韓信は警戒を解かず、緊張した面持ちで魏蘭と面した。その様子を端から見ると、世慣れしていない若者が初めて女性と二人きりになったときと変わらないように見える。

「ご安心ください。話はごく政治的なものです。……要点から申しませば、私は魏豹の実の娘ではないのです」

「ほう、養女か? では君はいったい誰の娘か?」

「魏豹の従兄、魏咎の娘です」


 韓信は心ならずも、興味を覚えた。体が前のめりになり、膝を乗り出した。

 しかし、ふと我に帰ると、そんな自分に嫌気がさす。あわてて姿勢をもとに戻し、あえて仏頂面をしてみせた。

「詳しく聞こう」


 魏蘭は話し始めた。

「私には二人の兄がおりました。上の兄は魏賈ぎか、下の兄は魏成ぎせいといい、私を含め三人とも正室の子です。父は……魏咎は、臨済が章邯によって包囲される運命にあることを予期し、ひそかに私たち三人を魏豹のもとに託したのです。しかし魏豹はちょうど斉王田儋が救援に駆けつけてきたことを知り、賈と成の二人を斉軍に編入させてしまいました」

「君は魏豹のもとに残ったのか?」

 蘭の表情にうっすらと苦渋の色が浮かぶ。

 ――陰がある。事実を話しているように見えるが……。

 韓信はまだ半信半疑である。魏蘭はその疑念を打ち消すかのように話を続けた。

「私は女でしたから……。生き残ったとしてもさして自分の将来の障害とはならないと思ったのでしょう。魏豹は王になることを欲していました。王になるためには、魏咎はおろか、その二人の息子も邪魔だったのです」

「……そして二人の息子は、狙いどおり章邯によって滅ぼされた。田儋とともに……というわけか?」

「その通りです。その間に魏豹は私を連れて臨済を脱出し、楚に逃れました。いっぽう従弟の魏豹の裏切りを知り、同時に二人の息子を失った父は、そのことに落胆して焼身自殺したのです」

 魏豹は自身が生き延びるための努力を惜しまない男だった。しかし、それだけでは悪人であるとは言いきれない。およそ人間というものは本能的に生に執着するもので、それは自分も同じだからである。

 それに反して、目的の達成のために簡単に死んでみせる烈士の部類が賞賛されるのは、彼らが人間の本能を超越していると見えるからであろう。少なくとも韓信はそう思っていた。

 しかし生き延びるだけが目的ならば、魏豹は王位など求めるべきではなく、市井に隠れて平穏に暮らしていればいいだけの話であった。魏豹に何らかの形で関わった者は、野望に付き合わされたあげく、魏につき、楚につき、漢につき、そして今は漢に背いてまた楚の側に立っているのである。

 運命を翻弄されるというのはこのようなことをいうのだろう。


「ある夜、私は寝所を襲われました」

「へえ? 誰に」

 話の内容が急に変わったので、韓信の反応も少々間の抜けたものになった。

「必死で抵抗して事なきを得たのですが……暗がりで誰かはよくわからなかったものの、十中八九あれは魏豹だったと思います。私がいまだに男装して鎧や兜を付けたりしているのも実はこれが理由です。それ以来魏豹はあてつけのように人前で私のことを男まさりだと言いふらすようになりました」


 韓信はため息をついた。

 ――やはり、個人的怨恨が……しかし、無理もないではないか。

 そう考え、やがてさとすように意見を述べた。

「決めた。……魏豹には生き続けてもらう。いま酈生が行って説得を試みているが、それが成功して戻ってきた暁には、君との一件を公にし、恥をさらしながら人生を送ってもらうこととしよう。それがいい」

 魏蘭はしかし納得がいかないようであった。

「……私は殺したいほど憎いのですが」

「いや。どんな事情があれ、女である君に人殺しの感覚を味わわせたくない」

「……でも、魏豹が説得に応じるとは思えません」

「そのときは私が出征して、生け捕りにでもするさ」


 そのとき魏蘭の目の鋭さが若干やわらいだように見えた。もともと表情の変化が少ない女性だったので、韓信にはそれだけでも微笑したように見えたのである。

 韓信は多少、いい気になった。

「さて、私は君のことをさっきから君、君と呼んでばかりいる。小蘭とでも呼べばいいか? それとも蘭姫とでも呼ぶべきか」


 小蘭とは俗な表現をすれば「蘭ちゃん」と呼ぶのに似ている。韓信のこの問いに魏蘭のやわらいだ表情は影を潜め、もとのきりりとしたものに戻った。

「蘭で結構です」


 これを聞いた韓信は調子に乗りすぎたと思い、市井の若者と同じように女性の扱いに関して後悔し、反省したという。


 五


「子房よ、やはり滎陽以東は放棄すべきか。魏豹が背いてわしにはよくわかった。楚の項羽を警戒しながら中原を支配するなど、現状ではとても無理だ。誰かおらぬか? わしのかわりに戦ってくれる者は?」

 劉邦は弱音を吐いた。もうやめたい、と言うのである。相談を受けた張良は劉邦のそんな気持ちを知りながら、あえて淡々と作戦について語るのであった。

「九江王黥布の動きが、近ごろ目立ちませんな。斉の田栄を討伐した際にも同行しておりませんし、我々が彭城を陥した際にも救援に来ませんでした。先日の京・索での会戦の際も先鋒を務めていたのは鍾離眛で、彼は参戦しておりません。これは、項王と黥布の間に隙が生じたということでしょう」


 劉邦は憮然とした。

「いったい、なんの話だ」

 張良は構わずに続ける。

「彭越を覚えておられますか」

「魏の宰相だ。かつてわしが任じたのだから忘れるはずがない。しかし、王の魏豹が背いているというのに、あの男はまるで顔を見せないし、弁明もしようとしない。まったく……どいつもこいつも逆賊ばかりだ」


 彭越は鉅野きょや(地名)の漁師上がりの男で、田栄が楚と争った際に将軍として斉の側に立って戦っている。その後、漢が彭城を攻略した際にこれと合流し、劉邦から旧魏の領地を自由に攻略してもよいという許可を得た。そこで魏の宰相の位を得たのである。

「急ぎこの両人に使者を遣わせ、味方としましょう。黥布は罪人あがりで楚の猛将、彭越は一匹狼のような男でどちらも全幅の信頼はおけませんが、敵の敵は味方、という言葉もあります」

「心もとないな。彼らが楚に背いて漢に味方するとしても、最終的に目指すものは、自立であろう。それならば魏豹や陳余などを味方にしているのと変わらない」

「確かに。しかし、我が軍には韓信がいます。彼に命じて北の地を制圧させるのがよろしいでしょう。大事を託して担当させるに足る将は漢軍では彼一人かと……。魏豹は背信したのですから、その領地は取りあげ、彼に捨て与えてしまうのが得策かと思われます」


 劉邦には名案であるかのように思えた。しかし、これは韓信を別働隊の将とすることである。漢軍随一の将軍を本隊から切り離して、誰が本隊を守るのか?

「本隊は、当然ながら楚の項王と常に相対します。厳しいことですが、それは漢王ご自身に指揮を執ってもらわなければなりません」

 劉邦は心底辟易した。

「……子房、わしは、もういやだ。韓信でさえ項羽には勝てるかどうかわからんのだ。それなのにこのわしが指揮を執って勝てるはずがない」

 これに対して張良は声を抑え、しかし断固として言った。

「お聞きください……もし韓信が本隊の指揮官として楚と戦い、項王を討ち殺したとしたら……おそれながら天下を統一するのは大王、あなたではなく韓信でしょう。そうなったらいずれ大王は韓信と戦わなければならなくなる……韓信と戦って、勝てますか?」

 劉邦は張良の話の内容に悪寒を覚えた。

「……いや、とても……」



「どうでしたか?」

 韓信は戻ってきた酈食其を呼び止め、尋ねた。

「どうもこうもない。魏豹の分からず屋め……。魏豹が背いたのは、他ならぬ自分自身の野心のためだ。それをあの男……漢王の行儀の悪さのせいにしおった。気取ったことを申しておったわい」

「魏豹は、なんと?」

「人間の一生は白馬が壁の隙間を通り抜けるほどの短さだと……よくわからんが、だからやりたいことをやるという意味だろう。とにかく漢王は上下の礼節をわきまえず、諸侯と奴隷の区別もないから二度と顔を合わせるのはごめんだ、と申しておった。いずれにしても説得は失敗、わしの一万戸の領地の話もなくなった。将軍、やはり君の出番だ」

「それはそれは……ところで酈生、魏の大将はたしか……周叔しゅうしゅくという老将だったと思いましたが。彼が今回も指揮を執るのでしょうか?」

 韓信の問いに酈生は答えた。

「いや、周叔は老齢で体の自由が利かない。今回は栢直はくちょくであろう」

「ならば話は早い。私が言うのも何だが、彼はほんの小僧っ子に過ぎない。騙すのは、簡単です」

 韓信は魏蘭のことで頭を悩ましていたが、やはり軍事のことを忘れていたわけではなかった。あらかじめ彼は説得に赴く酈生に、魏軍の内偵を依頼していたのである。


 かくて韓信に魏豹討伐の命が下された。紀元前二〇五年八月のことである。


 六


「いま将軍に私が申すべきは、お悔やみ申し上げます、といったところでしょう。さりながら同時にお慶び申し上げます、とも言わせていただきます」


 蒯通の弁舌は、韓信には謎掛けのようでよくわからない。韓信はこのときもいったい彼がなにを言おうとしているのかがわからず、戦闘前の忙しいさなかということもあって、いらいらする気持ちを抑えられなかった。

「蒯先生。先生のような縦横家はそのような論調で相手を手玉に取るのだろうが、私に対する時はもっと単刀直入に物事を述べてほしい。先生はいったいなにを私に言いたいのか」


 蒯通は韓信に対して再拝し、滔々と意見を述べ始める。

「将軍は、天下を統べるお力をお持ちです。それでありながらこのたびも漢王の手駒となりおおせ、命じられるままに動いておられます。これを私は、お悔やみ申す、と言っているのです」

「なにを言う。私は漢王麾下の将軍である。先生の言う手駒という表現にいい気はしないが、実際はその通りだ。臣下が主君の命に従うのは当然であろう」

 韓信はどなりつけたい衝動に駆られたが、蒯通が自分を高く評価して物を言っているのがわかったので、なんとか我慢している。


「狩人は、野の獣を取り尽くすと、猟犬を煮殺すものです。どうか深くご考慮を」

「……狩人が漢王で、猟犬が私だと言いたいのか。なんという不遜なことを。まあいい、考えておこう。それでどういうわけで今度はお慶び申し上げます、なのか?」

「将軍は、魏の公女を手中に収められました。魏豹を討ち、かの公女を前面に押し立てれば、将軍が魏王を称することも不可能ではありません。そのためお慶び申し上げます、といったのでございます」

 韓信は苦虫を潰すような顔をした。

「手中に収めるなどと……嫌な言い方をする。私と魏蘭とはそのような関係ではない。それに私には彼女を政争にまきこむつもりはこれっぽっちもないのだ」

「ほう、意外でしたな。かの蘭という娘は器量も常人以上、将軍にお似合いだと思ったのですが……将軍にはあまりお気に召しませんでしたか」

 韓信は体温が上昇するのを感じた。蒯通が指摘しなかったから不明だが、もしかしたら赤面していたかもしれない。

「縦横家というものは、そうやって女性の外見にも論評を下すものなのか。しかし私の好みは、……もう少しふくよかな女性だ。蘭は確かに美人ではあるが、私の好みとは……」

 そのとき後方に当の魏蘭の姿が見えた。

 その姿は相変わらず軍装を施したままである。結局韓信は魏豹を討つにあたって蘭にその様子を前線で見せることにしたのだった。


 蒯通はにやりといやらしい笑いを浮かべながら、言うのだった。

「失礼します。将軍、魏の公女を得たことは、この上もない機会ですぞ。身をたてるには何ごとにも機会が大事です。機会、機会! よくお考えください」

 そう言って蒯通はその場を立ち去った。

 蒯通は明らかに韓信を使嗾し、煽動している。韓信は自分の運命というものを考えずにはいられなかったが、深く思考したところで答えが見つかるものでもない。


 しかし、劉邦に背いて自立する、というのはどう考えても自分らしい生き様だとは思えなかった。


 七


 このとき韓信は任じられて左丞相となり、軍の管理などにおいてほぼ自由な裁量を与えられた。

 丞相の権限については諸説あるが、実質的な総理大臣というのが一般的な見方である。また左丞相もあれば右丞相もあり、どちらかが上位に立つのだが、これは王朝によって異なるものである。この時期の漢の場合、内政の長として蕭何が存在しているので、韓信が左丞相ならば、蕭何が右丞相であり、蕭何の方が不文律で上位に立った。韓信は征服地の占領政策などを副首相のような立場で一任されたのである。


 このとき韓信は気が進まなかったものの、蘭を中軍に置いた。

「蘭、常に私の見えるところにいるのだ。戦闘中は馬が興奮するかもしれないから、気をつけるのだぞ。最低でも、カムジンより前には出るな」

 蘭は緊張しているらしく、韓信の言葉にこくりと頷いてみせただけであった。


 魏軍は函谷関の近く、黄河の北岸の蒲坂に大軍を集め、漢軍は対岸の臨晋に陣を取った。

「川を前に陣取ることは兵書の通りで魏豹はそれを実行している。しかし、敵が渡河してこない限り恐れることはない。こちらも川を前に陣取っているからだ。どういう形でもいい、渡河して敵陣に飛び込んだ軍の方が勝つ」

 そこで韓信はあからさまに川岸に船を連ねて、あたかも大軍が渡河を試みているように魏軍に見せかけた。

 船は弓矢の射程距離ぎりぎりのところで進んでは退き、また進んでは退き、を繰り返す。それは魏軍を挑発しているかのようであり、逆に攻めあぐねているかのようにも見えた。


「韓信は漢軍随一の将だという話であるが、噂ほどではないな!」

 対岸の魏豹は周囲の者にそう話し、まともに迎撃する必要はない、と判断を下した。このままにらみ合いが続き、兵糧が先に尽きた方が撤退すると考えたのである。

 魏豹はあらかじめこうなるであろうことを予測し、根拠地である平陽からの補給路を充実させておいたのである。


「将軍……大丈夫なのですか? 戦況が膠着状態になっていることが、私にもわかるくらいです。このままで魏豹を捕らえることが可能なのでしょうか?」

 それまでおとなしくしていた蘭が船上で韓信に問いかけた。滞陣四日めのことである。

「心配するな。布石は打ってある。明日の昼前には渡河の機会が訪れるはずだ。それより蘭、カムジンの様子が変だ。見てやってくれないか」

 カムジンは騎馬戦では尋常でない能力を示すが、船に乗ったのはこれが初めてだった。川の流れは緩やかだが、彼はそれにも耐えられず、船酔いの症状を示していたのである。

「カムジン、大丈夫? ……ふふ、勇士だと聞いていたけれど、可愛いのね」

「すみません」

 介抱されるカムジンを見て韓信は、憎まれ口を叩いた。

「カムジン、その様子では別働隊の方にお前を配置した方がよかったな!」


 別働隊の存在を蘭が知ったのはこれが初めてだった。

 韓信としては蘭を陣中に置くことは決めたものの、ここに至るまで彼女が魏と通じているかもしれないと疑い、話さないでおいたのである。


 黄河の流れは蒲坂ほはん臨晋りんしんのあたりで関中台地から流れてきた支流の渭水と合流する。魏豹と韓信が互いに黄河を挟んで陣を置いたのは、ちょうどこの合流地点であった。

 その合流地点のやや手前、北よりの関中側の地点に夏陽かようという城市がある。韓信が別働隊を置いたのは、この夏陽であった。ここを渡河地点として対岸に渡れば、魏軍の後背をつくことができる。韓信自ら指揮する臨晋の船の部隊は、実は囮であったのだ。

 別働隊の将は、曹参そうしんである。沛時代からの蕭何の部下であり、劉邦旗揚げ以来、最古参の男であった。韓信などより年齢も上、身分は韓信が左丞相であるのに対し、曹参は仮の左丞相であった。

 韓信が曹参に最も重要な局面を任せたのは、そのような事情に配慮したからのようである。


 戦闘開始に先立ってあらかじめ木製のかめを大量に買い集めた韓信は、これを曹参に言い含めて託した。曹参は別働隊として夏陽に到着するや否やこれを加工して筏とし、魏軍が蒲坂にくぎづけになっているところを尻目に渡河に成功した。そして後方の城市を次々と陥落させたのである。


 魏豹は驚き、兵の大半を曹参の軍に対抗させたが、これが原因で臨晋から韓信率いる本隊の上陸を許してしまった。結果的に彼は、二方向から挟撃される結果となったのである。


「魏豹を殺すな! 生け捕りにせよ」

 渡河してしまえば兵力の差は歴然としている。韓信は上陸してようやく息を吹き返したカムジンを先頭に立たせ、悠々と魏豹を包囲することに成功した。

 いっぽう曹参は西魏の首都平陽に攻め入って魏豹の妻子を虜にするなど、ことごとく平定に成功した。その結果、平陽は曹参の食邑となったのである。


「蘭、どうする。対面するか」

 虜囚の身となった魏豹の前に蘭は無言で現れた。

「殺すなよ」

「……殺してやりたい……憎いのです」

「一時の感情、屈辱に屈するな。大事をなそうとする者は、そういうものに耐えなければならない。耐えられないのなら、忘れてしまえ。小人物を殺したところで、君の名誉には決してならない」

「それは……かつて将軍が無頼漢の股の下をくぐった経験から、おっしゃっているのですか」

「……誰にそんなことを聞いたのか知らぬが……その通りだ」

「……わかりました。忘れることはできませんが、耐えてみせます」


 そう言った後、蘭は、捕縛されている魏豹の前に立ち、敢然と言い放った。

「親子の縁は、もともとかりそめのもの。今後私はその縁を断ち切らせていただきます」

 そしてつかつかとその場を立ち去った。


 ――うむ……そうだ。それでいい。


 韓信は蘭のその様子に、自分に似た姿を見たような気がした。


 魏豹はそのまま滎陽へ送られ、漢の一兵士として扱われることとなった。王位は取りあげられ、平民におとされた。

 後任の王は置かれず、西魏は河東、太原、上党の三郡として漢の直轄地とされた。旧魏の王族は死滅したわけではないが、王国自体がなくなった以上、すべて身分を剥奪されたのと同じである。そしてそれは公女の魏蘭も同じであった。


 結果的に、魏蘭を利用して韓信を王としようとする蒯通の目論みは外れた。

 

 

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