背水の陣

 趙の井陘せいけいで戦端を開いた韓信であったが、彼の率いる軍は敵に比すと兵数において数段劣っていた。その状況を打開しようとした彼がそのときとった行動は、敵軍のみならず味方をも驚愕させるものであった。それが、韓信の名を現代まで知らしめることとなった背水の陣である。しかし私は、あえてそれについて教訓めいた言及を残すことは避けようと思う。彼のとった作戦はあまりにも突飛で、余人には真似をすることも不可能であるからだ。


 ただ、現代において「背水の陣」とは『一歩も引けない絶体絶命の中で、全力を尽くす』という意の成語となっているが、このとき韓信は敵に追い込まれて絶体絶命となったわけではなく、自らそのような状況を作り出した、ということだけは付け加えておく。


 一


 代という国は、もともと戦国時代には趙の一郡であり、北のはずれにある。この時代には項羽の諸国分割により独立の体をなしていたが、事実上は趙の属国といってよかった。

 代王は、名目上陳余である。

 しかし陳余は政務を宰相の夏説かえつに任せ、自分は趙王の後見人として邯鄲にいることが多い。

 戦略上重要なのは代より趙であるので陳余の気持ちもわからないわけではない。しかし置き去りにされた代の住民は哀れであった。本来国を守備するはずの戦力は趙に持っていかれ、代を守る兵は極端に少ないのである。

 しかし、逆にこのことがかえって代の国民を救うことになった、ともいえる。


「……守る気があるのか疑いたくなる陣容ですな」

 軍事には明るくない蒯通でさえ、そのように言った。

「陳余は代を失っても構わない、と考えているのだろう。そのぶん趙の防衛は固めているに違いない。しかし、いただけるものならいただいておこう」

 韓信はそう話し、代城を囲んだ(代は国名であるのと同時に都市の名でもある)。

「戦略上、無駄な戦いというものは、敵兵にとっても味方にとってもよくないものだな」

 そう話す韓信の隣には、蘭がいる。

 韓信は蘭を危地には置きたくないと考えていたが、蘭が応じなかったため、やむなく常に目の届くところに置くことにした。立場は幕僚といったところか。とはいっても韓信は基本的に戦術は自分ひとりで考案し、実行する。蘭には話し相手になってもらえればよかった。頭の中だけで戦術を練るよりは、会話をした方が構想を具体化しやすかったのだろう。


「将軍がそう言われますからには……投降を呼びかけるのですか?」

 蘭の問いに韓信はしばし考え、返答した。

「……いや、なまじ投降などを勧め、相手が応じなければ籠城が長引く。それでは付き合わされる住民にとってはいい迷惑だ。速攻即決、これに限る」


 韓信は兵力を集中させ、城門を撃ち破ると同時に城内に騎馬兵を侵入させ、あっという間に制圧した。宰相の夏説は逃亡し、西の閼与あつよまで逃れて抵抗を試みたが、そこで眼前に弓矢を構えた兵士を目の当たりにし、硬直してしまった。

「民を思い、降伏するか。それとも代王への忠節を果たすか。貴公が忠節を果たそうと思えば、代の幾多の城市はことごとく焼け、民は死ぬ。貴公もやはり死ぬだろう。しかし降伏すれば、民は救われ、貴公も死なずにすむのだ」

 弓を構えた兵が言っているのではない。

 その隣にいた兵がまるで通訳でもするように語っているのだった。


「念のために聞くが、降伏したら、私の忠節はどうなるのだ」

 夏説は恐怖におののいた声で、尋ねた。

「……代王はいずれ……我々が討つ。死人に忠節を誓っても……意味はない」

 弓を構えた兵士が、たどたどしい調子で答えた。

 それは楼煩人のカムジンであった。


 代は短期間で韓信の手に落ち、宰相夏説は捕虜となった。代の住民は戦乱に巻き込まれることが少なく、このため漢の統治を容易に受け入れたという。

 この戦いで得た代兵の捕虜は三千名ほどであったが、韓信はやはりそれを劉邦のもとへ送った。


 二


「陳余という男は学者肌であってな。兵書などはよく読んで理解している。しかしわしの見る限り、頭の固いところがあるようだ。兵書に書いてある以上のことは、決してしない」

 張耳は趙への道すがら、韓信にそう話して聞かせた。

「例えば?」

「陳余の陣形は基本に忠実で、見た目も美しい。しかしそれだけでは勝てぬ。一言でいえば、やつには応用力が乏しい。わしが鉅鹿で章邯に囲まれていた時も、陳余は並みいる諸侯軍の中で最もきらびやかな軍容を保ちながら、何もできなかった」

「なるほど……ところで張耳どのと陳余は刎頸ふんけいの契りを結んだ間柄とお聞きしていますが、いま陳余を討つことに対してためらいはございませんか」

 張耳は、韓信の問いに深いため息をついた。

「本音を言えば……陳余を殺さずにすむのならそうしたい。魏の県令だったわしと陳余は昔、秦によって二人とも首に懸賞金を賭けられ、逃亡生活を送った。苦楽をともにした朋友なのだ。それがどうしてこうなったか……所詮はわしに人を見る目がなかった、ということなのだろう。いずれにしてももはや、わしと陳余は並び立つことはできない」

「……討つことに迷いはないと?」

「しつこく聞くな。迷いはない」


 韓信は、信じられなかった。人はこうも割り切れるものなのか……。それというのも、韓信は旧友の鍾離眛を討てなかったのである。

 ――私が、弱いということなのだろうか。

 思いに沈む韓信の背に、蘭の手が添えられた。



 韓信の軍は閼与から東へ進軍を始め、山岳地帯にはいった。趙軍は井陘口せいけいこうでこれを迎え撃つべく、二十万もの兵を集めた。

 大軍である。

 対する韓信の軍は、魏や代に駐屯する兵や、劉邦のもとに送った兵を差し引いて、三万程度しかいなかったのである。

 加えて井陘という地名はその字の通り井戸のような形をしていることに由来しており、四方が山に囲まれ、中央は谷となって深く沈み、その底に川が流れている。

 水量は決して多くはないが、戦場に川があることは戦術上の制約が多い。川そのものを防衛線として利用されれば、攻める側は非常に不利である。

 ましてそこに至るまでの道が、険しい。

 山中のことなので道幅が狭く、行軍は横に広がらず、縦に伸びる。これは行軍に分断の危険を伴うことを意味した。


 圧倒的不利の条件であった。韓信は密偵を送り、状況の把握に務めた。


 一方、そのとき趙の陳余は幕僚の李左車りさしゃから熱のこもった献策を受けていた。

 その李左車は言う。

「漢将の韓信は、平陽で魏王を虜にし、閼与で夏説を生け捕り、勝ちに乗じております。いま韓信は張耳を補佐として得、謀議して趙を降そうと画策しており、その鋭鋒には正面から当たるべきではありません。ところが幸いなことに井陘への道は狭く、車や騎馬が並んで行けないことは、我が軍にとって有利でございます。つきましては私に兵三万をお貸しください。間道から出陣し、敵の横っ腹を討って分断いたしましょう。その間、本隊は塁を高くして陣営を固め、防御に徹すれば、敵は進もうにも進めず、退こうにも退けず、十日以内に韓信・張耳両将の首を持参することができます」


 陳余はこれを聞き、不快感をあらわにした。

「なにを言う。兵法に『敵に十倍すれば、これを囲み、二倍ならば戦う』とあるではないか。いま韓信の軍は数万と称してはいるが、実際には二万かそこらだろう。まして彼らは千里の道を歩き、我が軍と対峙しようとしているのだ。いくら勝ちに乗じているといっても、疲れているに決まっている。この程度の敵を正面から敗れないようでどうする」

 李左車はなおも食い下がった。

「しかし、聞くところによりますと韓信は詭計を得意とするとか。こちらが正面から迎え撃とうとしても、やつらが正面から現れるとは限りません。現状では地の利はこちらにあるのですから、それを最大限に利用することを考えるべきではないですか」

 陳余はそれに対して鼻で笑うような態度を示した。

「君は、政治というものをわかっていない。戦争というものは、勝てばそれでよいというものではないのだ。いま我々が有利な立場にありながら、弱い韓信の軍を騙し討ちにしたと世間に知れたら……諸侯は趙を懦弱だじゃくな国と評し、軽んじるだろう。軽んじられれば、攻め入られる。それが道理というものだ」

「漢軍が弱いと、はたして言い切れますか? おそれながら正々堂々と戦うのは武人としての本懐ではありますが、この戦いにおいて趙は負けることは許されず、確実に勝つ方策を採らねばなりません。あなたにはそれが……」

「もうよい。下がれ。君の策は採らぬ」

「…………」

「君は、戦場では趙王のそばにおり、護衛に徹しろ。それ以上のことはするな。王はもともとこの戦いに乗り気でないゆえ、窮地に立たされると安易に降伏しかねない。目を離すな」

「…………」

「わかったのか」

「……御意にございます」


 この会話の一部始終が密偵によって韓信の耳に入った。これにより韓信は井陘に至る隘路の途中に伏兵がいないことを確信し、安心して軍を進めることができたのだった。


 三


「私が思うに、陳余という男は戦争を美化して考えているな。正義とか、男の見栄などを重視しているように思える」

 韓信の言葉に、即座に張耳は反応した。

「それはそうだろう。彼は儒者だからな」

「! そうでしたか。それは初耳でした。……しかし、だとすれば、彼は腐れ儒者だ。戦争の本質がなんたるかをまるでわかっていない。以前の私と同じように、彼は戦争を競技のように考えている」

「ほう……」

「戦争には少なからず、犠牲が伴う。そうである以上、手法はともかく勝たなくては意味がない。陳余は李左車の意見を取り入れるべきだった。他に方法があるのに、正々堂々と正面から戦うことなど……偽善だ。反吐が出る」

 張耳は韓信が感情をあらわにするのを初めて見た。意外に思ったが、しかし言いたいことはわかる。

「だが、それによって我々に勝機が見えてきた、違うか?」

「確かに。兵法に通じた陳余の鼻っ柱を折ってみせよう……いや、すみません。張耳どのの旧友であることを失念して、少し興奮してしまいました」

「構わん。すでに袂を分かった、と言っているではないか。その様子では充分に勝算があるのだな?」

「はい」

 韓信の頭の中には、すでに作戦の構図が描かれていた。


 韓信は井陘口の手前三十里に陣を留め、その日の深夜、カムジンを始めとする騎兵二千人を招集した。

 それら騎兵一人一人に赤い旗を持たせ、韓信はここに至り、初めて作戦を明かしたのだった。

「諸君はこの赤い旗を持ち、間道から趙の砦に近づいたところで、待機しておれ。くれぐれも見つからぬように林間に身を潜めているのだぞ。私は本隊を率いて趙軍と正面から戦うつもりだが……、その際あえて敗れたふりをするつもりだ」

「は……?」

「私が敗走する姿を見れば、砦の中の趙兵は追撃を始めるに違いない。つまり、そのとき砦は無人となる」

「…………」

「その瞬間を逃さず諸君はいち早く砦に侵入し、趙の旗を抜き取り、この赤い旗を立てよ」

 そう言いながら、韓信は兵たちに軽食を配った。

「作戦前のことなので腹一杯食わせてやることはできぬが……今日、趙を破ったのち、みなで一緒に会食することにしよう」

 朝飯前に戦局が決する、というのである。


 兵たちは了承の返事をしたものの、誰も本気で信じる者はいなかった。せいぜい士気を高めるくらいの発言だと思ったのである。

 しかし、韓信は本気だった。



 趙軍は塁壁を築いてそれに身を隠し、さすがに軽々しくは出撃しない様子であった。

 ――すでに地勢を得ているのだから、じっくり時間をかけて戦うつもりだろう。

 そう踏んだ韓信は、士卒に対してこう言い放った。

「趙軍は軽挙妄動を謹む構えを見せているようだが、彼らの自制心を解放する術を私は知っている。……それは大将たる私自身が突出し、その結果敵陣の中に孤立することだ」

 士卒たちは、それを聞いてざわつき始めた。

「それでは危険すぎます」

「それこそ、軽挙妄動ではないのですか」

 韓信はそれを手振りで制し、

「私は死ぬつもりはないが、事実その危険はある。君たちはそうならないようせいぜい踏みとどまって、私を守れ。我々が勝つか負けるかは、そこが分かれ目である」

 と言い放った。

 そして敵が守備に徹して動きを見せないのをいいことに悠々と進軍し、なんと川を背にして陣取ったのである。


 趙軍はその様子を見て大笑いした。

「韓信は兵法を知らない」

「自ら退路を断つとは、しろうと同然」

 味方の漢兵も口にこそ出さないが、同じようなことを思った。


 四


「……川を前に置けば、敵の侵入はある程度防げる。しかし、いま敵地に侵入しようとしているのは、我々の側だ。よって本来川を前面に陣を張らなければならないのは趙軍の方であり、彼らに川の向こう側に陣取られると、攻めるこちらとしてはやりにくいこと甚だしい。……だから、私はそうさせない」

 戦いを前に魏蘭や蒯通を前に語った韓信の言である。

 しかし、韓信は具体的なことはそれ以上語らなかったという。


 夜明けとともに戦鼓が高らかに鳴り、漢軍の進撃が開始された。趙兵たちは迎撃しようと撃って出たが、そこにあったのは彼らにとって目を疑う光景であった。

「……大将旗だ!」

「韓信が先鋒でいるぞ!」

「裏切り者の張耳もいるぞ! 取り囲め! 捕らえよ」

 趙軍の兵士はみな塁壁から出て、飢えた虎のように韓信めがけて突撃を開始した。


「来たぞ、諸君。さあ、逃げるぞ!」

 韓信を始めとする先鋒部隊は、なりふり構わず逃げ出した。戦鼓や旗を捨て、一目散に川岸に向かって走り続ける。

「後退せよ! 退却するのだ」

 韓信は大声で命令を発する。

 それに呼応するかのように趙兵は次々と塁壁から出撃し、漢軍を追いつめて行くのだった。


 それまで戦況を見続けていた陳余は、傍らの李左車へ勝ち誇ったように語りかけた。

「見ろ。韓信は弱い。君の言う勝ちに乗じた軍というのは、こういうのを言うのか?」

 李左車は不審に思いつつも、返す言葉もない。

「……私の誤りだったと思われます……」

「ふむ。誤りを認める潔さは認めよう。しかし、作戦前の重要時に弱気な妄言を吐いた罪は重い。君の処分については、この戦いのあと、じっくり考えさせてもらう……さあ、者ども! 私も出るぞ。付いてこい!」


 陳余はそう言いつつ馬に跨がり、自らも出陣することを宣言した。

 つまり、彼は韓信の罠にはまった。



 韓信たち先鋒部隊は抵抗もそこそこに後退し、川岸まで追い込まれたところで味方の軍と合流した。

「諸君!」

 ここで韓信は息を切らしながらその長剣を抜き、たかだかとかざして士卒に号令を下した。

「見よ! 前方は敵、後背は川だ! 怯懦な心で敵に臨めば、諸君を待っているのは死である! 恐れをなして後退すれば、諸君は川に飲まれ、やはり待っているのは死だ! 諸君が生き残るには、前方の敵を撃ち破るしかない」

 漢兵たちの間に緊張の空気が充満する。

 韓信はそれを断ち切るかのように剣を振り下ろして命令を下した。

「反撃せよ!」

 おしよせる趙軍を相手に、漢の兵士は死にものぐるいになって戦った。

「退くな! 踏みとどまれ!」


 死地に追い込まれた漢兵たちは数で劣勢であるにも関わらず、意外なことに趙軍の猛攻に持ちこたえようとしている。

「……大軍に細かな作戦などいらぬ。数で圧倒すればよいのだ」

 戦況の膠着状態に苛立った陳余は、ついに砦で待機する兵たちに出陣を命じた。


 この時点で、砦は空になった。


「諸君、もう少しの辛抱だ! 持ちこたえろ! 死ぬな!」

 韓信は自らも剣を振るって、敵を切り倒しながら、味方を鼓舞する。しかし味方の兵の中には猛攻に耐えきれず、川に落ちて溺死する者が続出し始めていた。

「退くなと言っているのに!」

 彼らを助けてやることはできない。韓信としては見捨てることしかできず、ある程度の犠牲が出ることは覚悟の上の作戦だった。


 あらかじめわかっていながらそうした、というのは救われない武将のさがとでもいうしかない。韓信が、自分には愛を口にする資格がないと言ったのは、このような自分の行為の罪深さを自覚しているからだろう。


 そうした苦戦を小一時間も繰り広げたころ、城壁の旗が趙のものから漢のものにさし変わった。

 例の赤い旗である。

 潜伏していた二千の騎兵が空になった砦を占拠したのだった。

 これにより、状勢は逆転した。

「砦が奪われたぞ! あれは漢の旗だ!」

 兵の声に驚愕した陳余は後ろを振り向き、さらに驚愕した。

 ――そんな馬鹿な。そんなはずはない!

 しかし目に見えるのは、砦からこちらに向かって突入してくる漢の騎兵の姿であった。紛れもない現実だった。

 士気を失った趙軍は、総崩れとなった。砦と川からの挟撃にあった趙兵たちは次々に討ち取られていく。

「陳余だ! 誰でもいい、早く陳余を討つのだ!」

 韓信は叫びながら、自分でも陳余を追いかけた。

 陳余は馬を走らせたが、決まった逃げ道があるわけではない。無計画に走り回るしかなかった。

「誰か、わしを守れ! 助けろ!」

 しかし、趙兵たちは自分たちを守ることで精一杯である。ある趙の将軍は逃げ惑う配下の兵を斬り、反撃するよう強要したが、やがて乱戦の中で自分も斬られた。すでに状勢は敵味方入り交じっての狂乱と呼ぶべきものとなっていた。


 そしてその狂乱の中、逃げる陳余の脳天に矢が突き刺さった。

 陳余は落馬し、自らの馬に踏まれて人形のように転がり、落命した。激しい血しぶきが飛び散った瞬間、狂乱の場が静まり返り、兵たちの視線が矢を放った人物に集中した。

「楼煩だ!」

 陳余を射殺したのは、カムジンだった。

「大将の陳余は……討ち取った……殺されたくないやつは……降れ!」

 カムジンのそのひと言で、それまで逃げ回ってばかりいた趙兵たちが馬を降り、地べたにひれ伏し始めた。戦局は終結を迎えたのである。


「……やれやれ、またもカムジンに手柄を与えたことになるな……しかし、まあ……これでよい」

 韓信は周囲の者にそう言って、安堵の溜息を漏らしたという。


 陳余の遺体は、川のほとりに運ばれ、そこで首を切断された。


 五


「趙王をこれへ……」


 捕虜となった趙王の歇は、韓信の前に引き出され、引見を受けた。

「累々と続く趙の王家の血筋を私が絶とうとは、考えていません……。ただ、これからは市井の者として、静かに、大過なく暮らしていただきたい。それがあなたのためであり、我々のためでもあるのです」

 韓信の言葉を受けて、歇は静かに頭を下げながら言った。

「そもそも余をかつぎ上げたのは、陳余と、そこにいる張耳である……。擁立した者に裏切られるとは……実に悲しいことだ。しかし、いま将軍の慈悲により、こうして生かされていることに感謝し、恨みごとは言うまい。……また、将軍に言われるまでもなく、余は静かな生活を望んでいる。張耳よ、余は……余は、王になどなりたくなかったのだ! たまたま王家の血筋に生まれたというだけで運命を翻弄されるのは、もう終わりにしたい。なぜ余をそっとしておかなかったのか!」

 韓信の横にいた張耳はこれを聞き、自分の野心に満ちた人生を恥じ、さめざめと泣き崩れた。

 韓信は、これに深く心を動かされ、

「不肖、張耳に代わって謝罪申し上げます」

 と、歇に向かって深々と頭を下げた。歇にも、張耳にも同情したのである。


 さらに韓信は、井陘の戦いに先立って奇襲を献策した李左車を殺さず、生け捕りにしている。

 韓信は虜囚となった李左車を前にするとその縛めを自ら解き、東を向くように座らせ、自分は西を向いて座った。これは韓信が李左車に師事することを意味する。軍事に対する根本的な考え方が、自分と同じだと考えたのだった。


 こうして捕虜の引見を終えた韓信は、約束どおり、士卒と食事を共にした。

 遅めの朝食の中、兵たちは口々に韓信に質問を投げかけた。

「将軍、このたびの戦術はいったい……私どもはなにがなんだかさっぱりわかりませんでした。いまだにどうして我々が勝利を得たか、よくわかりません。これは、偶然の結果なのでしょうか」

 韓信は、犬肉をほおばりながら、兵たちの質問に答えた。

「そうだな……いや、偶然などではない。まずは、私は君たちに謝らなければならないだろう……。私は君たちをあえて死地に置き、それを利用してこのたびの勝利を得たのだ。結果は私の狙いどおりだった。決して偶然ではない」

 韓信はそう話しながら、口の中の犬肉を吐き出しそうな素振りを見せた。犬の肉の味が嫌いだったわけではない。ただそれを味わうと、かつて犬の屠殺人の股をくぐった屈辱が思い出されるのであった。


 兵士はそんな韓信の気持ちにはお構いなしに質問攻めにする。

「兵法には『山や丘を後方に、水や沼沢を前方に陣せよ』と記されているとうかがっております。しかしこのたび将軍は、これとは真逆に川を後ろにして陣を構えました。将軍の作戦は兵法に基づいたものではない、ということなのでしょうか」

「そういうわけではない。このたびの私の作戦も兵法に基づいたものである。しかし、兵法には抽象的なことしか記されていないため、君たちが気付かないだけなんだ」

「と、いうと?」

「孫子の書には『死地に陥れられて初めて生き、亡地に置かれて初めて存する』とある。これはちょうど君たちのことを示しているのだ。つまり、戦いの中では死にたくないという気持ちの強い者ほど、生き残ることができる。このため私はあえて君たちを死地に置いた。謝らなければならないと言ったのは、このことだ」

「なるほど」

「いっぽう兵書には『兵を死地に置いて奮闘させるためには、川を後ろに陣構えさせよ』などということはいちいち記されていない。兵書にある言葉どおりに戦えば必ず勝つというのであれば、この乱世に敗者は存在しないだろう? 大事なのは兵書から何を読み取るかであり、忠実に兵書にある内容を実行すればそれでいい、というわけではないのだ」

「趙の陳余も一説には兵書に通じていた、ということですが……」

「我々よりも大軍を擁することができたので、それで満足したのだろう。確かに兵法には相手より多くの兵力で戦い、数で劣る時は逃げよ、ということが記されている。陳余はそれを盲信し、陣を敷いた時点で勝ったつもりでいた。生意気な言い方を許してもらえるならば、彼は底の浅い男だ」


 韓信は陳余が嫌いだった。苦難を共にした張耳との過去の交友を忘れ、己の野心のみに基づいて行動した、儒者でありながら義に疎い男。

 それが韓信の陳余に対する評価だった。また、正面から戦えば自尊心は満足させられるが、それで勝ちを得たとしても兵は少なからず損耗し、失わくてもすむ人命を失うことに気付かなかったというのも気に入らない。

 いらいらとしたが、肉を飲み込み、ひとしきり気を落ち着けた韓信はさらに語を継いだ。

「私が、君たちを死地に置いた理由はまだある……。私は、見ての通り若輩者だし、日ごろから君たちを心服させようと努力していたわけではない。よって、私の号令だけでは君たちの本当の力を引き出すのは無理だと思った。このたびの勝利は君たちの生き延びたい、という願いが敵兵にまさった、それがいちばんの要素なのだ。私は、それを少し手助けしただけに過ぎない」

「しかし、兵の力を引き出したのは、他ならぬ将軍の知謀でございます。とても私たちの及ぶところではございません」


 兵たちは揃って韓信を祝福し、あらためて勝利を喜んだ。韓信は、尻が痒くなるような気恥ずかしさを感じたが、喜びを感じずにはいられなかった。

 兵士たちと気持ちを共有することができたことに、初めて感動したのである。


 しかし、やはり自分の決断のせいで命を散らした者がいる、という事実は変わらなかった。それは指揮官として常に背負っていかねばならない、贖うことのできない罪であり、逃れられない責務であった。


 韓信はほんの一瞬でも喜びを感じたことに、恥を感じた。


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