彭城潰乱

 ことが起こる前にそれを見抜く見識のことを、先見の明という。この時代に生きた者の中で、韓信は間違いなく、その能力を持つ者のひとりであった。しかし私が見る限り、彼は自身のその能力をやや持て余していたようである。つまり、彼には自分を取巻く状況が悪い方向へ向かっていることが、手にとるようにわかるのであった。このとき彼は、いっときの勝利の向こうにあるのが敗北であることや、形だけの連合の行く末が新たな対立であることを正確に予期していた。それでいながら、彼にはそれを阻止することができないのであった。


 いま私の前に広がる彼の思念は、そのもどかしさを訴え続けている。


 一


 韓信は出撃を前にして、精鋭を周囲に置き、これを常に自らの周囲に配置することにした。親衛隊のようなものである。

 それは大軍となった漢と諸国の連合軍の中で指令系統が乱れ、軍の収拾がつかなくなったときのための最後の切り札であり、つまりはこの諸国間連合の行く末が楽観できないという彼の気持ちのあらわれであった。


 しかしそんな韓信の思いをよそに、漢を始めとする連合軍は、はやる気持ちを抑えもせずに西楚の首都、彭城へなだれ込んだ。

 総勢五十六万の蹂躙。

 車馬の列が奏でる大地が裂けるほどの轟音。

 あらゆるものをも焼き付くすかのような大火。

 そして、敵味方を問わず浴びせられる罵声。


 もはやその姿はひとつの目的にしたがって行動する軍隊などではなく、五十六万の意思がとりとめもなく散乱するただの混沌でしかなかった。その混沌が、楚の首都彭城を包み込んだのである。

 尽きることのない悪意の数々。

 城内に財宝が発見されると、早い者勝ちで兵たちはそれを奪おうとする。宝の奪い合いが殺し合いに発展し、その結果勝利を得た者が財宝を手中にした。

 しかしやがて上官が現れるとその兵は斬り殺され、財宝は上官のものになるのだった。

 将兵たちは楚兵の首を囲んで酒宴を開き、女を見つけるや老若を問わず見境なしに犯し、欲求を満足させると、その女を殺した。家を見つけては食料を奪って山分けし、奪い尽くすとそれに火を放った。そして彼らはそれに飽き足らず、高価な副葬品を見つけ出そうと墓を掘り返した。めぼしい物が見つかると、兵たちはまた殺し合いを始めるのである。

 韓信は目を背けたくなった。

 ――軍のたがが外れてしまった。もはや私に統御できる段階ではない……。彼らには義も不義も関係なく、欲を満たせればそれでいいのだ。本来彼らには戦うための理念というものがなく、楚が弱まれば漢に味方し、漢が弱まれば楚に味方する。うまい汁を吸える方になびくだけなのだ。


 何もかも放り出して、逃げ出したくなった。

 しかし当然のことながら大将としての立場がそれを許さない。

「……諸君、よく見ておくのだ。これが人間の本性というものだ。欲望に身を委ね、思いのままに行動しているうちは、人々は自らの身の危険を考えない。実に愚かなことだ……。彼らは今、項王の存在を失念してしまっているのだ」

 韓信は直属の親衛隊に向かってそう話し、予期される項羽の反転に関して注意を喚起した。

 嘆く気持ちを抑えつつ、韓信は項羽の帰還経路を推測してそれに備えるよう努力したが、徹底しないこと甚だしい。もはや軍規の緩みは諸国連合の核ともいうべき漢軍にも及んでいた。

 ――漢王も漢王だ。あの方こそしっかりしておれば、こんな事態にはならなかったものを……。張子房どのも、いったいどこで何をしている?

 その韓信の思いをよそに、漢王劉邦はこのとき空前の勝利に浮かれていた。


 劉邦は酒宴を開く兵たちに混じって、自らも酒を飲み、唄い、騒いでいた。もともと家業も手伝わず、遊びほうけていた平民時代の姿がそこにあった。

 張良はそんな劉邦の姿を見るのに嫌気がさしたのか、ひとり廃屋にこもり静かに過ごしていた。

 張良は元来多病で、すぐ風邪をひいては寝込むたちであったが、このときも遠征の疲れが出た、と言って軍中に姿を現すことがなかった。実際は乱れた軍組織の中に自分がいることを恥ずかしく感じたのであろう。


 ――いったい勝利とは、なんだ?

 韓信はさじを投げたくなった。


 しかし我慢強く、耐え忍べばそのうち項羽がやってくるだろう。そのときこそ自分が軍を掌握する唯一の機会だ、と考えざるを得なかった。

 敵の項羽の反転来襲を期待するとは、韓信にとって甚だ不本意ではあるが仕方のないことであっただろう。


 二


 いっぽう首都の危急を知った項羽は、斉との戦いをひとまず部下に任せ、自ら精兵三万のみを率い、彭城に取って返した。

 五十六万対三万の戦いである。項羽の自信は筆舌に尽くしがたい。


 四月のある日の明け方、彭城の西、しょうの地に項羽率いる楚軍は出現した。まともな守備態勢などとっていなかった諸国の連合軍をあっという間に壊滅させ、昼前に項羽は彭城に達した。

 恐慌をきたした連合軍は、一斉に南にむかって逃げ出した。


 大潰乱である。

 逃げる漢軍は、穀水こくすい泗水しすいのふたつの川で行く手を阻まれると、十万人以上の犠牲者を出した。残りの兵たちはさらに南の山中に逃れたが、楚軍の追撃はなお止まない。


 凄まじいのは追撃する楚軍の先頭に項羽自身が立っていることであった。

「項王だ! 助けてくれ」

「項王に殺される」

 兵たちは叫んだが、しかし助けてくれと言っても助ける者などいない。

 山を越えて睢水すいすいまで追い込まれた漢軍の士卒は、皆川岸から落下し、十万人以上が川底に沈んだ。

 このため、睢水はその流れが一時的に止まったという。


 劉邦も逃げた。

 その途中で楚軍に三重に取り囲まれ、もはやこれまでか、と思った矢先、気候が急に乱れ、西北から大風が起こったという。

 その大風を受けて楚軍の追撃が一瞬弱まった間隙を突いて、劉邦は脱出に成功した。

 しかし、その周囲には数十騎の騎兵が残されているだけだった。


 なおも楚軍の追撃は続く。劉邦は御者に向かって怒鳴り散らした。

「もっと早く走れぬのか。項羽めに追いつかれてしまうぞ」

 御者は夏侯嬰である。

 これ以上急げと言われても彼にはどうすることもできない。そもそも怒鳴る劉邦自身、揺れる車上で何度も転倒しているさまなのである。

「大王、身を低く! 矢で射られてしまいます」

 この時代の戦車は四頭立ての馬が引き、御者は立ってそれを操る。

 さらに乗員も立ったままの姿勢でいることが普通で、椅子らしきものはない。また劉邦が乗る戦車には参乗の樊噲が陪乗して護衛をすることが常であったが、このとき劉邦は樊噲とはぐれ、戦車には劉邦しか乗っていなかった。非常に心許ない逃避行を、劉邦は強いられたのである。


 楚軍との距離が縮まり、劉邦の身に矢が届き始めた。夏侯嬰には、それを防ぐことができない。ひたすら四頭の馬を走らせることしかできなかった。

 ――このまま、討ち取られるのか。ここで終わりなのか?

 夏侯嬰の頭の中に絶望がよぎったとき、前方に影が見えた。

 激しい砂塵が舞う中で、彼はよく目を凝らしてみた。

 それは漢の軍旗であった。

 ――味方だ!


 しかし前方に見える兵の数は、決して多くない。それでも劉邦の進路を開ける動きには、きびきびとした規律が見られた。

 そして先頭に立つ将らしき人物が、長剣を杖がわりにして立っている姿が見えた。

「……韓信だ!」

 夏侯嬰は助かった、と言わんばかりに叫んだ。

 劉邦はそれを聞き、手を叩いて喜んだ。

「信め! 先回りして退路を確保しているとは! やはり無双の国士よ!」


 劉邦の姿を見て剣を収めた韓信は、すれ違いざまに劉邦に言い放った。

「大王! 滎陽けいようへ! 滎陽で再起を図りましょう! ここはお任せを!」


 夏侯嬰は叫んだ。

「韓信、項王だ! 頼んだぞ!」

 劉邦も叫んだ。

「信、きっと死ぬな! 生きて滎陽で会おうぞ!」


 そして劉邦の戦車は砂塵を残し、通過していった。


 三


 これより前、劉邦の戦車が通過する直前、韓信は兵卒を前に胸の内に秘めた作戦を披露している。

 兵の数は親衛隊を中心にしたおよそ四十名。実に心許ない数ではあったが、今は数よりも質を重んじるときであった。

「私がこの地点に陣を張ったのは、ここがいちばん隘路になっているからである。北は山、南は川に面し、いずれも急斜面になっている……騎馬では到底迂回できない。私の推測では、十中八九、ここを項王が通る」

「…………!」

 兵たちは声を失った。いずれの顔にも恐怖の色が浮かぶ。しかし、構わずに韓信は話を続けた。

「項王はその性格上、先頭を駆けてくるだろう。これは性格の面だけではなく、今までの戦場での行動を分析してもわかることだ。しかしなぜここを項王が通るか? 答えは獲物が大きいからである。項王の最大の目標は漢王の捕縛だ。……すなわち、この道を漢王が通る」

「将軍には、なぜそのように断言できるのです?」

 誰もがもつ疑問であった。

 兵の質問に韓信は誇るふうでもなく答えた。

「私は彭城での軍規の乱れから、漢の敗北をあらかじめ予想していた。いや、予想という言葉は当てはまらない……確信していたのだ。そこで私は前もって敗走経路を漢王に示しておいたのだ」

 兵たちはざわついた。敗北を前提に作戦をねる大将など、不謹慎ではないか、と言いたいのである。

 だが韓信は悪びれる様子もなく、またも淡々と話した。

「あのような勝利の浮かれ騒ぎの中、漢王が敗北を受け入れるはずがない。我が軍はそのうち負けますので王は逃げてください、などと言っても信用されるはずがないだろう。そこで私は漢王にではなく、御者の夏侯嬰を説得したのだ。もし我が軍と漢王の身になにか悪いことが起きれば、この道を通って逃れよ、と」

 兵たちはまだ信じぬようであった。本当に劉邦はここを通るのか。

「信じるか信じないかは、もはや問題ではない。私とて、一抹の不安はある。夏侯嬰が私の話を覚えているか、あわてて忘れてしまいはしないか……しかし、信じるしかない。では、作戦の話に入ろう」


 韓信はその長剣で地面に図を描きながら話し始めた。父の形見の大事な剣のはずだが、その扱いはぞんざいである。

「我々は隘路を塞ぐように横に五重の陣形をしき、漢王の姿を確認したら左右にわかれ、これを速やかに通す。通し終わったら素早く陣形を戻し、追いすがる楚軍に備える……ここまではよいな? 楚軍の姿が視界に入ったら諸君はそれぞれ(いしゆみのこと。矢を人力ではなく、引き金を使って射るクロスボウのような兵器)を構え、ありったけの矢を射てその進撃を止めよ。あらかじめ言っておくが、このたびの作戦は楚軍を撃ち破るものではない。漢王が安全に落ち延びるための時間稼ぎである。追撃の速度を緩めてやれば、それでいいのだ」

 韓信は力を込めて語ったが、誰にもわかりきったことであった。先頭を駆けてくる者が項羽だと知り、たった四十名で勝てると思う夢想家など、この中にはいない。

「矢の連射によって楚軍の足を止めたあと、山側から攻撃を仕掛ける。隘路によって縦に伸びた軍列を側面から討ち、分断するのだ」

 不信に思った兵のひとりが尋ねた。

「兵の数が足りませんが……?」

「兵は二人、いや三人いればよい。私はやはりこうなることを予測し、山側から道を塞ぐ程度の巨岩を転がす仕掛けを作らせておいた。諸君はそれを動かすだけでいい。それだけで、確実に道は塞がり、楚軍は分断される。岩を落とす地点は、なるべく楚軍の先頭に近い位置がいい。できれば項王その人がひとり取り残されるのが理想だが、さすがにそれは無理であろうな」

「岩を落として項王に直接当てる、というのは……もっと難しいですな。しかし、いつの間にそんな仕掛けを?」

 韓信は苦笑いした。

「苦労した。兵たちはどの者も浮かれ騒ぎたいと思い、私が命令を下しても聞く耳を持つ者はいなかった。やむを得ず、協力してくれた者には将来、将軍に推すことを確約した」

「そんな約束をして大丈夫なのですか?」

「さあ、どうかな。おそらくその者たちはすでに皆死んだだろう。私には説得している時間などなかったので、軍中でとびきり欲深そうな、酒宴に興じている者だけを選んで、偽りの約束をした。時間がないときは、その方がてっとり早い」

 韓信はすこしいらついた表情を浮かべた。このとき彼は、自分の行動に嫌悪感を抱いたのかもしれない。

「欲深な者は、欲につられて仕事をする。その先の運命まで、私が責任を持つことはない」

 韓信はその気持ちを振り払うかのように言い放った。これを受けて、一座はしんとなった。


「さあ、この話は、これで終わりだ。作戦の続きである。巨岩によって道を塞ぎ、楚軍の分断に成功したあと、我々は取り残された前方の軍に対してのみ中央突破を仕掛ける。突破に成功したあと、戻ってきてもう一撃を加える。これで前後に分断された敵は左右にも分断される。そこでまず、右に寄せた敵を川に落としてしまえ。落ちただけでは落命はしないだろうが、おいそれとは登ってこられぬ。この時点で兵数で当方が楚に上回る。そこで残りの山側の兵を取り囲み、釘付けにせよ……カムジン、残念だが今回は馬の出番はない。お前も皆と同じように弩を持て。短弓は腰にでも下げておくのだ」


 カムジンをはじめ、兵たちはなるほど、と相づちを打ったが、なにか忘れているような気がしてならない。そう、項王がそれを黙って見ているかどうかであった。

「残るは項王である……。厄介な相手だが、諸君が中央突破にかかると同時に、その相手は私がつとめよう」


 このときの韓信は珍しく多弁であったが、それは尋常でない決意の証のようであった。


 四


 劉邦の車が通り過ぎると、左右に開いた陣は再び閉じた。


 そして、

 ――来る。

 ――項王が来る。

 という緊張に満ちた意識が兵たちの間に蔓延していく。


 ひとり冷静なのは、韓信のみであった。

「来たぞ。相手は百騎以上のようだ」

 韓信は剣をたかだかとかざし、兵たちに号令した。

「先頭の葦毛あしげの馬に乗っているのが項王だ。諸君、落ち着いてあれを狙え」

 そして勢いよく剣を振り下ろした。

「射て!」


 弩から発射された無数の矢が先頭の項羽めがけて放たれた。

 弩は弓と比べて矢の勢いに個人的力量の差が少ない。同じ速度で標的めがけて放たれた矢の数々は、それがひとつの固まりであるかのように見えた。


 矢が項羽軍の先頭集団に達し、何人もの兵士が、馬ごと転倒した。


「ひるむな。応射せよ!」

 項羽の命により楚軍からも矢が放たれたが、馬上からの射撃は密度が薄い。しかも隊列を横に組んで盾を密に並べていた韓信の軍には、目覚ましい打撃を加えることはできなかった。

 項羽は、ちっ、と舌打ちをしながら体勢を整え、全軍に命じた。相手は、たかだか四十人あまり、数で制して突破をはかれば必ずや、打ち砕ける。

「縦深隊形をとり、中央を突破せよ」

 陣形を細長い針のような形にして、相手の陣を左右に分断するつもりであった。

 しかし、これが裏目に出た。


 突撃を開始した直後、項羽の後方から轟音が響いた。

 振り向くとそこには味方の姿はなく、自分の背丈の五倍以上ある巨岩が何個も積み重なっているばかりであった。

 項羽は岩によって、後方の部隊を失ったのである。


 岩のいくつかは、楚軍の兵士を巻き添えにして、川に落ちていった。そしていくつかは楚軍の兵士を下敷きにして、隘路の上に留まった。そしてその上にさらに岩が積み重なり、乗り越えられない壁となったのである。


「前方に残った楚兵は何騎ほどだ?」

 韓信の問いに傍らの兵は、すかさず答える。

「二十騎ほどであります!」

「……よし。上出来だ。数ですでに上回ったぞ」


 韓信はそう言い、兵たちに合図をした。合図と同時に戦鼓が鳴り、今度は漢兵の突撃が開始された。


 混乱した楚軍の中に、鋭く漢軍の兵士が斬りかかっていく。細い道の中で楚軍は中央を突破され、左右に切り裂かれた。さらに返す一撃で川側に追い込まれた楚兵たちが谷底へ突き落とされた。

 項羽は、乱れる隊列を戻そうと、残った山側の兵たちの支援に向かった。

 が、その先に立ちはだかった者がいる。


 韓信であった。

「項王……。私を覚えておられるか。かつて楚軍で郎中の職にあった、韓信です」

 項羽は、韓信を見据えていった。

「覚えているぞ。ごろつきの股の下を恥じらいもなくくぐった臆病者だ。今度はわしの股の下をくぐりに来たのか?」

「くだらぬ話を……。嘲りで私には勝てませんぞ」


 韓信は斬ってかかった。

 項羽はそれを剣で受け、韓信の倍以上の力で打ち返した。

 韓信の剣はそれを受けただけで、手からこぼれ落ちそうになった。しかしひるまずに身を翻して、再び斬りかかる。

 激しい剣の応酬が二度三度繰り返された。二人の距離が縮まり、剣の押し合いによる力比べが始まる。韓信は押されないように耐えるのが精一杯だったが、いっぽうの項羽には余裕があった。

「どうした。その程度の剣技では、わしを倒せはせぬぞ。お前の剣は長年使っていないようだな。刃こぼれしている。剣を研ぎ直して出直してくるがいい」

 項羽は韓信の耳元で言い、さらに押した。

 韓信は押されつつも身をよじり、項羽の腹に渾身の蹴りをいれて、飛びすさった。

「項王よ! 私は項王と剣技を競い合うために来たのではない。見よ、こうしている間に我が兵があなたを取り囲んでいるぞ!」


 項羽はそれを聞き、はっとしてあたりを見回した。すると独特の短弓を構えた若者の目が自分を見据えているのがわかった。


 カムジンが狙っていたのである。


 すでに山側の楚兵たちは討ち取られ、他の漢兵も遠巻きに弩を構えていた。

「韓信……貴様……!」

「卑怯だ、とでもいうおつもりか? 一騎打ちがしたいのであれば誰かほかの武人とでも相手をしてもらうがいい」


 韓信は答え、兵に号令した。

「射て!」


 項羽は剣で降り掛かる矢をはらい、馬に飛び乗って逃げ出した。しかし逃げようとしても巨岩に阻まれ、それ以上道はない。

 すると項羽は馬の鼻先を谷の方角へ向け、そのまま谷底へ向かって突進していった。


 *


「将軍、追わないのですか?」


 兵に問われた韓信は、疲れたように深く息をして、つぶやくように言った。

「行かせておけ。どのみちあの急斜面では追う我々の方が危ない。最初に掲げた目的を忘れるな。この作戦はそもそも、漢王が安全に逃れるための時間稼ぎである」

「驚きました……矢が一本も命中しませんでしたな。狙いは外れてなかったのですが」

「たまたまだ。あるいはこれを神がかりのように評する者もいるかもしれんが、私は信じぬ。振り回した剣に矢がたまたま当たった、それだけのことだ」

「これからどうするのです?」

「……敗兵をまとめつつ、滎陽へ向かう。そこで軍を立て直し、もう一度、項王と一戦するしかあるまい。どこかで楚軍の進軍を止めなければ、漢は関中を失うであろう」


 これを聞いた兵たちは、将来また項羽と戦う羽目になるのか、と気落ちする一方で、進んで韓信と行動をともにすることを決めた。

 彼らは、項羽と戦っても生き残ることができた。

 韓信の下にいれば、もう一度項羽と戦っても生き残れるかもしれない。ほかの将軍の下で戦っていては、死ぬかもしれなかった。


「さあ、ぼつぼつ向こうの楚兵たちが、岩をよじ登ってくるかもしれぬ。我々もそろそろ退散するとしよう」


 韓信は兵を率いて、その場を立ち去った。


 苦心して巨岩を乗り越え、楚兵たちが道の向こうに顔を出したころには、すでに項王はおろか、生きている者の姿は見えなかった。


 *


 項羽の愛馬、すいは斜面に足を取られ、何度か転倒した。すでにその自慢の葦毛は泥にまみれ、ところどころから出血し、輝きを失っている。

 項羽はそれでも騅をいたわり、決して見捨てるようなことはしなかった。


「騅……脚は折れていないだろうな。もうひと踏ん張りだ。あと少しで上にあがれる」


 項羽は自分の体以上に、馬に愛情を込めて接した。それもそうであろう。項羽は、あれだけ至近距離から矢を浴びせられても、なお無傷なのである。

 彼はその愛馬以上に強かった。強運の持ち主だった、とも言えるかもしれない。


 しかし、それは体の外面の話である。内面では、屈辱が残った。心に負った、大きな傷である。

「韓信め……よくもわしの腹に蹴りを喰らわせたな。身分卑しき者が……」

 もともと感情の量が多い男である。挫折の感じ方も人並みではなかった。彼はひどく気持ちが沈んだが、しかしそんなときに心を落ち着かせる方法を知っていた。


 天命を信じることである。


 次の戦いに勝つことを想像するだけで、彼は気が紛れた。これが想像ではなく事実であれば、なおのこと気持ちが楽になるというものであった。


「見よ、わしは生きている! 天がわしにまだ死ぬときではない、と告げているのだ。小生意気な韓信や、身の程知らずの劉邦などに天の意思がわかろうはずもない。彼らを討ち滅ぼし、天下を治めるのは、このわしだ!」

 項羽はそう言って自分を励まし、ついに馬を引きながら斜面を登りきった。

 そのとき、雷鳴が轟き、激しい雨が降り注いだ。


 それはあたかも天の意思が項羽の感情に共鳴しているかのようであった。


(第一部・完)

 

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