第二部
京・索の会戦
韓信と鍾離眛は幼少時からの付き合いであり、お互いにその存在を意識し合う間柄であった。しかしより強くそれを意識していたのは、鍾離眛の側であろう。鍾離眛は何ごとにも自分より優れた才能を発揮する韓信を超克したいと望んでいた。一方の韓信は、鍾離眛と戦うことを望んでいなかった。鍾離眛は二人が好敵手のように競い合うことを欲していたのに対し、韓信はできるだけその機会を避けようとした。なぜなら二人が互いに戦うことで訪れる結末が、眛の死であることが信にはわかっていたからである。つまり、一言でいうと鍾離眛は夢想家であり、韓信は現実主義者なのであった。
一
「危ないところでしたな。韓信は無事でしょうか?」
手綱を操りながら、夏侯嬰は劉邦を気遣い、話しかけた。
「わからん……。それにしても情けないのは我が軍の脆さよ。五十万以上もいた兵卒たちがわずか一日で四散してしまうとは……。一体この先どうなるのか」
劉邦は悪寒を覚えた。味方の不甲斐なさは言うに及ばず、とにもかくにも項羽の武勇の凄まじさ……。
あの男とこの先一生涯をかけて敵対し続けねばならないと思うと、想像するだけで足が震えるのだった。わずか三万の兵に蹴散らされたことを考えると、とても自分などには太刀打ちできないと思える。
――わしは、進むべき道を誤った。あの項羽と争って天下を狙うなど、我ながら高望みも甚だしい。昔に戻って……また沛の街で酒でも飲んで暮らしたいものだ。
そう思うと、目に涙が滲んできた。我知らず鼻水も垂れてくる。
夏侯嬰はそれを見て、言葉を励まし、劉邦をさとすのだった。
「この先どうするかは、張良や韓信が考えてくれます。彼らが無事だったらの話ですが。大王は自らの身を案じ、家族の身を案じておられればそれでよろしいでしょう。とにかく大王の身になにかあっては、漢は成り立たないのですから……。そのお手伝いは不肖ながら嬰がいたします」
言いながら夏侯嬰は馬の進行方向を変え、来た道を戻り始めた。
「どこへ行く?」
驚いた劉邦は聞いたが、夏侯嬰は当然のように、
「沛へ向かいます」
とだけ答えた。
「……嬰、お前には人の心を読む能力があるのか。わしが沛で酒を飲みたいと思ったから……」
「違います。大王はこんなときにそのようなことをお思いだったのですか」
劉邦はしどろもどろになった。
「いや、それは……まあ、いいではないか。それよりなんのために沛に寄るのか、それを聞きたいのだ」
夏侯嬰は馬に鞭を入れた。劉邦の勘の鈍さに少しいらついた様子だった。
「沛にはご家族がおられましょう。救いにいくのです!」
こうして劉邦は数騎の護衛を従え、沛に向かうこととなった。
沛と彭城は目と鼻の先と言えるほど近い位置にあり、この時点で沛に向かうことは当然のことながら危険を伴う。それでも楚軍に家族をさらわれ、人質にとられることで、後の行動を制約される素因をつくることは避けなければならなかった。
しかし沛にはすでに楚の兵士があふれ、家族を捜すどころではなかった。時すでに遅かったのである。
劉邦らは楚兵に囲まれ、それぞれ一目散に逃げたが、みな散り散りになってしまった。
劉邦と夏侯嬰はたった一輛の車両で逃げ続けたが、その途中で運良く息子の
ところが追手がせまる中、幼く、なにもわからない子供たちはあどけない仕草で手遊びなどをしている。
劉邦はそれが癪に障り、やおら子供たちの襟首をつかんで車の外に放り出した。
「な、何をなさるのです!」
夏侯嬰はあわてて車を止め、道ばたに転がった兄妹を拾い上げて車に戻し、再び走り出した。
しかし劉邦はその後三度に渡って兄妹を車の外へ放り投げた。夏侯嬰はそのつど車を停めては、拾い上げて走り出す。
「いい加減にしろ! 停めるな、嬰。今度停めたら斬るぞ!」
劉邦は凄んでみせたが、夏侯嬰は意に介した様子もない。
「私を斬れば、誰が馬を走らせるのですか。大王こそ、わけの分からないことをするのはおやめください。楚軍に追いつかれてしまいます」
「わけが分からんとはなんだ! こいつらが乗っているから、重くて馬が疲れるのだ。そんなこともわからんのか」
「いくらなんでも幼な子を見殺しにすることはできません。ただの幼児ではない、公子と公女ですぞ。大王は平気なのですか」
「おまえはこいつらとわしとどっちが大事だと考えているのだ。公子だろうとなんだろうと、子など失っても構わん。わしさえ存命ならば、また子を作ることはできるのだ! お前はわしの命を第一に考えろ」
「……従えません! 私の命にかえてもこのまま逃げおおせてみせます。それなら文句ないでしょう」
「お前の命など、どれほどのものかよ!」
劉邦は吐き捨てたが、夏侯嬰を斬るわけには、やはりいかなかった。
かくして夏侯嬰は自分が斬られない立場であることをいいことに、我を押し通して兄妹をのせたまま車を走らせ、なんとか危地を脱することに成功した。
しかし一方で沛に取り残された劉邦の父と妻の
二
韓信は彭城から滎陽への道を辿るなか、散発的に楚軍に襲撃されながらも敗兵を集めて組織し直した。情勢の確認も忘れておらず、誰が無事逃げおおせた、誰が戦死した、という情報をなるべく努力して集めるようにした。
しかし現代のように個人間の連絡がとりづらいこの時代ではそれも思うようにならない。
結局韓信がまともに得た情報は、
「趙軍は多数の犠牲者を出しながらも中枢部は無傷で、頭目の陳余は兵を率いて
ということぐらいであった。
その情報の主は、
小男でさえない風貌であったが、各地の政情に通じた弁士で、いわゆる
このとき蒯通は、韓信に対して、
「趙はいずれ、楚に靡きましょう。魏もまた然りです。漢が楚に対抗しようとするならば、趙・魏の勢力をあわせて楚を包囲することが不可欠です。それでようやく五分というところでしょう」
と言った。また、
「趙・魏の勢力を合わせることは、連合という協力体制によっては不可能です。生ぬるすぎます。しかるに武力をもってこれら二国を制圧し、属国とすることが最善でしょう」
と言った。
韓信はほぼ初対面の相手からこのような大胆な発言を聞かされたことに驚き、
「君はそれを私にやれとでも言うのか」
と問いただしたという。
韓信としてはそういう政略めいたことは漢王や張良にでも言え、と言いたかったのである。
しかし蒯通はこれに対して、さも当然のように答えた。
「ほかに誰がおりましょうか? 将軍以外にできる者はおりますまい」
――できる、できないではない。お前は献策する相手を間違っているのだ。
と韓信は思ったが、
「君の言うことは理解できるが、今はそのようなことを考えている余裕はない。漢軍自体が壊滅に近い状況にある今、どうして将来のことを考えていられよう? 私には喫緊の課題がある。それは大将として漢軍を立て直すことであり、趙や魏を討つことではない」
と、正当な論理で蒯通に言い渡した。
蒯通は含みのある笑みを浮かべ、これに答えて言った。
「それはその通り……間違いございません。しかし、将来的には必ず将軍が……。すでに将軍は旧秦の地を平定し、韓を撃ち破りなさった。おまけに項王とも渡り合ったと聞き及んでおります。きっと漢王は将軍に命じます。魏を討て、趙を討て、代を討て、燕を討て……と。そして斉をも討てと命じます。あらかじめ、お覚悟はしておいた方が良いかと」
「君は一体何が言いたいのだ」
韓信は蒯通の言葉に気分が悪くなった。蒯通はまるで自分を使嗾しているかのようで薄気味悪い。「お覚悟」とはなんの覚悟のことか。まるで見当もつかない。
「漢王から命が下されれば、私はそれに従うまでのことだ。ほかには何もない」
韓信はそう言い、蒯通をさがらせた。
「……大将ともなると、得体の知れぬ輩も寄ってくるものよ。私に一体どうしろというのだ。なあ、カムジン」
「……ハイ」
「お前は相変わらず無口だな!」
蒯通のような口達者な弁士を相手にしたあとでは、カムジンのような寡黙な少年を相手に愚痴をこぼすのも楽しいというものだった。
韓信はその日の午後、鍛錬と称してカムジンと騎射の腕比べをし、完敗を喫した。それでも束の間の楽しい時間を過ごしたのである。
韓信は滎陽に至るまでの間、八千五百余名の敗兵を再集結させることに成功した。一方劉邦は滎陽の手前、
三
劉邦は韓信が滎陽にたどり着いたのを確認し、手放しで喜びを表現した。
「天下無双の武勇。漢の至宝。わしの麾下で項羽と渡り合える者は韓信のみである」
「とんでもありません」
喜ばしいことではあったが、他の将軍たちの手前、韓信はあからさまに功を誇ったりはしない。劉邦はそれに多少物足りなさを感じた。
「相変わらず、そっけない奴だ。わしがこれほど歓喜しているのにお前という奴は謙虚に過ぎる。謙虚すぎて、面白くないわい。男というものはもっと……」
「大王、お話があります」
王の話の腰を折る、というのは普通許されないことである。しかし劉邦は放っておけばいつまでも話し続ける手合いの男であったし、話し続ければひとりで感情が高ぶり、始めは冗談のつもりがいつしか本気の罵りになることが多かった。よって劉邦に伝えたい用件があるときは、中身のない話に付き合わず、単刀直入に話すに限る。
「……滎陽に到着して間もないのですが、私の見たところ漢軍の陣容は以前と変わらぬ程度に整いつつあるようです。主だった将軍にも落命した者はないように見受けられます。そこで早いうちに楚に反撃したいのですが」
多弁な劉邦が言葉を失った。
戦いたくない、という気持ちを持っていることは明らかである。
韓信は説得しなければならない。
「趙はすでに連合を離脱し、邯鄲に撤退したという情報を得ています。そして楚と盟約を交わしたとか。これは趙の陳余が漢より楚の方が強いと判断した結果でしょう」
戦いたくない劉邦は、必死になって反論した。
「それはあのへそ曲がりの陳余に張耳が生きていることを知られたからだ。奴はそれを理由に漢と訣別する旨の書状まで送ってきおったわい。しかし、それでも構わないではないか? お前はもともと反覆常ない陳余のような男の力を借りることには反対であっただろうが」
「それはそうです。しかし、敵対するよりは味方にしておいた方がまだましです。このままでは、いまに陳余はおろか魏も態度を覆して楚に味方しましょう。それは漢が楚に対抗できぬと彼らが思っているからで、これ以上の離反を食い止めるためにも、ここで一度楚には勝っておきたいと存じます」
そもそも滎陽に漢軍が集結したといっても、それを楚軍がただ見ているはずはなく、いずれは襲撃されるのである。韓信が言っていることは、やられる前にやれ、ということに過ぎない。
それでも劉邦の自尊心を汚さぬよう、自発的に戦いの決断をしてもらおうと韓信は言葉を選んだのだった。
「わしが今、平穏を望んだところで、楚は許しはしないであろう。いずれ楚がこの滎陽に攻め込んでくるということは、わしにもわかっている。……信、お前の言うことはわかった。一晩考えさせてもらおう」
韓信はあまり釈然とはしなかったが、再会したばかりのときにあまりしつこくするべきではないと思い、その場を退去した。
韓信をさがらせた劉邦は、その夜、やはり滎陽で再会を果たした張良に話を持ちかけている。
「気の早い韓信は、来た早々に楚を迎撃したい、と言っているが……子房はどう思う?」
彭城でいいところがなかった張良は後ろめたさがあるのか、やや遠慮がちに答えた。
「そうですか……。韓信がそうしたいと言うのならば……異存はございません。私としてもいずれは迎撃しなければならない、とは思っていました。ただし時期が問題ですが、今がその時期だと韓信が言うのであれば、彼としては勝算があるのでしょう」
「勝算か……。子房、わしは本当のことを言うと、もう疲れた。……わしは関中以西だけを領土とし、中原はすべて項羽にくれてやってもいいと思っている。わしは、項羽にはとても勝てん。麾下の将軍たちも楚に比べて有能だとは言い難い」
張良は劉邦の弱気な発言を咎めはしなかったが、決して同調したわけではない。
「大王が関中以西を領有したいと主張なさっても黙ってそれを許す項王ではありません。妥協点を見出すためには漢も力を示さねばなりません。すなわち楚と戦って、ある程度の勝利を得なければ項王を交渉の席に引きずり出すことはできないでしょう」
張良は諭したが、劉邦に取り付いた弱気の虫はそれでも振り払うことができなかった。
このときの劉邦はすでに五十を過ぎ、当時としては初老と言ってもいい年代である。嘆息の原因が年齢によるものなのか、それとも生来の根性のない遊び人としての性格によるものなのかは、はっきりしない。
「子房の言うことは理屈としてはわかる。しかし楚と戦ったとして、勝てる者がいないではないか」
張良は断言するように言い放った。
「いいえ、我が軍には韓信がいます!」
「…………」
「……彼には期待していいでしょう。これまでの実績が示しています。騙されたと思って、全軍の指揮を委ね、楚を討たせるべきです」
「韓信は、やるだろう。しかし……ほかにはおらんのか。やつのほかに大事を委ねられる者は」
劉邦の表情に、不安の陰がよぎる。張良はそれを韓信の作戦遂行能力に対しての不安だと読み取った。
「ほかに誰がおりましょう。任せられるのは韓信しかいません。しかもそれで充分です。彼は限りなく可能性を秘めた男だと、私は期待しております」
張良の言を入れて、劉邦は韓信を総大将に楚を迎撃することを認めた。
しかし一方で劉邦は、韓信のような麾下で突出した才能を持つ男に大権を委ねることを、このときひそかに恐れ、迷った。
劉邦の不安は、実はこのことに由来するものだったのである。
かつて奔放だった劉邦が年齢を重ね、猜疑心を強めていったのは実はこのときからであった。
四
劉邦が自分をどのように考えているかは、韓信にとっては大きな問題ではない。自分は軍事を司るよう命じられている。それはすなわち信用されて任されていることだ、としか考えなかった。
任されたからには与えられた条件で最大限の結果を出すことだけを考え、それによって生じるであろう、後の政治的な動きについては興味を示さない。世間知らずなようでもあるし、身の処し方がやや不器用だったとも言えそうである。
かつて栽荘先生が韓信のことを燕の太子丹に不器用な点が似ていると評したのはこの辺のことを言ったものかもしれない。
しかし兵権を与えられた韓信は、このときも存分に能力を示した。
滎陽の東にある邑が京、南のそれが索と呼ばれる。このふたつの邑の間には迫り来る敵の様子が一望できるほどの平野部が広がる。韓信はこの平野部を楚を迎撃する決戦場と定めた。
広い平原では騎兵や戦車が効果的である。韓信はそれをわかっていたが、前陣を歩兵中心に固めた。
なおかつ全軍を真四角の方陣に固め、その外側にはすべて歩兵を配している。騎兵や戦車は一箇所には集めず、一見無作為であるかの様に不規則な形で随所に散らした。
そして韓信自身は方陣の中心に身を置く。
これが司令部であり、親衛隊を中核とした韓信直属の部隊が彼の周囲に位置する。
後方には韓信に守られるように漢王劉邦がおり、戦車の台上に屹立している。その脇には参乗の樊噲が、御者台の上には夏侯嬰がいつもと同じようにいる。張良は劉邦の戦車の横に騎馬で位置していた。
さらにその後ろは盧綰の率いる一隊が殿軍を受け持つ。両翼は右翼に重鎮の周勃、左翼に若手の
斥候から得た情報によれば、楚は軍を結集して滎陽に攻め入らんとしており、その数は十万に及ぶ、ということだった。これに対して漢軍は四万程度でしかない。圧倒的不利な条件でありながら、韓信がこの地で楚軍を迎え撃とうと決めた理由は、斥候の伝えたもうひとつの情報にあった。
「楚軍は、十万の兵をふたつに分け、二段構えの策をとっている」
この情報を韓信は比較的早い時期に入手し、策を練ることができたのである。
楚の目論みは、第一陣と第二陣に分かれた時間差攻撃で漢軍を段階的に追い込もうというものであり、常に一人で二人以上の敵と相対する楚兵の勇猛さを考えれば、効果的な作戦であった。
第一陣が漢軍と互角以上の戦いをすれば、第二陣は予備兵力として温存が可能である。いくら楚兵が勇猛だといっても、ひとたび戦いになれば損耗はつきもので、できるだけそれを抑えたいという項羽の気持ちがあらわれた陣形である、と韓信はみた。
「項王の個人的武勇は凄まじいが、将としては凡庸である。……麾下の兵の勇猛さに頼りすぎている」
韓信はそう言い、ふたつに分かれた楚軍を各個撃破する決心を固めた。
情報は時の経過につれて、明瞭になっていく。このたび項羽は自ら出征し、第二陣の中軍に属していることが判明した。
そして、第一陣の将の名がわかったのは戦闘開始のほんの数刻前である。
第一陣の将は、鍾離眛であった。
――眛……。ついに我々も剣を交えることになったか。この日が来ないことを願っていたが……。願わくば、私の前に姿を現すな。
韓信は思ったが、作戦を開始するにあたって、そのような思いを頭の中から払いのけた。
――なるようにしかならない。
そう思うしかなかった。
「前衛の部隊はかねてよりの指示どおりに動け。両翼の部隊は合図を聞き逃すな。我々はこれより楚軍を迎え撃つが、これは今後の漢の命運をかけた戦いであると言ってもいい。この戦いに敗れれば、我々は滎陽はおろか、関中までも失うであろう。そのため、諸君には心して当たってほしい。また、諸君には覚悟してもらいたいが……確実にこの中の何名かは命を落とす。それが今の我々の置かれた立場というものである。だが、悲観するな。我々は弔うことを忘れはしない。……では諸君、準備はいいか」
韓信の作戦前の演説は、決して兵たちを煽動するような熱い口ぶりではなかったが、逆にそれが緊張感を高めた。熱し過ぎず、冷め過ぎず、漢軍は適度の精神状態で楚軍を迎え撃つことになった。
楚軍の進撃する姿が彼方に見え始めた。見通しのよい平野部では伏兵など用意できず、お互いに正攻法で競い合うしかない。正面からぶつかり合って激しく火花を散らす。武人が武人らしく戦う絶好の機会であった。
しかし、韓信は柔軟な思考でこの難局を乗り切った。彼の考える武人らしさとは、やはり同時代の人物とは異なっていたのである。彼は勇猛さより冷静さを重視した。そして頭の中にある計画を実現するために、引き際さえも考慮に入れていたのである。
五
楚軍の陣形は漢軍と同様に方陣を組んでおり、幅と厚みのある密集隊形であった。同じ陣形をとっている以上、兵の質が高い楚軍の方が有利である。
にもかかわらず、韓信は楚軍の先鋒の姿が視界に入るやいなや、ためらいもなく前衛の部隊に突進を命じた。
両軍の前衛同士がはげしくぶつかり合う。しかしそれも長くは続かず、質でも人数でも劣る漢軍は押され始めた。
漢軍の前衛部隊は中央から切り崩され、左右に分断されるように陣形がふたつに割れた。中央突破を許したのである。
ふたつに割れた部隊はそのまま再結集することなく、抵抗も散発的である。これをいいことに楚軍は漢軍の中央を奥深く突き進み、ついには中軍に位置する韓信の陣に肉迫した。
「漢の司令官だ! あれを討て」
楚兵たちの叫び声が韓信の耳にも入る。中央を深くえぐられた漢軍は、このとき進退極まったかのように見えた。
しかしこれこそ韓信が仕組んだ罠だったのである。
韓信は前衛部隊を突出させて敵に当たらせたが、実はこの行為こそが擬態であった。あえなく敗れたかのように前衛部隊を左右に分断させた韓信は、この間にひそかに方陣を凹字型に変形させた。周勃・灌嬰の両翼を前進させて横に広がる形にしたのである。
そして左右にわかれた前衛部隊は、それぞれ両翼の部隊に吸収されていく。これによって陣形は変則的なY字型となった。
「合図の鼓を鳴らせ」
韓信は命を発した。それを受けてさらに陣形の変化は続く。韓信の属する中軍は、楚軍の進撃を緩やかに吸収するようにさりげなく後退する。
「第二の合図だ。鼓の律動を早めるのだ」
この合図を機に、両翼部隊は後退する中軍とは逆に前進を始めた。
この結果、陣形は完全なV字型に変形したのである。
楚軍は漢軍の中央に深く侵入したつもりでいたが、実際は左右を漢軍に取り囲まれていたのだった。
韓信は楚軍がそれにようやく気付いたと見ると、両翼からの攻撃を強化し殲滅にかかった。そしてある程度楚兵の抵抗力を削ぐと、さらに陣形を変化させ、楚軍の軍列を完全に包囲した。
陣形はO字型になったのである。
「よし。うまくいった。……後方の部隊が救援に駆けつける前に、取り囲んだ一軍を撃滅せよ」
韓信の命によって一斉攻撃が開始された。情け容赦のない弓矢の斉射、脱出をはかる楚兵たちへ突き立てられる長槍、戦況は漢軍の圧倒的優勢となった。
後方にいた劉邦は、指揮を執る韓信の背中を見つつ、
――信め。……思っていた以上に、やりおるわい。
と、感じざるを得なかった。
またその隣の張良は、
――謀略なしの、正攻法だったはず……。不利な条件ながら我々は今、楚を撃ち破ろうとしている……。なかなかどうして……。
と、舌を巻いた。
しかし当の韓信は、作戦の成功を確信したわけではなく、また安心していたわけでもない。
――時間をかけすぎると、後ろから項王が来る。
そう思った韓信は、親衛隊に進撃をともにするよう命じた。状況は漢による楚兵虐殺の場となっていたが、韓信はそれでも満足せず、敵将を捕らえることで一気にこの場の雌雄を決することにしたのである。
六
――こんなはずでは、なかった。
包囲の輪が小さくなっていく中、鍾離眛は退路を断たれ、追い込まれていく。
次第に兵との間隔が狭まり、密集の中に身を置きながらも、究極的な場面で感じられるのが孤独であることに、彼は驚きを禁じ得なかった。
漢の指揮官が韓信であることは、彼にもわかっていた。今、この場に及んで思い出されるのは、過ぎし日の韓信とのやり取りであった。
(おまえのような臆病者が将になったとして、兵がついてくるものか)
その臆病者に滅ぼされかけているのは、自分であった。
(私が将になったならば、味方の兵を死なせない。そのくらいの気構えはあるつもりだ)
韓信はかつてそんなことを言った。その言葉の通り、味方の兵を数多く死なせたのは、彼ではなく、自分であった。
(眛、お前の目はひどく濁っているぞ)
――だからどうしたというのだ。目が濁ったとしても、それはこの乱世の中で人の死を大量に見てきた証拠だ。お前のように現実から目を背けてきたわけではない。
彼はかつて、聞いたことがあった。それは、人は死ぬ直前に過去のことを大量に思い出す、ということである。そのことが、このとき彼の脳裏をよぎった。
――なんということだ! 今の自分こそが、それではないか。
眛の心の中に諦めに似た感情が浮かび始めたとき、部下の叫び声が耳に入った。
「将軍! 敵将と思われる騎馬の一団が、こちらに向かって突進してきます!」
眛は我に帰った。死の淵から引き戻された感じがした。
「……断じて来させるな! 逆に包囲して討ち取るのだ」
漢軍に包囲され、絶望的な劣勢に立たされた楚であったが、それにもかかわらず進撃しようとすると彼らは抵抗した。
「カムジン、前を行け!」
韓信はカムジンを先頭に立たせ、行く手を阻む楚兵たちをひとりずつ矢で射たせた。カムジンの短弓から放たれた矢は、正確に、無慈悲に楚兵の心臓を貫き、次々にその命を奪っていく。
そして、やがて司令官らしき男の姿が韓信の目に入った。
「眛……」
それは焦燥しきった鍾離眛の姿であった。
「韓信! わざわざおでましか。私に討ち取られに来たのか」
韓信は強がりをいう鍾離眛の目を見ることができなかった。
「今に至ってそのようなことを言うな……。状況はすでに決している。降伏しろ、眛」
「降伏……情けをかけるな! ……斬ってみせろよ、信! どうせお前には斬れまい……。お前は昔からそういう奴だったからな! だが私は違うぞ! 遠慮なくお前を斬ることが……私にはできるのだ!」
言い放った鍾離眛は剣を抜いて韓信に斬ってかかった。
それを見たカムジンがとっさに韓信の前に立ちはだかり、短弓から矢を放った。
「うっ! ……」
矢が眛の右肩に突き立った。彼はその激痛で剣を落としたが、痛々しい所作でなんとかそれを拾い上げようとする。
「やめろ、カムジン。……いいんだ」
韓信はカムジンを抑え、さがらせた。その間に鍾離眛は再び突進し、韓信に剣を突き立てようとした。
韓信はしかし剣を抜かず、手にしていた長槍をさかさまに持ちかえると、その柄の先で眛の腹を突いた。衝撃に耐えられず、眛はその場に転倒してしまった。
「汚いぞ、信! 剣で勝負しろ。……家宝の剣が泣くぞ!」
しかし韓信はそれに答えず、全軍に撤収を命じた。後方に項羽の軍が到達するのを確認したからである。
項羽はすでに散開した漢軍を深追いすることはせず、壊滅寸前となった鍾離眛の軍を救出して軍を返した。
互角以上の兵数が予備兵力としてあるとしても、この戦いは項羽にとって、負け戦であった。戦いは流れが大事であり、その流れを覆すのには倍以上の兵数が必要だったのである。
かくして項羽率いる楚軍の撤退により、漢は滎陽以西を勢力圏として確保することができたのだった。
「なぜ? 将軍。なぜ斬らなかった……のですか?」
カムジンは韓信に質問したが、はかばかしい答えは得られなかった。
「うむ。最初は斬るつもりでいた。しかし既に目的は達していたわけだし、なにしろ相手は鍾離眛だ。……彼と私とは無二の親友なのだ。幼いころから人慣れしなかった私の唯一の友である彼を……どうして斬れよう?」
まだ若く、戦争の理不尽さも深くは知らないカムジンには、無二の親友が敵味方に分かれていることの意味がどうしても理解できなかった。
カムジンはさらに質問しようとしたが、表情に暗い影をおとす韓信に、それ以上なにも言うことはできなかった。
一方の鍾離眛。彼は誰にも聞こえないよう気をつけながら、小声で呟いた。頭で考えるだけではなく、声に出さないと気が済まない。そんな感じだった。
「信……どうして斬らなかったのだ。お前が私を斬ってくれたなら……私は恨まないだろう。しかし生かされた以上、再び戦場でまみえることになったら、私はお前を斬らねばならない。私はそれが……どうしようもなく嫌でたまらないのだ。お前が私を斬ってくれたら……そんな思いとは無縁でいられたのに」
鍾離眛の目には、涙が滲んでいた。
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