章邯を討て!

 韓信が大将軍に任じられた経緯は、かなり突飛なものであった。それまで目立った功績をあげたことのない人物にそのような責任ある地位が与えられたという事実は、人類の歴史を通じて、あまり例がない。このことを意外に思わない人物がいたとしたら、おそらくそれは推挙した蕭何と、韓信本人だけであっただろう。任命した劉邦でさえも自分の決断に自信が持てなかったに違いない。

 しかし、韓信は与えられた責務を過不足なくこなした。長く頭の中で練り上げた戦術を実行に移した彼は、ついに歴史にその名を刻むこととなる。


 一


「死ぬとは思っていませんでした。どうしてああも簡単に自害することができるのか、不思議でなりません」

 韓信は蕭何に胸の内を明かした。これに対して蕭何は次のように答えた。

「死ななければ、お前に殺されると思ったのだろう。それだけの話だ。……ところで、かの者が刺客であるという確証をお前はどうやって得たのか?」

 韓信は苦笑いして答えた。どこか、自嘲的な笑いである。

「確証という確証は何も……。かの者が范増老人の麾下にいたことは事実です。それにほかの兵たちの中には、かの者がどこの部隊で誰の配下に属すのかを知る者が誰もおりませんでした。怪しいと思ったので、あの場で問いつめればなにか白状する、と思ったのですが……死ぬとは思いませんでした」

「お前の勘が正しかった、ということだろう。素晴らしいことだ」

 蕭何は賞賛したが、韓信は素直に喜べない。

「よしんば、かの者が真の刺客だったとしても、私はあの場で漢に帰順させるつもりでいました。だいたい想像はつくのです。かの者が范増老人に家族を人質に取られて、意に添わぬ命令をされた、ということは……。范増とはそういう人です」


 蕭何は穏やかな笑みを浮かべ、失意の韓信をなだめるように言った。

「それはもう今となっては誰にもわからん。とにかく、見事な働きぶりだった」


 韓信は桟道を焼くことによって、兵の逃亡をとめ、軍糧の流出を阻止し、刺客を始末することによって、離れかけた兵たちの心を繋ぎ止めることに成功した。

 そして、桟道の焼失が将来の戦略的意味を持つのはこれからである。

 ――あるいはこの男なら、やれるのではないか。

 蕭何は韓信を評してそう思い、劉邦に推挙しようと考えた。

 思慮の深さ、味方を欺くかのような突飛な戦略、そして不思議な勘の鋭さ……。どれも素晴らしいものではあったが、能力うんぬんより蕭何は韓信を気に入った、と言ったほうがいい。

 賞賛されるべき功績を上げておきながら、本人は反省ばかりしている。この時代に闊歩する、武勇を鼻にかけてばかりいる豪傑どもに見せてやりたい態度であった。


 そう思った蕭何は漢軍一行が南鄭についに到着したのを機に、劉邦に韓信を推挙した。

 しかし良い結果は出なかった。それは劉邦自身が都落ちに気落ちしていて、新しいことを始める気力がなく、新たな人事を執り行う必要性も感じなかったことによる。

「落ちぶれた軍に、必要なのは安息の地のみよ。わしはこの先巴蜀で寝て暮らすぞ」

 とうそぶいた劉邦は、蕭何が来ても面倒くさがって、ろくに相手もしなかったのである。


 これを知った韓信はひそかに軍を離れた。

 南鄭に至れば東の諸国と往来が可能になることをいいことに、兵の逃亡を抑えるべき自分自身が逃亡したのである。


 二


 軍の首脳部に激震が走った。

 韓信が逃亡したから、ではない。急を告げる使者の口上に、漢王劉邦は卒倒しそうになった。

「蕭何が逃げた、だと!」

 劉邦は深く嘆き悲しんだかと思うと、次の瞬間には怒気を発し、そうかと思えば自嘲的に笑ったりした。事の重大さに、情緒不安定になってしまったのである。

 それを周囲の者がたしなめようとすると、劉邦はその者たちを激しく、口汚く罵る。

「お前らのような役立たずが何人いなくなってもいっこうに構わん。この中に蕭何の替わりになるような奴が居るはずもない。まったく、どいつもこいつも能無しばかりだ……くず共め!」

 ついにはおいおいと泣き出した。

 このようなとき頼りになる張良は間が悪く韓に戻っており、この場には居ない。

 周囲の者はおろおろするばかりで、劉邦を落ち着かせることができず、仕方なく彼らなりの結論を出した。

「どうしようもない……しばらく、放っておけ。それしかなかろう」

 劉邦はひとり残され、しばらく泣いたり、喚いたりしていた。周囲の者はそれを遠巻きに眺め、

 ――いよいよ狂ったのではないか。

 と、人ごとのように思ったのだった。


 しかし、漢軍に差しせまった緊張感は、あまり見られない。劉邦を見る士卒たちの目は、さながら世にも奇妙な珍獣を見るかのようで、その反応を楽しんでいるかのようでもあった。

 本当に心配しているのは劉邦ただひとりで、実は士卒たちは誰も蕭何が本当に逃げ出すなどとは思っていなかったのである。


 翌朝になると、それを象徴するかのように、蕭何は何喰わぬ顔で戻ってきた。

「大王、お顔の色がよくありませぬな。ゆうべはよく眠れましたか?」

 漢王は憔悴しきっていて、それが誰の声か瞬時に判別できなかった。

「あ? いや、あまり眠れんかったわい。……誰だ? 蕭何ではないか! 戻ってきたのか! いや、よく戻った」

 劉邦は蕭何の肩を抱き、喜び叫んだが、そのいっぽう、

「お前、わしを置いて逃げようとしたな! よくもおめおめと戻ってきたものよ。断罪する! 死刑だ!」

 と怒ったりした。

 劉邦の情緒不安定は、蕭何が戻ってきても完全に治ったようではなかった。蕭何はそれを他の士卒のように放っておくわけにもいかず、適当になだめながら真相を語り始めた。

「大王、私は逃げたわけではありません。逃げた者を追った、それだけのことです」


 劉邦は、そうか、と言うと、ようやく気分が落ち着いてきたようであった。

「では、誰を追ったのか?」

「韓信です」


 劉邦はそれを聞き、いよいよ怪しんだ。

「蕭何、お前、わしに嘘をついているな。今まで諸将が何人も逃亡しているのに、お前は追わなかった。それなのに、その韓信とかいう、わしが覚えてもいないような者を追うはずがない。お前はなにかわしに隠し事があって、そんなでたらめを言っておるのだ」


 蕭何は劉邦の態度にあきれた。

 何度か名前を出して推挙しているのに、劉邦は韓信のことを覚えてさえもいない。気力が薄れ、心ここにあらず、ということだったのだろう。それはそれで理解できることではあった。

「大王……。諸将など何人逃亡しても、替わりの者はいくらでも養成することができます。しかし韓信などは……国士無双こくしむそう(天下に二人といない国士)の存在です。替わりはいません。王がこのまま漢中の王たるに留まるのであれば、韓信のごとき士は必要ないでしょう。ですが王が天下を望まれるなら、彼は絶対必要です。韓信という男の必要性は、王が天下を望むか、望まざるか、それにかかっているのです」


 劉邦はまだ迷っていた。ろくに名前も覚えてもいない男に大事を任せてよいものかどうか、日頃無責任に部下に任せきりのこの男でも心配したのである。

「用いれば韓信は留まります。しかし用いなければ、彼はまた逃げ出して、楚や斉のものになってしまうに違いありません。大王には、それでもよろしいか」

 畳み掛けるように言葉を継ぐ蕭何に、ついに劉邦は折れた。

「……お前がそこまで見込んだ人物であれば、お前に免じて韓信を将軍にしてやろう」

 ところが蕭何は首を縦に振らなかった。

「不十分です。それでは韓信は留まりますまい」


 驚いた漢王は、やけくそになって言った。

「では、大将にしよう。大将軍だ!」

 蕭何はこれに満足し、言った。

「結構です」


「そうと決まれば、さっそく任命しよう。韓信をこれに召せ。印綬を用意せよ。それと……」

 漢王は久しぶりに王らしい振る舞いを見せたが、蕭何はこれを遮った。

「大王。それではいけません。大王はもともと傲慢で礼もわきまえませぬ……。私どもにはそれでも構いませんが、韓信は頭の良い男でありますゆえ、自尊心も高いのです。王がそのように子供に物をくれてやるような態度で臨まれるのであれば、韓信は失望してやはり去ってしまいましょう」

「なにを言うか。名より実であろう。儀礼などくそくらえ。どのみち大将を任じることには変わりないのだ」

「さもありましょうが、韓信は野蛮を嫌う傾向があります。どうか文化的に、吉日を選んで王ご自身が斎戒なさって、壇上を設け、礼儀を尽くしたものとしてください。そうした方がのちのち漢軍の評判のためにもよろしいでしょう」

「くだらん……しかし、そういうものか」


 劉邦は蕭何の評の通り、傲慢で礼もわきまえない男であるが、頑固ではない。このときも蕭何の意見をあっさりと受け入れ、斎戒し、充分に儀礼を尽くして任命の日を選んだ。


 やがて南鄭に着いた漢軍の最初の儀礼が、大将の任命式だった。

 諸将はみなそれぞれ自分が任命されるものと期待し、うきうきとした空気が全軍に流れている。

 しかし実際に任命式が執り行われると、拝命したのは韓信という名も知られていない、顎髭もたくわえていないような若者であったので、軍中の誰もが驚愕したのだった。


 三


 漢中に至る桟道は、漢軍によって焼き払われた。

 これにはさまざまな経緯があったが、ふたたび劉邦が東方へ進出する意志のないことを示していることは間違いないと項羽には思われた。劉邦が僻地におとなしくおさまっていれば、何ごとも進めやすい。


 自らの居城と定めた彭城に移った項羽は、邪魔な義帝を体のいい理由をつけて追い出すことに成功した。

「いにしえの帝王は必ず川の上流に居を定めたものである」

 と言い、長沙ちょうさ郡のちん県に義帝を移した。

 長沙郡といえば遥か南の地で、なかでも郴県は南に位置している。おそらくは百越ひゃくえつ(ベトナム系民族)などの南方系民族が雑居していた地域に違いない。当時は蛮族がいるとされる地であった。


 それでも義帝はその命に従い、おとなしく郴県に向かおうとしたが、項羽は安心できず、ひそかに黥布に命じてこれを襲撃させた。

 義帝の一団が揚子江にたどり着いたところで襲撃者たちはこれに追いつき、帝は亡き者にされた。

 これにより帝政は早くも崩れ去り、項羽は名実ともに諸国の第一人者となったのである。


 いっぽう、このときめでたく大将の任を預かった韓信は、ようやく漢王劉邦と直接話す機会を得ている。

 この席で劉邦は、食事をとりながら韓信の話を聞いていたが、気前よく韓信に自分の豪勢な食事を分け与えたという。それは見た目も味も、韓信には初めてのものばかりだった。

 韓信はこのとき、項羽を評して、

「勇者であることには間違いがないが、部下を信用して任せる勇気がありません。あれは言うなれば、匹夫ひっぷの勇です」

 といい、また、

「項王は身内には仁をもって接しますが、功ある者に爵位を与える際には、印綬の角がすり減るほど手の中でもてあそび、躊躇します。他人に権力を与えるのに吝嗇りんしょくで、ああいうのを婦人の仁といいます」

 と切りすてた。

 劉邦はこれにいたく喜んだという。

 低劣な陰口のように聞こえるが、そばで見てきた韓信が得た項羽の印象はそういうものだったのだろう。


「項王は諸侯を王に取り立てましたが、その配置には私情をはさみすぎです。また諸侯の中には、項王が義帝を江南に追放したのを見て、それを形だけ真似しようとする輩も多いようです。燕や趙、斉はいまに大混乱が起きましょう。すべて項王の政策の誤りに拠るものです」

「また、項王は必要以上に都市を破壊しすぎました。項王の通ったあとは、瓦礫の山しか残っていない、というありさまです。諸侯はこれを見て恐れ、ひれ伏すでしょうが、民衆はなつくはずがありません。項王は覇者として名を轟かせていても、実際は人心を失っているのです。したがって、その強さを弱くしてやるのはたやすいことだと私は考えます」

「大王は、項王のやりかたの逆を行えばよいのです。天下の勇士をお使いになり、彼らにお任せになられませ。そうすれば敵対するものは誰であろうと叩き潰せましょう。そして天下の城邑を手柄を立てた者に惜しみなく分け与えられませ。そうすれば誰だって心服いたしましょう」

「大王はすでに秦の苛酷な法を廃止し、三か条の法だけを取り決めになりました。これにより民衆は大王が関中の王になることを欲しております。また諸侯や義帝との約束事から申しましても、大王が関中王になられるはずだったことは、秦の人民もよく存じております。大王は軍をあげるだけでよろしい。さすれば関中の地は、檄文をとばすだけでも平定できましょう」


 関中反転に関して劉邦は檄文をとばすだけ、あとは自分がやる。このあと韓信は計画を劉邦に明かした。


 韓信の計画のあらましを聞き終えた劉邦は、韓信を得ることが遅すぎた、と周囲の者に語ったのであった。

 


 四


 巴蜀の鎮撫を丞相の蕭何にまかせ、劉邦はじめとする漢軍の面々はそろって北進を開始した。

 韓信はこれに合わせて、大々的に桟道の修復を開始した。桟道を直しながら進軍するものと敵に見せかけるためである。


 しかし一方で韓信は別働隊を編成し、ひそかに山脈を大きく迂回する古道を使って関中への進路をとらせた。

 この古道を使えば、行く手を遮る川を船で渡らねばならない。が、部隊が一度に渡りきれるほど船の数はない。必然的に渡河には船の往復を必要とし、気が遠くなるほどの時間がかかった。

 桟道の修復も一朝一夕に完成するものではなく、韓信は兵を督励し、時には自ら作業を手伝いもした。


 どちらも日進月歩的な進行状況ではあったが、悲観すべきものではなかった。明確な目的意識を持ち、韓信の表情から鬱屈した悩める若者の陰が取り除かれていったのは、このころからである。


 時間がかかることはかねてから覚悟していたことなので、どうということはない。古道を行く別働隊の進軍速度に合わせて、桟道の修復もせいぜい時間をかけて行えばよいのだ。

 関中の敵が桟道の完成に合わせて迎撃態勢を整える間に、予想しない方角から降って湧いたように別働隊が関中に流れ込む、それが理想である。そのために少数の先遣隊を古道から送り、関中の内応者を募らせたのは、韓信の芸の細かさであった。


 内応者を募ることはそう難しいことではなかった。章邯を始めとする関中の王たちは民衆の支持を失っており、声をかければ民衆はおろか兵卒でも漢軍に味方をした。たとえ迷う者がいたとしても、多少褒美を上乗せすれば意を決しない者はなかったのである。


 かくして韓信は作戦に自信を持ち、みせかけの桟道の修復作業にも力が入る、という具合であった。しかし、それを見た士卒の中には、風格が足りないと感じた者も多い。身分の高い者が卑しき作業に努力することを、素直に受け入れないのであった。この者たちは、韓信の若さに不安を持ち、頼りなさを感じているからそういう受け止め方をしたのである。


「将軍は努力家であられますな。しかし、ここで体力を使い果たすと、関中に入ってからがきつくなりますぞ」

 と、声をかけてきた者がいる。

 老人であった。

 こけた頬、白髪まじりの長い顎髭、しみの多い肌……韓信にはそれが栽荘先生の晩年の姿のように見えた。

「先生!……いや、人違いであろう。老人、名はなんと言いますか」


 その老人は優雅な微笑を作り、緩やかな所作で受け答えをした。

「わしの名は、酈食其れきいきという。おもに使者の役目を仰せつかって、この軍にいさせてもらっている。……ところで先生とは誰のことじゃ?」


 韓信にはどうにも説明できない。

「いえ、昔お世話になった先生にあなたがとてもよく似ていたものですから……」

「ほう、なるほど。ところで、わしも先生じゃ。人はわしのことを酈生れきせいと呼ぶ。なぜわしが先生と呼ばれるかというと、いつも身なりに気をつけているからだ。そこから生まれる気品のおかげで、みながわしを敬うのだ」


 なんという自信過剰な老いぼれであろう、と韓信は思わないではなかったが、この時代、老人にたてつくことは「孝」の概念上、許されない。さらに、注意してみれば、その老人はしみだらけの顔に似合わず、不思議と調和された気品が確かにあった。


 これを受けて韓信は、この老人は儒者であるに違いない、と結論づけた。

「先生は、孔子の徒であられますか」

「いかにも。わしは儒者である。儒者は日ごろ冠の位置まで注意深く直し、礼のない言動を嫌う。わしはこの軍を通じて孔子の教えを天下に広めるのが最終目標よ」


 儒家がどういうものか、韓信は詳しく知っていたわけではない。しかし、この時代の通念として、儒家というものは王者に仕えるための礼儀作法を教える学問だということだけは知っていた。王者は彼らに行儀よくかしずかれることにより、より王者としての風格を増す。人によってはおべっか使いの学問だと批判する者もあった。


「わが漢王は、あまり礼儀作法に通じたお方ではありませんね。儒者嫌いだという話も聞いたことがあります」

 酈生は、劉邦の話を陰ですることがいかにも楽しそうに笑った。

「それよ。わしが初めて漢王に相見えたときは、王は両足をたらいにつけ、小娘に足を洗わせておった。失礼千万な話じゃ。また、いろいろな噂もそれ以前に聞いておった。漢王は儒者を見ると、その冠をむしり取って、その中に小便をする、などと……。しかし、漢王はそれ以上のことはせぬ。ひところは儒者であること自体が罪とされる時代があった。将軍の若さでは知らないかもしれんが……穴に埋められないだけましと思うしかない。それに、漢王は儒者であろうとなかろうと、聞くべき意見は分け隔てなく聞いてくださる。やはり、他の者よりまし、と思うべきだろう」

 酈生は平気で劉邦の陰口を叩き、批評までしてのけた。漢軍の自由な気風がそうさせたのか、単に酈生が変わり者だったのかは韓信にはよくわからない。

 おそらくその両方だろうと、彼は思うことにした。

「先生には関中入りしたのち、民衆に漢に味方するよう説いて回っていただきます。よろしいか」

 酈生はやはり優雅に笑って答えた。

「それは構わん。それはそうと、将軍たる者、土木作業などに根詰めて従事するものではない。懸命なのはわかるが、やりすぎると士卒たちに軽んじられるもとになるからのう。もし将軍が望めば、みんなの前でわしが将軍にかしずいてみせるぞ。そうすればみなの将軍を見る目が変わってくるだろうて」

「いえ……それはご免こうむります。想像するだけで尻が痒くなってきそうだ」

 これを聞いて酈生は高笑いし、去っていった。高らかに笑っても下品な印象を残さないのは、高名な儒者のなせる業だろうか。


 五


 桟道の修復の完成が間近に迫り、いよいよ迎撃態勢をとった章邯は関中の南側に兵を集結させつつあった。

 しかしこのときすでに内応者によって手引きされた別働隊が、なんと関中台地の最西端、陳倉ちんそうの城門を破り、なだれ込んだのである。


 意図していない方角からの攻撃に、意表をつかれた章邯はまったく対抗できなかった。


 そしてここに至り、桟道の修復が完了し、南側からも漢軍が突入を開始した。

「よし……。上出来だ」

 別働隊の侵入とほぼときを同じくして桟道の修復を終える、という時間的な機微は韓信がいちばん神経を尖らせた部分であり、これを確認した瞬間、韓信は作戦の成功を確信した。

 あとは流れに乗るように敵を攻めるだけである。挟み撃ちにした章邯の軍を破るのに、細かな作戦はいらない。大軍の利を生かして敵を殲滅するだけであった。


 韓信はさんざんに章邯の軍を撃ち破り、咸陽の北、好畤こうじの地までこれを追い込んだ。ここで章邯は陣形を組み直して対抗しようとしたが、さらに韓信に破れ、廃丘はいきゅうに逃れた。

 廃丘から咸陽は目と鼻の先の距離である。そこで漢軍は先に咸陽を制圧し落城させると、廃丘を包囲しつつ、東方へ兵を分けて進出し、司馬欣、董翳を攻め、この二人を関外へ追い出した。


 ここまでやれば、実質的に関中は漢によって平定されたといっていいだろう。章邯は廃丘で小規模な抵抗を続けているといっても、それを援護する勢力もなく、いずれ滅びるのを待つばかりである。


 章邯が絶命したのは翌年の紀元前二〇五年の五月であるが、このときに韓信が手を下したわけではない。それでも事実上章邯を滅ぼしたのは韓信であることには変わりがなく、当時の人たちもそのように評価した。


 紀元前二〇六年の七月、自分がなした戦功の巨大さに呆然とする韓信であったが、漢王劉邦はこれにおおいに喜び、夏の暑気に汗ばんだ韓信の額を、自らの手持ちの布で拭いてやったという。

 

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